ナタリーは脚にもつれて纏いつく薄い裾を巧みにさばきながら、回廊から中庭への石段を駆け下りた。  
この庭を突っ切ると回廊を回っていくよりはるかに早くホールにつくはずだった。  
 
──やっと、逢える。  
早くあの声を聞きたい。  
 
 
「ナタリー?」  
 
彼女は瞬間立ち止まり、弾かれたように再び動いた。  
このあたりは水盤から溢れる噴水と、差しかわした木々の枝のせいで苔が石畳に張り付いていて滑りやすいのだが、そんな事はすっかり忘れていた。  
池の周囲の縁を回る手間を惜しみ、飛び越えようとしたとたん靴の滑らかな底が滑った。  
転びかけた彼女は、だがなんとか立ち直って顔をあげた。  
イヴァンが呆れたような顔で、大きく張り出した木の枝をかきわけて立っていた。  
ナタリーは足元の悪さを忘れてまた走り出した。  
 
「こら、もっと淑やかにこい!」  
跳びついてきたナタリーをまともに受け止め、彼は少しよろけたが口元は笑っている。  
「でも──」  
ナタリーは急いで身をくねらせ、首を巡らせた。  
イヴァンの視線を捕える。  
その変わらない色の明るさに胸が踊った。  
「でも、早く会えたほうが嬉しいわ」  
「オレがか?それともお前が?」  
イヴァンは軽々とナタリーを抱き上げると石畳の上を一回りしてみせた。  
乗馬用の長いマントが風をはらみ、大きくふわりと二人を包んだ。  
 
彼女をおろすと、イヴァンは少し背を屈めてその顔を覗き込んだ。  
「寂しかったか」  
久しぶりに逢う夫の顔は少し陽に灼けている。  
ナタリーははにかんだように微笑んだ。  
「お帰りなさい」  
 
*  
 
首都をあげての婚礼の後、イヴァンはこの国の慣習通り、機構的にも経済的にも父王から独立した生活に入ることになった。  
彼は、都の南東にある王家の離宮に手を入れて住むことに決めた。その周囲の猟に適した森が気に入っていたからだ。  
彼の妃は王家に繋がる由緒正しい古い家柄の貴族の養女だった。  
先年同じく王族に近い貴族の絡む叛乱を潜ったこの国にとって、この婚礼に象徴される血族の結束は喜ばしいことである。  
周辺の国々との、政略結婚による連帯を望む議員たちからは多少の不満の声もあったが、王家の意向は明らかだったのでその言が上奏されることはなかった。  
 
結婚して新しい館に移ったからといってイヴァンはぬくぬくと新生活を楽しむというわけにはいかなかった。  
かえって妃を得た王の後継者としての義務と仕事がどっさり増えたというほうが正しい。  
彼の妃──つまりナタリーにも、婚約時に引き続き学ぶべきことが山のようにあった。  
そしてイヴァンはイヴァンで宮廷への出仕だけでなく、父の代理での地方への巡回などで、ここ数週というものろくに我が家にも戻れぬ忙しさである。  
 
こんなことなら結婚なんかするんじゃなかった、とぼやくイヴァンの冗談をたしなめきれないナタリーだった。  
たしかに、婚約していた頃のほうがもっと一緒にいられたような気がする。  
 
*  
 
つまり、ナタリーは彼に押し切られたのだ。  
彼女はこの男の手を拒みきれなかったのである。  
それはイヴァンがむやみにプレゼントした宝石や珍しい生き物のためではなく、ましてや口が酸っぱくなるほどに繰り返した、金輪際浮気はしないという誓言のせいではない。  
手練手管を尽くした夜の営みのせいでもなければ気恥ずかしくなるほどの愛の囁きのせいでもない。  
ナタリーの心をほぐしたのは、彼の一種バカバカしいほどの熱心さだった。  
お前がいい。  
お前が欲しい。  
お前しかいらない。  
頼む、妃になってくれ──たぶん、これほど未来の王に口説かれた妃というのはこの国はじまって以来、彼女が初めてかもしれない。  
どうしてそれほどイヴァンが自分に固執するのか、まだ恋すらした事のない彼女には理解できなかった。  
 
