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              〜    1    〜 
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リ、リリ──リリリ、リ──リリン── 
 
 我が家の庭は猫の額でしかないが、 
 秋の虫たちにとっては存分に羽を振るう舞台なのだろう。 
  
 夜空には満月が薄雲の向うにぼんやりと。 
 この季節、ふと思い出すのは月面に浮かぶという兎の影。 
 しかし、それは── 
 
── チリン ── 
 
 それは虫たちの求愛の旋律ではなく、金属と陶器が触れ合う音。 
 「来たな」と思って窓枠の方へと振り向く。 
 
 しまい忘れたままにしてある風鈴を鳴らして、 
 来訪を告げることを覚えたのはいつ頃だったろうか。 
 可愛いお客様は窓枠にちょこんと座り込み、急に明るくなった視界に眼を細めている。 
 
『アオォン』 
 
 こんばんは、とでも言うように一声鳴くと、 
 ネコ科動物特有のしなやかな動きで床に飛び降りた。 
 
 つやつやとした朱色の短い体毛。 
 家猫よりも前にせり出した口元。 
 きりりとした彫りの深い目元は遠くの獲物を睨みつけるようで。 
 ちらりと見える牙は、幼いながらも肉食獣の風格を漂わせていたりもする。 
 
 そんな少しだけ不穏な子猫は一体誰なのか。 
 
 
 
 出会いは一年と少し前に遡る。 
 梅雨にはいくらか早い、さあさあと振る雨の中。 
 田舎では珍しくもない延々と続く水田の途中で、 
 稲の中に顔を突っ込むように倒れていたのがその子猫だった。 
  
 その朱色の体毛のせいで、血濡れの死体かと思ったものだ。 
 
 しかし近付いてみれば実際はそんなことはなく。 
 薄く開いた眼を見た瞬間、抱き上げて家へと連れ帰っていた。 
 
 少なくとも自分は、「助けて」という声を聞いたというような自己陶酔型ではないし、 
 動物は人間のもとで保護しなければならないというような、 
 行き過ぎた愛護精神を持っているわけでもない。 
 
 言うなれば一つの気まぐれ、だと思う。 
 もちろん、後悔などしない種類の気まぐれではある。 
 
 
 
『オオォオ?』 
 気付けば、鳶色の瞳をくりっとさせて、 
 今はもう元気いっぱいな侵入者が見上げていた。 
 
「来るかい?」 
 こんな風に鳴くときは、甘えたいとき。 
 椅子を少しだけ引き、腿をぽんと叩くと。 
 ぐぐっと力をため、いったん机の上に跳ね上がったあとそろそろと下りてくる。 
 以前一気に腿へ乗り移られ割と痛かったものだが、 
 痛がる様子を察してくれたのか、以降はこうやって気を使ってくれる。 
 とても、賢い子だ。 
 
 そしてふあっと大きく欠伸。 
 下顎からお腹までをぐでっと太腿に押しつけ、手足をぶらんと下に垂らす。 
  
 家猫にしてはかなり奇妙な休み方。 
 しかし、時々樹の上で眠る種族だということがわかった今では驚くこともない。 
 むしろ間抜けなほど脱力しているのを見れば見るほど、笑ってしまいたくなる。 
 
 笑みは転じて温かい愛情に。 
 朱色の体をゆるゆると撫でる。 
 触っても筋肉を緊張させることもなく、こうして膝の上で丸くなる姿を見ようとは、 
 あの日には想像できただろうか── 
 
 
 
 心配された怪我も病も大したことなく。 
 ぶるぶる震えている体を拭き取って温めたり、 
 水や牛乳をひたしたパンなど与えてやったりすると、すぐに動けるようになった。 
 もっともそれは、ふと目を離した隙にぴゅうっと窓から逃げてしまってから、 
 分かった事だが。 
 
 不思議と残念に思う自分がいた。 
 掬い上げたときにはただの気まぐれなんだと思っていたが、 
「はは……まいったね」 
 ずいぶんとあの愛らしさにやられていたのかもしれない。 
 小さい幼いというのはそれだけで、ちょっとした暴力だ。 
 それも、かなり一方的な。 
  
 思わず苦笑しつつ、窓を閉めようと近付く。 
 そこで、 
『……』 
「……ぁ」 
 庭に植えてある柊の枝の下で、 
 朱色のそれがこちらを警戒するようにうずくまっているのを見つけた。 
 
 それからというもの、病み上がりが庭に一匹住み着くことになった。 
  
 警戒心の塊のようなヤツだったけれども、出された食事は全て平らげていた。 
 最初の頃は、「ちゃんと食べているかどうか」窓から顔を出すたびに、 
 元の柊の下に隠れていたものだ。 
  
 それでも、魚心あれば水心というか。 
 言葉は通じないけれども、近くに誰かいると安心するのは、 
 何も人間に限ったことではないのだろう。 
 
 色々と声をかけるうちに、いつしか目の前で食事をしてくれるようになり…… 
 背中を撫でることを許してくれるようになり…… 
 玄関で食事を出迎えるようになり…… 
 
 だから、少しずつ距離が縮まっていくのが嬉しかったから。 
 分かっていたのに、気付いていないフリをしていた。 
 ネコのようで、もちろんネコじゃない。 
 
 
 
 『ピューマ』 
 調べに調べて、判明したのがその種族名。 
 それもどこの書籍にもネットにも存在しない朱色のピューマという……。 
 
 ── どうして、こんな田舎の片隅に倒れていたのか ── 
 ── どうして、小麦色のはずの体毛が朱色なのか ── 
 
 疑問は当然尽きないわけで。 
 どこかきちんとした対応のできる施設に連絡した方が無難だ、ということも分かる。 
 それが多分、最も正解に近いだろう。 
 離れて暮らす二人の親に迷惑がかかるかもしれない。 
  
 しかしそうだとしても、この幼いピューマを手放すという気持ちにはなれなかった。 
 もちろん、お互いを意識し始めていた関係を壊したくなかったのもあるが、 
 それよりも── 
 
 
 
『………ゥアウ』 
 ざりっと手の甲を舐められた感触。 
 視線を落とすと、鳶色の瞳もこちらを見上げていて。 
 もう一度、指を舐められる。 
 その眼はあまりにも雄弁で、背中を撫でるのを止めるな、と。 
 そういうことらしい。 
「ごめんよ」 
 そうして謝って、 
「朱奈(しゅな)」 
 もうずいぶんと呼び慣れた彼女の名前を口にする。 
 
 
 
