▽
思うより、大変かもしれない。
手元にゴムのグリップらしき物がついているとはいえ、この羽筆は握りが細い。
キーボードでは無くなって久しいが、いつかこれも慣れてしまうのだろうか。
ただ、淡い黄緑色の蛍光は液晶ディスプレイと違って目に優しい。
『落ちて』からずっと、目薬いらずだ。
「フユキ、お茶が入りました」
「ああ。そこ置いといて」
後ろに目を向けはしない。
彼女がそこにいるのは分かり切っている。
でも、
「ありがとう、朱奈」
その時ばかりは、まだあまり上手くない表意文字【トカプ】を頭から追い出す。
彼女を脳裏に想えば自然と声は優しくなれる。
どんな仕草で、君は笑うのか。どんな調子で、君は口を開くのか。
そして、一緒に暮らすようになって分かることがあった。
目と目を合わせた方が良い時と、合わせなくても良い時と。
近さを確かめたい場合と、ただ近くにいられればいい場合と。
▼
思うより、弱いのかもしれない。
彼は自分に「名付け」、愛しい良人(おっと)になったとはいえ、小さな嫉妬が胸を焦がす。
幼子の館【エルクェ・ワシ】に勤める肉親や親戚たちにフユキは振り回されて、
いつかこれも慣れてしまうのだろうか。
ただ、彼はやっぱり優しくて甘い。そう、誰にでも。
『落ちてきて』からずっと心はぷかぷか浮き沈み。
「今日も妹たちのところでした?」
「ああ。ヒト使い荒いよ」
またも妹たちは策を練り、フユキが良人たりえるか、あれこれと試している。
そして彼も付き合ってくれているのは分かり切っている。
けれども、
「…残業手当ては出ましたか? フユキ」
この時ばかりは、胸がちくりと痛む。
知らないところにいる彼を脳裏に想えば自然に問い詰めてしまう。
どんな仕草で、笑いかけるのか。どんな調子で、語りかけるのか。
一緒に暮らすようになって分かってはいるのに。
恋人としてふるまう時と、家族としてふるまう時と。
一人の男と一人の女である場合と、良き良人と良き妻である場合と。
▽
はっとして、顔を上げる。羽筆を墨壺に突っ込んで振り返る。
こんなことをしてる場合じゃないって気付く。
まだまだ、至らないところばかりだ。
「手当てだなんて、そんな。
あれから直ぐにこっちに…朱奈といさせてもらえることが、何よりの報酬なんだ」
むしろ逆に、朱奈の妹たちにはどれだけ支払ってもいい。
どう見ても、彼女たちから一人の大好きな姉を奪ってしまったのだから。
「だから…手間賃がわりのお菓子も持って帰ってきた。いっしょに食べようと思って包んでもらった」
でもそれはまったく自分の都合であって…朱奈の心を慰めはしない。
今手がけている論文もどきも物語もどきも、したいと思ってやっているだけであって…
朱奈の寂しさを埋めはしない。
だから、その役目は自身の言葉。
「隣、行くよ。休憩」
そして自身の温もりも。
自惚れと思うことは、もうなくなった。
▼
きゅっとして、身体が強張る。フユキが目の前を横切り隅にある棚へ向かう。
腰を浮かしかけて、仕草で抑えられた。
まだまだ、彼に気を使わせてばかりだ。
「どうぞ続けてください、フユキ。わたくしに構わないで…」
むしろ逆、自分だけを見ていて欲しい。
誰に何を言われても、良人から一番に愛されたいと願うことは譲れない。
「あははっ、俺にも休ませて欲しいな」
「それは…はい、そうですね。ところで、何を頂いたのですか?」
でもそんな小さな嫉妬はまったく自分の都合であって…フユキの心を軽くはしない。
身体全部で想いを訴えても、「好き」と言いたいだけであって…フユキの拠り所を新たに創りはしない。
だから、その役目は自分以外のもの。
「どうぞこちらに、フユキ」
親族ぐるみで彼にさせている仕事。
