「亜沙子さん、大変!ちょっと来て!優(ゆう)ちゃんが倒れちゃったのよ!」  
 同僚の仲居である竹子に呼ばれ、亜沙子は  
(もしや!?)  
と、嫌な予感がした。  
「優ちゃん、ついさっきまで元気にお膳を運んでたのに、いきなり倒れちゃって、動かなくなっちゃって・・・あら?息もしてないんじゃないかしら!?心臓、動いてる?」  
 矢継ぎ早にまくしたてる竹子から逃れるように、亜沙子は  
「あ、どうもご迷惑おかけしました。ちょっと部屋のほうに連れてって、看てみますから」  
とだけ言って、優を肩でかついで部屋に戻った。  
 
(参っちゃったな、みんなの前で停まっちゃうなんて、な)  
 亜沙子は夫の啓太の工場がつぶれて以来、旧友の実家でもあるこの四万温泉・駒之館に住み込みの仲居として勤めている。最初は息子の檀と二人だったのだが、現在は“娘”の優も学校を休学してやって来て、母の亜沙子とともに仲居として働いていた。  
(さて。窓は閉まってるかしら。鍵も閉めとかないとね)  
 亜沙子が鍵を閉めようとすると、息子の檀が走ってきた。  
「お姉ちゃん、どうしちゃったの!??」  
 何も知らない檀は、心配そうに“姉”の凍りついたように動かない顔をのぞきこむ。  
「ええ、大丈夫よ。私が看ておくから、檀は師匠と遊んでらっしゃい」  
 息子の檀が出ていくと、亜沙子はカーテンを閉め、優をあおむけに寝かせ、優の着物の帯をほどいた。そして、優の小さな胸のフタを開こうとした、そのとき−  
「優ちゃんが倒れちゃったんだって!?今、隣の川崎先生を呼んできたんだけど」  
 旅館の主人である隆行の声がした。おそらく檀から優のことを聞いたのだろう。しかも、隣の診療所の川崎まで呼ぶとは・・・今、川崎とは微妙な関係にある亜沙子は、軽いうっとうしさを覚えた。  
「はい。こちらで何とかできますから、とりあえず、ちょっと出ていていただけますか。申し訳ありません」  
 ややぶっきらぼうに二人を追い出し、亜沙子は作業を再開した。  
 
 幸い、今日の場合は単なる充電切れであるようだ。亜沙子は優の胸を軽く突いた。すると、カパッと音を立てて優の薄い胸が開いた。中は精密機械がところせましと詰まっているものの、亜沙子にとっては勝手知ったる“娘”の体である。  
 落ちついて戸棚から優専用の充電コードをとり、片方の端を優の胸の中のモジュラージャックに、もう片方の端を壁のコンセントにつなぐ。  
 ピッ、と軽快な音がして、優の胸の中に緑色のランプが点灯した。充電開始の知らせだ。やれやれ、これで一安心、と亜沙子は一息ついた。一時間も経てば充電完了だろう。普段は優が寝ている間に充電を済ませていたのだが、今回はつい忘れていた。  
(このところ忙しかったからな。いろいろあって・・・)  
 誰に言うともなく亜沙子はつぶやいた。  
 
「あれ?お母さん、どうしたの?」  
 優が目を覚ました。  
「うん、厨房で倒れちゃったからって、竹子さんが見つけてくれてね。でも、もう大丈夫よ」  
 亜沙子はあくまでやさしく優に語りかけた。  
「ふうん、そうなんだ。覚えてないや」  
「疲れていたんでしょう、たぶん」  
 笑顔で相づちを打つ亜沙子に、優はふっと真顔になって、  
「変なんだよね。昔からたまにあるんだ。いきなり記憶がとんじゃって、次のときにはいつも寝てるの。どうしてかな」  
 優のセリフに不意をつかれた亜沙子は、  
「あ、そう・・・かしらね」  
と、その場をごまかすしかなかった。  
 
