どのくらい沈黙が続いたのか。  
灼き折れた丸太がごとん、と短く落ちて熱い灰をふきあげた。  
その小さな音に我を取り戻したように、衛兵長が顔をぐいとあげた。  
 
クロードに向けた青い目は、ぬぐったように不穏な気配が失せ、いつもの平凡な色をしていた。  
「…副長。肋を出せ。足もだ」  
「…あー、あー、あー、あー」  
クロードは苛立たし気に吐き捨てた。  
「忘れてくれたとばかり思ったのによ」  
衛兵長はきっぱりと言った。  
「俺は、忘れん」  
一瞬クロードの碧の目がいかつい顔の奥を探るように鋭くなった。  
が、それ以上余計な口を叩かず向き直ったサディアスの巨体から身を避けようとして彼は立ち上がりかけ、足をかばって転倒した。  
「ってぇっ!」  
クロードは喚いた。  
「おい、大丈夫か」  
サディアスが腰を浮かせた。  
「さ、さっきから、あんたがよけいな事さえしなきゃな。こら、触んな」  
「傷が開いたのか?」  
衛兵長は部下の身を案じるいつもの面倒見のいい表情を浮かべ、ぐいと痩身に近づいた。  
 
*  
 
衛兵長の顎に右の掌をあて、根限り乱暴に押しやる。  
クロードは必死だった。  
「た、頼む。これだけは俺の好きにさせてくれ、サディアス!」  
「包帯を巻いたらな」  
ぐい、とその手首を握って引き離そうとして、サディアスの眉尻が跳ね上がった。  
ぎこちなく首を傾け、握った副長の拳を横目で見た。巨大な掌にすっぽりと隠れて見えない。  
「……?」  
 
「放せ!重い、死ぬ!」  
暴れるクロードをちらと見下ろし、衛兵長は頭を振った。  
自分の全体的なサイズを考えたのだろう。  
「…クロード、そう暴れるな、傷に良くない」  
「あ、暴れずにいられるかっ」  
クロードは青ざめていた。  
その青白い顔に嵌った目が、サディアスの厳しい目とあった。  
「副長、そう我侭を言うものではない。おとなしくしておれ。これは命令だ」  
おさえつけたサディアスの指がボタンを機械的な速さで外していく。  
クロードは漆黒の髪を散らして逆らった。  
「こればっかりは、聞けねぇ!!」  
「聞け!」  
至近距離で咆哮が轟き、炎が揺れた。  
衛兵長に正面から睨みつけられ、クロードは碧い目を見開いて硬直した。  
「いい加減にせよ、副長。思い上がるな」  
 
「…………………………………。ここまで、か」  
 
その声が、目の前の男の喉から出たものだと、サディアスはわからずうろたえた。  
いつもの皮肉をきかせたハリのあるものではなく、暗い、低い声だった。  
「わかった。──好きにしろ」  
クロードは、いきなり全ての力を抜いて床に手足を落とした。  
碧の目だけが、じろりと衛兵長を下からねめあげた。  
「…ただでさえ気苦労が多いのによ、気の毒にな。……腰抜かすンじゃねーぞ」  
それっきり、クロードはふてくされたように目を閉じてしまった。  
 
「気の毒?……」  
衛兵長は口を閉じた。なにはともあれ、手当をさせる気にはなったらしい。  
この機を逃しては、この気難しい副長はまたいつ了承を撤回するやらわかったものではない。  
急いでボタンを全て外し、上着の前を開いた。  
ブラウスも開き、自分と同様前合わせのシャツの紐をほどいて、サディアスは手を止めた。  
 
「なんだ、これは?」  
 
すぐにも裸の胸が現れると思っていたのに、痩身の薄い胸板は、幅広の、それこそ包帯のような布で厳重に巻かれている。  
「副長、怪我をしていたのか?」  
「………」  
クロードは耳が聞こえなくなったようにぴくりとも動かず、反応を返さなかった。  
サディアスはその表面を観察した。  
固く巻き付けた布には血は滲んでおらず、凝固してもいない。まっさらの麻のようだった。  
下端はちょうどあばらの下までを覆っていて、これを解かねば確認はできないと理解したサディアスは、布の端を探した。  
丁度胸正面の上にたくし込んであった。そこに指をつっこみ、クロードの背に反対側の掌を差し込む。  
クロードがかすかにびくりとしたのが掌に伝わったが、眉を寄せ、きっちりと目を閉じたままなのは変わらない。  
 
