「今日も暑いですねえ」
タクシーの運転手がミラー越しに俺に声を掛ける。
ありきたりなその話題にさして興味はないので、目線は合わせず、「そうですね」とだけ返す。
季節は7月、夏真っ盛り。世間では大人も子供も長いサマーバケーションを横臥している。
ふと窓の外を見ると、これから遊びに出掛けるのだろう、楽しそうな笑顔を浮かべた少年たちが歩道を走っている。
「こんな欝陶しい季節、何が楽しいんだろうな」
声には出さず呟く。そう、俺は夏が嫌いなのだ。もっと正確に言うと、この夏休みの時期が嫌いなのだ。
この時期どこへ行っても街は人で溢れかえり、渋滞した道路からはクラクションが喧しく鳴り響く。
自分で言うのも何だが、元来大人しい性格の俺にはこの騒がしさはどうしても好きになれないのだ。
そんな事を考えているうちに、車は目的地に到着した。
「お客さん、着きましたよ。空港です」
「どうも」
乗車代を支払い、車を後にする。
「うわ、こりゃまたすごいな」
予想はしていた事だが、旅行者の多いこの時期だけに空港は息が詰まるくらいに人が多く、俺の顔は引きつりそうになる。
「本当に、目眩がしそうだな・・」
溜め息をつきながら、俺はロビーへと向かう。
喧騒が苦手、人が多い場所にいるだけで気が滅入る。
こんな俺が何故こんな所にいるのか不思議に思うかもしれないが、答えは至って簡単。仕事だ。
俺の名前は米田幸太(よねだ こうた)、フリーの通訳だ。
今日も欧州に旅行に行くという女性に雇われて、旅行先での通訳、ガイド、世話係を務めることになっている。
「女性と二人旅?」なんて羨ましがる人もいるだろうが、とんでもない。出来る事なら替わって欲しいくらいだ。
何故って?・・まあ、そのうち分かるさ。
「おいおい、一体いつになったら来るんだよ。もう約束の時間とっくに過ぎてるぞ・・」
ロビーの椅子に腰をかけた俺は、苛々しながら時計と周囲を交互に見渡す。
「まさか、何かトラブルでもあったのか?・・・取り敢えず一度連絡してみた方が良さそうだな」
と、電話を手にしたちょうどその時
「あら、ごめんなさい。ちょっと遅れちゃいました?」
突然背後から鼻にかかったような、気取った感じの声が聞こえてきた。
振り向いてみると、そこには大きなスーツケースを手にした一人の少女が、あたかも何事もなかったかのような涼しい顔で立っていた。
「お嬢さん、一体どうしたんですか?何かトラブルでも?」
「何もないわよ。ただ、持っていくお洋服を選んでいたら時間が掛かっちゃっただけ」
さらりと言ってのける彼女を見て、俺は唖然とした
「そんな・・、何かあったのかと思って心配したんですよ。それに飛行機の時間だってあるんだから困りますよ」
「だからごめんなさいって言ってるでしょ?しつこい男は嫌われるわよ。あ、あとお嬢さんって呼ぶのもやめて頂戴」
おいおい、ジャイ○ンじゃないんだから・・、無茶苦茶言わないでくれよ。
溜め息で息が詰まりそうな俺を尻目に、彼女は「何か文句でも?」とでもいうようにすました顔をしている。
この強烈な我が儘お嬢さまが、俺の今回の依頼者である、藤堂楓(とうどう かえで)だ。
想像するに難くないだろうが、とんでもない金持ちの家のお嬢さんだ。
数週間前、知り合いの仲介で依頼が入り、「大学が夏休みに入るからヨーロッパに旅行に行きたいの」と言ってきた。
なにしろ報酬がかなりの額だったので、何も考えずに二つ返事で引き受けてしまったが・・。
全く、これから一週間もこの我が儘娘のお守りをしなきゃならないと思うと胃が痛いよ・・。
「ほら、時間がないんでしょ?早く行きましょう」
本当に、胃が痛い・・・
ぼーっと、窓の外を眺める。
高度を上昇させながら飛ぶ飛行機はちょうど今雲の中にいるらしく、外は少し薄暗いような、何とも言い難い色をしている。
「お嬢さん、酔ったりしてませんか?」
隣に座るお嬢さんに声を掛ける。
ちなみに俺が窓側、お嬢さんが通路側の席だ。
「お嬢さんって呼ばないでって言わなかったかしら?私にはちゃんと楓っていう名前があるの」
