水底に身体を横たえて、わたしは1つの足音を聞いていた。  
人間にはあって、わたしにはない足という器官が、地面を打つ音。  
その足音が、わたしが唯一知っている人間である彼のものではないことはすぐにわかった。  
彼のものに比べて1つ1つの足音がかなり弱い。  
彼の足音も、ここ数年は以前に比べて随分小さくなっていたけれど、それよりもさらに小さい音だ。  
その理由は、この足音の主が体重の軽い人物だからというのもあるだろうけど、それに加えて一歩一歩慎重に足を踏み出しているからだろう。  
そのことは連続する音の間隔がかなり長い点からもわかった。  
水面を見上げても光は見えない。  
ここは海岸沿いにある洞窟で、しかも今は夜なので、明かりを持ってこなければ足元さえもまともに見えないはずだ。  
大方、何かの気紛れで入り込んだ人間なんだろう。  
別に入口を塞いであったりするわけではないので、たまに彼以外の人間が入ってくることがある。  
そういう時はこうやって水底で息を潜め、勝手に出ていくのを待てばいい。  
ここに住むようになってから何度も繰り返してきたことだ。  
不意に足音が乱れ、続いて少し大きな物音が聞こえた。  
それに付随して聞こえてくるのは小さな悲鳴。  
足を滑らせて転んだというところだろうか。  
彼の声に似てしわがれた、けれど彼のものより高めの声。  
あまり聞いたことがない感じの声だった。  
ここに来る人間のほとんど、特に1人でくるような人間は昔の彼のように若い男性が多い。  
彼の声が年老いてしわがれたことと、人間の声は男性より女性の方が高いことから想像すると、  
この足音の主は年老いた女性ということになるのだろうか。  
珍しい客だった。  
 
布と石が擦れる音の後、再び足音が聞こえ出した。  
今度はさっきまで以上に慎重な足取りになっているのがわかる。  
ただ、それが徐々に近づいてきていることにわたしは不審を覚えた。  
この洞窟に、老婆が明かりも持たずに何の用事なのか。  
転びながらも、なお奥に向かってくるということは、何か確固たる目的があるのではないだろうか。  
そんな思いが、わたしの中にその老婆が誰かということに関して1つの予想を打ち立てた。  
やがて洞窟の1番奥、わたしがいる場所の水辺で足音が止む。  
続く言葉にわたしの予想は確信に変わった。  
「セオさん、いらっしゃいますか?」  
人間の中では彼しか知らないはずのわたしの名前を呼ばれ、わたしは浮上を開始する。  
彼からは、自分以外に顔を見せてはいけないと言われていたし、わたし自身、今この瞬間まではそんなことをするつもりはなかった。  
それでも、その老婆がわたしの予想通りの人で、しかも彼女がここに来てわたしを呼んだのなら、隠れているわけにはいかない。  
水面から頭だけ出すと、水辺には予想通り1人の老婆が立っていた。  
この暗闇では向こうからこちらは視認できないらしく、わたしを探して首を左右に動かしている。  
「ここよ」  
彼に教えてもらった人間の言葉で、自分の場所を知らせる。  
彼女がこちらに顔を向け、けれどおおまかな方向はわかってもはっきりとは見えてないのか視線は定まらない。  
 
「ごめんなさい。明かりをつけていいかしら?」  
「いいけど、持ってるなら、どうして今まで使わなかったの?」  
懐から彼も使っていた懐中電灯というものを取り出しながら問う彼女に、わたしも疑問を返す。  
使っていれば転ぶこともなかったかもしれないのに。  
「驚かせたらいけないと思って」  
そう言って彼女は懐中電灯のスイッチを入れ、それを天井に向けた。  
天井に反射した光に間接的に照らされて、洞窟の中が多少明るくなり、ようやく彼女の視線がわたしのものと正面から交わった。  
懐中電灯をこちらに向けないのは、気を遣っているからだろう。  
確かに直接向けられるのはあまり気分のいいものじゃない。  
ここに来るまで使わなかったことといい、優しい人間のようだ。  
そのことも予想はできていたけど。  
「はじめまして、私は……」  
「由佳、でしょ?」  
「私のこと、知ってらっしゃるの?」  
わたしが彼女の名前を知っていたことに、彼女は驚いているようだ。  
「武志の話に出てきたから」  
「そう、あの人が……」  
彼女はそう言って微笑んだ。  
すごく柔かなそれは、わたしの心にあった彼以外との会話への緊張を解きほぐされるような笑みだった。  
 
