夏休み3日目なのに、いつもと同じ時間に目が覚めた。
寝付きと寝起きの良さは、数少ないわたしの自慢の1つ。
5分ほど考えて、今日は出かける予定がないことを確認する。
それならパジャマのままでいいかと、そのままの格好で1階まで下りていった。
「ママー?」
リビングにはママの姿はない。
テーブルの上には、いつもならこの時間にはちゃんと用意されているご飯もない。
おかしいなと思いながら、キッチンに足を向けた直後、
足の裏がずるっと滑って天井が見えて、頭の後ろにすごい衝撃がきた。
「いた……くないー?」
ゴインという大きな音がしたわりに全然痛くなかった。
いつも皆から鈍いとかトロいとか言われるけど、ついに痛みを感じる神経まで切れちゃったのかなぁ。
怪我をしても痛くなくなるのは嬉しいけど、普通と違くなっちゃったら、またママが悲しい顔をするかも。
それに自分の家の中で転んだって言ったら、みっちゃんがまた呆れた顔をするかな。
そんなことを考えながらむくりと上半身を起こすと、おねしょをしたときみたいに、お尻から膝のあたりまで床に接した面が濡れているのに気がついた。
改めて床を見たら、透明な液体が床の上に広がっていた。
ところどころに白く濁った部分もある。
指で掻き回してみるとぬるぬるしてて、これがあったら転ぶのも仕方ないと思う。
普通の人はそもそも転ぶ前に気が付くのかもしれないけど。
でも、これはなんだろう。
なんとなく、掻き混ぜた指を口に入れてみると、甘いような苦いような変な味。
知っている気がするんだけど、あと少しで出てこないもどかしい感じ。
あ、いけない、指をくわえてちゃいけないって、ママに言われてたんだ。
「ママ……そうだー、パパとママだー」
思い出した。
昨日の夜、ご飯の最中、いきなりパパがテレビに出てくる怪獣みたいになってママに飛びかかったんだ。
パパがそんなことできるなんて知らなかったから驚いたんだけど、
ちょうど生放送の番組を映していたテレビの中でも、男の人が変身して一緒に出ていた女の人に覆い被さっていた。
よくわからなくて、ぼーっとしていたら、ママが逃げなさいって言って、なんで逃げるのかわからなかったけど、わたしは自分の部屋に帰ったんだ。
しばらく自分の部屋にいて、そろそろいいかなってリビングに戻ったら、まだパパとママは抱き合っていた。
ママはわたしが戻ってきたのも気が付かないみたいで、顔を真っ赤にしていつもとは違う声を出していた。
子どもを作るときに出す声。
以前、中学生の頃、めったにないことだけど夜中にトイレに行きたくなって起きたことがあった。
トイレまで行くの面倒だったけど、そのまま布団の中でしたら布団が濡れて気持ち悪いし、
明日の朝ママが困った顔をすると思ってやっぱりトイレに行くことにした。
その途中、ママたちの寝室からこの声が聞こえて、何してるの? って覗いてみたら、2人とも裸で同じ布団に入ってた。
そしてママが赤い顔のままで、これは子どもを作るためにすることよって教えてくれた。
あなたもこうやって生まれてきたのよって。
次の日に、そのことをみっちゃんに話したら、みっちゃんまで顔を真っ赤にして、そういうことは人に話しちゃダメって言われた。
そんなことを思い出した。
結局昨日は、パパもママもわたしのことに気が付かないみたいだったから、そのまま自分の部屋に戻って寝たんだ。
確かここはパパとママが抱き合ってた場所。
大きなヤモリみたいになったパパの表面に、このぬるぬるしたのがあった気がする。
足の裏にぬるぬるがついているから慎重に立ち上がって、お風呂に行って足を洗った。
その後で家中を捜したけどパパとママはどこにもいない。
途中、ぬるぬるがあるのを忘れていて、何度かリビングで転んだけど、やっぱり全然痛くなかった。
テレビをつけたけど、どのチャンネルも番組をやってなかったからすぐに消した。
「学校行こうかなー」
ママがいないんじゃ、家で1人でいても退屈だし、確かみっちゃんは陸上部の合宿で学校にいるはずだった。
部活中に行ったら迷惑かもしれないけど、待っていれば休憩時間に少しくらいお喋りできるかも。
