大学の食堂でカレーうどんを啜っていると、ポケットの中の携帯が震えた。  
何事かと引っ張り出してみれば、ディスプレイには非通知の文字。  
――またか……  
俺は少々げんなりしながら通話ボタンを押した。  
相手が誰か分かっているだけに、挨拶も投げやりだ。  
「はいよ。何?」  
……返事は無い。  
おかしい。いつもならお決まりのセリフが飛び出してくる筈なのに。  
もしや、こちらの想像していた相手ではなかったのだろうか。  
そんな疑念がちらっと脳裏を過ぎった。  
――瞬間。  
『もおおぉいい加減にしてええええええええええッ!』  
耳元と、そしてすぐ背後から甲高い悲鳴が上がった。  
思わず携帯を落としかけて、慌てて両手で持ち直す。  
「お、おい、いきなり大声出すなよ。ビックリするだろうが」  
『そんなの私の知ったこっちゃないわよ!  
どうして! どうして! どおおぉして! 後ろを振り向いてくれないのーっ!』  
「どうしてって、そりゃあ……決まってんじゃん」  
『何よ! 何が決まってるのよ!』  
「お前、『あの』メリーさんなんだろ?  
振り向いたら殺されるか呪われちゃうんだろ?」  
“メリーさん”と言えば、割と有名な怪談だ。  
何の前触れも無く電話が鳴り、それに出ると女の子の声で、  
『私、メリーさん。いま貴方の後ろに居るの』と言われる。  
そうして後ろを振り向いてメリーさんの姿を見たが最後、呪われるか殺されるかしてしまうのだ。  
俺だってそんなのはただの嘘っぱちだと思っていた。  
だが――三日前。  
 
その電話が俺の携帯にかかってきたのだ。  
女の子の声で『私、メリーさん。いま貴方の後ろに居るの』と。  
流石にその時は背筋に寒気が走った。頭が混乱して、額に脂汗も浮かんだ。  
いけないとは知りつつも、思わず後ろを振り返りかけて――ふと、気付いた。  
怪談では『後ろを振り向いてメリーさんの姿を見る』とお仕舞いなのだと言われている。  
だったら、ずっとメリーさんを見ないでいれば助かるのではないか、と。  
何の根拠も無い考えだったが、それは見事に的中していた。  
以来この三日の間、呪われる事も殺される事も無く――  
俺はひたすら後ろを見ない様に生活を送っていた。  
「俺は呪われたくないし、死ぬのもゴメンなんだよ。絶対に振り向いてなんかやらないぞ」  
『うぅ〜……じゃあ、呪わないし殺さないから。だから私を見てよ〜』  
こちらの決意が伝わっているのか、携帯越しのメリーさんに先刻までの勢いはない。  
それどころか哀願する様な鼻声になっている。  
しかし、俺は騙されない。  
同情心を誘っておきながら、振り向いた途端に殺す積もりでいるに違いない。  
「ふん。そんな声出しても無駄だ。見え透いてるんだよ」  
『見え透いてるなんて……非道い……私、ほんとに……』  
「だから騙されないって。大体、何もしないってんなら俺がお前を見る必要なんてないじゃないか」  
『必要あるから言ってんでしょうが! この鈍チン!』  
「……やっぱり芝居だったか」  
『…………あ』  
ぽつりと間抜けな声が漏れる。  
案外、メリーさんの頭は軽いのかもしれない。  
俺はわざとらしく大袈裟に嘆息してみせた。  
「んじゃ、それしか用がないならもう切るぞ。  
今日は午後一で講義があるから、さっさと昼飯食べないと間に合わないんだ」  
『ああー! ま、待って! 切らないで!』  
 
「……何だよ?」  
『お願い! お願いだから私を見て! そうしないと――』  
「そうしないと?」  
『そうしないと、他の人にとり憑く事ができないんもん!』  
「ふ〜ん……」  
成る程。だから俺が振り向かなくてもずっと着いて来ていた訳だ。  
ただ、そうなると――厄介な事になってくる。  
メリーさんが何処かへ行ってくれるのは望むところだが、彼女を見れば俺が死んでしまう。  
ならば……  
「じゃあ、一つ取引しないか?」  
『取引?』  
「そう。お前を見てやるその代わりに、俺を呪わないし殺しもしない。どうだ?」  
『……』  
沈黙。  
その間は逡巡か、或いは何か思惑があるのか。  
俺がどちらか判断する前に、メリーさんが言った。  
 
