「それにしても驚いたわぁ。まさか、あれだけの事故でこの程度の怪我だなんて……」  
吸血鬼少女が事故現場で助けてくれたおかげで単なる打撲で済んだ俺は、検査のためにと一日だけ  
入院させられ、検査が終わって異常がないことをが確認されると、まるで追い出されるように退院することを決められた。  
病院ロビーでの見送りは、担当の看護婦さんが一人いるだけという寂しいものだった。  
奇跡的に助かった少年として報道陣に囲まれたいとは思わないが、担当医くらいには見送って貰いたいとは思う。  
「幸助くん……これから大変だろうけど、頑張ってね」  
自分には関係のない不幸を背負った人間に対する無責任な同情の声を背に、僕は病院を出た。  
「遅いではないか」  
病院を出た直後、横合いからいかにも待ちかねたというような響きの声が聞こえてきた。  
振り向くと、そこには腰に手を当てて仁王立ちするのがお気に入りらしい吸血鬼少女がむくれていた。  
「三時には終わると言っていたくせにもう五時だぞ……今更ながらに恐ろしくなって逃げたのかと思ってしまったではないか」  
しかし、遅刻を責める口調と表情の中には、俺がちゃんと現れたことに対する安堵も混じっている。  
「あ、ごめんごめん。ちょっと長引いちゃって……」  
よく知らない人間と待ち合わせることの不安と、相手が現れた時の安心感は俺にもよくわかる。  
吸血鬼というのも案外人間味があるものだと思いつつ少女に歩み寄って謝ったのだったが、  
しかし、よく考えてみると、吸血鬼のくせに随分と人間味がありすぎて胡散臭い気もする。  
特に、夏休みの真っ最中の今はこの時間でも日が出ている。  
吸血鬼のくせに日中から外を出歩いている辺りが胡散臭い。  
「なぁ、ところでさ……君は吸血鬼なのに、何でこんな時間から外を出歩けるんだ?」  
疑問に思ってむくれたまま俺を見上げている少女に訊いてみると、よくぞ聞いてくれたとばかりに  
お世辞にも大きいとは言えない胸を張り、自慢げに語り出した。驚いたことに、機嫌が治っているようだった。  
「ふん。誇り高きローゼンベルガー家の娘たる私にとっては造作もないことだ。我が一族には、お前達人間が  
想像しているような弱点などないぞ。日光はもとより、ニンニクも、水も、白木の杭も、火炎も効かぬし、  
鏡に映ることもできる。招かれなくとも自由に家屋に侵入もできる。どうだ、驚いただろう?」  
世間一般で認知されている吸血鬼の弱点を幾つも並べ立てて誇らしげに語る少女の様子は  
十八になったばかりの俺から見ても幼い子供のように思え、何となくからかってみたくなってくる。  
同意を求めてくる少女に向かって、ちょっと質問をしてみることにした。  
「確かに凄いけど、十字架とかはどうなんだ?」  
あまりにもメジャーな弱点なのに挙げていないというのが少し怪しい。  
「う、うるさい! 余計なことに興味を持つな! もういい、さっさとお前の家に連れて行け!」  
効果は絶大だった。一瞬で顔を真っ赤にした少女は、悔しそうな表情を浮かべるとぷいと顔を背け、  
俺を置いてさっさと歩き出してしまった。かなり苛立っているようで、なかなかの早足だった。  
本当に置いていかれた挙句に迷子にでもなられたら困る。俺は咄嗟に少女の手を掴んで引き止めた。  
「あ、待てってば! 俺んち知らないだろ?」  
「え……なっ…!?」  
掴んだ瞬間にびくりと震えたものの反射神経がいいらしく即座に握り返してきた少女の小さな手は、  
流石はアンデッドモンスターの一員というべきか少しひんやりとしていた。  
「な、な、な、何をして……!」  
少女はまだ怒っているのか、頬を赤く染めたまま掴んだ手と俺の顔とを交互に見ている。  
こういう時に女の子をなだめる方法が即座に思い浮かぶほどの経験もない上に、  
病院の真ん前ということもあって少しずつ通行人から好奇の視線が向けられ始めている。  
「だから……俺の家がどこにあるか知らないだろ? 案内するから、ついてきてくれ」  
このままここにいても泥沼に陥るだけだと気づいた俺は、なぜか騒いでいる少女を引っ張って  
そそくさと病院前から立ち去った。  
 
「……ふん、私をエスコートしたかったのならば、最初からそう言えばいいのだ。  