 優が実はロボットであることは、優を実の姉だと思っている檀だけではなく、実は優自身も知らないことだった。知っているのは亜沙子と啓太だけだった。  
 忘れもしない、亜沙子と啓太夫妻にとってのはじめての子どもが不幸にして流産したとき、啓太が役所からもらってきた一枚のパンフレットに  
「家庭用アンドロイド試作機、モニター募集」  
と書いてあった。  
 よくわからずに聞いてみると、テスト段階にある人間型ロボットの試用モニターを一般募集しているのだという。  
 幸か不幸か、子どもサイズのものはモニター希望者が少なく競争率が低いとのことで、啓太と亜沙子夫妻はモニターに選ばれた。  
 かくして、二人は機械の“娘”に「優」と名づけ、ずっと自分の娘として「育てて」きたのだった。  
 「科学技術省先端科学研究所精密機械開発部」というその機関のサービスは行き届いており、不自然にならない頻度で、子どもの「成長」に応じた新しいボディーと交換してくれた。なので、学校でも近所でも誰も優のことを怪しむ者はいない。  
 二人が優を引き取ってから10年後に生まれた長男の檀も、何ら疑うことなく優を「お姉ちゃん」だと信じて慕っている。その姿を見ると、  
(いつか、この子にも本当のことを話さなくては・・・)  
と、胸が痛む亜沙子だった。  
 しかし、考えてみればそれは滑稽な悩みだったのかもしれない。何しろ、檀以前に、そもそも当の優が自分をロボットだと知らないのだから。  
 優の正体を知っているのは「父」の啓太と「母」の亜沙子、そして「祖母」の佳代だけなのである。  
(優には、いつ本当のことを教えたらいいんだろう)  
 そんなことを考えながら、亜沙子は優の着物を整えてやり、  
「さ。夕食までもう少し。またがんばろう」  
と、明るく声をかけた。  
「うん!」  
 優も明るく返事を返した。  
 
 
 
 優(ゆう)は、高崎に帰ってきた。  
 旅館は今日は非番だし、休学中の高校にも近々戻ろうと決めたのだから、しばらくぶりの休みに高崎の空気に触れに帰るといい、と女将の絹子にも勧められたのだった。  
(里夏、最近会ってないけど、どうしてるかな。ソフト部の新庄監督と真理先生、本当に結婚するのかな)  
 いやだったはずの学校だが、いざ戻るとなると、やはり懐かしい気がした。  
 と言っても、優の足が真っ先に向かうところは学校ではなかった。  
 村上厩舎。ここは、学校の行き帰りに優がいつも寄り道していた競走馬育成の厩舎だった。  
「ジョンコぉ!久しぶりぃ!」  
 優が声をかけた相手は、人ではない。馬である。名はサイゴウジョンコ。メスのサラブレッドだ。  
 ジョンコと名づけたのは優自身だった。最初は何の期待もされていないジョンコに、優が勝手に同情的肩入れをしているような状況だったが、今やジョンコは競馬界の期待の星となっている。  
(私、何だかジョンコに取り残されているかなあ。勉強もソフトボールも仲居の仕事も何だか中途半端で)  
 ぼんやりとそんなことを思いながらも、久々にジョンコのたてがみを撫でてやっていると、将来への不安も父の仕事の心配も父のケガの心配も何だか癒されるような気がした。  
 
