深夜の道を力なく歩く少女は、一瞥しただけでわかるほど憔悴していた。  
「血の……匂いがする……近い?」  
だが、敏感な鼻で血の匂いを嗅ぎつけた途端、疲れきった顔に生気が戻る。  
「これで……助かるかも……しれない……」  
一縷の望みを血の匂いの源に託し、少女は最後の力を振り絞って歩き始めた。  
このまま大量の血が存在しているであろう場所に辿り着ければ、助からないこともない。  
少女は吸血鬼と呼ばれる存在だった。それも、吸血鬼達の中では名門として知られる家の出だった。  
本来ならば常に力強く在るべきである名家出身の吸血鬼がなぜ憔悴しきった面持ちで  
夜の街を歩いているかということだったが、それは単純な話だった。  
彼女はまだ、狩場を持っていないのだ。少女は日本に来てまだ日が浅いため、他の吸血鬼が  
縄張りとしていない狩場を見つけられないでいるのだった。  
「……事故現場……私に……死者の血を啜れと、いうのか……」  
果たして血の匂いを放っていたのは、ガードレールに突き刺さった一台の乗用車だった。  
運転席側のドアを突き破って車体に刺さり、助手席側のドアから突き抜けたガードレールには  
赤黒い肉片と血液が付着している。  
確認しなくてもわかるが、前部座席にいた者は既に死んでいるだろう。即死だったかもしれない。  
だが、問題はない。死んだ直後の血液ならば、まだ生命力は残っている。  
「……宵闇の貴族たる私が……死者の血を啜るのか……」  
少女はがっくりと膝を突き、突きつけられた選択に苦悩した。  
生き延びて誇りを失うか。誇りを守って死ぬか。  
どちらもおいそれと選べる選択肢ではない。だが、選ばないという選択肢はなかった。  
迷い続けていれば、体力が尽きるか他の人間が集まってくるかして死ぬことになる。  
「………た……け…て…だ…れか」  
そんな時、吸血鬼の聴覚でも完全には聞き取れないほどの弱々しい声が響いた。  
声の主は後部座席にいるようだった。生き残りがいたのだろうか。  
「誰か……いる……のか…?」  
これは好都合だった。瀕死の重傷を負っているとはいえ、一応は生者には違いない。  
死人の血を啜るのに比べれば、まだ幾許かの名誉が保たれるというものだった。  
「……ぃ…た……ぃ……お…や、じ……かぁ…さ……」  
後部座席に倒れていたのは、少女よりも幾らか年長に見える少年だった。  
腕は関節ではない所で曲がり、口からは赤黒い血を垂らしている。  
目の焦点も合っていない。意識も朦朧としているようだ。  
「……お前の…血を…」  
最早、身動き一つできない少年に向かって屈み込み、少女は首筋に顔を近づける。  
だが、あとほんの一センチで唇が接するというところでその動きが止まる。  
少女は小さく、悔しそうに呟いた。  
「駄目だ……できない……」  
数分もすれば命の灯が消えるとはいえ、まだ生きている相手、特に自分と同年代の少年にトドメを指すのは躊躇われる。  
これまでにも多くの人間の血を吸ってきた彼女だったが、誰かを殺めたことはなかった。  
吸血行為とは即ち、血に含有される生命力の吸収を意味する。  
既に自分の生命を維持するだけの生命力もない少年から血を吸えば、絶対にそれがトドメとなる。  
吸血鬼に似合わぬ優しさを持つ彼女には、とてもではないができなかった。  
 
