ナタリーに怪し気な薬を飲ませた翌日都に戻っていったイヴァンは、その次の日も、またその次の日も館には現れなかった。  
王の息子はあれで結構忙しいのだがなによりも、あの日彼の出発までたっぷり半日以上もあった別れの時間にも  
頑として口をきかなかった愛人の様子に、かなり懲りたらしい。  
当然だわ、とナタリーは思う。  
なかなか心を許さない彼女に業を煮やしたとはいえ、騙して媚薬を飲ませるなど、いくらイヴァンでもやり過ぎだ。  
一方ではほっとしながらも、我侭男の姿の見えない日々にナタリーが何故だか物足りなさを覚え始めた三日目の朝。  
王宮からイヴァンの使者が訪れた。  
 
使者は、手紙と小さな凝った彫櫃だけを彼女に差し出して、とんぼ返りで都に戻っていった。  
「…なにかしら?」  
それでも急いで蓋を開いてみると、くたびれた書物がぎっしりと詰まっている。  
金捺しの書名を見るまでもない。  
歴史だの地理だの神学だの科学だのの定番の教科書だ。イヴァンのものらしい。  
ナタリーは手紙に目をとおした。  
初めて見る彼の手跡は、くっきりとした、判読しやすいものだった。  
 
 
『 可愛い(←注:大文字だ)ナタリー  
 
    本を読みたがっていただろう。  
    お古をやるから機嫌を直せ。  
    灰色革のがオレのお薦めだ。  
 
    明日の夕方には行けそうだ。  
    ちゃんと読んだか尋ねるからな。  
    しっかり勉強しておくように。  
 
              イヴァン 』  
 
 
情緒のかけらもない切り口上の文面だが、冒頭にわかりやすい媚びが窺えるあたりが微笑ましい(のか?)。  
 
ナタリーは本の詰まった櫃を眺め、手紙に再び目を通して、やや人の悪い微笑を浮かべた。  
せっかくのイヴァンの機嫌取りは無駄に終わりそうだった。  
なぜなら彼女は、父の配慮(と母のせっつき)で幼い頃から嫡子の兄と同じ家庭教師について、男並みの正式な教育を受けて育ってきたのである。  
今回イヴァンが送ってきた本など、どれもこれもとうの昔に読み終えたものばかりだった。  
 
それでも彼女はそれらにちゃんと目を通し、知識の確認を怠ることはしなかった。  
覚えがいいと教師にも誉められていた優等生だけに、それらの中身を忘れているという事もなかった。  
彼女は自信を持って最後の教科書を閉じた。  
どんなささいな事だろうと、常時偉そうなあの我儘男の度肝を抜くことができると思うと、実はかなりに愉快だった。  
 
予告の通り翌日の夕刻、わずかな供を連れてイヴァン本人がやってきた。  
いつもとは違い、口元には余裕の笑みさえ浮かべて彼女は彼を出迎えた。  
 
*  
 
「もう怒ってないんだな、ナタリー」  
イヴァンは彼女の笑みを見ると、上機嫌の声をあげた。  
「なんの事でしょう?」  
ナタリーは彼のささやかな喜びは無視したが、声は穏やかに保った。  
大股で彼女の居間に入って来たイヴァンは櫃の乗せてある机に歩み寄った。  
教科書が積み上げてあるのを見て、頷いている。  
 
「どうだ、なかなか面白かったろう?」  
イヴァンは振り向いて得意げに言った。  
「ええ」  
ナタリーは慎ましやかに答えた。  
イヴァンは大満足のていでマントを外し、櫃の傍らに投げかけた。  
「それは凄い。では、試してやる」  
「どうぞ」  
ナタリーは胸の内で一秒もかけずに戦闘態勢を整え、口元にはあくまで可憐な微笑を浮かべたまま彼に視線を投げた。  
 
イヴァンはさっさと部屋を横切ると、暖炉脇の長椅子に腰掛けた。  
自分の横を叩いて促す。  
「ここに座れ」  
ナタリーは長椅子に近寄ると、彼からできるだけ離れた座面に腰をおろした。  
「もっとこっちだ」  
イヴァンはナタリーの腕を掴むと、ぐいと引き寄せようとした。  
「…最初はどの本から?歴史?それとも科学?」  
ナタリーは腕を振りほどき、さりげなく長椅子の端っこににじり寄った。  
「試験をなさるんでしょう」  
「歴史の?まさか」  
イヴァンは笑うと、ずいと彼女に身を寄せた。  
 
「なんでそんなもの。オレが言うのはあの本のほうだ」  
「あの本…?」  
ナタリーの理解に苦しむ表情をみてとったイヴァンは驚いたような顔になった。  
「読んだんじゃないのか」  
「なにを?」  
 
イヴァンは立ち上がり、櫃に突進すると蓋をあけ、中を引っ掻き回して灰色革の、ひどく薄い本を取り出した。  
ほかの本の下敷きとして奥底に張り付いていたに違いない。  
非常に地味でぱっとしない装丁の本である。本というより冊子に近い。  
「ほかのは使いの手前、適当に詰めただけの間に合わせだ。お前、肝心のこれには気付かなかったのか?わざわざ手紙に書いておいたのに」  
「あら…」  
ナタリーは思い出した。  
そういえばそんな事を読んだ気もするが、イヴァンに一矢報いることができそうだという興奮ですっかり忘れていた。  
 
「…何の本?」  
不安になったナタリーは尋ねた。  
イヴァンは溜め息をつくと、その本を手にしてまた部屋を横切り、彼女の傍らに腰をおろした。  
硬木の重い燭台を引きずって手元に寄せる。  
「読めばわかる」  
膝に投げ落とされた本を手に取り、ナタリーは表紙を開いた。  
イヴァンはその横顔をじっと眺めている。  
無言だが、彼の頬には薄い笑いが浮かんでいた。  
 
同じく無言で本に目を通していたナタリーは、イヴァンが心中密かに十数える間もなく表紙を閉じ、思い切り彼に投げつけてきた。  
「暖炉も蝋燭も燃えてるんだぞ。物騒じゃないか」  
素早く身をかわしたイヴァンに向き直り、ナタリーは蝋燭どころではない火の噴きそうな目つきでその顔を睨み据えた。  
真っ赤になっている。  
「変質者」  
イヴァンはあっけにとられてナタリーの唇が震えているのを眺めた。  
「こんなもの、私に読ませてなにが楽しいの?あなたって……あなたって方は…」  
「ちょっと待て」  
イヴァンは、肘置きにひっかかった哀れな本を拾い上げてぱらぱらとめくった。  
「こんなものとは何だ。これは定評ある指南書の古典だぞ」  
「指南書…」  
ナタリーは呻いた。  
「落ち着け、ナタリー。お前はなにか誤解をしている」  
 
