世界なんて終わればいいと思っていた。
理由は、強いて言えば退屈だったから、だろうか。
物心付いて以来、この世界の全てから疎外感を感じていた。
自分が本来いてはならない存在のような、そんな確信にも似た何かがいつも心の中にはあって
だからこんな世界なんて終わればいいと思っていた。
ただ漠然と。
そうしたら、本当に終わった。
正確には現在進行形で終わりつつあるだけど、それももう99%終わっているような状態だ。
その証拠とでも言うべき道を歩く。
まだ朝早い時間。
だからといって、車が1台も通らないなんて、以前ならありえないことだった。
犬の散歩をするおばさんの代わりにたまに出くわすのは、テレビの中から出てきたかのような怪物たち。
鳥のさえずりに混じって、どこかから女性の喘ぎ声が聞こえてくる。
「あん、あん、あん」
思いつきで真似してみたけど、私に女優の才能はないことがわかるだけだった。
昨日はちゃんと出せたのに、やはり実際にその場になってみないと駄目らしい。
世界がこんな風になったのは、昨日の夜8時を過ぎた頃だった。
その時間、私と両親は1つの食卓を囲んでいた。
そんな時間に両親が揃っているなんて、珍しいどころの話ではなく、初めてと言っても良かったかもしれない。
両親はそれぞれ仕事が忙しく、家に帰ってくることすらが稀だったのだから。
部屋には沈黙が満ちていた。
せめて妹がいればまだ何かが変わったんだろう。
私と違って、世界の全てに愛され、世界の全てを愛しているような彼女がいれば、もう少し空気が軽くなっていたかもしれない。
彼女自身が積極的に喋るだろうし、両親も彼女のことは気にかけていた。
実際にはマネージャーを務める陸上部の合宿に行っていて妹は家におらず、私達3人はただ黙々と出前の寿司を消費するだけの時間を過ごしていた。
そんな時、いきなり父が怪物へと変貌した。
巨大なナメクジという随分とわかりやすい化け物になった父は、すぐさま母に襲いかかった。
沈黙が支配していた食卓に、母の悲鳴と拒絶の声が加わった。
それを聞きながら寿司を摘んでいると、次第に母の声が喘ぎ声に変わっていった。
正直母がそんな声を出すとは意外だった。
それこそ仕事だけが生き甲斐の、文字通り鉄のような女だと思っていたから。
母の下品な声はお世辞にも食欲を増すものではなかったけど、それでも寿司はおいしかった。
合宿中に3人で寿司を食べたなんて妹に言ったら、悔しがるだろうか。
まああの子の場合、父と母が揃っていたという方に食いつくだろうと思った。
両親が途中で食事どころではなくなったせいで、私がお腹いっぱいまで食べても随分残ってしまった。
ふと静かになっていたことに気付いて母の方に目をやると、いつのまにか彼女は気を失っていた。
そして今度は私が、下品な声を上げることになる。
母以上に、私にそんな声が出せるとは驚きだった。
なるほど破瓜の痛みはなかなか経験したことがないくらいの激痛だったけど、すぐにそんなものを圧倒する快感が来た。
体の中で父のペニス――間違いなくあれはペニスだった――が動き回り、1番奥に精を放つ。
母に散々注ぎ込んでおきながら、それでもその量は膨大だった。
頭の中が真っ白になるイクという感覚も何度も経験した。
そして私も気を失った。
なのに気が付けば、いつもの朝のように布団の中にいた。
いつもの朝のようにパジャマ姿で。
あれが夢ではなかったことは、リビングの床に残る粘液が証明していた。
両親もいない。
なぜ私だけが家にいて、パジャマを着てのんきに眠っていたのか。
巨大ナメクジと化した父が着替えさせたのか。
馬鹿馬鹿しい。
醜悪なナメクジが、気を失っている私を甲斐甲斐しく着替えさせてベッドまで運ぶ姿を想像する。
しかもそのナメクジの正体は父だというのだ。
犯されている最中ですら感じなかった悪寒が走った。
テレビをつけても、いつもならやっているニュース番組はやっていなかった。
どうやらあの出来事は、私の家でのみ起こったことではないらしい。
着替えて――なぜか着ていたパジャマとは別に、もう1着同じパジャマがあったけど――から外に出ると
家の傍で大きな犬のような怪物が近所の女性を犯していた。
その横を通り過ぎ、学校へと足を向けた。
もし男が怪物になったのなら、女しかいないだろう合宿所にいる妹は無事かもしれない。
そう思ったからだ。
もちろん別の所から来た怪物に襲われている可能性は高いだろうが、そんなものは行ってみないとわからない。
と思ったが、よく考えれば家から妹の携帯に電話すれば良かったことに気が付いた。
こんな世界になって通じるかどうかはわからないけど、電気はまだ生きているしまだ通じる可能性の方が高いだろう。
私は携帯を持っていないし、番号は家に戻らないとわからないから公衆電話からかけることはできない。
結局、もうここまで来たのなら直接行った方がいいだろうと結論を出した。
そんな感じで、私は今こうして夏休みに入ったのにもかかわらず、朝から学校への道を歩いている。
「舞草さん!」
突然名前を呼ばれて振り返ると、見覚えのある女性がこちらに走ってくるところだった。
英語教師の高橋先生だ。
「良かった、あなたは無事だったのね」
「ええ、まあ」
父に犯されましたけど、と続けたら、この人はどんな顔をするだろう。
高橋先生は、一言で言えば良い先生だった。
良い先生というより、良い人と言った方がいいだろうか。
1番ありそうなのは、我が事のように涙を流しながら同情してくれるあたり。
案外、潔癖症な所があるから、汚いものを見るような目を向けられるかもしれない。
たとえそう思っても、そう思った自分に自己嫌悪を覚えて隠そうとはするだろうけど。
「先生もご無事だったんですね」
嗜虐的と言ってもいい思考を抑えて、当り障りのない言葉を口にする。
まあ私みたいな例もあるから、今ここにいるからと言って無事とは限らないのだけど。
「なんとかね。あ、もちろん春香ちゃんも無事だから安心してね」
「……妹のこと、ご存知なんですか?」
学校が同じなのだから、妹の英語も高橋先生が担当していても別におかしくない。
それくらいの偶然は普通に起きるだろうし、舞草という名字はそうありふれた物ではないから姉妹だと思うのもわかる。
ただ、妹の現状を知っているのはどういうことだろう。
そういった意味での質問だった。
それに対する先生の反応は、少し困ったように眉を寄せるというもの。
「えーと、知らなかったかしら。私、陸上部の顧問もやっているんだけど」