解いてもいいのだろう、とサディアスは丁寧に布を外し始めた。  
何度もクロードの背を潜らせて布を外していくうちに、衛兵長の青い目は、徐々に薄く、いぶかしげな色へと変わっていった。  
掌に載せた背中は薄かった。  
もともと痩身なのはわかっていたが、お仕着せなしで目の当たりにすると、この背中は男にしては狭くはないか。  
「………」  
サディアスはクロードを支える掌をわずかに滑らせた。  
肩甲骨がそっくりそのまま掌の窪みにおさまり、それで肩幅のだいたいの予測がついた。  
狭い。  
目と鼻の下の鎖骨を見下ろした。  
副長の鎖骨など、これまで五年の付き合いでも、そういえば見ることなどなかった。  
クロードは夏でも身だしなみを崩すことはなかったし、隊のどの洒落者よりも漆黒のお仕着せをかっちりと着こなしていた。  
優男でそれではさぞかしもてるのだろうな、とからかった事もあるのだが、そういえばクロードに女がいるという話を耳にしたことは一度たりともなかった。  
その時、クロードはどう返しただろう。  
思い出せない。  
目の下の、白い肌に覆われた鎖骨はすぐにも折れそうなほどに細かった。  
 
「どうしたんだよ」  
いきなり頭の上でクロードが呟いた。慌てて顔をあげると、碧い目が開いて、皮肉げにサディアスを眺めている。  
「何か珍しいのか」  
「………」  
自分は何を考えておるのだ、と衛兵長は恥じた。  
この、衛兵隊一の弓の名手で、やや斜めに構える癖はあるものの最も信頼すべき副長相手に、一瞬とんでもない疑惑を抱くところだった。  
クロードの皮膚が滑らかすぎるからだ。  
自分の背がどのような手触りかは知らないが、おそらくこんなに肌理が細かいという事だけはないだろう。  
同じ男でも、いろんな人間がいるものだ──。  
サディアスは作業を再開した。  
 
五度か六度、衛兵長は麻布を巻き取った。  
おそらく胸にひどく醜い古い傷か、あるいは痣でもあるのかもしれぬと彼は思った。  
そっと見ると、クロードは相変わらずふてくされたような目を崩れた暗い天井に向けて、されるがままになっている。  
その目の縁がうっすらと赤らんでいた。  
「副……」  
胸の奥がざわつくような妙な感覚を覚え、サディアスは呼びかけを中断させた。  
きつく層を成していた麻布が緩み、もう巻き取らなくても良さそうだった。  
サディアスは俯き、やや乱暴に最後の残りをひき抜いた。  
 
「……………」  
 
下顎がかすかに下がった。  
青い目がまじまじと、布を取り去った胸に注がれた。  
 
*  
 
だがそれもほんの数秒、サディアスは麻布を床に落とすと副長のはだけていたブラウスを合わせ、二番目と三番目のボタンを閉じた。  
裾の間から見え隠れする左の肋を確認し、変色している場所を見つけると重ねた二本の指先で軽く押す。  
クロードがかすかに呻いたが、さほど急激な反応はない。  
 
衛兵長はブラウスの裾を合わせて、細っこいその腹を隠すように閉じた。  
わずかにためらったが、彼は、クロードの腰に掌を廻してズボンの胴回りをぎこちなく、だが静かに掴んだ。  
クロードが腰を浮かせたので、ズボンは足首までするすると楽に降りた。  
衛兵長が、手製の包帯を床から探り当てると、クロードはやはり無言で、左の膝を軽くたてた。  
きっちりと傷口に包帯が巻かれた。  
サディアスはズボンを持ち、包帯の巻かれた部分にあたらないよう気を使いながらひきあげ、再びクロードの腰に両腕をまわし、着付けさせようとして──。  
 
───固まった。  
 
太い首すじから続く陽に灼けたうなじに、胴と同じく細い腕が二本、巻かれていた。  
目をあげると、碧い目が鋭く、間近から彼に注がれていた。  
「……で」  
クロードは唇を開いた。  
もうその顔は青白くはない。むしろ赤い。  
目の縁だけではなく、頬全体が上気している。  
副長に唇があることすら普段は意識したことがなかったが、それがなかなか綺麗なかたちをしている事に、今のサディアスは気付かざるを得なかった。  
「……何か言いたいことがあるんじゃねぇのか」  
 
