顔を離して見下ろすと、ナタリーは羞恥と陶酔と不審の入り交じった表情で、ゆっくりと睫をあげた。  
最後の表情だけが余計だ。  
「どうした」  
「…本当に、『お仕事』でなさるの…?」  
「ナタリー」  
イヴァンは眉をしかめた。  
ナタリーはほっとしたように吐息をついた。  
「ああ良かった……陛下と王妃様なら本当にそう仰りそ…」  
うっかり口を滑らせかけ、イヴァンと視線が合ったナタリーは大慌てで謝った。  
「ごめんなさい」  
「…いや」  
 
やっぱり国王夫妻の言動は、嫁の目から見ても怪しいらしい。  
 
「なにか言われたのか?」  
「……いいえ」  
躊躇いがほんのわずか長かったのでイヴァンはすかさず追及した。  
「なにか言われたんだろう、あの老害物に」  
「……」  
ナタリーは視線を逸らした。  
その眉が困惑に寄り、頬がぽっと染まっていくのを目の前に見ていると、いやな予想が胸に湧く。  
「なにを言われたんだ?怒らないから正直に話せ」  
「………」  
ナタリーは軽く吐息をついて、イヴァンの頬を両手で挟んだ。  
「…お聞きになっても、王陛下には何も仰らないでね。ただ心配なさっているだけなんだから…」  
「いいから早く話せ」  
「…あのね」  
ナタリーはイヴァンの耳に唇を寄せて囁いた。  
「…………」  
聞いているイヴァンの眉があがり、こめかみにうっすらと血管が浮き上がった。  
顔を戻したナタリーは心配そうにイヴァンの腕をおさえた。  
「あの…私、そんなに気には…」  
 
「……あの※◎◆の…×▲#☆◆めが…」  
 
イヴァンは歯ぎしりし、ナタリーがこれまで耳にしたことのないような汚い言葉で父王を罵った。  
時々彼女は思うのだが、イヴァンは王子という身分にありながら一体どんな場所でこういう言葉を覚えてくるのだろう。  
そのへんはあまり追及しないほうがいいような気もするが。  
 
*  
 
彼女がイヴァンの無事を確認しようと王宮に押し掛けてきてかけあった際、王は世間話にかこつけて、  
あまり夫を誘わないようにとなにげなく釘をさしたのだと言う。  
どういう事か今ひとつわからなかったナタリーだが、軟禁に関するイヴァンのさきほどの説明でやっと発言の真意を悟ったらしい。  
例の根拠不明の『薄くなる説』をナタリーにまでほのめかしたのかと思うと、そのへんはさすがにまともに伝えるのもなんだと思い、  
適当に濁して語っていたイヴァンは怒りで腸が煮えくりかえるような心地だった。  
 
それに。  
 
それに、ナタリーは恥ずかしがり屋だから、普段決して自分からは誘ってはくれないのだ。  
脅したりすかしたりして誘ってもらった事が今までに何度かあって(一般的にはこういうのは誘ったとは言わない)、  
その時も最初やっぱり恥ずかしそうだったが、一旦火がつくと最高に淫らで可愛いかった。  
あのおせっかいなじじいは、その彗星なみに珍しい貴重な機会まで、根こそぎイヴァンから奪おうというのか。  
それだけはやめろと絶叫したい。  
 
イヴァンはナタリーに視線を戻した。  
「だがお前はそうオレを誘うわけじゃない」  
「私もそう思います。ほとんどあなたよ」  
ナタリーが、イヴァン的には悲しいほどきっぱりと言いきった。  
「…そうか」  
「そうよ」  
ナタリーはちらりと周囲の羊皮紙の束を眺め、頬を膨らませた。  
「少なくとも、私はこんな変な場所では絶対に、あなたを誘ったりしないわ。…陛下はなにか勘違いしていらっしゃるんです」  
「そうか…」  
イヴァンはたった今まで捕らわれていた激しい怒りをころりと忘れて、つい甘えたような口振りで彼の妃に問いかけた。  
「…じゃあ、お前は例えばどんな時に誘いたくなるんだ?知っておきたいな」  
「え…それは例えば、あなたが…」  
ナタリーははっと気づいたように唇を噤んだ。  
真っ赤になって彼女は低く囁いた。  
「と、とにかくこんなとこだけはイヤ!お願い、放して頂戴、早く」  
「却下したい」  
イヴァンは指に挟んだままで忘れていた芥子色のスカーフに目をやった。  
「十日間も閉じこめられてたんだぞ。少し運動をしたくなった」  
ナタリーは目を伏せてまた赤くなり、イヴァンはそれを見て笑った。  
「そらまた赤くなった……面白いなお前は」  
「何が面白いの?」  
ナタリーは顔を寄せてきたイヴァンに文句を言った。  
「私、あなたのおもちゃじゃな…」  
「おもちゃだよ」  
イヴァンは囁いて顔を重ねた。  
 