イヴァンは真面目な顔で本の埃を払い、ナタリーとの間の座面に置いた。  
脚を組んで背もたれに背を預ける。  
「あのな」  
「なんですか」  
ナタリーは顔をそらし、罪もない絨毯の模様に焼けこげができそうな集中力で視線をあてた。  
そうでもしないとこの場から跳んで逃げてしまいそうなのだろう。  
イヴァンは笑いを噛み殺し(ナタリーに見られたら面倒だ)、いたって穏やかに続けた。  
「こういう、様々な楽しい技術を知っておくのは人生において重要な事だとは思わんか?」  
「思いません」  
ナタリーは低い声で即座に否定した。  
「なぜだ?」  
イヴァンが尋ねると、ナタリーは顔を動かしかけ、とっさに思い直した様子で再び絨毯の上に視線を伏せた。  
「…し…知らなくても…別に…困りません、きっと」  
 
「ナタリー、それは違う」  
イヴァンは声を教え諭すトーンにおとして彼女に身を寄せた。  
「少なくともお前には知っておいてもらいたい」  
「どうしてっ!?」  
ナタリーが叫んで勢いよく立ち上がった。  
彼の体温が近づいたので本能的に危険信号が働いたらしい。  
「どうしてって」  
イヴァンは仕方なく、再び背もたれに背を預けた。  
「約束したろう。この先浮気はしないって」  
「ええ、あなたが勝手に」  
ナタリーの冷たい言葉にめげることなくイヴァンは続けた。  
「考えてもみろ、オレのような立場で、妃以外は女っ気なしで一生過ごすつもりなんだ。珍しい男とは思わないか」  
「誰も頼んではいないわ」  
ナタリーは歯ぎしりした。  
 
*  
 
イヴァンの、さも多大な犠牲を払って彼女を手に入れるのだといわんばかりの、恩着せがましい態度が気に障る。  
しかも彼のその態度はこの場合、世間的には当然のことなのである。  
王族はもちろんのこと、貴族や富裕な商人などで、妾の一人も持たぬ男はあまりいない。  
しかもイヴァンは将来王になる男なのだから、子孫繁栄の理からいくとこの約束は、常識を踏み外しているとすらいえるかもしれない。  
 
「お前が嫌がることはしたくない」  
イヴァンは囁いた。  
じゃああの塔での行状はなに、とナタリーが突っ込まないうちに彼は急いで続けた。  
「だから、そういう道をとるとなると、自然とお前への要求も大きくなる。わかるな?」  
ナタリーは億劫げに視線を泳がせてイヴァンをちらりと見た。  
「果たすべき役割もお前に集中する。全てを一人でまかなわねばならん。  
臣民のための慈悲深く優雅で美しい王妃、子供たちの優しく賢く力強い母、貞淑で可憐で愛情深い妻、それに」  
イヴァンの目がひどく面白がっていることにナタリーは気づく。  
「ここは強調しておきたいんだが、王国中の誰よりも魅力的で可愛くて淫らな愛人。  
つまりそういう、王の女に必要不可欠な側面は全て兼ね備えてもらいたい。  
全てだ、いいな──でなければ約束は履行されない。オレは堂々と浮気する。ああ、するとも」  
 
絶句した彼女の袖をイヴァンは引っ張った。  
「座れ」  
よろよろと腰を落とした彼女の髪を、彼は物憂げに撫でた。  
うなじを覆うあたりまで伸びた金褐色の髪は少し巻癖が現れており、細く青いベルベットのリボンで緩やかに束ねてあった。  
うんと長くなったなら、かなり豪華になりそうな髪の毛だ。  
だが、せめてもう少し伸びなければ、まだまだ正式に結いあげるには難しいだろう。  
「早く伸ばせ。短いのも悪くはないが…」  
そう言いかけ、ナタリーが放心状態なのに気づいて彼は苦笑した。  
「どうした」  
 
ナタリーは、しばらくぱくぱくと唇を開閉させていた。  
やがてゆっくりと躰をねじり、イヴァンの顔を凝視した。  
「…つまり」  
ようやっと押し出したような声で彼女は囁いた。  
「つまり、どういう事ですか」  
「つまりな」  
イヴァンは顔を寄せて囁き返した。  
「オレのものになるのならそれなりに努力してもらいたい。大丈夫だ、お前ならいける」  
またナタリーの唇がかすかに何度か動いた。  
「……あの…辞退…できないのですか」  
「辞退か」  
イヴァンは彼女の肩を抱いて引き寄せた。  
間近になった褐色の瞳を、絶体絶命の牝鹿みたいな目だなと彼は思った。  
「どうしても嫌なら断ることもできる。もちろんだ。が、そうなるとさて」  
イヴァンは口の端に、悪役さながらの嫌みったらしい薄笑いを刻んだ。  
 
「お前の実家はどうなると思う?」  
 
「…………………」  
ナタリーは素早く顔を伏せた。  
その頬から耳からうなじから全部紅に染まっているのは、乙女の恥じらいなどというヤワな理由ではなく純粋な怒りゆえであることは明白だ。  
イヴァンの言葉は脅しではない。  
実際どうなろうが全然不思議ではないのだ。  
 
ここで身も世もなく泣き伏されるとどうしようもなかったが、幸いナタリーはそうしなかった。  
自分の気を落ち着かせるように呼吸を整え、彼女はイヴァンに再び視線を向けた。  
顔はまだ赤いが口調は比較的冷静だ。  
「…それで?」  
「ああ」  
イヴァンは微笑した。ナタリーのこういうところが好きだった。  
 
彼はうっかり尻に下敷きかけていた灰色の本を引っ張り出した。  
「だからこの本は、オレの夢の女を目指すお前には非常に有益だ。違うかな」  
厭わしげにその本に視線をやり、ナタリーはため息をついた。  
「…そういう事…」  
「では、これから急いで読め。読み終わったら質問するからな。いい加減に読み流すんじゃないぞ」  
彼のやにさがった顔を見ようとせず、ナタリーは指先でつまむようにしてその本を受け取った。  
 
イヴァンは暇つぶしに短剣を抜き、先祖伝来の燭台の凝った彫刻の端を削るという暴挙に出つつ、  
燭台の灯に照らされて彼の言うところの『指南書』を読むナタリーを鑑賞して楽しんだ。  
眉をひそめて一、二行読み、ため息を漏らして目を伏せたりなんとなくもじもじしたり指を唇にあてたり目を見開いたり。  
そわそわと髪を払ったり頬を赤らめたり視線を泳がせたりと、見ていて実に面白い。  
いっそ声に出して読ませてみたいが、そこまでやるといくらなんでも怒ってしまい、  
せっかくの仲直り(イヴァンはそう思い込んでいる)が無になるかもしれない。  
イヴァンが燭台に絡みついた堅い彫刻の葉を五枚と花を三つほど削り落とした頃、ナタリーはぐったりと疲れた様子で本を閉じた。  
 
