とある王国。  
このあたりでは一番豊かな国であるが、当然ながら、国境紛争貿易摩擦不平分子飢饉王権と教会の権力抗争と、ありがちな火種を周辺国同様に抱えている。  
だがここ2年弱ほどは平和な、とりあえず大過なき日々が続いていた。  
 
国王夫妻の頭痛の種だった、有能だが女癖に問題のあった跡継ぎの王子イヴァンは先月初めに妃を娶ってようやく身を固め、ますますめでたい今日この頃。  
あれだけいい加減な男だったのに妃は随分お気に入りらしく、女漁りもぴたりとやみ、夫婦の仲は睦まじい。  
しかもこの妃は清楚な雰囲気の美女の上、若い身空でしっかり者という事で臣民からの評判も悪くない。  
 
なんの不満もない状況のはずだったが、老王の眉間には、このところなぜだか常時縦筋が刻まれていた。  
 
*  
 
イヴァンは近従を連れ、王宮の、冬枯れをはじめた中庭の通路を歩いていた。  
婚礼以来なにかと忙しくて、ここ二日ほど自分の離宮には戻っていない。  
だがそれも今日までの話、今からいそいそと馬をとばして我が家に戻るつもりだ。  
 
彼が戻ればナタリーがさぞかし喜ぶことだろう。  
 
抱きついてくる彼女の暖かみを想像しその後二日ぶりの寝室での彼女の歓迎ぶりを妄想したりしてにんまりなんかしちゃったりして、  
まさに蜜月の夫の気分を遺憾なく満喫していた彼の耳に、突如不吉な声が轟いた。  
 
「ここにおったか、イヴァン!」  
 
イヴァンは聞こえないふりをし、足を速めて行き過ぎようとした。  
だが、回廊の柱の影から現れた父王はそうはさせじと素早く息子の袖を掴んだ。  
年を取ってもこの父はかつては戦場では武勇を謳われた騎士だったので、いったんがっちりと捕まると若いイヴァンでも振り解くには往生する。  
うかつだった。  
イヴァンは後悔した。  
王の執務室から離れた道を辿ったつもりだったが、最近父母を回避しているイヴァンの行動はしっかり分析されていた様子である。  
 
「王妃のところへ行くのか?よしよし、わしも一緒に」  
誰が、とイヴァンは思ったが口角を持ち上げて愛想よく笑ってみせた。  
「退出のご挨拶だけです。父上のところにはその後…」  
「ではちょうどいっぺんに片付いて良いではないか。さあ、ゆくぞ」  
王はイヴァンの袖を掴んだまま、年寄りとは思えぬ速度で城の奥の階段に向かって進みはじめた。  
二人の従者たちが慌ててその後をついて走った。  
 
イヴァンの母、つまり王妃の居室は城の奥棟の二階にある。  
イヴァンを掴んだ王が、扉を開けた侍女を突き飛ばさんばかりの勢いで部屋に入ってくると、王妃は喜色を満面に浮かべて椅子から立ち上がった。  
「まあ、イヴァン!よく来てくれましたね」  
王は得意げに胸を反らした。  
「うむ。逃げようとしておったのをわしがこの手で捕まえた。これ、お前たち。よいと言うまでは部屋を出ておれ」  
自ら侍従や侍女を追い出して扉をがっちりと後ろ手に閉めると、王の顔はみるみる苦虫をかみつぶしたようなそれに変化した。  
「イヴァンよ。そこに座れ」  
「そうですよ。さあ、おくつろぎなさい」  
王妃の指さした華奢な椅子に仕方なく腰をおろしつつ、イヴァンはくつろぐのは無理だと考えた。  
王の顔は屋上屋根のガーゴイルにそのまま髭を生やしたようだし、王妃の顔はこれから息子に泣きつき掻き口説く楽しみに輝き渡っている。  
父王は王妃を娶ったのが遅かったから実際若めの母なのだがそれでもいつもより確かに十歳は若返ってみえる。  
そんなに興味のある話題なのか。  
イヴァンは心中ため息をつく。  
 