「ああ、そうでしたか」
普通に知らなかった。
興味がなかったと言ってもいい。
高橋先生のことを知っていたのも、あくまで教科を担当してもらっていたからで、どの部活の顧問をやっているかまでは覚えているはずがない。
妹の話には出てきたかもしれないが、必要のない情報として聞き流していたんだろう。
「舞草さん、ご両親は……?」
「両親とも仕事で家にはいませんでしたので。それで女性しかいないだろう合宿所ならと思って出てきたんですが」
適当に嘘を織り交ぜながら説明する。
「そう、ご無事だといいわね。でもとにかくあなただけでも無事が確認できて春香ちゃんもきっと喜ぶわ」
「先生はなぜここに?」
「食べるものと、あとはあなたみたいに無事な人を探してね。そうしたらあなたの姿が見えたから」
右手に持った空の袋。
「それは、全員でやっているんですか?」
「え、あ、ううん、私だけよ。大人は私しかいないから、私が頑張らないと。だから春香ちゃんは今も合宿所にいるから安心してね」
私の質問を妹を心配するものだと取ったらしく、自分を鼓舞するような言葉ととも先生は微笑んだ。
正直、あまり賢明な行動ではないと思った。
食料は必要だし、残った人間を集めるというのもわかる。
まあ一網打尽という言葉もあるが、個人では限界もあるし。
とはいえ、現状で大人が高橋先生しかいないならばこそ、先生にもしものことがあれば残された側のショックは大きくなる。
それでも、責任感の強い先生には後ろで構えていることはできなかったんだろう。
ホラー映画だと真っ先に犠牲になる感じだし、実際外まで出てきている今はその一歩手前というところだけど。
「どうする、私も付いていってあげようか?」
「いえ、どうせもう、すぐそこですから」
私は1人でも危険はない。
理由はよくわからないけど、怪物は私に興味がないらしいというのはここに来るまでにわかっていた。
「そう? じゃあ、気をつけてね。私もある程度回ったら戻るから」
「ええ、先生もお気をつけて」
そう言ってわかれた。
なんとなく、もう会えないような気がした。
「お姉ちゃん!」
校門のところで見張りをしていた女性――胸に水瀬と刺繍があった――に連れられて合宿所に行くと、案の定妹に抱き付かれた。
「良かった! 家に電話しても誰も出ないから、もう……」
そこから先は嗚咽に紛れて聞き取れなくなる。
「良かったね、春香ちゃん。じゃあ、あたしはまだ見張りがあるから」
「あ、ありがとうございました」
案内してくれた水瀬さんという人が去っていこうとする背中に、妹が涙と鼻水で顔をグシャグシャにしたままお礼を言う。
「いや、あたしは校門から案内しただけだし」
妹の放つ真っ直ぐな謝意に、照れ臭そうにそう言って彼女は戻っていった。
私から言わせてもらえば、ここは私の通う学校でもあるから、案内すらいらなかったのだけど。
いくらもう1人いるとはいえ、見張りがそう簡単に持ち場を離れるのもどうかと思う。
まあ私にはどうでもいいことだから黙っておいた。
それでこの場所が怪物達に襲撃されても、別に問題はない。
「ねえ、お母さんたちは?」
「帰ってこなかったから」
いつものことだけど、と続けると、妹はあからさまに沈んだ顔をする。
嘘をついたのは、別にショックを与えたくなかったとか、そういう理由じゃない。
なんとなく、ただなんとなく、今はまだその時ではないような気がしただけ。
「ところで、なんでそんな格好なの?」
無理していることがはっきりとわかる笑みを浮かべながら妹が問う。
そんなにおかしい格好だろうか。
「そんなって、あなたも同じだけど?」
胸に名前の刺繍が入ったTシャツと、ジャージのズボン。
当然姉妹だから刺繍の文字すら同じ。
学年を示す、刺繍に使われている糸やズボンのラインの色こそ違えど、デザイン自体は妹が着ているものと同じものだ。
「わたしは部活の合宿中だったから。でもお姉ちゃんは家から来たんでしょ?」
「私服で来たら浮くでしょう? それに楽だしね」
別に目立ちたいわけではないのだ。
「もう、あいかわらず着る物に気を遣ってるのか遣ってないのかわかんないなぁ」
おどけて見せる妹の顔に、さっきも感じた嗜虐心が込み上げてくる。
父が母と私を犯したと言ったら、この顔はどんな風に歪むんだろう。
それは先生の時に感じたそれの何倍も強い誘惑だった。
正直、先生なんてどうでもよかった。
私にとって妹は世界の全てだった。
先生も友達も、両親すらも見限った――もちろん歩み寄ろうとした彼らを拒絶したのは私だったけど――私に、唯一干渉を続ける存在。
仮に今の私が幽霊などと呼ばれる存在だとしたら、未練というものは妹以外に存在しない。
しばらくして、私以外にも新たな人間が加わった。
制服姿の彼女は、その姿でなければ姉を頼ってきた小学生と言われても絶対疑えないような小柄な娘だった。
締まりのない顔で自己紹介する彼女が、妙に私の心に引っかかる。
どうやら私を案内してくれた水瀬さんの知り合いだったらしく、妹はさっきのお返しとばかりに良かったですねと声をかけていた。
「どうしたの、怖い顔して」
戻ってきた妹に尋ねられた。
別に怖い顔をしていたつもりはなかったけど、多少目つきが厳しくなっていたかもしれない。
「彼女、本当に高校生なの?」
スカーフの色を見る限り、妹と同じ一年生のはずだ。
最初体格を見た時は小学生ではないかと思ったが、
終始浮かべているヘラヘラとした笑みといい、間の抜けた喋り方といい、だんだん幼稚園児にすら見えてきた。
「うん、一年の中じゃ結構有名だよ。すごくちっちゃいし……」
「……すごく馬鹿だから?」
妹が濁した言葉の続きを、私が引き継いであげた。
それを聞いた妹は慌てた顔で周囲を窺っていたけど、
心配しなくても声量くらい抑えている。
あれが人間離れした聴力を持っているなら別だけど、そうでなければ聞こえるはずがない程度には。
「もう、ダメだよ、そんなこと言ったら」
少しだけ眉を立てて――本人は精一杯怖い顔をしているつもりなんだろう――、妹は言う。
「でも、珍しいね。お姉ちゃんが他の人のこと気にするなんて」
続く言葉に、私はなんとも言えない違和感を覚えていた。
それから部長だという女性の言葉で、私はさっきの予感が当たったことを知った。
予感というか、現状から当然計算される予想みたいなものだったけど、高橋先生は怪物に捕まったらしい。
たぶんその情報は、美樹とか言う彼女によってもたらされた物だろうから、大方彼女を助けようとして身を呈したというところだろう。