「…どう、すれば……」  
少女は再び苦悩した。  
少年の血を吸えば自分は助かるし、死者の血を啜るという不名誉を免れることができる。  
だが、それをすれば少年を殺すことになってしまう。しかし、放っておいても少年はどのみち死ぬ。  
助かりたい。しかし、殺したくもなければ死者の血を啜るのも嫌だった。  
「……がっ……は…」  
答えの出ない煩悶に終止符を打ったのは、少年の苦しげな吐息だった。  
赤黒い血混じりの咳をする彼は、今にも死にそうに見えた。  
「お…前、しっかり、しろ……!」  
少女は決心した。  
このままでは少年が死んでしまう。見殺しにするのは嫌だった。助けよう。  
少女は得心した。  
死に瀕している者を救うために進んで自ら泥を被ることは、決して不名誉なことではない。  
むしろ、弱者のために誇りをも投げ捨てることこそが、真の意味での高貴さというものではないか。  
「待って、いろ……今、助けて…やる…」  
少女を意を決し、前部座席に座っている男女の死体に口をつけた。  
無理矢理に自分を納得させたとはいえ、屈辱感は消えない。  
彼女は込み上げてくる不快感に耐えながら傷口に牙を突き立て、死者の血を啜った。  
「……よし。今、助けてやるぞ。名も知らぬ少年」  
血に含まれた死者の生命力の残滓を吸収して回復した少女は、少年の身体に触れた。  
完全に力を回復させた少女にとって、人間の貧弱な肉体を癒すことなど簡単だった。  
触れている掌から生命力を活性化させる波動を放ち、肉体の損傷をある程度癒す。  
命に関わる傷を塞ぎ終えた途端、見計らったかのように救急車のサイレンが聞こえてきた。  
「……人間共が来たか。あとはあの連中に任せるとしよう」  
まだ完全に傷を癒したわけではなかったが、既に命に別状はないほどに回復している。  
残りの軽微な怪我は人間の医者に任せておけばいい。  
救急車が到着するのと入れ違いに、少女は霧となって事故現場から消え去った。  
「うわ、こりゃ酷いな……って、今、誰かいなかったか?」  
「馬鹿、寝言ほざいてる場合か! 早く、怪我人を運び出せ!」  
「おい、前の二人は駄目だが、後ろの奴はまだ生きてるぞ! おーい、お前ら手伝え!」  
救急車から出てきた救急救命士達が、事故現場の悲惨さに辟易しながら怪我人を搬送していった。  
 
 
「……えっと、君、誰?」  
病室で眠っていた俺が目を覚ますとベッドの横に、見た事もない、  
しかしどこかで見たような印象のある綺麗な女の子が立っていた。  
女の子は驚いたような表情のまま、硬直したように俺の顔を見下ろしている。  
「もしかして、その、他の患者さんか?」  
俺が最初に目を覚ました時にはこの病室には何人かの看護婦さんと医者がいて、俺達一家が  
事故に遭ったことと生き残ったのが俺だけだったということを沈痛な表情で説明してくれたが、  
その時は他の患者はいなかった。あれから、また誰か運び込まれてきたのかもしれない。  
「……ふん、元気そうだな」  
俺を見下ろして冷たく言い放つ少女は、しかし言葉とは裏腹に安心したような表情を浮かべている。  
「あのさ……」  
全く答えてくれないので意を決して話しかけようとしたが、少女は背を向けてしまった。  
「邪魔をしたな。では、さらばだ」  
そのまますたすたと歩き出す。しかし、さらばと言っておきながら、彼女はドアに向かわなかった。  
彼女が向かった先にあるのは、半開きになっているドアだった。まさか、飛び降りる気なのだろうか。ここは五階だぞ。  
「私のことは気にするな」  
少女が窓枠にすらりと伸びた長い足をかけながら、ちらりと俺の方を見て言った。  
どうやら、本当に飛び降りるつもりらしい。放っておくわけにはいかなかった。  
「ま、待ってくれ! ちょっと待ってくれ!」  
俺はベッドから上体を起こして少女を呼び止めた。  
何とかして引き止めねば。目の前で自殺されるのは何とも後味が悪すぎる。  
「何だ?」  
少女が訝しげに振り向いた。刺激しないように話しかけて何とか思い留まらせなければならないとは  
思いつつも、何も話題が浮かばない。黙っているわけにもいかないので、俺は苦し紛れに言った。  
「な、なぁっ、君、俺と会ったことないか?」  
今時、ナンパでも使わないようなくだらない言葉だったが、他に思いつかなかったのだから仕方がない。  
しかし、明らかに外したにも関わらず、少女は驚いたように目を見開いて俺を見つめていた。  
「まさか……記憶が残っていたのか……? しかし、ほとんど死に掛けていて意識などなかったはず……」  
少女はぶつぶつと呟いている中に、気になる言葉を見つけた。死にかけていて意識がない、という言葉に  
疑問を抱いたその瞬間、俺の脳裏に病院に運び込まれた直後に見た夢の記憶が蘇った。  
夢の内容は、後部座席で倒れていた俺の前に美少女が現れ、不思議な力で助けてくれるというものだった。  
「まさか……まさか、あれは夢じゃなかったのか!?」  
医者が言っていた「あの状況でこの軽傷というのは本来有り得ない」という言葉を思い出し、俺は愕然とした。  
「……意識があったとは、な」  
少女は失敗してしまった、というような表情を浮かべて俺に向き直った。  
「君は……何者なんだ…?」  
掌を当てるだけで傷を治してしまうような力を持った女の子だ。普通の人間ではないだろう。  
「まさか君は……」  
ゆっくりと深呼吸しながらの俺の言葉に、少女が息を呑んで表情を強張らせる。  
「魔法少女か!?」  
 