「熟読したか?」  
イヴァンは短剣を腰の鞘に戻し、彫刻の成れの果ての削り滓を長椅子の下に蹴り込んだ。  
「本はそこらへんに置け…よし」  
彼は手招きした。  
「もっとこっちに来い」  
ナタリーは無表情な視線を床に置いた本に落とし、またため息をついた。  
その躰を捉えて傍らに引き据えると、イヴァンは質問しはじめた。  
「何について書いてあった?」  
「……いろいろ」  
「いろいろ?」  
イヴァンは鼻で笑った。  
「そんな答えで合格点は出せん。ということは実家…」  
「あ、あの、あ…!」  
ナタリーは真っ赤になって頭を振った。  
「あ…あの…よ…よ…夜っ…夜、の…事について」  
「夜の事!」  
イヴァンは彼女の顔の前でわざとらしくゆっくりと両手を叩いた。  
「素晴らしい。満月の研究かな?それとも素敵な晩餐会の開き方かな?ふん!上品ぶるな、ナタリー」  
「……………」  
ナタリーは柔らかそうな淡紅色の唇をきゅっと噛みしめた。  
膝の上で拳を握ったが気を取りなおしたように首を振る。  
頭の中では実家実家と呟いているに違いない。  
 
やがて彼女は小さな声で答えた。  
「…だ…男女の、よ、夜の行為についての技術を著した本、です!」  
「夜の行為」  
イヴァンは首を傾げてみせた。  
「夜の行為とはなんだ?じゃあ先々週だったか、オレとお前がしたあれは違うのか。確か真っ昼間だったが。……不合格だ」  
「……………」  
ナタリーの躰がかあっと熱くなった。イヴァンはその熱を愉しんだ。  
「ナタリー」  
彼女の肩を掴み、向き直らせる。  
「そんなに恥ずかしがるような話じゃないだろう?質問はこれで終わりだ」  
 
ほっとしたように面をうつむける彼女の髪のリボンを摘み、引っ張った。半端な長さの髪がいい匂いとともに流れた。  
「実践に移ろう」  
「え…」  
髪を解かれたことに気付いてイヴァンの目を見たナタリーに、彼はこともなげに一言だけ呟いた。  
 
「実家」  
 
「……………」  
床を蹴って立ち上がった彼女は物も言えないくらい腹をたてている様子だったが、そんなことにかまってはいられない。  
これでもイヴァンとしては結構我慢をしたのである。  
ナタリーの私室に踏み込んで一時間以上彼女に手を出していない。  
新記録だ。  
 
*  
 
腕を掴んで座らせようとすると、ナタリーは案の定抵抗した。  
「こんなとこではイヤです」  
「どこで抱こうとオレの勝手だ」  
「でも」  
ナタリーはイヴァンに引き寄せられながら、床の上の本に視線をやった。  
「あ、あの本の挿絵には、ちゃんと、その…その……は、背景に…寝台が描いてありました!」  
「おや」  
イヴァンは感心したように手をとめた。  
「よく見ているじゃないか」  
ナタリーは俯いた。  
それもこれもこの男がしっかり読まなければならないと強制したからだ。  
 
「あの挿絵はいいだろう?オレも昔あれで随分勉強…」  
喋りかけてイヴァンははたと口を噤んだ。  
ナタリーの非難がましい視線に臆したらしかった。  
咳払いし、彼女の躯を急いで抱き上げた。  
「では、ちゃんと寝台に行くか」  
ナタリーは毒を含んだ口調で繰り返した。  
「…『昔あれで随分勉強』…なさったの?」  
「まあな。誰でも最初は初心者だ」  
イヴァンは大股で控えの部屋を通り抜け、小さな寝室に踏み込んだ。  
 
もう家具の配置にも馴れているので蝋燭など灯さなくとも蹴躓くことなどない──  
はずだが、ナタリーを横たえると、彼は寝台の傍らの燭台に灯りをともした。  
「勿論オレにはもう指南書なんか必要ない。あれはあくまでも初心者…」  
ナタリーは指をあげて、喋り続けるイヴァンの唇を押さえた。  
瞳がかすかに陰っている。  
「……イヴァン様」  
「なんだ?」  
イヴァンはまたもや気を削がれてナタリーを見つめた。  
気のせいだろうか、ナタリーはなんだか悲しげに見えた。  
「………あの…」  
彼女は唇を噛み、迷うように彼を見つめ、やがて長い睫を伏せた。  
「いいえ。何でもありません」  
「…?気になるじゃないか」  
イヴァンは眉をひそめたが、ナタリーがおとなしいのに気付くと微笑を浮かべた。  
「ナタリー…」  
 
イヴァンのキスに反応するのは癪だったが、彼が『上手』なのはナタリーにも今ではわかっている。  
いや、わかっているという事自体に今まで気づいていなかったのだが、前回媚薬を飲まされたのがよくなかった。  
あの夜に味わった快楽の深さをちゃんと躯が覚えていて、今だって、本当はもっともっと気持ちいいはずだとナタリーの理性に訴えてくる。  
イヴァンの愛撫に没頭しろと、躯が要求してくる。  
集中したくなどないはずだのに、いっそ眠ったふりでもしてやりたいのに、息を潜めてナタリーは彼の重みをつぶさに感じざるを得ない。  
イヴァンの温もりも匂いも重みも、その全てが彼女の躯に『男とはこういうものだ』と言い聞かせているようだった。  
 
つまり、彼女はイヴァン以外の男を知らない。  
イヴァンが初めて──だから当然ながら、彼以外の愛撫は知らない。  
ほかの男がこんな時に、どんな声で囁きかけてくるのかもわからない。  
だが、『上手』で『指南書は必要ない』らしいイヴァンのほうは事情が違う。  
今後浮気はしないなどと調子のいい事を言っているが、これまで彼は散々他の女を抱いてきたのだ。  
彼の重みや囁きの甘さや、愛撫のやり方を知っている女がナタリー以外にも存在するのだ。  
しかも複数。  
 
五人…?  
…十人…?  
……いや、まさかとは思うが、もしかしたら百人…ほども。  
なんといっても、女癖の悪さで評判の男だったのだから。  
 
イヴァンの掌が自分の知らない美しい女の手首を情熱的に掴み、  
イヴァンの髪に女の長い髪が──金色か赤かわからないが──当然のごとく混じり合い、  
イヴァンが明るい色の瞳をその女に向けて、可愛いだの好きだだの綺麗だの、自分へと同じくらい…  
…もしかしたらそれよりも熱をいれて…甘く囁きかけている情景が、まざまざとナタリーの脳裏に浮かんだ。  
 
*  
 
ナタリーはきっとイヴァンを睨みつけた。  
「イヴァン様」  
「ん?」  
「私…」  
イヴァンの目と合うと、みるみる視線の力が弱まった。  
顔をおろし、彼女は小さな声で続けた。  
「……とても…下手?」  
 
