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 キンサンティンスーユの夜はしばしば、ちろちろと燃える炎に例えられる。 
 底知れぬ闇の中に、淡い赤橙色が透けて見えるためだ。 
 かと言ってその色は騒がしくなく、月や星の輝き・漆黒の闇に続く第三の色として、 
 神秘的な宙を控えめに彩る。 
 そんな晴れ渡った夜空を地上から彩るのは、群がる蛍。 
 その僅かに、ほんの僅かに黄緑色な輝きは、この地ではどこにでもある夜間蛍光灯の光だ。 
 蛍光灯は整えられた道路の脇に並び、巡回員や近所の住民によって毎晩設置される。 
 
 キンサンティンスーユの国はしばしば、張り巡らされた蜘蛛の網に例えられる。 
 国の隅々まで綺麗に均された道路が伸びているためだ。 
 かと言って【カパクニャ】と呼ばれるその道は人工物めいてはなく、 
 生い茂る木々の間を縫い、自然と調和した獣道のような様を呈している。 
 それは毎朝、エルクェ・ワシに向って疾走する子供たちを見守り、 
 それは毎昼、連絡役の飛脚【チャスキ】が飛び跳ねる度に土煙を舞い上げ、 
 それは毎夕、仕事帰りの大人たちの足裏を柔らかく癒す。 
 
 主要幹線道路は三本。 
 国土中央、皇館があるワタナ島からそれぞれのスーユに向けて一直線に伸びる。 
 ピュームスーユへは、冬至の日没方向。 
 ジャグゥスーユへは、夏至の日没方向。 
 オセロトゥスーユへは、春分秋分の日出方向。 
 
 そして、今。 
 その【カパック・ライミ】──冬至を表す──線上に、 
 蛍光に照らされた、一つになった二人の影が見える。 
 正確に言えば二人と一匹の影なのだが。 
 一匹の移動用リャマに乗る、朱奈と芙雪の二人の影だ。 
 
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「朱奈、本当に大丈夫なんだよな?」 
 揺れるリャマの背の居心地はあまり良くない。 
「ですから──」 
 朱奈は手綱を握ったまま、目は向けずに顔だけを左に向ける。 
 おかげで聞き逃すことはない。 
「──皇館お伺いの書簡は既に、フユキが寝ている間に送ってしまいました。 
 それにわたくしが陛下の娘なのは間違いありません。心配する事など無いと思いますが?」 
「それは、そうかもしれないが…っと」 
 ややバランスを崩した。 
 慌てて、それでも恐る恐る、朱奈の腰を掴みなおした。 
 手のひらを伝うのは女の子特有の、柔らかいのにぐにっと押し返してくる弾力。 
 
 
 
 エルクェ・ワシのあの教室から、ここはさほど離れてはいない。 
 ……永遠に流れ続ける涙などあるわけもなく、 
 そして取り留めの無い会話をしているうちに彼女は言ったのだった。 
「もうそろそろ時間ですね。準備することにしましょう」 
 何を、と問う隙も無いうちに、 
「フユキも」 
 そんな気配はしていなかったから、もちろん驚いた。 
 そして行き先を聞いて二回、驚いた。皇后が住まう館だ、と。 
 
 どうやらこのキンサンティンスーユで暮らすこと、朱奈の召使となること、 
 の二つを承認してもらうためのようだ。 
 かなり外は暗くなってはいたが、政務上この時間が最適であるらしい。 
 
 服も合わせてこちら風に着替えた。 
 ややごわついていながら、通気性の良い服だ。 
 【アワスカ】と言う男物の服らしい。 
 肩がむき出しの上衣は胸の前で合わせられ、下衣は変わったところもなく踝まで伸びる。 
 「こんなに軽い服で、大丈夫なのか」 
 と聞くと、 
 「落ちたばかりのヒトに誰も礼儀を期待しません」 
 とのこと。そういうことらしい。 
 