「他ではない。お前の妃の事だが」  
王が重々しく話し始めたのを、イヴァンは急いで遮った。  
「あれは元気ですよ。先日も私と一緒に遠駆けを…」  
 
「乱暴者のお前と遠駆けですって?」  
瞬時に青ざめた王妃が叫んだ。  
「なんて危ない!イヴァン、とめなくては駄目じゃないの」  
「いや、ですがナタリーの馬術は私と変わらぬくらい…」  
「あれが元気なのはわかっておる。名手のお前についていけるほど乗馬が得意な事もな」  
王は唸った。  
「わしの耳はよく聞こえるのだ」  
館に親父の密偵がいるな、とイヴァンは内心不機嫌になる。  
戻ったら洗い出しに力を注がねば。  
 
「でな、イヴァン。それでわしらは余計に心配なのだ」  
王はイヴァンの肩に手をかけた。  
「それほど元気で活発だというのに、あれにはまだ、懐妊の兆しはいっこうにないのだろう?」  
王妃も熱心にイヴァンを見つめた。  
イヴァンは心底うんざりした。  
案の定この話題だ。  
「まだです」  
声がぶっきらぼうになったが、気にしてはいられない。  
思い起こせば、すでに婚礼前から父母との間でこの話題が頻出していたような気がする。  
 
父王は若い頃から女っ気もなく戦場に明け暮れ、イヴァンの母を王妃として娶ったのはすでに中年を越えた頃であった。  
他国から娶ったとはいうものの、この国の王室出身の母を持つ妻とはかなり濃い血縁関係にあったためか、なかなか子供に恵まれなかった。  
やっと生まれた王子も次々と夭折し、イヴァンは正式には王子としては三番目になるのだが、無事に育った息子は彼一人であって他の四人は全て王女。  
しかもイヴァンの姉妹たちは全員、持病や生来の病弱でたびたび床に伏せる、という事情があった。  
息子と違って堅物の父王はその身分にも関わらず愛妾を持たなかった。  
実際、跡継ぎの心配のため王妃以外の女を持つ気にもならなかったのだろう。イヴァンとは別の意味で王族には珍しい男である。  
そのような苦難の時期を乗り切ってきた老王には、この、唯一逞しく育った息子が若くして無事に妃を得たからにはぜひとも言って聞かせたい事があるのだった。  
 
「イヴァン、お前」  
父は息子を凝視した。  
「まだ早いと思って、果たすべき努力を怠っておるのではなかろうな」  
イヴァンは首を振った。  
「ご心配には及びません」  
「心配にもなります」  
王妃がため息をついた。  
「昔の私同様、早く身ごもらないと、周囲にせっつかれてつらい思いをするのはナタリーなのですよ、イヴァン」  
せっついているのは自分たちだろう、と、イヴァンは内心突っ込んだ。  
が、口に出してはこう言った。  
「婚礼からたったひと月しかたっておりません。ごちゃごちゃとうるさく言うのはやめていただきた」  
「たったひと月だと?ふん!」  
イヴァンの言葉を遮って王が大声を出した。  
「しらじらしい。その前からお前はあれを好き放題にしておったろうが」  
イヴァンは思わず絶句した。  
「そうですよ。神様のお恵みで嫌われもせず無事に妃にできたから良かったものの、イヴァン、お前のそういうところ、一体誰に似たのかしらねえ…」  
王妃が追い打ちをかけた。  
「わしには似とらんぞ」  
王が再び唸った。  
「私も身持ちは堅うございます」  
王妃もきっぱりと言った。  
夫妻は頷きあい、非難がましい目つきで息子を眺めた。  
 
「…私のかつての行状で、父上母上にはさぞかしご心労をおかけし」  
とりあえずこの場をなんとか逃れるしかないと腹を括り、神妙に謝りかけたイヴァンの耳をさらなる怒声が襲った。  
戦場で鍛えた胴間声は、油断すると物理的な衝撃を受けてよろめきそうなほどの迫力である。  
「わしが案じておるのはそういう事ではない、イヴァン!」  
「そうですよ!」  
王妃が身を乗り出した。  
「お前が、婚礼前からしつこく可愛がっていたにも関わらず、未だにナタリーに子供を授けることができないのが心配だと陛下は仰っているのです。どうなのイヴァン!」  
「はあ」  
 
イヴァンは目を瞬いた。  
この二人がどういう思考回路をしているのか、我が実の父母ながらわからなくなる。  
「ですがこればかりは…えー、双方の体調や巡り合わせの問題などもあるのではないかと思いますので、焦らずともそのうちに多分…」  
 