「……………………」  
 
あまりの沈黙の長さに、ナタリーは我慢できなくなって目をあげた。  
イヴァンが不審げにじっと彼女を見つめていた。  
「…何のことだ、いきなり。大丈夫か?」  
「大丈夫って…どういう意味?」  
「なにが…」  
 
次の瞬間イヴァンは、いきなり首の後ろに投げかけられた細い腕を感じた。  
やみくもに引き寄せられ、間近に、ぎゅっと目を閉じたナタリーの顔を見た。  
柔らかな甘いものが唇に押し付けられる。  
何が起こったか咄嗟に理解できずイヴァンは固まった。  
 
ナタリーは急きたてられるように小さな舌を伸ばしてイヴァンの唇の線を嘗めたが、彼の反応が鈍い事を知るとそろそろと腕の力を緩めた。  
ナタリーの白い顔が離れ、睫がゆっくりと開くのをイヴァンは気が抜けたように見ていた。  
しばらく、イヴァンとナタリーは息を弾ませたままじっとしていた。  
先に我を取り戻したのはイヴァンだった。  
 
*  
 
「おい…」  
イヴァンは急いで、離れかけた彼女の腕を掴んだ。  
動いたので頭ははっきりしたが、ナタリーの真意が理解できたわけではない。  
「今のは、なんだ?」  
「………」  
ナタリーは、彼に手を掴まれたまま、ふうっと小さく吐息をついた。  
褐色の瞳にさした暗い色が強くなっている。  
 
「…やっぱり、ダメなんだわ」  
「なにが!」  
さっぱりわけのわからないイヴァンに、ナタリーは呟いた。  
「もっと…もっと、『上手』な女でなきゃ、本当は嫌なんでしょう…?」  
 
イヴァンはあっけにとられて、彼女の頬がだんだん赤くなっていくのを見ていた。  
衝動的に行動を起こしただけに、彼女の心には惨めさと自己嫌悪と羞恥心とがどっと襲いかかってきたらしかった。  
「だから、私に無理矢理あんな本を読ませたんでしょう?  
……男のする事は得意でも、こんなに髪も短くて…初心者で…  
いろいろ、その、とにかく下手な私とは、本当はこうしてても…やっぱり、あまり楽しくないんでしょう?  
だから……イヴァ…」  
イヴァンがすごい力で抱きしめたので、息が詰まったナタリーは言葉をとぎらせた。  
 
「………………………ナタリー」  
長い沈黙のあと、イヴァンは彼女の名を呼んだ。  
「…イヴァン様?」  
耳朶にあたるその息の熱さにぞくぞくしながらナタリーは辛うじて答えた。  
「…あまりオレを喜ばせるな…な?」  
「ん…」  
イヴァンが唇を軽くおしあて、ナタリーは小さく悶えた。  
耳のあたりは弱いのだ。彼女はもう自分の弱点を知っていた。  
「その声もやめろ」  
イヴァンが急いで止めた。  
「…お前は、こういう時には怒っているくらいで丁度いいんだ…そういうのは…」  
イヴァンは一瞬彼女を見つめかけたが、珍しく、照れたように視線を背けた。  
「…反則だ。ちょっとずるい」  
「………」  
イヴァンはひどく感動している様子だった。  
ナタリーは、かえってなにか取り返しのつかないことをしてしまったような気がして不安になった。  
 
「あの………こんなに…キスが…下手でも?」  
「下手じゃない──今のは良かった」  
イヴァンは呟いて、彼女がこだわっている例の本を思い出したらしく、いいわけがましく付け加えた。  
「ああ…あれは、まあ、その。ただ、今後のためにだな、もっといろいろ知ってもいいと思っただけだ」  
ナタリーは、あまり強い力で抱きしめられたので半分露出した肩を竦め、イヴァンの指が髪をぐしゃぐしゃにかきまわしているのを感じていた。  
「…こんな髪でも?」  
「すぐに伸びる。綺麗な色だ」  
ナタリーは俯き、少し意地の悪い笑みを浮かべた。  
「………あなたを嫌っていても?」  
 
「ナタリー!」  
イヴァンは起きあがり、ナタリーの腰の両側に腕をついて叫んだ。  
「オレは、騙されるのは大嫌いだ」  
ナタリーは驚き、肘をたてて上半身を起こし、イヴァンに向き直った。  
「騙す?」  
イヴァンは突き刺すように彼女の瞳を見た。  
少し頬が上気していた。この男には珍しい現象だった。  
「オレを嫌ってるだと?じゃあ、今のはどういう了見だ?お前は嫌っている男にあんなキスをするのか?」  
「……………」  
ナタリーは我知らず深い吐息をかみ殺した。  
自分の感情を他人の言葉で確認するという経験は初めてだったが、なかなかに居心地の悪いものだった。  
 
「…いいえ」  
ナタリーは囁いた。  
「…嫌い…だけじゃありません」  
「ふぅん」  
イヴァンはやや気を損ねた様子で首を振った。  
「そんなに『好き』とは言えないのか」  
彼は寝台の上に座り込んだ。  
彼女も起きあがり、神経質にドレスの襟を整えながら俯いた。  
 
「…聞きたくていらっしゃるの」  
 
その言葉は今までイヴァンが耳にした中では一番友好的な言葉だった。  
彼は期待に満ちて頷いた。  
ナタリーは彼に視線を返した。  
かすかに口を開きかけたがすぐに喩えようもなく照れくさげな表情が瞳に浮かび、彼女は顔を背けた。  
 
小さな声でナタリーは呟いた。  
「だめ。言えません」  
「おい…」  
イヴァンは呻いた。  
よりによって寝台の上で子供のままごとのような会話をしている自分が信じられなかったが、それでも、聞いてみたいものは聞いてみたいのだ。  
好きな女に焦らされるのも快感だが、こうまで彼女が近づいてきている状況は滅多にないのではないかという気がする。  
なにせここまでが長かった。  
今を逃せば、明日にはナタリーはしれっとしてまた仏頂面に戻るかもしれない。  
 
*  
 
彼女の躰のみならず、心まで手に入れられるかどうかの瀬戸際にいることを、彼はよく理解していた。  
ここをうまく乗り切れば、おそらくナタリーとこれからは実に、そう、実に有意義な関係を築けるはずだ。  
「ナタリー」  
イヴァンは慎重に声をかけ、身を寄せた。  
触れるか触れないかで接近をとどめ、囁いた。  
「キスしてくれないか。さっきみたいに」  
「………」  
ナタリーは物問いた気に目をあげた。  
それ以上余計な事は言わず、イヴァンは顔を傾けた。  
ナタリーはおずおずと顎をあげ、彼の胸に片手の指先を置いた。少しだけ伸び上がるように首をのばし、目を閉じた。  
イヴァンは動かなかった。  
睫を伏せ、彼が動く気のない事を悟った彼女は仕方なく、さらに背すじをのばして近づいた。  
唇が触れた。  
 