 朱奈の纏った物もまた変化した。 
 上衣も下衣もそれぞれ、腰と足首まですらっと流されているのは変わりないが、 
 【リヒリャ】という肩掛けがずいぶんと変わっていた。 
 楕円形の布の真ん中を、頭がくぐるだけくり抜いた形をしていて、それに首を通す。 
 初めて会った時には、肩だけを隠すくらい短かったのに、 
 すぐ前でリャマをカツカツと進ませている今では、手首のやや上まで伸びるリヒリャをしている。 
 「てるてる坊主に足が生えている」ような格好といえば想像しやすいだろうか。 
 しかし、その肩掛けは色も造りも非常に意を凝らしたもので、しゃらしゃらと音を立てる。 
 それが何を意味するか、俺にもそれなりには理解できた。 
 これから向う所と、その住まう者とを思えば。 
 
 
 
 
 
「……綺麗な夜だ」 
 余計な反応は朱奈を困らせるだけだろうし、そのまま気をそらすように呟いた。 
「黒かった夜空は赤っぽい、月は二つある……」 
「向って右の月は月夜神ママ・キヤ。左の月は雨の神ショロトルがおわすと言われています」 
「神話?」 
 ピンときた。 
「はい、フユキ。 
 ──お二方はともに夜の世界を築かれましたが、とある件から愛し合うようになりました。 
 しかし、太陽神ウィラコチャはそんなお二方を許されませんでした。 
 ショロトルは太陽の光を浴びることのできない呪いをかけられ、 
 月の裏側に住まざるを得なくなったのです。 
 そしてママ・キヤも常にウィラコチャから監視され、お二方は離れ離れ」 
「へえ。月の表と裏、か」 
 近くて、遠い、矛盾な距離。 
「──そんなお二方を救ったのがショロトルの双子の兄、雷の神マチャクアイでした。 
 雲を操り、雷を打ち鳴らし、太陽から二つの月を隠したのです。 
 ようやく月の表に出られたショロトルは、マチャクアイに感謝の涙を流しつつ、 
 ママ・キヤと逢瀬を達せられたという、お話」 
「すごく……いいね。幻想的、と言ったら通じるかな」 
 道のりは朱奈に任せて双月を見上げた。 
 (『こちら』番の織姫と彦星か……必要な天候が逆だけど……) 
 夜の大気を吸い込む。 
「はい、フユキ。このお話はエルクェ・ワシでも年少組での教材でもあるのです。 
 幼い子供用に内容は整えてありますが」 
「いいな、何だか。あの教室が子供たちでいっぱいになっているところが見てみたくなってきた。 
 朱奈の受け持ちは年少さん?」 
「いえ、年中組を30人くらい、サナンパが出るにはまだ早い時期の子供たちですね」 
 ──『御徴』。 
 前にも聞いたことのある気がしたが、聞きなれない言葉だ。 
 朱奈もその気配を敏感に感じ取ったのだろう。補足するように続けた。 
「分かりやすく言うと、サナンパは大人への転機、というところかと」 
 と、いうと。 
「変声期、みたいなもの?」 
「ん……。それよりも前ですね。十歳くらい……あ、フユキとは年の数え方が違いますから 
 当てになりませんね……」 
「あ、あ、いいよ、朱奈。またあとでゆっくり教えてくれると嬉しいかな」 
「……はい、フユキ」 
 
 
 
