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                  〜   5   〜 
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「話はかなり前に遡ります。 
 わたくしは『あちらの世界』で小さなピューマになっていた、とお話しましたね?」 
 ……少し手洗いに席を立った後教室に戻ってくると、 
 飲み物を入れ直してくれていた。 
「ですが、実際は少し違っていました。わたくしはフユキをその目で見ることができましたが、 
 同時にその小さなピューマも例外ではありませんでした」 
 今度はあまり甘くない、透き通った黄土色のお茶のようだ。 
 深みを増すにつれて濃くなるそれは、とても綺麗だった。 
 
「……どういうこと?」 
 ──ありがとう、朱奈── これまた程よく冷えた石英製だという細長いグラスを受け取る。 
「あのフユキの家には、まずフユキ。そして小さなピューマ。 
 そしてピューマの頭の上に乗るような視点で、わたくしの意識がありました」 
 ──あ、それは軽く振りながら飲んでください──朱奈も同じお茶を手にしている。 
 
「ん? 確か……水溜りに映った顔を見て初めてピューマだと気付いた、と言っていたはず……?」 
 すでに黒板とチョークは部屋の隅に片付けられていて、 
 身振り手振りを交えて説明していく。 
「それは……おそらく上を向いて走っていたのと、朦朧とした意識のせいかと」 
「うんうん。ならば、そのピューマは」 
「分かりませんでした。内密におばばにも聞いてみたのですが、はっきりとは」 
 そのおばばなる人物が誰なのか分からないが、 
 年の功を実によく表現している長老級、というところだろう。 
「む……」 
 グラスのお茶は軽く振っただけで、立体的な竜巻のように細かい茶葉を巻き上がらせた。 
 思わず目を見張る。 
 ──こんなところで『異世界』なんだと再確認、だな……。 
 
「しかし不思議なことに、小さなピューマはわたくしの思った通りに動いてくれました」 
 朱奈は両手でふわりとグラスを押え、細長い瞳はわずかに伏せ気味。 
「さらにフユキの落ち着いた声も、匂いも、大きな手の感触も、……頬の味も、 
 わたくしには感じ取ることができました」 
 もう先程の危うげな険はとれ、おしとやかな雰囲気が戻ってきている。 
 嬉しかった。 
 
「となると、視点を共有していないだけで、朱奈と小さなピューマは完全に同化していた、と?」 
「……それもまた違います、フユキ。 
 基本的にあのピューマにも、自分の考えというものがあった気がします。 
 ただ、わたくしが何かをしたいと考えるとその通りに動いてくれたのです」 
 
「どうも、要領を得ないね……。降参だ。朱奈の意見を教えてくれ」 
 
 
「はい、フユキ。思うにわたくしは、 
 ──『現在進行形で進む物語』の『書き手であり読み手』に選ばれたのだと思います」 
 
 
「『物語』の『書き手であり読み手』?」 
 繰り返したその言葉は、初めて聞く言葉だった。 
「飛躍しすぎて申し訳ないのですが、ひとまずそのことを頭の片隅にでも残しておいてください」 
「了解」 
 結論だけを先行させて説明を後付ける……長くなりそうな、予感がした。 
 
 
 
「体調が完全に回復した後だと思います。暑さが過ぎ、やや涼しくなりだした頃、 
 小さなピューマは、どこかにふいっといなくなることが多くなりませんでしたか?」 
「ああ、そうだな。まあ、夕方から夜中にかけて戻ってきていたから、 
 特には気にしなかったんだけど……」 
 元から首輪などつけるつもりなどなかったし、 
 あんなドがつくほどの田舎で、文句をつける人間などいなかったからだ。 
 俺と朱奈はそれこそ友人のように気兼ねなく、それが心地よかった。 
 