素直にそう言えば、私もエスコートされてやるに吝かではなかったものを……  
それをあんなに強引に引っ張りおって……まったく粗忽な男だな、お前は」  
俺に手を引かれて歩きながら、少女がぶつぶつと呟いている。  
じろじろと通行人に見られているのが恥ずかしいらしく、頬を赤らめ、ちらちらと救いを求めるように  
俺のこと見てくるが、誰もが目を見張るほどの美少女なのが悪いのだから自業自得としか言い様がない。  
「……手を握られた時は…正直、その、驚いたぞ……突然だったからな……」  
「あ、ああ。ちょっと余裕がなかったから……あー、驚かせてごめんな」  
ぶつぶつと文句を言いながら恨めしそうな涙目で俺を見上げ、少女は通行人達の視線から  
身を隠すために俺に寄り添っている。本人が俺を風除けくらいにしか思っていないということはわかっているが、  
やはりこういう状態だと周囲からもそういう目で見られるわけで、俺としても顔が赤くなるのを止められない。  
「……あ、えっと、あのさ……」  
寄り添って歩きながらの沈黙が心に重いので、何とか話題を見つけるべく声をかける。  
具体的な話題を考えるのは話しかけてからというのは俺には無謀な気もするが、この際仕方がない。  
「えっ、あ、な、何だ?」  
俺の手を掴んだまま俯いていた少女が、弾かれたように顔を上げる。何を慌てているのか、よくわからない。  
もしかして、寝ながら歩いていて話を聞いていなかった、とかそういうオチだったりするのだろうか。  
「えっと、あのさ、名前、教えて欲しいんだけど……ほら、考えてみたら、自己紹介とかしてなかっただろ」  
黙ったままでいると少女が「用もなく話しかけるな!」などと怒り出しそうなので、ふと思いついたことを言ってみる。  
しかし、よく考えてみると相手の名前も知らずに同居を決めたというのは、結構問題があるかもしれない。  
親父と母さんが生きていたら「もっとよく考えろ」と説教されるだろうな。  
そんなことを考えながら、何やらしみじみと考え込んでいるらしい少女の答えを待つ。  
「そうだな……私とお前は、まだ互いの名も知らぬ者同士だったのだな……」  
淡い苦笑を浮かべた少女は、相変わらず偉そうながらも少しはにかんだ様子で名乗った。  
「ラウラ・フォン・ローゼンベルガーだ。  
私のことは、特別に……そう、特別にラウラと呼び捨てにすることを許してやる。感謝しろ」  
取り敢えず頷いてみせたが、少し疑問に思う。  
日本ならばともかく外国では名前で呼び合うのが普通のことと思うのだが、なぜ感謝しなければならないのだろう。  
ふと浮かんだ疑問は、同じくふと浮かんだ答えで打ち消された。  
今になって思い出したが、ラウラは吸血鬼の世界では貴族階級らしいのだ。吸血鬼同士でも敬われる立場に  
あるのだから、俺のような人間に呼び捨てを許すというのは破格の好意だと考えられるかもしれない。  
「あ、ああ。ありがとう。俺は七瀬幸助。俺のことも幸助でいいよ」  
特別扱いをして貰っていると考えれば、ラウラの尊大な物言いだったとしても自然と嬉しくなる。  
深い意味はないのだとしても、可愛い女の子に特別扱いして貰えることほど男にとって嬉しいことはあまりない。  
「そうか……幸助というのか。幸助……幸助か……ふむ……わかった。これからは幸助と呼ぶぞ」  
それほど珍しい名前でもないはずなのだが、ラウラは口の中で何度も俺の名前を呟いている。  
外国から来たというラウラにとっては、日本人の名前は物珍しく聞こえるのかもしれない。  
 
 
「ほう、ここが幸助の家か。何だ、貧相な兎小屋ではないか」  
俺の家を見ての開口一番がこれだというのは、予想はしていたが頭に来る。  
確かに貴族だというラウラから見れば二階建ての建売住宅など兎小屋かもしれないが、流石にこれは頭に来る。  
安っぽい兎小屋かもしれないが、それでもこれは親父が必死で働いて買った家だ。  
「親父が汗水垂らして買った家を馬鹿にする権利があるのかよ」  
「あっ……!」  
反射的にラウラの手を振り払った俺の口をついて出た声は、自分でも驚くほど静かで、驚くほど冷たいものだった。  
自分でも制御できない口が勝手に冷たい怒りを吐き出し、ラウラに叩き付けていく。  