『分かったわ。貴方には何もしない』  
「誓うか? 絶対に何もしないって」  
『誓う。ぜっっったいに何もしない』  
「……よし」  
正直なところ、ちょっと心拍数が上がっている。  
メリーさんは「誓う」と言ったが、  
相手は幽霊(いや、妖怪か?)なだけに確実に安全だと言う保証はない。  
だが、恐怖心と共に、それと同じくらいの好奇心もあった。  
俺は携帯を耳に当てたまま恐る恐る――背後を振り向いた。  
『ああ……やっと……』  
感極まった様な、震えた声が耳朶を叩く。  
もっとも、俺はそんなもの聞いてはいなかった。  
そこに居た少女の姿に、全神経を持っていかれてしまった。  
まるで西洋の人形みたいなはっきりとした目鼻立ちに、白蝋の様な瑞々しい肌。  
背中の中ほどまである柔らかそうな蜂蜜色の髪は緩いウェーブを描いてさわさわと揺れている。  
ドレスみたいなワンピースに包まれた身体は風が吹けば飛ばされそうなほど華奢で……  
こんな可憐な少女が恐怖の怪談の主人公だなんて、とてもじゃないが信じられない。  
 
「う、うぅ……これで、これでやっと開放されるのね……」  
俺が言葉を失っている間に、メリーさんはその蒼穹を思わせる色彩の瞳に涙を溜めながら呟く。  
「いま思えば、こんな強情な馬鹿男に憑いたのが不覚だったわ……  
そうとさえ知っていれば……クソぅ、この私が三日も無為な時間を過ごすなんて……」  
「……」  
「おっと、こうしちゃいられないわね。さっさと次のカモを探さないと」  
じゃ、そういう訳で――と、そそくさと立ち去ろうとするメリーさん。  
俺はその小さな頭をむんずと掴んだ。  
「ちょっと待て、コラ」  
「い、痛い痛い! 何すんのよ!? 離しさないよぉ、このアホぉ!」  
メリーさんが腕を滅茶苦茶に振り回し、ぎゃあぎゃあと非難の声を上げる。  
時折、彼女の手が当たるのだが、その非力さと言ったらその辺の女の子とまるで変わらない。  
「さっきから馬鹿とかアホとか……年上に対する口の利き方を教わらなかったのか、お前は」  
つい数分前まで有った恐怖心は何処へやら。  
俺は躾の悪い子供を説教する様な気分でメリーさんの頭を圧迫していた。  
「うっさいわね! なんで下劣な人間如きにンなこと言われなきゃいけないのよ!?」  
「お前……」  
「約束通り殺さないでやったっていうのに無礼極まりないヤツね!  
いい加減にしないと、私を怒らせるとどういう事になるか、  
これでもかってくらい思い知らせてやるんだからぁ!」  
「ほう?」  
身の程をわきまえない生意気な子供を粛清してやるのは大人の義務だ。  
――ほんの少しだけ、思いのほか可愛らしくて非力なメリーさんを前に嗜虐心が疼いたというのもあるが……  
兎に角、俺はメリーさんの頭から手を離すや否や、  
拳を固めて彼女のこめかみを万力の様に挟み込んだ。  
「あ、え? ち、ちょっと、まさか……そんな……」  
俺の意図を察したのか、メリーさんが目に見えて戦慄する。  
 
だが、もう遅い。  
彼女のこめかみに添えた拳を、間接部を突き立ててぐりぐりと締め付けてやった。  
「か……あ……い、たいぃ……」  
「どうだ。ちったぁ反省したか?」  
「あ、ああぁ……あう、うぅ……ううぅ……」  
雨に打たれる捨て猫の様にメリーさんが呻く。  
彼女は苦しげに身を捩りながら、俺の手を弱々しく叩いて抵抗にならない抵抗をした。  
が――  
「ほれ、さっさと謝れ。そうすれば許してやるぞ」  
「……」  
はたとその抵抗が止まり、そして呻き声も止んだ。  
どうしたのだろう?  
不審に思って手を離すと、メリーさんはその場にへなへなとへたり込んでしまった。  
「えう……う、ぐ……ぐすっ……」  
「あ、あれ?」  
泣いている。まるで虐められた子供みたいに目を擦りながら。  
「えぐ、う……ひっく……うぅ……」  
意識していたよりも加減が出来ていなかったのだろうか。  
無論、俺としては単に懲らしめようとしただけで、泣かす積もりなんて毛頭無かった。  
それだけに、思いっきりうろたえてしまう。  
「ご、ゴメン。そ、そんなに痛かったのか?」  
「ひっく……ううっ……」  
「ほ、ほら、もう泣くなよ。周りに人だっていっぱい――」  
ふと。  
そこまで言って、今更ながら気付く。  
ここは大学の食堂だ。当然、昼食時には人で溢れかえっている。  
俺はそろりと顔を上げて、辺りを見回した。  
 