「突然来てごめんなさいね。あなたに伝えなくてはならないことがあって……」  
そこで彼女は一旦言葉を止めた。  
わずかな沈黙。  
その言葉の続きがなんなのか、彼女の名前と同様、わたしには想像ができていた。  
たぶん彼女の口からは言いにくいことだろう。  
だから、わたしは自分から言うことにした。  
「武志が、死んだのね?」  
彼女の表情に、サッと陰が落ちる。  
それは言葉よりも雄弁な肯定だった。  
最期に武志がここに来たのは3ヶ月ほど前。  
人間にしては長生きしたけど、それでもそろそろそんな日がくるだろうとは思っていた。  
思ってはいたけど、それでも実際にそうなってしまうと胸の中にぽっかりと穴が開いたような喪失感が広がっていく。  
 
「あなたのことは随分前から知っていたの。あの人から聞いたのは、もう60年くらいは前になるかしら」  
彼女のその言葉は、わたしには意外だった。  
てっきり死が近づいて、自分ではここまで来れなくなった彼が、最期に彼女に伝言を頼んだんだと思っていたからだ。  
60年前というと、確か彼が大学とかいうところに行くとかでこの町を離れた頃。  
「ああ、あの人が悪いんじゃないのよ。私がむりやり聞き出したんだから」  
彼がわたしのことを他人に教えていたことで、わたしが気を悪くしたと思ったのか、彼女が慌てて弁解する。  
それでも、彼女は確かに彼にとって特別な存在だったはずだけど、わたしのことを話すというのはやっぱり意外だった。  
それが表情に出ていたのか、彼女は苦笑いを浮かべながらその時のことを話し始める。  
「あの人がこの町を離れる直前、私は彼に告白したの。  
 幼い頃からずっと一緒にいて、それまでも大切な存在だって思っていたけど、離れ離れになると思ったら幼馴染という関係だけでは不安になったのね。  
 彼が家族とうまくいっていないのは知っていたから、長期休みになっても帰省しないだろうと思ったし、  
 そもそも卒業してもこの町には戻ってこないだろうと思っていたから」  
昔を懐かしむ口調。  
彼も年をとってからは、そんな風に話すことが多くなっていたことを思い出す。  
もう聞く事はできないけど。  
 
「だけど、振られてしまってね。でも普通に振られただけなら、まだ諦めることもできたかもしれないのだけど、  
 断るときのあの人の理由が嘘だってわかってしまったのよね。なんだかんだで長い付き合いだったから。  
 いくらもっともらしく聞こえるものでも、嘘の理由なんかで私は私の気持ちに片を付ける事なんてできないって、本当の理由を問い詰めたの。  
 教えてくれないなら死んでやるとまで言ったわ」  
「人間は、自分で死ぬの?」  
わたしにはよくわからない感覚だった。  
わたしたち人魚は少々のことでは死ねないから、自分で自分を殺すにはどれくらいのことをすればいいのかわからない。  
「そうね、あの時は結構本気で言ってたわ。若気の至りといっても言い訳にしかならないけれど。  
 でもね、さすがにその気迫があの人にも伝わったのか、ようやく教えてくれたのよ」  
「でも、そんな話、信じることができたの?」  
人間は基本的に人魚の存在自体を知らないはず。  
彼もおとぎ話の中だけの存在だと思ってたって、昔言っていた。  
「確かに、にわかには信じ難い話だったわ。なにせ、人魚に恋をしているから君とは付き合えない、ですものね。  
 でも、逆に荒唐無稽過ぎて信じることができたという感じかしら。  
 あの状態で、あの人がそんな突拍子もない嘘を言うはずがないもの」  
彼女の、彼に対する想いが伝わってくる穏やかな声音だった。  
 
