今日も大量の廃棄物があちこちの工場から送られてくる。
川瀬幸良の仕事は、産業廃棄物処理の工程の管理業務である。以前は同じ政府系機関でも先端科学研究所の開発部門という花形部署にいただけに今の仕事は正直、退屈であった。
「今日の予定は・・・ああ、そうだ、前に俺がいた前橋の施設からくるんだったな」
日程表を確認しながら、川瀬は大きなあくびをした。
「お待たせしました。前橋の先端科学研究所からの廃棄物です」
専門の運送業者のドライバーが来たらしい。
川瀬は、内容を確認しながら、処理方法を部下に指示した。
(おや?)
どこかで見たようなパーツである。
(たしか、これは・・・)
忘れもしない、川瀬が平研究員だった頃に開発に携わった家庭用アンドロイド試作機の破片に違いない。
(不用心だなあ。こんな機密品を新センターに持っていかずに棄てちゃって外部の業者に運搬させるなんて)
と思いながら、パーツの型番を確認した。残骸の中の一つに、型番とシリアルナンバーを書いた紙片が貼りつけてある。
(ああ、やっぱり、型番はHMX−17Bだな。え〜と、製造番号でいうと、0276か・・・)
0276、どこかで聞いたような番号だな、と川瀬は思った。何だっけかなあ。たしか、HMX−17のタイプで、0276といえば・・・
(あっ、そうだ。前に俺がよくメンテした機体だ)
前橋のセンターに所属していた頃、川瀬が担当していた機体はそう多くないので、その頃よく出張メンテナンスをした機体のシリアルナンバーは記憶していた。
「ちょっと待っててな。ここの山は、しばらくそのままにしといて」
と、作業員に指示して、川瀬はデスクに戻った。急いで、自分の昔の手帳のページをめくった。
「0276・・・0276は、と・・・」
あった。そうそう、高崎のバネ工場の家だ。よく覚えている。たしか、優とかいう名前をつけて、娘として育てていた家だ。
「おかしいなあ。何であの機種が壊れたまま廃棄扱いになってるんだ?パーツを交換したとしたって、古いボディーはちゃんと保存しておくはずなのに」
疑問を感じた川瀬は、移転した研究所に電話してみることにした。
「ああ、どうも、川瀬です。お久しぶりです。ええ・・・実は・・・」
川瀬が事情を説明すると、さいたまセンターの担当者は、家庭用アンドロイドHMX−17Bのバージョン205B、登録番号0276は紛失中扱いであると述べた。モニター家庭からも紛失届けが提出されているという。
「ははぁ・・・そういうことでしたか・・・」
なぜ分解状態で廃棄されていたのかは川瀬には想像もつかなかったが、ともかく疑問は氷塊した。あの気のよさそうな「父親」や「母親」がどんな思いでいるかを想像し、少し心が痛む気がした。
「モニター家庭への連絡はそっちでやってくれるんですよね?そしたら、ともかく、見つけられる限りパーツは拾って、そっちに届けさせますから」
と言って、川瀬は電話を切った。
一瞬、あのバネ工場の家に連絡してやろうかとも思ったが、今の自分の仕事はアンドロイドのメンテナンスではないし、お節介だとも思ったから、やめておいた。
もし不慮の事故か何かだったとして、あの両親のことだから、「娘」がバラバラになっていると知ったら、さぞショックを受けるだろう。そんな悪い知らせをするのは、今の担当者に任せておこう。・・・
水内正宏は、家庭用アンドロイド開発室の室長に呼ばれ、デスクを立った。
ちょうど一つの開発プロジェクトを終えた区切りの時期である。次は何の仕事だろう。それとも、前から志願していたアメリカへの公費研修の選抜に選ばれたんだろうか。そんな期待をしながら、開発室長のもとに行った。
「ああ、水内か。君に担当してもらいたい件があるんだけど」
開発室長は、以前は大阪のセンターにいた人間らしいが、現在は、ここ東京の本部のHM開発室責任者となっている。「関西人」という類型的イメージではなく、穏やかで腰の低い人柄の上司である。
「実は、僕にもどういう内容の仕事になるのかわからないんだけど、今、君しか手のあいている者がいないしね」
と言って、開発室長が仕事内容の説明をはじめた。
取り扱い機種はHMX−17タイプの家庭用アンドロイドだ。水内も熟知している機種である。目下、原因は不明だが、HMX−17タイプのうちの一台が大破しており、今、修理中であるという。