ただ、俺の心に渦巻いているのは、親父が遺してくれたものを馬鹿にされた怒りだけではなかった。  
「……すまな」  
俺はラウラが何かを言おうとするのを遮って続けた。  
「確かに凄い家の出のお前にとっちゃ、こんなのは兎小屋や犬小屋と変わらないだろうさ」  
親父が遺してくれたものを馬鹿にしたのがラウラだという悲しみの方を、より俺は覚えていた。  
「でもさ、だからって俺の親父が俺達家族のために働いてくれたことを馬鹿にするなよ。何様のつもりだ」  
淡々と言い終えて、俺は気づいた。誇り高いというか負けず嫌いというか微妙なラウラが、  
ここまで言いたい放題に言われても何も言い返してきていないということに。  
見れば、ラウラは俯いたまま黙っている。ラウラも悪意を持って兎小屋と言ったわけではなく、  
単なる感想として兎小屋という言葉を使っただけなのだろう。  
全面的に俺が悪いとまでは思わないが、些細なことに過剰反応してしまったことは事実だということも  
わかる。言い過ぎたことを謝ろうとも思う。  
だが、ラウラが黙ったまま俯いていることによって何だか拒絶されているような気分になってしまい、  
どうしても一歩踏み出す勇気が出ない。  
重苦しい沈黙が俺達二人の間に流れる。  
何か気の利いた一言でも言えれば雰囲気も変わるのだろうが、生憎と俺にそんな話術はない。  
これが恋人同士だとかそういう親しい間柄ならばキスやハグの一つもすれば和むのだろうが、  
俺達はほんの一日前に知り合ったばかりで名前もつい先ほど知ったという程度の仲でしかない。  
どうすればいいかわからずにおろおろする俺と、何を考えているのか読めないが悔やんでいるには  
違いない様子のラウラの間で、胃が痛くなるような沈黙が続いた。  
結局、動いたのは俺だった。  
俺が強引に掴み、俺が先ほど振り払った小さくか細い手を再び掴む。  
「ラウラ……」  
「あっ……!」  
手と手が触れ合った瞬間、ラウラが小さく声を上げて驚いたように手を引こうとしたのがわかった。  
やはり、俺はラウラに拒絶されている。しかし、ここで引くわけにはいかないので逃げようとする手を強引に掴む。  
 
「……離せ。私に触るな」  
手を振り払おうとしながら顔を上げたラウラの表情の意味はよくわからない。何かを堪えているようだが、それは怒りか悲しみか。  
どちらにせよ、些細な一言に対してあれだけのことを言われれば傷つくというものだろう。  
ただ、俺は罪悪感を覚えながらも安心した。  
その気になれば簡単に俺の手を振り払えるラウラが本格的にそうしようとしていないということは、拒絶されているわけではない。  
これが本格的な拒絶に変わる前に、話を聞いて貰える内に、言うべきことを言っておかなければならない。  
「……ごめん。言い過ぎた」  
掴んだままのラウラの手が一瞬だけ震え、抵抗が止まった。  
「君が深い意味を込めて言ったんじゃないことはわかってた。それなのに、過剰反応して……ごめん」  
こんなことしか言えない自分が恨めしい。子供のような謝り方だとしか言えない。  
これでは絶対に閉じかけた心を開くことはできないだろう。  
もう何も言えなくなった俺は、口を閉ざしたままラウラの表情を窺った。  
ラウラも黙ったまま俺を見ている。呆れているのかもしれないし、失望したのかもしれない。  
名前を教えてくれた時のラウラが浮かべたはにかんだ表情が脳裏をよぎり、余計に悲しくなる。  
これから一人でどうやって暮らしていくかまで考え始めたその時、ラウラが俺の手を握り返してきた。  
冷たいはずの手なのに、なぜだかとても温かく感じる。  
「え……?」  
「……わ、わかれば、わかればいいのだ。私は幸助と違って心が広いから、特別に許してやる。  
その代わり、もう二度とあのような冷たい態度を私に対して取るなよ!」  
予想外の反応に慌てる俺に対し、ラウラは目にゴミでも入ったのか乱暴に目元を袖で拭ってから  
知り合った時と同じような尊大だがどこか安堵しているような態度で告げてきた。  
「……ありがとう、許してくれて」  
上から見下ろすような偉そうな物言いだったが、そんなことは関係なしに心が楽になった。  
「な、何だ。何をにやけている? 怒ったかと思えば笑い出すとは、よくわからない男だ」  