「………その頃、実は、わたくしは目覚めていたのです」 
「ん?」 
「その、『こちらの世界』のわたくしが、です」 
「えっ!? ちょっと待った! 朱奈は『あちら』と『こちら』を行き来できるのか?」 
 もう絶対に戻れないと聞いていたわけで、俺はうろたえてしまう。 
 朱奈の右手がたおやかに制し、 
「お待ちを、フユキ。『こちらの世界』のわたくしは、 
 高熱で倒れてからおよそ三ヶ月の間、目覚めることなく眠りこけていたそうです」 
「………」 
 ──三ヶ月。 
 朱奈が倒れたという日と、俺たちがめぐり合った日が同じ時間の流れならば、 
 ちょうど、朱奈がいなくなり始める頃だ。 
 
 ふと、朱奈が口を押えて笑いをこらえていた。 
「ふふふ……今でもあの、目が覚めた時を思い出すとおかしくて、おかしくて…… 
 すいません、フユキ」 
「……それは、なぁ」 
 愛想笑い風の苦笑いが浮かぶ。 
 多分、悲壮な心持で枕元に集まっていた親しい人たちに、 
 ……さらに騒ぎを大きくさせるようなことしたんだろうなあ、と。 
「んっ、んんっ……ごほん! 話を元に戻しますね。 
 そしてオセロットの医師たちにしつこいくらいに診察された後、ふらふらになりながら 
 自室で眠りへとつきました」 
 
「するとどうでしょう。眠りに落ちた瞬間、わたくしはつい先程までいた『あちらの世界』 
 ──小さなピューマの頭上、にいたのです」 
「……」 
 すぐには反応することはできなかったが、 
「……幽体離脱?」 
 似たようなことを思い出した。 
「言葉はどうあれ、フユキの言いたいことは伝わってきます。ほぼそれで正解であるかと」 
 朱奈はいつの間にか瞳にはっきりとした鳶色の光を宿し、力強く頷き返す。 
「ただ一つ、決定的に違うのは──」 
「──『夢の世界』が『あちらの世界』と繋がってしまったこと、か」 
 朱奈の言葉を受け、後を継いだ。 
 
 通常、幽体離脱時に見る物理的な世界は、現実と異なるとされている。 
 ある人が言うには──窓という窓が鉄格子のようになっている、とか。 
 またある人が言うには──扉をくぐったのに、元の部屋に戻っている、とか。 
 
 ……見ると、朱奈が目をいっぱいに丸くして驚いていた。 
「フユキが一人で納得してしまいました……」 
「いいじゃないか、優秀な生徒だろう?」 
 ふざけて、得意げに自分の頭を指で叩く。 
「先生の先取りするような生徒がいましたら、 
 ……授業参観など恐ろしくてできたものではありません!」 
 あ、少し鼻の横がひくついて──イヤな思い出でもあったんだろうか、授業参観。 
 
 
 
「……それ以降、異世界を肉体を伴わない夢を通して生活するようになりました」 
 そして朱奈の言うには、俺の言った幽体離脱を『浮幽』と呼んでいるようだ。 
「そうしてしばらく経ってから、気付いたのです。 
 わたくしのいない間この小さなピューマは、フユキの前から姿をくらましていたこと」 
 思い返し、……そして、いなくなる瞬間は一度も見ていないことに、今さらながら気付いた。 
 
「これが何を意味しているのでしょうか」 
 
「……朱奈がいない状態での、俺と小さなピューマの接触が好ましくない可能性。 
 それとも……朱奈がいない状態では、小さなピューマは存在できない可能性」 
 他にもいくつか下らない考えがあるにはあるが、妥当そうな可能性だけを選んだ。 
 幸い彼女の意に沿えたようで、一度だけ、しかし満足そうに頷かれる。 
「はい、フユキ。わたくしも同じようなことを考えていました。 
 そして、わたくしという存在が一つの『割符』なのだと、思い始めたのです」 
 一語だけ強調するように、そう言った。 
「割符……」 
 木片・竹片・紙片などに文字を記し、証印を押した後で二つに割ったもの。 
 当事者双方が一片ずつ持ち、合わせて後日の証拠としたことで知られる。 
「割符の片方を朱奈が持っているのならば、 
 もう片方の割符は小さなピューマが持っていることになる」 
「はい、その通りです」 
 