久しぶりにナタリーをからかっているとやはり楽しくて、時間が有り余るほどあるわけでもない今の状況にも関わらずなかなか事態が進展しそうにない。  
いつも唇でイヴァンはごまかすと彼女は思うかもしれないが、こうでもしないと埒があかない。  
ひらめく魚影のように逃げる舌を捉えて軽く吸い、柔らかな唇のかたちを舌先で辿りながら愛撫する。  
喘ぎを隠そうとして呑み込むのを忘れかけた彼女の唾液を吸い取ってやり、自分のそれを舌を使って垂らし込む。  
彼女の瞼がぴくんと揺れて、んく、と小さな声ともつかない声と一緒に白い喉がイヴァンの熱を抵抗なく呑み込む。  
唇の柔らかい内側で彼女の唇を挟みこむと、安心した生き物のように彼女の唇が甘く綻び、うっすらと開いてゆく。  
ナタリーとのキスは彼女と餌を与え合っているようだ。  
 
やがて顔をずらし、イヴァンはくたりと背けたナタリーの頬を掌で押さえた。  
「…」  
ぼうっとした視線をイヴァンに向け、彼女は瞬きをした。  
その細い喉に掌を動かして隠しボタンをはずす。  
やっと三つだけついているボタンが外れたが、結局は頭から脱ぎ着する型なので、このままではそれ以上は脱がせることはできない。  
 
「…まあいいか」  
イヴァンは襟元をのぞき込み、白くて魅力的な谷間を確認するとあっさりと作業を中止した。  
「え?」  
脱がせるのだろうと予想していたらしいナタリーは不審げに彼を見上げた。  
「ベルトをはずせば手は届く」  
そう呟いて細くくびれた胴に巻いてあるベルトを引っこ抜いた夫の手を、ナタリーはおずおずと押さえた。  
「何を考えてらっしゃるの?」  
「これ」  
イヴァンは、ベルトを置いて例のスカーフをつまみ上げた。  
「これ?」  
ナタリーの眉が寄った。  
「両手を出せ」  
ナタリーの華奢な手首を揃えて掴み、イヴァンは素早くスカーフでぐるぐる巻きにしてしまった。  
さらに戒めたその両腕の肘を掴み、彼女の頭の上まで押し上げる。  
「えっ、あの…」  
ナタリーはもじもじして、自分の格好の異様さに言葉を詰まらせた。  
「これ…」  
「よし」  
イヴァンは手を離した。  
 
羊皮紙の束が散乱する執務机の上に横たえられ、胴衣のくつろげられた襟元から胸の谷間がほの見える男装の綺麗な女。  
一見きっちり服を着込んでいるように見えるのだが両手は拘束され、ベルトがないため胴衣の裾から手を入れ放題の隙だらけの格好である。  
 
「実に魅力的だ、『ナサニエル』君」  
にやにやしていると、ナタリーがはっとしたように唇を開いた。  
「イヤだ、まさか!」  
「聞こえない」  
イヴァンは彼女の上にのしかかった。  
「イヤ!お願い、やめて…これだけはイヤ!……変質者!」  
ナタリーの罵り言葉など可愛いものだが、さすがに変質者というのは気にくわない。  
イヴァンはむっとして顔をあげた。  
「誰がだ?」  
「…あなたよ、最低の王子様」  
 