 梅雨の合間、ある晴れた日。 
 運動不足を解消するかのようにひらひらと飛んできた蝶を、 
 同じく運動不足の幼いピューマが戯れながら、追いかけている。 
「危ないから道路まで行くなよ、………」 
 そう声をかけて、かなり重要なことに気付いた。 
「名前、まだだった……」 
 そこで俺はある計画を立て、二つ案を用意し、実行に移すことにした。 
 
「お昼だぞ………っと、いい子だからちょっと離れなさい」 
 玄関を開けるとすぐからみついてくる朱色の独楽を避けながら、 
 所定の位置に食事を置き、自分も傍らに座り込む。 
 乾ききっていない芝生の感触は気持ちのよいものではなかったが、我慢する。 
 
『……』 
 かつかつと懸命に食いつく様子はいつも通り。 
 でも、この計画を実行するのは初めてな訳で、 
 
『……フーッ』 
 頭にあるのは緊張感と、そして好奇心。 
 さらに付け加えるならば、ほんの少しだけの悪戯心。 
 食べ終えて一息ついた隙を狙い、 
 
『……!!』 
 高々と抱き上げて── 
「ふうん……キミは女の子、か」 
 ──計画の目的は達成された。ただ…… 
 
『……………ミギャアアァァァ!!』 
「…痛っ!!」 
 器用なことながら両腕を同時にひっかかれるという、 
 強烈な反撃を受けてしまったのだが。 
 
 しかし、これで決まった。 
 
 脱兎の勢いで駆け出して行く後ろ姿と尻尾に向け、二つの案の一方を、 
「朱奈!!」 
 高らかに読み上げる。 
「……今日からキミの名は、朱奈、だ」 
 告げられた方はなんとも、人間くさいポカンとした顔をしていたのを覚えている。 
 
 
 
「今日はいったいどこへ遊びに行っていたんだ?」 
 背中を撫でるのを、あまり速くなりすぎないように注意しながら問う。 
 まあ、答えが当然ないのは承知のことだが。 
 ひくひく動く耳はこっちの言うことを聞いてくれてるし── 
 
「………?」 
 ── いや、何か何処か何時もと違うチガウちがう ── 
 
 朱奈の耳が不規則に不気味に動いていた。 
 ──ひくひく、びくびく、と。 
 朱奈自身もその異常さに低い唸り声を上げながら机に跳び乗った。 
 
「おい、朱奈。どうした、どこか痛いのか?」 
 その尋常ではない様子にすかさず問い掛けるが 
『グルルルルウゥゥゥゥ……アゥッ!!!!』 
 割と本気に吼えられてしまう。 
 まるで「静かにしてよ、分からないでしょ!」 
 と注意しているかのように。 
 
 その野性の凄みに、自然と言葉を飲み込む。 
 しかしそのおかげだろう。 
 俺にも周囲の様子に気付くだけの時間をもらうことができた。 
 
 もっとも、その『時間』は『瞬間』であり、 
── あれだけ、夜通し鳴いてるはずの虫の鳴き声が ── 
 
 「ヒント」に気付いても、 
── スズムシの声も、キリギリスの声も、何も、何も聞えてこない ── 
 
 「こたえ」に至るまでの制限時間は無いにも等しかった。 
 
 
 
 転瞬、すべての地上に生きる存在が、文字通り足元を失った。 
 
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              〜    2    〜 
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(手加減と呼べるような揺れは……最初から無かった……) 
 
(突き上げるような……衝撃とともに……前後左右上下に揺さぶられ……) 
 
(庭の方へ振り落とされる……朱奈の姿を最後に……) 
 
(俺の意識は重く……深く……低く……暗く……) 
 
(重く………深く………低く………暗く………) 
 
 
 
「……………」 
 意識を取り戻した時、 
 最初に頭に浮かんだのは「埃っぽくて寝ていられない」事だった。 
 気だるい体を起こして立ち上がると、後頭部にずきんと痛みが走る。 
 手を恐る恐るやっても血は出ておらず、 
 ほっとするも、そのまま周囲を見渡した。 
 
 見るも無残な俺の部屋は、どこから出てきたのかわからないくらい 
 埃にまみれ、空中にも無数に舞っていた。 
  
 唯一の窓に近寄ると、 
 ガラス戸は一度はまったあと、強烈な揺れで歪んだようだ。 
 押しても引いてもびくともしない。 
 
 ……強烈な揺れ。 
 
 思い出さなくてもいいものを思い返し、 
 体はひとりでに震え出した。 
 
 あの地震の中で俺は小さな塵のような存在でしかなかった。 
 
 父から離され、 
 母を遠ざけ、 
 自分たちだけで生きているつもりだった──そんな自分をどこまでも隠したかった。 
  
── 恥ずかしげもなくそう回顧してしまうくらい、恐ろしかった ── 
── どこまでも、怖かった ── 
 
 
 
「───」 
 …どのくらい放心していたかは分からない。 
 しかし、遠くで聞えた叫びが、頭の奥をたたき起こした。 
 
 恐怖は依然としてそこにある、それでも。 
 手足を投げ出すように反対側のドアへと向き直る。 
 幸いにも、力をこめれば僅かではあるが、内側に動き始めてくれた。 
 五度の扉との交渉ののち。 
 つけた勢いそのままで開いてくれた扉は──。 
 
 あまりよくない客から守ってくれていたようだった。 
 ──『煙』と『刺激臭』という招かれざる客から。 
 
「ふぐぅっ!……げぇほっ!……げほっ!げほっ!……」 
 見慣れすぎていたはずの廊下は、充満とは言わないまでも、 
 視界が霞んでしまうほどの煙と、 
 色々なものを燃やした臭いのない交ぜになったもので、埋められつつあった。 
 
 眼と鼻が真っ先にやられ、涙と咳が非力な抵抗をする。 
 どうして煙が出るのか、そんなことは分かりきっていることで……。 
 咄嗟に部屋へ引き返し、押し入れからハンドタオルを取り出した。 
「……くそっ!……くそっ!」 
 誰へとも知れない悪態が自然と口をつく。 
「落ち着けよ!……落ち着けよ、俺っ!」 
 もたつく指で、倒れた花瓶の水で浸すと、 
 そのまま口と鼻を覆い、頭を下げながら廊下へ飛び出す。 
 
 
 