その彼女がこうして合宿所までたどり着いているのだから、まあ先生も本望なのではないだろうか。
生徒を守って犠牲になる、あの先生なら好きそうなシチュエーションだ。
あの先生と、彼女、どちらがここにいる人間にとって有益なのかなんて考えてもいないんだろう。
ああ、でも、あの先生の場合全員を助けようとして、結局全滅させるタイプかもしれない。
そう考えると早々に退場してくれたのは悪くないのかも。
そんなことを考えたのは、思っていたより部員達の動揺が小さいように見えたからだった。
「皆、結構落ち着いているのね。もっと取り乱す人が出るかと思ったけど」
こちらは見るからに落ち込んでいる妹に聞くと、
「うん、まだ部長がいるからじゃないかな。みんな、部長のことを信頼してるから」
沈んだ、けれど部長に対する信頼を感じさせる声で妹は答えた。
その日の夜、割り当てられた部屋で、私はまんじりともしないまま天井の見つめていた。
原則として部屋割りは学年ごとということになったのだけど、私は特別に妹と一緒の1年の部屋に入れられた。
そのことに文句はない。
学年通り2年の部屋に入れられても、別に文句はなかったけど。
どうでもいいことだ。
布団の中で今日のことを考える。
体の変化は眠れないことだけではなかった。
まず食事が全くおいしく感じられなくなった。
そりゃあ昨日の寿司と、保存食みたいな今日の食事を比べる方がどうかしているけど、
そんなレベルではなく、まるで粘土をむりやり口に押し込んでいるような感じだった。
排泄もなかった。
夏なのに汗もかかない。
生命活動が停止しているような、そんな状態。
幽霊というのもあながち間違っていないかもしれない。
胸に手を当てれば心音は聞こえるけど、それはもう義務感と惰性で動いているだけのような、そんな気がした。
部屋は静かだった。
少し前まではあの子と水瀬さんが馬鹿みたいなやりとりをしているのが聞こえてきたけど、今はそれすらも聞こえない。
ただ、ほとんどがくだらない彼女達の会話の中に、1つだけ気になる言葉があった。
『珍しいね、美樹が寝付けないなんて』
思い返せば、彼女もほとんど食事を摂っていなかった気がする。
それを思い出して、私は今日、何かにつけて彼女を気にしていたことを自覚した。
それを妹は珍しいと言った。
自分でもそう思う。
けれど考えてみれば、彼女の家がどこにあるかなんて知るはずもないけど、そこから彼女が1人でここまで来れたということ自体おかしい気がする。
途中で1度先生に助けられたとしても、その前やその後に、1度も怪物に会わなかったなんてことがあるだろうか。
だけど、私と同じように怪物に襲われなくなっているなら何も問題はない。
そんなのを救おうとして犠牲になった先生は無駄死に――死んでいるかはわからないけど――ということになるが、それは私にはどうでもいいことだ。
そんなことを考えながら夜を明かした。
けれど、それは次の日の夜には意味のないものになっていた。
彼女達は食料を探しに行って、そして2人とも戻らなかったからだ。
朝食の後、部長と水瀬さんがこれもまた馬鹿みたいな言い争い――どちらかというと水瀬さんが一方的に食ってかかっていた感じだったけど――をして、
2人だけで出ていった結果がこれだった。
まあ数がいればどうなるという問題でもないだろうけど。
もしかすると、自分達の意思でここを離れたのかもしれない。
けれど、それを私が知る術はない。
わかっているのは、彼女達がもうここにはいないということ。
これ以上、あの子のこと考えても意味がないということだ。
その日の夜はそんな事を考えながら、また眠れないまま朝を迎えた。
「部長さん、少しいいですか?」
部長さんが1人になったのを見計って声をかけた。
事務的なものを除いて、自分から妹以外の誰かに声をかけたのなんて、いつ以来だろう。
この世界になってから、本当に珍しいことが続くと思う。
「何かしら?」
「少しお話がしたいと思いまして。できれば人のあまりいない所で」
私の言葉に、ただでさえ鋭い彼女の視線がさらに鋭さを増した。
触れればそれだけ切れそうなその視線は、陸上ではなく剣術でもやったらどうかと勧めたくなるほど。
まあ言われなくてもやっているかもしれないけど。
背の高さと整った顔立ちもあって、やたらと威圧感のある女性だった。
妹が言うには、私に少し似ているらしい。
どこがと聞いたら、少し怖いけど頼りになるところなんて答えが返ってきた。
「何か意見があるならここで聞くけど?」
「意見というか、少し聞きたいことがあるだけです」
他に人がいるここでは、彼女は本当のことを言ってくれない気がした。
2人きりになったところでこの人が本音を明かしてくれる保証なんてないけど、ただなんとなく、私になら教えてくれそうな気もした。
この世界では、私のなんとなくの的中率は悪くない。
「別に構わないけど、あまり長くは取れないわよ?」
「はい、ありがとうございます」
心からの感謝を込めて礼を言ったのも、随分久しぶりな気がした。
「で、何なのかしら、聞きたいことというのは」
「ここに来た時から思っていたんですが、よくここにいる人達はあの日生き残れましたね」
男性の怪物化は世界中のものかはわからないけど、テレビが映らなくなっていた以上かなりの範囲で同時に起こったらしい。
「ここには女性しかいないから、あの直後はともかくとして、その後、夜の間に何匹かくらいは来たでしょうに」
備えもしていないところを襲われれば、どうしようもないはずだ。
だからここに来るまで、妹をはじめ陸上部の人達が無事な確率なんて1割もないと思っていた。
「運が良かっただけよ。ちょうど食堂のテレビが生放送の番組をやっててね。しかも遠くからだけど幾つも悲鳴が聞こえてくるし、
半信半疑だったけど念の為守りを固めることにしたのよ。怪物も打ち付けた窓までは破ってこないのは幸いだったわ。妹さんから聞いてないの?」
随分とお姉ちゃん子みたいだけどと、部長さんは続けた。
挑発めいたその言葉はそのまま聞き流す。
「なるほど、その指示は高橋先生が? それとも部長さんが?」
「それに答える前に、その部長さんという呼び方は止めてくれないかしら。馬鹿にされている気がするの」
「なら何と呼べば?」
「普通に先輩でいいんじゃないかしら。あなたは2年生でしょ?」
それだと他の3年生と混同しませんかと聞くと、あなたが私以外の人を呼ぶ必要があるとは思えないけどと返された。
それはなるほどその通りで、さすが部を率いる人になると人をよく見ている。
