「言っておくが、お前の罪は完全には消えていないぞ」
玄関で靴を脱ぎながら、それまで黙って俺に寄り添っていたラウラが唐突に口を開いた。
「確かにお前がいやらしいことを考えていた件に関しては許した。だが、それだけだ」
どうにも話が飲み込めないが、何だか雲行きが怪しい。
言っている内容とは裏腹に表情には怒りの色がなく、悪戯を企む子供のような目つきをしているのが気になる。
ともあれ、考えていてもわかりっこないので、玄関の鍵を閉めながら黙って先を促した。
「私はまだ、お前が寝惚けて私をソファから引き摺り落とした無礼については許していない」
何だか舌先三寸で丸め込まれているような錯覚を覚えるが、確かに許して貰った記憶はない。
俺が全面的に悪いのだから、ここは素直に謝っておこう。
「じゃあ、そのことも改めて謝るよ。ごめ」
「馬鹿者。口先だけで済むはずがなかろう。ごめんで済めば警察はいらないと言うではないか」
素直に頭を下げようとしたら、ラウラに鼻で笑われた。どうやら、行為で誠意を示さないといけないようだ。
「………じゃあどうしろと?」
吸血鬼の貴族が誠意として要求してくる行為が、一体どれほど困難で恐怖に満ちたものなのかということを
考えて戦々恐々としつつ、ラウラの顔色を窺うように質問してみる。
「う、うむ……それはだな、その……」
ラウラは何だか言いにくそうにもじもじしている。どうやら俺に何をやらせるか考えていなかったようだ。
必死に何かを言おうとして口を開閉させているが、言うべきことがないのならどうしようもないだろう。
「え、ええと、その、だな、あの……」
必死で頭を働かせているせいか顔を真っ赤にしているラウラの言葉は、全く要領を得ない。
「ラウラ、ラウラ。落ち着いて。ほら、深呼吸してからゆっくり言ってみ?」
あまりにも必死なその様子を見かねて、アドバイスをしてやる。
「う、うむ、わかっているから、少し黙っていろ」
ラウラは生意気なことを言いながらも、珍しく素直に俺の言葉に従った。
くるりと俺に背を向け、何度も深呼吸をしている。
数十秒が経過し、ようやく落ち着いて何かを考え出したらしいラウラは俺に向き直った。
「お、お前、そ、その、責任を取ってだな、今宵、私に……そ、そ、添い寝しろ!」
ラウラはびしりという効果音が欲しいほどの勢いで指を突き出し、恥ずかしそうに目を逸らしながら言い放つ。
なるほど。もじもじしていたのは考えていなかったからではなく、本当に恥ずかしくて言えなかっただけらしい。
しかし、俺にとってはこんな美少女と同じ布団で寝られるのなら嬉しい限りなのだが、吸血鬼の世界では
添い寝というのはとても苦しい行為なのだろうか。
「そ、そのだな、独り寝は寂しいというか……ああ、違う違う! これは刑罰を兼ねた試練だ!」
顔を真っ赤にして俯きながらもごもごと何かを言っていたラウラだったが、妄想を打ち消す時にやるように
首をぶんぶんと振り回してから、相変わらず真っ赤な顔を上げて俺に挑むような視線を向けてきた。
俺としては先ほどから続くラウラの意味不明な言動と行動に戸惑うほかはない。
「し、試練……?」
「そ、そうだ、刑罰を兼ねた試練だ! 私のような美少女と床を共にしていながら何もできないというのは、
お前のように健康な男にとっては辛い状況だろう! これが刑罰だ!」
それほど大きくもない胸を張りながら腰に手を当てるという仁王立ちのまま、ラウラは説明を続けた。
「同時に、そのような状況に追い込まれてなお、その状況に耐えうるだけの自制心があるかを試す試練でもある!」
「う……」
ここまで説明されて、俺はようやく理解した。
確かにただ添い寝をするだけというのは刑罰だ。こんな美少女が隣にいて何もできないのは拷問だ。
何もしないでいる自信などないので、何とかして別のことにして貰おうと思った瞬間に機先を制された。
「だ、だからだな、その、私のことが嫌ならば別に……ではない! お前に拒否権などないのだ!」
「お、おい、そんな勝手な」
「うるさい! いいか、私はベッドで待っているからな! きちんと逃げずに来るのだぞ!