「「甘い!」」  
 
王の咆吼と王妃の金切り声が同調した。  
鼓膜がつーんとして思わず耳を抑えたイヴァンの肘をむんずと掴み、老王は真剣な顔で迫った。  
「わしは子作りでは散々苦労してきた。そのわしの言葉を聞け。良いかイヴァン、王の究極の義務は何だと思う。  
民を護る?先祖伝来の領土を拡げる?違う。子孫を残すことじゃ」  
もの凄い極論である。  
「やっとの思いでお前という元気な王子が授かって」  
王妃は泣いている。  
「無事に大きくなってくれて、陛下がお元気なうちにとお見合い相手をいくら押し付けてもお前ときたら。いつまでたっても結婚もせずとっかえひっかえの女狂い…」  
ちょっと待てオレはまだ23だとイヴァンは主張したいが口を挟む間もなく王が続けた。  
「お前が散々女遊びをしておるのを苦々しく思いつつも、止めなかったのはなぜだと思う」  
「……さあ」  
「わしとこれは」  
王は王妃に顔を向けた。  
「血が近い。その不都合が子作りにも影響したのだと、昔侍医どもが言うておった。  
…そっちの方面の不都合が一見健康で聡明なお前にも出ておらんとは限らんからな、黙って様子を見ておったのだ」  
「そうしたら…案の定でしたわね。ねえ陛下」  
「うむ」  
苦渋に満ちた表情で国王夫妻は頷きあい、揃ってゆっくりとイヴァンに視線を向けた。  
 
我知らず寒気を覚えたイヴァンに、王は言った。  
「お前、あれだけ見境なく女を抱いておって、一度もおかしいとは思わなんだか」  
「は?」  
王妃がじれったげに口を添えた。  
「どの女も妊娠しなかったでしょう?イヴァン」  
「…………………」  
イヴァンは何度目かはわからないが、またもや固まった。  
確かにナタリーに出会うまでは、素人玄人生娘人妻年上年下お構いなく、相手の顔どころか数すら覚えてないくらい女と遊んできたのだが、誰も妊娠しただのあなたの子供ができただのと、事後に彼に言ってきたことはない。  
だが。  
この、跡取り息子が関係した女の後日を一人残らず調べ上げているらしいめちゃくちゃ暇…いや、恐ろしく物好き…いやいや、はっきり言って過干渉極まりない国王夫妻といえども把握していない事がただ一つある。  
イヴァンは、確かにいいわけのきかないくらい女癖が悪かったのだが、誰彼かまわず最後に、まあそのつまり、中で発射した事はなかった。  
よっぽどせっぱ詰まっていたか、体調が悪かったか、はたまたナタリーの場合のように相手も相手の躯も非常に好みでとことん楽しみたくなったかのいずれかで──。  
(……)  
イヴァンのこめかみから汗が伝わり落ちた。  
──に、しても確かに。  
やはり、父母の指摘をばかばかしいと切り捨てるには少しためらわざるを得ない。  
ナタリーが知ったら口を利いてくれなくなること確実だが、思えば結構発射している、かも知れない。  
なにせ数が数だから。  
 
その様子を見ていた父王が肩をすくめた。  
「見ろ、王妃よ。思い当たる節があるようじゃ」  
「情けない子ねえ。本当に、たった一人の元気な息子だと思ってこれまで甘やかし過ぎたんですわ」  
王妃はハンカチで上品に鼻をかみ、思い直したように続けた。  
「…それでね、イヴァン。侍医長のポッシュの言うには、いつまでもナタリーが懐妊しないのはあの子の実家の父母どちらの血筋から見ても、たぶんお前のほうに問題があるんじゃないかって」  
どこまで自分たちのプライバシーが王宮にだだ漏れになっているのかと、イヴァンの頭はずきずきし始めた。  
王がしんみりと言った。  
「お前も王家の血の因果でわしに似て、まあ、この際だから腹を割って話すがなイヴァン。やや子種が薄い傾向にあるのではないかとポッシュは憂いておる」  
このまま椅子を蹴倒してこの場から脱走できればどんなに気分爽快だろうとイヴァンは考えたが、その考えを察したらしい王妃が椅子の肘掛けに手を置いてじぃっと彼を眺めた。  
「しっかりとお聞き、イヴァン。これは大事な話なのよ」  
「その通り。お前たちだけではない。国の行く末がかかっておるのだ」  
 