怒りのためか、ナタリーのいつもは褐色の光彩の色が変わっていた。  
灰か緑色のような細いすじが入っている。  
口調もナイフの切っ先のようで、それまでまとわりついていたかすかな甘さなど微塵もなかった。  
「こんな格好で、縛ったりなさって、なんのおつもり?」  
イヴァンは途方に暮れた。  
「…お前を最初に抱いた時みたいだ、と」  
ナタリーは蹴り上げるようにして脚を持ち上げ、イヴァンの腕を逃れて机の上に起きあがった。  
「あなたはどうだか知らないけれど、あれは私の最悪の記憶よ。  
…わかってはいたけど、そんな方だって知ってはいたけど……それでもいいって思ったけど……  
まさか、ここまで趣味の悪い方だったなんて、思っていませ……」  
そこまで言ったナタリーの言葉が途切れたと思う間もなく、彼女の頬をなにやら大きなものが転がり落ちた。  
磨き抜かれた机の表面に弾けたのを見ると涙である。  
 
イヴァンはあわてふためき、ナタリーを抱きしめた。  
嫌がったが、本能的にここで手を放したら最後のような気がして離れずにいると、  
しばらく無言の攻防を演じたあげくナタリーはイヴァンの胸にすりより、さらに涙を流し始めた。  
 
「…今は好きよ…優しいところだってちゃんとあるってわかったもの…  
…でも、あの時の乱暴で恐ろしいあなたって、殺してやりたいくらい憎らしかった」  
イヴァンは黙って彼女の艶やかな髪を撫でた。  
 
わかっているつもりだったが、日頃彼女があまりに優しくて従順なのでつい忘れてしまうのだ。  
ナタリーを手に入れたのは極悪非道な方法で、彼女自身が言うように、それは現在彼を赦しているのとはまた別に、  
心の奥深くではいつまでも納得できない傷になってしまっているのだろう。  
それからもいろいろ彼女を縛ったりいじめたりしてきたが(やはり彼にはそういう傾向があるらしい)、  
恥ずかしがりつつもナタリーはこれほどには厭がらなかった。  
どうやら、『男装で縛られる』のがいけないんじゃないかとイヴァンは察した。  
全く自分というものを尊重されず、モノのように取り扱われた記憶をそのまま思い出してしまう状況なのだ。  
その嫌悪感は、快楽を知り、彼の心を見つけた今でもどうしても克服しがたいものなのだろう。  
イヴァンは日頃なにかを反省したりする性質ではないのだが、こればっかりはもっとどうにかすれば良かったと、  
これからも何度も何度も後悔する事案になりそうだった。  
つくづくと、自分のかつての情け無しの好き放題の行状が周囲にひいては自分に以下略。  
 
*  
 
どのくらいたったのか。  
 
落ち着いたらしいナタリーが顔をあげた。  
瞼がわずかに腫れているが、目もいつもの暖かみのある褐色に戻っている。  
 
「……ごめんなさい」  
驚くべきことにナタリーは謝った。  
イヴァンは急いで遮った。  
「いや、オレが悪い」  
小さく付け加える。  
「…悪い男をあまり甘やかすな。またつけあがる」  
ナタリーは微笑した。  
「でもね、イヴァン様。あなたは優しいキスもできるから、悪い人じゃないと思うわ…今では」  
指先でイヴァンの頬を撫でる。  
「…仲直りに、もう一度だけでいいから、あんなキスをしてくださる?」  
イヴァンは妃に口づけた。  
可能な限り、繊細で穏やかなキスを心がけた。  
自分の欲望は今は忘れたほうが身のためだ。  
 
イヴァンの反省と謝罪のこもった長い長いキスが終わって、ようやく顔が離れた時、ナタリーの目はすこし潤んでいた。  
赦してもらえたのだろうかとイヴァンが考えていると、彼女はちらと扉に視線を投げた。  
廊下で衛兵長が命令を待っているはずだ。  
「…あの人、怪しんでないかしら?長すぎるって」  
「それはない」  
イヴァンは肩をすくめた。  
机周辺の床の書類の散乱ぶりは凄まじく、簡単に拾い集めて仕分ける事ができないのは誰の目にも明かだろうと思われた。  
 