「ちなみにさっきの質問の答えは私よ。先生は、こういう突発的な事態にあまり慣れていない人だったから」
まるで自分は慣れているような言い方だった。
「やっぱりそうですか。先輩は、随分と部員から信頼されているみたいですね。妹も頼りになるって言ってました」
「まあ前の代から受け継いで1年近く部長やってるからね」
「先生が怪物に捕まったと聞いた時も部員の中にそれほど動揺がなかったですし、本当にすごいと思います」
「勘違いしないでほしいのだけど、先生は皆に慕われていたのよ」
そりゃあ、あの先生なら生徒から人気が出るのもわからないではない。
だけどそれは平和な時ならだ。
こんな状況では、先輩のように絶対的な権力を持った人間に命令されたことだけしていた方が楽だろう。
「男性の怪物化のあった次の日、先生が1人で出ていったのは……」
「皆で止めたのだけど、責任感の強い人だったから、あなた達はここにいなさいって言って、半ば強引にね」
先輩は悼むように目を伏せた。
「先生が捕まったと聞いて、先輩はどう思いましたか?」
「それは、どういうことかしら?」
伏せられていた瞳がまた私を射抜き、その声音が険悪な雰囲気を帯びる。
「どういうことも何も、そのままの意味ですよ。嬉しかったとか、悲しかったとか。
驚いたということはないでしょう? 無事に戻ってくる方が珍しそうな状況ですし」
こちらを値踏みするような視線。
そして、
「正直言えば、ありがたかったわね。船頭多くしてとも言うし、私と先生のやり方は違うとわかってたから」
さっぱりとした感じでそう言った。
さっきの悼むような雰囲気はもうはや欠片も感じさせない。
「先生の場合、とにかく全員救うことだけを考えるでしょうね。先輩は……救える範囲で、という感じですか。
先生や、あとはあの水瀬さんや美樹という子みたいな多少の犠牲はやむなしと」
「水瀬さんは、彼女のことになる感情的になりすぎたから。それが原因で部内が分裂――数的には孤立かしら――したらあまり良くないと思ってね」
なにせ彼女は部外者だったからと、同じく部外者の私に向けて言う。
「まあ先生にしろあの2人にしろ、戻ってきたらそれはそれで良かったのだけど。
それで、結局何が言いたいの? その犠牲の方に妹さんを入れたら許さないとか?
妹さんも大概だけど、あなたも随分妹想いみたいだから」
むしろあなたの方が重症かしらと、先輩は薄く笑った。
「もしそうだとしたら、どうします?」
「別にどうもしないわ。それが必要だと思ったら、それが誰でもそうするだけ」
なんだか自分が邪魔だと思ったら、あっさり自分も消しそうな雰囲気だった。
というか、するだろう。
もはやなんとなくというレベルですらない確信。
面白い人だ。
あの子といい、この人といい、本当にここには面白い人が集まるものだと思う。
「まあでも、可能性が高い順に並べれば妹さんは高い方かもね。
先生と同じですごくいい子だし、しかも今は部外者のあなたが横にいるし」
消された2人に共通点が多すぎる。
「もしそんな事をするなら、今聞いたことを皆にバラすとか言ったらどうします?」
「ご自由にどうぞ。部員があなたの話を信じるかどうかはわからないけれど。それに妙な不安を煽ったりすれば、それこそ妹さんの優先順位が上がるわよ」
「最近は携帯電話でも結構な時間録音できたりしますけど」
私の言葉に、先輩の眉がピクリと上がった。
「それなら仕方ないわね……」
先輩がわずかに腰を落とす。
まるで今にも飛びかかろうとする野生動物のように。
ハーフパンツから伸びる足には、思わず見とれそうなほどのきれいな筋肉。
そして、部屋を満たすのは重苦しい沈黙。
それを破ったのは私の方だった。
「冗談です。私は携帯って持っていませんから」
応じるように部長の体からも力が抜けていくのが見て取れた。
「私も冗談よ。あなたが携帯持っていない事は知っていたから。妹さん言ってたわよ。お姉ちゃんったら今時携帯持ってないんですよーって」
茶目っ気まであるなんて、本当に面白い人。
「もういいかしら?」
「あ、では最後に1つだけ」
小さく深呼吸して、さっきの緊張を抜く。
「先生に従って1度で全滅するのと、部長に従って徐々に減っていってやがて全滅するの、どちらが部員にとっては幸せだと思います?」
「どちらも不幸よ、結局全滅するのならね」
それだけ言って先輩は部屋を出ていってしまう。
入れ違いに部屋に入ってきたのは妹だった。
先輩が歩いていった廊下の方を見て、何を話してたのと聞いてくる。
タイミング的には盗み聞きを疑いたくなるところだけど、聞いていたら態度に出すし、それ以前に飛び出してくるだろう。
あの人、私が人のいない所でって言ったから他人が入ってこれないような細工をしたんじゃないだろうか。
それくらい、やってのけそうな気がした。
私は妹と2人で夜の見張りをしていた。
2階建ての合宿所の2階、1つだけ内側から打ち付けられていない窓が夜の見張り用だった。
さすがに夜は校門までは見張りはいない。
外に出ている人間はいないのだから、合宿所の扉を内側から開かないようにしていれば、基本的にはそこを破ってまでは入ってこないらしい。
校舎の裏側にある合宿所までたどり着くには、校舎の左右から回り込むか裏門を通るしかない。
裏門は閉めてあるから、怪物が来るとしたら校舎の左右だ。
もちろん学校の敷地をグルリと囲む塀を飛び越えるようなのがいたら、別の方向から来るかもしれないけど。
窓の傍にはすぐに窓を内側から補強できるだけ準備ができている。
見張りの役目は怪物が来たら、それでこの窓も閉鎖することと、万が一扉や窓を破られた時のために、寝ている人達を起こすこと。
あとは相手が諦めて待つしかなかった。
2時間ごとの交代まで後30分ほどというあたりで、外を注視しながらも適当に会話していた妹が急に落ち着かなげになった。
「トイレならさっさと行ってきなさい」
ズバリ指摘すると暗がりの中でも頬を紅潮させるのが見えた。
「で、でも交代まで我慢できそうだし……」
「いいから、さっさと行ってきなさい。別に何十分もかかるわけじゃないでしょう? それとも大きい方なの?」
「ち、ちがうよ。もう、じゃあ急いで行ってくるから」
そう言って妹は1階にあるトイレに下りていく。
そうやって半ば強引に送り出した妹の後ろ姿を見送りながら、私は1つの決心をしていた。
窓の外を見る。
ただし見るのは校舎の左右ではなく空だ。
妹が戻ってくるまでの数分、私は見張りとしての役目を放棄することにした。