*  
 
「で」  
 
しばらくしてイヴァンは平坦な声で沈黙を破った。  
「つまり、私に何を仰りたいと」  
「うむ」  
老王は気遣わしげに息子を見た。  
「つかぬ事を尋ねるがな、イヴァン──」  
イヴァンは肩をすくめた。これ以上どんなつかぬ事があるのか疑問である。  
 
王は非常に言いにくそうだったが、ついに口を開いた。  
「──その、あれとは普段、どのくらい…いたしておるのかな」  
「……は?」  
イヴァンの返事が間抜けなものだったにも関わらず王も王妃も真剣そのものだった。  
「どの…くらい…とは…どのくらい、という意味ですか父上」  
「うむ。褥を共にする頻度よ。興味本位で聞いておるのではない。そこが肝要じゃ」  
イヴァンは無理矢理唾を飲み込み、機械的に答えた。  
「決めているわけではありませんが。共にいる時には、まあ、それなりに」  
「ふむ。では、週に二度くらいかの」  
王の顔は真剣で、跡継ぎ息子をからかっている様子は皆無である。でなければ父といえど許さんと考えつつイヴァンは咳払いした。  
「…三度くらいかと」  
実はナタリーの都合の良いときには連夜の如く抱いているのだが、そこまで正直に申告する義理はない。  
「なんだと」  
王は衝撃を受けたように唸った。  
「よいかイヴァン、これもかつて侍医がわしに言うた受け売りだが、子作りの目的に欲は厳禁ぞ。度が過ぎると一回のうちの種がますます薄くなるのだ」  
「陛下の仰る通りです。イヴァンや」  
王妃も眉をひそめた。  
「夫婦睦まじいのは良い事ですが、それもこれも、まずは和子をなすという王族の義務を果たしてからにおし」  
 
「義務?」  
イヴァンはもはやまともに聞く気にすらならなかった。  
「ナタリーを義務で抱かねばならぬのですか?」  
「その通り」  
王の声は急に威厳と重みを増した。  
「王として命ずる。子孫繁栄のため、しばし王宮に留まり禁欲せい。妃の元に戻るのは三週間後じゃ」  
 
イヴァンはついに椅子を蹴倒して立ち上がった。三週間と聞いて形相が変わっている。  
「従いかねる。オレはオレの家に戻る!」  
我侭男の地金剥き出しに口ぶりをがらりと変えて大声で怒鳴り、イヴァンは踵を返して扉に突進した。  
優美な彫刻が施された扉を蹴って開けたところで彼は立ち止まった。  
衛兵が十数名、緊張加減の面持ちで階段ホールへの廊下を分厚い胸で塞ぐように列をなして居並んでいる。  
素手だが屈強な男たちばかり。  
いかな成人男子でも一人では突破のしようがない。  
 
その全員が父直属の精鋭である事を確認し、イヴァンは腕を組んだ。  
口をひん曲げ、彼はゆっくり振り向いた。  
「……本気のようですな、父上」  
「ここはわしの城だからな、イヴァン。客は主人の言う事を聞いておとなしくしておるものじゃ」  
王は王妃と腕を組みながら、してやったりというふうに、初めてにやりと笑った。  
 
*  
 
……イヴァンがかつての居室に閉じこめられ、  
父の王宮に無理矢理留め置かれて十日が過ぎた。  
 
彼とてむざむざと軟禁されていたわけではない。  
なんとか隙を見て逃げ失せようとしたのだが、昼も夜も、鉄壁の警備ぶりには隙がなかった。  
廊下ばかりか窓の下の、むかし夜遊びの際に利用した細い石畳の通路までちゃんと完全武装の衛兵が二十四時間、交替で見張っている。  
食事を運んでくるのも年輩の女官などではなく頑丈そうな兵士だし、相当警戒されている様子である。  
国王夫妻の懸念は自分たちのかつての苦悩を反映した真剣なもののようだったが、はっきり言ってこの処置は新婚ほやほやの我儘息子には迷惑千万なだけだった。  
 
イヴァンは檻の中の熊さながら、自室の床を円を描いて歩き回っていた。  
考えれば考えるほど腹が立つ話である。  
種が薄いのなんのと、調べもしないで無礼きわまりない話だ。  
 