「──!! ──!! ──!!」 
 誰にも聞えないのをいいことに、 
 タオルへ向けて言葉にならない叫びを吐き続けた。 
  
 この世でこの場に一人しかいないことに── 
 
 誰も彼もこの世界さえも、俺のことなど毛ほども気にしていないことに── 
 
 俺がいなくなっても、世界は依然『そこ』に変わらずあるだろうということに── 
 
 苛立ち、焦り、うろたえて、 
 ── 何なんだ! 何だよっ! ── 
 絶望の悲鳴を、濡れた布地に力の限り押し付けなければ、 
 ── 怖いっ! 怖い怖いっ! 怖いんだよぉっ! ── 
 頭が、頭の奥から崩れていきそうだった。 
 
「…ぐふっ!……ぜっ…ぜっ……。……ぜほぉっ!」 
 左手が頼る壁が、引きずる足が頼る床が、到底自分の家とは思えない。 
 現実感がわかないのは、ずっと前からそうだ。 
  
 今いるところがどこなのか、 
 どこに向かって進んでいるのかすら、全く知覚できない濃密な白い煙。 
 
 決して重くは無いはずのその灰煙は、刻一刻と俺の身体を押しつぶし、 
 姿勢を低く小さくしていかなければならなかった。 
 
 
 
「……………」 
 また一層、周りの空気が薄くなったような気がする。 
 目眩が、する。 
 耳鳴りも、する。 
 目から涙が、止まらない。 
  
 もう前を見ていられなくて、自然と床しか目に入らない。 
 そこだけはまだ煙の侵食を免れていて、 
 見えないはずの酸素が、そこにはたくさんいてくれる気がする。 
 
 ── 倒れたい、倒れ伏したい。 
 ── あの床に頬を擦りつけたらきっとひんやりとして気持ちいいだろう。 
 ── そうすれば、新鮮な空気を吸える。 
 ── 胸いっぱい、肺を満たすだけ吸い込んでやる。 
 ── 吸い込んだら、また立ち上がって前に進めばいい。 
 
 でも。 
 それは単なる現実逃避でしかないことも、俺にはまだ頭の片隅で分かっていた。 
 どこの高山よりもおいしい空気がそこにあったとしても、 
 一度倒れたら、二度と起き上がれないことも………。 
 
 
 
(もう、ダメかも………しれな、い……) 
 ほとんど膝をつくまでに満たされてしまった煙は、 
 時とともに黒く、禍禍しく、背中の上で熱くうずまいている。 
(……今度こそ、一回だけ……一回だけ、床の空気を吸おう……) 
 半ば以上夢うつつ。 
 残りを諦観と楽観で揺れる頭でそう感じたとき。 
 
 
 
 ── 視界の片隅に、俺は流れる朱色の光を見た ── 
 
 
 
(どうして、こんな、こんな……) 
 僅かに残ったまともな思考はありえないと告げているはずだったが、 
 脳細胞の誰もがそんなことに構っていられなかった。 
 情報の詳細を調べることもできず、 
 もちろん、真か偽かですら、俺にはまったく疑問に思わなかった。 
 余裕も、酸素も。 
 俺には絶対的に不足していたのだから。 
 
 頼るものを見つけたかのように、俺はふらふらと、 
 朱色の光が消えた方向へと漂っていった。 
 
 ……追いつきそうになれば、遠ざかり、 
 ……消えたかと思えば、すぐ現れ、 
 ……待っていてくれたのかと笑ってやれば、つれない調子で背を向け離れ、 
 
 一喜一憂の繰り返し。 
 ただひたすらに、朱奈の姿を追い求め、 
 いつかあったかも分からない、一人と一匹の追いかけっこを、 
  
 黒煙に押さえつけられていた腰を、元のとおりにしゃんと伸ばし── 
 マラソン選手のように濡れタオルを投げ捨て── 
 腕を降り、腿を上げ── 
  
 俺は楽しみ始めていたところだった。 
 
 だから、その楽しい遊びが、何かにぶつかって止められた時。 
 
 すごく、すごく、残念に思えてならなかった。 
 
  (俺の身体は何か、やわらかくていい匂いのするものに包まれ──) 
 
  (いつの間にか、焦げ臭さも息詰るほどの煙もひりつく熱さも、感じられない──) 
 
 だって、そこは終点に違いないわけで。 
 
 終着駅は天国か地獄か、俺にもそれくらいは分かる。 
 
 まあ、これだけふかふかしたものに包まれているのだから、 
 
 きっとここは天国だろうと、 
 
 ひどく満ち足りた気分に浸りながら、 
 
 俺は、何度目か分からない意識の狭間に、顔を埋めた。 
 
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               〜   2+   〜 
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リ、リリ──リリリ、リ──リリン── 
 
 半分に欠けた月が、半分に減った光を地上に投げかける。 
 枯れた稲がその頼りない身を、ざわざわと嘆き、 
 ザーザーとしたノイズを撒き散らす『それ』に向かって、 
 秋の虫たちが敵意の音を震わせていた。 
 
「ザザ……ザ…ザッ…ジジッ…この…び……で起きた……地震……行方不め…… 
 …名の捜索………打ち切……決定い…しま………」 
 
リ、リリ──リリリ、リ──リリン── 
 
「……不明者……名前を……ザ…ザッ…読み上…ガガガガガガッ……………」 
 
リ、リリ──リリリ、リ──リリン── 
 
「…………さん…猪狩 芙雪さん…」 
 
リ、リリ──リリリ、リ──リリン── 
 
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               〜    3    〜 
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「おはようございます、フユキ」 
 聞きなれない、女性の声に俺の意識は浮上する。 
 仲良く手をつないでいた目蓋をこじ開けると、見慣れない天井を背景に、 
 朱い髪の女性がどこか楽しそうに微笑んでいた。 
 
 やや色黒の肌に切れ長な鳶色の瞳。 
 目尻のあたりでピンと伸びた長い睫毛が特徴的だ。 
 自慢じゃないが、これほどの綺麗な人は知り合いにはいない。 
 眉毛のやや上で切り揃えられた髪は朱色で、背中の方までさらっと流される途中には、 
 動物の耳のようなものが乗っている───耳だって!? 
 