「え…魔法……」  
どうやら正解だったらしく、少女は言葉に詰まったように口を開閉させた。  
「や、やっぱり魔法少女だったのか……」  
それにしても、魔法少女が実在するとは知らなかった。世界にはまだまだ知らないことがたくさんある。  
そう思ってしみじみと頷いていたら、怒鳴られた。  
「だ、誰が魔法少女だ! お前、私を愚弄するつもりか!?」  
色白な頬を真っ赤にした少女が、顔の前で握り拳を作って震えている。怒らせてしまったようだ。  
しかし、正直な話、不思議な力を使う女の子など魔法少女くらいしか思いつかないのだから仕方がない。  
「ち、違うの……?」  
その剣幕に少しビビりながら恐る恐る訊いてみると、傲然と胸を張った少女は腰に手を当てて声高に答えた。  
「私は誇り高き吸血鬼の中でも特に高貴な宵闇の貴族だ! そのようなわけのわからないものと一緒に……あ」  
しかし、最後まで言い終えることはなく、慌てた様子で口を閉ざしたきり黙り込んでしまった。  
正体を明かしてはいけない決まりでもあるのだろうか。だがそうなのだとしても、急に黙られると俺としては困る。  
「え、えーと、どうしたんだ?」  
黙ったまま見られ続けるのも嫌なので、とにかく会話を再開させるように努める。  
「……驚かないのか? 怖くないのか? というより、お前、私の言ったことを信じているのか!?」  
そうしたら、突然近寄ってきた少女に両肩を掴まれ、前後に揺さ振られた。  
華奢な外見の割りに、この間俺に絡んできた不良よりも余程強い力だった。  
「い、いや、だ、だって、さ、た、たす、助けて、くれくれたじゃなないかか!」  
どう足掻いても揺さ振るのを停められそうもないので、舌を噛む恐怖に耐えながら答える。  
助けてくれたから驚かないし、怖がらない。不思議な力で助けてくれたから信じる。  
そういう意味を込めて、俺はできる限り簡潔に答えたのだった。  
「……そ、そうか。ふん、たかが人間のくせに肝の据わった奴だな」  
答えを聞いて肩から手を離した少女は、僅かに驚いたような表情を浮かべている。  
俺が怖がらなかったことがそれほど意外だったのだろうか。こんなに可愛い子を怖がるはずがないのに。  
それとも、俺がすんなりと信じたことが意外だったのだろうか。命を助けられても信じないような奴はそういないだろうに。  
そういえば、何で命を助けてくれたのだろうか。別に知り合いでもなかったはずだ。  
「……あ、そういえば、君は俺を助けてくれたんだよな。ありがとう。でも、何でだ?」  
疑問に思ったので訊いてみることにした。  
「しょ、消耗した力を回復するためにお前の両親の死体から血を吸ったら後部座席に  
死に掛けのお前がいて、たまたま、そう、たまたま力が余っていたから助けてやっただけだ。  
感謝なら、大量の血を流して死んだことによって血の匂いで私を呼び寄せた両親にするのだな」  
少女は照れているのか僅かに頬を赤くしながら、早口で一息に言い終えた。  
「ではな! 今度こそ、さらばだ!」  
そのまま、窓に向かって走り出そうとする。もう帰ってしまうのだろうか。もう会えないのだろうか。  
「待ってくれ!」  
一抹の寂しさが心をよぎり、気がついたら少女を呼び止めていた。  
 