「おっ。久しぶりじゃん。戻ってたんだ」  
「太郎さん」  
 太郎は、この村上厩舎の若い厩務員である。  
「ジョンコ、元気そうだね」  
「ああ、そうだな。先週のレースでも優勝したからな。俺も来年はJRAの調教師試験、絶対に受かるぞ」  
「うん、そうだね。がんばって」  
と言いながらも、優の表情は冴えなかった。  
 太郎が調教師試験に熱意を燃やす理由はわかっている。太郎は琴子と結婚するつもりなのだ。  
 琴子は母の旧友であり、今は家族で世話になっている駒之館の娘である。「自立する大人の女性」である琴子は、いつも優にとってはまぶしい「あこがれの存在」だった。しかし、太郎と琴子が急接近してからというもの、どうも優は心中穏やかではなかった。  
「そうだ、おまえ、ジョンコに乗ったことなかっただろ。ちょっと乗ってみるか」  
「え?いいの?」  
「ああ。でも村上さんや西郷さんには内緒だぞ」  
 太郎は笑顔で下手なウインクをした。この機嫌の良さから察するに、琴子とはよほどうまくいっているのだろう。そんな太郎を見るのは優にとってつらかった。既に太郎への想いが優の中ではっきりとしてきていたのだから。  
 が、せっかくだいすきなジョンコの背中に乗れるのだ。こんなチャンスを逃すことはない。  
 太郎は、ジョンコの鞍へと優がまたがるのを手助けしてやりながら、  
「よいしょ、あれ、おまえ意外と重いんだな」  
と言った。  
「やだ。やめてよ、そんなこと言うの」  
 優は怒ったように言ったが、はじめてまたがるサラブレッドの背から見る眺めはやはり気持ちがいい。  
「うわぁ、いい気持ち!」  
 だが、ジョンコの足取りはなぜかいつもより遅いように太郎には見えた。優一人を乗せてゆったりと厩舎内を歩いているだけなのに、なぜか息が荒い。  
 
「おかしいなあ。こんなに疲れるなんて。なあ、おまえ、細いようで、実は相当重いんじゃないのか。何キロだ、おまえ」  
 太郎がそんなことを言ってからかうので、つい優も  
「もう〜。変なこと言うな〜」  
と、おどけて殴るしぐさをしてみせた。  
 そのとき、  
「あ!危ない!」  
と太郎が叫んだのとほとんど同時に  
「キャッ!」  
 バランスを崩した優がジョンコの背から落ちた。  
 ズザザザ・・・優は背中から転落して、地面をそのまま少し引きずられた。  
「おい、大丈夫か!?」  
「うん・・・大丈夫・・・」  
と言いながら、優は顔をゆがめて背中をおさえた。  
「あいたたた・・・背中すりむいちゃったのかな」  
「どれ、ちょっと見せてみろ」  
「うん」  
 優のシャツの背中を少しだけめくってすり傷を確認しようとした太郎は、そのとき、息がとまる思いがした。  
(えっ!!??これは!??どういうことだ!!!???)  
 太郎には何が何だかわからなかった。  
 優の背中に出血はない。ほんのわずかに皮膚がすり剥けただけで済んだようだ。しかし、問題はそこではない。太郎の見た優の背中は、剥がれた皮膚の下に機械があったのだ。  
 おそらく合成樹脂系の素材と思われる物質が、すり剥いた肌の下から顔をのぞかせていた。ご丁寧に一部がスケルトン仕様になっていて、さらにその中の細かな機械が見えた。  
 時計のような歯車、ではない。むしろLSI系の集積回路だろう。どっかで見た何かに似ている。そうだ、パソコンだ。家にあるスケルトンのパソコンの背面にそっくりだ。太郎は戦慄した。  
「ン?太郎さん、どうしたの?」  
 優がいぶかしげに問うた。  
「オイ!おまえの身体、いったいどうなっちゃってるんだ!?」  
とは、太郎は言わない。  
「あ・・・いや、何でもないよ。血も出てないし、おまえが痛くないんなら、平気なんじゃないかな。四万温泉に帰ったら、お母さんに診てもらいな」  
とだけ言って、その場は優を帰すことにした。  
 
「どうしたんだろ。変な太郎さん!」  
 優は四万に向かった。もう日は暮れかけて、上州の野はからっ風だった。  
 
 
 夕方からは団体客の宴会があり、今夜の駒乃館は忙しい。  
「ねえ、お母さん」  
「あ、優。帰ったの。ごめん、今ちょっと手が離せないの」  
 亜沙子は、大広間に膳を次々と運ぶ準備に追われていると見え、優のほうに顔も向けずに、なおざりの相づちを打った。  
「あのね、お母さん。さっき、ちょっと背中をケガしちゃったみたいなんだけど、診てくれるかな」  
「え?ケガ?」  
「うん」  
「痛くないの?」  
「うん、ちょっとだけね」  
 亜沙子は、急に声をひそめるようにして、  
「じゃ、すぐ診てあげるから、部屋に行きましょう」  
と言った。  
「ううん。ここでいいよ。だって、お母さん、忙しいんでしょ」  
と優が言ったが、  
「ええ。でも、少しの間なら大丈夫よ」  
と、優を追い立てるように部屋に連れて行った。  
 