「あの…」  
ナタリーは濡れた唇になんとなく指先を置き、上目遣いにイヴァンを見上げた。  
桜色の爪が縁をかすかにひっかいている。  
意識してではないらしいが、妙に色気のあるしぐさだ。  
「イヴァン様…」  
イヴァンは黙って彼女を見つめた。  
「さっき、どんな時に誘うんだってお尋ねになったでしょう?」  
急に早まった鼓動を意識しつつ、イヴァンは目顔でかすかに頷いた。  
だが、まさか。  
今の今愁嘆場があったばかりなのに、そう簡単にこっちの都合のいい展開になるわけがない。  
期待するなイヴァン、と彼は自分自身に命じた。  
どうせナタリーの言うのは再来週館に戻ってからとか、いつかその気になったらねとか、そういったさしさわりのない慰めに過ぎないはず…。  
ナタリーは腕の中で軽く伸び上がり、彼の耳に小さく囁いた。  
「…今じゃだめ?」  
 
彗星だ。  
女心が分からない。  
 
イヴァンは反射的に伸びようとする鼻の下を全力で押しとどめつつ、どうしようもなく隔絶した男女の溝をしみじみと意識した。  
今の今あれだけ傷ついた姿を見せておいて、掌を返したようにその同じ相手を誘ってくる。  
知る者全員から女好きと認められているものの、実際彼には女心はわからない。  
自分の認識の甘さと、ナタリーに関しては紆余曲折しながらもこれからもこうやって観察を積み重ねていけるらしい、という事だけはわかるのだが。  
 
「今後の参考に教えてくれ、ナタリー」  
イヴァンは囁き返した。  
「どうして今なんだ?」  
ナタリーは首を振った。  
「…教えてあげません」  
なぜか頬に朱を散らして、彼女はもじもじした。  
「イヴァン様は、そうやって時には悩んでいらっしゃればいいんです。いつもいつも勝手なんだから」  
「仕方ないじゃないか」  
イヴァンは彼女の背に回した腕に力をいれて引き寄せた。  
「お前といると勝手にこうなるんだ」  
彼女はため息をついた。  
「…だから陛下が、私に誘ってはいけないとかなんとか仰るんだわ」  
「あの※◎◆親父は思い出すな」  
イヴァンは急いで言った。  
「オレのことだけ考えてくれ」  
ナタリーは、胴衣の上から乳房をまさぐるイヴァンの手を気にしながら囁いた。  
「…そういえば、ご命令に背いてしまいました」  
「忘れろと言うのに」  
 
イヴァンは彼女の髪を片手で掻き上げ、細い首すじに吸い付いた。  
ナタリーが小さな声をあげる。  
彼の肩に絡みついて頬をすり寄せた。  
そのうなじにまわりこむようにキスを降らせ、イヴァンは、古ぼけた羊皮紙とは全く別の、胸元から立ち上る甘い、ナタリーの匂いを肺に深々と吸い込んだ。  
「…どこがいい?」  
イヴァンは尋ねた。  
「そこ…」  
ナタリーは甘えるようなかすれた声で呟いた。  
執務机はやめておこうかと彼女の希望の場所を尋ねたつもりだったのだが。  
イヴァンはかすかに口元を緩めた。  
彼女の気持ちのいい場所はとっくに承知している。だが応えた。  
「わかった」  
後ろから抱くように、うなじから紅潮した耳元に重ねて舌を這わせると、ナタリーは喘ぎを漏らして、小さく腰をくねらせた。  
腕を解き、胴衣をたくしあげて抜き取った。  
肌に滑らかにまとわりつくシャツを剥き、ズボンをするりと尻の曲線にそって押し下げる。  
下着はつけていなかった。油断にもほどがあると彼は思ったが、考えてみればドレス姿の女性は通常は下着をつけない。  
17の彼女を犯した時、彼女がちゃんと下着をつけていたかどうか、もう彼は覚えていない。どうだっただろう。  
踝に掌を滑らせ、靴をふたつとも書類の間に放り投げる。  
自分の服と同じ色気のない構造のものからナタリーの躯を解放していくのは意外に興奮する。  
露になってくる彼女の姿が美しいだけに余計そんな気がした。  
18の彼女の躯もしなやかで柔らかいが、もしかしたらあの頃よりほんの少し痩せたかもしれない。  
それは目立つほどのものではなく、ふっくらしていた子犬が成長してほっそりしていくような変化なのだろう。  
その証拠に、イヴァンがうなじを啄みながら背後から掬うように握りしめた乳房は一年前よりあまやかに充実した感触だった。  
丹精こめてきただけあって美味そうに熟してきたな、と彼は、それこそ自分本位な感想を持つ。  
ナタリーに知られたら怒られるだろうか。  
 