「待てよ」  
イヴァンは立ち止まった。  
 
独身の頃も三日とあげず女に触れていたのではあるが、二度三度と続けて抱いた女はいない。  
ドライというかいい加減というか、一旦欲望を満たすとすぐにほかの女に流れていたので、考えてみればナタリーが、彼が継続的な関係を結ぶ初めての相手なわけだ。  
しかも、もう浮気はしないとイヴァンは彼女に約束した。  
たとえ子種云々が本当だったとしても(父の話だと可能性は高いらしいが)、彼女の都合や、例えば先日の如く仕事で抱けない夜は今後いくらでも訪れてくるわけである。  
いくらなんでも、婚礼からわずか1カ月でこのように強引に隔離される事はないだろうと思う。  
彼は23で、妃に至っては18そこそこで、ややこしい血のしがらみもなく、40の坂を越してようやく血族から妃を娶った父とは全く事情が違うのである。  
 
──やはりあの無闇にせっかちな両親が悪い。  
 
余計頭にきたイヴァンは不毛な旋回運動を再開した。  
あれから何日だ?  
十日だ。  
彼が戻らず、ナタリーはさぞかし心配していることだろう。  
彼女とこれほど長い間離れていた事はまだなかった。  
 
…そう。  
妃が心配する、とイヴァンが抗議すると、  
「わしの企みに抜かりはないわ。お前が流行病にかかったゆえ治るまで心配するなとあれには言うておいた、安心するがよい」と父王は素早く答えた。  
ではせめて彼女に手紙を届けてほしいと主張すると、  
「何を書くかわかったものではない」と拒否された。  
部屋に閉じこめられていては退屈すぎて心身とともに頭が腐りそうだ、と嫌がらせを言うと、  
「それはいかんな。…おお、ちょうど良い機会じゃ。この際将来のため、みっちりと治世の勉強でもしておけ」と山のような勅令集に書物に地図に統計資料に議会の記録が届けられた。  
広い執務机の表面が埋め尽くされ、載りきらない書類が周囲を即席の峻険と化してとり囲まんばかりの量である。  
皮と石灰と埃と湿気の入り交じった古紙独特の匂いが部屋一面に立ちこめ、一部をめくって見てみると、父や祖父の代のものばかりではない手ずれた資料がかなり混じっているらしい。  
王の命でとにかく一切合切持ち込んだに違いない。  
史料編纂の係官ではあるまいし、九十年以上も前の先祖の業績を詳しく知って今の自分に何の意味があるのかイヴァンにはさっぱりわからない。  
 
しかもこの文書類は日々増殖を重ねている。  
跡取り息子が王宮にいる間に代理としてこき使って楽をしようと思いついたらしい父王が、一週間ほど前から、認証決裁の必要な政府の書類を回し始めたのだ。  
「わしももう年じゃでな。ああ早く楽隠居がしたい」  
王はさも弱々しげに呟き、言とは裏腹な強い視線でイヴァンをじろりと睨んだ。  
「それゆえ早く孫の顔が見とうもなる。ここが辛抱じゃ、逃げるなよイヴァン」  
 
イヴァンは歩きまわりながら父の顔を思い出してムカムカし、机の傍を通りかかるたびに掌で重要書類の山を乱暴に払い落とした。  
机の角を中心にした床に円形に羊皮紙が散らばり、手を伸ばしても山に届かなくなって益々イライラが募りはじめた頃、扉の向こうから聞き飽きた武骨な男の声がかけられた。  
 
「イヴァン様。本日の書類をお持ちしました」  
 
「要らん!持ってくるな!」  
イヴァンは怒鳴ったが、扉はさっと開き、大きな書類箱を抱えた衛兵長と、事案集らしき綴りの束を捧げ持った小姓が入ってきた。  
「では替わりに、すでに決裁がお済みの書類を戴いてまいり…」  
そこまで言って衛兵長は床一面に派手に散らばった羊皮紙の束を見渡して語尾を濁した。  
脇をむいて小姓に言いつける。  
「…お集めせよ」  
小姓は頷いて本を置き、丁寧に床の書類を集め始めた。  
 
イヴァンはふてくされ、足音荒く執務机の椅子に向かうと、どかっと腰をおろした。  
机の上は見飽きた書類の山ばかりなのですぐに目を逸らし、見るともなく、作業している小姓の小柄な背に雑に視線を流す。  
 
その目が細まり、釘にでもひっかかったように視線が固定した。  
瞳の色が鮮やかさを増し、急激に活き活きとした表情を取り戻す。  
イヴァンは素早く足のつま先に体重をかけ、執務机に肘をついた。  
獲物を発見した猫そっくりの体勢である。  
 
