「うみっはひろくてっおおきなおっふろっ〜おおきなっおっふろはっうみのひっ〜♪」  
風呂場から筆舌に尽くしがたい歌が流れてくる。どうやら彼女の上機嫌はいまだ続いているらしい。  
俺は文庫に栞を挟んで脇に置き、缶コーヒーを一口あおった。  
「まぁ海なんて久しぶりだったからな」  
呟いて、もう一口。冷たくて心地いい感触が喉を通った。  
結局太陽が沈むまで海水浴を満喫し、心地よい疲れを伴って家に帰ってきた。  
夕食は駅前のファミリーレストランで済ませたので、後はもう寝るだけである。  
いつの間にか歌と水音が聞こえなくなっていて、やがて扉の開く音。  
そして一分もしないうちに、彼女が小走りで俺の元へ来た。  
裸にバスタオルを巻いただけの格好で。  
「ね、いつもの〜」  
「お前な……。せめて下着を付けてからにしろ」  
俺は呆れながらも自分のTシャツを脱ぎ、渡す。  
ちなみに俺はこいつよりも先に風呂に入っているので、当然このシャツは洗濯したての清潔なものだ。  
「えへへ〜」  
彼女は嬉しそうにそれを抱えると、  
「じゃ、着てくるね〜」  
再び脱衣所へ消える。  
俺はため息を吐いて、傍に用意してあったもう一着のTシャツを着込んだ。  
彼女は何故か俺の着ている服を寝間着にする。『俺の』ではなく『俺が着ている』服を、だ。  
たとえ10分しか着ていないものだろうがお構いなしである。  
わざわざ剥ぎ取らないでもそこらにあるのを着ればいいと思うのだが、何やら彼女なりのこだわりがあるらしい。  
 
「お風呂あがったよ〜」  
いつもの呑気な声と共に、彼女が姿を見せる。  
着ている服は当然、俺から強奪したTシャツ。ちなみに下着はピンク。  
何故そんなことがわかるのかというと……。  
「……スカートくらい履け」  
「やだ〜。暑い〜」  
そう言って彼女は俺の隣に腰を下ろす。  
またしても俺の缶コーヒーを強奪し、にへら〜と締まりのない笑顔を浮かべた。  
「……何だ?」  
「楽しかったね〜海の日〜」  
「まぁな」  
楽しかったのは海の日ではなく海水浴だと思うのだが、突っ込むのも野暮だろう。  
それに、楽しかったことに変わりはない。  
「ひっつくな。暑い」  
「やだ〜寒い〜」  
さっきまでは暑いとか言ってただろうが。  
そんな会話を時折混ぜながら、俺は読書をし、彼女はコーヒーを口に運ぶ。  
そんないつもの時間。  
だがやがて、それも終わる。肩に重みを感じたので隣を見ると、  
「ふにゃ〜」  
姫のおねむの時間らしい。俺は仕方なく、  
「うら」  
「ひゃうっ」  
デコピンをくれてやった。  
「寝るならベッドで寝ろ。風邪ひくぞ」  
「わかった〜」  
ふらふらと彼女はベッドへ向かい、ころんと横になる。  
残された俺は本を閉じ、ベランダへ出た。扉は閉めない。  
こうすればあいつにも涼しい風が行って、眠りやすいだろう。  
 
あの様子からすると5分くらいで……  
「つんつん」  
「うぉ!」  
いきなり脇腹をつつかれ、驚き振り返った俺の視界に入ってきたのは、ベッドにいるはずの彼女の顔だった。  
「忘れ物〜」  
彼女は内緒話をするように、口元で手招きする。何の話だ、と訝しみながら耳を寄せ――  
「んっ」  
ようとしたら、唇を奪われた。  
「えへへ〜。おやすみのキス〜」  
呆気に取られた俺を残して彼女は。  
「おやすみ〜」  
いつもからは考えられない俊敏さで部屋の中へ消える。ちなみに普段、おやすみのキスなどしない。  
「まったく、あいつは……」  
とっくに乾いた頭をガシガシと掻く。  
それから30分、火照った身体を冷ますために、部屋へは戻れなかった。  
 
 
暗がりの中、足音をたてないように慎重に歩く。  
キッチンで一杯麦茶を飲み、ベッドへ向かおうとすると、壁に掛けてあったカレンダーが目に付いた。  
何も予定が書いてなかった日に、ぐるぐると赤丸が付いてある。  
その日はもうすぐ過ぎようとしている今日。つまり海の日。  
近づいてよく見ると、丸っこい字で、  
『また行こうね〜』  
そうメッセージがあった。  
「いつの間に書いたんだか」  
えへへ〜という彼女の笑い声が聞こえてきそうだった。  
俺は小さく笑うと、犯人が寝ているベッドへ向かう。  
久々にはしゃぎ過ぎたのか、彼女は起きる様子もなく、すやすやと熟睡していた。  
ベッドは決して小さくないが、二人で眠るには十分とは言い難い。  
それでも一緒に眠ることは多いが……。  
まぁ、今日は気持ちよく寝かしてやろう。  
俺は彼女の髪をそっと撫でて、一応念のため本当に眠っているか確認した後、  
「そうだな。また行くか」  
メッセージの返事をそっと呟いて、彼女の額に口づけた。  
そして夏用の毛布だけ腹に掛け、床に寝そべる。  
「おやすみ」  
こんな日も、なかなか悪くない。  
 
 
///////////////////  
 
 
朝。目が覚めると。  
「…………おい」  
「く〜」  
彼女の顔が目の前にあった。  
どうやら夜中に一度目を覚まし、ベッドに戻らず俺の隣に来たらしい。  
しかもちゃっかり俺の右腕を枕にしている。それどころか足や腕も巻き付けている。  
抱き枕か、俺は。  
思わずため息が出る。  
「しょうがない奴……」  
 
 
さてと。  
楽しくて、退屈で、  
嬉しくて、悲しくて、  
平凡で、とんでもなくて、  
そしていつも彼女が隣にいる、  
そんな『今日』を始めよう。  
 
 
(おわり)  
 

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