こ、来なかったら、私はここから出て行くからな!」
ラウラは俺の反論を掻き消すほどの声で捲くし立てた後、憧れの先輩に勢いで告白したはいいが、
やはり恥ずかしくなって返事も聞かずにその場から逃げ出してしまう女子高生のような態度で
脱兎の如く走り出し、ドタドタと階段を駆け上ってしまった。
「お、遅いではないか!」
散々街を走り回って汗をかいた挙句に何度も嘔吐したのをそのままにしてはいけないと思って
風呂に入り、念入りに身体を洗ってきた俺に対するラウラの第一声がこれだった。
だが、そんなことはまるで気にならなかった。ラウラの服装に比べれば、些細な問題だ。
「そ、それ、俺の……」
あまりの衝撃に、上手く言葉が出てこない。ただただ口を空しく開閉させるばかりだ。
「ん? あ、ああ、これか。他に着るもないのでな。その、借りたぞ」
僅かに顔を赤くしつつベッドに腰掛けているラウラは、何と俺のパジャマを着ていた。
明らかにサイズが合っていないため、ズボンは今にもずり落ちそうでお嬢様らしい白いパンツが
見えかかっているし、上着もまるでサイズが合っていないせいでノーブラの胸元が丸見えに近い状態だった。
なぜノーブラなのかはよくわからないが、どうせ形に自信があるとか合うサイズがないとかそういう理由だろう。
それにしても、十四歳くらいにしか見えないラウラだったが、こういう格好をするととてつもない色気を放ち出す。
俺はロリコンではないつもりなのに、不思議とその色香に眩暈すら感じてしまう。吸血鬼の魔力か。
そういう危険な魅力を放っていることを自覚しているのか、それとも無自覚なのかはこの際どうでもいい。
問題なのは俺の股間が急激に硬くなって疼き出していることだった。
「ふ、ふん。この方が罰が重くなっていいというものだろう! こ、こら、あまり見るな!」
俺がどこを見ているのかに気づいたらしいラウラは、腰と胸元を両手で隠して頬を朱に染めながらも、
傲岸不遜で不敵な笑みを浮かべてきた。お嬢様の嗜みというのはどこにいったのだろう。
「あ、そ、その……本当に、それで寝るの……?」
駄目だ。こんな素晴らしすぎる格好をした美少女と添い寝するなど、俺には耐えられない。
絶対に眠れないし、絶対に襲ってしまうだろう。口では試練だなどと言いつつも、実際は俺のことを
信頼してくれているからこそこんなことを言い出したのだということは、幾ら俺でもよくわかる。
だから、絶対に信頼を裏切る結果に終わってしまうとわかっていながら添い寝をすることなど、俺にはできない。
「そうだ! つべこべ言わずにさっさと来い!」
何だかんだと理由をつけて先延ばしにしていたら俺の煮え切らなさに苛立ったらしく、
ラウラはそれほど大きくもないベッドに仰向けに寝転がり、大の字になって俺を呼びつけてきた。
もちろん、わざわざ言うまでもなくその顔は真っ赤だ。不安や羞恥心が心の中を荒れ狂っているのだろう。
俺に対する罰則のためだけにここまでするとは、吸血鬼の執念恐るべし。
「早くしないか!」
ばしばしと自分の横を叩いて、ラウラが俺を睨んでくる。そこに寝ろということだろうか。
しかし、そこはよく見なくてもラウラの隣だ。寝転がるには彼女に抱きつかないと無理だった。
どうやら、これは情け容赦なく俺に重い罰則を与えるつもりらしい。
そうでなければ、普通はここまでしない。
「や、だからさ……流石に」
「お前には誠意というものがないのか! ええい!」
何とかして思い留まらせようと説得工作を始めたら、業を煮やしたラウラに急に手を掴まれた。
「来い!」
そのことを認識した瞬間には、物凄い力で引っ張られた俺の身体は宙を舞っていた。
「ちょっ、ちょ待っ……わぁぁっ…!」
予想落下地点は、大の字になったラウラの真上だった。
「いてて……」
足首をベッドの端にぶつけてしまったらしい。猛烈に痛む。ついでに言うと、身体の下には柔らかくて冷たい感触がある。
俺は予想通りの場所に落下し、大の字になって待ち受けるラウラに覆い被さってしまったのだった。
しかも、先ほどから硬くなりっぱなしだったモノをラウラの股間に擦り付けるような体勢だった。
烈火の如く怒り出して涙まで見せた、先ほどのラウラの姿が脳裏に蘇る。
謝って許してくれるかどうかはわからないが、それでも言わずにはいられなかった。