それに、直接お喋りできなくても、みっちゃんが走っている姿は見ているだけで楽しいし。
わたしの何倍もの速さで走っていくみっちゃんはすごくかっこいいと思う。
学校に行くなら、着替えないといけない。
わたしは気にならないんだけど、パジャマで外に出るのはあまり良くないことらしい。
「学校だから制服かなー? でも夏休みだしー」
少し考えたけどすぐに面倒くさくなって、制服で行くことに決めた。
外にはほとんど人がいなかった。
たまに見かけるのは、たぶん男の人だったと思う怪獣と子どもを作っている女の人ばっかり。
怪獣だけってのは少し見かけたけど、女の人だけっていうのは1度も見かけなかった。
いつもならたくさん車も人も通っている道を、今日は1人でのんびり歩く。
怪獣はわたしのところには寄ってこなかった。
生理がきていないと子どもはできないって学校で習ったから、それでだと思ったけど
いつも小学生に間違われるわたしよりもっともっと小さい子も怪獣と子どもを作ってたから、そうでもないのかもしれない。
よくわからなかったけど、よくわからないことを考えても、たいていわからないままだからあきらめた。
てくてくてくてく歩いていると、今日になってから初めて怪獣と一緒にいない女の人に会った。
その人はわたしを見て驚くと、慌てた様子で駆け寄ってくる。
ママより少し若いくらいのその人を、どこかで見たことがあるような気がした。
手に持った袋には缶詰とかが入っているのが透けて見える。
「あなた、大丈夫?」
大丈夫かと聞かれると、自信を持って大丈夫とは返せない。
「その制服、うちの生徒よね。それに見かけたことがある気がするけれど……」
その人は少し考えて、
「もしかして、水瀬さんとよく一緒にいる子じゃない?」
そう言った。
水瀬さん、確かみっちゃんの名字だ。
水瀬だから、みっちゃん。
どうして下の名前じゃなくて名字なのって本人に聞かれたことがあるけど、なんとなくって答えたら納得してくれた。
本当のところ、納得はしていないのだけど、それ以上聞いても別の答えは返ってこないって思ったんだと思う。
実際、わたしはそれしか答えられないし。
「えーとー、みっちゃんはわたしの友達ですけどー、あなたは誰ですかー?」
「私は、あなたのクラスは違うけれど、英語を教えている高橋よ。それと陸上部の顧問もしているの。たまに部活中見学に来てたでしょ?」
「あー、そういえばー」
言われてみれば、そうだった気がする。
「……あなた、あの怪物に何かされたの?」
「いえー、なにもー。あー、これはわたしの地ですからー、気にしないでくださいー」
たいていの人は、わたしと初めて会話すると、不思議そうな顔をするのだ。
「そ、そう、とにかく、こんなところで歩いてたら危ないわ。学校の合宿所に陸上部の人たちがいるからそこまで行きましょう」
「そのつもりでしたー。パパとママはどこかに行っちゃったからー、暇だしみっちゃんに会いに行こうかなーって」
「暇って、あなた、何を言って……」
先生の言葉の途中で、別の音が割り込んできた。
硬いものが連続でコンクリートを打つガシャガシャという音。
音のした方を見ると、大きなダンゴ虫みたいな怪獣がいた。
「いけない!」
「え? あー」
先生は急にわたしの手を取って走り出そうとしたけど、わたしの方は足が付いていかず転んでしまう。
わたしが転んでしまったことで先生も足を止め、足元に置いた袋の中を探って金属の棒を取りだした。
20センチほどだった棒は、端を引っ張ると一瞬で1メートルくらいまで伸びる。
ぶたれると思った。
転んでしまったから。
先生の邪魔をしてしまったから。
今のわたしには痛くないだろうけど、それでもやっぱりぶたれるのは嫌だ。
だけど、先生はその棒を怪獣に向けた。
「早く逃げなさい。合宿所に行けば、水瀬さんもいるから」
わたしに背を向けて、わたしとダンゴ虫の間に立った先生はママと同じで逃げなさいと言う。
ダンゴ虫の方は、たぶん口のあるあたりからピンク色のひもをたくさん出していた。
「なんでー、逃げないといけないんですかー?」
どうやら先生はわたしをぶたないらしいとわかって、立ち上がりながら昨日から気になっていたことを聞いてみた。