「……今度は何だ?」  
苛立たしげに俺のことを睨みながらも、少女は窓の前で止まってくれた。  
吸血鬼というだけあってなかなか怖い目つきなので、早く用件を済ませることにする。  
「あ、あのさ……さらばだ、ってどこかに帰るんだよな? その、よかったらどこに住んでるか教えてくれないか」  
我ながら馬鹿な質問だということはよくわかっている。  
普通の女の子でも答えてくれることが少ないのだ。吸血鬼の女の子が答えてくれるはずもない。  
「……そのようなことを聞いてどうする?」  
と思っていたら、少し警戒するような表情を浮かべた少女は、  
意外なことに話の持っていき方次第では答えてくれそうな雰囲気だった。  
「いや、ほら、その、改めてお礼とかしたいしさ……」  
だが、惜しいことに俺には上手く話を持っていく話術がない。  
案の定、けんもほろろに断られてしまった。  
「いらんと言っているだろう。私は余裕があるからお前を助けただけだ」  
しかし、ここで引いてしまっては駄目だ。ここで引いたら、もう会えないのだ。  
こんなに可愛い女の子と二度と会えないというのは、かなり惜しい。俺は必死だった。  
「それじゃ俺の気がすまないんだ!」  
単刀直入に懇願した。話術などない以上、本音で話すしかない。  
「だから、どこに住んでるのかくらい教えてくれ!」  
俺は黙り込んだままの少女にしつこくしつこく懇願した。  
そうやってしつこく頼み込んでいたら、いい加減に根負けしたのか少女は言った。  
「……私は日本に来たばかりで、家がない。だから、お前を招くことはできない。納得したな?」  
うんざりしたような表情で一息に告げると、少女は再び窓枠に足をかけた。  
やはり飛び降りるのだろう。少女の足に力が籠もるのがわかった。  
ジャンプの直前、俺は少女を呼び止めた。これで三回目だった気がする。  
「だから、待ってくれってば!」  
「…………今度は何だ!? いい加減にしろ!」  
突然呼び止められてバランスを崩したらしい少女は、窓枠に手をかけて体勢を整えながら  
俺のことを怒鳴りつけてきた。少し短気すぎる気もするが、気持ちはわかる。  
「さっさと用件を言え!」  
大分怒っているようだった。こうなったら、余計なことを言わずにさっさと言ってしまおう。  
気を落ち着けるために深呼吸してから、俺は少女に向かって祈るような気持ちを込めて言った。  
「……じゃ、じゃあ、俺の家に来ないか!?」  
 
「……な、何だと?」  
面食らっている様子の少女を見て、俺は失敗を悟った。  
よく考えてみなくても、明らかに年頃の女の子に対して男が言うべきことではない。  
俺は慌てて訂正した。  
「い、いや、だから、やましい気持ちとかじゃなくてさ……! そう、親父と母さんが死んで、  
俺、独りになっちゃったんだよ! だから、その、急に一人になるのは寂しくてだな……」  
段々と声が小さくなっていく。言いながら、自分が墓穴を掘っていることに気づいたからだ。  
これは「今日、俺んち寄ってかない? 親いないから二人きりだぜ」と言っているのと大して変わらない。  
こんなことを言われて素直に頷く女の子はまずいないだろう。  
絶対に駄目だと思って一人で絶望しかけていたのだが、少女の反応は予想したほど悪くはなかった。  
「……い、いや、しかし、しかしだな。私はついでにお前を助けただけだし……世話になるようなことは何も……」  
戸惑ったようにぶつぶつと呟いている彼女は、決して嫌がっているようには見えない。  
むしろ、俺の家に同居する理由がなくて残念そうにしているようにすら見える。  
となれば、彼女は世話になるに足る理由さえあれば、何の引け目も感じずに家に来てくれるのだろう。  
俺はここで勝負をかけることにした。ただし。少し変化球気味の頼み方で。  
「俺が君に家に来て欲しいと思ってるんだ!」  
俺は極力真面目な表情を作って言う。  
「何で私がお前の要望に従わなくてはならんのだ!」  
一瞬だけ頷きかけた少女だったが、すぐに表情を改めて勢いよく首を振る。  
「君は俺の両親が死んだおかげで助かったんだろ。その分だけ、俺達一家に借りがあるんじゃないか?」  
「……そ、それはそうだが……」  
やり口が汚い上に死んだ両親に申し訳ないが、込み上げる罪悪感を堪えながら更に続ける。  
「だったら、その借りを返すために俺と暮らしてくれよ!」  
幾ら、この美少女吸血鬼に会えなくなるのが嫌だからと言ってここまでするとは、我ながら腐った奴だと思う。  
だが、自分の人間性を貶めるようなことをしたおかげで、俺は少女が俺と暮らさざるを得ないという具合に  
話を持っていくことができたのだから、人間性くらいは妥当な代価だとは思う。  
「……わ、わかった。では、お前の家にしばらく厄介になってやる。いいか、借りを返すまでだぞ!」  
怒りによってか苦悩によってか照れによってか知らないが、少女は顔を真っ赤にしながら傲然と胸を張って俺に答えた。  
 
こうして、俺と吸血鬼少女との共同生活が始まることとなったのだった。  
 

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