「え、ぅあ、それ、それは……!」 
 こんなにも慌ててしまうのには、今の周りの状況も拍車をかけていた。 
 
 なにか布団のようなものに寝かされているのはまあいいとして、 
 すぐ隣、腹這いのような格好で彼女が横になっているのだから。 
 それも覗き込むように覆い被さっていて、 
 近すぎて、その、困る。 
 
「ふふふ…好きなだけ悩んでくださいな。質問にはいくらでも答えますよ?」 
 楽しそうな微笑を今度は悪戯っぽくして、彼女はさらに目を細めた。 
 とてつもない艶っぽさを感じてしまい、思わず喉が詰ってしまうが、 
 どうにか声を絞り出す。 
「どちらさま、でしょうか?……それとここは?」 
 
 そこで彼女は少しだけ表情を改め、 
「わたくしの名はサヤ・ピスカ・ピュマーラ。 
 ここ【エルクェ・ワシ】に数多く勤める保母のうちの一人」 
 そして、【エルクェ・ワシ】とはこの保育所の名前です、と続けた。 
 日本人ではないことは感じていたが、 
 それにしても流暢な日本語だ。 
「サヤさん?それともピスカさん、とお呼びした方が?」 
「いえ、フユキ。どうかわたくしのことは、シュナ、とそう呼んで欲しいのです」 
 
 
 
 シュナ、朱奈、小さなお客様、悪戯なピューマ──。 
 そして意識を失う前の、色々な事が思い出される。 
 地震。 
 煙、炎。 
 ……そして。 
 
 次々と浮かぶ過去の情景は恐怖そのもので。 
 喉のあたりに不快なものがせり上がってきて、咄嗟に上体を起こしていた。 
「………!」 
「どうか落ち着いてください。もう危機は去りました、から」 
 口元を手で押さえるが、何も出てこない。 
 隣で寝そべっていた彼女も起き上がり、 
 背中をさすってくれているおかげで、少し、楽になる。 
「あ、ぐっ…………すいません。……んっ」 
「おそらく精神的なものだと思います。 
 ……これ、よかったら。フユキのお口に合うかどうか分かりませんが」 
  
 目の前に、透明な液体を満たした湯呑みのようなものを出され、 
 自分がひどく喉が渇いていることに気付く。 
「ありがとうございます」 
 躊躇うことなくその器を受け取った。 
「少し苦味があるかもしれませんが、気分を落ち着かせる薬効がありますので 
 我慢してください」 
 
一度自覚すると、それはもう止まってくれなかった。 
 一刻も早く喉を潤したいと、頭はがんがんと指令を飛ばしてくるが、 
 女性の手前。 
 勢い込まないよう、ゆっくりと喉へ流し込む。 
「とんでもない。すごくおいしいです、さっぱりしてて」 
 味らしい味などしない飲み物で、 
 ミントのようなすうっとした感じが喉元から胃へと流れ、 
 それが気持ち良くてすぐに飲み干してしまう。 
 そうして、彼女の方を見やれば、 
「まだありますよ?」 
 小首を傾げるように微笑まれ、改めてその綺麗さに胸が高鳴る。 
 
 とくとくと液体が注がれる音。 
 ただそれだけが聞える空間の中で、俺は思考と冷静さを取り戻していた。 
 聞かなくては、確認しなくてはいけないことがある。 
 
「その……シュナ、さん。正直に答えてください……どうして、俺の名を?」 
 あの時、俺は自分の身元を証明するものを持っていなかったはずだ。 
 父の知人にも、母の知人にも、かつていたお手伝いさんにも、 
 俺を知る外国の人はいなかったはずだ。(…それも変な被り物をするような) 
 美人さん、それもとびきりの美人さんに戸惑っていたが、 
 これは怪しむべきだろう。 
 
 意識が回復してから、いや、多分その前から良くしてもらっているだろうが、 
 ここで初めて俺は警戒心を抱いていた。 
 
 俺の分の水を注ぎ終わったシュナさんは、自分の湯呑みにも同じように注ぎ始める。 
「そんなに怖がらなくてもいいのですよ? 
 仮に、わたくしがフユキに害を与えるつもりなら、 
 あなたが寝ている間にどうにかしてしまっています」 
「それは、そうですが……」 
 注ぎ終わった水差しがことり、と床に置かれる。 
「それでは俺の名前を知っている理由にはなりません。 
 失礼ですが、俺たちは以前会ったことがあるのでしょうか?」 
 
 そして訪れる幾ばくかの沈黙。 
 シュナさんは自分の湯呑みを両手で包み込み、じっと口を閉ざす。 
 それは答えたくないのではなくて。 
 何か言葉を捜している、そんな感覚を受けた。 
 
「どこから話したらちゃんと伝わるかしら…。 
 いろいろとフユキには驚くことばかりかと思いますが、でも、 
 これだけは信じて欲しいのです」 
 やがてそう語りだし、 
「わたくしはフユキに感謝こそすれ、欺くつもりも害をなすつもりも全くありません」 
 シュナさんの鳶色の瞳がこちらをまっすぐに見つめる。 
 その視線はこちらがはっとするほどに真剣に見えて、 
 俺は素直に頷いていた。 
 その頷きを是としたのか、彼女は言葉を紡ぎ出す。 
 
「あれは一年と少し前のころだと思います。 
 わたくしは原因不明の高熱に襲われました。 
 そのために意識はだんだんと薄れ、真っ白な光で埋められていったのを覚えています」 
 流れるように、ゆっくりとした語調。 
 その頃を思い出しながらだろうか、目を瞑っている。 
 
「そしてどれほど時が経ったか分かりませんでしたが、 
 その光は薄れ、周囲の景色もはっきりしてきました。 
 ……そこは背丈の低い草が波打っていて、涼しくていい匂いがして、 
 でも空は今にも泣き出しそうな、……わたくしの見知らぬ場所でした」 
 シュナさんが伏していた視線をあげ、こちらを向く。 
「……続けてください」 
 先を促した。 
 
「つい先程までとは全く違うその風景に最初は夢かと思いました」 
 頭叩いて確かめちゃいました、と少しおどけた風に微笑むが、 
 俺の顔は強張り、愛想笑いも浮かんでこなかった。 
 少し悪い気もしたものの、 
 シュナさんも雰囲気を感じ取ってか顔を引き締める。 
 
「……しかし、体は依然としてかなりの熱を持っていましたし、 
 加えてさあさあと雨が降ってきましたので、 
 雨をしのげる場所を必死になって探さなければなりませんでした」 
 そこで彼女は湯呑みを傾け、一息入れる。 
 俺も慌てて、すうっとする液体を喉に流し込んだ。 
 