 ふと、街灯の淡い光をリヒリャの飾りが反射して、俺の目を掠めた。 
 毛糸の手編み物が雑に見えるほど、細かい繊維を緻密に編みこんであり、 
 手間と暇、そしておそらく財もかかった──高貴な礼装。 
「しかし」 
 再び朱奈に声をかける。 
 彼女にあまり気を使わせたくはない。 
 きっと黙っていると「退屈ですか?」とか聞いてくるタイプの人間だ、朱奈は。 
「お姫様が保母さんなんて……今考えると意外だな。 
 ヒトの世界のお姫様は、下々の生活とはかけ離れた印象があるから……ね」 
 昔話でいえば、乙姫様は竜宮城で暮らす大勢の魚たちを使役していたし、 
 現在日本でさえ、独特の雰囲気をもった皇室特集番組を時々放映していたりする。 
 ……「深窓の君」が一番強い印象かな。 
「そうなのですか。 
 こちらでは……わたくしが言うのもなんですが、 
 高貴な人間にはそれだけ重い義務があるのです。皇族が保母を担うのもそうです」 
「保母さんが重い義務だって? 
 あ、別に朱奈の仕事を……軽んじるわけではないけど」 
 言い訳した俺に、 
 朱奈は分かっていますというように頤を短く往復させた。 
「キンサンティンスーユだけだそうです、こういったことをするのは。 
 ……ふふっ。目的は随分打算的ですよ。民からの忠誠心を効率よく獲得するためなのです」 
「えっ……あー……」 
 朱奈の言ったことを脳内で反芻する。 
 打算的。民からの忠誠心。そこから連想されるのは── 
「なんとなく、分かるような」 
 (『人気取り』ってところか……) 
 多少あざとく感じられるが、決して悪いことをしていない。 
 むしろ国民に安らぎを与え、生活保護の一種を提供しているのは素晴らしい、と思う。 
 治安が安定している証拠だ。 
 いや、君主を仰ぐ形態を考慮すれば、信じられないほど優れている。 
「まだ働き手として未熟な子を預かってもらうというのは、 
 親御さんにとって大変助かるのだそうです。……そして子供の幼い記憶には」 
 前で穏やかに微笑んだ、気配。 
「当時は素直に分からなくとも、 
 皇族と一緒に遊んだという意識を植え付けてしまうのですね」 
 (……そういえば幼稚園の後藤先生は優しくて大好きだったなぁ、いまだにすごい覚えてる) 
 高貴な人間を身近に感じることは、愛着と忠誠心を同時に喚起させる。 
 恐怖、もしくは畏怖による支配は、どこにもない。 
「将来、その保母のうちの一人が皇后に即位しても民は不安を覚えることがありません。 
 どの集落にもその皇后を知る民が一人はいるはずですからね」 
 ……その皇后の教え子たちは先を争って皇后を誉めそやすだろう。 
 間接的に自分も「偉い」と錯覚してしまう。 
 そんな、どこの人間だろうと変わらないことのない、心理だ。 
 ここが、異世界だろうと── 
 
 
 