「わたくしたち片方では、あちらの世界でピューマとして存在できません。 
 お互いに持った『割符』が符号し」 
 ──二つの別々の欠片が一つになり──完成された絵柄は、朱色の、小さなピューマ── 
「……『完全な証拠』となることで、ピューマが実体化するわけか!」 
 声が自然と大きく出た。 
「フユキが興奮しています……」 
 グラスをくるくると揺らせながら呟く。 
 ……いや、そう観察されると恥ずかしいが。 
「ああ、子供の頃夢見た──いや、今でもかなりしがみついているが、 
 ファンタジーがたった今、現実で俺の前で起きているんだ……」 
 それでも、興奮のまま勢い込む。 
 空想、幻想、夢想、そして、それから── 
 
「『ふぁんたじー』……ですか」 
「朱奈も似たような思いをしたことがあると思う。 
 幼い頃なりたかったもの、行ってみたかったところ、あったらいいなと思っていたこと」 
 成長した今ではあり得ないとわかっているのに、本気で一片の曇りもなく夢見ていた。 
 朱奈も「なるほど」と考える素振りを見せる。 
「……わたくしもそういったものがありました。小さな頃、ご本を読んでもらったのです」 
 うんうん、と相槌を打つ。 
 その様は幸せそうに、なつかしそうに。 
「ピューマ、ジャガー、オセロットのある三人組は、普段はただの女子高生。 
 ところが世界征服を狙う魔王の手先が町を襲うと聞くや否や、 
 正義の味方【ナタルルゥ】に変身して、その手先をやっつけるお話でした」 
「『御徴』【サナンパ】が表れる頃まで、わたくしは信じていたのです。 
 きっと女子高生になったら、わたくしも【ナタルルゥ】に変身できるのだと……」 
「…………くっ」 
 話の途中からにやにやするのを必死で我慢していたが、ついに、耐えられなかった。 
「あぁっ! 笑うとは何事です、フユキ! 
 わたくしは正直なところを話しただけです!」 
 髪とは違う色で顔を真っ赤にして、床をばしばし叩いている。 
「いや、朱奈もかわいいところがあるなぁ、と思ったんだよ」 
 悪いとは思う、しかし、小さかった彼女を想像するだけで微笑ましくて……。 
「なっ、なっ、何を、そんなっ! 
 ふ、フユキこそ、どうなのです!? フユキも話すべきです!」 
「いや、俺は大したことないよ。……お母さんと一緒にいたいなぁ、と思っていたぐらいだ」 
 散々どもった末の朱奈に、正直に答えてあげた。 
 
 
 朱奈は近くにあったネコっぽいぬいぐるみを引っ掴むと、 
「まあ! フユキはすごい甘えん坊さんですね! 小さなフユキが目に浮かぶようです」 
「ああ、フユキ。お母さんが恋しいですか?  
 そんなに目を涙で腫らして、なんてかわいらしいのでしょう」 
「そんなに寂しいのならば、このわたくしが代わりにお母さんになってあげましょう」 
 機関銃のようにしゃべりまくり、 
 そのぬいぐるみを抱きしめて、話し掛けては「いい子いい子」している。 
 朱奈、暴走。 
 ……台詞から察するに、そのぬいぐるみは……幼いころの俺。 
 見立てられたぬいぐるみを撫でくり回されて……。 
「朱奈サン、ヤメテクダサイ、ハズカシスギマス」 
 背中の方がむずむず、懇願した。 
 するとぴたっとその動きを止め、 
「……ほうら、フユキだって恥ずかしい。フユキは少し反省するといいです」 
 こちらを一度だけちらと盗み見たきり、元のぬいぐるみに視線を戻す。 
 そうした後も、ぬいぐるみをいじりながら、 
 小声でごにょごにょ呟いているが、内容までは聞えてこない。 
「……ハイ、ゴメンナサイ」 
 とりあえず頭を下げておくことにした。 
 
 
 
 ひとしきり憤慨すると、機嫌が直ったらしい。 
 俺に思い出して欲しいと前置きしてから、話が続けられる。 
「……フユキは、『あちらの世界』でわたくしをお風呂に入れることができましたか?」 
 その突飛な質問に驚く。 
「……いや、一回もできなかったな。 
 たまに手があいたとき、気晴らしもかねてきれいにしてやろうと思ったんだが」 
 近寄ろうとした瞬間にものすごい速さで逃げられた。 
「そして風呂のことをすっかり忘れた頃に、また戻って来ていた。 
 ── まるで俺の考えていることが筒抜けなように、な」 
 