「………」  
サディアスは首に手をあげて、その腕を解こうとした。クロードは放さなかった。  
じっと、衛兵長の目を見つめている。  
その視線も解きようがなく、サディアスは呟いた。  
「──わ、わ悪かった」  
「悪かったって?」  
クロードは噛み付くような勢いで応じた。  
「五年間だぜ。あんたを五年も騙くらかしてきた俺に、『悪かった』?……なんでそこまでお人好しなんだよ、サディアス!」  
「おお、お『俺』はよせ。そ、その言葉使いもな」  
サディアスはその追求を断ち切った。  
クロードは傷ついたように口を噤んだ。  
 
「お、お前は──おまえ、ク……い、いや、あー…」  
「クロード。──偽名じゃ、ない」  
『クロード』は男の名前にも女の名前にも使われることを思い出し、サディアスは納得した。  
「……ななな、なぜ?」  
「なぜって…」  
碧い目が一瞬伏せられ、すぐに青い目までまたあがった。  
「…俺──いや──私が」  
クロードの口からこんな一人称がするすると出てくるのを聞く日がこようなどと想像すらしていなかった衛兵長の顔が、段々赤くなってきた。  
「私が…故郷から家出してきたのは、知っている……だろ」  
本人も喋りにくいようだった。  
これまで四六時中荒い男言葉で喋っていた相手に、いきなり五年前の言葉に戻れといわれても難しいのかもしれない。  
 
サディアスは頷いた。  
首に巻かれた滑らかな腕を解いてほしかったが、クロードはここで放したら衛兵長は話を聞いてくれないと確信しているが如く断固として腕の力を緩めなかった。  
力任せに解くのは簡単だったが、そうもしかねるのがこの衛兵長がお人好しであるという証拠かもしれない。  
 
「親父、いや、ち、父は貿易商だったんだけど、子どもには女姉妹しかいなくて、私は…その長女だったんだ」  
クロードはかすかに俯いた。  
「あのさ…そういう時って、婿、とるだろ。うちも、俺、いや、私が十四になったときにさっさと父が探して来た。乱暴な船員あがりの、目端のきく男」  
「………」  
黙って聞くしかないようだ、と諦めた衛兵長は、副長に負担をかけないように肘をつき直してはっと気付いた。  
自分が敷いているのは副長ではない。  
いや、副長なのだが、確かに同一人物には違いないのだが、やはり、違う。  
自分より十歳も離れた若い女性なのだ。  
しかも半裸で、ちょっと──可愛い。  
躊躇い勝ちに、サディアスはその事実を自分の心に認めた。  
 
「私はその相手は嫌いだったんだ──でも、うちの父、せっかちでさ──さっさと既成事実作れば、私が言うこと聞くだろうってんで──その」  
クロードは目を伏せた。  
さらに紅潮した頬の線が悔しそうに歪んだ。  
「……夜這い、かけさせやがんの。もう、冗談じゃないってんで…ランプの台でそいつの頭ぶん殴って、店の有り金攫って、逃げた」  
綺麗とか美人とかいうのとはちょっと違うかもしれない。  
顔は整っているが、それはどこか年齢としては未発達で風情というものが欠落した、すがすがしいような愛嬌のなさだ。  
男所帯のなかで性別を偽ってきたから、その途切れのない緊張がそのまま現れているのかもしれないとも思う。  
だが、今のクロードは、初対面の時にも感じた、肩肘はった固さだけは薄れていた。  
 
「……聞いてるのか?」  
我知らずその顔に見蕩れていたサディアスは、我を取り戻して目の焦点を碧い目に向けた。  
「あ、あ、ああ。ひ、ひどい父親だ」  
「だろ?だよな?そうだよな!」  
クロードは我が意を得たりとばかりの勢いでサディアスに巻いた腕に力をこめた。  
「あ…」  
衛兵長は度を失った。  
ぐいと彼──いや、彼女の躯を引き離そうとして、自分の握ったものが半裸の肩だと云うことに気付き、慌ててまた手を放す。  
「あ、ああ。ひどい、じじじ実に──だだだが、その時お前──その──」  
「安心しな。未遂だから」  
クロードはさも不愉快げに眉をひそめた。  
「あんな野郎にヤられてたら、頭割るくらいじゃ済まさねぇ。目隠ししないで矢の練習台にしてやってたとこだ……いや、とこ、さ」  
「…そ、そうか。よよよ良かったな」  
クロードは、サディアスを見上げて少し恥ずかしそうに頷いた。  
「………うん」  
 
『うん』?  
 