「朱奈は、皇后になれそうなのか?」 
 なんとなしに聞いて、 
「…………さあ、どうでしょう。わたくしが決めることではありませんから」 
 すぐに後悔した。 
「本音を言ってしまうと、誰かほかの方にお任せしたいのですけれど」 
「すまない。立ち入りすぎたことを」 
 小学生が「サッカー選手になる!」と言うのとは、まったくもって違う。 
 それこそ異世界の住人が、朱奈の経験してきた色々な事を量れるわけがない。 
 量ろうとする事自体がエゴだ。 
 声を落として、悔いた。 
「いいえ、フユキ。これはわたくし自身の我侭でもありますから」 
 とん、と背中を預けられた。 
 そのまま朱奈は手綱を弛めて、上を向くように視線を合わせた。 
「ここだけの話、わたくしがこう思っていることは 
 キンサンティンスーユ広しと言えども、フユキだけですよ?」 
 小粒な白い歯を見せて、にひっと相好を崩した。 
 (ああ、気を使わせてる……) 
 まったくもって俺は、至らない。朱奈がそう望むなら、 
「……口の堅さには自信があるつもりだ。それに──」 
 俺も合わせて唇の端を吊り上げて、 
「──人間には向き不向きがあるしな」 
 分かったような口を、さも小事であるかのようにきいた。 
「そうです、フユキ。良いことを言いました」 
 重くなりかけた雰囲気が、軽くなる。 
 瞬いて二人の視線を解くと、再び手綱をとって前を向いた。 
「わたくしにも人並み程度には憧れなり、慎みなり持ち合わせていたいのですっ!」 
「おぉっ」 
 手綱をぶんぶんと振り回して、リャマも驚いている。 
 朱奈にも溜め込んだ何かがあるらしいと思いつつ、ある事に感付いた。 
「朱奈。朱奈の言うことが本当なら……もしかしたら皇后陛下というのは…… 
 憧れとか慎みとは無縁な存在になるが」 
 指摘すると急に、 
 華奢な肩と朱色の尻尾を可哀想なくらいびくっとさせた。 
「ぁ、あ、わわ。べ、別に母上をそう見ているという訳では…… 
 義務でいらっしゃるのですからそこに趣味がいくらか混じっていても、ですね!」 
「俺はまた、ヘンな事を聞いたようで」 
 慌てに慌てて、きょろきょろと耳を動かす朱奈。 
 なんだか気の毒になってしまう。 
 そして、彼女を落ち着けようと、その耳の裏を自然と掻こうとしている自分の指に気付いた。 
 そんな己に苦笑しつつ、再三朱奈の腰に手を戻した。 
「これ以上、俺に弱みを握らせないでくれ。面白すぎるからな」 
 茶化すように、ところどころ喉の奥で笑いながら呟いた。 
 この調子では、『落ちて』一日とたたないヒトに、 
 異世界の王の恥部があますことなく伝わってしまいそうだ。 
 俺としても謁見の時に思い出し笑いは、したくはない。 
「むうう……フユキは意地が悪いです」 
「それは、光栄の至り」 
「わたくしは、フユキが陰険であることを非難しているのですよ!?」 
「ふっ……典雅な冗談というのは、語彙の深さと、見識の広さと、天性の閃きから生まれるんだ。 
 一朝一夕にはできないすごいことだぞ?」 
「口が減りませんね。フユキ、聞かなかったフリというのも大事だと思います」 
「くくっ、あははっ」 
「ふふ……人の顔を見て笑うとは何事ですか、フユキ」 
「朱奈こそ」 
 
 
 
 
 
 やがて俺たちはある角を折れ曲がった。 
 さほど遠くないところ、さらに明るい灯火が光る建造物が見える。 
 大きな門のような造りの傍らには、二人の人間が長い棒のような物を携えていた。 
 
 そして── 
 さらに近づくにつれて、こちらに来てから何度目か分からない驚きに襲われた。 
「朱奈。あの人たち、顔がヘンだ」 
 面と向って言ったら確実に怒らせてしまうだろう。 
 それでも目は釘付けで、そう口に出さずにはいられなかった。 
 
「あ……失礼しました、フユキ。今さらで申し訳ありません。 
 男性はほぼ全て、その身体の一部を神々のそれと同じくしているのです」 
 (ど、動物が立って……歩いてる……!) 
 最初に思ったのがそれだった。 
 その顔はヒトのそれとはまるで違い、以前穴の開くほど調べたピューマの顔だったからだ。 
 さらに、小麦色の短い体毛で全身が覆われている。 
 以前『あちら』で見た豹頭王のイラストを彷彿とさせる、鋭い目元が光っていた。 
 体全体はしなやかな長身で、俺よりも高い。 
 ある種のスポーツ選手のように太腿が異常に発達していた。 
「彼らは一応軍人さんですが、何も取って食べてしまうことはありませんので。 
 どうか普通にしていてください、フユキ」 
 身体の所々を焦茶色に包んでいるのは、簡素な皮鎧。 
 手に持つ棒だと思ったのは、物々しくぎらっと光る槍だった。 
 