「なんでって……、こいつらは人間を襲うの。危険な存在なのよ」
突然ダンゴ虫のひもがすごい速さで伸びてきた。
目にも止まらぬ速さっていうのは、こんな感じかも。
わたしの出来の悪い頭でも、棒が1本の先生と、ひもがたくさんのダンゴ虫のどっちが強いかは簡単に想像できた。
「きゃあああっ!?」
先生の全身に巻き付いたひもが、一気に先生を怪獣の方へ引き寄せる。
離れているとお話しにくいから、わたしもそれの後に続いた。
「あのー」
「な、なにやってるの。私のことはいいから、あなただけでも早く逃げ……ひぐぅ!」
先生の体がビクンと震えた。
その顔は痛いことがあった時にする顔だ。
「い、いやあ、入ってくる……痛い、うごかないでぇ!」
先生の服の下でピンクのひもがグネグネ動いている。
特におっぱいのあたりにたくさんのひもが集まっているのがわかった。
「ひ、な、なにを……」
スカートめくってみると、ピンクのとは別の白いやつがパンツを押しのけて、先生の股間に突き刺さっていた。
学校で子どもを産む場所だって教えられたところ。
刺さっている物は習ったのと違うけど。
それを見て、やっぱり怪獣は子どもを作りたかったんだと確信できた。
白いのが行ったり来たりするたびに、穴のまわりのお肉がめくれあがって、また押し込まれていく。
お花が咲く時のビデオを、早回ししたり巻き戻したりしているみたい。
「み、見ないでぇ……」
なんとなく目が離せなくって、じっと見ていたら先生がそう言ったからスカートを元に戻した。
「そんな、ふあ、ああ、どうしてあなた……」
「なんですかー?」
「あなた、なんで無事、ひああ」
「あー、よくわかりませんがー、わたしにはよってこないみたいですー。
先生はー、この怪獣と子どもを作るのいやなんですかー?」
ママは相手がパパだったから良かったけど、このダンゴ虫は誰だかわからないから嫌なのかもと思った。
子どもは好きな人と作るらしいから。
「そんなの、当たり前、ぐ、うぅ……」
先生が本当に苦しそうだったからダンゴ虫に、止めてあげてくれませんかー? って言ってみた。
だけど言葉が通じないのか、それともたぶん見ず知らずのわたしのお願いなんて聞く気がないのかダンゴ虫は止まってくれない。
「ひ、あ、ああ、こ、こんなの、おかしい……なんで、こんなので……ふああ」
どうしたら止めてくれるだろうって考えていたら、だんだん先生の声が昨日のママの声に近づいてきた。
白くなってたほっぺたも赤くなってきて、表情も緩んでくる。
よくわからないけど、先生も嫌じゃなくなったらしい。
それならもういいかと思った。
「じゃー、先生ー、わたし学校に行きますからー」
ここにいてもすることがなさそうだった。
どこかに行く時は、ちゃんと行き先を大人かみっちゃんに言うようにって言われてたから、先生にそう言って歩き出そうとした。
そこで先生が持っていた袋に気が付く。
中には缶詰とか食べ物がいっぱい。
きっと学校に持っていこうと思ってたんだ。
色々教えてもらったし、先生はいそがしそうだからわたしが代わりに持っていってあげよう。
そう思って持ち上げようとしたけど、袋はびくともしなかった。
ちょっともったいないけど中身を適当に減らしていく。
ようやく持てるくらいになった時には、半分以下になっていたけどしかたない。
1は10より悪いけど、0よりはいいと思うから。
最後にもう1回先生を振り返ると、先生はすごく嬉しそうだった。
途中で止めなくて良かった。
そう思いながらわたしは改めて学校へ向けて歩き出した。
学校までの道の最後の角を曲がると、ちょうど校門の前にみっちゃんともう1人女の子がいた。
みっちゃんはわたしを見つけると、すごい速さで走ってくる。
胸に水瀬と刺繍された半袖のTシャツとハーフパンツ。
走ってきたみっちゃんは、少し苦しくなるくらい強く、わたしをギュッと抱き締める。
ショートカットの髪から、少しだけ汗の匂いがした。
「美樹……良かった、無事で」
「ちょっと苦しいかもー」
「あ、ご、ごめん」
体を離したみっちゃんの目には少し涙が浮かんでいた。
その瞳がわたしの手元に落とされる。
「あれ、その袋って」
「ごはんだよー」