ラウラが戸惑ったような目で俺を見てくるが、自然と顔が綻ぶのを止められない。  
だから、普通ならば絶対に言えないような恥ずかしい台詞も自然に言うことができた。  
「君が俺のことを許してくれたのが嬉しいんだよ」  
「なっ……真顔でそういうことを言うな!」  
あまりに恥ずかしい台詞にラウラが目を見開いて呆れているのも、今は全く気にならない。  
両親が死んだ翌日にこんなことを思うのは申し訳ないし不謹慎だが、本当に今日はいい日だ。  
「いつまでも玄関前にいるのも何だし、さっさと家に入ろうぜ」  
しっかりと握り返してくるラウラの手を掴んだまま、俺はラウラを連れて帰宅した。  
 
「ここがトイレと風呂場。風呂は水の無駄遣いさえしなければ好きなように入っていいよ」  
玄関から近い順に家の間取りを説明しておくことにした。  
「ああ、わかった……そういえば、日本では浴槽に湯を溜めてゆっくりと浸かるのだったな」  
「へー、よく知ってるな。じゃあ、湯船に石鹸とか入れないのもわかってるよな」  
「当然だ。私を誰だと思っている」  
小さな胸を張って得意げな様子のラウラは、流石は名家のお嬢様というだけあって雑学じみた教養が豊富だった。  
「この先にあるのが居間と台所で、この階段を上ると寝室があるんだ」  
トイレと風呂場を通り過ぎた所に二階への階段があり、そこには寝室がある。  
「向かって右が親父達の部屋だけど、遺品とかの整理があるからまだ入らないで」  
手を引かれているラウラに対して何のしがらみもなく説明できる辺り、  
俺は親父達が死んだという事実を淡々と受け止めることができているのかもしれない。  
それどころか、ラウラに家の中を紹介するのが楽しくて親父達のことを忘れそうになっている辺り、  
俺も大分薄情な人間なのかもしれなかった。  
「で、こっちが俺の部屋。中、見るか?」  
「あ、いいのか? おい……」  
返事を待たずに部屋の扉を開け、ラウラを中に引きずり込む。  
女の子を部屋に上げるなどというのは初めての経験だから、俺も少しはしゃいでいるのかもしれない。  
「……これが幸助の部屋か」  
「ちらかってて恥ずかしいけど、まぁ、俺の部屋」  
無反応なのも困るが、興味深げにじっくりと見られても恥ずかしい。  
「ほう、本がたくさんあるのだな。ふむ、芥川にゲーテに……無節操な蔵書だな」  
本棚を覗き込んでラウラが笑う。同年代に比べて読書量が多いのは密かな自慢だ。  
「ん? こちらのは何だ……」  
密かに得意になっていたら、本棚を覗き込んでいたラウラが机の裏に何かを見つけたようだった。  
その瞬間、血の気が引いた。そうだ、机の裏にはあれがあった。  
「あっ、待て、そっちは……」  
慌てて止めようとしたが、もう遅かった。  
「何を後生大事に隠して……な、な、何だっ、何だ、これは! こ、ここ、このような猥褻な……!」  
数冊の雑誌を机の裏から引っ張り出したラウラは、表紙を見るなり顔を真っ赤に染めた。  
「そ、それは、その、えーと……」  
まさか、完全無修正女子高生写真集だなどとは口が裂けても言えない。  
「……幸助。その、お前は、ああいや、男はみな、ああいうのが好きなのか?」  
頬を染め、俺から視線を逸らしたラウラがぼそぼそと呟いて問いかけてくる。  
やはり、女の子には理解しがたいものなのだろう。だが、巨乳女子高生は男のロマンだ。  
「あ、当たり前だろ、巨乳が嫌いな男がいるもんか」  
その瞬間、ラウラが物凄い力で写真集を握り潰した。  
「こ、こんないかがわしいもの、私がこうしてくれる!」  
ラウラの掌が赤く発光し始めた。まさか、炎でも出して燃やすつもりだろうか。  
「あああっ、ちょっ、ちょっと待ってっ、頼むからやめっ……」  
「問答無用!」  
俺の秘蔵の品はラウラの手の中で灰にされた挙句、窓から外にばら撒かれた。  
「……ラウラ、もう、下に戻ろうか。居間とかを案内するよ……」  
これ以上の被害を出さないため、むすっとしているラウラを部屋から連れ出した。  
 
「まぁ、そんなに怒らないでくれよ……」  
ソファにふんぞり返ったままむくれているラウラに、何とか機嫌を治して貰おうとあれこれ話しかけてみる。  