タイミング良く怪物が来るとは思えないし、来ても扉は破れないかもしれない。
この窓からなら容易に入れるけど、近くに木もないから――というよりそれが理由でこの窓が見張り用になったのだけど――
ここまで上ってこれないかもしれない。
もしそう言った諸々を全て乗り越えられるような怪物がこの数分で来るとしたら、それで終わりになるのも面白い気がした。
正確には、その終わりを見れば楽しいと思えそうな気がした。
これも、なんとなくだ。
空にある月を見る。
私には正直月見というものの意義が理解できなかった。
あんなものを見上げて何が楽しいのか。
「へぇ……」
なのに、それこそ舌の根も乾かぬ内から、私は感嘆の吐息を漏らしていた。
月の前を何かの影が横切ったのだ。
それは夜空に溶け込む鳥のようなシルエットで、何度か上空を旋回していた。
どこか別の町からやってきたのか、それとも今もどこかで新種が生まれているのかは知らないが、いよいよもって駄目そうだ。
そして、その鳥の怪物は一気にこちらに向けて急降下を開始する。
目標は間違いなくこの窓だった。
結局、例え真面目に校舎の両脇を監視していても意味がなかったわけだ。
サボっていたおかげで見つけることができたなんて、随分な皮肉。
それに見付けても、窓を塞いでいるだけの余裕もなかったはずだ
まあ、ここが潮時だったんだろう。
今まででもギリギリだったのに、空からも怪物が来るようになったら、もう女子高生の集団の手に負えるとは思えない。
それにしても、本当にこの数分でこの窓から入ってこれる怪物が現れるとは思っていなかった。
どうやら、この世界の確率は随分と偏っているようだ。
しかもかなり最悪な方向に。
それを言うなら、そもそもこんな世界になる直前、両親と食卓を囲んでいたこと自体奇跡のようなものだったけど。
迎え入れるように窓を開けた。
あれが窓ガラスを破ったくらいでどうにかなるとは思えないが、まあささやかな餞別みたいなものだ。
次の瞬間、窓の周囲を抉り取りながら、鳥の怪物が飛び込んできて盛大な音を立てた。
廊下の壁に激突した怪物は、その程度でめげることなくさっき妹が下りていった階段に飛び込んでいく。
当然私のことは無視だった。
すぐに階下で悲鳴が幾重にも響き合う。
窓から外を覗いていると、合宿所の扉が内側から開いて先輩に先導された部員達が飛び出していった。
2手にわかれて校舎の左右に向かう。
正門から出たら、全員別々の方向に逃げる手はずだった。
誰が追われても恨みっこなし、逃げた方向に怪物がいても自分で何とかする。
それでも助かった人間は、ほとぼりが冷めた頃、ここに戻ってくることになっている。
ただまあその予定は無駄に終わりそうだった。
中で獲物を見つけたのか、合宿所から鳥は出てこなかったが、代わりとでも言うように校舎の両脇から何匹もの化け物が回り込んできた。
姿は違っても、ちゃんと連絡は取れているんだろう。
そうとしか思えないタイミングだった。
さしずめあの鳥は偵察役か。
まあ妥当な役割分担だと思った。
行く先に壁と言ってもいい数の怪物が現れて、部員達が足を止める。
とっさに反対側に行こうとして、そちらも同じ状態であることに気がついて立ち往生してしまう。
その様子が、この窓からは本当に手に取るようにわかって面白い。
海岸に作られた砂の城が、押し寄せてきた波にさらわれるように、あっという間に怪物達は部員達を飲み込んでいった。
犬だの蜘蛛だのヤモリだの、1体として同じ姿をしたものがいない怪物達が、けれど行動は判を押したように全く同じで好き勝手に獲物を見つけて犯していく。
さながら合宿所の前は、怪物達の博覧会のような様相を呈していた。
もしくは女にとっての地獄絵図といったところだろうか。
それは先輩ですらも例外ではない。
拍子抜けするほどあっけなく、先輩がダンゴ虫みたいな怪物の触手に絡め取られた。
抵抗する素振りを見せてはいるが、結局は平均より多少筋肉があるだけの女子高生が怪物に勝てるわけがない。
正対した時のあの迫力も、怪物にとってはどこ吹く風といったところなのだろうか。
別に超常的な力を発揮した先輩が、並み居る怪物達をバッタバッタとなぎ倒していく絵を想像していたわけでもないが、あまりにもあっけなさすぎた。
なんだか急に醒めてしまった。
まあ、でも、まだメインデッシュが残っている。
出ていった人の中に妹の姿はなかった。
いくら暗くても私があの子の姿を見間違えるはずはない。
たぶんあの鳥に1人くらいは捕まっているだろうから、少し急いだ方がいいだろうか。
それでもなんとなく、妹はあの鳥には捕まっていないような気はした。
1階に下りると、1人の少女にあの鳥が覆い被さっていた。
床の上に仰向けに寝かせた少女の肩を、まるで止まり木にするかのように両足で掴んでいる。
体の向きは尾を少女の顔に向けるようなもので、尾羽の隙間から見える少女の顔は妹のものではなかった。
名前すら覚えていない少女。
怪物はその状態で体を前に倒し、器用にくちばしを使って少女のズボンをずり下ろし、下着にまで手をかけようとしている。
少女も必死に下半身をばたつかせるが、血が滲むほど強く肩を掴み押さえつけられ、
極めて制限された可動範囲の中では怪物の狙いを逸らし続けることはできなかった。
痛みからか恐怖からか、たぶんその両方で悲痛な声を上げる少女と鳥の横を抜けトイレに向かう。
外からは早くもいくつかの喘ぎ声が混じった悲鳴の大合唱が聞こえてくるけど、そちらにはもう興味はない。
トイレのドアを開けると、3つ並んだ個室の内、一番奥のものだけ扉が閉まっていた。
そこの扉からは絶えずカタカタという音が聞こえてくる。
たぶん、妹が中からノブを押さえているんだろう。
隠れるならもっとうまく隠れればいいものを。
高鳴る胸を抑えながら、一歩一歩近づいていく。
私の心臓が義務感と惰性で動いているなんて、間違った認識もいいところだった。
今はもう、こんなにも元気良く跳ね回っているんだから。
1番奥の個室の前に立つと、必死に押し殺しているのだろうかすかな息遣いが聞こえてくる。
ほんの戯れにノックをして見ると、中から短い悲鳴とガタンという盛大な音が聞こえた。
短い悲鳴は間違えようもなく妹のもの。
「私よ」
今のこの感情が声に出ないように、細心の注意を払う必要があった。
今はまだ、妹の望むお姉ちゃんでいた方がいい。
「お、お姉ちゃんなの!?」
今にも何かの線が切れそうな、ヒステリックな声。