ああ、だの、当然だろ馬鹿野郎、だのといった相づちに馴れているサディアスは、やけにしおらしげなそのたった一言にますます狼狽した。  
「あんたなら笑ってくれてもいいんだけどさ…な、なんか…らしくねーから」  
顔を赤くしたクロードが、聞き取りにくく声を小さくしたのまでが心臓に堪える。  
巨大な躯全体の血流が激しく脈打っていて、その熱に気付かないらしいクロードが、まるで異世界の生き物のようにサディアスには思えた。  
「…どーせなら、好きな相手とヤりたいじゃないか…。そんなもんじゃねぇか…?」  
「そそそ、そんなものかもしれぬな…あ、まあ、そうだな」  
クロードはまたちらりとサディアスを見上げた。  
碧の目は、男としても綺麗だが女の目としても魅力的だということを衛兵長は知った。  
「……男は違うんだろ」  
少し口調に棘がある。  
こいつはやはり副長だ、と彼は思い、そこでなぜだか安心した。  
 
「あんた、惚れてない女でも二度も抱いたってさっき言ったじゃねーか」  
「……おおおお前な」  
サディアスは呟いた。  
「まさか、じゅ、十四のときにもその調子だったのか?」  
「まさか。……いくらお上品な伝統が売りの衛兵隊でもさ、男の真似ばっかやってて五年も経つとこうなンだよ」  
ぱっ、と頬をまた赤らめてクロードは顔をしかめた。  
 
なぜクロードは彼の首を抱いたまま放してくれないのか。  
いい加減に離れたい。  
離れなければまずい。  
 
「……、クロード」  
なんとか、サディアスは緊張したときの呪わしい癖を抑えつけた。  
「なに?」  
白い肌と碧の目を間近に見ればまた心臓が不吉に高鳴った。  
 
──さっきまでは、無二の仲間というだけだったのに。  
なぜこいつはよりによってこういうややこしい女になるのだ。  
理不尽すぎる。  
 
「は、放して──くれぬか」  
「……………やだ」  
耳を疑い、サディアスは呆然とクロードを眺めた。  
『彼女』は唇を歪めた。  
サディアスの胸に額を埋めるように、彼女は腕を引き寄せた。  
潰さぬように、衛兵長は慌てて腕と腹筋に力を入れ直した。  
「…衛兵隊に入ったのは確かに弓の腕を活かしたかったからだけど、余計な苦労してここに五年もいたのは、弓のためだけじゃない」  
 
「……………」  
異様に心臓が高鳴っていることに気付いたサディアスは、クロードにそれが聞こえているのではないかとうろたえた。  
本当はクロードの頭を胸から離したい。  
…だが、このままであと少しだけ、この言葉の続きを聞くまでは我慢しなければ。  
誰にともなく、彼は胸の奥で言い訳をした。  
クロードの腕が滑り、サディアスの肩を、それから脇の下をくぐって、分厚い背中に半端に廻された。  
全部は届かないらしい。  
躯の幅も厚みも圧倒的に違う。  
 
「……単純でお人好しの衛兵長がいたから」  
 
ぽつりと消えそうな声が言い、まわされた腕に力がこもった。  
なぜ、クロードがこんなに近くに自分を引き寄せたがるのか、サディアスはそれにやっと気がついた。  
 
拒絶されはしないかと、それが心配でたまらないのだ。  
 
顔の見えないクロードが囁いた。  
「でも」  
無言で聞く。  
サディアスはそれしかできない。  
 
「…そろそろ家に戻るかと、思ってるんだ」  
言葉とは関係なく、ぎゅっ、と掌に一瞬力が籠った。  
熱い掌だった。  
クロードの熱を彼は感じ取り、それでも一心に、耳に神経を集中させた。  
「…もうさ、無理だよ。ハタチになるんだ」  
 
副長の肩はこんなに頼りなかったか。  
 
「胸だって、この二年くらいで急にこんなになりやがるしさ」  
薄い胸板とだけ思っていたのに、サディアスは急にみぞおちあたりに、押しつぶされたささやかな温もりを意識する。  
「あんたはここんとこ、もうずっと変だし……潮時だろ」  
「──辞めるつもりなのか」  
クロードは黙った。  
その沈黙が質問への答えだ。  
 