肘をついた両手を組み、しきりに指を捻りあわせながら彼はちらりと、手持ちぶさたに立ちつくしている衛兵長を横目で眺めた。  
 
イヴァンはいきなり大声を出した。  
「いかん」  
勢い良く立ち上がり、彼は大きな執務机を回ると散乱した書類に近づいた。  
小姓の傍らに片膝をつく。  
「この中に重要な命令書があったのを忘れていた。オレも手伝う」  
「イヴァン様、そのような手伝いでしたらこの私が!」  
世継ぎの王子を止めようと慌てて巨大な体をかがめかけた衛兵長をイヴァンは怒鳴りつけた。  
「極秘書類なんだ。お前は見てはいかん。──教養があり、字が読めるからな」  
「は…」  
イヴァンは小姓に顎をしゃくった。  
「とるにたらんこの者ならば平気だ。全部集めたら封をして持たせるから、そうだな、大物のお前は廊下に出て待っていろ」  
「はっ」  
プライドをくすぐられ、必要以上に表情を引き締めた衛兵長は立ち上がり、見事な敬礼をした。  
 
彼が出ていく後ろ姿を見送っていたイヴァンは、扉がしまるやいなや傍らの小姓に飛びついた。  
「ナタリー!」  
「しっ!」  
小柄な小姓…いや、彼の妃は急いで夫の腕を押しとどめ、わざわざ伸び上がって廊下の気配を窺った。  
衛兵長の戻る様子のない事を確認し、彼女は室内用の小姓帽にすっぽり覆われた頭を戻して褐色の瞳を向けた。  
イヴァンはナタリーを抱えるようにして立ち上がった。  
「…イヴァン様、ご無事で良かった!お元気でいらっしゃるのね?  
やっぱり流行病なんかじゃなかったのね?とてもとても心配したのよ!あなた一体何をなさったの?  
いくら陛下にお願いしても取り次いで戴けないし、お手紙を送ってもあなたったらお返事もくださらないし!  
どうしてこんな、衛兵に見張られてお部屋に閉じこめられていらっしゃ…」  
堰を切ったようにナタリーがまくし立てるのをひき寄せて、彼は一言も言わずにその唇を塞いだ。  
喋っているところにいきなりキスされて身をよじった彼の妃は、だがすぐに肩の力を抜き、イヴァンの腕におとなしやかに両手を絡めた。  
「ん…」  
二人は甘く啄み合い、再会の儀式を心ゆくまで行ってから、少し躯を離した。  
 
イヴァンの明るい色の目がナタリーの怪しい衣裳に向かった。  
普段のドレスとは全く違う、しゃんとしたハリのある生地でかっちりと仕立てられた胴衣の喉元に覗いた粋な芥子色のスカーフ。  
短剣なしのベルトを巻いた腰から下は脚に吸い付く細めのズボンと男物の短靴。  
毛織の室内帽を見るまでもなく王宮仕えの小姓そのものの姿である。  
「…なにやら見覚えのある格好だ」  
「そうなの」  
ナタリーは、キスのために紅みの冴えた唇を綻ばせて微笑した。  
「見覚えがおあり?」  
「覚えてるとも」  
あの時は夏だったから今着ているような冬用の上着ではなかったが、彼女がかつてナサニエルなどという男名を称してイヴァンの小姓に潜り込んだ時の格好そのまんまである。  
イヴァンはじろじろと妃を眺め回した。  
「だがあの時はこんな帽子は被っていなかった」  
「だって…」  
ナタリーは帽子をとり、頭に巻き付けている髪を露にした。  
つやつやした金褐色の髪の毛がいく筋もこぼれ落ち、細い肩に流れてうねった。  
端麗だがきりっとした表情の顔だちが豪華な髪で縁取られた途端に繊細な艶かしさを放ち始め、イヴァンは納得した。  
これでは立ち居振る舞いがどうのこうのという前に、即座に女と見破られてしまうに違いない。  
「…せっかくここまでまた伸ばしたのに、今回は切るわけにもいかないでしょう?」  
ナタリーは帽子を小脇に抱え、イヴァンの腕を引っ張った。  
「すぐこちらに来てなんとかあなたにお会いしようとしたけれど、誰も私を通してくれないの。これならと思って…男のふりは昔から得意ですもの」  
一緒に椅子に腰掛けて、ナタリーはじっと彼を見た。  
「…説明してくださる?」  
 