機内にあった雑誌を読みながら、俺の方など見向きもせずに言い放つ。
そんなこと言ったって仕方ねえだろ、本当に大富豪のお嬢さまなんだから。
そう反論したかったが、まあ一々やり合っても仕方ないのでここは素直に謝る。
「・・すいません。それで、気分はどうですか、楓さん。酔ったりしてませんか?」
「平気よ、飛行機なんて慣れてるもの」
なんて可愛いげのない言い方だろう。
だがまあ、そうだよな。金持ちなら海外旅行くらい慣れてるか。
暫くして、楓さんが読んでいた雑誌をパタンと閉じて、そっと席を立った。
「ずっと座ってるのも疲れちゃうし、ちょっと御手洗いに行ってきますわ」
そう言って、楓さんは席を離れトイレに行ってしまった。
歩いていく楓さんの背中を見ながら、俺は小さく呟いた。
「はぁ・・。黙ってりゃあ可愛いいのに、勿体ないなあ」
そう、確かに楓さんは見た目には凄くかわいい。
金持ちらしく品のある整った顔立ちで、おまけに色も白い。
赤みがかった長い髪の毛は小柄な彼女の腰の辺りまで届き、なんとも言えない清楚な雰囲気を漂わせている。
はっきり言って、外見だけならかなり俺の好みのタイプだ。
旅行の打ち合わせで初めて彼女に会った時など、その可愛いさに驚いて一瞬声を失ってしまった程だ。
「・・でもまあ、中身があれじゃな」
ははっ、と苦笑いする。
と、そこへ・・・。
「中身がなあに?一体何の話?」
トイレに行ったはずの楓さんが訝しげな顔で横に立っている。
「え、あれ!?か、楓さんトイレに行ったはずじゃ・・?」
「行ってきたけど、誰かが入ってたからすぐに戻ってきたのよ。それより、何の話?何を慌ててるの?」
楓さんが席に戻りながら俺に尋ねる。
し、しまった、何とかごまかさないと・・。
「いやあの・・、そ、そう、さっきの機内食」
「機内食?」
「そう、見た目は美味しそうだったけど、中身はそうでもなかったなって」
「そうかしら?意外と美味しかったと思うけど」
「そ、そうですか?じゃあ俺の味覚がおかしいのかな、ハハハ・・」
無理やり笑ってやり過ごす。
「機内食なんかがそんなに気になるの?米田さんって変な人ね」
楓さんは不思議そうな顔をしていたが、何とかごまかせたみたいだ。
するとそこへ良いタイミングで機内アナウンスが入る。
「ご搭乗の皆様、本日は本機をご利用下さり真に有難うございます。これより本機はフランス○○空港へ着陸体制に入ります。
着陸の際多少揺れることがありますが、安全に影響はございませんのでご安心下さい。
それでは、シートベルトを装着してお待ち下さい。本日は本機をご利用下さり、真に有難うございました」
アナウンスを聞いて窓の外を見る。
どうやら気がつかないうちに随分高度は下がっていたようだ。
「楓さん。もうすぐ着きますよ、フランス」
「言われなくたって分かってるわ」
無愛想に答える楓さんだが、旅の始まりを迎えその顔はどこか嬉しそうに見える。
「あ、ほら窓の外見てください。もう街が見えてきましたよ」
上空から見るパリの街並みはとても綺麗で、俺もどこかテンションが高くなる。
「あら、本当ね」
楓さんも窓の方に身を寄せてきた。
「空からみるパリって、何だかとても綺麗ね・・」
そう呟く彼女の横顔を見て、俺は少し驚いた。
それは彼女にもこんな情緒的な面があったのかという驚きなのか、それとも多分に初めて見る彼女の笑顔が予想以上に綺麗で見とれてしまっていたのか。
どちらかよく分からない。
いや、もしかするとその両方かもしれない。
とにかく、俺は一瞬声を失ってしまった。
「・・なに見てるのよ?」
俺がずっと驚いた様子で見ていたので、楓さんが尋ねてきた。
「いえ、俺も同じ事考えてたから・・」
俺がそう言うと楓さんはその色白の頬を少し赤らめ、俺から顔をそらした。
「な、なに言ってるの!変な事言わないで頂戴!」
そう言うと楓さんはぷいっとそっぽを向いてしまった。
その様子に俺はまた少し驚いてしまった。
そう、お嬢さまは意外なほどにウブなようだ。