やはり――居た。  
それも一人や二人。否、数えられる人数じゃない。  
何十人と言う学生が、俺を遠巻きに白い目をして眺めていた。  
中には眉を顰めて仲間内で何やら囁き合っている連中までいる。  
それはそうだ。  
俺はいい歳した大学生で、メリーさんは(人間じゃないけど)どう見たって十代前半から半ば。  
傍目には、幼児虐待以外の何物でもないだろう。  
「え、え〜っと……あ、あはははは……  
ほ、ほら、いいコだなあ。よし、じゃあお兄さんとちょっと外に出ようか〜」  
俺は体の良い愛想笑いを浮かべ、メリーさんの肩を抱きながら早足で食堂を後にした。  
そう。背中に冷たい視線をちくちくと感じつつ……  
 
 
 
俺はメリーさんを連れてキャンパスを歩き回り、  
人気の無い一角にベンチを見つけるとそこに腰を落ち着けた。  
その頃にはどうにか彼女が泣き止んでくれていたのは、不幸中の幸いだったかもしれない。  
もっとも、  
「信じられない……悪夢、悪夢だわ……  
この私が、こんな男に公衆の面前で恥をかかされるなんて……」  
泣き止んだら泣き止んだで、  
それから延々と小言とも愚痴ともつかない事を一人ごちり続けているのだが。  
「嗚呼、これじゃあ私は幽霊の面汚しじゃない……こんな筈じゃなかったのに……  
こうなったらもう……この醜態を見た人間を皆殺しにするしか……」  
「……あのさあ」  
「何よ」  
流石にうんざりしてきた俺が声をかけると、メリーさんは不機嫌そうに半眼を向けてきた。  
 
当人としては威圧している積もりなのだろうが、はっきり言って可愛いだけだ。  
「メリーさんってさ、幽霊なんだろ? どうして幽霊がそんなに体面なんて気にすんだよ」  
「下等な人間には分からないでしょうけどね、私達には矜持ってもんがあるのよ!  
私達はね、人間どもから否定され、排斥され、あまつさえ娯楽の対象にされてるのよ!  
こんなの、許される事じゃないわ!」  
彼女は一頻り喚くと、昂った心中を鎮める様に大きく息を吐いた。  
握り締めた拳を震わせ、自らの胸を押し当てる。  
「だからね、私達は人間どもに復讐しているのよ。  
自分達が一番偉いと勘違いしている下等動物に恐怖を撒き散らしてやるの。  
そして、思い知らせるの。その脆弱さを、その矮小さを。  
そう……徹底的に諦観と絶望の淵にまで追い込む様なやり方でね」  
そう言って、メリーさんは顔を歪めた。  
俺には、彼女の言葉にどれだけ深い意味があるのかは分からない。  
しかし――そこから伝わってくる憎悪と赫怒だけは、何故かひしひしと感じ取れた。  
「じゃあ、どうして俺を殺さなかったんだよ」  
口にしてから「余計な事を」と思ったが、もう遅い。  
メリーさんはこちらを振り向くと、不思議そうに首を傾げた。  
「おかしな事を訊くのね。殺されたいの?」  
「んなワケないだろ。でも、そんなに人間を憎んでるなら、  
口先だけの取引なんて反故にして俺を殺しちまいそうなもんじゃないか」  
「そんな思考回路だから下等だと言うのよ」  
メリーさんは鼻を鳴らし、その顔に似合わない大人びた苦笑いをしてみせる。  
「さっき話したでしょ。私達は人間なんかよりずっと誇り高いのよ。  
少なくとも私は、裏切りや欺瞞はしない。人間との約束でもね」  
「そう、か」  
「ええ。そうよ」  
やはり、分からない。  
 