「ごはんって、美樹が見つけてきたの?」
驚いたようにみっちゃんが言う。
「えーとー、来る途中で先生にあってー」
「先生って、高橋先生!?」
「そうだよー、それでお話してたらー、おっきなダンゴ虫が来てー」
そこで言葉を止める。
子どもを作るあれは他の人に話しちゃダメってみっちゃんに言われてたし。
みっちゃんには言ってもいいのかなと考えていると、
「美樹、もういいよ、わかったから。でも美樹だけでも無事で本当に良かった……」
みっちゃんは悲しそうにそう言った。
その日の夜、わたしも合宿所にお泊りすることになった。
わたしは陸上部じゃないのにいいの? とみっちゃんに聞いたら、それどころじゃないでしょと笑われた。
ごはんももらったけど、あんまり食べられなかった。
もともとたくさん食べる方じゃないけど、今日はいつもよりもっと食べられなかった。
口に入れても全然おいしくなくて、みっちゃんにそう言ったら、他の人の前でそういう事を言っちゃダメだよって言われた。
今はこれだって貴重なんだからって。
わたしの体はやっぱりおかしくなっているらしい。
今日1日、1度もおしっこしてないし、学校まで来る間、手も足も全然疲れなかった。
ごはんがおいしくないの以外は楽でいいけど、普通から離れてしまうのは嫌だ。
それを知ったらママやみっちゃんが悲しむから。
だからみっちゃんにはこのことを話してない。
おトイレも一緒に行こって誘われたときに付いていった。
何も出なかったけど、一応水だけは流して。
嘘をついているのは良くないと思ったけど、もしかしたら明日になったら戻ってるかもしれないし、それならなるべく心配させたくなかったから。
そんなことを布団の中で考える。
いつもならこんなことを考える暇もなく、すぐに寝ちゃえるんだけど、今日は全然眠れない。
なんとなく、朝まで眠れない気がした。
「美樹、起きてる?」
となりの布団にいるみっちゃんが、他の人を起こさないように小さな声で聞いてくる。
「起きてるよー」
トイレのときと同じで、心配させないように寝たふりをしようかと思ったけど、個室になってるトイレと違ってずっと横にいたらわかっちゃうと思った。
だから、わたしも小さな声で返事をする。
「珍しいね、美樹が寝付けないなんて」
「わたしもそう思うー」
みっちゃんが小さく笑う。
どうして笑われたのかわからなかったから聞いてみると、
「ごめん、美樹も緊張してるんだなーって少し安心しちゃって。ほんとごめん、不謹慎だったよね」
「緊張なのかなー」
よくわからないけど、違う気がした。
もっと何か根本的な部分で、わたしは変わってしまった気がする。
なんとなくだけど。
「ねえ、そっちの布団に行っていい?」
わたしがいいよと答えると、みっちゃんがもそもそとわたしの布団に移動してくる。
朝、学校の前でしたみたいに、布団の中で抱き締められる。
今度はあんなに強い力じゃなくて、ふんわりと包まれる感じで気持ち良かった。
「他の人の体温を感じると安心できるって言うし、しばらくこうしててあげるね」
「ありがとー」
「ほんとは、あたしも緊張してて寝付けなかったからなんだけどね」
そう言って笑うみっちゃんの体から伝わってくる鼓動は、確かにとくとくといつもより早い気がした。
「んー、やっぱり美樹って抱き心地いいな。ほっぺとかふにふにだし」
「ふにふにならー、みっちゃんの方がー、ふにふにだと思うよー。とくにこの辺とかー」
みっちゃんの体の中でもとくにやわらかいところに手を伸ばすと、
「ちょ、どこ触ってるの!?」
怒られた。
しばらくそうやってお喋りしているうちに、みっちゃんは寝てしまった。
わたしはやっぱり全然寝れる気がしない。
規則正しいみっちゃんの呼吸。
だけど夢を見ているのか、たまにそれが乱れる時があった。
そんな時、決まってみっちゃんは辛そうな顔をしていたから
だからわたしは、みっちゃんの背中に回している手でさすってあげた。
しばらくそうやっていると、だんだんみっちゃんの寝息が落ち付いてくる。
その繰り返し。
いつも迷惑ばっかりかけているから、いつもと逆にみっちゃんの役に立てていると思うと嬉しかった。