 湯飲みの底に映る模様に見入りながら、考える……。 
 シュナさんの話は、自分で騙すつもりなどないと言った都合上、 
 決して嘘ではない、はずだ。 
「…同時に熱っぽさとは異質の違和感を感じてもいました。 
 それに気付かなかったのは、意識があやふやであったせいでもありましょう」 
 しかし。 
 この話がどこにどう繋がるのか見えてこないのも確かなわけで。 
「…ともかく、その時のわたくしにはその違和感の正体がわからず、 
 そのもどかしさから我武者羅に走り回ったのがいけなかったのでしょう。 
 何かにつまずいたのか、水溜りに頭から転んでしまいました」 
 俺はさらにシュナさんの回想に集中した。 
 
「そして頭を上げた瞬間、わたくしはとうとう、その違和感が何なのか悟りました。 
 水に映るのは見慣れた自分の顔ではなく」 
 息を深く吸う。 
「女の身ながら先祖返りを起こしてしまったかのように、 
 ──朱色の毛を生やした、幼いピューマの顔だったのです」 
 
 ──ピューマ。 
 その言葉を聞いて、俺はハッと顔を上げる。 
 背丈の低い草の波、地に伏したピューマ……。 
 さあさあと降る雨、朱色の体毛……。 
「あまりの出来事に、わたくしは再び気を失い、 
 ……そしてもう一度意識を取り戻した時には、周囲の様子もまた違っていました」 
 それは、既視感なんかを飛び越した、確実に記憶された過去── 
 
「冷え切った体は乾いた布でくるまれ、風通しの悪そうな壁で四方を囲まれた 
 奇妙な部屋でうずくまって」 
 全身を駆け巡るのは電気のようで、熱気のようで、冷気のようで── 
 
「わたくしを介抱してくださったであろう方は、 
 耳も尻尾も持たない、伝承上でしかないはずの『ヒト』でした」 
 掛け違えたボタンに気付くとか、ばらばらのパズルピースがカチリと組み合うとか。 
 そんな使い古された表現が、これほど── 
 
「はい、もうお分かりになりましたね」 
 にこっとシュナさんが明るく笑うが、 
「それから分かることになりますが、その雄の『ヒト』の名はフユキ。 
 幼いピューマを……救い…」 
 思わず「あっ」と漏れそうな声を飲み込む。 
 
「……この、わたくしに!……シュナ、という…とても………とっても! 
 …素敵な名前を、授けてくれた」 
 突き上げる感情からか語調を所々強め。 
 
 シュナさんは細めた鳶色の瞳からすうっと一筋涙をこぼしていた。 
「わたくしの大切な方、です」 
 
 鼻をくすんとすする音も、軽く震えている唇も。 
 その泣き笑いの表情に。 
 これまでとは異質な、とくんという気持ちのいい胸の音を。 
 俺は確かに、小さいながらはっきりと聞いた。 
 
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               〜    4    〜 
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「それじゃあ本当に朱奈、なのか?」 
「………」 
 こくんと頷かれる。 
 俺以外にピューマと暮らしていたことを知るものはおらず、 
 否が応にも納得するしかなかった。 
 
「──お見苦しいところを、晒してしまいましたね。ごめんなさい」 
 シュナさん、いや、もう朱奈でいいだろう。 
 指で涙をぬぐいながら、照れ隠しか、軽く笑う。 
 
「もっと驚くとわたくしは思っていたのですけど……フユキは冷静ですね」 
「うん……。自分でもかなり不思議だ」 
 俺は常として、初見の人には距離を置く性質のはずだ。 
 『俺』という個人ではなく、あの父の『息子』というだけで、 
 寄って来る人間の汚さを味わってきたのだから。 
 
「ただそう言われると、言われてみれば、というか 
 ……雰囲気が、小さいピューマの朱奈と変わらない気がするんだ」 
「まあ! わたくしはそんなに子供子供していませんよ?」 
 大げさに目を丸くして抗議している。 
 
 慌てて俺は言い訳を口にした。 
「あ、そういう意味でなくて……。 
 ──例えば今この場に、アルバムが出てきて、 
 朱奈の小さな頃の写真を見せられたとするだろう?」 
 両手の親指と人差し指を使って、長方形を作る。 
「するとやはり、面影がどこかあって、 
 『確かにこれは、小さな頃の朱奈だ』と感じるのと同じ事だと思う」 
 まあ、人間と動物の面影を重ねるのは、やや無理があるかもしれないが。 
 頭の中でイメージをダブらせても何ら違和感がない。 
 そして、 
 
「『あるばむ』?『しゃしん』?」 
 
 俺も僅かに笑みを含んで見返すと、彼女はびっくりするような疑問を口にした。 
 
 
 
 朱奈はきょとんとした表情。 
 いや、俺も同じような顔をしていることだろう。 
 ──少し整理しよう。 
 聞きとれなかったように聞き返す朱奈だが、発音は正確になぞられていて…それはない。 
 では──単語自体を、その単語の意味を……知らない?  
 
(でも、彼女は………あっ!?) 
 何気なく、視界にぴこっと動いたモノを見つけた。 
 耳…動物の耳…そして、今さらだが見慣れない服…。 
 
 こういうとき、手っ取り早い質問があったはずだ。 
 
「…………俺はすごく大事なことを丸投げしていたようだ。 
 うーん………。朱奈、今日は『何年の何月何日』か教えてくれないか?」 
 聞くと、視線を部屋のどこかへ投じて、 
「今日はユリィニシヤ498年のラの月20日ですが……ああ!」 
「……俺の中ではあの地震の日、平成16年10月9日……俺の言いたいこと、分かった?」 
 
 どうやら、朱奈のほうでも気付いてくれたらしい。 
 初めて聞く暦の呼び方は、当然ここが異国であることを伝えていた。 
 
「ううぅ……わたくしちょっと情けなくなってきました」 
 額に軽く指先を当て、 
「案内役失格です……」 
 そうして、溜息。 
「まあ、俺もなんだか楽しくてはしゃいでいたから……」 
 旧い友人に同窓会で久しぶりに出会ったような感覚、と言ったらいいだろうか。 
 無性に心が躍って、何から話そうとあれこれ思い巡らす、ような。 
「フユキが全く取り乱していないのがいけません、なんとなく悔しいです」 
 朱奈の唇が拗ねるようにきゅっと集まる。 
 
「……ああ、うん、そうだな。………朱奈と向かい合ってるのが、一番自然なんだよ。 
 今も──もちろんあの頃も」 
 彼女の動作は決して大げさなものではない。 
 しかし、その一つ一つに華があるというか、全くくどくない。 
「……フユキ。あの……ええと……それは、どういう──」 
 ──などと考えてるうちに、朱奈が顔を赤くして少し困ったように俺を見ている。 
(しまった、俺は何かやらかしたか──!) 
 考え事しながら適当言うのは地雷だと、あれほど……。 
 