元々、人間と幽霊なんて相容れない存在なのかもしれないが。  
それでもメリーさんの胸の内はさっぱりだ。  
「……それにしても、妙な感じだわ」  
俺が密やかに悶々としていると、メリーさんがぽつりと呟いた。  
「憎むべき人間と話してるっていうのに、何故だかとても気分が軽い」  
「今まで人と会話した事なかったのか?」  
「無いわ。私を見た相手は、必死に逃げるか、泣いて赦しを乞うか、大抵そのどちらかだもの」  
どっちにしても殺すんだけど、とメリーさんは付け加えた。  
「虚しくないか、そんな事してて」  
また思った事が口に出てしまった。  
ひょっとして俺の心と口の間には電話線が繋がっているんじゃないだろうか。  
後悔より先に、そんな馬鹿な考えが脳裏を過ぎる。  
「その言葉は傲慢な人間だからこそ吐けるものだわ。  
復讐こそが私達の存在意義だもの。虚しいだなんて、微塵も思わない」  
冷え冷えとした口調で言うメリーさん。  
「……それも、悲しいな」  
一瞬――どうして、俺がそんな事をしたのか、自分自身でもよく分からなかった。  
もしかしたら、壊れてしまいそうなメリーさんの横顔に魅入られてしまったのかもしれない。  
或いは他の自覚できない理由があったのかもしれない。  
何にせよ、気付いた時には彼女の頬のそっと手を差し伸べていた。  
掌に伝わる感触は少し冷たいが、柔らかさは人間の女の子とまるで変わらない。  
「な――っ!?」  
メリーさんが蒼い目を見開く。  
俺は露わになったその瞳を真正面から見据えた。  
「ちゃんとこうして触れられるし、こんなに人間らしくて可愛いっていうのに。  
その気にさえなれば、人間として楽しく暮らす事も出来ると思うよ」  
「……」  
メリーさんは凍りついた様に硬直しているが……  
しかし、その白い頬にかすかな赤みが差すのを、俺は確かに見た。  
 
 
そうしたままどれだけ経っただろうか。  
ほんの数秒にも、或いはたっぷり数分にも思えた。  
不意に――何がきっかけだったのかは知らないが――メリーさんが、はっと息を呑んだ。  
「ばっ、馬鹿にしないで! 人間として過ごすだなんて、反吐が出るわ!」  
弾かれた様に俺の手を叩き落して立ち上がる。  
彼女はそのまま二、三歩ほど後退り、右腕を薙ぎ払った。  
「不愉快だわ! 馴れ馴れしく知った様な口利いて!」  
その瞬間。  
雰囲気が、一変した。  
寝苦しい真夏の夜の様な空気が周囲に満ちる。  
今度は額と言わず、全身から嫌な汗が噴き出した。  
ヤバい。上手く表現できないが、兎に角ヤバい。  
第六感とでも言うべき何かが激しく警鐘を鳴らしている。  
それなのに、俺ときたら意思に反して指先一つ動かない。  
「人間のくせに……人間のくせにいぃ!」  
風も無いのにメリーさんの金髪がざわざわと揺らめき、その瞳が瞬く間に鮮血色に染まってゆく。  
丁度それと同時だった。  
まるで耳の中で金属同士を擦り合わせる様な凄まじい耳鳴りがした。  
気が狂わんばかりの騒音に思わず耳を塞ぐが、  
そんな事などお構い無しに大音響は俺の脳髄を揺さ振ってくる。  
「不愉快よ! その言葉も仕草も! 何もかもが不愉快だわ!  
お前なんかに私達の――私の何が分かるっていうのよ!」  
メリーさんがヒステリックに叫んだ。  
すると、今度は急に喉が締め付けられ、全く呼吸が出来なくなってしまう。  
さながら不可視の巨人に首を絞められているみたいだ。  
俺はよろめいた拍子に無様にベンチから転げ落ち、  
滑らかなアスファルトに這い蹲りながら得られない酸素を求めて喘いだ。  
 