「ん……ん…」  
気付くと、金褐色の頭をのけぞるようにイヴァンの鎖骨に押し付け、ナタリーは目を閉じ頬を紅潮させ、必死で声を押し殺していた。  
どうしていつものようにもっと声をあげないのだろう、と不満を覚えてイヴァンは握った指を乳房の先端に軽く食い込ませる。  
「…っ…」  
ナタリーはきゅっと眉をしかめて唇を開いたが、それでも声は漏らさなかった。  
熱くて細い指が手に絡められた。イヴァンの手を引き離そうとしながら、彼女は早口に訴えた。  
「…だめ………廊下に…」  
「ああ」  
イヴァンは納得した。衛兵に聞かれるのが恥ずかしいのだ。  
もったいない気がするが、彼女が声を出したくないなら仕方なかろう。ゆっくりと両手を離した。  
 
ナタリーが片腕をイヴァンの首にかけて、身を捩るようにして振り向いた。  
両方の腕を廻してぴったりとくっつき、夢でも見ているような視線で見上げてくる。  
潤んだ瞳に切な気な眉、上気した頬、うっすらと開いて紅みを帯びた唇。  
頭に巻き付けていた髪ももうほとんどが崩れ落ち、頬から耳朶、肩から背中、そして胸を絶妙のバランスでちらほらと隠している。  
胴衣は床に滑り失せ、シャツの袖が片方、ほっそりした腕にひっかかっているのが妙にイヴァンを煽り立てた。  
「…あなたの服も」  
もっと躯をすり寄せてきたナタリーの甘い吐息が喉にかかった。すんなりとした腕が動く。  
どうやら珍しくも彼女の手で脱がせてもらえるらしい。  
 
今回の彗星は大きい、と彼はぞくぞくしつつ感動した。  
 
「それは嬉しいんだが」  
イヴァンは彼女に囁いた。  
「聞かれたくないんだろう。我慢できるか?…手加減はできそうにない。二週間ぶりなんだ」  
この女を愛したかった。あの時のような陵辱ではなく。  
ナタリーの指が上着に潜り、器用にボタンを外していく。  
「大丈夫よ…きっと」  
上着を外し、シャツを肩から滑らせて、ナタリーはズボンにとりかかった。  
「そうかな」  
彼女に協力して腰を浮かせ、躯に触れる柔らかい指や髪を愉しんでいたイヴァンは息を呑んだ。  
 
敏感な先端にいきなり、蕩けるくらいに官能的な感触。  
熱い雫のような濡れた舌が触れ、幹に指が巻きついていく気配。  
イヴァンはぎくしゃくと視線を下腹部に向けた。  
細い肩がすっぽり太腿の間におさまり、金褐色に輝く髪が臍から下を覆っている。  
その隙間から睫を伏せて上気した綺麗な顔がわずかに覗き、せっせと舌を動かしているかたちのいい唇も見えた。  
結構開いたその間に挟まれて嬉しそうに屹立しているのは見慣れた我がモノであり、その情景を見ただけで腰から一気に力が抜けそうになった。  
彼女のしなやかな背中からくびれた胴、小さめの尻が軽く揺れている。  
「お」  
イヴァンは呻いた。  
お世辞にも上手とはいえない。だが、その下手くそさと懸命さ加減がたまらなく興奮と感動を呼ぶタイプの愛撫だ。  
しかも、これをしているのはナタリー。  
ナタリー。  
ナタリー。  
 