「ごほん!………朱奈、『ここ』はどこだ?」 
 もうとにかく焦ってしまって、無理やりに話を元に戻す。 
「──まず、『異世界』という言葉をご存知ですか?」 
 怪訝そうな顔をしたものの、 
 そんな俺に文句一つ言うことなく、朱奈も付き合ってくれた。 
 ……すまない、朱奈。 
 
 
 
「ああ、仕事柄そういったSFな本を訳したことがある」 
「……フユキは話が早くて助かります。信じられないでしょうが、 
 『ここ』がまさしくフユキにとっての『異世界』だということです」 
 
 俺は駆け出しの翻訳家として、日々を暮らしている。 
 契約会社を持たずフリーではあるが、自分の好きな海外SF小説を訳す出版翻訳が主だ。 
 幸いにも、訳した小説がそれなりの売れ行きを見せ、 
 原稿料だけでなく印税契約の分だけでも、それなりに稼がせてもらっている。 
 
「えっ!…はっ?…と、すると……!?」 
「はい、フユキ。この耳は本物ですよ?そして……」 
 驚きに頭が付いていっていない俺だったが─── 
 
「……尻尾……」 
 ぽんぽんと肩を叩かれて、振り向けば、 
 お約束のごとく指で、頬をつっかえ棒された。 
 ──しかしそれは、俺の単なる誤解で。 
   指だと思ったそれはふさふさと毛が生えていて、たどっていけば朱奈のお尻へと。 
 
「朱奈……」 
「はい、フユキ。『異世界』の理由、納得いただけました?」 
 はい、納得イタダキマシタ。 
 でも、だ……。 
 ……自分がSF小説を好むからと言って、自分自身がSFそのものにはまり込むとは、 
 到底思っても見マセンデシタヨ? 
 
 それと、朱奈のお尻から目を離すのに多大な労力がいったのは、秘密デスヨ? 
 
 
 
 話が長くなりますから、と。 
 そう言った朱奈は部屋の奥から、別の飲み物と何かが盛り付けられたお皿を持ってきた。 
 
 子供たちのおやつの残りだというそれは、 
 とうもろこしの粉と水亀の卵を混ぜ、油であげたものらしい。 
 食欲をそそる香ばしい匂いで、 
 口に入れてみると、いつか沖縄で食べたサーターアンダギーのような味がした。 
 
「──となると、だ。俺はどこかで境界を越えたのか」 
 うまい、と自然に口をついて出た。 
 それはなによりです、と朱奈も顔をほころばせる。 
 
「はい、ほぼ正解です。正確には、越えさせられた、が正解ですが……… 
 これはまた後の話にしましょう」 
 一瞬辛そうに眉がしかめられるのが見えた。 
 気にならない訳ではないが、俺はこのおかしを頬張るのに忙しいもので。 
 
「……む。まあ、いいよ。それで?」 
「はい。そして今わたくしたちが住む『この世界』では、 
 フユキのような『ヒト』は存在しないのです」 
 
 ──『ヒト』は存在しないのです。 
 朱奈は確かにそう言い、俺はその言葉の衝撃に喉が詰る。 
(『猿の惑星』みたいなものか……。いや、しかしあれは人類は猿に支配されて……) 
 頭の奥の方でがさがさと何かがうずまいて、うまく言葉で表現できない。 
 
「……それは。朱奈、俺はかなり驚いてるぞ」 
 おかしで詰った喉を、何かの果実をしぼった飲み物で下すと、 
 とりあえず、無難そうな感想で誤魔化した。 
「あまりそのようには見てとれませんが……?」 
 朱奈のほうは、飲み物だけを口にしながら、くすくすといった表情。 
「そうだな……興奮……してるのかもしれない」 
 
 ── 『ヒト』がいないのだとしたら…… 
 ── 目の前の『ヒト』に似た朱奈は一体何者なのか…… 
 
 生まれ持った好奇心がうずき、止まらない。 
「ふふふ……わたくしの知らないフユキがいるようですね。 
 わたくしも楽しくなってきました」 
 カラン──と、俺と朱奈の飲み物に入っている氷が、同時に涼しげな音を奏でた。 
 
 
 
「一応整理しましょう。 
 今ここの世界を『こちらの世界』、フユキのいた世界を『あちらの世界』とします」 
 今度は部屋の隅から、大きめの黒板とチョークのようなもの持ってきて、 
 かっかっと何かを書き始める。 
 
 周りを見渡して分かったのだが、この部屋は保育園の教室なようで。 
 寄せられた机、椅子や、子供たちが書いたであろう絵が飾ってあったりする。 
 
「朱奈……読めないぞ……」 
 と、そこで気付く。 
「日本語じゃない!?……朱奈の話しているのは日本語にしか……」 
 
「……その仕組みについては、まだ何も分かっていません……。 
 わたくしには、フユキがわたくしたちの言葉を話しているようにしか聞えませんし」 
 
 謎はさらに深まっていくようだった。 
 
 
 
「先程『こちらの世界』に『ヒト』はいないと言いましたが、 
 『ヒト』にあたる存在はいます。わたくしたち『人間』です」 
 黒板に、俺たちの世界でもあるような棒人間の絵が描かれた。 
 しかし──。 
 その頭の部分には二つの三角形が付き、胴体から尾を表す曲線が伸びる。 
 
「『人間』には多数種族が存在し、 
 ネコ、イヌ、オオカミ、ウサギ、キツネ、ヘビ、トラ、サカナ、カモシカ……。 
 他にも多数種族が『こちらの世界』で暮らしています」 
 動物の耳と尻尾をもつ人間──か。 
 
「そして──」 
 再びチョークで黒板をなぞって── 
「わたくしを含め、この近辺で暮らすのは、ピューマ…ジャガー…オセロット…」 
 象形文字のようなものが描かれる。 
 彼女の書いたタイミングとその絵を考えれば、 
 それぞれが、後脚……牙……尻尾、に対応していそうだ。 
 
「父なる太陽神【ウィラコチャ】と母なる月夜神【ママ・キヤ】が、それぞれ、 
 ご自分の身体をもとに三種族の男女六人を創造したもう、と神話は伝えています」 
 祈りを捧げるように、チョークを持ったままの両手と尻尾が複雑な動きを見せた。 
 
 
 