「どれ、見せてごらん」  
と言いながら、優のシャツの背をめくった途端、亜沙子の顔は曇った。が、優からは母の表情の変化まではわからない。  
「どうかな、お母さん」  
「ええ。大丈夫みたいよ。でも、ちょっと今夜はお風呂はやめておきなさい」  
「うん」  
 優が澄んだ声で返答すると、亜沙子は、とってつけたように、  
「このケガ、どうしたの?」  
と聞いた。  
「うん、ちょっとね。何でもないんだ」  
「誰かに見られた?」  
「え?どうして?う〜ん、見られたって言えば見られたけど・・・それがどうかしたの?」  
優が一瞬だけいぶかしげに首をかしげたので、亜沙子は慌てて、  
「ううん。何でもないのよ」  
と打ち消して、しかし、  
「その人、何か変なこと言ってなかった?」  
と、ただすことは忘れなかった。  
 
「ちょっと露骨だった・・・かな?」  
 自分の問い方が不自然だったのでは、と、亜沙子は厨房に戻った後も少しだけ悔いていた。  
 ともかく、すぐにサービスセンターに連絡して、修理をお願いしなければ。たぶん、あの程度の外傷ならラテックスで傷をふさいで表面をサーフェイス処理するだけですむでしょう。来てもらう前にまた優をスリープさせておかないとね。  
 いつものサービスマンの人は、皮膚がはがれたぐらいなら内部の機能に支障はないと言ってたけど、何かのきっかけで仲居仲間の竹子や小梅たちにバレないとは限らないものね。・・・  
 
 
 政府機関の試作品のモニターは、学術研究への協力者という、ボランティアのような位置づけであるそうだ。だから、優の定期メンテナンスも故障があったときの修理も、実費を請求されたことは一度もない。  
 科学技術省先端科学研究所精密機械開発部なる機関がふだん忙しいのか暇なのかなどということには興味はなかったが、ともかく、電話をかければすぐにサービスマンがかけつけてくれる。その点には少なくとも亜沙子も啓太も満足していた。  
 今回も、優の損傷の程度を言って、出張修理を頼むと、すぐに日程の確認をとってくれた。  
 
 ただ、その日程の調整は、今まで高崎の自宅で暮らしていたときと違って、周囲の目を考えなければいけないぶん、慎重にならざるを得ない亜沙子だった。  
 交通事故で入院している啓太もすぐに退院だが、リハビリ中の啓太にあまり心配はかけたくないし、その前にすませてしまおうか、そしたら、明後日の非番の日かな、と亜沙子は思った。  
 どうせ、旅館のほうは女将の絹子が東京の大学に進学したいなどと言い出して主人の隆行ともめているから、私たちのところにどんな客が来ようと、そんなことにかまっている暇もないでしょう。テレビが壊れたから電器屋さんを呼びましたとでも言っておけばいい。  
 
「あら。いつもの人はどうしたんですか」  
 くだんの機関から派遣されてやってきたサービスマンは、見慣れぬ中年男だった。  
「ああ、川瀬ですか。川瀬でしたら、異動になりました」  
「そうなんですか」  
「ええ。何でも、独立行政法人化とやらの影響で、うちの機関も随分と合理化とか言って統廃合されましたね。実は、前橋のサービスセンターも閉じることになっちゃったんですよ」  
 ボソボソとそんなことを話しながら、下卑た薄笑いを浮かべるその男に、亜沙子は何となく生理的に嫌な感じを受けた。  
「そうですか・・・じゃ、これからは、どこにお願いしたらいいんですか」  
「さいたまのセンターに業務統合されますんで、後で名刺をお渡ししますよ」  
 そのような気のない会話をかわしているうちに、いつも通り、優はすっかり裸にされていた。生気のない無表情な顔をして、あおむけに横たえられていた  
 