「──夜分お疲れ様です。わたくしはサヤ・ピスカ・ピュマーラ。 
 お伺いの件は伝わっていますでしょうか?」 
 門番のうちの一人が近づいてきた。 
「はっ。滞りなく」 
 槍の石突を地につけ、兵士が直立不動になる。 
「では、リャマをお預けしても?」 
「承知いたしました」 
 朱奈が先にリャマを降りる。 
 彼に手綱を渡し、俺も手を貸してもらってしっかりとした地面に降り立った。 
「……それが『ヒト』ですか」 
 門番の彼が俺を見つめている。 
 こうして面と向かうと思ったよりも表情豊かなのが分かる。 
 眼が大きく開いていて、さしずめ感心しているような顔だ。 
「ええ。それではその子の世話を宜しくお願いします。 
 櫛かけは七番を。硬い毛で梳いてあげればずっと大人しくしていますから」 
 朱奈が間に割り込み、何事か言う。 
 門番も悟ったものがあるのか、 
「は。そのように」 
 一礼して手綱を引いて行く。 
「行きます、フユキ」 
 ちらりと俺を見上げ、朱奈が先行した。 
 
 
 
 後をついて門に向けて進む。 
 そして眼に入るのはもう一人の、半人半獣の門番。 
 軽く足を組み、槍を抱えるようにしながら扉に寄りかかっていた。 
 同じく皮でできた兜をかぶっているので、顔は窺い知れない。 
「ご苦労様です。サヤ・ピスカ・ピュマーラです。お通しくださいませ」 
 朱奈が穏やかに告げた。 
 その声に、男が面頬を開いて顔を上げる。 
「よう。姫様」 
 途端に朱奈の両耳が毛もろとも逆立つ。尻尾もぴんと一本の棒のように伸ばされた。 
 後ろから見てもはっきりと強張るのが分かった。 
「あなたは……」 
「悪ぃが、通すわけにはいかねぇな」 
 粗野な口調は、彼のこと何一つ知らないというのに不快感を抱かせた。 
「……」 
「んな怖ぇ顔しても無駄だ。その怒り顔がまたソソルしよ、へへっ」 
 並んだ牙をむき出しにする。笑ったようだった。 
「わたくしは陛下に御用があるのです」 
 朱奈は声、態度ともに冷淡そのものだ。 
「ああ、知ってる」 
「そのような無礼が陛下に──」 
「──いくらか時間にゃ早ぇじゃねぇか。ちぃとばかり話でもしようぜ」 
 体をわずかに動かして足を組み替え、 
「ィ・アクリャ」 
 そう、朱奈を呼んだ。 
 
「あなたにっ……アクリャなどと呼ばれる筋合いはありません」 
 冷たい口調には変わりはないが、微かに早口になった。 
「姫様が自分のことをアクリャだってわかってくれるだけで、オレは幸せだぜぇ」 
 顔に張り付いているのはヒトの俺にも分かる下卑たにやけ笑い。 
「身勝手な物言いは愉快さとはかけ離れていますよ」 
「あ?もっとカワイイ名の方が良かったか? 待ってろ、今考えるから」 
「あなたからサヤ・ピスカ・ピュマーラ以外の名で呼ばれるのが我慢できないと、 
 申し上げているのです!」 
 ついに朱奈が声を荒げた。尻尾は蛇のように硬さを保ちながらくねっている。 
 
 男は大きく目を見開き、大げさなまでの溜息を吐き出した。 
「ちっ。わーかってるって。でもさ、オレも我慢できないわけよ」 
「……」 
「オレみたいなシタッパ衛士にすら、任務関係なしに伝わってくるくらい知れ渡ってるぜ」 
 とん、と。男は反動を利用して、預けた背中を引いた。 
「あの眠り姫が、どでかい落し物を拾ったってなぁ!」 
 これまで俺というヒトを歯牙にもかけなかった男が、そこで初めて俺に目を向ける。 
 それもとことん凶悪な空気を持って。 
「気にかけてた女が横からかっ攫われるほどムカツクことはねぇ…… 
 獲物を攫ったのがコンドルならまだしも、よりによって人間以下のヒトだ」 
 ふわっと槍を持つ手を離すと、朱奈の方に倒した。 
 そして、二人がそれに気を取られた一瞬のうちに── 
 