 そこで朱奈は耳をぴくっと反らせ、 
「それです、フユキ。わたくしはフユキがお風呂のことを考えていると、分かっていたのです」 
 冗談半分で言ったはずなのに肯定されてしまい、不審に思う。 
「……それは穏やかじゃないな。 
 俺の思考が朱奈に漏れていたとしたら、正直気持ちのいいものじゃない」 
 しかし、 
「わたくしも、仮に自分の考えが他人に通じていたらと考えるとぞっとしません。 
 ── ですが、そうではないのです」 
 そうではないらしい。 
「……と、いうと?」 
 
 例えばですね、と。 
 朱奈が再び手を伸ばして絵本のようなものを持ってくる。 
「フユキは本を読んでいるとき、その先の展開に不安を覚えたことがありませんか? 
 ……わたくしはあります」 
「もちろん」 
 それが本の、物語の醍醐味だろう。 
「ですが、わたくしはどうも堪え性がないようでして、 
 ある線を越えた不安に対して、『本を先読み』してしまうのです……」 
 そう言うとページの束をたわませ、指をすべらせながらパラパラとめくる。 
「……俺も、したことがないでもない」 
 少しだけ先を読んで、『ああ、大丈夫だった』『ああ、やっぱり駄目だった』 
 そうして少しだけ心の平衡を取り戻してから、もう一度元の場所から読んだ。 
 それは自分の手元に『本』という情報の集合体があり、 
 その情報に関して好き勝手できるからこそ、可能なことだ。 
 
「……それと同じようなことを『あちらの世界』で感じました」 
「フユキのそれとない様子から──何かを『感じて』──『先読み』をしてしまい、 
 フユキがわたくしをお風呂にいれようとしていることを、知ったというわけです」 
 すかさず、口を挟んだ。 
「朱奈、それは予知ではないのか?」 
「いいえ、フユキ。予知者は未来を予知できても、それは自身で完璧に制御できませんし、 
 その未来の出来事を実行する者ではないはずです」 
「ああ……言われてみれば」 
 予知者は動と静でいえば静の印象が強いかもしれない。 
 予知を授けられた冒険者、のような実行者が物語には不可欠だ。 
 ……それに。予知者が日常生活レベルの予知をふんだんに行使してるとは、思い難い。 
「言い方をそれに倣えば、『予知者にして実行者』という言い方もできるでしょう。 
 ……しかし、わたくしは少し毛色が違いました」 
 
 手元の本をもう一度開き、俺の手前にぱさっと置いた。 
「心象風景として閃くように『読みかけの本』の像が、頭の中に唐突に現れるのです。 
 そしてまっさらの白紙の『頁』に、これから起こる出来事を記した文字が、 
 じわじわと滲んでくるのが感じ取れました」 
「……」 
「さらに、そうした『先読み』ができるだけでなく『書き直す』ことも……。 
 完全に文字が浮かび上がるまでは修正可能でした」 
「……つまり」 
 俺は一度深呼吸し、彼女の言うところを整えた。 
「『俺は、朱奈を、彼女の嫌いな風呂に入れた』という文章を先読みした朱奈は」 
「『俺は、朱奈を、彼女の嫌いな風呂に入れる事ができなかった』という文章に書き直した……」 
 