これなら、寝れなくてもいいかなって思った。
徹夜っていうのを初めてしたけど、次の朝は全然辛くなかった。
洗面所の鏡で自分の顔を見てみたけど、いつもと変わらない気がする。
やっぱり全然味のしないごはんを、みっちゃんに心配かけないように詰め込んでいると、
長い髪を後ろで結わえた背の高い綺麗な人がわたしたちのところまで来て、みっちゃんを連れていった。
1人でぼーっと待っていると、しばらくしてみっちゃんの声が聞こえてくる。
みっちゃんたちは別の部屋にいるから、ここまで聞こえてくるってことはかなり大きな声だと思う。
何を言っているかははっきりとわからなかったけど、怒っている感じの声だった。
そしてその声の中に、わたしは自分の名前を聞いた気がした。
わたしのことで、みっちゃんが怒ってくれたことは、今までにもたくさんあった。
でも、そのせいでみっちゃんが他の人に悪く思われるのは嫌だ。
だからわたしはみっちゃんの所まで行くことにした。
わたしが何かしてしまったなら、わたしが謝らないとと思ったから。
みっちゃんたちがいるだろう部屋に近づいていくと、だんだん何を言っているかわかるようになる。
「水瀬さん、落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられません! あの子を外に出したら……」
「だけど、これはあの子のためでもあるのよ。あなたには友達でも、
他の部員にとっては赤の他人なんだから、何かしてもらわないと不満が出るのよ」
「でも、部長……」
「ただでさえ、唯一の大人だった先生がいなくなって皆ピリピリしてるの」
「高橋先生のことは、美樹のせいじゃ……」
「もちろんそんなことは言ってないわ。先生だってそんな風に思ってほしくないでしょうしね。
だけどそう思う人達だって出てくるかもしれないし、こんな状況だしストレスの捌け口をあの子に求めるようになるかもしれない」
「そんなこと、あたしがさせません!」
「あなただって四六時中付いているわけにはいかないでしょう。あなたにも外に出てもらわないといけないんだから」
「それは……」
「あのー」
部屋に着いたわたしが声をかけると、2人が一斉にこちらを向いた。
「美樹、どうして!?」
「みっちゃんの声が聞こえたのー。それでー、わたしのことを話してるみたいだったからー」
わたしの言葉に、みっちゃんはバツの悪そうな顔をした。
部長さんの方はやれやれって感じで首を振って、
「だから、落ち着きなさいと言ったのに。まあいいわ、どうせ本人にも聞いてみないといけなかったから」
「何をですかー?」
「えーと、美樹さん、だったかしら。実はあなたにも、外へ食料を探しに行ってもらいたいのだけど。
もしかしたら他に隠れている人がいるかもしれないし、その捜索も兼ねて」
「いいですよー」
わたしは即答した。
「部長! それに美樹も!」
「念の為聞いておくけど、あなた、外が今どんな状況かわかってる?」
「えーとー、怪獣がいっぱいいますー」
「怪獣、ね。それでも、外に行ってくれるの?」
「だいじょうぶですよー」
「だそうよ」
部長さんがみっちゃんに顔を向ける。
みっちゃんはしばらくぶるぶる震えていたけど、
「わかりました。でも美樹の班分けはあたしと一緒にしてください。2人だけでいいですから」
感情を押し殺した声でそう言った。
みっちゃんが本当に怒っているときに出す声。
「もちろん班はあなたと同じにするつもりよ。他の人と組ませるのは無理でしょうから。だけど2人だけっていうのは……」
「かまいません! 行こ、美樹」
みっちゃんは1度部長さんを睨み付けてから、わたしの手を引いて部屋を出た。
だけど、少し歩いたところで足を止める。
繋いだ手にギュッと力が込められる。
「美樹は、あたしが守るからね」
こっちを見ないまま、みっちゃんはそう言った。
その日のお昼過ぎ、わたしとみっちゃんはご飯と、もしかしてまだいるかもしれない生き残った人を探しに行くことになった。
目的地はみっちゃんの家。
こんな状態でも、お店や他の家から持っていくのは気が引けるからとみっちゃんは言ったけど、他にも理由があることくらいわたしにもわかった。
だけど、
