なにはなくとも失いたくないものを失った晩は夏の祭りでした。  
 
顔をあげれば輝くものは提灯の宵路ばかりでありました。  
髪だけが撫ぜてゆくゆく頬は紅もすっかり落ちています。  
 
神社は小さく、村は古いようでしたが、それは伝え聞いたお話です。  
失ったのは記憶の一部であったと聞いていますが、完全に信じてもおりません。  
なぜならその「失われた」と口々にいわれる時期の記憶は、ひどく突飛なものとはいえ存在しているからです。  
私は畑の中央に寄生する醤油バッタとして、短い一生を終えてから、  
神社の鳥居の根元に蹲り人間の少女として眠りについているところを発見されました。  
そうして祭りの晩に、私はちっぽけな虫としての広大な星々の身体を失って、  
今ではこうして同じ晩、男に抱かれて成熟しかけた肉体の反応に人の肋骨をしならせているのです。  
 
「怖ろしかったわぁ。祟られっちまう」  
「神の子だで言われてたどもそでもおっそろしのが?」  
「そなの昔のことだよす」  
 
雪駄を足指で引っ掛けるようにして出て行く男の後につけ、  
祭囃子の途切れ途切れな山道を下り往く。  
汗にべたついた残り香は髪に軽く樹肌のにおいをまとわせていた。  
花火があがり木々が僅かだけ闇色から浮いた。  
男の息遣いを頼りに足を進める。  
虫のからだを失い人を得た晩、怖ろしかったものは彼女自身の肉体であったが。  
今は男のたくましさばかりを畏敬する。  
太鼓に紛れ質の悪いスピーカーからは節のついた老婆の盆踊り歌が空を覆う。  
陰に隠れて忍びで逢うものは醤油バッタのみではなかった。  
 
「そいやおまえが来たンはお祭りの日だっだな。俺が見つけたんだ。驚いたず」  
「また言っでるは。懲りねの」  
「だって、ありゃあ」  
 
なあ。  
男の声は髭に擦れるようにがらがらとしていた。  
あれから十年が経ち、醤油バッタの胎内にはささやかに別の鼓動が宿る。  
もうあまり無理もできない。  
野外で抱かれようなることはおそらくこれから冬にかけてなくなることだろう。  
虫だったものが子を産む。  
その事実に醤油バッタは漠然とした不安を抱える。  
宿したのはおそらく田植え祭の時分にさきほどと同じ秘密の逢引場で  
契ったあの日であり、それはすなわちお宮の裏陰での出来事であった。  
それは鳥居の最奥だ。  
子宮の中心で契るような行為である。  
男が節の多い地肌を気遣い女に手を伸ばす。  
ごうと風が吹いた。  
 
「えゝ。そろそろ御返しを戴かなくては」  
 
知らぬ声が醤油バッタの娘にだけ滲み込んで薄く散じていった。  
鈴がほの暗いざわめきに掠れ、どうどうと山奥から吹いた。  
手を取り損ねて横転した醤油バッタは痛む下腹部を抱えて男に縋り  
やがて、ああ神様に子が取られてしまったの、と悲しげに啼いた。  
 
 
私は失いがたいものを祭りの晩に失いました。  
そうして今でも二度とは得ません。  
時が来たなら醤油バッタに戻れるかと思いましたが、今でもこうして人のままです。  
それが途方も無く寂しい。  
―ねえ先生。  
 

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