 どうだとばかりに顔を向けると、あまりいい顔をしていない。 
「はい、フユキ。ですが、その言い方はちょっと……」 
「ん? だってお風呂に入りたくなかったんだろう?」 
「そんな……わたくしが不潔を好むような言い方はどうかと言っているのです、フユキ」 
 きっと角度を増した柳眉に、俺はしでかしたことを悟った。 
「姿形が人間ではないにせよ、心は人間のままなのです。女性と男性とが沐浴をすることの意味、 
 『あちら』と『こちら』でもそう違わないと、わたくしは知っています!」 
 朱奈の頬が染まっていた。 
 俺もまた朱奈からはそう見えているだろう。 
「ぐぁ、ごめん……朱奈。いや、その、あれだ…… 
 ついさっきまで俺の中で朱奈は小さなピューマであって ──すまない、俺が悪かった」 
 ひどく優しそうな視線にとらわれて、言葉を飲み込む。 
 そんな顔をされたにも関わらず言い訳してしまったら、自分が底辺まで情けなくなりそうだった。 
「──フユキが……この姿では今日初めて会ったばかりだというのに、 
 今までどおりに接して、お話してくれるのは大変嬉しいのです」 
 しかし、と。 
「こちらの姿が本当の……シュナ、なのですから、ぜひ、そのように扱ってくださいまし」 
「……最大限、努力する、朱奈」 
 はい、フユキ。口の中で転がすように小さくつぶやいた。 
 
「しかしそれが本当なら、大変な役を引き受けたことにならないか? 
 『あちらの世界』を自分の好きにできる権利を──」 
 なんとなく間がもたなくて、ふと思いついたことを洩らしてみる。 
「いいえ、フユキ。わたくしは言いました、『書き直す』と。 
 新規に文章を書くことはできませんでした」 
 要するに、俺の疑問は無用な心配だった。 
 
「そして、意思を持った主人公はわたくしと、小さなピューマと、フユキ、のみ。 
 その三人に関することしか、その『物語』には書いてありませんでした」 
「もちろんですが、実現不可能な『書き直し』も無効でした。 
 わたくしはもとの『人間』の姿をとることはできませんでしたし、 
 特に、動物的なピューマを逸脱した知性を示すことは、禁忌のようでした」 
 そうして一連の説明は休止とばかりに、既に温くなっているであろうお茶を飲み、 
 ほうっと丸く息を吐く。 
「……最初は驚きの中に、少しだけの楽しさがありましたが、 
 次第に自分が大それたことをしているように感じ始め、恐ろしくなったのです」 
「……幾度となく先読みは行われましたが、書き直しは最低限しかしていない…… 
 わたくしはそう自信を持って言うことができます」 
 何にせよ、力を自覚しながらその影響を憂いて制御する。 
 簡単なようで難しいと、俺は思う。 
「例えば、お風呂に入らないようにする、とかな」 
 笑いながら茶化す。 
 朱奈の目が「めっ」と言うように光るが、口元は穏やかに、曲線を描いていた。 
 
 
 
「そんな、一日の四分の一をフユキと過ごす毎日でしたが、 
 ──神の怒りのような、あの恐ろしいまでに大きな衝撃がやってきました」 
「うん……すごい地震だった……」 
 また小さくぶるりと体が震え、胸がむかついてくる。 
 そんな俺を見て朱奈が腰を浮かせるが、手で制する。 
 知らないところであのすうっとした飲み物が効いているのか、ずいぶんと楽だ。 
「あの時もまた、数枚めくった先の『頁』に書いてある内容を見ることができました。 
 しかし、異常な雰囲気のみを読み取りながら、 
 一体何が起きているのかまでは分からなかったのです」 
「朱奈はこう……立ちあがって警戒しているようだったが……」 
 おかげで一瞬ではあったが心構えができた。 
「……これはわたくしの不明と言うほかありません。『地震』という単語を…… 
 忘れていたのです、はい。【キンサンティンスーユ】ではそのような災害が非常に稀なもので」 
 日本人なら理解しがたいかもしれないが、一度海外で生活すると分かってもらえるかと思う。 
 医者にかかり、『gastroptosis』と診断されても、 
 どこにも『stomack』が使われてないその病気を『胃下垂』だと理解するのは難しい。 
 
「とりあえず!……です」 
 ごほんと一つ咳払い。 
「わたくしは、次々に滲み、浮かびつつある文字を読み取りながら、 
 ただ、もどかしい無力感とともに唸り続けることしかできませんでした」 
「もし、それがどんなに危険な災害の兆候なのか分かっていましたら、 
 フユキの首をくわえてでも外に連れ出したことでしょう……」 
 淡々とした口調だが、それが逆に彼女の悔しさを表しているようだった。 
 