それでもすぐには鍵が開かなかった。
「そうよ、だから鍵を開けてくれる?」
そう言ってようやく、鍵の開く金属音がした。
ゆっくりと扉が開き、その隙間から覗く瞳が私を見る。
次の瞬間、蝶番を壊しそうな勢いで扉が開き、妹が姿を見せた。
そのあまりにも惨めな姿に、私は唖然としてしまう。
妹は太股の半ばまで、ズボンを下着ごと下ろしたままだった。
股間を剥き出しにしているなんて、怪物達の目的を考えれば誘っているとしか思えない。
しかもしている最中に立ち上がったのか、ジャージのズボンは斑模様に色が変わっていた。
「は、早く入って!」
そんな自分の姿にも気付かないのか、とにかく私の腕を引いて個室の中に引き摺り込もうとする。
別に抵抗する必要はなかった。
私が中に入ると、これもまた扉自体を破壊しそうな勢いで閉め、飛びつくように鍵をかける。
大きな音を立てれば怪物に気付かれるかもしれないのに、それを気遣う余裕もないんだろう。
「落ち着いて。とりあえずズボンを上げなさい」
「あっ!」
言われてようやく慌ててズボンを上げようとして、けれどズボンの惨状に気付いて躊躇した。
それでも、そのままではいられないことがわかったのか、結局渋々ながらズボンを引き上げる。
「お、お姉ちゃん一体何があったの。いきなりすごい音がして、そしたら悲鳴がして。みんなは? みんなはどうしたの!?」
「私が迂闊だったのよ。鳥の怪物が空からあの窓に飛び込んできたの。
とっさに窓の横に避けたら、私の事は見失ったみたいで1階に下りていって私は助かったんだけど、そのせいで皆が……」
適当に嘘も織り交ぜながら、怪物が大量に押し寄せてきて、皆、合宿所の前で捕まった事を説明した。
説明するにつれ、妹の体の震えはおこりにかかったように大きくなっていく。
「わ、わたしが悪いんだ。勝手に見張りから離れたりしたから、そのせいで……」
「あなたは悪くない。私が悪いの」
抱き締めてあげると、腕の中の妹は改めて驚くほど小さかった。
もちろん物理的な意味での小ささという点では、あの美樹って子とは比べ物にならないけど。
「そんなことない。わたしが一緒にいれば、空からでも気が付いたかもしれないし、それに……」
なんとなく、あのまま妹がいたら鳥の怪物は現れなかった気がする。
妹があの場所を離れたことが引き鉄になって、あの鳥が出現した。
この世界ではそんな論理が成り立つような気がするのだ。
妹があそこにいた状態で鳥が飛び込んできたら、まず真っ先に狙われたのは彼女だろう。
あの鳥に犯されるなんて、そんな運命を許すほどこの世界は優しくない。
なんとなく、トイレの入口を私が待っていたものが通過した気がした。
音がしたわけでもないし、個室の中からそこが見えるわけもない。
強いて言えば空気が変わったような、そんな感覚。
覚えのある、そんな空気。
そろそろか、そう思った。
「ねえ、実は隠していたことがあるの」
「……え?」
突然切り出した私に、きょとんとした目で妹が私の腕の中でこちらを見上げた。
「あの日ね、実はお父さんもお母さんも帰ってきてたの。ごめんね、ずっと黙ってて」
私の言ったことがすぐには理解できなかったのか、妹が反応するまでにはしばらく時間が必要だった。
両親、特に父が家にいたことが何を意味しているのか。
表情の変遷を見ているだけで面白いほどわかりやすく、妹の脳の中が覗き見えた。
そして最後に、私の予想通り、妹はぎこちなく笑った。
「き、気にしないで。わたしのことを想って黙っててくれたんだよね。でも、じゃあもうわたしにはお姉ちゃんしかいないんだね。
お父さんは男の人だから諦めてたけど、お母さんはもしかしたらって……」
そこで堪え切れなくなったのか、妹は私の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。
この合宿所に来た日のことを思い出す。
場所はトイレで、しかも鼻を突くアンモニア臭に包まれてというのは何だったけど。
「あなたは1つだけ勘違いしてるわ」
妹の肩がビクンと跳ねて、続く言葉を恐れるように身を縮こまらせた。
「私もね、もういないの」
何を言っているのかわからないというように、妹がまた顔を上げる。
涙と鼻水でグショグショになった顔も、ここに来た日のことを思い出させる。
「い、いないって……だって……」
「怪物になったお父さんがね、お母さんを犯した後、私も犯したの。人間だった頃は気にもかけてくれなかったくせにね」
まあ女なら誰でも良かったんでしょうけどと、付け加えた。
実際には逃げようと思えば逃げるだけの時間は十分にあったわけだけど。
私のことも、両親のことも大好きだった妹にとっては、それは信じたくない話だったろう。
いつも真っ直ぐ人の目を見て外さないのに、今は目を合わせたら私の言葉が真実になるとでもいうように宙を泳いでいる。
「お父さんはどんな怪物になったと思う。大きなナメクジよ」
噛んで含めるように、意識して一拍を置く。
「あの人にはお似合いの姿だと思わない? 人間の姿なんかよりよっぽど。そしてそんな化け物に犯されるのが、私やお母さんにはお似合いだった」
「いやぁっ! もうやめてっ! なんでそんなこというの!?」
爆発したように暴れ出す妹の体を、今まで以上に強く抱き締めて逃がさない。
両の手の平で耳を塞ぐことも許さなかった。
マネージャーとはいえ、用具の準備などの様々な雑用もこなしている妹の力は、力仕事らしい力仕事なんて縁遠い私よりもあるはずだった。
それでも振り解けないのは、この期に及んでまだ私を気遣っているのだろうか。
それとも高揚した気分が私には普段以上の力を与えてくれているのか。
なにせ私は妹の背中に回した手を少し動かして、彼女の背後にある鍵を開けることすらできたのだから。
個室の中にガチャンという金属音が響いた。
さっきの乱暴な扱いに抗議の声を上げるように、蝶番に軋んだ音を立てさせながら扉が自然と開いてくる。
扉が開いた向こうには、私が予想していた通りの怪物がいた。
ここまで確率が最悪な方に偏っていると、もはやここに父がいるのは必然だった。
背後の存在を拒絶するように、暴れるのを止めた妹は、扉が開いたことに気がつきながらも、私の胸に顔を埋めたままで硬直している。
その妹の両肩に手をかけ、彼女の体を引き剥がして、反転させる。
そして最後に、一歩を踏み出させるように背中をポンと押してあげた。
腰が抜けたのか、そのまま力なく倒れていく妹の体を、父が軟体質の体で受け止める。
本当に、妹には優しいんだから。