「ご、ごめ」
「ふ、ふん、捕まえたぞ。大人しく罰を受けろ!」
どんな状態でラウラに触れているかを理解した瞬間に謝ろうとしたが、遅かった。
俺の謝罪は微妙な照れが混じった勝ち誇ったような声に掻き消されてしまったのだ。
「って、ちょ、待てってば! この体勢ヤバイって!」
ラウラが「捕まえた」と言っている通り、俺の身体はラウラによって完璧に拘束されていた。
平たく言えば、腕を背中に回されて両脚を腰に絡められているような状態なのだが、これは危険な状態だ。
吸血鬼の怪力でがっちりと固められているせいでどう足掻いても逃げられない上、ひんやりとした柔らかいラウラの身体が
密着してくるので理性が崩壊しそうで、二重の意味で危ないのだった。
「し、仕方ないだろう! こ、このようにしっかりと拘束せねば、幸助が逃げてしまうではないか!」
幾ら何でも恥ずかしい上に嫌だろうに、顔を真っ赤にしながらも必死でしがみついてくるラウラは正直凄いと思う。
だが、凄い凄いと感心してもいられない。この状況は本当にまずい。
立ち上ってくる仄かな香りやパジャマ越しに伝わってくる柔らかくて冷たい感触は、否が応にも理性を揺さ振ってくる。
「に、逃げないから、と、取り敢えず離して……!」
逃がすまいとしがみついてくるラウラに観念したことを伝えて、何とか解放して貰う。
俺はラウラの横に寝転がって、溜息をついた。
「わかったわかった。逃げないから、そういう強引なのはなしで頼む」
ひんやりした身体と芳しい匂いに掻き立てられた欲望を因数分解の力を借りて鎮めつつ、ラウラを見る。
「わ、悪いのはお前だぞ。いつまで経っても来ないから……土壇場になって尻込みしたのかと思ったのだ」
顔を真っ赤にしたラウラはばつが悪そうな表情を浮かべて視線を逸らしている。
いや、唇を尖らせている辺り、拗ねているのかもしれない。どちらにせよ、猫みたいで可愛らしい。
「と、とにかく、もう夜も遅いのだ! さっさと寝るぞ!」
夜が主な活動時間帯であるはずの吸血鬼が夜も更けたというのはいかがなものか。
そうツッコミたかったが、次にラウラが取った行動によってそんな考えは綺麗さっぱり吹き飛んだ。
「な、何してんの!?」
大の字になっていた状態からころころと転がってきて、何かがおかしいと思った時には既に俺に抱きついてしまったのだ。
いわゆる、横向きに転がっている男の胸元に横から転がってきた女の子がくっついている図という奴だ。
普通、こういった体勢は小さな子供と親という組み合わせか恋人同士が取るものだと思うが、どうだろうか。
「そ、添い寝というのは、こ、こういうものだろう!」
俺にとっての添い寝はただ横で寝るだけなのだが、吸血鬼の場合は抱き合って眠ることを添い寝と言うらしい。
俺の顔を見るのが恥ずかしいのか、胸に顔を埋めたままラウラは言った。
「そ、それにだな、こうしてくっついた方が試練の意味が強くなるではないか!」
なるほど。そういう一面がないとは言い切れない。こういう時、素直にラウラは賢いと思う。
俺が納得したことを悟ったらしいラウラは、やはり尊大な口調で、しかし目を逸らしながら続けた。
「よし、では、腕枕をしろ。このまま一晩過ごすのだ。わかったな」
ラウラは勝手に腕の位置を直し、俺に文句を言う間も与えずに頭を乗せてしまった。
息がかかるほどの距離まで顔が近づいた。
「ちょっと待てよ、何してんだよ、ラウラ…!」
「う、腕枕だと言っただろう。こら、動くな。眠れないではないか!」
俺が事態を理解して文句を言った頃には既にラウラは寝る体勢に入っており、腕はがっちりと押さえ込まれていた。
万力のような力で押さえ込まれているので、きっと強引に引き剥がそうとしてもびくともしないはずだ。
「こら、何をしている。きちんと背中に腕を回して支えろ。このままでは私が安眠できないだろうが!」
そんなことを思いながらどうやって抜け出そうかと考えていたら、とんでもない要求をされてしまった。
「ど、どうしても?」
努力して縋るような目つきを作って、息がかかるほどの近距離にあるラウラの顔を見つめてみる。
失敗だった。敵もさる者で、俺と同じことをやって反撃してきたのだった。
「も、もしかして、私のことが嫌なのか?」