 亜沙子と啓太にとって不満があるとすれば、政府機関から来る出張サービス技師がいつも男性であることだった。なるほど、冷静に考えれば、エンジニアが機械の修理やメンテをしているだけだ。男性とか女性とかいう性別にこだわるほうがおかしいのだろう。  
 しかし、それでも亜沙子はいつも違和感を感じていた。優が、家族から見ればいわば他人の男性に裸にされ、体の中をいじられているのを横で見ているのは、「親」として気持ちのいい光景ではなかった。  
 以前に来ていた川瀬という男は愛想こそなかったが、どこか職人らしい誠実さを感じさせて、亜沙子は決して嫌いではなかった。  
 だが、今日の池田と名乗る男は、亜沙子にとって妙に嫌悪感を覚える印象だった。  
 
 池田というその男は、優をうつぶせにすると、  
「この程度の損傷なら、こっちでいいかな」  
と、ひとりごとを言いながらカバンから工具を取り出し、鼻歌まじりで作業をすすめた。あっと言うまに優の背中は元通りになった。  
「ありがとうございます」  
と、亜沙子も礼を言わざるを得ない。  
「ついでだから、定期検査も簡単にやっちゃいますね」  
「え。それはまた別のときに」  
と、亜沙子が言う前に、もうその池田というサービス技師は、勝手に優の胸を押し、フタを開けてしまっていた。  
 優の幼い胸の奥の内部機械があらわになる。冷たい機械の体。でも、亜沙子にとって、かけがえのない「娘」の体。  
 OS、言語ロム、内部バッテリー、埋め込み式生ゴミ処理装置などの動作チェックをし、必要な数値を一通り計り終えて、胸のフタを閉めると、池田は優のボディをなでながら、  
「いやぁ、前にいた出張所でもアンドロイドの体はいじりなれているけど、こういう若い女の子型のやつは、はじめて触りましたよ。いいもんですな」  
と、黄色い歯を見せて、いやらしく笑った。  
 亜沙子は、  
「そうですか。よかったですね。ご苦労さまでした」  
と、表情を変えずに乾いた声で言って、池田という男を帰した。  
 たとえ優が政府機関備品の試作機で、亜沙子たち夫婦には「所有権」すらない預かりものであったとしても、初対面の男に「娘」の裸をいいように触られて気分が良いはずはなかった。啓太さん、いなくて良かった、と思って気を紛らわせるしかない。  
 目の前には、相変わらず優が何も知らない無機質的な表情で横たわっていた。  
 
 
 優の簡易修理から一週間余りが経った。  
 その間に啓太も退院した。リハビリは順調とは言いがたかったが、ともかく親子4人で高崎に帰って、またやり直そうと決めた。優も学校に戻る決意を固めたようだった。  
 ここ四万(しま)温泉・駒乃館に一家で住み込む生活ももうすぐ終わりということになりそうだ。  
 今夜は、駒乃館の娘にして亜沙子の旧友でもある琴子が太郎と正式に婚約したことや、女将の絹子が大学に合格したこと、さらに絹子と主人の隆行の結婚記念日祝いも兼ねて、従業員総出でささやかな祝いの宴をもよおすことになっている。  
 
 祝宴が一段落して、そろそろ片づけが始まろうとした頃、琴子が優のところにやって来た。  
「優ちゃん、ちょっといいかな」  
「はい、何ですか」  
「二人で話したいんだけど・・・私の部屋に来てくれる?」  
 琴子にそう言われて、優はにわかに不安がこみあげてきた。  
 私が太郎さんをすきだったってこと、今でも太郎さんのことをふっ切れずにいるってことは、琴子さんには知られていないはずなのに。どうしてだろう。・・・  
「え。でも・・・」  
 心細い表情でためらう優の手をとり、  
「いいから、ちょっと。すぐ終わるから、ね」  
と、琴子は強引に自分の部屋へと連れ出した。  
 
「どうしたのかな、琴子さん。いきなり優と話したいなんて」  
 事情を知らない啓太が太郎のほうを向くと、太郎は  
「さあ、どういうことでしょうね」  
と、顔をこわばらせながら、決して啓太のほうを向こうとしなかった。  
 