「お、お前が悪いのではないか! あんないやらしいものを……思い出すのも汚らわしい!」  
良家のお嬢様というだけあって、ラウラは随分と潔癖な女の子だった。可愛いことは可愛いが少し扱いにくい。  
「いや、あれは男の子の夢だから……」  
俺を睨むラウラの目が余計に険しくなってきたので、慌てて話題を変えることにした。  
「な、なぁ、それよりも、さ。ちょっと早いけど飯でも食わないか?」  
まだ六時過ぎだが、この時間から夕飯を食べる家もあるから別に構わない。  
母さんはいつも数日分の食料を冷蔵庫に入れているから、有り合わせのもので何か作れるだろう。  
「夕食? 幸助はもう腹が減ったのか?」  
どうやら、ラウラはまだ空腹を感じてはいないらしい。失敗だったか。  
「いや、幸助が食べたいのなら、私は別に構わないぞ」  
そう思ったら、俺の意思を尊重してくれるつもりらしい。よし、それならば決まりだ。軽く蕎麦でも茹でるとしようか。  
「あ、私のことは構わなくていいぞ。私は吸血鬼だからな。  
普通の食べ物を食べられないこともないが、実際に栄養を摂るとしたらやはり血液が最も適している」  
なるほど。そういえばラウラは吸血鬼だった。人間らしくてついつい忘れてしまっていた。  
取り敢えず、ラウラが食べないというのなら俺はカップラーメンでいいだろう。  
問題はラウラの食事だ。まさか、勝手にそこらで人間を襲って来いとも言えない。  
「じゃあ、俺が飯食い終わった後で俺の血を吸ったらどうだ?」  
仕方がないので、俺が人肌脱いでやることにする。話に聞く限りでは吸血=死ではないらしいし、別に構わないだろう。  
「え……い、いいのか?」  
ラウラは信じられない、といった表情を浮かべて俺を見ている。自分から血を捧げる人間が珍しいのだろうか。  
「その代わり、吸い殺さないでくれよ?」  
「あ、当たり前だ! 幸助のことを殺すなどと、そのようなことをするはずがない!」  
軽い冗談のつもりだったのに、真っ赤になって主張してくるのはなぜだろう。もしかして、図星だったのだろうか。  
吸血許可をしたことを少しだけ後悔しないでもないが、ラウラが嬉しそうな顔をしているならそれでいい。  
「じゃ、俺はカップ麺でも食うから、ちょっと待っててくれ」  
台所に向かってヤカンで湯を沸かす。一人分の湯なのでものの数分で沸騰した。  
「カップ麺というのは、乾燥した麺を湯で戻すというあれか?」  
「ああ、それそれ」  
「確か不健康な生活の温床になっているという話だったな」  
「ああ、確かにな。しかし、よく知ってるな、お嬢様のくせに」  
俺がそう答えると、ラウラは少し考えてから言った。  
「……カップ麺もほどほどにしておけ。お前のような男の唯一の取り得は健康だけなのだからな」  
ボロクソに言われて腹が立たないでもないが、一応は心配をしてくれているようだったのでよしとする。  
「はいはい、わかったわかった…っと、そろそろいいかな」  
無駄話をしていたら、あっという間に三分が過ぎた。早速、食べるとしよう。  
「……ふう、最近のはなかなかボリュームがあるな」  
最近のカップラーメンは値段が高いものが多い分、スープも含めれば量も相当な量がある。  
体格の割りに少食だと言われる俺には少し量が多かったようだ。どうにも腹が膨れて苦しい。  
「……ん?」  
向かいのソファに座っているラウラから視線を感じたので、そちらを見てみる。  
俺が食べている最中もちらちらと視線を送ってきていたのだが、もしかして、ラーメンが欲しかったのだろうか。  
 
「どうしたんだ? ラーメン食いたくなったのか? 欲しいなら作るけど、どうする?」  
仮にも名家の出なのだから、自分から催促するのは抵抗もあるだろう。  
そう思ったので、親切なことに俺の方からいるかどうかを聞いてやることにする。  
「違う! わ、私の食事はどうなっているのかと、そのことをだな……」  
その場に起立して否定したラウラは、そのすぐ後で恥ずかしそうにもじもじし始めた。  
貴族の令嬢らしいので、やはりそういうのは嗜みだとかそういうのがあって言いにくいのだろう。  
「あ、ああ、血ね……」  
先ほどは何でもないように提案したが、やはりいざとなると怖い。  