衛兵長は言った。  
「長女だと言ったな。──居場所はあるのか」  
そんな強引な父親なら、とうに年頃になった妹に婿を押し付けて跡取りにしている筈である。  
クロードは低く笑った。  
「上の妹のマリーとは、時々だけど、こっそり手紙のやりとりしてたんだ。……一昨年だったかな、俺…じゃないや…私の時と同じ男が夜這に来たって」  
「…怪しからん父親だ」  
サディアスはわずかに頬に血を登らせた。これは照れではなく怒りだった。  
クロードは顔をあげた。  
そのすがすがしいほどに愛嬌のないそれでも奇妙に愛らしい顔に、してやったりという微笑がわずかに浮かんでいた。  
「心配すんなよ。額の傷跡、…つまり三年前と同じ所を燭台で思いっきり割ってやったって、マリーの奴、得意そうに書いてきた」  
 
今度はランプではなく燭台か。  
 
吹き出しそうな口元を引き締め、目を逸らして、流石は副長の妹だけある、とサディアスはかすかに感心した。  
「その男、うちの女にはこりごりしたらしくてやっとのこと逃げ出してよ…町中の噂になったんで、モリソン貿易商会は未だに深刻な後継者不在のままさ」  
クロードは話を結んだ。  
見つめられている気配がしたので、衛兵長は首を巡らせた。  
そのまま、その青い目は、魅いられたかのように彼女の視線に溶け込んだ。  
 
「…だから、家に戻ったら、もう自分で好きな男が選べる」  
隊員同士で笑い話をしている時の皮肉屋の表情はどこにもなく、碧の目は真剣そのものだった。  
「この五年でいろいろな奴を見てきたから──少しは、いい男が選べると、思う」  
「………」  
掌が、というよりもほっそりとした指先にまた熱い力が入る。  
サディアスを見つめているクロードの顔がわずかに歪んだ。  
 
「…もう決めてるんだ…選ぶなら…できるだけ、操縦しやすい、間抜けな奴さ。…信じられねぇくらい単純で……鈍感で……」  
「…………」  
「…できればお人好しでさ。…でも、贅沢いえるなら、それで正義漢で面倒見がよくて、できたら腕もたって……他の奴らから尊敬されるような…」  
「…………」  
「……いるかどうかわかんないけど。でも、そんな男を探すんだ」  
 
クロードの碧の目に透明なものがじんわりと湧き出したが、彼女は乱暴に瞼をぱちぱちと瞬かせてそれを散らした。  
その量に驚いたような顔になり、クロードは急いで首を振ってサディアスに、泣く寸前のような顔で笑いかけた。  
「へっ、将来設計バッチリだろ?」  
 
サディアスは頷いた。  
「ああ。いい男が、見つかるといい」  
「……………」  
目の碧が紺のように暗くなり、笑顔はそのままに固まり、クロードは人形のようにサディアスを見つめ続けた。  
その腕を掴み、サディアスはうつぶせるようにいかつい顔を寄せた。  
固まっていた顔が呼吸を取り戻すよりも早く、衛兵長はその、愛嬌のないくせに整った顔の女に口づけをした。  
 
「…………」  
顔が離れると、クロードはしゃくりあげるように深く息を吸った。  
胸を浅く上下させ、白い顔に赤みがさした。  
吸われてかすかに光る唇の両端が緩み、彼女はゆっくりと微笑んだ。  
魔法が解かれたようだった。  
それまでのぎこちなさが嘘のように、愛嬌のなかった表情が鮮やかさを『取り戻した』。  
一気に開いた花のように微笑が整った顔を彩り、みるみるうちに艶めいた。  
固く閉じていたドアが解放されたような、それは心躍る眺めだった。  
閉じ込められてきたクロード・モリソンが五年を経て、やっと彼女の中に戻ってきたのだろう。  
 
「あ…」  
何か言おうとするクロードの背に掌を差し込んで、サディアスは再び唇を重ねた。  
「ふ」  
クロードは目を閉じ、広すぎる背を抱いた指を軽く食い込ませた。  
サディアスの口づけは思いがけないほど激しくて深かった。  
精一杯、それに応えながら、彼女はじんと痺れるほどの痛みを左の肋に感じた。  
弓筈の食い込んだ痕だろうが、その痛みももう彼女には何の影響も及ばさなかった。  
圧倒的な幸福にクロードは酔い、口腔に感じるサディアスの濡れた舌のひたすら情熱的な動きにその酔いを深めた。  
 
「…あ…ふぁ……んっ…ぅん…」  
背中を、大きな掌が這っている。  
それがブラウスの裾をたくしあげている事に気付いたが、彼女は厭がらなかった。  
背骨に沿った素肌にサディアスの指が触れ、その熱さにクロードは、重なった唇の合間から声を漏らした。  
「は…」  
 