修理というより、なかば以上、作り直しに近いほどの破損度だが、ハードディスクとCPUは生きているため、あくまで扱いは「修理」となる。
「修理自体は、今やっているんだが、その後、モニター家庭にすぐ戻していいものかどうか、上層部も検討中でね」
「はあ」
「で、修理が終わったら、状態を細かく調べて、レポートを作成してほしいんだ」
何だ、そんな仕事か、と水内は思ったが、文句は言えない。
「はい、わかりました」
と言って、開発室長の部屋を出た。
大メンテナンスルームに行くと、修理台の上で、くだんの機体は修理の最中であった。今の段階では、まだ人間の形はなしていない。故障ではなく大破したものの修復なので、修理というよりは、たしかに作り直しといった風情である。
基本的な組み立てはいまだに手作業であるが、どうやら今日明日中には片づきそうな様子である。
(つまらない仕事だなぁ)
水内は嘆息した。アンドロイドの新規開発ならともかく、修理済みの既存機種の状態チェックなんて、と少しうっとうしくなった。
一週間ほど経った。水内は再び開発室長に呼ばれた。
(そういえば、あの件、その後どうなったんだろう)
と水内は不審に思った。機体の修復はすぐに終わりそうだったのに、あれから何の指示もない。
「水内君。そこに座ってくれ」
「はい」
水内が開発室長の隣の席に腰をおろすと、開発室長は、
「こないだ君に言った、破損機種のことなんだけど、修理自体は終わったんだが、ちょっと面倒な状態らしいんだ」
と言った。
「はあ」
何のことだか水内にはわからなかったが、開発室長の説明によると、ボディの機能は正常に動くようになったが、「心」の部分がおかしいのだという。
アンドロイドの「心」とは、CPUとハードディスクの状態であるが、それが著しく不安定で、人間でいう精神破綻、神経衰弱の状態であるらしい。
「では、CPUとハードを交換したらどうでしょう」
そうすると、人間でいう脳を入れ替えることになるのだから、ボディは同じでも、実質別の「人格」になってしまう。しかし、今回はそうはしない方針なのだという。
「今のところ、何とも原因はわからないんだが、何らかの精神的なダメージがあったんだろうな」
それで、私の仕事はどうなるんですか、と水内が言いかけると、開発室長は、
「そんなわけで、君にやってもらう仕事はちょっと難しい内容になりそうなんだ・・・」
と、職務内容の説明を始めた。
開発部では、今回の件をむしろ僥倖として、アンドロイドの「精神」を研究する好機ととらえた。そこで、安易にCPUを交換するのではなく、結果としてアンドロイドに生まれた「心」とその「心の傷」を人間のようにケアできるか実験することになったのだという。
「機体はすぐにはモニター家庭に帰さず、うちの研究所でしばらく観察しながら、精神科医のセラピーを受けさせる」
「はあ?」
と、上司の前ではあったが、思わず水内は頓狂に叫んでしまった。狂気の沙汰だ、という気がした。
「ともかく、そう決まったんだ。君は、機体を毎日、病院まで送り迎えして、観察記録をつけておくように」
開発室長は強い調子で命じた。
(やれやれ、何だか、面倒くさそうなことになってきたな)
水内にとって気の進まない方面の話ではあったが、今日はようやく「ご対面」の日だ。いい加減なことに、その日まで肝心の機体自体の詳細データは確認していなかったが、資料を見て驚いた。
「何?女?それも女子高生仕様?」
大学院時代も研究員になってからも男性社会の中で生きてきた水内にとって、「女子高生」は謎めいた存在である。今までに女性型の機体を扱ったことはなくはなかったが、それは完成前の設計・開発に関与しただけで、完成品の女性型と接したことはない。
「あの機体です。もうすっかり何かにおびえている様子で、こちらが何を言ってもほとんど反応しないで、口もきかないんですよ」
別の技官が独房の中の少女を指さして、水内に説明した。殺風景な独房の中で、そのアンドロイドの少女は向こうの壁の方向に、いわゆる「体育座り」をし、下ばかり向いている。
「君が、HMX−17の0276番だね。僕の顔、見えるかい。僕はここの研究員の水内正宏。今回、君の修理記録を担当することになったんだ。これから、病院に行くよ。いいね?」
水内は少女の傍らにしゃがんで話しかけた。事務的にならず、極力やさしく聞こえるように、と意識しながら。
が、少女は一瞬ピクリと反応を示したものの、イヤイヤというように首を振って、またうつむいてしまった。