「ところで、こちらまで来てくださる? あの人から預かっているものがあるの」  
「それなら、あそこで話しましょう」  
水辺の中、わたしが指差した場所には、人間が座るのにちょうどいい大きさの石がある。  
水の中にはわたしが座るための石もある。  
彼とはいつもそこで話していた。  
そこまで移動して上半身まで水から出ると、同じく移動してきた彼女の視線がわたしの胸に向けられた。  
「あら、それは……」  
わたしの胸には人魚の国にいた頃には着けていなかった、水着というものが存在している。  
彼がくれたものだ。  
人間は身体を隠す習慣があるらしく、彼から見ると裸のわたし――特に人間の女性と同じだという上半身――は目のやり場に困るらしい。  
そんなことを説明しながら真っ赤になって、これを渡してくれたのだ。  
実際にはあれから何回か取り替えたから、あの時の物ではないけど。  
それを説明すると、  
「ええ、知っているわ。なにせ、それは私が買ってきたものですもの」  
「あなたが?」  
「あれはあの人が大学に行って、最初の夏だったわね。帰省した彼が言ったのよ、水着を買ってきてくれないかって。  
 最初はよくわからなくて、どうして自分で買いにいかないのって聞いたら、  
 自分のものではなくて、あなたに渡すための女性ものの水着だって言うの」  
「それで、買ってきたんだ?」  
「いいえ、どうして私が恋敵へのプレゼントを買ってこないといけないのよって引っぱたいてやったわ」  
その時の感触を思い出したのか、彼女は手の平に視線を落とす。  
「でも、これはあなたが買ってきたものだって、さっき」  
「ええ、少し時間がたって落ちついて考えてみれば、彼がそれを頼めるのは私しかいないというのはわかったから結局ね。  
 彼自身が買いに行くのは恥ずかしいだろうし、あなたの存在を知らない他の人に女性ものの水着を買ってきてくれなんて頼めるはずないものね。  
 内容はともかくあの人に頼られてるというのは悪い気分ではなかったし、それで借りを作れればという考えもあったわ。  
 それに、彼が他の女性の裸を見ているというのは、あまり嬉しくなかったから」  
打算的な女でしょうと、彼女は続けた。  
 
「はい、これ」  
彼女が差し出した拳の下に手の平を差し出すと、そこに小さな固いものが落ちてきた。  
それは1つの指輪。  
差し出したわたしの手の指にはまっているものと、全く同じデザインの指輪。  
「他の人の手前、指にこそはめていなかったけれど、いつも肌身離さず持っていたわ。  
 これはあなたに渡す方がいいだろうと思って、今日は突然お邪魔したの。  
 彼が亡くなったことも伝えないとと思ったしね」  
「……ありがとう」  
それはわざわざ届けてくれた彼女と、ずっと大切に持っていてくれた彼への感謝の言葉だった。  
開いていた手を閉じる。  
手の中で2つの指輪が触れ合って小さな音を立てた。  
「何かお礼したいけど、わたしはあなたにあげられるものは何も……」  
わたしが持っている中で彼に関係するものは、水着と指輪くらい。  
水着なんてもらっても嬉しくないだろうし、指輪はさすがにあげることはできない。  
「それなら、話を聞かせてくれないかしら? 彼とあなたの話を」  
「そんなことでいいの?」  
わたしがこの指輪を届けてもらったことで感じた嬉しさと、彼との思い出を話すことが釣り合うとは思えなかった。  
むしろ彼女にしたら、彼とわたしとの思い出なんて聞きたくないんじゃないだろうか。  
「私には見せてくれなかったあの人の姿を聞けるなら、そんなこと、ではないわ。  
 実は、今日はそれを期待してきた部分もあるしね」  
なにせ打算的な女だからと、彼女は悪戯っぽく笑った。  
彼の子どもの頃を思い出させる彼女のその笑みを見ながら、わたしは彼とのことを思い出していく。  
それは難しいことじゃない。  
彼と会えない時間、何度も繰り返した行為だったから。  
 
 
初めて武志を見かけたのは、彼がまだ7歳の時。  
当時はまだ人魚の国で暮らしていたわたしは、満月の晩だけ外に出て色々なところに行って好奇心を満たしていた。  
そんな中で偶然この近くの砂浜を訪れ、彼を見かけたのだ。  
 