「あはははっ! 苦しい? 苦しいの? どう? 死にたくない? 死にたくないでしょ?  
だったら地面に頭を擦りつけながらその戯言を詫びなさい!  
泣き喚きながら弱小生物らしく命乞いしてみせなさいよ!」  
意識が朦朧としてくる。  
実際、メリーさんの甲高い声も遥か彼方のものの様に聞こえた。  
だが決して彼女の言う通りにはするまいと、それだけは決意していた。  
ただ、じっと。深紅の瞳だけを見つめて。  
「……そう。その気は無いのね。  
じゃあ、そうやって苦しみながら死んじゃいなさい!  
他の人間みたいに私を恐れ憎しみながら死んじゃえばいいんだわ!」  
絶対的な死の宣告。  
やはりメリーさんは化物だ。俺の発言は軽率だったかもしれない。  
だが――  
それらに偽りは無かった。  
彼女が可愛いと思ったのは本当だった。  
彼女が人間としてでも楽しく暮らせればいいと思ったのは本当だった。  
彼女が復讐の為に人を殺すのを悲しく虚しい事だと思ったのは本当だった。  
だから――俺は、メリーさんに向ける視線に恐れも憎しみも孕ませない。  
彼女が人間を憎むのは、人間が彼女を憎んでいるからだと思う。  
恐怖や憎悪の対象となり、ただひたすら疎外され、時には嘲られる。  
そんな事は人間でさえ耐えられないのに、人間でない彼女が耐え得る事が出来るだろうか。  
否。断じて否。  
確かに彼女はこうして超常的な力で人間を殺せる。  
しかし、その心は人より幼く弱い。  
今までの言動からしてそれは明らかだ。  
我侭で癇癪持ち。短気で喧嘩っ早い。子供と同じ……否、下手をすればそれ以下だろう。  
それなのに、メリーさんは幾万もの悪意をその小さな身体に浴びせられてきた。  
 
彼女が幽霊という存在であったばかりに。  
未成熟な心はどれだけそれに蝕まれてしまったのだろうか?  
そう思った時、俺は恐れも憎しみも捨てた。  
多くの悪意が彼女の心を創り上げてしまったのなら、  
一人ぐらい憐れみを与えて殺されてやる馬鹿が居てもいいではないか。  
(そう、だろ……? ま、欲を言えば……もうちょっと……遊びたかったけど、さ……)  
誰にともなく俺は胸中で一人ごちた。  
そうして、意識が途切れる――  
「……どう……して……?」  
――直前。  
メリーさんが不可解な現象でも目にしたかの様に、呆然と呟いた。  
「どう、して? 貴方、死ぬのよ? 私に殺されるのよ?  
どうして私を恐がらないの? どうして私を憎まないの?」  
はたと耳鳴りが止み、首を締め付けていた奇怪な力も消え去った。  
俺は陸に上がった水難者の如く、欠乏していた酸素をひゅうひゅうと吸い込む。  
途端に嘔吐感が込み上げたが、こんな場所で吐瀉するわけにもいかず、  
喉元まで出かかった何とも形容し難い味を涙目になって飲み下した。  
畜生。こうなる事が分かっていたらカレーうどんなんか食べなかったのに。  
「分かんない……人間なんて、死んだって構わないのに……殺したって何とも思わないのに……  
どうしてお前みたいな奴を殺せないの……? 分かんない、よぉ……」  
メリーさんが頭を抱え、ワンピースが汚れるのも構わずに跪く。  
「分かんないよぉ……何にも、分かんない……よぅ……」  
その様は、広大な森に迷い込んで怯えている風にも見えた。  
自分が何処に居るのか、何処へ向かっているのかも分からず、斜陽と共に濃くなる闇に震えている。  
そんな、ただ儚く脆い存在に。  
俺はどうにか呼吸を整えると、小さな身体を更に縮こまらせているメリーさんに歩み寄った。  
「わ、わた、し……ど、どうしたら……こんな、こと……い、今までなかった、のに……」  
 