「続きまして、わたくしたちの国ですが、 
 この三種族が固まりあって国を形成しています」 
 
 声の調子を上げ、なんだか得意げに尻尾をふりふり。 
 朱奈は、話しているうちにだんだん盛り上がってくるタイプなようだ。 
 ふと「教師のようだ」という言葉が浮かんだが、それも当然。 
 彼女は言ったはずだ。 
(──保母のうちの一人──) 
 保育所の保母さん………先生、だ。 
 
「名前を【キンサンティンスーユ】と言います。 
 皇后【サヤ】陛下を指導者として仰ぐ女系国家です」 
 ──テストに出ますよ、と言わんばかりに下線が引かれている。 
 それも、二重下線。 
 
「ただ皇后陛下お一人では何かと大変であらせられる為、 
 皇族【シャィリュ】院、長老【マチュルニュ】院の二つが、補佐機関としてあります」 
 朱奈がちらりと俺を見る。 
(今のは、ちょっと難しかったかな?) 
 と告げているようで、 
(いや、まったく) 
 俺も、無言で挑戦的な視線を返した。 
 
「国土を円形に例えますと、その円を三分割するように北をピューマ、 
 南をジャガー、東をオセロットが地方共同体として治めています」 
 一度書いた棒人間もどきをささっと消して、 
 大きな円と、それを三等分するような三本の線。 
 そしてできた1/3のケーキの中に、さっきの後脚、牙、尻尾が描かれた。 
 
「ただ、ピューマ族長を皇后陛下が兼任され、同様に、 
 ジャガー族長を都督閣下が、オセロット族長を司教猊下が兼任されていて──」 
 ──族長は世襲制になっています、と一度〆るように言葉を切った。 
 
「朱奈、すごいよ。さすが保育所の先生だ」 
 ──ぱちぱちぱち。 
 俺は何の衒いもなく、彼女に賞賛の拍手を浴びせた。 
「生徒がこんなに大きな生徒ですからね、先生も本気になったりするのですよ?」 
 乾いた喉を潤すように、朱奈は石英のグラスを傾けている。 
 
「一本取られたかな?あはは…」 
「『一本取られた』……ですか? わたくし何かフユキから取りましたか?」 
 グラスの壁に結露した水とチョークの白い粉が混じったらしく、 
 おしぼりで手をふきながら、朱奈が問う。 
「うん?あー、……後で説明するよ」 
 まさか、剣道やら柔道やらがあったりはしないだろう。 
 ──一から話すのも大変だし、朱奈に話はおまかせ、だ。 
 
 
 
「それよりなにより、だ。皇后陛下を【サヤ】陛下という風にも聞えたんだが……」 
 不思議なことで、例えば文字にルビが振られるように、 
 二つの音が同時に、しかも、はっきりと耳の奥に響いた。 
 もしかしたら【サヤ】というような不明なカタカナは、彼女の言うところの、 
 『わたくしたちの言葉』にあたるのかもしれない……。 
 
「朱奈の『こちら』の名前のサヤとは何か関係があったりするのか?」 
 これは、途中から聞こう聞こうとずっと思っていたことだ。 
 しかしその時は特別深い意味があってのことではなく、 
 本当に軽く言ってみただけだった。 
 
 だから──。 
 
「はい、フユキ。わたくしは皇后陛下の娘にあたりますもの」 
 
 俺は耳を疑った。 
 ── 皇后陛下の娘にあたりますもの ── 
 
「………ちょっと待ってクダサイ、朱奈サン、モウ一度」 
 その言葉にこめられた意味を図り損ねたくなくて、最期の抵抗を試みる。 
 
「わたくしはサヤ・ピスカ・ピュマーラ。 
 【皇后陛下の五番目の娘にあたるピューマ】という意味です」 
 
「はあっ!?」 
 今度こそ、はっきりと分かった。 
 彼女は──皇后の娘、すなわち、『お姫様』!? 
 目と口をあんぐりと開けて朱奈を見── 
 
 鼻と口を軽く覆うように、ころころと笑っていた。 
「ようやくフユキの本当に驚いた顔が見られました」 
 俺の不細工な顔をこそこそと一瞥し、 
「フユキ、わたくしは今かなり嬉しいです」 
 俺の言い方を真似て言う。 
 
「参った」 
 俺は板間の上にごろんと大の字になる。 
「朱奈は正真正銘の『お姫様』だったのか……」 
 予想の限界をはるかに飛び越えた展開に、思考が鈍っている。 
 言葉を搾り出したきり、何も出てきそうになかった。 
 
 朱奈も、こちらの見えないところでカランとグラスを傾け、 
 俺が落ち着くのを待つように、口を閉ざしている。 
 
(はあ……お姫様…かぁ……って! この体勢は無礼だったりしないか?!) 
 思考が少しだけ戻ってきてくれたせいで、 
「何を今さら……」呟くもう一人の自分を蹴り出し、肘で体を起こしかけ── 
 
 
 
「……そして『こちらの世界』では、 
 フユキはわたくしの『召使』になる他選択肢はありません」 
 
 穏やかな朱奈の話し方。 
「なんだってっ!」 
 しかし、その『召使』という言葉のもつ意味を見逃すほど、 
 俺は放心していなかった。 
 
「『従者』という言葉でもフユキのことを表すことができます。 
 ……怒りましたか、フユキ?」 
 じっと睨みつけるような瞳は嘘ではない、と。 
「いや、怒ってはいない。──が、少し頭が冷えたことは確かだ。 
 説明……頼めるか?」 
 崩した体を戻して、ざっと座り込んだ。 
「はい、もちろんです」 
 朱奈は雰囲気を改めるように、深く息を吸い、そして深く息を吐いた。 
 
 
 
 
「先程、境界を越えたとフユキは言いましたね? 
 ……フユキはなぜか簡単にさらりと言い当てましたが。 
 現実ではこの『越える』ことが非常に稀なことなのです」 
 ぐびりと俺の喉が鳴った。 
 もうかなり小さくなっている氷を見ながら、グラスの中身を飲む。 
 
「そして『越える』ことは、『こちらの世界』では『落ちてくる』と言われます」 
 主語の問題、それも主語の位置の問題だろう。 
  俺は『越えた』── 
  朱奈は俺が『落ちてくる』のを見た── 
 と、いうように。 
 
「これは実際、海の上空から物理的に『落ちてきた』例が報告されたため、 
 そのように呼ばれているという説が有力です」 
 再び朱奈がチョークをつかみ、 
 耳と尻尾のない棒人間と、その下に長く伸びる矢印を黒板に印した。 
 