「……」  
ナタリーの舌が、おそるおそる、軽くイヴァンの唇の縁に滑った。  
吸ってひきとめ、口の中に誘い込んで舌を絡みつかせると、ナタリーは「ぅん…」と小さく呻いて睫を震わせた。  
その細い躯を抱き寄せてもっとしっかりと顔を重ね、イヴァンは柔らかくその舌を弄んだ。  
ナタリーは逃げようとはしなかった。  
しばらくして顔を離し、形のいい唇に溢れた唾液を軽く舐めとってやり、イヴァンは微笑を浮かべた。  
「…な?」  
「……な…って…?」  
紅潮した目元で、ナタリーは困ったように彼を見上げた。息があがりかけている。  
「オレは不満そうに見えるか?」  
「…いえ…」  
ナタリーはイヴァンの胸に顔を埋めた。イヴァンからだと、ドレスの襟首の隙間から、首筋から背中へのほの白い線が見える。  
「こんなふうに、お前といろんな事がしたいんだ…厭がられずに。あの本を見せた理由はそれだけだ」  
「………」  
ナタリーは赤くなったが、イヴァンは見ないふりをした。  
「まだ、オレが嫌いか?──まあ、イヤらしいのには変わらんだろうが」  
「………」  
ナタリーはますます困ったように彼をちらっと見上げた。  
「ナタリー」  
「いいえ」  
彼女とは思えない素直さで囁きが返ってきた。  
「…イヴァン様」  
「ん?」  
 
しばらくして、ナタリーは小さく言った。  
「抱いて」  
 
*  
 
イヴァンは反射的に、どうしたんだ、とか、大丈夫か、とかふざけたことを口走ってからかいたくなるのをぐっと堪えた。  
 
実は、だ。  
期待はしていたものの、彼はこういう繊細な展開には馴染んでいるとは言えなかった。  
女関係が派手だったわりに自己中心的な男だから基本的に快楽優先型で、相手の感情を慮るということはしてこなかったのだ。  
だから、どうしたらナタリーが喜ぶのか、咄嗟にわからなくなったのである。  
 
彼に似合わぬ沈黙をどうとったのか、ナタリーが不安そうに顔をあげた。  
喜んで押し倒してくると思っていた男が妙に緊張している気配に気付いたらしい。  
「……あの………おいや?」  
その心配げな口調のあまりの可愛らしさにイヴァンの口元が歪んだ。  
「いやじゃない」  
芸のない言葉しか出てこない。  
イヴァンは、それこそいきなり『初心者』に戻ってしまったような自分の反応を持て余した。  
 
オレはもしかして、と彼は思った。  
自分で思っていたよりも、不器用な男なんじゃないのか。  
 
キスもそれ以上のことも単に技術面だけでいけば得意だったが、この、なんともいえず素直なナタリーはどう扱えば喜ぶのか。  
いつものように自分勝手に押し倒すだけでいいのか。  
今まで彼女がしっかりと感じた風情だったのは──この前、媚薬を飲ませた時だけだったな、と彼は思い出してがっくりした。  
結局、自分が満足していただけで、彼はまだ一度も本当に彼女を満足させたことなどなかったのかもしれない。  
 
たぶんこれまでの生涯で初めて陥った気弱さで、イヴァンはナタリーをじっと眺めた。  
ナタリーは恥ずかし気ではあったが、彼の凝視に、開き直ったような愛らしい笑みを見せた。  
「…イヴァン様?」  
「…ああ…あのな、ナタリー…」  
イヴァンはやっと呟いた。  
「いつものように……抱いてもいいのか?」  
「え?」  
さすがに、イヴァンの異状に気付いたらしい。  
ナタリーは不思議というより不審そうに、彼から躯をそっと離した。  
それでも真面目な彼女はちゃんと答えを探してくれた。  
「あの…じゃあ……できれば…」  
少し赤くなって俯く。なかなか続きを口にしない。  
 
イヴァンは不安が増すのを覚えた。  
「できれば?」  
決心したらしく、彼女はようやく囁いた。  
「…あまり、乱暴にしないでくださる…?」  
 
イヴァンはこのささやかな要望に、かなりのショックを受けた。  
ということは、やはりこれまでの自分は、相当彼女に嫌われていたのかもしれない。  
イヴァンが動かなくなったので、ナタリーは自分が言ったことはなにかまずかったのではないかと気付いた様子だった。  
「あの」  
彼女はイヴァンを見上げた。  
「…あの…あの、いつもそうだっていうんじゃないんです、でも……少し…怖いから」  
「そうか…」  
イヴァンは呻いた。  
「怖いのか」  
 
思えば最初に彼女を手に入れたやり方が大問題だった。  
あれは確かに、下手をすると──いや、絶対に、精神的外傷になって不思議ではない。  
彼女を愛するようになったからやっと判ったのだが、あれは実にまずかった。  
イヴァンは死んだ魚のような目つきになってナタリーを見た。  
もう何もできないような気がした。  
 
ナタリーはじっと彼を眺めていたが、やがてするりと腕から逃れた。  
「待て…」  
イヴァンは辛うじて呟いたが、手をのばして捕える前にナタリーは床に降り立ってしまった。  
「……行くな」  
呻いたが、ナタリーは彼に背を向けた。  
 
ああ、もうだめだ───。  
オレは捨てられる。  
よりによって、惚れた女に。  
 
ひどく惨めな気分で、イヴァンは顔を歪めた。  
彼がここまで自虐的になったことはその我侭人生において一度もなかった。  
イヴァンは虚しく掌を開閉させ、燭台の灯火が揺れたことに気がついた。  
しゅるしゅると衣擦れの音がしている。  
 
顔をあげてみると、蝋燭の灯りに照らされて淡い闇の中で輝いている白いものはナタリーの背中だった。  
イヴァンは目を瞬かせた。  
「……あ?」  
ナタリーが振り向いた。すらりとした脚で素早く寝台に戻り、イヴァンの傍らに腰をおろした。  
つんと上向いた柔らかな乳房が動きにあわせて弾むのを、イヴァンはしっかりと見た。  
 
「…あの」  
ナタリーは思い出したように、腕で胸を覆った。  
「ああ」  
イヴァンは目を逸らさなかった。  
「イヴァン様」  
「なんだ?」  
イヴァンは、急に呑み込みにくくなった唾を無理矢理呑み込んだ。  
現金なことに、ナタリーの肌を見た瞬間、今の今まで猛威を揮っていた糞忌々しい『弱気』が吹っ飛んだのを感じた。  
 