戸惑いに滲む空色の瞳が俺を見上げてくる。  
メリーさん自身には全く理解できていない様だが、  
俺には何となく彼女が俺を殺せなかった理由が分かる気がした。  
彼女は、人の悪意に対して怯懦の念を抱いていたのだろう。  
――『私達はね、人間どもから否定され、排斥され、あまつさえ娯楽の対象にされてるのよ!』  
――『だからね、私達は人間どもに復讐しているのよ』  
その幼さ故に過敏で繊細。その幼さ故に冷酷で陰惨。  
だからこそ自分に悪意を向ける人間を躊躇いも無く殺す事が出来たのだ。  
気に入らない人形の首を捻り切ってしまう様に。  
「いいんだよ」  
彼女の心は悪意と言う名の土壌に種のまま埋まっている。  
だが、まだ根は張っていない筈。俺を殺せなかったのだから。  
きっと……救い出してあげられる。  
「それが普通なんだ」  
少々陳腐ではあるかもしれないが――俺にはこれしか思いつかなかった。  
膝を折って彼女に目線の高さを合わせ、ゆっくりとその細い身体を抱きしめる。  
川の様に言葉を連ねるよりはこの方が建設的に想いを伝えられるだろう。  
……嗚呼、そうか。そうだったんだ。  
こうして冷感な人間味の無い身体に触れて、改めて思い知った。  
俺はメリーさんに心を奪われてしまっている。  
ついさっきまで彼女に殺されかけていたと言うのに。我ながら驚くほど盲目的だ。  
たとえそれが幽霊の呪縛だったとしても、それならそれでいい。  
この悲しくも愛おしい少女になら呪われようが殺されようが構うものか。  
「……」  
腕の力を緩めて少し身体を離すと、メリーさんは無言のまま物問いたげな視線を投げかけてきた。  
俺が何をしたいのか推し量りかねているのだろうか。  
だとしたらメリーさんにこの手の経験は無いのかもしれない。  
 
まあ、幽霊にも人間みたいに愛情や恋慕と言った概念があるのかどうか、そこからして疑問だが。  
それでも、この想いは知ってもらいたい。  
俺は一文字に結ばれたメリーさんの唇に、素早く自分の唇を重ねた。  
「んっ……んん!?」  
突然の事に驚いたのか、メリーさんがリスの様な目を更に大きく見開く。  
何やら言おうとしているらしいが、口を塞がれているので意味を成さない声が漏れるばかりだ。  
俺はたっぷりとその柔らかな感触を味わってから、おもむろに顔を離した。  
すると、それを待ちかねていた様に彼女は深々と息をついた。  
「なんだ。息、止めてたのか?」  
「アンタがいきなり口を塞ぐからじゃないの……」  
何処と無く突き放した語調だが、そこに勢いはなく、むしろしおらしさすら醸し出している。  
メリーさんは落ち着かない様子で目を伏せ、自らの胸を抑えた。  
「そんなことより……私に何をしたの?」  
「何を、って……」  
「胸の辺りが、ヘンだわ。上手く言えないけど……凄く、苦しくて……締め付けられるみたい」  
メリーさんが顔を上げ、俺を見つめてくる。  
その瞳の蒼色が僅かに揺らいで見えるのは単なる錯覚だろうか。  
「ねえ、私に何をしたの? これは一体何なの?」  
俺はその疑問には答えずに再び口唇を交えた。  
今度は先刻の様なソフトなキスではない。  
上唇を吸い、その端から端までを軽く舐ってから彼女の口腔へと舌を滑り込ませる。  
乱雑にはならない程度の力加減で歯を押し退け、やはり小さな舌を探り当てた。  
「ん……あ、むぅ……」  
メリーさんの喉の奥から苦悶とも法悦ともつかない喘ぎが漏れる。  
そういえば、彼女はさっきも息を止めていた。もしかして今もそうなのだろうか。  
俺は文字通り目と鼻の先に在るメリーさんの顔色を窺った。  
「む、あ……んん……」  
 
薄く上気した頬。目尻に溜まった涙。切なげに寄せられた眉根。  
まるで媚態を帯びた人形だ。一つの芸術の如き艶やかさがある。  
そんな少女の口内をこうして貪っているのだ――  
改めて認識すると、抑え難い興奮が心の奥底を突き上げてくるのが分かった。  
それまで以上に激しく――良く言えば情熱的に――悪く言えば暴力的に――舌を絡ませる。  
「んああっ……は、むぅ……」  
舌を送り込み、或いは吸い込み、どちらのものでもなくなった唾液で喉を鳴らす。  
実際にそんな味がする筈がないのに、飲み下した液体はやけに甘ったるく感じられた。  
一頻り舌を絡め合ってどちらからともなく唇を離すと、  
濃密な接吻の余韻を残すかの様に透明な橋が架かり、そして切れた。  
「――はあぁ……」  
陶然とした半眼の焦点は曖昧なまま、メリーさんが桃色に染まった吐息を漏らす。  
そこには聞いている方がぞくりとするほど妖艶な響きがあった。  
「やっぱり、ヘン……頭がぼんやりして、身体が熱くなってる……」  
濡れた唇にその綺麗な指先を添え、確かめる様な口調で呟くメリーさん。  
かなり扇情的な仕草なのだが、果たして彼女自身に自覚は有るのか無いのか。  
「でも――心地良いわ。貴方もそうなのかしら?」  
「ああ」  
だったらもっと余計に心地良くなってみたいか。  
流石に恥ずかしくてそんな台詞は言えないが、その代わりにもう一度メリーさんを抱きしめる。  
確かに、暖かい。  
どうせならもっと熱く、お互いに浮いてしまうほど熱くなりたい。  
そんな思いに駆られ、俺はメリーさんを抱き上げてベンチに座らせた。  
「ん……あ……」  
啄ばむ様に口づけし、徐々に唇を下げてゆく。  
喉元を少し強く吸ってやるとメリーさんはびくりと身体を震わせた。  
「はっ、あんっ……ふあぁ……っ」  
 