そうだ、ナタリーは一度も恋をした事がなかった。  
愛妾の娘ということでどちらかというと社交的ともいえない生活をしていた上に、多少歪んだ育てられ方をしたゆえに、彼女は17の年まで自分と同格の男という存在に触れたことがなかった。  
身近な男といえば半分血の繋がった兄だけ、それも彼女より能力的にも才能的にも劣っているのは誰の目にも明らかだった。  
男というものに興味が持てなかったのも当然といえば当然だったのだが、それが初めて身近に現れた男がよりによってイヴァンだった。  
彼はこの国の後継者で、身分からいっても絶対に同格とはいえなかったのだがそれでも若い男としては初めてまともに目にした男性だったので、それがまともな出逢いならナタリーも少しは彼の存在を意識したかもしれない。  
だがこれまたあまりにも特殊な出会い方だった。  
彼女は叛乱軍に与した兄から、イヴァンを除く命を受けたのである。  
この王子は女癖が悪いとの評判が行き渡っていたために、余計なトラブルを避けるためもあって、なんとかつてを辿って王宮に潜り込んだ時には性別を男と偽った。  
それまで(母がやっきになって)男としての振る舞いも遺漏なく仕込まれていたので別段苦労はなかった。  
だが、いっそのこと侍女として潜入していても同じことだったのではないか、と今ではそう思う。  
 
なぜならイヴァンはあっさり彼女が女だと見破ったのだ。  
そこが女好きの所以か、それともなにか啓示でも与えられたのか──実際は彼女の水に濡れたシルエットでそれと気付いたのだ、とイヴァンは後に白状したが──  
目論みが漏れ、王宮の塔に監禁された彼女は彼から無理無体の狼藉を受けた。  
無論というか当然というか、彼女は全くの生娘だったし、いくら女癖がどうこういわれているといってもイヴァンがいきなりそんな挙に出てくるとは予想だにしなかったので、この顛末の衝撃は彼女にとってなまなかなものではなかった。  
それまで個人的にはどっちかというと陽気で有能な王子に彼女は、ターゲットとしての意識外には、そこはかとない漠然とした好感すら抱いていた。  
だから、この暴挙でその感覚が一気に覆された思いは否めなかった。  
生まれて初めて、本気で他人を憎いと思った。  
 
そんな男だというのに、イヴァンの我侭さや身勝手や独善ぶりも躯で知ったというのに何故彼女が彼の『愛人』という扱いに当初甘んじたかというと、一重にそれは権力に縛られた、ということに尽きた。  
彼女にはイヴァンの毒殺未遂という弱み(いくら個人的に躊躇ったとはいえ)があり、それは彼女一人に限らず兄に、母に、そして好きだった亡き父の残した彼女の実家の家名と密接に連携した問題だった。  
いわば人質にとられたも同様だったのだ。  
 
イヴァンの強引な行為は気まぐれに過ぎないと最初彼女は思っていたのだが、それが二度三度と回を重ねるうちに塔への入り浸りようが連日連夜になり、  
抱くときの彼の荒々しい言動に微妙に甘い空気が混じり始め、  
ついには塔から引き出されて問答無用で彼の領地の館に放り込まれるに至って彼女はようやく理解した。  
イヴァンは『本気』らしかった。  
妃になれと最初に言われたときの驚きは大きかった。  
 
自分に屈辱を与えた男と結婚する?  
それも王になる男と?  
 
即座に断った。  
女を犯すような男に与える情けなどない。  
 
それが、だ。  
 
ナタリーは自分がどっちかというと潔癖なほうではないかと思っている。  
貴族の愛妾の娘であるという出自にも関わらず、いや、かえってその所以か、どうも男のそういう性癖のいい加減さが昔から大嫌いだった。  
おおらかに、嫡子である兄とのへだてなく彼女を可愛がってくれた亡き父だけは尊敬していたが、それでも愛妾の母と兄の母である正妻との微妙な張り合いぶりを身近で眺めて育ってみると、  
そういう男の性癖があまり女の幸せというものに寄与しないことは明らかに思えた。  
男がいろんな女を可愛がり、それで結構満足できる生き物だとすると、女は、これと決めた男に、自分一人だけを護り愛してもらいたがる生き物なのだ。  
だから、イヴァンの申し出が彼女にとって問題外だったのは当然の成り行きだったろう。  
彼は全く信用できなかった。  
その行為そのもので、すでに彼は自分の申し出をぶちこわしていた。  
 