「──ですが、すべては手遅れ……。 
 わたくしは庭へと投げ出され、フユキとは分厚い壁で隔てられてしまいました」 
 大揺れの最中で見た光景は気のせいではなかった。 
「そしてその瞬間、わたくしは先読んだのです。 
  ── 煙に包まれたフユキが息絶えてしまう ── と……」 
「!?」 
 ……朱奈の持つ『物語』上では……自分が死ぬ予定だった、と? 
「まだ浮かび上がってくる文字は完全ではなく、まだ書き直せる、とすぐ分かりました……」 
 ……では、朱奈は俺の運命を変えた? 
「──しかし、わたくしは焦りました」 
 声に熱がこもってくる。 
 俺もその核心間際に迫る勢いを感じ、深く息を吸い込んだ。 
「『書き直す』内容は限定されていて、建物の中にいるフユキを助け出すことは、 
 不可能そうだということもまた、分かっていたからです……分かってしまったのです」 
「しかし、俺はこうして息をしている。動く死体などではない」 
 心臓に手を当ててみても、その鼓動ははっきりと感じられる。 
 今まで散々飲み食いしておいて怪しむことはないだろうが…… 
 それでも「死んでいたかもしれない」と言われて、何も感じないほど俺は幸せにはできていない。 
 
「はい、フユキ。あなたは間違いなく生きています」 
 何度も、確かめました、と。どこかはにかむように言われる。 
「それからのわたくしは、半狂乱に叫びながら扉に何度も、何度も体を叩き付けたのです。 
 ──その玄関の扉を開けて、フユキが食事を持ってくるのを知っていましたから。 
 フユキに出口はここだと、伝えるくらいしか思いつきませんでした」 
(いや……その声のおかげで、俺はあの時手放していた意識を取り戻せた) 
 そう思うが、口には出さない。 
 朱奈の雰囲気が、俺にそうさせていた。 
 
「そうして打ち所が悪かったのか、少し飛んだ意識の端には、 
 わたくしに見せつけるように、刻一刻とその濃さを増しつつある『文章』。 
 その『文章』のせいだと言わんばかりに、躍起になって書き込みました。 
 ── フユキは助かる、 
 ── フユキは生きる、と…………無駄でした。 
 そうこうしているうちに『煙にまかれる』まで文字化が完了し、 
 もう本当に駄目だと、そう思いました。 
 しかし、そこでわたくしは天啓を得たかのように気付いたのです。 
 登場人物の一人が舞台から去るのならば、 
 『わたくし』と『小さなピューマ』はどうなるのでしょう、と……。 
 わたくしは、とうもろこしの髭にもすがる勢いで、またさらに『頁』をめくりました。 
 そして……ありました、わたくしたちの記述が……。 
 
 ── シュナと小さなピューマは朱色の光となり、『門』を開いて元の世界へと帰った ── 
 
 喜びのあまり、わたくしは卒倒しそうになりました。 
 これでフユキは助かる、と。 
 
 ── 朱色の光となり、 
   『光』となることが前提ならば、フユキの場所まで一瞬で辿り着けます。 
   扉も、煙も、遮るものなどどこにもありません。 
 
 ── 『門』を開いて元の世界へと帰った 
   『こちらの世界』に帰る『門』が開くのならば、 
   フユキの足元に開いて、取り巻く煙から引き離してしまえばいいのです。  
 
 わたくしは今度こそ思う存分書き込みました。 
 そして元の、フユキが息絶えてしまう描写へと戻ると、 
 その『文章』も様変わりしていたのです。 
 
 ── 煙にまかれる…が、不思議な朱色の光に導かれ『門』をくぐり抜けた ── 」 
 
 
 