海面から頭だけを覗かせると、夜の砂浜に1人で立っている子どもがいた。  
その視線は真っ直ぐこちらに向けられていて、わたしは子どもとはいえ人間に見つかってしまったと思い、慌てて海に潜って岩陰に滑り込んだ。  
人間は野蛮で残酷な生き物だって聞かされていたから。  
何とか逃げ出せたものの捕らえられて酷い仕打ちを受けたことがある人魚の話を聞いて、その日は眠る事もできないくらい怯えた事もある。  
けれど、しばらくその岩陰に隠れていたけど、海面の方に別の人間が集まってきている様子はなかった。  
不審に思ってもう1度、今度は別の場所から頭を覗かせると、砂浜の子どもはさっきわたしがいた方向をまだずっと見ていて、今わたしがいる方なんて見ていない。  
そこで、どうやらあの子どもはわたしを見付けたわけじゃなかったということがわかって安心した。  
もしそうなら、わたしを見失ってキョロキョロしているのが普通のはずだから。  
その日は、それだけだった。  
変な子どもだとは思ったけど、それだけだった。  
 
次の満月の晩、またわたしは砂浜までやってきて、そこでまた、あの子どもを見付けた。  
今度は彼がそこから立ち去るまで見ていようと思ったけど、いつまで経っても彼はそこから動こうとしない。  
結局空が白み始めたところで、わたしは諦めて国に帰った。  
明るくなってしまえば、他の人間に見つかってしまう危険が高くなるから、それ以上はそこにいられなかったからだ。  
 
その次の満月の晩も同じことを繰り返した。  
その次も、その次も。  
自分でもどうしてそこまで彼のことが気にかかるのかわからないまま、それでも満月の度にこの砂浜を訪れることが1年近く続いた。  
今にして思えば、わたしは彼の瞳に興味を持っていたんだと思える。  
顔のパーツは人間と人魚で違いはそんなにないから、表情は読み取ることができた。  
寂しげで、けれどそれを無理矢理押し隠そうと目尻に力を込めたもの。  
彼は毎回ではないけど、かなりの確率で砂浜に来ていた。  
その内に、彼は満月の晩以外も来ているのだろうかという疑問が湧いてきた。  
だけど、わたしが国から出ていいのは、満月の晩だけと決められている。  
外には危険がいっぱいで、本来ならそれすらもあまり周囲からいい顔をされていないのだ。  
少し悩んで、結局わたしは今から考えれば満月以外の晩に国を出るより、はるかに無茶な行動に出た。  
彼の寂しげな瞳が、話に聞いていた野蛮で残酷だという人間像とはどうしても重ならなかったが故の行動。  
「……キミ」  
砂浜に近づき、慣れない人間の言葉で、その子どもに語りかける。  
いつかこんな日が来るかもしれないと、自分でも思っていたのかもしれない。  
もちろん人間と話すのなんて初めてだったけど、周囲には内緒で、わたしは人間の言葉を勉強し始めていたのだ。  
他の人魚は見向きもしないけど、人魚の国にも一応人間の言葉についての資料は存在している。  
まだそこから幾つかの言葉を覚えただけだけど、それでも何かがわかるかもしれないと思った。  
 
「――!?」  
突然声をかけられた彼が驚いて周囲を窺っている。  
夜だから、人間にはこちらが見えないんだろう。  
だからわたしは声でこちらの場所を報せる。  
「ココ」  
「――――!?」  
ようやくわたしを見付けた彼が何かを言ったけど、早口だったせいでうまく聞き取れなかった。  
「ユックリ、ハナス。  
 ワタシ、ニンゲン、コトバ、ワカラナイ」  
「人間の言葉って……」  
『人間』と『言葉』という知っている単語だったので、今度は何とか聞き取れたわたしは、自分の正体を明かすために、水面から跳ね上がった。  
空中にいたのは一瞬だけど、今日は満月の晩だから、予めわたしの方を見ていれば下半身が見えたはずだ。  
「ワタシ、ニンギョ」  
「人魚……?」  
「ホカノニンゲン、オシエル、ダメ」  
「え、あ、うん」  
人間は普通人魚の存在を知らないらしいから、さすがに驚いているのか彼は素直に首を縦に振る。  
この仕草が人間の中では肯定を意味するものだということも資料にあった。  
「えーと、あ、あっち、あっちに、行こう」  
彼がある方向を指差しながら、あっちという言葉を繰り返す。  
彼の示した方向にある岩壁には、それなりの大きさの洞窟が口を開けていた。  
そこには海水も入り込んでいるらしく、そこでなら確かに他の人間には見つかりにくそうだ。  
もちろんそこに閉じ込めるつもりかもとは思ったけど、たぶん彼はそんな事しないだろうし、他の人間が潜んでいても人魚の鋭敏な感覚なら見抜けると思った。  
だから、わたしはその洞窟に向かって泳ぎ出し、それを見た彼もそこへ移動し始める。  
 