しかし、またもやそれが、なのだが。  
 
イヴァンは諦めなかった。  
これまで関係を結んだ女全員と手を切るとナタリーに約束し、しかもどうやら実行したらしかった。  
もっとも、ナタリーが段々馴染むことになった彼の館の年配の女官達の話によると、彼はこれまでに誰か一人の女に特に執着したことはなかったという。  
彼女たちも驚き、どちらかというと微笑ましく見守っているらしいこのたびの王子の熱愛ぶりに、当の相手のナタリーは歯噛みしたくなる思いだった。  
関係だろうが執着だろうが、続けたがっているのはイヴァンだけで彼女にはその意思は全くないのだ。  
実家に累が及ぶことだけを怖れて捕虜同様、虐待に甘んじているだけなのだ。  
まさに迷惑の生見本だと彼女は思った。  
王宮の塔にいた時と違って毎日躯を奪われることだけはなくなったが、それも彼が訪れてくれば変わらない。  
深夜だろうが白昼だろうが、イヴァンは平然と彼女を連れて堂々と部屋に閉じこもり、その間は誰一人として一切邪魔をしてはくれないのである。  
彼は甘やかされ過ぎだ、とナタリーは憤慨した。  
そういう時のイヴァンはひどく幸せそうで、その呑気な喜びぶりもいっそう癪に障った。  
この男は、自分がナタリーにどう思われているかとか、そういった疑問に思い当たらないのだろうか?  
自分一人幸せならばそれでいいのだろうか?  
 
一度彼女はたまりかね、面と向かってイヴァンに大癇癪を起こしたことがある。  
「寄らないで頂戴!!私は!あなたが!!大っ嫌いなんです!!!」  
彼の手をかいくぐり、そう叫びながらクッションだの置物だの枕だの、手元にあるものを力一杯投げつけたのだが、イヴァンは楽々とそれを避けて笑っていた。  
その身のこなしの鮮やかさにも腹が立ったが、何より彼女を激怒させたのは彼がいけしゃあしゃあとして言い放った言葉だった。  
「心配ない。今に好きになる、…と思う」  
「今に!?」  
彼女は顔色をかえて地団駄を踏んだ。  
「どうしてそう言い切れるの?どうしてあなたはそう傲慢なの!?嫌い!嫌い!!」  
「ナタリー」  
彼は表情を少し曇らせた。  
「気付いてないのか?」  
「なにを?」  
陶器の人形を振りかざした手を思わずとめた彼女に、イヴァンは真面目な顔で言った。  
 
「最近な──お前、『あの時』すごく色っぽいぞ」  
 
ナタリーは真っ赤になった。  
彼には否定しても自分だけはごまかせない。  
それは、彼女自身も気付いていて、密かに憂慮していた事実だった。  
なにかと聡い彼が気付いてないはずはないと怖れていたのだが、こうして指摘される恥ずかしさは予想以上だった。  
 
「あ、あなたが悪いんだわ…!信じられないくらいいやらしいし、しつこいし…その…」  
彼女が言葉につまっているうちにイヴァンはすっと間合いに踏み込み、その腰を抱き寄せた。  
「心底嫌いな男に抱かれて、あんな顔はしないと思うが」  
高価な凶器を指から払い落とすことはさすがに忘れていない。  
「ナタリー…本当は、オレを好きになるのが怖いんだろう?」  
彼女は思わず間近に寄せられた、イヴァンの明るい色の目を見た。  
絡み合った視線を逸らさず、彼は微笑した。  
「いっそ、愛してもいいんだぞ。お前には特別に許してやる」  
 