(まいったなぁ・・・)
「女性」の扱いに不慣れな水内は、傍らの技官に助け船を求める視線を送ったが、技官は気づかないふりをしているかのように、
「大学病院の予約はとれてますから、ちゃんと定時までに届けてくださいよ」
と言って、出て行ってしまった。
なだめすかす。頼みこむ。いろいろと試みてはみたが、どれもはかばかしくはゆかない。少女はガンとして動こうとはしなかった。
しかたない。無理矢理にでも連れて行かないと。それが僕の仕事らしいから・・・と、水内は少女の手を無理に引っぱり、むずがる少女を強引に車に乗せ、病院へと向かった。
女性の手を握る、などという経験は乏しい水内だったが、所詮はただの機械だと思えば、何ということはない。
大学病院の担当医は、その方面では権威者らしい50代の女性教授で、革新政党の代議士にでもいそうな威勢の良いパワフルな「おばさん」だった。
「私にとっても、ロボットのカウンセリングというのははじめてのことですが、室長さんのお話では、人間とほぼ同じ心があるということですんで、ともかくやれるだけはやってみますよ。焦らずに、ね」
大柄な体で笑う医師は頼りになりそうな雰囲気ではある。
約1時間、水内は大学病院の廊下のベンチに座って、セラピーの終わるのを待っていた。あの先生はなかなかの名医のようだけど、どうなんだろう、閉じてしまった心を開かせるって、そんなに簡単にできるんだろうか、俺もつきあいきれるだろうか、と水内は不安に思った。
(だいたい、開発部もおかしいよな。何か精神的な傷がありそうだ、じゃなくて、ハードディスクを直接読みこんで、悪い原因があるんならその情報をデリートしちまえば済むんじゃねえか。何も、人間みたいに、なんて実験しなくてもいいのに)
ついつい上層部の方針へと不満の矛先が向かった。
しかし、冷静に考えみれば、たしかに研究者にとっておもしろいテーマかもしれないという気もしてきた。
国家予算の研究費で開発された「人の心」を持つアンドロイドが人間並みに「心の病」にかかったのだとしたら?それに精神医学的なセラピーを施したら人間と同じように反応するのか?
だんだんと興味が湧いてくる気がする。
どのみち業務命令は拒否できないんだ、乗りかかった船だから、やれるだけはやるか、と、気を取り直してゆくことにした。
約1時間経って、0276のアンドロイド少女が女性医師に手をひかれ診察室から出てきた。あいかわらず表情は暗く、下ばかりを向いている。
「優ちゃん、ご苦労さま。明日も先生にお話し聞かせてね」
医師が明るい笑顔を作って少女の肩を叩いたが、少女はほんの僅かにうなずいただけで、やはり暗い表情で下を向いたままである。
医師は、水内に
「ちょっと・・・」
と、診察室に入るよう促して、少女には、
「優ちゃん、先生と水内さんとで、ちょっとお話しがあるから、そこで座って待っていてね」
と、やはり明るい調子で告げた。
ふうん、名前がついてたんだ。水内ははじめて知ったが、だからといってどうという感慨は別になかった。
「水内さん」
医師は真顔になって、カルテをめくった。
「もし、あの娘が本当に人間と同じ心を持っているのなら、あの娘は何か恐ろしい経験をして、ショックから立ち直れないでいるようです」
「はあ、そんなこと言ったんですか?」
「いえ、言ってません。あの娘は、まだそんなふうに自分の心の傷をしゃべれる段階ではないんです」
じゃ、どうしてそんなことがわかるんだよ、と一瞬、水内は食ってかかりたくなった。
が、専門家が素人に口出しされることは不愉快なことだと自分の経験からよく知っているので、黙って耳を傾けた。
「ただ、過去の症例から見ると、何らかの精神的ショックで失語症、またはそれに準ずる状態になるということはよくあることです。あなたも、まずは・・・」
「まずは?」
「気長にやることですよ」
と、医師はにっこり笑った。
「具体的にはね」
水内が腑に落ちなさそうな顔をしているのを見て、医師はまず無理に「自白」を強要するような態度はNGだと釘をさした。
こちらが軽い雑談でもして、本人がしゃべりたくなるまで、じっくり待つ、しゃべり出したら変な茶々は入れず、相手の話を「たぐり出す」ことを意識する、と、コツを説明した。
「あなたも、そのつもりでね」
医師は、しっかりやれよ!というように水内の肩を叩いた。