一段と高くなる甘い声。  
どうやら首への刺激に弱いらしい。  
そうと知った俺は調子に乗って何度も吸ったり舌先で舐めたりした。  
その度に彼女は可愛らしく震え、色づいた声を上げる。  
「んっ……あぁっ……」  
俺は愛撫を続けながらワンピースの裾に手を差し入れた。  
指で滑らかな足を辿り、その付け根へと触れる。  
柔らかな恥丘に、ぴったりと閉じた割れ目の感触がダイレクトに伝わってきた。  
(――って、下着穿いてないのか!)  
予想外の事に思わず唖然としてしまうが、すぐに気を取り直して手を動かす。  
そこは産毛さえ生えていない様なつるりとした触り心地だった。  
僅かに熱を帯びた秘所に人差し指を差し込んでみる。  
「あっ、ふああぁ!?」  
その瞬間、メリーさんが嬌声と共に大きく首を反った。  
露わになる病的なまでに白い喉。外見に似合わない官能的なパーツだ。  
だが、俺はそれよりも指を締め付ける力の強さの方に気を取られていた。  
まだ半分程度しか入れていないというのに、そこはぎゅうぎゅうと俺の食指を挟み込んでくる。  
「はあっ……あぁ、ああ……っ」  
圧迫感に抗って間接を折ったり、或いは変則的に出し入れする。  
その甲斐あってか、彼女の中から熱い液体が溢れてくるのが分かった。  
これなら大丈夫だろうと判断し、更に中指も加えて秘所を掻き乱す。  
膣内を拡げる様に手を回転させると、  
メリーさんは口元から涎を垂らしながらあられもなくよがった。  
ふと、そうしている間に、ぬるぬるとした彼女の内側にあって僅かにざらついた部分が指を掠めた。  
「くぅ、ああ……あああああ――ッ!」  
そこを重点的に擦ってやると、メリーさんが一際高い声を上げて四肢を突っ張った。  
程無くして、くたりと糸が切れた人形の様に脱力する。  
 
「は、あ……はあ、はあ……」  
どうやら、達してしまったらしい。  
彼女は浅く早い息を吐きながら虚ろな瞳を何処かへ向けている。  
と――その蒼い瞳から透明な雫が零れた。  
俺はそれを唇で拭い、秘所から指を抜いた。  
「あ、ん……」  
ただそれだけでメリーさんは腿を痙攣させ、悩ましげな吐息を漏らす。  
ワンピースの中から白日の下に姿を現した俺の二本の指はぐちゃぐちゃに濡れていた。  
それを見たメリーさんが恥ずかしげに俯く。  
「可愛いよ」  
赤く染まった彼女の耳元で囁くと、  
「いじわるぅ」  
舌足らずな声音でぽそっと言われてしまった。  
俺としては率直に褒めた積もりだったのだが。  
「……ったく」  
捻くれていると言うか、子供っぽいと言うか。  
俺は小さく苦笑し、可愛らしく頬を膨らませているメリーさんの頭を撫でた。  
「なあ」  
「……何?」  
「俺は、君の事が好きだ」  
静寂が降りる。  
この告白を彼女はどう思っているだろう。  
「君はどうだ? 俺の事が好きか?  
もしそうでないのなら、これ以上の事はしたくないんだ」  
更に沈黙。  
メリーさんの答えがどちらにせよ、「好き」か「嫌い」かをその口から聞く必要がある。  
それまでは俺も黙っている積もりだった。  
 