イヴァンがかいつまんでいきさつを説明する間、ナタリーは黙って聞いていた。  
 
「…というわけだ」  
語り終えたイヴァンは立ち上がった。またもや腹が立ち始めたのだ。  
「あの短絡親父め。母上も母上ならポッシュもポッシュだ。誰も止めようとしないとは」  
「イヴァン様」  
穏やかな声に毒気を奪われてイヴァンはナタリーを見下ろした。  
じっと彼を見上げているナタリーの長い髪に窓からの陽射しが反射して、古くさい書類ばかり見ていた視神経が癒される心地がした。  
こうして見ると、この女はやはり結構な美人だなと、彼は一瞬怒りを忘れて内心そう思った。  
くっきりとした頬から顎の線も鮮やかな唇も白い肌も、暖かみのある褐色の瞳のせいで可憐な印象がある。  
そのくせ、小姓のかっちりとした胴衣をおそらくぎりぎりまで内側からおしあげている胸とそこはたぶんぶかぶかのウエスト部分は、  
熟知しているだけにリアルに曲線が想像できて、なまじ普段ドレスで強調されているよりはるかに色っぽかった。  
腰は隠れていて見えないが、上着の裾から流れ出しているすらりと長い脚のラインが美味そうである。  
「…なんだ?」  
イヴァンはナタリーの傍らに身を屈めた。  
「では、まだしばらくはお戻りになるわけにはいかないのですか?」  
「うむ…」  
イヴァンはナタリーをじろじろと見た。そういえばもう二週間近く抱いていない。  
「あの思い込みようではそうなるだろうな。三週間とあの糞親父は言っとった」  
ナタリーは悲しげな表情になり、イヴァンの腕にそっと額をあてた。  
「……再来週までお会いできないの?」  
イヴァンはその頬に反対側の手を滑らせた。  
「…なあ」  
顔をあげたナタリーは、夫と視線が合うと少しうさんくさげに瞳を細めた。  
「ナタリー…」  
「…イヴァン様」  
「ん?」  
「……変な事考えてらっしゃらない?」  
 
「察しがよくて助かるぞ、我が妃よ」  
イヴァンはにこやかに躯を起こすと、ナタリーの腕を掴んで立ち上がらせた。  
「親父が禁じたのは三週間だが、まるまる二週間オレたちは離れていたんだ。これだけ辛抱すれば充分だと思わないか」  
「でも」  
慌てふためいたナタリーは引っ張られている腕を抜こうとした。  
「し…寝室は廊下の向かい側でしょう?衛兵がいるわ」  
「誰が寝室に行くと言った」  
イヴァンは重要書類を踏んづけて、まっすぐに巨大な執務机に向かった。  
片腕を振り回して積み重なった羊皮紙の束を払い落とし、身を乗り出して滑らかで重厚な表面を確保する。  
「あの、まさか」  
ナタリーが怯えたように囁いた。  
「本当に察しがいいなぁ、妃よ」  
イヴァンはにやりと笑い、素早く彼女の胴に腕を巻き付けた。軽いので、半分放るように机の上に抱き上げた。  
そのままイヴァンが押し倒すと、ナタリーは真っ赤になって抵抗した。  
「絶対にイヤ!こんなところ!」  
「寝台ならいいのか」  
イヴァンが彼女の襟からスカーフを抜き取りながら尋ねると、ナタリーはさらに赤くなって口ごもった。  
「……………はい」  
思わずちょっと手を止めて、イヴァンは笑み崩れた。  
「正直でいい」  
「だって、イヴァン様ったらいつも変な場所で私を──」  
「しかしだ、ナタリー」  
イヴァンは彼女の耳元に囁いた。  
「寝台はだめだ。これからするのはいつもの愉しい行為じゃない。仕事だ。義務だ。そうだろう?」  
「え」  
ナタリーがびくっとしてイヴァンに視線を向けた。  
「国のために子作りせねばならん。いいか、今回はオレたちは嫌々やるんだ。目的にはふさわしい場所じゃないか」  
そう言いつつもイヴァンの顔がいつものにやにや笑いを浮かべているのを見て、彼女は眉をよせた。  
安心していいものかどうか迷っているという風情だ。  
「仕事なんだから妖しげな声は出すなよ。お前がここにいることがバレたら厄介だ」  
「イヴァ──」  
イヴァンはナタリーの腰を抱き、抗議の声を唇で塞いだ。  
 

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