「まあ、期待はしてなかったけどね」
結局、みっちゃんの家には誰もいなかった。
「さ、日保ちのしそうなの選んで持ってこ。美樹も、無理はしないでいいから持てる範囲でこれに入れて」
キッチンで小さな袋を差し出すみっちゃんの目には涙が溜まっていて、声も震えていた。
だからわたしは袋を受け取る代わりに、今度はわたしの方からみっちゃんを抱き締める。
そのまま、昨日の夜と同じように背中をさすってあげた。
少しでもみっちゃんが楽になれるように。
「み、美樹……」
わたしの行動に戸惑うような声。
だけど昨日の夜とは逆に、わたしが背中をさすってあげるとみっちゃんの体の震えが大きくなっていく。
そして、わたしはみっちゃんが大きな声を上げて泣くのを久しぶりに聞いた。
「ありがと、もう落ち着いたから」
「もうだいじょうぶー?」
「うん、それにいつまでもこうしてるわけにはいかないもんね」
その声はまだ少し震えていたけど、でもどこか穏やかな感じの声音だった。
だから手を解こうとして――、
「……っ!? 美樹!」
むりやり引き剥がされて、横に押しのけられた。
背中から食器棚にぶつかって、痛くはないけど空気が肺から押し出されていく。
そのわたしの目の前で、わたしを突き飛ばしたみっちゃんのお腹にどこかで見たことがあるような赤いひもが巻き付いていた。
次の瞬間、みっちゃんの体が空を飛ぶように、台所から出る扉の向こうに消えてしまう。
となりのリビングから聞こえるみっちゃんの悲鳴。
わたしが駆けつけると、みっちゃんは大きなヤモリみたいな怪獣の下で仰向けに押さえ付けられていた。
「美樹、逃げて!」
わたしがリビングに来たことに気が付いたみっちゃんが叫ぶ。
ママや高橋先生と同じ言葉を。
だけどわたしはその言葉に従うよりも先にぽつりと呟いていた。
「パパ……」
わたしの呟きを聞いたみっちゃんが目をまんまるにする。
「パパって……も、もしかしておじさんなの!?」
「わかんないー。形が同じだけかもしれないしー」
「お、おじさん、止めてください。お願いだから。いやぁっ!」
お腹から解かれた長い舌が、今度は首元からTシャツの下に潜っていく。
それとは別に、しっぽの付け根あたりから伸びた白いひもがハーフパンツの裾から入っていくのが見えた。
パパとみっちゃんが子どもを作ろうとしている。
めったに顔を合わせないけど、みっちゃんがうちにお泊まりに来たときとか、パパとみっちゃんは仲が良さそうに見えた。
だけどみっちゃんは嫌がっている。
どうしてだろう。
子どもは好きな人と作るものだって教えられた。
高橋先生は相手が誰かわからないから嫌がってると思った。
ママはどうだったんだろう。
一昨日はすぐに部屋から出てしまったからよくわからない。
みっちゃんも時間が経てば、ママや先生みたいに嬉しそうになるのかな。
「美樹、早く逃げて! こんな姿見ないでぇっ!」
立ち尽くしていたわたしは、みっちゃんのその言葉で行動を開始した。
逃げてって言われた以上、逃げないといけない。
どうしたらいいかわからなくなったら、みっちゃんやママの言う通りにするのが1番いい。
だけどみっちゃんと怪獣がいるリビングを出て、どこに逃げればいいのかわからないことに気が付いた。
わたしの家には誰もいない。
学校は、他の人にあんまり歓迎されていないのはわかっていた。
だってわたしは陸上部の人じゃないし。
みっちゃんがいない以上、あそこに戻るのも意味がないと思った。
みっちゃんの家はここだから、みっちゃんの家に行くことはできない。
自分の家、みっちゃんの家、学校、他にどこへ行けばいいのかわからない。
それならみっちゃんがいるここが1番いい気がした。
だけどみっちゃんは見ないでって言ったから、リビングに戻るわけにはいかない。
結局わたしは、部屋を出てすぐの所で立ち尽くすはめになった。
背後からはみっちゃんの涙混じりの声と、ぐちゃぐちゃって音が聞こえてくる。
「きもちいい……こんなのおかしくなっちゃう。ダメなのに、おじさんにこんなことされて……」
しばらくすると、やっぱりみっちゃんの声もママや先生みたいになった。