「──キサマのことだっ!!」 
「ぐっ!」 
 黄色い突風。 
 痛みに気づいた時には、爪のついた手で無防備な首をがりっと掴まれていた。 
「やめなさい、シキァフ!」 
 視界いっぱいに広がった半獣人の向こう、朱奈の悲鳴が大気を裂く。 
 すると男は喉首を捕らえたまま左に回転しながら叫ぶ。 
「オレのが早ぇっ!」 
 シキァフと呼ばれた男の顔が朱奈のいるはずの方向に向いた。 
 さらに首を締め上げる力に対抗できず、男の横顔を見ることしかできない。 
「それ以上怪しい動きすんなら、憐れなヒトがさらに落ちるぜ」 
「気でも触れましたか、兵士シキァフ」 
「まだ陛下の承認を得たわけじゃねぇんだ。『物』を壊したとしてもそれ程の罪じゃねぇな」 
「そのような理屈が──」 
「──るせぇっ! オレはコイツに用がある。姫様は大人しくしてなっ!」 
 さらに喉へと力が加えられ、どんどん後ろへ下がらされる。 
 ついには背中へどんっと何かがあたり、俺たちの歩みが止まった。 
 
 
 
 気管を軽く締められて満足に息ができない。 
 喉全体が鋭い痛みを持ち、無事かどうかなんて考えたくも無い。 
 男は興奮のまま、はぁはぁと息を荒げ、しきりに唾を飲み込んでいる。 
 眼光は飢えた肉食獣そのものの凶悪な光を宿していて、心臓が不思議なほど、冷たい。 
「何とか言ったらどうだ、奴隷。いや、卑しい性奴隷サンよ」 
 その単語の響きはいつか朱奈から聞いた。 
 そして、一連の話の流れを思い出す。 
「なんだ、と」 
 聞き過ごせなくて、辛うじて搾り出す。 
「いくらか殺気こめてるはずだが、よくしゃべれたもんだ、性奴隷。誉めてやるよ」 
「かのじょは、そんなことさ、せない」 
 すると男は軽く驚いたようで、ついで大声で笑い出す。 
「はははっ!こいつぁ傑作だ。キサマただの性奴隷じゃねぇな──ヘボ鈍感性奴隷だ」 
 しかし依然として男の力は緩まない。 
 さらに押し付けられた。背後の壁は何かの樹木のようだ。 
「くぅっ……」 
「姫様の匂い嗅いでも何も感じないのか? 
 全身から挿れて欲しいってー匂いがぷんぷんしてるだろうがよぉ。 
 へへっ……皇族ったって何も変わらねぇ。ヒトと見りゃそーゆーことさせる気満々だ」 
 その薄笑いに怒りがこみ上げる。 
「かのじょ、を、侮辱するなっ!」 
「……」 
 気づけば男の手を離そうと掴みかかっていた。 
「ほう。ヒトとは言えそんな目もできるのか、勉強になるが……ちっと生意気だな」 
「ぐっ!」 
 胃のあたりに、衝撃。 
 そして顎の骨を取っ手のように引っ掛けられ、体が持ち上げられた。 
「オレはあんまり頭よかねぇが、一つキサマに教えてやれることがある。 
 ──なんでヒトが性奴隷なのかって話だ」 
「人間とヒトとがヤっても絶対ガキができねぇんだと。しかも身体は癖になるほどイイって話だ。 
 ガキの心配がいらねぇ……生でハメ放題なんてうますぎる話だろ? な? 
 だぁからさ、キサマは淫乱なお姫様とヤれちゃうわけ……っ理不尽だ──」 
 男の上半身がぶくりと膨れ上がって、 
「──ろっ!?」 
 さっきの痛みなんて、子供だましだ。 
「ぅぐぁっ!」 
 意志とは関係なしに、どうにもならない助けを求めて舌先が飛び出す。 
「オレの悔しさ、分かってくれるだろ……性奴隷ぇっ!」 
「っは……」 
 殴られるごとに、胃液の水位が上がって行く。 
 