「………」 
「………」 
 お互いの持つ空気は違えど、二人とも言葉もない。 
「とても信じられませんか?」 
 ぽつりと、静寂を破る。 
「……しかし、俺はこうして息をしている」 
 分かりきったことを再び返すだけの余裕しかなかった。 
「それがなによりの証拠……ですね」 
 心臓が大きく跳ね過ぎて、落ち着かない。 
 それでもどうにか静まってきて、 
「朱奈、その……『物語』は一体……?」 
「……分かりません。ただ……『小さなピューマ』と一体化して光になったとき、 
 とても、とても安らかな気分になりました」 
 俺も白い霧の中での感覚を思い出す。 
「そして一体化が解けるような感触、薄れていく意識の中、 
 ── ああ、こちらの世界のわたくしが目覚めるのだと思いました。 
 あの『物語』を『小さなピューマ』がくわえて去って行ったのを微かに覚えています」 
 
「…………」 
「…………」 
 再びこの部屋を静寂が包む。 
 いや、鋭いであろう朱奈の耳ならば、いまだ弾む心臓の鼓動を聞き届けていたかもしれない。 
 しかしそれでも、かまわない。 
 今はただ、朱奈と俺の身に起きたというその感動に、心を素直に浸しておきたかった。 
 
「これで理解しましたでしょう?フユキ……」 
 そんなだから気づかなかった。 
「フユキを、『こちら』へ落とした犯人はこのわたくしなのです……」 
 朱奈がどんな思いを抱えてこの話をしたのか。 
 自分を犯人と言い、罪を犯したと告解するように吐き出した彼女を、俺はすっかり忘れていたのだ。 
「本当に、本当に、申し訳ありません」 
 そう言って床に手をつけ、頭を下げる。 
 表情は影になってまったく窺い知れない、しかし、そんなもの──。 
 その耳と尻尾で彼女は訴えてる。 
 朱奈自身にその気などなくても、俺には苦しむ、朱奈が見える。 
 
 弾かれたように立ち上がり、駆け寄ろうとして──思い直し、朱奈の前に穏やかに座り込んだ。 
 ぴくりとその肩を動かす両手をそっとつかみ、 
 怖がらせないようにゆっくりと、上体を引き起こす。 
 
 案の定、口元は一文字に引き結ばれ、何かを、たくさんの何かをきっと我慢している。 
 
「……っ!!」 
 柄じゃないとは、自分でも思う。 
 でも、それでも、朱奈の頭と獣の耳をぽんぽんと撫でてしまうことが、 
 その時の俺には一番自然なことのように感じた。 
「ぅ…ぅ…」 
 今の人間の姿を見てくださいと言った。 
 最大限努力するとは答えたが、今すぐにはできそうにもない。 
 だから、そんな子供か動物にするように頭に手をやってしまって、 
 普通の朱奈ならきっといい思いはしないだろう。 
「…っ……ぅ…つっ…ぅぅ!」 
 しかし、いいのだ、と。こういう時は、自分が子供であるかのように、 
 傍目には無様に、洗い出すように涙を流すことが大切だったりすると。 
 
「……辛かったっ…ですっ!……うぁ、あぁぁぁっ!」 
 
 俺の胸にすがるように上体を預け、 
 朱奈は昂ぶった感情を波打つように、次々とあふれさせた。 
 そうして、しゃくりあげながら吐き出す、 
「─────なのに! ──────から!」 
 言葉は不明瞭で意味をなしていない。 
 しかし、それは。 
 ── 『落ちたヒト』がどんな扱いを受けるか分かっていたはず、なのに。 
 ── 自分には、人間の運命を捻じ曲げる権利なんて無いはず、なのに。 
 ── フユキにはフユキの人生があったはず、なのに。 
「うん……そうか、そうだな……」 
 
 あるいは、それは。 
 ── フユキに死んで欲しくなかった、から。 
 ── まだ助けられたお礼を言っていない、から。恩を返していない、から。 
 ── 自分の、完全なわがまま、だから。 
「うん、うん……」 
 俺なんかの命を救うために、こんなにも自分を痛めつけた。 
 一緒にその苦しみを背負わせて欲しいなんて、おこがましいことを言うつもりはないが、 
「がんばったな………そして、ありがとう………朱奈」 
 労苦と感謝の意を伝えるくらい、いいと思うのだ。 
 
 まあ、さらに泣かせてしまうことに、なってしまったのだが。 
 

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