「は、あ、あああ……また出てる……もう、ゆるして、おじさんとの赤ちゃんできちゃうよぉ……」
見えないから具体的にどんなことをしているのかはわからない。
出てるっていうのは子どもを作るために男の人が出すものだと思うけど。
「あ、あ、あ、またおかしくなる! また、あ、あああああああ!」
そして、みっちゃんの声がそれきり聞こえなくなった。
さっきまでがうそのように静かになる。
終わったのかなと思っていると、怪獣がリビングから姿を現した。
その舌の先で巻かれているのは、気を失っているのかぐったりとしているみっちゃん。
そのままわたしの前を通り過ぎ、開けっぱなしの玄関を抜けていく怪獣の後を、わたしは付いていくことにした。
気を失ったみっちゃんを運ぶ怪獣の後ろを歩いていると、突然ドスっていう音がして、その怪獣の背中に棒が生えた。
その棒は見る見るうちに数を増やしていって、怪獣はみっちゃんを放り出し、唸り声をあげながら暴れ始める。
そして、その棒が怪獣から生えたんじゃなくて、飛んできた物が刺さっているんだということにようやく気が付いたころには、怪獣はもう動かなくなっていた。
「こちらを向いて、手を挙げなさい」
声のした方向に顔を向けると、たしかボウガンとかいうのを構えた女の子がいた。
そのボウガンは間違いなくわたしに向けられている。
「早くしなさい」
命令された通りにする。
矢が刺さっても痛くはないだろうけど、怪獣みたいに死んでしまうかもしれない。
もしかしたら死ぬこともないかもしれないけど、試してみるつもりはなかった。
「一応教えておいてあげるけど、あなたを狙っているのは私だけじゃないから。これがどういうことかわかるわね?」
「どういうことー?」
わからなかったので聞いてみた。
「もし、あなたが私をどうにかしても、他の人が間違いなくあなたを撃つって言ってるの。
ちなみに首を動かしたら、その瞬間私が撃つから探そうなんて思わないことね」
「はーい」
撃たれたくないわたしは言う通りにするしかない。
それに自分で決めて行動するより、言われた通りにする方が楽だった。
「私の質問したことにだけ答えなさい。余計なことを言ったり、動いたりしたら撃つからね」
念を押すように言われて、わたしはもう1度はーいと返事をした。
「あなた、私を馬鹿にしてるの?」
「そんなことはないですけどー、これはわたしの地なのでー、気にしないでくださいー」
「まあいいわ、あなたは一体何者なの。どうしてその化け物と一緒にいて平気なのよ?」
「わたしはー、美樹っていいますー。それでー、高校生でー」
他に自分を説明するための言葉を探す。
そして大切なものを忘れていたことに気が付いた。
投げ出されたみっちゃんを指差して、
「そこにいるー、みっちゃ……」
んの友達ですーと繋げようとしたら背中に衝撃が来た。
そのまま前に倒れてしまう。
そういえば、動いたら撃つって言われてたんだった。
おでこが地面とこすれてガリガリいったけど痛くない。
背中には矢が刺さっているのもわかるけど、それもやっぱり痛くなかった。
起き上がろうとして、このまま死んだふりをしていれば、どこかに行ってくれるかもと思い直して動かないことにした。
「望、どうして撃ったの!?」
電話で話しているみたいで、相手が何を言っているのか聞き取れない。
「それはそうだけど、でも化け物に襲われない方法を聞き出せれば……」
その時、その人――名前がわからないからボウガンさんって呼ぼう――がいるのとは別の方向から悲鳴が聞こえた。
「望!? どうしたの、望!」
慌てた感じの声に、どしたんだろうとわたしはつい顔を上げてしまった。
そして、ボウガンさんと目が合ってから、わたしは死んだふりをしていたことを思い出す。
「あ、あなたが何かしたの……?」
いまさら死んだふりを続けても仕方ないから、わたしはのそのそと立ち上がる。
「望に何をしたのよ。今すぐ止めさせなさい!」
「なんのことかー、わかりませんー」
動くと刺さったままの矢がなんだか気持ち悪かったけど、ちょうど手の届かないところに刺さっていて自分では抜けなかった。
体が固いと不便だった。
「ば、化け物……」
「あ……」
ボウガンさんの向こうの家の屋根に、いつのまにか犬みたいな怪獣がいた。
