平穏な日々に、ちょっとした驚きが走った。亜沙子が懐妊したのだという。啓太と亜沙子にとって、檀(だん)に続いて、二人目の子どもということになる。  
 最初の子、つまり啓太夫妻が結婚するきっかけともなった子どもが流産していなければ、三人目の子どもとなったはずだ。もしそうだったならば、優(ゆう)はこの家にいなかったことになるが。・・・  
 
 優は、高崎に戻って学校に復学したものの、一時期カウンセリングの勉強をしに大学に行きたいと言っていた志をまるで忘れたかのように、近頃は勉強そっちのけでアルバイトに夢中になっている。優のアルバイトとは、あの村上厩舎での厩務員見習いであった。  
 厩舎の主人である村上は、唯一の厩務員だった太郎が結婚し東京に住むと決めたのを機に、厩舎を閉じることを考えていたが、太郎が琴子との婚約を解消し、高崎に残ることにしたため、今は優と3人で厩舎を続ける決意を固めていた。  
 
 ある日、村上が優に  
「優ちゃん、馬の出産って見たことないだろ。一度、見てみるといい」  
と言って、ビデオテープを渡した。  
「はあ。ありがとうございます」  
と、優は言ってみたものの、なぜ村上が急にそんなビデオを貸す気になったのか、意図はわからなかった。  
 が、ともかく翌日、両親と檀とともに、そのビデオを見ることにした。  
 ビデオは感動的だった。必死になって子馬を出産する母馬の姿、生まれ落ちて、最初はなかなか立てない子馬が必死に立ち上がろうとする姿を見て、檀は  
「がんばれっ!」  
と声援を送った。  
 優は、ふと亜沙子を見たとき、母の涙に気づいた。  
(お母さん・・・泣いてる・・・)  
 
 亜沙子は、まだふくらみかけの自らの腹部をいとおしそうになでながら、  
「私の・・・私のおなかにも、新しい命が宿っているのよね。新しい命が・・・」  
と、感極まった声でつぶやき、満足げな微笑みを見せた。  
 母のその言葉を聞いて、優は、このビデオを村上が貸した意図がやっとわかった気がした。そうか、先生はお母さんがマタニティーブルーなのを知って、励ますためにこれを見せてくれたんだ。・・・  
 
「おーい、赤ちゃーん、聞こえますか〜。僕がお兄ちゃんですよ〜」  
 亜沙子の腹部に向かって呼びかける檀のおどけた声に、部屋の空気がなごんだ。  
「お母さんのおなかで、新しい命が育っているんだね」  
「そうよ、優」  
「私も、いつか元気な赤ちゃん産めるかなあ」  
 
(優、それは・・・・・・)  
 一瞬だが、空気が凍った、ように啓太は感じた。無論、気のせいに違いない。  
 まさか、嬉しそうに将来への希望を抱く優に、  
「優、おまえは子どもは産めないんだよ。なぜなら、おまえはロボットだから」  
などと言えるはずがない。  
 だから、亜沙子も  
「そうね。大人になったらね」  
と言って、その場はお茶をにごす・・・と、啓太は自然ななりゆきを予想した。  
 ところが。  
「優、それは・・・残念だけど、ちょっと無理ね」  
と、亜沙子は真顔に戻って、優に語りかけた。  
(お、おい!亜沙子!!)  
啓太は必死のアイコンタクトを亜沙子に送った。  
 しかし、亜沙子は啓太のほうを見ずに、  
「残念だけど、優、あなたには子どもは産めないのよ」  
と、身も蓋もない言葉をさらに繰り返す。  
 
 最初、状況が掴めずにいたらしい優の顔がにわかに固まった。  
「え?・・・今、何て言ったの?お母さん・・・」  
 変な冗談はやめてよ、とでも言うかのように明るい声を出してはいたが、声が若干うわずっているように啓太には聞こえた。しかし、亜沙子はかまわず真剣な表情で、断定口調で続けた。  
「いつか優にも檀にも話さなければ、と思っていながら、今までずっと内緒にしていたことがあるの。でも、いいわ。この際だから、あなたたちに教えてあげる。本当のことをね」  
(お、おい・・・そんな、何もこんなタイミングで言うことないだろ。檀がもっと大きくなってからって、約束したじゃないか!)  
 啓太は必死の思いで亜沙子を目で制したが、亜沙子は、落ち着き払った声で言った。  
「優・・・実は、あなたは人間じゃないのよ。あなたは、15年前にとある機関からうちにきた・・・」  
 優の表情が心配そうに亜沙子の顔の一点を見つめている。  
「ロボットなのよ」  
 
「え・・・うそ・・・どうして・・・?」  
 母からの予想外の言葉に平静さを失った優が、すがるように言った。  
「あなたは、ある機関から預かっている、最新型のロボットなの。あなた自身にも檀にも、今までは言わなかったけど・・・」  
 亜沙子が、戸棚からコントローラーを出してきた。  
「今、その証拠を見せてあげるわ」  
と言いながら優のシャツに手をのばし、めくると、コントローラーにパスワードを入れ、それから優の胸を軽く押した。  
(ああっ、亜沙子。やめろ、やめるんだ)  
 心の中で啓太が叫んだときには、もう遅かった。  
 ガチャ。  
 優の胸のフタが開いた。いつもの通りに。ただ、いつもと違うのは、優自身が眠っていないこと。それに、檀もそこでしっかり見ていること。・・・  
 
「ほら、自分自身でしっかり見つめるのよ。真実を恐れてはダメ。これがあなたの体よ」  
 力強く、諭すように言い切る亜沙子の視線の先には、優の全開した胸が、整然とつめこまれた内部メカがある。  
 あっけにとられたようにポカンと口を開け「姉」の胸の中を眺めていた檀が、  
「お姉ちゃん、どうしておなかの中、機械なの?」  
と、あいかわらず無邪気な表情で言った。  
 優の胸の中で起動中を示すライトが点滅し、金属のフレームといくつもの集積回路パーツが鈍く光を放っている。  
「うそ・・・うそだ・・・・・・いやぁ〜っ!」  
 優は、両手で顔を覆って、そのまま泣き出した。檀は、相変わらず、呆然としたままでいる。亜沙子は、そんな子どもたちを突き放すように黙って見ている。  
(ああ・・・優・・・優・・・)  
 最愛の「娘」の泣き声が、いやがおうにも啓太の胸をえぐった。  
 ああ・・・優・・・優・・・かわいそうに・・・優・・・ああ・・・ああ・・・  
 
 ああ・・・ああ・・・ああ・・・ああ・・・・・・  
 
「啓太さん、啓太さん」  
 啓太の視界いっぱいに亜沙子の顔が迫っていた。  
「あ・・・亜沙子?」  
「どうしたの、そんなにウンウン唸って」  
「え・・・ああ・・・そうか・・・」  
「ちょっと疲れているんじゃないの?机でそのまま寝ちゃうなんて」  
と言いながら、亜沙子は啓太の背を押して起き上がらせ、啓太の肩を軽く揉んだ。  
 
「そうだな、少し疲れていたんだろうな」  
 こんな夢を見るなんて、とは言わず、  
「う〜ん」  
と言って、啓太は伸びをした。  
「岡部君が待ってるわよ。啓太さんの仕事ぶりをまた写真に撮りたいんだって」  
「ああ、そうか。え〜と、ああ、もう午後なんだな。よし、もうひと仕事しないとな」  
 啓太は、机を立って、作業場に足を向けた。  
 

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