「う」  
イヴァンは再び呻き、視線をこのあまりに扇情的な情景から離そうと試みた。見ているとそれだけでどうにかなりそうだ。  
だがもったいなくて目が離せない。これを見ていなかったら一生後悔する、と思う。  
ナタリーは加減がわからないようだった。強めに吸い付かれてイヴァンはまた短い声を漏らす。  
彼女が顔をちらりとあげて、イヴァンの反応を見た。顔を歪めて見返すと、ひどく幸せそうに微笑する。  
その唇には唾液とイヴァンのモノから垂れている液体がぬらぬらと輝いていて、淫猥というかけなげというか、もうどう考えていいのか彼にはわからない。  
ただ、とにかく彼女が可愛かった。  
 
「ナタリー……やめろ」  
彼は命じた。  
ナタリーは上半身を起こした。こくんとかすかな音をたてて口に溜まった液体を呑み込み、舌で唇をちょっと舐めて綺麗にした。  
それを見ているだけで脊椎にざわざわと刺激が走る。これで上下運動でもされた暁にはあっけなく漏らしてしまいそうだと思う。  
「…………おいや?」  
「いやじゃない」  
即答し、イヴァンは彼女の肩を捕まえてずるずると引き上げた。  
「そのへんで勘弁してくれ、イきそうになる」  
「それでもいいのに」  
無邪気なほどあっさり彼女は囁いてイヴァンの胸に抱きついた。  
イヴァンは溜め息をついた。  
「いや…どうせならお前の中がいい」  
ナタリーが顔をあげた。  
「陛下のご命令だから?」  
「違うと言うのに」  
よっぽど厭な顔になったらしい。ナタリーが笑った。  
 
「お前、どこで聞いたんだ、このやり方」  
素朴な疑問を抱いたイヴァンは、彼女の躯をそっと横たえながら尋ねた。ナタリーにまだこれを仕込んだ覚えはない。  
「あの本に、ちゃんと書いてありましたわ」  
ナタリーは優等生めいた表情で答えた。イヴァンがいつぞや無理矢理一度だけ読ませた房事の指南書のことである。  
だろうな、とイヴァンは納得する。  
「よしよし、ちゃんと覚えていて偉いぞ」  
褒めると彼女は得意そうな顔になり、イヴァンに抱きついてきてくれた。  
そのほっそりした胴を抱いて、イヴァンは低く囁いた。  
「……お礼にオレもしてやろうか…?」  
「だめ!」  
ナタリーは即座に拒絶してさっと腕を伸ばした。彼女の耳朶にしようとしていたキスが空振りに終わった。  
「なぜだ」  
尋ねるとナタリーは赤くなった。  
「あ、あなたは…お上手、ですから……声…我慢できません」  
にやにやと崩れそうな頬を危うくひきしめて、イヴァンは頷いた。  
「そうか」  
ナタリーは肘を折り、イヴァンを抱き寄せた。  
抱き寄せられるままに密着して、彼は首すじや鎖骨にキスをはじめた。両手で感じやすい脇腹から腰のあたりを愛撫する。  
「…それより、いらして…早く」  
「ああ」  
 
なんとなく、ナタリーの焦る気持ちがわかるような気がする。  
この二週間というもの、イヴァンが戻らず、状況もわからず、きっと彼女はひどく寂しい思いをしたのだろう。  
肌を触れ合わせることで、夫を確かに感じ取りたいに違いない。  
たぶんそうだ。イヴァンも同じ気持ちだから。  
 