見た目は犬だけど、すごく大きいし、普通の犬は屋根になんて上らないからきっと怪獣の仲間だと思う。
ボウガンさんに教えてあげようと思ったけど、聞かれたこと以外を言ったらまた撃たれてしまうかも。
背中の矢は平気だけど、目とかに刺さったら見えなくなっちゃうかもしれないからできれば撃たれたくないし。
そうやって悩んでいるうちに、怪獣が屋根の端からジャンプしたのが見えた。
「きゃっ、な、なに!?」
後ろから飛びかかられて、ボウガンさんがうつ伏せに押し倒される。
「い、いやああああ!」
自分の上に何がいるのかを知って、ボウガンさんが悲鳴を上げた。
怪獣の方はボウガンさんの体を押さえつけながら、首のあたりをクンクン嗅いだり、舌を出して舐め始めている。
「や、いやあ、たすけてぇ!」
「そう言われてもー」
「お、お願い、さっきまでのことは謝るから。何でもするから、だから止めさせてよぉ!」
怪獣が爪を使ってボウガンさんの服を破っていく。
ずいぶん乱暴なそれのせいで、ボウガンさんの白い肌に何本も赤い線ができていた。
痛そうだなとは思ったけど、わたしが言っても止めてくれないのは先生の時でわかっている。
それに最初は嫌がっていても、すぐに楽しくなるのもわかっていた。
と、そんなことを考えていたら、動かなくなっていたヤモリみたいな怪獣がまた動き出していた。
放り出していたみっちゃんを持ち上げて、またゆっくりと歩き出していく。
さっきのわたしみたいに死んだふりをしていただけなのかもしれない。
「じゃー、わたしはみっちゃんとー、一緒にいかないとですからー」
「ま、待って、おねがい、おねがいだからぁ……」
「だいじょうぶですよー。すぐに気持ち良くなるみたいですからー」
そう教えてあげて、わたしはヤモリの後を追った。
みっちゃんを運ぶヤモリがたどり付いたのは、別の学校の体育館だった。
「うわあー」
中に入ると、壁一面に生のお肉みたいなピンク色のブヨブヨがくっついていて、そこから女の人の首が生えている。
じめっとした空気と、甘いような酸っぱいような匂い。
全然動かないから、最初は死んでいるのかもと思ったけど、近くで見たら小さく息をしているのがわかった。
ヤモリがみっちゃんの体をその壁に押し付けると、あっという間にズブズブと埋まっていく。
そうして、みっちゃんも他の人と同じように首だけを出した状態になった。
わたしも試しに壁に手を当ててみたけど、ブヨブヨとした感触に跳ね返されて、全然中に入っていかない。
みっちゃんの時は勝手に吸い込まれていくように見えたんだけど。
あきらめて体育館の中を見回した。
ほとんどが知らない人だったけど、その中に高橋先生やみっちゃんのママがいた。
さらに視線を動かしていくと、すぐにわたしのママも見つかる。
そして、その隣には、
「あれー?」
わたしが、いた。
あれからわたしは、ずっとここにいた。
お腹もすかないし、眠くもならないから、ただずっとここにいて、ここで起きることを見ている。
わたしたちがここに来た少し後、ボウガンさんも運ばれてきて壁に埋められた。
それからしばらくして、部長さんや合宿所にいた他の人たちも運ばれてきた。
だけど、しばらくするとほとんど人が運ばれてくることはなくなった。
きっとこの辺にいる人は、みんなここに集まっちゃったんだと思う。
わたしの見ている前で、1人の女の人の体が壁からせり出してくる。
裸で、肘と膝から先だけを壁に埋めた状態になったその女の人のお腹は、すごく大きくなっていた。
そのお腹がボコボコと動いて、子どもを作るための穴から怪獣の赤ちゃんが顔を出す。
赤ちゃんを産み終えてお腹がへこむと、すぐに別の怪獣がやってきて、次の赤ちゃんを作る準備をする。
そしてまた首まで壁に飲み込まれていく。
その繰り返し。
ここにいる女の人はみんなそれを繰り返していた。
そしてそれは、壁の中のもう1人のわたしも同じだった。
それがわたしには嬉しかった。
ここではわたしも他の人と同じ事ができる。
他の人と同じ。
わたしがずっと欲しかったもの。
久しぶりになんだか眠くなってきた。
瞼が重くなってきて、そのままわたしは――