 厨房で膳の片づけをしていた亜沙子の耳に、同僚仲居の小梅や竹子、松葉たちの無遠慮な話し声が聞こえた。この連中は、いつも人目をはばからずに大声で人の噂話ばかりしているので、亜沙子の耳にもいやがおうにも入ってきた。  
「琴子さん、何か優ちゃんに話があるとか言ってたわね」  
「何なのかしらね。もしや、太郎さんと優ちゃんに何かあったとか?」  
「まっさか〜。だって、優ちゃんいくつよ」  
 琴子が優に?何だろう、いったい。亜沙子は思った。  
 亜沙子は琴子を昔から知っている。信用のおける親友だと思っている。優のこともいつもかわいがってくれている琴子のことだから、心配は要らないはずだ。  
 とは言うものの、奇妙な胸騒ぎで落ち着かなくなった亜沙子は、竹子たちに、  
「ごめん。後、お願いね」  
とだけ言って、厨房を離れ、琴子の部屋のほうに向かった。  
 
 琴子の部屋は、普段、琴子が東京にいる間は使っていないが、かつてここに住んでいたときのままになっており、今夜は太郎もこの部屋で寝る予定になっていた。  
 琴子の部屋に  
「ちょっといい?」  
と入る前に、亜沙子は、中から漏れてくる声を立ち聞きし、話の状況を掴もうと思って立ち止まった。  
「いえ。だからね、私は別に優ちゃんを責めているわけじゃないし、もし本当にそうだからと言ってどうこうっていうつもりはないのよ」  
 琴子の声だ。  
「でもね。わからないことはさ、ホラ、ちゃんと確かめておきたいのよ」  
 何のことだろう。  
「優ちゃん。あなた、人間じゃなかったのね」  
 琴子のセリフは、廊下の亜沙子を打ちのめし、蒼白にさせるに十分だった。  
「あなた・・・本当はロボットだったのね」  
 亜沙子は、そのまま逃げるように自分の部屋に帰った。  
 
 
 どれぐらい時間が経ったのかはわからない。  
 音もなく、ふすまが開き、優が部屋に入ってきたようだ。  
 亜沙子は、つとめて明るい声を作って、  
「あ、優。今日もお疲れさま。今夜は、もう早く寝ようか」  
と、優の顔を見た。  
 案の定。  
 優の顔は完全に固まっていた。うつろな瞳はどこを見ているのか焦点が定まらなかった。  
「どうしたの。優」  
 再び、いつくしむようにやさしい声を作って、亜沙子は「娘」の顔を見た。  
 
「ね。とりあえず、座ったら」  
「・・・お母さん」  
 優は、震える声で亜沙子を呼んだ。  
「私、お母さんの何なの」  
 優のガラスの瞳から涙が溢れ出た。  
「何よ、優。いきなり。変な子ねえ」  
と、亜沙子は言ってみたものの、さすがに作り笑顔がこわばって、頬が痙攣しているのが自分でもわかった。  
「琴子さんが言ったの・・・」  
「何て言ったの?」  
と、亜沙子も聞き返すしかない。何を言われたかはわかっているのだが。  
「私・・・ロボットなの?」  
 優はこぼれ落ちる涙をぬぐいもせず、亜沙子をじっと見つめて、しぼり出すように言った。  
「私、ロボットだったの?お父さんとお母さんの子どもじゃなかったの?私の体の中は機械なの?」  
「そんなこと・・・」  
 ないわ、と言うべきだったのだろう。だが、あまりの想定外の事態に、亜沙子は話の接ぎ穂を見失った。だから、優のほうがしゃべらざるを得ない。  
「さっき、そう言われて・・・何で琴子さんがそんなこと言うのか全然わからなかったんだけど・・・」  
「そうよね。変よね、琴子が急にそんなことを言うなんてね」  
 亜沙子は、優の「ケガ」を目撃した人物が太郎であるとは知らない。優も太郎が何を見たのか知らない。太郎が琴子に話したとも、もちろん知らない。  
 