イヴァンは彼女の腿に掌を滑らせ、膝をつくと滑らかなその間に割って入った。  
「ナタリー」  
名前を呼んでやると、彼女は潤んだ瞳をうっすらと閉じて、上気した頬を磨き抜かれた執務机の表面に背けた。  
細い腰の下に掌を差し入れて浮かせ気味にし、彼は躯を押し入れた。  
「あ…」  
ナタリーの横顔の、柔らかそうな唇が開いて、彼女は小さく声を漏らした。  
「しっ…」  
イヴァンは小さく呟き、ゆっくりとした動きでさらに彼女の腰の奥に侵入した。  
熱い、甘い、複雑な彼女の女の場所がイヴァンを拒みつつ迎え入れる。  
潤いが溢れそうだった。  
奥までおさめると、彼女の背に指を滑らせてきつく抱きしめた。  
「ん」  
彼の腕に押し付けていた指先をかるくまるめて、彼女は気を逸らそうと努力している様子を見せた。  
顔を頼りなく反対側に巡らせて喘ぎ、その途中、イヴァンとかすかに視線があった。  
ぴく、と彼女が反応したのがわかった。  
「イヴァン様…」  
「気持ちがいい、ナタリー……存分に、動きたいな」  
イヴァンが呟くと、ナタリーは綺麗に染まった肩先をくねらせた。  
「…廊下に……聞こえます……」  
「…そんなに聞こえない気も、するぞ」  
イヴァンは微笑した。  
少し彼女が辛そうなので、クッションがわりに近くにあった年代物の書類の束を掴んで、しっとりと汗ばんだ腰の下に押し込んだ。  
「…そんな事して…いいの…?」  
「どうせ誰も読まない」  
イヴァンは腰をゆっくりとひき、ナタリーを喘がせた。  
密着していた上体を起こし、じれったいくらいに静かに動きつつ彼女を眺める。  
彼が押し上げるたびにすんなりした躯ごと持ち上げられながら、イヴァンを見つめている上気したナタリーはとても可愛かった。  
「んっ…ん…」  
睫を震わせ、声を殺し、イヴァンの腕にしがみつくようにして応える。  
 
片手を、動きに合わせて揺れている乳房に滑らせて先端を摘むと、ナタリーは小さくのけぞった。  
「あっ…」  
怒ろうか、それともどうしようかと迷ったような微妙な角度に眉を寄せて、彼女はイヴァンを甘く睨んだ。  
「…だめよ……」  
「そうだな」  
するりと口に含んだ。びく、と彼女の背がはっきりと弓なりになった。  
「……っ…」  
それがつんと尖るまで責めておもむろに唇を離し、イヴァンは、必死で声を抑え、肩で息をしているナタリーを無責任に褒めた。  
「ちゃんと我慢して偉いぞ。これなら、大丈夫だ…いいよな?」  
「だ、だ…め、あっ、あああああっ!」  
ナタリーはイヴァンにがっしり抱え込まれ、深々と貫かれて絶叫した。  
細くて甘やかで、はっきりとそういう声だとわかるような艶めかしい啼き声である。  
「…おい、聞こえたぞ今のは」  
イヴァンは荒っぽく動きながら囁いた。  
「…んっ、あ…し、知らな…っ、やっ、やっ…やぁ…」  
うってかわった『いつものイヴァン』を、ナタリーは、だが押しやろうとはしなかった。  
その背に腕を絡め、腰をうねらせて、喘ぎながら脚も巻き付ける。  
 
「ナタリー…」  
イヴァンは優しく囁いた。  
「お前が大好きだ」  
「私も…」  
 
羊皮紙の匂い、汗の匂い、それからナタリーの匂い。  
抽送を早め、ナタリーの艶かしい姿を見、その肌に溺れ、可愛い声を聞く。  
ナタリーが彼にすがりつき、「ああ…」と、弱々しく喘いだ。  
イヴァンを締め付けている襞肉が、幾度も幾度も、たまらなく気持ちよく収縮した。  
「ナタリー」  
くたくたと幸せそうに力が抜けてゆく妃の躯を力任せに抱きしめると、イヴァンは、二週間ぶりに、大満足の射精をした。  
 
*  
 
「だから」  
 
元通りきりっとした小姓姿に戻ったナタリーに衣装を整えるのを手伝ってもらいながら、イヴァンは言った。  
「気にするな、ナタリー」  
ナタリーは頬を赤らめていたが、あきらめたように吐息をついて頷いた。  
「…聞こえて…ないかも、しれませんものね…?」  
「そうだ。聞こえていたとしてもあの親父にさえバレなければ心配はない」  
 
そのへんが生まれついての王族のこの人とそうでない私の違いなのかしら、とナタリーは理解に苦しむ目つきでイヴァンを眺めた。  
彼女は顔から火が出そうなほど恥ずかしいのだが、イヴァンは衛兵長がどう思おうが平気らしい。  
ナタリーが思い悩んでいると、身繕いを終えたイヴァンは大声をあげた。  
「おい!入れ」  
ナタリーは、慌てて頭の帽子を確認し、書類箱を抱えた。中にはイヴァンが適当に選んだ決済済みの書類が入っている。  
扉が開く寸前、イヴァンは彼女に低い声で囁いた。  
「再来週までは、女の格好をしておとなしくしてろよ」  
「はい」  
たっぷり愛されたからか、不安な気持ちは消えていた。  
「安心なさって、イヴァン様」  
イヴァンはにやっと笑って扉に視線を向けた。  
 