表面を器用に波打たせることで、トイレの壁にもたれかかるように彼女を座らせ、ゆっくりと覆い被さっていく。
その間妹は、糸の切れた操り人形のように身動きもせず、宙の一点に虚ろな視線を向けていた。
妹は父に犯されながら、純粋な肉体的刺激に対する反射としか言いようのない吐息を漏らす。
私や母なんて比べ物にならないくらい感情を溢れさせていた普段とは対照的だった。
最後まで見ていると、父は妹の体を背に乗せて去っていってしまう。
トイレから出ると、鳥もいなければ、合宿所の前のお祭り騒ぎもいつのまにか終わっていた。
残されたのは私だけだった。
私の体に変化はない。
妹を壊せば未練がなくなって成仏できるかとも思っていたのだけど。
まあ別に、生前と言うのが適切かどうかはともかく、その頃から妹を壊したくてたまらなかったわけじゃない。
楽しかったのはあの一瞬だけで、なんだか今は空しかった。
本当に今更だけど。
別に後悔しているわけじゃないけど。
次の日、私はずっと学校の屋上にいた。
仰向けになって、ただ空を見上げている。
空が黒から白になって、赤、青、赤、黒と色彩を変えていった。
屋上に出るための扉が、悲鳴のような軋んだ金属音を上げたのは、ちょうど月が真上に来ている頃。
「ここにいたのね」
聞き覚えのある声に目を向けると、先輩が立っていた。
部活用の動きやすい格好ではなくて、制服姿だったけど、その立ち姿は思わず見とれるほどに綺麗だった。
「無事だった……わけじゃないですよね。確かダンゴ虫に捕まるところまでは見ましたから。ということは私と同類ですか?」
仰向けのままで話しかける。
なんだか置き上がることすら億劫だった。
「たぶん、そういうことなんでしょうね。今日の朝起きたら自分の家で寝ていたわ」
先輩はすぐ隣まで歩いてきて足を止めた。
「あー、そうですそうです。私もその口ですから。それで、私を探してたみたいな感じでしたけど、何か?」
「もちろん復讐しないとと思ってね」
頭のすぐ傍にある先輩の足が、筋肉に力を蓄えるのが見えた。
「先輩、それは2度ネタですよ」
私がそう言うと、先輩は足から力を抜いた。
「どうせ蹴っても踏んでも、痛くないでしょうしね。この体は」
「そうなんですか? 私が知っているのは、眠れない、疲れない、排泄がない、食事の必要がないくらいですけど。あと汗もかきませんね」
痛くなりそうな事は、そういえばしてなかったか。
最後に感じた痛みは、まだ人間だった頃に父によって与えられた破瓜の痛み。
「なんだか、雰囲気が変わったかしら。あんな事をして後悔しているの? 私達を全滅させて」
「いえ、気が抜けただけです。ついでに言えば、あなた達には最初から興味ありません。それに先輩も少し柔かな印象になりましたよ」
「まあ、私も部長という肩書きがなくなって気が抜けたから。それで、興味があったのは妹さんだけ?」
「先輩にはそれでも少しだけ期待してました。怪物なんかやっつけるんじゃないかって。だからあっさり捕まった時は失望しましたよ。
まあこうして会いに来てくれたのは、なかなか意外でしたから、それで帳消しと言うことにしておきます」
「あなたは妹さんのことをどう思ってたの? てっきり溺愛しているんだと思っていたけど。表面上はともかくとして」
「もちろん可愛かったですよ。あれだけ無邪気に笑顔を向けられたら、なかなか無視はできません。しかも妹ですから、ずっと傍にいましたし」
「愛が行きすぎて、わざと化け物を招き入れて襲わせたっていうの? それで、その巻き添えになった私達には何も思わないと」
「まあ、別に」
本音での会話は久しぶりだった。
妹のあれは一方的なものだったし。
「ところで先輩、随分遅かったですね。そんなにここはわかりにくかったですか?」
なんとなく話を変えた。
これもなんとなくだ。
「合宿所を一通り見て、あとは学校を上から見ていこうと思ったらすぐ見つかったわ。
ただし学校に付いた時点でももうとっくに日が暮れていたけど。電車は動いてなかったしね」
「先輩は電車通学ですか。どこからですか?」
先輩が口にした駅の名前は、馬鹿みたいに遠くの駅だった。
そんなとこから通っているのは間違いなく先輩くらいだろう。
この学校がそこまで魅力のあるものだとは思えなかったけど、まあそこには先輩なりの理由があるんだろう。
ちなみに私の志望動機は家から近いから。
正直高校なんて行く気もあまりなかったんだけど、両親から珍しくされた干渉はせめて高校だけは出ろというものだった。
娘が中卒じゃ世間体の問題があるからだろう。
まあ別に他にやりたいこともなかったから、別に良かったけど。
特別勉強しなくても、そのまま入れるレベルだったし。
妹の志望動機はお姉ちゃんがいるから、だったか。
どこまで本気か、まあ、きっと全部本気だったんだろう。
「どうしてそんなところから通っているんですか?」
答えはなく、それが少し意外だった。
今の先輩なら何でも話してくれそうな気がしたんだけど。
「ということは、もしかして走ってきたんですか? いくら疲れないとはいえ、よくやりますね。さすが陸上部部長です」
「専門は短距離だったけどね」
「無限の持久力を獲得した短距離ランナーって無敵じゃないですか」
「疲れないというのは、案外物足りないものだわ」
先輩はマゾですか、てっきり逆だと思ったんですが、というのはさすがに胸の中に収めておいた。
「あなたの名前を聞いてなかったと思ってね」
「名前、ですか?」
突然話題が変わって、頭を切り替えるのに一瞬の間が必要だった。
それに、その理由はさすがに予想外だったし。
「私達を破滅させた相手の名前くらい、知っておこうと思ってね」
供える墓前もないけれど、先輩はそう言って笑った。
あの時合宿所で見たどんな笑みとも違う、力ない微笑み。
「で、聞かせてくれるかしら」
「舞草ですよ。あの子の姉ですから。別に複雑な家庭事情とかはありませんし、
まあ問題のない家庭だったともあまり思いませんが」
先輩は無言で続きを促した。
仕方がないなぁ。
「鈴音です。そのまま鈴の音で鈴音」
「ふぅん、思ってたより可愛い名前じゃない。でもどうしてそんなに嫌そうなのかしら」
「もちろん嫌いだからですよ。昔は、確か気に入っていた気がするんですけど」
「理由を聞かせてくれるかしら?」
「そうしたら、先輩がこの学校に来ている理由を教えてくれますか?」
返事はなかった。
よほど話したくないらしい。
「舞う草と鈴の音っていまいち繋がりが見えないじゃないですか」