 
 
 その時、 
「皆さん、早く! 早く来てください!」 
 どこか遠くから朱奈の声が聞こえてくる。 
 彼女の姿はすぐそこにあるというのに。 
 男は器用にも歯軋りと同時に舌を打った。 
「《虚像》の奇跡か。ナメた真似を。……お迎えが来ちったな、性奴隷」 
 男が止める間もなく朱奈に向けて無造作に槍を投げつけると、 
 その貫いた軌跡から歪み始め、間もなく彼女の姿はろうそくの炎が揺らぐようにしてかき消えた。 
 
 開いた視野に飛び込んで来たのは、 
 同じように皮鎧を身に着けた、疾走してくる半獣の男たち。 
 そして、その集団を率いているのは、 
 こちらを──シキァフと呼ばれた男を──にらみつける朱奈だ。 
 
「残念だ。もっと分かり合えると思ったのによ」 
 男は観念したのか、襟元を支える力が離れた。 
 体にはまるで力が入らず、そのまま背後の木に背中を預けてずるずると座り込む。 
「これから外出るときは気ぃつけな。 
 また今度キサマの顔見たらウレシクテぶん殴りそうだ」 
「……」 
 牙を大げさにむき出して見下ろされている。 
 男に逃げる気はまったくないようだ。 
 俺も何か言い返したかったが、精一杯の虚勢。 
 優勢になった途端調子づくような真似はしたくなかった。 
 
 無言の睨み合いはそう長くは続かなかった。 
 いくつかの怒号は半獣の兵士に姿を変え、男を拘束したのだ。 
 彼は抵抗らしい抵抗も見せず、おとなしくどつかれていたが、 
「あー、うっせえ!」 
「自分で歩くから引っ張んなよ、カスがっ!」 
 口だけは傲慢で、最後まで騒がしい男だった。 
 
 
 
 そして嵐が去ると、閊えが外れたように体全体が重く感じられた。 
 思い返して実感する。 
 暴力というより狂気に近い力にあてられた、と。 
「フユキ、怪我は」 
 近くで誰かの声がする──が、 
 頭の中はぼんやりと霞がかかり、ただ聞かれた内容だけが理解できた。 
 俺はがくりとうなだれるように頷き、ずくずくと痛む胃のあたりを自然と手でかばった。 
「ああ、フユキ。本当にどうして謝ったらいいか……少し、失礼します」 
 視界にすらりとした手が現れる。 
 あてがった俺の右手を外し、アワスカと呼ばれた上衣をまくった。 
 ついで指が別の生き物のように這い寄り、ぬるいような体温がやんわりと痛む場所に感じられた。 
 
 
 
 その瞬間。 
  
  ── いや、卑しい性奴隷か ── 
  ── 挿れて欲しいってー匂いがぷんぷんしてるだろうが ── 
 
 腹の底から頭の天辺へ、悪寒のように走り抜けた。 
 
「やめろっ!」 
 
 大声で叫んだ。 
 しかし、それは錯覚。 
 実際は口がそのように動いただけだった。 
 一方、右手の方は錯覚を起こすことなく跳ね上がって、その手を振り払っていた。 
 
 俺を突き動かしたもとが何かは分からない。 
 しかし、それが好意であったとしても、暖かくて心地よいものだったとしても。 
 逆に何故だか今は触れられたくはない。 
 「 」を感じるようなそれに触られたら俺は── 
 
 
 
