夏の日は長い。その長い夏の日中も終わって、あたりを夜のとばりが覆う。もう真夜中である。しかし、啓太の仕事はまだ終わらなかった。
木戸バネ工業という、亡き父から継いだ小さな工場は、一時期、倒産廃業状態になっていたが、業績不振の原因となっていた元請け会社の不祥事が解決した途端、まるで何もなかったかのように元の状態を取り戻した。
もとの取引先からの注文が再び来て、解雇せざるを得なかった元の従業員を呼び戻し、本来のあるべき姿を完全に取り戻した。
家族4人での暮らしも今まで通りに軌道に乗っている。亜沙子は工場の手伝いで忙しいし、檀(だん)も元気に通っている。変わったことといえば、優(ゆう)が学校に戻るや否や、村上厩舎でバイトを始めたことだろうか。
(いろいろあったもんな。本当に、いろいろ・・・)
従業員たちの帰った作業場で、啓太は一人、ここまでの苦悩を想起した。
思えば、事業の行き詰まりからしばらくの間は、まさに「踏んだり蹴ったり」の日々だった。今さらながら、アルバイトで食いつないでいた時期の苦しさがまざまざと思い出された。
いちばんつらかったのは、やはり交通事故であったろう。リハビリがはかどらず、妻・亜沙子との仲も一時的だがしっくりいかない時期があった。
(思えば、あのときだったかもな・・・)
啓太にとって、再び自信を取り戻せたと瞬間だったと今にして思い出すのは、四万(しま)温泉の居候時代の最後の時期、リハビリ中の不自由な右手で、再び父譲りの器具で手巻きバネを作ることに成功したときだったろう。
そのときのことを思い出すと、啓太は誇らしく思うとともに、今でも一抹の恥ずかしさを感じることがある。
あの晩、啓太は一人で徹夜したのだ。
なかなか手が元通り動いてくれない!もう手巻きバネは作れないのだろうか。・・・そんなくさってしまった啓太を元気づけようとしたのだろう、あの日、優がわざわざ高崎の工場から手巻きバネの器具を運んできた。
「お父さん!私も学校に戻って、またがんばろうって決めたから。だから、お父さんももう一度がんばって!私も檀も、手巻きのバネを作れる立派な職人のお父さんがすきなんだよ!」
娘にそう言われて、なお逡巡している啓太ではなかった。
自由の利かない手を駆使して、何とかかつてのように手巻きバネをこしらえようと挑んだ。
「もう遅いわよ。寝たら?」
と亜沙子が言ったが、啓太は
「いや。もう少しだ」
と言って、必死の作業を続けた。
「先に寝てていいぞ。俺はもう少しやってみる」
「でも・・・」
と、なおも心配そうな亜沙子を先に寝かせて、啓太は孤独な戦いを続けた。
傍らには、亜沙子と、そして最愛の優と檀とが穏やかな寝顔を啓太に向けている。
もう時計は3時をまわっていただろう。部屋のあかりを落として、ひとり、暗いスタンドの明かりを頼りに啓太は作業を続けていた。
(ああ。どうしてもダメだ。どうしてだろう。ここの微妙な曲線の感覚がどうしても思い出せない)
啓太が悩んでいた「微妙な曲線」とは何だったのか。それは、バネの専門家でない者には、生涯、理解できないほど「微妙」な要素だったのだろう。しかし、啓太は渇するように心の中でうめいた。
(バネの・・・バネの・・・せめて、サンプルの一本でもあれば)
と、考えて、ハッと気づいた。
(サンプル・・・そうだ!)
啓太は、傍らで静かに眠っている優を見た。そして、檀たちを起こさないように、そっと優に近づいた。
(優・・・ごめんな。後で戻しといてやるからな)
啓太は、優の寝顔を見下ろしながら、手に握ったコントローラーにパスワードを入れた。
ガチャ。
静かな音をたてて、優の頬から顎のラインが外れた。啓太は優の顔をそっと掴むと、そのまま持ち上げる。
カポッ。
優の顔が取り外される。耳から前、髪の毛から下は、完全に機械が剥き出しとなった。
人間の瞳にあたるカメラアイは、起動中であれば赤く光っているところだが、今はスリープ中なので、点灯していない。
久々に見る「娘」の「素顔」である。最初はメンテナンスのとき、人間とまったく同じ肌の表皮の下から金属フレームと赤外線アイが現れるたび、どうしても不気味と思う感情を禁じ得ないでいたが、もうすっかり慣れていた。
(よいしょ。ここから外せるな)
プラスドライバーで優の右頬のバネを一本、取り外した。そのバネを大事そうに握ると、啓太は、また元通りに優の顔カバーをはめて、再び机に向かった。
(うん、そうだ、そうだ。この角度だな)
職人としての「カン」を取り戻したとは、こういう状態を言うのだろう。あんなに悩んだのが嘘であるかのように、啓太にとっての久々の自作手巻きバネは完成した。
(やった・・・やったぞ・・・)
こんなに疲れたのは久々だった。しかし、こんなに心地よい疲れも久々だった。
「おはよう、お父さん。あれっ!?」
目を覚ました檀が頓狂な声を上げた。
「お父さん、バネができてるっ!」
その声に気づいて、亜沙子と優も起き出した。
「わあっ、すごおいっ!」
「やったね、お父さんっ!」
亜沙子が、檀が、優が、口々に祝福した。感無量の啓太は、ただただ、満足げに家族の顔を見つめた。
(・・・・・・・!?)
おそらく、亜沙子のほうが一瞬だけ先に気づいただろう。何も言わず、ただ、啓太のほうに目を向けた。
(・・・・・・・)
啓太は思わず、視線をそらした。そうだ、しまった。忘れていた。
檀は満面の笑み。優も満面の笑み・・・ではない。顔の左側いっぱいに笑みを浮かべ、しかし、顔の右側はまったくの無表情である。
(あなた、さては・・・)
亜沙子が啓太をにらみつけた。思わず、目のやり場がなくなって、狼狽する啓太だった。
「お姉ちゃん、どうしたの?嬉しくないの?何で、半分しか笑ってないの?」
檀の無邪気な声に優は、
「えっ?何のこと?」
と言って、檀に微笑みを投げた。顔の左側だけ。
いやあ、あのときは参ったよなあ。
あの朝のことを思い出すと、今でも穴があったら入りたいような気になる。
(ごめんなぁ、優)
今も傍らでスリープしている優の顔を見ると、顔の中のバネを戻し忘れたことを心底から詫びたくなる。
しかし、最近の何もかも順調な暮らしの中では、あの後、亜沙子からさんざん怒られたこと、ごまかすのに苦労したことさえ、楽しい思い出である。