彼女は真剣な顔で囁いた。  
「これでも、お嫌?」  
イヴァンはにやりと笑った。  
「自信があるくせに」  
彼女の気が変わらないうちに腕を巻いて引っぱり寄せた。  
ナタリーは安心したようにイヴァンの腕の中に収まって吐息をついた。全身が上気していた。  
 
*  
 
「…お前、オレが好きなんだな」  
イヴァンの呟きに、ナタリーは小さく頷いた。  
「……たぶん」  
躯を縮めるようにして抱きついている。自分でやったこととはいえ恥ずかしいらしい。  
「本当かな」  
イヴァンは疑り深く囁いた。  
「実家のためかもしれん。お前ならやりかねん」  
「……イヴァン様」  
ナタリーは蝋燭の灯りをうけてきらきらする瞳を非難がましく彼に向けた。  
「いや…」  
イヴァンはその唇にキスをした。  
少し長いキスだった。  
顔を離す頃には素晴らしい考えが浮かんでいた(あくまでも彼にとって)。  
 
「ナタリー、あの本を持ってこい」  
「え」  
キスの甘さにぼんやりしていたナタリーは躊躇った。  
なんといっても全裸なのである。  
「いいから早く!」  
イヴァンが人が変わったように、いや、元の通りに活き活きし始めたのを見て、ナタリーは吐息をついた。  
「…あちらを向いてらしてね」  
「約束する」  
念のためにイヴァンの頬を両手で挟み、横にねじまげておいてから、彼女は胸を両腕で押さえ、急いで寝台から床に降りた。  
膝をつき、すんなりした背中を屈めて本を掬い上げ、電光石火振り向いた。  
イヴァンは顔をナタリーに向けられた方角にむけていたが、口元のゆるんだ笑いを見れば直前までの背信行為は明らかだった。  
ナタリーが本を投げつけると、予測していたらしく彼はいつもの通り危なげなく避け、受け止めた。  
「やめろというのに。可愛い顔をして乱暴なヤツだ」  
「そうしたくなるんですもの」  
ナタリーは上気した頬を膨らませてイヴァンの傍に戻った。  
腹をたてたのか、シーツを持ち上げて潜ろうとする。  
「待て」  
イヴァンは彼女からシーツを取り上げ、片手で本を開いた。  
「返して」  
「ここを見ろ」  
イヴァンは、もじもじと自分の躯を抱きしめて座り込んだナタリーの肩を引き寄せ、その腿の上に本を置いた。  
ナタリーは仕方なく、視線を走らせた。  
以前、イヴァンがしつこく誘いかけ、ナタリーが絶対にイヤだと言い張った、『やり方の解説』がその頁には載っていた。  
 
「確か、乗馬は得意だと言っていただろう?」  
イヴァンはナタリーの耳に囁いた。  
 
「………………」  
ナタリーは彼の腕を肩から払いのけようとしたが、胸をおさえていては難しかった。  
「ほらな。オレが変なんじゃない。本にも載ってるくらい当たり前の事なんだ…」  
とくとくとイヴァンは続けた。いい聞かせながら躯をねじり、彼女の背に腕をおろしていく。  
本を払い落とし(どうでもいいがこの本はさっきからひどい扱いを受けまくっている)、彼女の両の太腿と腹の交わる三角地帯に掌を押し付けた。  
「あ」  
ナタリーは反射的に腰を退き、その手を避けようとしたがイヴァンは遠慮なく指を滑らせた。  
「いや、いきなり…」  
イヴァンはにやにやした。  
「いきなり脱いだヤツにそんな格好で言われてもなぁ」  
全裸になったのは彼に命令されたわけではなかったことを思い出し、ナタリーは何も言えずに黙り込んだ。  
さっきのイヴァンがあまりにも虚脱していたので、衝動的に脱いでしまったのだ。  
今のイヴァンの精彩に溢れた顔を見ていると、さっきの元気のない態度も演技だったのじゃないかと彼女は疑った。  
まるで別人である。  
あんな演技を真に受けてこんなはしたないことをしてしまうなんて、なんと自分は愚かで間抜けなのだろう。  
ナタリーは恥じた。  
 
もっともナタリーの疑いは間違っている。  
惚れているナタリーがそうしたからこそ大喜びでイヴァンは甦った。  
あまりにも単純すぎて彼女には信じがたいだろうが、それが男というものだ。  
 
「イヴァン様」  
イヴァンの指が太腿の内側に潜って悪さをはじめたのでナタリーは赤くなり、腰をくねらせた。  
逃れたくもあり、あまり反応するとかえって彼が喜びそうだから動かずにいたくもあり、そして一番厄介な事に、実は気持ちいい。  
さっきから恥ずかしい思いをしていたからか、変な本を読まされたためか。  
そこがぐっしょりと濡れているのがナタリー本人にもわかった。  
茂みの奥からは熱い蜜のようなものが途切れることなくとろとろと蕩け出して、イヴァンはそれを指に絡めて楽しんでいる。  
「ふうん……」  
耳元でさも納得したげな彼の声が漏れて、ナタリーはかすかにぴくんと反応した。  
これから、もっと苛められるのは明らかなのに、反応してしまう自分がイヤだ。  
「あっ…あ、あのっ…」  
指先を往復させるように挿れてくるので、じっとしていられなくて、彼女はわずかに腰を持ち上げてしまった。  
「よしよし」  
イヴァンがうわずった声で呟いた。  
背中を支えていたほうの掌を彼女の尻の丸みに添わせてぐいと持ち上げる。  
するりと素早く彼の髪が、引き締まって滑らかな腹のカーブに合わせて滑った。  
谷間に、冷たい鼻先と、さきを尖らせた舌がぬめりこんできた。  
 
ナタリーは絶叫に近い声をあげてしまった。  
「あ、あっ!」  
思わず膝立ちになりかけた彼女の片方の腿を脇に挟んでさらに上に押し上げたイヴァンは、細腰を掌全体でがっちりと握り込んだ。  
あっという間にその顔の上にあられもなくまたがるような格好になっている事に気付き、ナタリーは気絶しそうな呻きを漏らした。  
「…は」  
イヴァンは舌をぬき、蝋燭の灯りを受けてつやつやと光っているナタリーの花弁をじっと眺めた。  
何度も抱いたはずだがあまりそうは見えない。清楚な淡い薔薇色の、お行儀のいい波打ち加減だ。  
だがぬるぬるとした香しい女の匂いは濃厚で、顔を近づけていると酔っぱらいそうな気がした。  
茂みを分けるように指を柔らかな谷間に添わせ、探ってみると小さな突起が隠れていた。  
もっと近づいて口に含む。ナタリーが喘いで腰をひこうとするのを掌に力をいれて阻止する。  
「…あ、あ…あっ、ああっ…ん…!」  
ナタリーの熱い太腿が頬を挟みつけて、彼女は鋭く腰を波打たせた。  
隠れようとする芯を舌で探り、護られている厚い殻からほじくりだす。  
強く吸いつくと、ナタリーは悲鳴じみた声をあげた。  
「だめっ!」  
無視した。  
 