一瞬で瞳に涙を浮かべ、悲しそうな表情で俺のことを見つめてくる。
全身から悲しそうな空気を漂わせてくる思わず抱き締めてやりたくなってしまう姿に、心がどんどん傾いていくのがわかった。
「……そ、そんなことないけどさ」
逆接の終助詞を用いることで最後の抵抗を試みるが、俺は既にチェックメイトをかけられている。
所詮は単なる悪足掻きに過ぎない。俺が何をどうしようと、もう流れは変わらない。
そう、ラウラのことが嫌なのだと心にもないことを言いでもしない限りは、絶対に流れは変わらない。
嫌いだと言い切ってラウラを傷つけるだけの決意がなければ、この流れを変えることなどできはしない。
つまり、ラウラのことを傷つけたくないと願っている俺には、絶対に流れを変えることなどできないのだ。
その辺りを理解してこういう流れに持ち込んだのかどうかを問い質したい気もするし、知りたくない気もする。
「うむ、ならば問題はないな……さあ、腕を回せ!」
すぐに涙を引っ込めて満足げに頷いたラウラによって、俺は彼女の冷たく華奢な身体を抱き締めざるを得なくなった。
発展途上だがしっかりとした弾力を持つ胸や肥満とは違う女の子特有の柔らかさを持った身体、さらさらの髪の感触、
そして息がかかるほどの距離にある口から吐き出される爽やかな香りがする息と全身から立ち上る体臭が何とも悩ましい。
「じゃ、じゃあ、電気消すから……」
その悩ましい状況から一時的にでも逃れるために身体を離して貰おうと思って言ったのだが、それも無駄に終わった。
俺が言い終えた瞬間に、部屋が暗闇に閉ざされてしまった。
「うむ。特別に私が電気を消してやったぞ。ありがたく思え」
鷹揚に頷いたラウラが、念力だか魔法だかで蛍光灯のスイッチを切ってしまったのだ。
闇に目が慣れていないせいで間近にあるラウラの顔すら見えないが、得意げな表情を浮かべているだろうことは何となくわかる。
「こら、寝るのだからこれ以上のお喋りはなしだぞ!」
突然抱きつかれた。熱くなっている頬に冷たい頬が触れ、熱くなった身体に冷たく柔らかい身体が押し付けられる。
何とか身を離す口実を考えようとしていたら、やはり機先を制されてしまった。完全に読まれていた。
しかも、徹底したことに言い終えてからものの数秒もしない内に可愛らしい寝息を立て始めている。
これではもう、どうしようもない。目の前の魅力的な身体の誘惑に耐えながら眠るしかなかった。
できるわけがない。俺は三秒で理解した。できるわけがないのだ。
漂ってくる甘い香りにも、ひんやりとして柔らかい身体にも、俺如きがその誘惑を跳ね返すなどということができるはずがない。
その証拠に、パンツの中でいきり立っているモノの先からは先走りが出てきてパンツの中がとても気持ち悪くなっている。
臨戦態勢だ。理性の堤防の崩壊も目前だった。眠れる眠れない以前に自制心の持久力が問題だった。
今の俺の自制心を支えているのは一人の人間としての誇りと、ラウラが浮かべている安らいだような表情だけだった。
だというのに、自覚があるのかないのかラウラは俺のことを誘惑するようなことばかりしている。
密着状態に耐えられなくなって少し身体を離そうとした瞬間に、ただそう考えただけでまだ動いてもいないというのに、
俺の背中に回した腕に物凄い力を込めて固定した挙句に仔猫のような仕草で身体を擦り寄らせてくる。
つまりは、結果として少しでも離れようと思うだけで余計に身体がくっついてしまうのだ。
それだけではない。
結局ずり落ちてしまったせいで闇の中でも眩しく見える白パンツが剥き出しになっており、ラウラが身じろぎするたびに
その柔らかい太腿が俺の股間を挟み込むように刺激してくるのだ。たぶん、俺がこのまま腰を動かせば素股に近いことができる。
他にも列挙していけばきりがないが、言えば言うほど意識してしまって駄目なのでこの辺りでやめておく。
「……っ……!」
大きく開いたラウラの胸元に自由な方の手を無意識の内に差し込みそうになっている自分に気づき、愕然とする。
予想以上に自制心の崩壊が早い。このままではまたもラウラの信頼を裏切る結果に終わってしまう。
だが、どうすればいいというのか。五感の全てが俺の欲望を刺激しているような、この状況で。