ふいに唇が離れた。  
すがるように目を開けると、青い目が酔った表情を浮かべて見つめていた。  
その唇はかすかに赤くなり、どちらのものともわからぬ唾液に濡れていた。  
自分のも同じような色をしているに違いない、とクロードは思った。  
「…その、幸せな男には悪いのだが」  
サディアスが口を開いた。  
あの癖は出ていない。  
「それより先にお前が欲しい、副長」  
「………」  
「嫌なら殴れ。そこの瓦礫ででも」  
クロードはかぶりをふった。耳朶まで赤くなっただろうと思うほど、頭がかあっと熱くなった。  
「…緊張、してないの?」  
指摘されて、自分がスムーズに喋っている事に、衛兵長はやっと気付いたらしかった。  
「…緊張……は、しておらぬな」  
 
クロードは微笑した。  
サディアスの頬に両手を滑らせ、彼女は自分から、甘く深いキスをした。  
 
静かで優しく、そして裏腹に、危ういところでぎりぎりに留まっているような口づけだった。  
 
「──ひとつだけ聞いていい…?」  
唇を離し、衛兵長の見慣れた、そして初めて見る、漆黒の髪の綺麗な女は尋ねた。  
「…できるから、抱くの?……それとも、欲しいから抱くの?……正直に言って」  
間近で眺める海に似た碧い目は、答えがどちらでも構わないと暗に赦している深い色合いだったが。  
 
衛兵長は、吐息をつき、不器用な間合いで囁いた。  
「…たぶん、欲しいから、だろう。──その、いつかお前の夫になる男などに、先に抱かせたくないと思ったからだ」  
この男に相応しい、真っ正直すぎる答えだった。  
クロードは幸せそうな──おそらく知り合ってからのこの五年間で、初めて素直な、幸せそうな潤んだ色をその碧い目に浮かべた。  
 
「あんたにしては上出来だ。……いいよ…サディアス」  
「殴らないのか」  
彼女は目に笑いを浮かべた。  
「…殴らない。絶対……あ…」  
サディアスがその躯を腕で抱きしめると、クロードは感極まったように、小さく喘いだ。  
「待って、服、着た、まま──」  
「余計な心配はいらぬ、副長。…俺の制服と同じだ」  
サディアスは身をわずかに起こし、クロードのブラウスの、わずか二つだけとまっているボタンに指をかけた。  
「『副長』はやめてく──やめて──よ」  
クロードは恥ずかし気に肩をよじった。  
ボタンが外れるとサディアスの躯の重みで前がはだけ、大きくはないがかたちのいい膨らみが露になった。  
痩身とはいってもそれは男に比べるからで、女として見ると造りの美しいすらりとした体つきだった。  
 
「サディアス……あまり、見ない…」  
「見られたくないのなら、女に戻るな」  
柔らかな肌にサディアスが吸い付くと、彼女は言葉をとぎらせ、赤毛の頭に指を絡ませた。  
「──あのまま、俺の傍らにおれば良かったのだ」  
「…そんなの、いやだ…」  
クロードが喘いだ。  
「他の女のこと、考えてるあんたを……黙って見てるのはいやだ──」  
「……」  
サディアスはクロードの腰に手をおろした。腰にひっかかったままのズボンに指をかける。  
下着ごとおし下げた。包帯を巻いた太腿の部分だけには気をつけているらしいのに、組み敷かれながら彼女は気付いた。  
ブラウスを白い腕から引き抜き、サディアスは熱を帯びた青い目を彼女の顔に据えたまま、太い溜め息を漏らした。  
「…俺と同じだ、クロード」  
 
なにか答えようとした唇を塞いだ。  
クロードの、開きかけていた唇をこじ開け、サディアスはその味に溺れた。  
舌は柔らかく熱く甘く、クロードの剥き出しの腕が肩にすがりつき、脚が遠慮勝ちに衛兵長の腰にからみついている。  
自分の躯が大きいのは知っていたから、サディアスは彼女を抱いたまま仰向けに転がった。  
クロードは傷だらけなのだ…いくらそれを彼女が望んでいるとしても、あまりに無茶な事だけはできなかった。  
 