当然だ。同じ血を吸われるのでも、相手は蚊などとは格が違う、正真正銘の吸血鬼だ。怖くない方がおかしい。  
「…ふん、やはり怖くなったようだな」  
逡巡していたら、ラウラが見透かしたような表情を浮かべた。失望や悲しみも混じっているようだった。  
「いや……心の準備ができてなかっただけだ。もう準備はできた」  
そんな切なそうな表情を浮かべる美少女から食事を取り上げるようなことは、俺にはできない。  
俺はラウラを手招きした。  
「死なない程度に吸ってくれ」  
「……うむ。私に任せておけば大丈夫だ」  
その「間」に少し不安が残るが、考えてみれば蚊に血を吸われるのを少し凶悪にした程度のことだ。過剰に怖がる必要はない。  
「ところで、どこから吸うんだ? 手首か?」  
俺が座っているソファに乗っかり、俺の膝に座るような状態になるほど近づいてきたラウラに、ふと疑問を感じた。  
「いや……首だ。そこの血が最も美味い。だから、首を傾けて吸いやすいようにしろ」  
吸血鬼が首から血を吸うのには絵的な美しさだけでなく、実益上の意味があったとは驚きだ。  
「ん、そうだ。そのくらいでいいな。で、では、いくぞ」  
「お、おいっ」  
そうするのが最も適しているとは思うが、背中に腕を回された挙句に密着されるというのはどうにも気恥ずかしい。  
少し冷たいが充分に女の子の柔らかさを感じさせる身体の感触が、また何とも悩ましい。  
頬と頬が触れ合うほどの距離にあったラウラの横顔がこちらを向く。  
 
「う、うるさい。こうしないと吸いにくいのだ! それよりも! まったく、気の利かない男だな!」  
頬を真っ赤に染めたラウラは、涙目になりながら俺のことを睨んでいる。  
「頭と背中に腕を回して支えて、私が血を吸いやすいようにしろ!」  
「えっ……や、でも、それはな……」  
要するにそれはキスシーンでよくある、互いの身体をきつく抱き締め合うという構図だ。  
俺としては非常に嬉しい反面、かなり恥ずかしくもある。ラウラにとっては不愉快なだけだろう。  
食事一つにそこまでの手間と忍耐を強いられるとは、吸血鬼というのもなかなか大変そうだ。  
「い、いいからっ! いいからさっさとしろ! 手間をかけさせるな!」  
「わ、わかったから怒るなよ!」  
躊躇っていたら、涙目のラウラに怒鳴られてしまった。耳が痛くなってきたので、大人しく言われた通りにする。  
「……あ、気持ちいい」  
華奢な背中は引き締まっている割りに柔らかいし、何と言っても絹糸のような髪の手触りが別格だ。  
「こ、こらっ! 幸助はただ支えているだけでいいのだ! よ、よ、余計なことはするな!」  
ついつい撫でてしまい、頬をこれ以上ないほど赤く染めたラウラに叱られてしまう。怒る仕草も可愛いが、やはり耳が痛い。  
「……で、では、いくぞ。い、今から吸うからな。暴れるんじゃないぞ」  
緊張した声と共に首筋に熱い吐息が吐きかけられる。それだけでわけのわからない快感が生まれ、背筋がぞくぞくしてくる。  
柔らかく湿った何かが首筋に押し当てられる。唇だろうか、それとも舌だろうか。どちらにせよ、気持ちいいからそれでいい。  
「し、仕方ないだろう。こうして舐めておかないと傷が痛むのだから!」  
言い訳するような呟きが聞こえてくる。何だかよくわからないが、吸血鬼も大変だ。  
ちくりという小さな痛みが首筋に走る。唇らしきものが押し当てられ、吸われているような感覚が伝わってくる。  
「……ほう、これはなかなか…ん、幸助の血だからか。無性に美味い。ああ、これほどの美味は初めてだ……」  
うっとりとした様子のラウラが吸いながら何かを言っているのが聞こえるような気がするが、血というよりも  
活力を吸われているような気分になっている俺には何のことだかよくわからない。何だか、段々と意識が遠のいていくような気がする。  
「あぁ……幸助、美味いぞ、お前の血はとても……幸助!? どうした、幸助! しっかり……ああっ、頼む、死なないでくれ!  
幸助、幸助っ! 死ぬなっ、頼むから、お願いだから、死なないで……!」  
血相を変えたラウラに肩を揺さ振られるのを感じながら、俺の意識は闇へと消えた――  
 
 

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