「それに比べて舞草春香、舞う草に春の香りね。確かになかなかまとまってる感じね」
見透かしたように先輩は言う。
まあ自分で言う手間が省けたし、自分の名前と同じで妹の名前なんてできるなら言いたくないから助かったけど。
「小学校の頃、宿題が出たんですよ。自分の名前の由来を両親に聞いてこいって宿題が。
それまでは舞草も鈴音も気に入ってたんです。だけど改めて考えるとなんで鈴音なんだろうって。
他の子は親の名前から字を貰ったりしているのに、私は鈴も音も両親のどちらにもありませんでしたから」
そこまで一気に喋って一息つく。
「妹の名前もそうだったら、私の両親はそういう感じで名前を付けるんだなって思えたかもしれないんですけど」
「春香にはご両親の字が含まれていたと。で、当のご両親は何て?」
「聞いてません。プリントには自分で適当に考えて記入しましたから。
なんだったかな、産声が鈴の音のように可愛かったからとかなんとか」
「それはまた、鳥肌が立ちそうなほど自惚れた理由ね」
「先生は良かったわねって言ってくれましたよ。もちろん、全然嬉しくありませんでしたけど」
「それまでも、まあなんとなく疎外感を感じていたんですけど、そこから一気に加速した感じですか。
私は貰われ子だったんだとか、必要とされてないんだとかそんなことばかり考えるようになりました」
「それで、いつのまにかこんなになっていたというわけね。くだらない話だわ」
別に腹も立たない。
「自分でも、まあ、そう思いますよ」
「例えば、そうね、舞草風香とかどうかしら。風の香りで風香」
突然先輩が挙げた名前は聞き覚えのあるものだった。
「もしかして、いきなり当たりだったかしら。そして香りという字を取って春香」
「先輩の洞察力には感心してましたけど、勘まですごいんですね」
春と香を使う名前なんていくらでもありそうなのに。
「見くびらないでくれる? 風香を最初に挙げたのはちゃんと根拠があってのことよ」
「して、その心は?」
胸の鼓動が早くなっているのを感じながら、平静を装って促した。
「それくらい自分で考えなさいと言いたいところだけど、まあ名前が嫌いな理由を聞いたのはこっちだから教えてあげるわ」
焦らすように、勿体つけるように、先輩はそこでしばらくの間を挟む。
私は自分でも情けないほど、その時間を長く感じていた。
体を起こしていれば、我慢できず前に身を乗り出していただろう。
「草が舞うのも、鈴が鳴るのも、どちらも風が起こす現象だからよ」
答えは聞いてみれば拍子抜けするほど、あっけないものだった。
だけど、1番最初に母の名前は自分の名前と関係ないと思い込んでしまった私には10年近くたどり着けなかった答え。
理解するにつれて、胸の奥から笑いの衝動が込み上げてくる。
勘違いで全てを破滅させた自分自身の滑稽さ。
自分の名前が母から貰ったものだったということの喜び。
それらがないまぜになって胸の中に渦巻いていく。
そして私は、堪え切れず声を出して笑った。
こんな風に笑ったのはいつ以来だろう。
屋上を吹きぬける風の香りを感じながら、私はただただ笑い続けた。
「で、早とちりであんなことをしたってわかって、気分はどう? さすがにそろそろ後悔してくれてるかしら?」
一頻り笑って、ようやくそれが収まった頃、先輩がそう尋ねてくる。
「いえ、それはあまり。やっぱり今更ですよ。後悔して時間が戻るなら、いくらでも後悔しますけど。
だいたい、こんな世界にしたのは私じゃないですしね」
「まあいいわ、それであなたはこれからどうするつもり? たぶんこの体じゃ寿命すらなさそうな気配がするけれど」
「どうしましょうか。私としては昨日妹を壊した時点で消えるかと思っていたんですが。
何か手がかりとかあればいいんですけどねぇ。消えるための直接的な方法じゃなくても、例えばこうなる理由とか。
ああ、そういえばたぶんですけど、あの美樹って子も同類ですよ」
「美樹って、水瀬さんの友達のよね。そして私とあなた」
「なんというかバラバラですね」
先輩の同意の言葉は返ってこなかった。
見上げてみれば、考え込むように眉を寄せている。
そして先輩はポツリと漏らした。
「自分がいらない存在だと強く思っているとかはどうかしら?」
「私は別にそれでいいですけど、あの子もですか? なんだかヘラヘラして悩みなんてなさそうでしたけど」
「あの子はあれで水瀬さんに迷惑かけることをかなり悩んでいるみたいだったわよ。見たのは部活にたまに見学に来たときくらいだから保証はしないけど」
「まあ先輩がそういうならそれでいいですけど。で、先輩自身がその仮説にたどり着いたと言うことは当然先輩もそうなんですか?」
こちらはこちらで信じられなかった。
「私は私で、結構無理してあの立場を演じてたのよ。部長なんてやってたのも、誰かに必要とされたかったからだしね」
「そしてそんな先輩の自己否定の根っこは、この学校に来る理由ってやつと関係があると」
今度は沈黙だけじゃなく、睨まれた。
「ああ、別にもう聞きません。ということは、先輩のその仮説が正しければ、自分が必要とされていたとわかった私なんか御役御免ですか」
試しに手の平を月にかざしてみると、向こう側の月が透けて見えた。
昨日といい今日といい、月ってやっぱり役に立つなぁ。
「あー、さすが先輩です。なんか当たりっぽいですよ。確かにこれなら、春香を壊しても消えることはできなかったわけです」
と、何気に言ってから久しぶりに春香という名前を呼んだことに気が付いた。
我ながら現金なものだと思う。
『はるかちゃ〜ん、おいてっちゃうよ〜』
『まってよ〜、すずねちゃ〜ん』
そんなやりとりがあったかどうかは覚えてないけど、昔は1歳しか違わないこともあって春香ちゃん、鈴音ちゃんと呼び合っていたのは確かだった。
だけど私は意識して春香と呼ばなくなって、春香の方にもお姉ちゃんと呼ぶように強制したんだ。
どんどん透けていく手の平を上げていられなくなった。
意識にはだんだん霞みがかかってきて、瞼が重くなっていく。
「では、先輩、お先に失礼します。先輩も早めに消えることできるといいですね」
心からそう思う。
でも先輩は肯定も否定もしなかった。
ああ、そういえばお礼を言うのを忘れていた。
合宿所で話した時もお礼を言おうとして、でもさっさと出ていってしまったから言いそびれてたんだ。
『先輩、ありがとうございました』
それがちゃんと言葉になったかはわからなかった。
それを確認する前に私の意識は風に溶けて、空に舞い上がったから。