囁かれ、そのまま押し倒されて、まあ、つまり、彼の指摘を完璧に実証することになったあの夜がターニングポイントだったのかもしれない。  
イヴァンはどうしようもない男だ。  
性分はともかくとして、好きな女を順当な手段で手に入れる事すらできない、普通とは到底いえない特殊な立場の男だ。  
だが、それでもナタリーはずるずると彼を受け入れてしまった。  
本当にいつの間にか好きになっていたのか、それとも彼の傲慢ぶりにもそれなりに馴染んでしまったのか、それは定かではない。  
しかし、一度折れてしまうと、もう後は自分でも驚くほど歯止めが効かなくなってしまった。  
 
実家との断絶のための養子縁組に引き続き議会の承認を経ての婚約発表と  
怒濤のような行事が襲いかかり、あれよあれよという間に──実際は国をあげての晴れの一大イベントであるから典礼担当省が全力を挙げてのフル回転で準備しても一年以上かかったのだが──  
婚礼の日が訪れ、祭壇の前でイヴァンから接吻をうけた瞬間、ナタリーはひどく落ち着き払った気持ちでいる自分に気がついた。  
──もっと不安だろうと思っていた。  
イヴァンのような男と正式に結ばれるという事がどういうことか、いくら18になって間もない彼女でも判っている。  
それは、近いか遠いかはわからないが、いつの日かこの国の王妃になるということを意味していた。  
その時にもこれほど落ち着いていられるかどうかはわからなかったが、少なくともナタリーは本来自分に備わった、父ゆずりの大胆な気質を再確認してしまう。  
これがあるからこそイヴァンの申し出を受け入れてしまったのかもしれないし、そもそもこうでなければ男装をして王宮に乗り込んで、イヴァンとあのような形で出逢うこともなかっただろう。  
ましてや、こんな自分勝手な男を好きになるなどということはなかったに違いない。  
 
*  
 
そして、今、湿気に満ちた奥まった庭の一角で、ナタリーはうっとりと我が身を抱いた腕の力強さに身を委ねていた。  
「ナタリー」  
熱のこもった囁きが漂う。  
「死ぬほど逢いたかったぞ」  
「…私も。イヴァン様…」  
思えば数週間──実際一ヶ月以上この若い新婚夫婦は離れていたわけで、その囁きに込められた感情が多少過剰だったとしても誰に責められるいわれもなかった。  
イヴァンは妃の細い腰を撫でた。  
誘うようなじりじりとした撫で方だった。  
「…このまま抱いたら、怒るか?」  
「……」  
沈黙は返答を躊躇ったわけではなく、断りかたを選んでいたからかもしれないのだが、イヴァンは意に介さなかった。  
「ナタリー」  
呟くと、彼は顔を傾けて片手でナタリーの顎を捕えた。  
ナタリーは頬を染めて抵抗した。  
「ダメです…こんなところ、じゃ…なくて……」  
だが、唇の合間から舌が入り込み、イヴァンがキスをはじめるとその言葉は途切れていった。  
 
キスを交わしながら、イヴァンは彼女の滑らかに纏めた髪を崩し始めた。  
ピンを外し、次々に投げ捨てて乱暴にかきほぐす。  
もうかなりに伸びた柔らかで艶のある金褐色の長い巻き毛が豊かにイヴァンの頬を覆い、彼はその甘い匂いを胸郭に吸い込んだ。  
「ああ──いい匂いだ」  
「ねえ…あの…イヴァン様…」  
唇を解放されたナタリーが、喘ぎながら問いかけてきた。  
イヴァンはその躯を自分のマントで覆うと、後ろの大木に彼女の背中を持たせかけた。  
「ん?」  
「ここは、庭です…よ…?」  
「ああ。そうか」  
イヴァンは躯を寄せ、彼女の上気した顔をまじまじと眺めた。  
「可愛いな…お前は」  
「あの、そうじゃなくて…」  
ナタリーは恥ずかしげに身を捩った。  
「…お部屋に……行きましょう」  
言った直後に視線を逸らして彼女は俯いた。その頬ばかりか鎖骨のあたりまですっかり赤くなっているのを見て、イヴァンはついに相好を崩してしまった。  
「そうだな。寝室はゆっくりと、後でな…」  
「後?」  
ナタリーの眉がわずかにより、彼女は慌てたように俯いたままの顔を少しひきつらせた。  
イヴァンが彼女のドレスの裾をたくし上げているのが見えたのだ。  
 