研究所施設に帰った。殺風景な独房のごとき部屋で、水内はアンドロイド少女と二人きりになった。
医師は、軽い雑談でもして、などと言っていたが、いったい何を話せばいいかなどわからない。秋葉原でこないだ買った基盤のことなど話しても興味を示すとは思えなかったし、鉄道写真の話をしても、おそらくは興味は持つまい。
「先生のところで、何を話したのかは・・・まあ、君がしゃべりたくなったとき、言ってくれればいいから。とりあえず、数値のほうを計りたいんだけど、いいかな?開けるよ。いや、これは、ちゃんと断ってから開けるんだからね、いいかい」
慎重に確認をとって、ボディーのハッチを開けて中を確認しようと手をのばした。
少女は、またも、いやっ!と言うように体をそむけた。
「ねえ、君、そんないやがってたって、しょうがないじゃないか。こっちもすきでやってるんじゃないんだよ、仕事なんだからさぁ」
と、なかばうんざりしたように言って、少女の腹部にもう一度手をのばしたが、少女は震えて、おびえたような表情で、水内のほうを向いた。目に涙がたまっているように水内には見えた。いったい何を怖れているのか、体を縮こませて震えていた。
(そうか・・・無理強いはダメなんだったな)
医師の助言を思い出し、ここで強引に迫ったら、元も子もなくなると、今夜はそっとしておくことにした。
「いや・・・いいんだ。ごめんよ、無理を言って。・・・え、と・・・じゃ、おやすみ」
まだ時間は7時だったが、場違いな「おやすみ」を言って、水内は部屋を出た。疲れがどっと出る気がした。
10月6日
今日も0276は一言もしゃべらない。
病院の杉本先生は、「いい娘よ、あなたは」などと言っていたが、本当にカウンセリング室の中では「いい娘」になっているんだろうか。俺にはそうは見えない。
10月7日
今日も0276は一言もしゃべらなかった。
あいもかわらず、研究所の個室では、うずくまって震えているばかりだ。
彼女の「心の闇」が何なのか、俺にはわかりそうにない。
10月8日
今日も0276は一言もしゃべらない。
病院の行き帰りの車で、こっちからいろいろな話をふっても、たまに小さくうなずくだけだ。
先生は、「これからですよ、気長にね」と当方に告げるのだが。
10月9日
今日も0276は一言も発しなかった。
本当にこんなことしてて、意味があるんだろうか。こんなやり方、かえって非人道的な気がする。ハードの情報を直接デリートすればいいのに、と何度も思う。
この「実験」自体が残酷なことに思える。
だが、杉本先生はあせっている様子はない。
「明日もお話ししましょうね」
などと言っていた。
0276は、しかし軽くうなずくだけで、挨拶の言葉もない。
本当に、こんなこと続けていて、いつか「心」を開いてくれるのかな、と水内は思いながら、自分がノイローゼになりそうに感じた。
大学病院は東京の信濃町にあり、研究所のある市ヶ谷からは目と鼻の先だったが、その送迎の車中はいつも水内にとって苦痛だった。
今でも少女の負った心の傷の原因となった経験が何であったかはわからない。ただ、時間が解決するものもたしかにあるのだろう。以前に比べると、外出するときの拒否反応が少し弱くなったような気もする。
こうして、だんだんと「心」を開いてくれるようになったら・・・なったら、俺は何をしたらいいんだっけ、と一瞬だけわからなくなった。
(ああ、そう、データをとって記録するんでした)
何を今さら、ということを水内は心の中で反芻した。
少女の「自己開示」が始まりつつある、と、ある日の帰り際に杉本医師が水内に言った。
ジコカイジ?何のことですか?と、水内が聞き返すと、医師は、少女自身が自分のつらい経験をだんだんしゃべろうというきざしを見せてきたのだという。
(そうなのか・・・)
俺にはそんなふうな態度なんて見えないけどなあ、と水内は思った。
なぜこの先生にはしゃべれて、俺にはしゃべれないんだろう。ロボットの専門は俺のほうなのに、と、水内の中にある種の「悔しさ」が芽生えた。
(ようし、いつも中でどんな話をしているのか、明日は立ち聞きしてやれ)
翌日も、いつも通り、車で大学病院まで行き、少女を杉本医師に託して、水内は廊下に控えた。少し時間が経った頃、周囲に人の目がないことを確認して、水内はドアの横に立った。
「そう・・・そうなの・・・つらなかったよね。そうだよね」
・・・
「うん、うん。そうだね。先生もそう思うよ」