「ほら、琴子も仕事のこととか今回の結婚のこととかでいろいろあって、それで忙しかったから、ついわけのわからないことを言っちゃったんでしょ」  
 強引に話を終わらせようとしたが、優はまだ終わらせるつもりはないらしい。  
「それで・・・私は、そんなことありませんって言ったんだけど・・・・・・でも、たしかに思い当たることばっかりなような気がして・・・」  
「どんなこと?」  
とは亜沙子は言わなかったが、優は、  
「こないだもそうだったけど、ときどき記憶がいきなり飛んで、気がついたらいつも寝かせれているなんてこと、他の人にはないでしょ」  
と、涙声で言った。  
「勉強だって、みんなが覚えられないって言ってることが、なぜか私だけいっぺんで暗記できちゃうし、体育の授業とか運動会だって、練習とか全然しなくても、小さいときから、一番足が速かったし」  
「でも・・・」  
と、亜沙子は打ち消そうとしたが、うまい言葉が浮かばなかった。  
「それなのに、泳ぎだけはどんなにやろうとしてもできなかったのも、もし私がロボットだったんなら・・・」  
 しまいのほうは嗚咽まじりだったので、亜沙子には聞き取れなかった。  
 
 
「ねえ、優」  
亜沙子は、両手で優の肩を掴み、優を座らせながら、  
「そんなことない。そんなことない。でも」  
と、声を落ち着かせ、まるで自分自身に言い聞かせるように言った。  
「もしも・・・もしも、よ」  
と、優の眼を見つめて、  
「もし仮に、本当にそうだったとしても、そんなこと関係ないわ」  
と強い調子で断定した。  
「万一、あなたがロボットだったとしても。あなたの体の中が機械だったとしても。それが何だと言うのよ」  
「・・・・・・」  
 優は何も言わずに、眼に涙をためたまま、亜沙子を見つめている。  
「たとえ、もし本当にあなたが人間じゃなくても・・・」  
 亜沙子は、躊躇することなく言った。  
「あなたは私たちの娘よ」  
と。  
「私と、啓太さんの大事な大事な娘よ。檀(だん)にとっては、だいすきなお姉ちゃん。おばあちゃんにとっては、目の中に入れても痛くないかわいい孫よ。そうでしょ  
う」  
 何らのレトリックもなく、何らの婉曲表現もなく、ただ強くそう言い切るだけで、言っている亜沙子のほうが力が出てくる気がした。  
「ずっと前から。そしてこれからもずっと」  
 もう一度力をこめ、諭すように言い聞かせた。  
「あなたは、私たちの娘よ」  
 さっきまで思いつめたような顔で亜沙子を見つめていた優は、今度は顔をゆがめ、声を上げ、しゃくりあげて泣いた。  
「お母さん・・・・・・お母さぁん・・・・・・」  
 亜沙子の着物を掴んで泣きじゃくる「娘」に、亜沙子は、  
「バカねえ。泣くことなんてないじゃない。当たり前のことじゃないの」  
と言いながら、袂からハンカチを出し、優のガラスの瞳に溢れた涙をそっとぬぐってやった。  
 気がついたら、亜沙子の頬も濡れていた。  
「お母さん・・・」  
「まあ。変ね。私まで泣くなんて、ね」  
 亜沙子は笑って自分の涙を拭いた。  
「・・・そうだよね」  
優が涙の跡の残る頬を輝かせ、ようやく笑った。  
 亜沙子は、もう一度、最愛の「娘」を力強く抱きしめた。  
「優・・・」  
「お母さん・・・」  
 金属をコーティングしたボディが、少しも硬いとは感じなかった。冷たいとは思わなかった。やわらかい。あたたかい。いとおしいわが子の体なのだから。  
(あなたは、私の娘よ)  
 今度は、声に出さずに、もう一度反芻した。これからも、何があっても、私があなたを守るわ。・・・  
 
 廊下から竹子や小梅たちのけたたましい話し声がまた聞こえてきた。今夜の祝宴も終わったらしい。冬の夜風が古いガラス戸を揺らした。  
 
 
 

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