「あの、待って…もし…もしも、誰かが…」  
「大丈夫だ、ナタリー」  
イヴァンはにやにやして囁いた。手の動きはやまない。  
「ここではオレとお前が主人だ。覗くヤツなんかいない──間違って見たとしても遠慮して逃げるさ」  
呆然としてナタリーは彼の顔を見上げた。  
どちらかといえば長身の部類のイヴァンだが、肩を丸めるようにしてせっせと彼女のドレスをたくし上げている姿には威厳のかけらもない。  
「…だ、だめ」  
「いいから、とりあえず、落ち着かせてくれ。いいだろう、ナタリー…マントで隠れるから大丈夫だ」  
イヴァンは言葉通りにマントですっぽり覆った中で彼女の脚を露にすると、ひょい、とその片方を持ち上げた。  
半ば強引に腰骨にひっかけるように絡めさせて、もう片方の腕で強く彼女の腰を抱き寄せる。  
「こい…ああ、久しぶりだ」  
「いやです…あ、ちょっと…!」  
イヴァンは腕に彼女の腿を抱いたままごそごそとズボンの前をおろし、さらに躯を押し付けてきた。  
「あ、……きゃ…あ…ん…」  
ひどく熱くて硬いこわばったものが擦り付けられ、ナタリーは意に反して微妙に色っぽい喘ぎを漏らしてしまった。  
なんといっても恋しい夫との久々の抱擁で、しかもイヴァンが強引なのは今にはじまったことではなく、そのやり方に流される癖がついてしまっているのである。  
「ナタリー…」  
もはやイヴァンの囁きは情欲に塗れていた。  
「ほら、腕はこっちだ、オレにしがみつけ…もっと、脚はこう…いいぞ」  
注文をつけながらナタリーのしなやかな躯を浮かせるように持ち上げて木の幹に持たせかけ、今にも突き上げようとした時だった。  
 
水盤の向こうから、男の声がした。  
「イヴァン様!もしや、こちらにおわしますか」  
 
──目の前のイヴァンの顔から、膜の張ったような煙った表情が、ふいにすとんと消え失せるのをナタリーは見た。  
イヴァンは頭を乱暴に振ると口の中でなにやらひどい言葉を呟き、彼女を自分の躯で隠すように樹皮に押さえつけた。  
低い声で怒鳴った。  
「──なんだ、ロアン」  
「おお、お庭でしたか」  
重そうな湿った足音がして、館の家令である初老の男が現れた。あまり才気奔ったタイプではないが、昔からイヴァンに非常に忠実で丁寧な仕事ぶりの男である。  
「そこで止まれ。…なんの用だ」  
イヴァンの命令に素直に従い、かなり離れた茂みの向こうで家令は喋り始めた。  
恐縮のていである。汗をしきりに拭いつつ、彼はこう言った。  
「ご帰還をお知らせしようとしましたが、実は…その…ナタリー様が、どちらにもいらっしゃいませんようで」  
 
どうやらロアンからは自分の姿は見えないようだ、とナタリーはやっと細々と呼吸を再開した。  
あまりのショックで今まで息が止まったままだったのである。  
 
「ナタリーが?」  
イヴァンがちらりとナタリーの褐色の瞳を見た。  
「はい、お戻りを心待ちにしてらっしゃいましたからさぞかしお喜びになると思い、私自らお妃様のお部屋に伺いましたらもぬけのからでして」  
──家令の報告を待つまでもなく、彼女は自室前の窓からイヴァンの一行を発見し、その足でとんできたからここにこうしているのである。  
「一体どちらにいかれたのか、今みなでお探ししているのですが」  
「ああ、だがそれは──」  
ナタリーはイヴァンの服を必死で引っ張った。  
何度も首を振ってみせる。  
余計な事を言わず、とにかくこの男をどこかにやってくれ、との意をこめたつもりだった。  
だが、それを見たイヴァンの虚ろな表情にふいと妙な気配が動いた。  
水盤の向こうの茂みとの距離を目ではかり、ナタリーの背を隠す木の幹の太さを確かめ、水音の大きさを耳を澄ませて確認している様子である。  
やがて、彼はいつもの顔でにんまりと笑った。  
 