洞窟の奥でわたしと彼は向かい合っていた。  
「キミ、イツモ、クル」  
「……え?」  
「ワタシ、マンゲツ、ヨル、ココ、クル。  
 キミ、イツモ、イル」  
「見てたんだ……」  
「マンゲツ、チガウ、ヨル、イル?」  
わたしのたどたどしい質問に、彼は首を縦に振った。  
肯定だ。  
「ナゼ? キミ、コドモ。  
 コドモ、ヨル、イエ、イル」  
まだ自分の身が守れない内は、危険の多い夜はあまり出歩くべきではないというのは、人魚も人間も同じだと思った。  
「僕は家に――――」  
最初の僕や家はわかったけど、続きがわからない。  
それを察したのか、彼はもう1度、わかりやすいようにゆっくりと言い直してくれる。  
「僕が、家に、いるの、親が、ゆるさないんだ。わかる?」  
今度は言葉はわかったけど、その理由がわからなかった。  
「オヤ、ユルサナイ、ナゼ?  
 オヤ、コドモ、スキ」  
人間にはわたし達と違って、父親と母親という2人の親がいるらしいというのは知っていた。  
人魚はそれで言うと母親だけで――ある意味では、全ての人魚にとって女王様が人間でいう父親に当たるのかもしれないけど――、  
それでも、その辺が違っていても親にとって子どもが大切なのは変わらないはずなのに。  
「僕の、親、本当の、親じゃないから」  
寂しげに夜の海を見つめていた瞳。  
その瞳に宿る寂しさをさらに深くしながら、彼はそう言った。  
 
それからは毎回満月の夜になると、この洞窟で彼と朝まで話すようになった。  
お互いの名前も教え合い、1年もするとだいぶ彼の言葉もわかるようになってくる。  
 
今日も洞窟の底で彼が来るのを待つ。  
そうしていると、やがて彼の足音が近づいてくるのが聞こえた。  
「武志」  
「セオ、僕が呼ぶまで出てきちゃいけないって何度も……」  
「足音で武志だってわかる。  
 他の人間とは間違えない」  
そんないつものやりとりを終えて、水辺にお互いが腰掛けるのにちょうどいい石がある場所に行く。  
ただ、ああは言ったものの、今日の彼の足音は少しだけ違っていた。  
その変化は初めてと言うわけじゃないから、その原因はわかっているけど。  
「また、されたの?」  
「え? ああ、セオには隠し事できないなぁ。  
 でも大丈夫だよ、兄さん達は本気では殴ったりしないから」  
彼は今、元々自分の家族じゃなかった人達と暮らしているらしい。  
頻繁に夜の砂浜に来ていたのも、理不尽なことで怒られてその罰として家を追い出されていたせいだ。  
暴力も振るわれるらしく、今日の彼の足音は痛む部分を庇いながら歩くせいでわずかに乱れていた。  
「こんなこと本人達に言ったらまた殴られるけど、家の仕事の手伝いは兄さん達より僕の方が全然手際いいから、僕が動けなくなったりはしないように上手く手加減してくれるんだよ」  
彼は笑いながら言うけれど、それはひどくおかしいことだと思う。  
人魚は種全体の中で見ても争いごとなんて滅多にしないのに、人間は家族の中ですら暴力を振るうのだ。  
彼の場合、本当の家族ではないらしいけど、それでも一緒に暮らしているならやっぱり家族だとわたしには思えた。  
それを聞くと、人間は野蛮で残酷だと聞かされていた話が、やっぱり本当なんだと思えてきて少し悲しい。  
人間が全部、そんなんじゃないということも、今では知っているけど。  
そして、その日もいつものように朝までお喋りして、いつものようにわたし達は別れた。  
 
けれど、次の満月の晩、わたし達はいつものように会うことができなかった。  
わたしがあの洞窟に行けなかったから。  
人間に会っていることが周囲にばれてしまって、わたしは国から出ることを禁じられた。  
 

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