いつか公に手をつないで夫婦と言えるような「箔」を、フユキにつけさせるため。
▽
朱奈の歯切れを悪くしているそれを、かわいいと評したら怒られるだろうか。
遠慮するように身体をずらした彼女。
「隣って言ったよね?」
そしてやや強引に、左肩を擦るように座り込む。
持ち出してきたクッキーの封を切り、とろりと蜜を垂らした。
そのうちの一つを手渡しながら、
「今日の朱奈先生は、子供たちといっしょにお昼寝してしまいました」
一日とて同じではない今日という日に思いを巡らせた。
「いつまでたってもおしゃべりをやめない子たちを寝付かせてるうちに。
なんかもうすごい平和な眺めで…ずっと朱奈の寝顔を見てた。
不思議だよね。寝てるってすぐ分かるのに、その深い呼吸から目が離せない」
あの朱色の仔ピューマと過ごした時と同じ、感じた彼女のあどけなさ。
「…お行儀が悪くありませんか?」
「ちっとも。やましい考えなんて一つもないから。ただ純粋に…気持ちよさそうだな、て」
弛んだのは、自分のしまりのない頬だけでなくて、張りがちになってしまう気分も。
今日という日も終わっていないというのに、明日もがんばろう、ついそういう気持ちになれる。
▼
フユキはいつの間にか、
「何て言ったらいいか、その…」と迷いつつ照れてしまうことがなくなった、と評したら怒られるだろうか。
彼の左肩に頭をことりと預ける。
「もう。フユキだって時々寝てます」
そして二人同時に指が触れて、絡め合う。
空いた方の手で、玉蜀黍の粉を練って焼き上げた【ミルホ】をかじりながら、
「今日のフユキ先生は、泥だらけになりました」
百日あれば百通りの風が吹く。
自由を司り、子供たちの守護神たる彗星神サカカスはそう説く。
「女の子たちに懐かれておままごとばかりしているところを、女男と男の子たちにからかわれて。
ふふふ…「勝負だ」など、どっちが子供か分からないくらい遊んでいましたね」
ヒトの世界で朱色の仔ピューマとなって見た時と同じ、
翻訳の仕事に独りで笑い、怒り、悲しみ…感情移入するフユキの無邪気さ。
「あれで男の子、女の子が少しでも仲良くなれたらそれでいいさ」
「最後はどちらも一緒に楽しく交ざっていましたから」
感じたのは、まぶしくて細める自分の瞳だけではなくて、どこか誇らしい気持ちも。
今日という日が、のどかで穏やかな毎日のほんの一つであって欲しい、ついそう願ってしまう。
▽▼
溶かしたい。些細でも、わだかまり。
「朱奈先生は、みんなのお母さん」
いくつもの想いを一まとめにして、彼女の顔に影を落とす。
溶かされていく。透き通るような、温もり。
「フユキ先生は、みんなのお父さん」
夜空に月をはっきりと見るように、彼を待ち受ける。
▽
甘い。
唇に舌にざらざらとするのは、さっき食べたクッキーの粉。
朱奈も同じ感想を持ったのだろうか。
朱く濡れた唇を意味ありげにぺろりと一なめすると、もう一度、切れ長の瞳を閉じた。
少しだけ悪戯心が沸く。
「朱奈、びっくりしないように」
クッキーに付いていた楓の蜜を指ですくう。
す、と蜜色の紅を唇に差す。光にきらきらと反応して、際立つそれに自然と吸い寄せられた。
べたつきもやがて深くなって交換するにつれて気にならなくなっていく。
残るのは最後まで甘さ。
そして例え薄くなったとしてもまた足せばいい…幸い、蜜はいくらでもある。
▼
ひたむきに。
蜜がまとわりついて、むずむずと舐め取ってしまう本能。
これはいつぞや…全力で風邪薬を嫌がる彼に、口移しで飲ませた時の仕返しだったりするのだろうか。
恥ずかしいと思わないではないけれども、彼は一向に照れる気配を見せていない。
少しだけ微笑ましい。
「ん…フユキ、もっと」