「…うむ。ま、どこかの隙間にうっかり入り込んでうたた寝でもしているのかもしれん」  
イヴァンは適当な事を言いながら、ナタリーの背中に腕をまわしてきた。  
「はあ、ですがナタリー様は猫ではなく人間でいらっしゃいますから、そのような事は…」  
ロアンは困惑したように主人の言葉を訂正した。あくまでも生真面目な男なのである。  
「???」  
イヴァンが急に活き活きしはじめたのでパニックに陥ったナタリーの豊かな髪に鼻先を素早くつっこみ、彼は小さく命じた。  
「…いいか、声はあげるなよ」  
彼が何をするつもりか、悟った彼女が身をよじる暇もなく、イヴァンはお預けをくったままのモノをいきなり突き上げてきた。  
「あ、ッ…」  
叫びかけたナタリーの唇を噛み付くように塞ぎ、彼は性急に動き始めた。  
「っ……っ…!……!!…!!!」  
「イヴァン様?」  
ロアンが声をかけてきた。  
「ああ、…なんだ?」  
イヴァンはナタリーの中で動きながら彼女の口を掌でそっと塞ぎ、顔を離して平然と答えた。  
その行為は淫ら極まりないくせに、声だけはぎりぎり怪しまれないだけの冷静さを保っているのが癪に触る。  
ナタリーは彼の脇の後ろから泳ぐように手をつきだし、イヴァンのマントを内側から掴んだ。  
掴んだというより、縋り付いたという方が正しい。  
うねるように打ち付けられる彼の腰の動きがたまらなく気持ちいいのがとても嫌だ。  
 
口を塞いでいる夫の掌に噛み付いてやりたい。  
彼女は思ったが、そんな事はできない。  
久々のイヴァンとの行為は、状況が異様にも関わらず、──もしかしてそれゆえに──、恐ろしく刺激的だった。  
あまりにも気持ちよすぎて、自分の意思で声が抑えられるとは到底思えない。  
「…ふ……っ……う……ん…っ、ん……んっ…んぅっ…!」  
心地よげに動きながら、彼女の抑えた呻きを耳にしたイヴァンが頬をだらしなく緩めているのが見えた。  
彼は、ナタリーがひどく感じているのも知っている。  
あまりにも淫らな自分の躯が恥ずかしかった。  
 
それもこれも全て、ここまで丁寧に仕込み抜いたイヴァンのせいなのだが。  
 
「ところで、イヴァン様──このようなところで、どうされたのですか?」  
ロアンの声にやっと不審の気配が混じった。  
「…おお…いいぞ、ナタリー…あ、いや…」  
イヴァンはまた頭を振り、ロアンに向けてしっかりした声を出した。  
「長旅でちょっと疲れたんでな。…小鳥を愛でて休んでいる…ん…」  
休むどころではない技術を駆使して美しい妃を責め抜いているくせに、彼はそう言った。  
「左様ですか。なにか、お飲物でもお持ちさせましょうか」  
ロアンが労るように言う。  
「いや……」  
イヴァンは、ついにぎゅっとしがみついて彼に応え始めたナタリーの姿に一瞬気をとられかけたが危うく答えた。  
「お前たちは、…あ、…う、いや、そのまま…ナタリーを探していてくれ。オレもすぐに行くから」  
「わかりました」  
 
忠実な家令は踵をかえしかけ、ふと首を捻った。  
「イヴァン様」  
「なんだ」  
イヴァンはもうほとんど聞いていなかった。  
「もうだいぶほの暗いのですが、どのような小鳥がおりますか?」  
「…ん…ああ………小鳥か……ナイチンゲールだ。可愛いぞ」  
「はて…」  
ロアンはまた首を捻った。  
ナイチンゲールなら彼も知っているが、いっこうに声が聞こえない。  
だが、イヴァンが言うならきっとそのへんにいるのだろう。  
家令は彼のためにナタリーを探すべく、肥った足を急がせて小道を館のほうへと去って行った。  
 