小さなその芯がふっくらと育つまでイヴァンは口を離さなかった。  
やがてナタリーを解放し、イヴァンは蜜に塗れた顎をあげた。  
ナタリーは腰をがくがくさせていたが、イヴァンの掌に支えられているのと、  
自分でも寝台の垂れ下がった天蓋の布地にしがみついて辛うじてなんとかまだ膝でたっていた。  
イヴァンは肘をついて少し躯をひきあげた。ナタリーの腰を、ぐい、と自分の腿の上に降ろす。  
彼が掌を離すと、ナタリーはへなへなと腰を落とした。  
肩で息をしつつ、彼女は紅潮した頬をイヴァンに向けた。  
達する直前だったようで、その、我を忘れた油断しきった顔はとても色っぽかった。  
 
「そのままだ。逃げるなよ」  
イヴァンは彼女に念を押し、ベルトを緩め始めた。  
ナタリーは、はぁ…はぁ…、と柔らかな喘ぎを漏らしながら目を背けた。  
逃げようとはしない。  
動けないのか、それとも動きたくないのか──おそらく、双方だろうう。  
彼は腰から邪魔なズボンや下着をずりさげ、ナタリーを身じろぎさせると彼女の腰の後ろにうまくまわして蹴り飛ばした。  
ナタリーの腹に猛ったものが直接触れて、揺れた。  
イヴァンは彼女を強く抱きしめ、その耳に低く囁いた。  
「腰をあげろ」  
ナタリーは、呪文にでもかけられたように太腿に力を込めた。  
イヴァンは細い両腕に手を滑らせて持ち上げ、金褐色の頭をはさませて掲げると、後ろの天蓋の布地を握らせた。  
「“手綱”はしっかり握ってろ……乗馬が得意なら、わかるな?」  
イヴァンは真面目くさった口調で続けた。  
ナタリーは返事をしなかったが、布地を握る掌に力をこめた気配がした。  
くすりとイヴァンは笑い、重なった枕にゆっくり躯を倒すと、彼女の腰を両手で挟んだ。  
「では、よろしく」  
「…私が、……するの…?」  
耐えかねたようにナタリーが囁いた。イヴァンはすっとぼけた。  
「そう書いてあっただろ?」  
「…………」  
唇をかんで、ナタリーはイヴァンを睨んだ。  
睨みつつももうほとんど諦めているようで、あまり迫力はなかった。愛らしかった。  
「まずは、乗るんだ…上手にな。そのままじゃだめだ、もっと脚を開け」  
「こう…?」  
ナタリーは恥ずかしそうに、少し腿を開いた。でないとうまく彼のモノを越せない。  
 
イヴァンはにやつく顔を押し隠した。  
下から見上げているとナタリーの胴のくびれの細さがよくわかった。  
かたちのいい乳房がわずかな動作にもゆらゆらと揺れるのがつぶさに見えて、柔らかな茂みの奥には悩ましい花弁。  
眉をひそめ羞恥を滲ませた彼女の端麗な顔を、燭台の灯りに照らされた金褐色の、すこし伸びた、巻き癖のある髪がふんわりと覆っている。  
絶景である。  
 
ナタリーは、覚悟を決めたように、太腿の間に彼のモノを軽く挟んだ。  
それだけで気持ちいい。イヴァンは息を潜めた。  
彼女は腰を揺らし、ぎこちなく『調整』した。  
腰だけで合わせようとするので、勝手に脈打って揺れているそれとあわせるには少し時間がかかった。  
何も言わずに彼女に好きにさせておくのがこれほど興奮するものとは、イヴァンにも意外だった。  
 
濡れた花弁に先端が触れ、イヴァンが小さく呻くと、彼女ははっとしたように彼に視線をあてた。  
イヴァンがじっと眺めていることに気付いてさっと赤くなり、彼女は目を伏せた。  
やっと自分なりに納得する位置を決めたらしく、彼女の腰が沈み始める。  
すぐに、くちゅ、と、妙に可愛い水音がした。  
「あん…!」  
もっと可愛い声で、弾けるようにナタリーが喘いだ。  
一瞬躯をこわばらせたが、イヴァンがじっとしていると、また気を取り直したようにそろそろと腰をおろしていった。  
「ん…っ」  
幹の一番太い場所がぬるりと収まると、彼女はまた声をあげた。  
 
首すじにかすかに汗が滲んでいる。  
瞼をあけて、少し虚ろな感じの視線をイヴァンに向けた。  
やはりまだイヴァンが見ている事を知ったが、彼女はもうそれにこだわる気を失ったようだった。  
彼女は唇をかすかに開けて、躯の力をそっと抜いた。  
自重で沈みながらイヴァンを深々と奥まで呑み込み、唇をもっと開いて彼女は喘いだ。  
「は…ぁん…」  
天蓋の布から滑らかに指が落ちかけ、危うく改めて掴み直す。  
 
彼女の中で勝手に動き出しそうなそれを宥めつつ、イヴァンはだらしなさ満開の顔で彼女の艶姿を堪能した。  
こんな時に苦みばしった顔などしていられない。  
イヴァンはかすれた声で褒めた。  
「…上手だな」  
ナタリーが顔をあげて、イヴァンに視線を絡ませた。  
唇の端がかすかにあがり、彼女は喘ぎながら得意そうに微笑んだ。  
「……そう…ですか?」  
「ああ」  
イヴァンは唇を舐め、興奮を隠そうともせずに彼女の両膝をぐいと掴んだ。  
開いて崩すとナタリーの腰が低く沈み、奥底のこりこりとした場所に、彼の先端が柔らかくつきたつのがわかった。  
「おぁ…」  
イヴァンは呻いたが、同時にナタリーは獣じみた喘ぎを放った。  
「きゃんっ…!」  
 
急いで膝を引き寄せてやると、ナタリーはひくひくとわななきながら天蓋から手を離してしまった。  
「……今の、今の、なに…?」  
震えつつ彼女が尋ねた。  
かすかに苦痛が滲んでいたので、イヴァンは少々後悔した。  
「すまん。ちょっと急ぎ過ぎた」  
「怖い」  
「悪かった」  
ナタリーは気を落ち着けるように、上半身を倒してイヴァンにぎゅっとしがみついてきた。  
それはそれで気持ちいいので、反省も後悔もどこへやら、イヴァンはしっかとその背を抱いた。  
「ナタリー、許してくれ」  
 