・・・
「ひどい人たちだね。先生、その人たちが憎いよ」
少女のほうの声は小さくて聞こえなかった。
医師の声は不定期的に、たまに聞こえてくるだけなので、少女も饒舌に話しているのではなく、ときたまポツリポツリという程度に話しているのだろう。
聞き耳をたてると、杉本医師のセラピーは、少女を「指導」しているという感じではなかった。理工系以外の知識に乏しい水内は、セラピーとはお説教でもしているのだろうと思っていたが、説教どころか、医師自身は意見すらせず、ただ肯定しているだけのようだ。
俺は・・・と省みると、関係のない話をしているときはともかく、医師のいう「話をたぐり出」そうとしているときは、説教口調になっていたことを思い出した。
「だからさぁ、黙ってたって、わからないんだしさあ」
「つらいことがあったんなら、しゃべっちゃうえば楽になるんだよ。ね」
「人間もロボットも、過去はある程度は忘れて、前を向いていたほうがいいんじゃないのかい」・・・・・・
水内はほんの少しヒント、いや、ヒントのとっかかりを得られた気がした。だが、もしオウム返し的なしゃべり方が効くのだとしても、それには、まず相手が話してくれなければはじまらない。少女が俺に自分のことを話すようになるのはいつのことだろう。
(いや、別に仲良くなることは俺の仕事じゃないか)
という当たり前の考えは、なぜかこのときの水内には浮かばなかった。
11月25日
0276が、ほんの少しだが、感情を表に現した。
俺が帰ろうとすると、服の端を掴んで、しきりに首を振った。
帰らないで、ということなのだろうか。一人でいると寂しい、ということなのだろう
か。
まだしゃべってくれたわけではないので、俺には真意はわからない。
だが、俺に対して、「拒絶」以外の感情を表現したのは、はじめてかもしれない。
俺は、黙って一晩、そばにいてやることにした。
心なしか、いつもよりスリープ中の顔が穏やかだったように見えた。
11月29日
0276が、はじめて、ちゃんとしゃべった!
この独居房のような部屋に泊まり込んで、5日目になるが、今朝、はじめて、小声ではあったが、俺に「おはよう」と言った。
ここ数日は病院に行こうと手をひいても、以前ほどいやがらなくなってきている。
12月1日
0276が、ようやくメンテナンスハッチを開くことを了承した。
杉本先生の話では、以前の0276は自分がアンドロイドであるという自覚がなく、それを唐突に知ってしまったことも0276の精神的ダメージの一つになると言っていたが、今日は、胸部・腹部を開いても、比較的いやそうな顔はしていなかったように思う。
ただし、服を脱いで胸を見せるときだけは、ためらっているそぶりだった。
「水内さん、あのね・・・」
アンドロイドの少女0276は、少しうつむき気味の顔で、水内の顔色を窺うようにして話しかけてきた。
「ん?何だい?」
ハンドルを握りながら水内が言うと、少女は、
「私・・・いつ、家に帰れるの?」
と、せつなそうに言った。
水内は、
「この実験が終わってからさ。研究所にとって有益なデータが得られ次第、帰れるさ」
とは言わず、
「ああ・・・先生も、君はだいぶ元気になったから、そろそろいいんじゃないかって言ってたよ。きっともうすぐだよ」
と励ました。
「うん・・・」
少女は静かにうなずいた。
12月4日
通院はとくに変わったことはなかった。
夜、スリープ中の0276が、蚊の飛ぶような声ですすり泣いていた。
よくあることだったが、聞き耳をたてると、
「お母さん・・・」
と言って泣いている。
0276は、もう何ヶ月も育ての家族と会っていないのだ。俺はなぜか、かわいそうになって、少しだけもらい泣きした。
0276には気づかれなかったはずだが。
機械の身の上に同情するなんて、俺のほうがどうかしてきたようだ。
その後も、ときどき、セラピーの最中のカウンセリングルームに水内は聞き耳を立てた。手法を盗むため、というより、少女が医師とどんな話をしているかが気になった。
以前は、
「そうだよね」
とか
「本当にそうだね」
というような相づちばかりだったのが、近頃は、
「まあ、頼もしい!」
とか
「その調子よ!」
と、積極的に励ますような声が徐々に増えてきた気がする。
少女自身が前向きな話をし始めているのだろうか、と水内は思った。早くあの娘ともっともっと、いろいろ話したい!水内は心の中で叫んだ。