ラウラの姿は大分闇に慣れてきたおかげではっきり見えるようになった目を閉じればいいが、
全身から立ち上る匂いや爽やかさすら感じる甘い吐息の匂いまではどうしようもない。
悩ましい香りを嗅ぎ取る鼻を塞いでも、漏れ出る吐息や布が擦れる音までは消せない。
扇情的な音を聞き取る耳を塞いだとしても、ぴったりと隙間なくくっついてくるひんやりとした身体の艶かしい感触は消せない。
そして、最終的に身体を離すという選択肢が困難である以上、どう足掻いても誘惑から逃れることはできない。
まったく、「刑罰を兼ねた試練」とはよく言ったものだ。美少女と寝られて幸せどころか、その信頼を裏切らないために
とてつもない精神的苦痛を味わわなければならないのだから、全く拷問としか言い様がない。
最後の手段として、俺は唇を血が出るほどに噛み締めることで生まれる痛みによって自制心を保つことを選んだ。
犬歯が唇に突き刺さり、肉を引き裂いていく激痛。傷口から流れ出した噎せ返るような血の味。
汚い欲望が鎌首をもたげるたびに、顎に込める力を意識的に強めて自分を罰する。
そうやって俺は自制心を保っていた。既に犬歯は半分以上唇に突き刺さっている。
痛みと出血が激しいが、まだ足りない。もっと必要だ。だが、必要だからと際限なく歯を立てることはできない。
唇を貫通したらそれまでだし、それ以前に耐えられなくなる可能性もある。
遅かれ早かれ、俺はラウラが再び示してくれた信頼を裏切る結果に終わってしまうだろう。
しかし、だからといってそれを逃げ道にしてラウラの身体に欲望を叩きつけていいということにはならない。
俺には耐えられるところまでは耐える義務があった。
耐えられなくなったら、何とかしてラウラを身体から引き剥がす義務もある。
最悪、寝ているラウラをオカズにしてオナニーに励むという選択肢もある。
形としてはラウラの信頼を裏切る結果となるが、それでも俺のような男が彼女を汚すよりは余程いい結末だ。
心を傷つけた上に身体まで傷つけてしまっては、本当の意味で俺という人間には生きている価値はない。
いつの間にか、この試練にかかっているものが増えているのが理解できた。
俺がここまで必死になっているのは、もちろんラウラの信頼と心のためでもあるが、それと同じくらいに俺という
一個の人間に生きていくだけの価値が果たしてあるのかどうかということを問い質したいと思っているからだった。
もっとはっきり言えば、ラウラに対して「君が好きだ」と胸を張って言える人間で在りたいと願っているからだった。
だからこそ、俺はここまで必死になってラウラの試練に耐え抜こうと努力しているのだった。
「……んぅ…」
改めて自分の思いを確認した時、それは起こった。
微かに身じろぎしたと思った瞬間、ラウラの顔が突然近づいてきたのだった。
もちろん、息がかかるほどの距離で頬を擦り寄らせることもできるくらいだったから、これ以上の接近は接触と同義だ。
「なっ……」
俺が上げた驚きの声を封じ込めるように、柔らかくて冷たい唇と血に塗れた唇とが触れ合った。
咄嗟に逃げようとしてできなかった。既に後頭部に腕が回されている。
寝ているラウラは混乱し狼狽する俺には構わず、そのまま唇に舌を差し込んできた。
甘い唾液に塗れた舌が傷口を舐め回して痛みを和らげ、そのまま俺の口の中を控えめに探る。
情けないことに俺は舌を絡め返すこともできなければ唇を離すこともできず、ただラウラに翻弄されている。
傷がある下唇がラウラの可憐な唇に挟み込まれた。
疑問に思う間もなく、ラウラは赤ん坊が母乳を吸うような仕草を始める。同時に、心地よい虚脱感が襲ってきた。
俺はことここに至ってようやく事態が飲み込めた。
ラウラは敏感な嗅覚によって俺の出血を察知して、本能の赴くままに吸血行為を開始しているのだ。
だが、腹は立たないし恐怖もない。
ラウラが本当に幸せそうな顔で俺の血を吸っているという事実には俺も幸せな気分になるし、
何よりもラウラが俺を信じてくれているように俺もラウラのことを信じている。
俺は手触りのいいラウラの髪を撫でながら心地よい虚脱感に身を委ね、そのまま意識を薄れさせていった。
意識が消える寸前に感じたものは恐怖でも嫌悪でもなく、安堵だった。
「これで……眠れる……」
微かに呟いて、俺は意識を失った――