「……」  
まるで文字盤の針を止めてしまった様だ。  
呼吸も。風も。何気なく拾える些細な音さえも。  
何も、無い。  
「……」  
やがて――  
「……分からないよ……」  
ぽつりと、メリーさんが呟いた。  
「分からない、けど……止めないで欲しい。続けて欲しい。そう思う。心から」  
「そうか……」  
残念では、ある。  
だがそれが答えである以上、これより先の行為に及ぶわけにはいかなかった。  
俺はメリーさんから手を離し、彼女の隣に腰掛けた。  
「こういうのは、欲求だけでやってしまうモンじゃないんだ。  
嘘も掛け値も無しにお互いを『好き』って居える関係じゃないと駄目なんだよ。  
だからこれ以上は出来ないし、するべきじゃない」  
言い切って、メリーさんに向き直る  
「でも、俺は君にそういう感情を教えてあげたいんだ。  
人間が持ってるのは悪意だけじゃない。きっと君にもそれが分かる筈だ。  
もし君さえ嫌でなければ――それまで、俺の傍に居てくれないか?」  
嗚呼、まるで初恋の相手に想いを伝える気分だ。  
否。あの時よりもずっと緊張しているかもしれない。  
俺は背中に汗を流しながら、じっとメリーさんの返事を待った。  
「……馬鹿ねえ」  
不意に、メリーさんが口元に薄い笑みを浮かべた。  
ベンチから立ち上がり、ゆっくりと歩を進める。  
「何を勘違いしているのかしら。この下等動物は」  
 
くるりと彼女が振り返る。  
スクリーンの一齣の様に、金髪が軽やかに宙を舞った。  
 
 
 
「ん……」  
浅い眠りが途切れる。  
一瞬、頭が混乱して――すぐに合点がいった。  
あれは昔の光景だ。  
昔、と言ってもほんの一年ほど前の事だが。  
「どうかしたの?」  
俺が動く気配を感じ取ったのか、耳元で聞き慣れた声が尋ねてくる。  
目を向ければ、同じベッドの上に横たわった蒼い瞳の少女がこちらを見つめていた。  
毛布で裸の胸元を隠し、心なし憂わしげな表情を浮かべている。  
俺はそんな彼女を安心させる様に微笑んだ。  
「いや、何でもない。ただちょっと、夢を見てたんだ」  
「夢?」  
「ああ。お前を初めて見た時の夢」  
あの時の事は今でも鮮明に覚えている。  
会話の一字一句たりとも忘れてはいない。  
「なあ」  
その光景を思い出しながら彼女に声をかける。  
あの時、彼女は振り返って言った。  
『貴方に頼まれなくたって、それを教えてもらうまでずっと貴方に憑いてやるんだから』  
結局、幽霊の少女は人と交わり、あらゆる事を知った。  
無論、綺麗なものだけを見た訳ではない。  
正も負も区別無く人間の持ち得るもの全てを彼女は見た。  
 
その上で――彼女はこうして俺の腕に頭を預けている。  
「俺の事、好きか?」  
「な、なんでいきなりそんなこと訊くのよ!」  
「どうなんだ?」  
繰り返し問うと、彼女は頬を染めながら目を背けた。  
「す……好き、だけど」  
消え入りそうな声でそう言い、またもや心配そうにこちらを向く。  
「どうしてそんなこと訊くの?」  
「何となく訊いてみたかったから」  
真意は適当にはぐらかしてしまう。  
彼女は納得しかねる表情を見せたが、頭を撫でてやるとくすぐったそうに目を細めた。  
俺は、きっとこの少女に呪われている。  
彼女はこの一年、まるで成長する気配を見せなかった。  
恐らく俺がどれだけ老いようとも――いつか永劫の眠りについたとしても、このままで在り続けるだろう。  
俺だけが人間としての性ゆえに死へと辿り着くのだ。彼女一人を残して。  
それは耐え難いほど悲しい事だ。  
永遠の世界で俺は永遠に孤独でいなければならないのだから。  
もし彼女に出逢わなければ、死をこれ程までに恐ろしく感じる事はなかった筈だ。  
愛せば愛した分だけ……まだ遠い筈の終焉が、恐い。  
でも――それでも――  
「俺も愛してるよ」  
これだけは、変わらない。  
限りある時間の中で、精一杯、彼女を想い続けよう。  
永遠に少女の小さな胸に刻まれる様に……  
 

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