巨大な衛兵長が現れ、敬礼をした。  
心なしかその指先が震えている。  
ぎこちない敬礼である。  
「し、失礼いたします…!」  
帽子の下のいかつい顔は赤く、しかもあらぬ方角に視線を向けつつ、同じ側の手足をいっぺんに動かしながらぎくしゃくと机に近づいてくる。  
「…………」  
「…………」  
イヴァンとナタリーは横目で互いの顔を見た。  
あからさまに、たぶんそうだ。  
 
「おい」  
イヴァンが声をかけると衛兵長は飛び上がった。  
「…はっ!」  
「さっき、何か聞こえたか?」  
衛兵長はナタリーに一瞬目をむけかけたが茹で上がるほどに赤くなり、風車の如く首を振った。  
「いえ!私めは何も…!!おおおおお妃様のおおおおおおおおおお声など…!!」  
「そーか」  
ナタリーは死にたくなったが、イヴァンは平然と頷いた。  
「その通り。お前は何も聞かなかった。男装までして忍んできたこれをけなげと思うなら、父にはそう報告しろ」  
「はっ!」  
 
「で」  
イヴァンが声を潜めた。  
「まさか覗いたりはしなかったろうな」  
ナタリーが固まっていると、衛兵長は必死の面持ちで否定した。  
「いいえ!漏れ聞こえましたのは、ななななんともいえぬお妃様のおおおお声だけ、あとは若い部下共を決して寄せ付けぬよう、  
階段付近で頑張っておりましたので…!!決して、決してそのような恐れ多い、不敬な、不届きな……!!!」  
緊張のあまり、自分が何をどう喋っているのかよくわかってないらしい。  
「そーか」  
イヴァンは偉そうにふんぞりかえった。  
「貴婦人への配慮に感謝する。やはりお前は大物だな」  
「も、もったいないお言葉…!!」  
「その騎士道精神を見込んで、これを館まで警護してもらいたい」  
イヴァンはちらりとナタリーを見た。  
「少々無鉄砲でな。お前なら安心して任せられそうだ」  
「ははっ!!」  
なぜか感激している衛兵長の姿を呆れてみていたナタリーは、イヴァンが肩をすくめたのに気付いた。  
「立派な男で、良かったな」  
そんな単純な話なのだろうか。  
深い疑惑を覚えるナタリーに、イヴァンはすっきりとした顔でひらひらと手を振った。  
「愉しかった。再来週、また逢おう」  
「…………………」  
 
腫れ物に触るように緊張している衛兵長と、なんだか複雑な顔のナタリーを見送って、イヴァンは部屋の床に目を戻した。  
散乱したままの決済待ちの羊皮紙の束は、さっきから我を失った衛兵長が巨体で踏みつけていたのでぐしゃぐしゃになっている。  
あの男が戻って来たら責任をとらせようと彼はひどい事を考え、椅子に座って脚をあげ、  
机の書類に靴の踵をおくと窓からいつの間にやら暮れかけている空に目をやった。  
 
これで子供ができれば身勝手な父母は喜ぶだろうが、たとえできなくても仕方ない。  
もう数年もすれば姉妹の誰かが結婚し、なんとか一人ぐらい子供を産むかもしれぬ。  
ナタリーがいれば彼はそれでいい。  
 
自分と妃が総計十一人の子供に恵まれる事など予測もつかないこの未来の国王は、にやにやしながらさっきの情事を反芻していた。  
再来週にも彗星が来るといいが、などと考えているのだ。  
重要書類に踵の痕がついているのも気にしていない。  
父王が見たら泣くだろう。  
だが信じられないだろうが、後世歴史を学んだ者は承知の通り、  
実はこのいい加減な男であるイヴァンの治世の間が一番国は繁栄していたりする。  
 
とある王国の平和な一日が今日も終わる。  
これも王子の人徳のお陰かもしれない(違う)。  
 
 
 
おわり  
 

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