 その図を見た途端、何かが俺の頭を貫いた。 
「朱奈、途中ですまない。 
 『落ちてくる』のなら『這い上る』ことは可能なのか?」 
 
 しかし、俺としてはかなり的を外していないと思ったのだが、 
 朱奈の顔には苦笑が浮かんでいた。 
 
「フユキ……。あなたが本当に『落ちて』来たのか正直理解に苦しみます。 
 『こちらの世界』を前もって予習してきたとしか思えません」 
 呆れたような、笑いを含んだ声。 
「いや、そんなこと言われてもだな……」 
 名探偵のように閃いてしまったのだから、仕方が無い。 
 
 しかし──朱奈がそのままぽつりと洩らした。 
「『這い上る』とはまた………意味深な言葉ではありますね、フユキ。 
 ヘビ国の帝都崩壊と何か関係があるかもしれません──」 
 このときの朱奈の顔は、今まで見たこともない表情だった。 
 プライベートではない、『姫』としてのパブリックな顔──俺はそう感じた。 
 
「話を元に戻します。 
 落ちてくることは非常に稀だと述べましたが、これは有機、無機に限りません」 
 かっと音を立ててチョークが黒板に突き立つ。 
 
「『ヒト』以外にも非常に多種多様な物体が報告され、 
 その関連性については諸説入り乱れており、それこそ千差万別です」 
 そのまま、すすっと下に線が伸び、二度、三度と同じように線が引かれた。 
 
「ただ『ヒト』が落ちてくる可能性はかなり高いと言われてます。 
 元の落ちてくる確率が確率なので、大した差はありませんが」 
 『ヒト』を表した棒人間を、白線が丸く、囲む。 
 
「そして、落ちてきた『ヒト』の処遇ですが、 
 『拾った』者の所有物となり、いかなる扱いをしても罪には問われません」 
 
「…………朱奈が…拾った…? ──俺を?」 
 目の前の朱奈は別段、変わった風もなく。 
 いかにも小事であるように、さらっと厳しいことを流した。 
 
 今この場に『ヒト』などいない──そんな様子に微かに生まれる反発。 
(……でも、さ……) 
 こういうときだけは、傲慢だけが取柄なあの父には感謝してもいいくらいだ。 
(私情など、何の意味がある……本質を見えなくするだけだ、と……) 
 きっと朱奈だって何か考えがある。 
 
「『ヒト』の基本的人権は無視され、 
 『召使』、『奴隷』、『愛玩物』など、所有者の思うが侭なのです」 
 
 だって、彼女は言ったじゃないか。 
 ── わたくしはフユキに感謝こそすれ ── 
 
「ここ【キンサンティンスーユ】でもそれは例外ではありません。 
 ただ少しだけ毛色が違います」 
 
 あの真剣な鳶色の瞳は……。 
 ── 欺くつもりも害をなすつもりも全くありません ── 
 
「民の間に落ちた物はすべて貢物として献上されるため、 
 一般的に『落ちたヒト』は、『奴隷』的な扱いこそ受けませんが、 
 身分の高い者の『召使』になっています」 
 まだ朱奈は強張った姿勢を解いていない。 
 ……まだ続きがある……? 
 
 適当に相槌を打ってみる。 
「……それで、俺は朱奈の『召使』になるわけか……」 
 これまでと逆の関係だ。 
 厳格には異なるが、俺は朱奈を半ば『ペット』のように感じていたのだから……。 
 
 
「さらに言いますと、フユキは絶対に『あちらの世界』に戻ることができません」 
 
「そして、『こちらの世界』に落とした犯人は、わたくしなのです」 
 
 
 『犯人』という不穏な単語に、俺は言葉を挟んでしまった。 
「おい、朱奈──」 
 そして、自分の発した声の硬さと張りに「しまった」と思う間もなく。 
 
「分かっているつもりです!!」 
 朱奈は途端に、整った顔をくしゃっと歪め、 
 
「『あちらの世界』に『浮幽』したわたくしを助けていただいたのに、 
 その方を、身勝手にも『こちらの世界』に『落して』しまったのですから……」 
 激したような、苦しんでいるような語調は、 
(──俺自身もひどく衝撃的な内容に動揺しているというのに──) 
 朱奈が進んで『落とした』のではないと直感することができた。 
 
「フユキは………わたくしを恨んで当然なのです。 
 そうでなければ、わたくしは……わたくしは!」 
 しかし、穿った見方をすれば、予め自分が悪いように仕立て上げ、 
 相手に同情を沸かせるような内容だとも、とれなくは……ない。 
 
「朱奈」 
「はい……」 
「一つだけ、言っておくことがある」 
 これだけ「わたくしが悪いのです」と言い張っているのに、 
 顔を伏せずに正面を向く朱奈は、流石だ、と。 
 
「はい……」 
 視線を二人合わせ、 
「俺は── 朱奈をそんな悪い人間だと思うことはできないんだ」 
 
「はっ?」 
「あははっ! いや、自分でもかなり不思議」 
 二人して、空気が抜けた風船のよう。 
 間に張り詰めた何かが、弛む。 
 
「………」 
 それでも、朱奈の顔はまだ強張ったままでいて。 
「俺は、信じるよ、朱奈を。まあ全然根拠がないわけではないが…」 
 釣られるように、俺が表情を改める番だった。 
 
 俺が起きるまでに、彼女は何度、この情景を想像していたのだろう。 
 そしてその想像の中で、俺は何度、朱奈を責めていたのだろうか。 
 俺の言葉を遮って、呻くように吐き出す言葉には、 
 打算的な感情など少しも感じることはできなかった。 
 
 ── つまるところ、俺は悲しそうな朱奈を見ていられなかっただけなのだ。 
 
「怒られることで、非難されることで、朱奈は満足かもしれないが── 
 相手のことをまるで考えていない。 
 
 ── 怒った相手は、怒ったあとに何をしたらいい? 
 ── 非難した相手は、非難したあとに何処に行ったらいい? 
 
 真に悪いと思うなら、どうするべきか──」 
 
「──朱奈なら、分かるはずだ」 
 どうか俺を、完璧に、信じさせてくれ。 
 せっかく語り合えた二人にわだかまりがあるなんて、俺は嫌だ。 
 
「はい……分かります、フユキ。すべて、すべてお話します。ですから」 
 ところどころ、声を詰らせて、 
 
「『こちら』を嫌わないで、くださいまし………」 
「うん……頼む、朱奈」 
 
 俺は自然に笑ってやることが、 
 怒ってなんかいないと、伝えることができたことにほっとしていた。 
 

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