彼女が怪我をしたのは自分のせいだとサディアスは知らなかった。  
刃物を持っている賊を一人で追った衛兵長が心配で、クロードは早めに姿をあらわしてしまったのだ。  
 
*  
 
彼女はサディアスの頬を両の掌で挟むと、何度も何度も、喘ぎながら唇を押し付けてきた。  
舌を入れるには入れるのだが、動かすやり方はよくわからないか、もしくは戸惑っているようだった。  
それでも歯茎を優しく嬲り、クロードはこれでいいのかと問うように、舌を歯の縁に沿って動かした。  
その舌先を引き入れて捏ねると、彼女の腕が震える。  
鳥肌のようなものが浮かんだその腕を擦り、サディアスは曲線を確かめるように掌を移動させた。  
二の腕から肩、降りて脇の下の窪みに泳がせた親指を、そのまま乳房の膨らみに沿わせて撫で下ろす。  
「ん」  
合わせた白い顔の眉がより、碧い目が薄く開いた。  
サディアスが自分を見つめていることを知り、その目に溢れたのは喜びだった。  
彼女は掌に力をこめ、顔を離した。  
漆黒の髪がぱらりと視界をよぎり、サディアスの首すじにクロードは顔を伏せた。  
 
「クロード…?」  
尋ねかけた衛兵長は、股間を探る細い指先の感触に我知らず、かすかに赤くなった。  
片手を逞しい胸につき、顔を伏せて、クロードは静かにサディアスのズボンのボタンを外した。  
さらりと短い髪の毛をかきあげ、彼女は少し顔をあげると、緩んだズボンを下着ごと両手でおしさげた。  
さっきのクロードのように、サディアスは腰を浮かせて協力した。  
ズボンをすっかり引き抜いてしまうと、彼女は一瞬、そこに目をやった。  
頬を赤らめたが何も言わず、両手を広げて黒い上着に取りかかった。  
羽織っただけの衛兵服はすぐに床にひろがり、ブラウスも同様に丸まると、クロードはうっとりと上半身を持ち上げた。  
「サディアス……」  
 
二人は、余計なものが一切取り払われた互いの姿をじっと見ていた。  
「……好きよ」  
クロードの唇が聞こえないくらいの細さでそう囁き、胸の厚みを辿るように動きかけたその手首を、サディアスは掴んだ。  
「…このままで大丈夫か…?」  
クロードは戸惑ったように、潤んだ瞳で彼を眺めた。  
「…教えて……どうすれば?」  
「いや」  
サディアスは微笑した。  
「俺がする」  
彼女の手首をまとめて肩から背に掌を置き、サディアスは肩肘ついて起き上がった。  
「──無理はさせたくない」  
クロードは、上気した顔で、少し不満げに頷いた。  
微笑を頬に残したままでサディアスは横抱きに彼女の胴を抱きしめ、片方の手を、その引き締まったなだらかな腰に置いた。  
すべすべとした腹を指先で探りながら、髪と同じく漆黒の茂みに触れる。  
びくりと肩を震わせたクロードは抗わなかった。  
サディアスの指の侵入を拒まず、太腿にかかっていた力を抜いていく。  
 
クロードが初めてなのはサディアスにはわかっていた。  
彼女が耐えているこれだけの事が、この短時間にどれだけの羞恥心を抑えつけた結果かも。  
 
指先だけで、彼は静かにそこに触れた。  
滑らかな毛の上から狭間に沿って滑らせ、彼女の恥ずかし気な息遣いを計りながらゆっくりとかきわける。  
谷間にしずめた指先に、柔らかな花びらがほぐされて纏わりついた。  
その複雑な熱い襞からつるつるとした感触の谷間が収束するその上の小さな蕾まで、穏やかに撫で上げた。  
何度も──何度も、彼の鎖骨に当たる彼女の唇がそのたびに小さく歪み、小さな甘い喘ぎを漏らし始めるまで、サディアスは待った。  
「あ……あ………サ…ディ…」  
花びらにいつの間にか露が重く溜まり、指を濡らす。  
その芯の奥で慎重に指先を軽く曲げ、くちゅり、と水音がたつのを彼は聴いた。  
「あ…」  
ぼう、とした顔をクロードはあげた。  
 
彼は指を引き抜くと躯をまわし、彼女の背を下に横たえた。  
「…遠慮しなくても…いいのに」  
ほっそりした躯の両脇で掌をついたサディアスの重みを感じることができないのを、彼女はひどく悲しく感じているらしかった。  
「そうもいかぬ」  
サディアスは肋と太腿に怪我をしている彼女の左側の躯には絶対に重みをかけないつもりだった。  
「……私は、そうして欲しいのに」  
クロードは、怪我をしているほうの脚を持ち上げられながら囁いた。  
「あんたがくれる事なら、どんなに痛いことでもたぶん……平気だ」  
「そそのかすな」  
サディアスは、青い目で漆黒の髪の女を見下ろした。  
クロードがこの五年の間に数えきれないほどに見知った、切なくなるほど優しい目だった。  
「いくぞ。──泣くなよ」  
その広い肩に腕を巻き付けて、顔を伏せ、彼女は呟いた。  
「……泣かないよ」  
 