「そんなに、痛みますか?」 
 その声は俺を正気に引き込んだ。 
 目の前には、驚いて切れ長の目をしばたかせている朱奈。 
 
 噴き上がった感情は、逆に普段の知性を取り戻させてくれた。 
 あわあわと、叩いてしまった彼女の手を取った。 
「ご、ごめん、朱奈。なんだか訳わからなくて、ぼやーっとしてて……」 
 すぐに自分がしたことを思い出して謝る。 
「あ、ボケてたって朱奈に手を上げるなんて、最低だ、俺」 
 そしてもう一度、「ごめん」が口をついた。 
 先ほどの不快な気持ちはまたなんとなく胸の奥にあったが、焦りながらも取り繕った。 
 それが朱奈に対する不快さではないと、分かって欲しかったからだ。 
「急いたわたくしも、悪かったのです。 
 助けを呼ぶためとは言え、一時フユキを置き去りにしたのですから……。 
 罪悪感、とでもいうか、その」 
 朱奈は頭の上に突き出した耳を伏せ気味に、こちらを伺うように謝った。 
「ん。心配いらないよ。ありがとう、朱奈」 
 朱奈は一番いい方法を考えて、実行に移したに違いない。 
 少しためらったが、頭をぽんと撫でて感謝の意をあらわした。 
「これでも腹筋は鍛えてるんだ」 
 いや、拳がめり込むくらい痛かったけどね。 
 ……強がったってイイじゃない。 
「一寸見た程度ではそれほど大事にはいたらなそうですが、 
 度を過ぎておかしいようでしたら言って下さい、絶対に」 
「了解」 
 背後の硬い樹に手をかけて立ち上がる。 
 そうそう。 
 俺たちはこうやってお互いを思いやれる。それでいいはずだ。 
 手のひらについた細かい樹皮をぱらぱらと落としながら、そう、俺は思い込んだ。 
 
「フユキ。彼は、ですね」 
 あのシキァフと呼ばれた男のことだ。 
「……あまり良い関係ではない、みたいだね」 
「申し訳ありません」 
「……どう見ても朱奈が謝ることじゃない」 
「彼は」 
「言わなくてもいいよ」 
 自分でもびっくりするぐらい優しい声が出た。 
「俺は朱奈を信じてるし、アイツの言ったこと、信じられるものか」 
「フユキ。何を言われたので──」 
 
「姫様!!」 
 
 それほど遠くない場所から衛兵が躍り出た。 
「大変申し訳ありませんでした」 
 これまでの兵士とは格の違う鎧を着込んでいる。 
 おそらくこの男は、責任のある立場なのだろう。 
 膝をついて朱奈に向けて頭を深く垂れた。 
「お怪我など、ありませんでしたでしょうか」 
「フユキが少々拳を受けました」 
「治療士を手配します。何卒ご容赦を」 
 こちらに見向きもしないのが、悲しいね。 
 分かっていたことだけれど。 
「それには及びません。わたくしが既に診ています」 
「はっ。僭越で、御座いました」 
「いえ。その気遣いに感謝を」 
「ははっ」 
 ここに来たときの門番との受け答えを見ても思っていたが、 
 いかにも姫様然とした気品ある振る舞いは、見ていて惚れ惚れする。 
 耳先から尻尾の先までぴんと伸ばして、 
 お腹から出すような張りのある声が周りの空気を引き締める。 
 その美貌と相まって── 
「では、フユキ。時間も押していますし、行きましょうか」 
 そのくせ、驕るようなところは微塵も感じられず、 
 その花が咲くように綻ぶ微笑は、俺に向けられていて── 
 
 
 
 
 しかし、この時俺は致命的な失敗を犯していた。 
 勿論そう気付くのは後々のことだ。 
 俺と朱奈の二人の些細なすれ違いがなければ、もっと別な形で事は解決したのではないだろうか。 
 まあ、何を言っても後の祭り。 
 どうしたって最後の結末は変わらない。 
 ただ、運命という川の流れがどれくらい曲がったり、勢いを増したりするかということだけだ。 
 
 
 二人は今や皇館の奥深く。 
 廊下の先で煌々と光る部屋で、最後の人物が鍵を握る。 
 
 ……ああ、一つ付け加えるならば。 
 俺は自分の運命というものに大変満足している。 
 その際、色々あって朱奈には時々からかわれてしまうが。それは、まあ、ご愛嬌ということで。 
 
 

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