その姿が薄闇に消えるのを待ち、イヴァンはやっと彼女の唇から掌を離した。  
「…っああ!…ああっ…あああ…!」  
ナタリーが喉を仰け反らせ、細く叫んで身悶えした。  
「ナタリー」  
イヴァンは彼女を抱きかかえ、熱狂的に攻めながらキスをした。  
ナタリーが、潤んだ瞳で彼を睨んだ。  
夫の耳もとに、恨み言をなんとか紡ぎあげる。  
「誰が、誰がナイチンゲールですって…よくも…っ、よくも…ああ…」  
「ああ、そうだ、オレの小鳥だ」  
イヴァンはフィニッシュに向けて動きを早めた。  
「だめよ」  
ナタリーは身悶えしてイヴァンから手を離した。  
離れることを許さず抱き寄せると、ナタリーは切なげに、上気しきった顔をぼんやりと彼に向けた。  
「いや、なの…こんなとこで…こんな…あ…あ…!」  
ぴくぴくと彼女は痙攣し、イヴァンに抱きすくめられて長い豪華な髪を乱した。  
「いや…!いや、だめっ…」  
「可愛いぞ、ナタリー…いけ、イっちまえ、ほら!」  
彼が思いきりつきあげると、ナタリーは柔らかな背をのけぞらせてひくん、と呼吸を止めた。  
暴発寸前の彼をぎゅっと絞るように、彼女の肉の内側が全ての襞を絡み付けてしめあげてきた。  
「あっ…」  
ナタリーの声は、ひどく小さかった。  
半分気を失いかけたような動きで彼女は愛らしい顔を傾けると、そのままイヴァンにすがりつくようにずるずると抱きついてきた。  
「ああ…あ……あ………」  
…はぁ…、と小さな吐息を漏らして、ナタリーは本当に気を失ってしまった。  
イヴァンは少し慌ててその躯を揺さぶった。  
「ん…おい、大丈夫か、ナタリー…?」  
「……あ…ん………」  
虚ろながらもかすかに反応が帰ってきて、安心したイヴァンは彼女を眺めながら、必死で堪えた。  
こんな状態の彼女に興奮して今気をやってしまったら、後でどんな恨み言を言われるやらわからない。  
 
まだ、寝室でゆっくり、という約束も残っていることだし。  
 
ナタリーが聞いたらかえって怒鳴られそうな事を彼は思い出し、そっと腰を退いた。  
とても動きづらかったが、なんとか彼女と自分の衣装を整えると彼はナタリーを抱きかかえて水盤の近くのベンチに腰をおろした。  
どこかの薮で、本物のナイチンゲールが賑やかに鳴き始めた。  
ナタリーの、ぴったりと閉じた瞼が揺れ始めたのを眺めながら、彼は愛し気にその額に口づけをした。  
 
ナタリーが気付いたら、できるだけ早く謝ろう。  
彼女は自分を愛しているから、きっとすぐに許してくれる。  
そして、もっといろんな事をゆっくり彼女のあの寝台で…いや、いっそこのまま自分の寝室に連れ込んだほうが…。  
 
…イヴァンはそんな舐めくさったことを考えてわくわくと妃の可憐な顔を眺めていた。  
ナイチンゲールはずっと近くで鳴いていた。  
とりあえず彼は幸せで、彼女もそんな彼を、彼の思い込んでいる通りに(たぶん)これからも愛してくれることだろう。  
ま、何事も保証の限りではないが、あのような状況ではじまった関係がこのような日常に辿り着いただけでも奇跡と呼べるのではなかろうか。  
 
 
*  
 
 
…それから、  
自分勝手な王様と  
恥ずかしがりやのお妃様は  
たくさんの子供たちに恵まれて  
いつまでも幸せに暮らしましたとさ。  
めでたしめでたし。  
 
 
 
おわり  
 

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