入ってきて欲しい。
ふ、と真面目ぶった容貌が柔らかく崩れる。彼の左腕を抱え込むようにして、差し出した。
小骨のようにしつこく残っていたもやもやも、蜜の絡んだ舌で拭われていく。
残るのは最後まで甘えたくなる優しさ。
そして例え不安が再び押し寄せてきてもまたこうして…そう、浅ましくも頼ってしまう。
▽
唇を触れるより離す方が、どちらかといえば照れくさい。
自分がひどく間抜けな顔をしていそうで…
ちょっとした舌の動きにしても、それぐらいのキスをいとも簡単に朱奈はしてくる。
だと言うのに彼女は楽しそうに微笑んでいる。
いつもこうだ。
自分を抑えられなくなる。
「少しだけ、離して? うん、そう…」
疑いようもなく幸せそうな顔をされては、黙っていられない。
可愛いとか、好きとか…それ以前のところで朱奈がいないとダメ、なのだ。
ただ、触れていたい。
「…いいですよ。あ・な・た」
「くっ…朱奈ぁ…」
…溺れても、離したくない。
▼
余裕を見せるフユキより切羽詰ったフユキの方が、どちらかといえば嬉しい。
自分が彼をひどくその気にさせていて…
ちょっとした悪戯でも、実は望んでいたのではないかと思うぐらい簡単に引っかかる。
だと言うのにそんな自分が情けないとでも言うようにひくついている。
いつもこうだ。
抑えることはないというのに。
「強く…ぎゅ、って…」
押し倒されてしまったら、切なくて止まらない。
ごめんなさいも、ありがとうも…全てまとめてフユキに返してあげたいのだ。
ただ、気持ちよくなって欲しい。
「すまない。いや、分かってると思う、けど…」
「はい、フユキ。熱くて、大きく…」
…何度でも、そう、何度でも。
▽
それでも主導権は朱奈の物。
前戯もそこそこに反転してのしかかられる。
「ちょっと待っ」
「今、楽にして差し上げますね…」
口をもぐもぐとさせたかと思うと頭を下げ、いきり立ったものを躊躇なく含む。
そうして二、三度上下させ、始まったときと同じく唐突に解放される。
「ふふ…」
残念に思った顔を消しきれなくて気付かれた。
「駄目ですよ、フユキ。お口は…わたくしが月の障りの時だけ」
「う…」
入れやすくするために濡らすだけなら、何もそうしなくても。
そう思うのは隅の方だけですぐに感覚を横取りされる。
粘膜ごしの熱い潤いを感じて、苦しいくらいに気持ちよく。
「それでもして欲しいのなら、わたくしにも考えがありますよ?」
そう耳にした途端、答えの代わりに温かな彼女へと突き入れた。
そんなに口戯がいいのかと拗ねられて朱色の尻尾を後ろに刺されるよりは、数倍いいはずだ。
▼
やがて主導権も何もなくなる。
煮詰まりすぎて、もうそこにはただ一つしかない。
彼の名を呼んで。
自分の名を呼ばれる。
そのたびに生まれる、苦しいくらいの切なさ。
付けられた名で求められる幸福は…本当に、自分だけのもの。
火照った頬と潤んだ瞳で口を開いたかと思うと、力強く抱きしめられる。
そうして深く唇を吸われて、位置を変え深さを変え何度も求め合う。
「ん…」
「あっ…」
耐えて耐えて、解き放たれる。
ぴしゃぴしゃと迸りが貯まって行く感覚に、愛しくてついお腹をさするのが癖になった。
丁寧に上下させて最後の一滴までと促すうちに、少しだけ遅れて自分もふわりと白い霞がかかった。
▽▼
彼女の寝息が聞こえる。触れる肌に、吐息がこそばゆい。
「朱奈…?」
はかない肩が深く安らかな呼吸を刻む。それならば、
「あ――」
耳元で囁くぐらい、いいだろう。
彼の低く、こちらを憚るようなささやき。
「――る」
間近に吹きかけられて、くすぐったくならないわけがない。それならば、
「…わたくしも、――」
寝たふりを解いて、彼を困らせてみよう。