「………ねえ、イヴァン様…」  
しばらくして、ナタリーが胸の上で呟いた。  
 
「ん?」  
「…今のは、あなたは……気持ちいいの?」  
「ん?…ん。いいな」  
「…じゃあ」  
ナタリーは顔をあげてイヴァンを見た。ひどく必死な表情だった。  
「どうぞ」  
「どうぞって」  
イヴァンは困ったように彼女を眺めた。  
「…そういうのはダメだ」  
「どうして?」  
ナタリーは起き上がった。ふるりとその乳房の先端が触れ、またもや気持ちよかった。  
「オレだけ良くてもダメだ…と思うが…おい…?」  
「…でも」  
ナタリーはイヴァンの胸に掌をつけると、熱に浮かされたような顔で彼を覗き込んだ。  
そればかりか、その腰はひどく自然な仕草で前後に動き始めた。  
中にはイヴァンのモノが収まったままだ。  
「でも、あなたは良いんでしょう?……それに、あなたの喜ぶ顔って…とても…可愛いわ」  
「…………」  
「……私、いやじゃありません」  
ナタリーは頬を染めた。  
 
イヴァンは度肝を抜かれて、色っぽく動いているナタリーを見つめた。  
今まで彼女を可愛いと思いこそすれ、可愛いなどと言われることなど想像だにしたことがなかったのだから仕方ない。  
しかもイヴァンはナタリーより5つも年上だ。  
なんでまたいきなり。  
彼は忘れていた。  
ナタリーを鑑賞できるということは、ナタリーも彼をよく見ることができるという事実をである。  
支配感を刺激する騎乗位で、しかも──彼には理解不能だが──ナタリーは彼のこれまでの『上手な』女たちには、絶対に負けたくないのだった。  
開き直った彼女が燃えるのも無理はないだろう。  
 
ナタリーの動きは少しずつ滑らかになり、イヴァンは段々顔を紅潮させはじめた。  
彼女の積極的な行動に興奮させられているだけではなく、実際にその動きは気持ちよかった。  
乗馬が得意というだけのことはある……のかもしれない。  
彼はナタリーの白い太腿を掴み、腰に手を滑らせて掴むと浮き上がらせた。  
「ナタリー…次は…こんなふうに頼む」  
すぐに理解した彼女は彼の胸に置いた掌に力をこめて、ゆっくりと上下に腰を振りはじめた。  
「あっ…」  
ナタリーは動きながら眉をひそめた。唇がかすかに開き、濡れた舌がちらりと見えた。  
「あ…イヴァン、様…すごい……」  
ナタリーがこんな言葉を漏らすのを、彼は初めて聞いた。  
「お前も気持ちいいか?」  
イヴァンは喘ぎながら尋ねた。  
彼女のくびれた腰の奥は柔軟できつくて熱く、絡み付いてしごかれると、なんだか吸いあげられているような感覚だった。  
ナタリーはイヴァンの胸から掌を離した。  
ふらりと背を反らし、たて加減にしていたイヴァンの太腿にしなだれかかるように凭れて、その上に手を置き直した。  
「んっ…あ…」  
彼女は喘いで腰をくねらせ、イヴァンの顔を見た。  
淫猥といってもいいくらい艶っぽい微笑がその唇に浮かび、彼女は喘ぎながら答えた。  
「……気持ちいい……」  
 
イヴァンは肘をたてて身を捩った。  
起き上がり、ナタリーに掴み掛かる。  
密着したくてたまらない。ナタリーは抱き寄せられた彼の首に腕をまわして目を閉じ、うっとりした声で囁いた。  
「…気持ち……いいの…」  
「オレもだ」  
彼女の尻を引き寄せて、繋がったままなんとか体勢を変えることに成功した。  
「んっ、あ、ああ…あん…」  
ナタリーがいちいち声をあげるので、ひどく淫らな気分になる。  
きゅ、きゅ、と何度も彼女はイヴァンを締め付けた。  
躯を組み敷き、その頬から柔らかな髪を払い、イヴァンは彼女を見つめた。  
「イかせてやろうか」  
ナタリーは上気して頷いた。  
「……でも、あなたは?」  
「オレもイきたいんだ」  
ナタリーはにっこり笑った。  
「…さっきのようになさっても、かまわないわ」  
「…本当に?」  
子袋まで突き上げたアレだろうか。  
ナタリーはイヴァンの首すじに指を這わせた。誘うような柔らかな触れ方だった。  
「…はやく……」  
「……怖いんじゃないのか?」  
 
イヴァンは少し恐ろしくなった。  
ナタリーがあまりに嵌っていて自分もこのままでは歯止めがきかず、本当に壊してしまいそうだ。  
彼女がそう言ってくれるのは嬉しいが、それはめちゃくちゃに嬉しいのだが、  
ナタリーに関しては据え膳を食べたことがないのだから仕方ない。  
ナタリーはイヴァンの目を見た。  
「怖くないわ。……あなたに、浮気なんかさせないから」  
「………」  
あっけにとられて、イヴァンは彼女の熱い腿が腰に絡み付いてじれったげに擦り付けられているというのに我を忘れていた。  
「…なに?」  
ナタリーは恨みがましげに、ちょっとだけ目を細めた。  
「やっぱり……全然、気付いてらっしゃらないんだもの……」  
「だから、なにが…」  
「…言いたくありません」  
ナタリーはイヴァンにしがみついた。  
「つまり」  
イヴァンはその背中から腰に、そっと腕をおろしながら呟いた。  
「オレを好きなわけか」  
「…………そうよ」  
ナタリーの喘ぎが早まった。イヴァンが動き始めたからだ。  
「…いつから?騙してたのか」  
「…はい」  
イヴァンの背に廻されている彼女の指が少ししなる。  
「騙されるのは嫌いなんだ」  
「だって…あ…」  
ナタリーの腰が応じている。  
「自分でも、知らなかったの……」  
イヴァンは彼女の腿を掴むと、腰に引きつけた。深さなどを変えて、どうすれば一番ナタリーが乱れるか探している。  
「いつ知った」  
「……つい、さっき」  
ナタリーは喘ぎながら囁いた。  
「…あなたが、悲しそうな顔をしてらしたから」  
 
弱気も一生に一度くらいは役立つものである。  
 
「ナタリー」  
イヴァンはにやりとして、淫らで嘘つきなのに自覚のない可愛い愛人を抱き直した。  
「お前も浮気するなよ」  
「しないわ…あなたが、なさらないなら……はぁ…あん…あ…」  
ナタリーは髪を乱して、我慢できなくなったように、イヴァンの動きに一心に合わせ始めた。  
「考えもできないようにしてやろう」  
イヴァンは昂っていく躯をおさえ、理性を放り投げる前に、その耳元に呟いた。  
「嬉しい…」  
ナタリーは、確かに小さく、そう喘いだ。  
 
*  
 
結局あの本はどうなったのか。  
 
もういらない教科書と一緒に永遠に櫃の中に放り込まれたのか、  
それとも館の本棚の奥に記念として密かに並べられることになったのか、  
それは二人以外の誰にもわからない。  
 
 
 
 
 
 
おわり  
 

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