その大きな躯が、精一杯開いていた太腿の間をさらに押し開くと、クロードは上気した顔を傾けて眉を寄せた。  
初めて感じる太腿への摩擦、濡れているとはいえまだ未熟に開きかけただけの花の間に入ってくるモノは予想以上に熱く、固かった。  
「…は…」  
クロードは喘ぎかけ、内蔵を押し上げられそうな重さを躯の内側に感じて呼吸を詰まらせた。  
両脚が、遠慮しているとはいえ強い、男の侵入の勢いを受け止めかねて、膝から折れてさらに開いた。  
「あー………」  
自分が短く喘いでいることにクロードは気付かず、長い時間をかけて奥までおさまったそれがじっと動かなくなってから、やっと碧い目を見開いた。  
サディアスが心配そうに覗きこんでいた。  
その、もの懐かしい顔の男と自分が繋がっているという事実が、クロードの目の奥を刺激する。  
だが彼女は、潤んだ瞳から涙を溢れさせる事はしなかった。  
口元に柔らかい笑みを浮かべ、彼女は囁いた。  
「…大丈夫…いい、感じ」  
「そうか」  
ほっとしたらしいサディアスの、単純そのものの口調さえ愛しかった。  
 
どうしよう。  
こんなに、こんなにも、この人を好きだ。  
 
クロードは、サディアスを見つめた。  
抱かれる事を密かに望んできたのだが、こうして繋がっていると、例えようもなく辛かった。  
この男以外の男になど、誰だろうと抱かれたくなかった。  
だが、互いに知っているとおり、これが最初で最後なのだ。  
クロードははるか北部の家に戻り、サディアスはこれからも衛兵長として都に留まるのだから。  
 
*  
 
彼はクロードの肩を掴んで大きな躯をおこし、床に掌をついた。  
クロードは、衝撃を逃すために軽く開いたままだったかたちのいい唇をきゅっと閉じた。  
鈍い痛みがゆっくりと、躯の奥で動き始めた。  
「ん…」  
かすれた喘ぎを押し殺しながら、クロードはそれに耐えた。  
サディアスの頭を抱き、彼女は、その動きが段々速さを増していく様子をつぶさに感じ取った。  
喘ぎではこらえきれず、彼女は呻いた。  
痛く、でもその痛みが幸せだった。  
「…ん……うぅ………」  
はぁ、と息をつき、彼女は両脚を抱え込まれて小さくのけぞった。  
それでも辛うじて包帯を避け、サディアスは彼女のすらりとした脚を跳ね上げた。逞しい肩に載せ、かける体重をそらすようにして再び動き出す。  
「あっ…、あっ、あっ…」  
クロードはその格好を恥ずかしく思ったが、それよりも密着できない寂しさについに声をあげた。  
「サディアス…」  
上気して汗ばんだいかつい顔の、もう半ばは冷静でない青い目が彼女の目を見た。  
「サディアス…お願い………こんなの、いやだ……」  
 
訴える彼女の声に、その目は薄く理解の色を刷いた。  
サディアスは脚をおろし、クロードにのしかかった。  
全体重をかけたその動作に、肋も包帯も押しつぶされた。  
彼女は思わず悲鳴をあげたが、それが苦痛なのか歓喜なのか、クロード自身にもわからなかった。  
必死でその汗にまみれた躯に腕を絡め、彼女は揺さぶられながら喘ぎはじめた。  
 
「サディアス……あ、あ……」  
その喘ぎは悲鳴とは違って完全に甘く、女があげられる声のうちで一番優しいものにサディアスには聞こえる。  
「サディアス……サディアス……」  
うねるようにその細い腰に躯を打ち付けながら、サディアスの中にわずかに残っている醒めた理性が警告の声を漏らす。  
 
──もう、危ない。  
このままぶちまけたら、クロードのためにならない。  
 
サディアスはぐいと歯を食いしばり、未練を断ち切った。  
男をひきつけてやまない隘路から腰を退き、引き抜こうとして──ふと顔をあげた彼はクロードの碧い目を見た。  
目を逸らせず、サディアスは思わず見惚けた。  
次の瞬間、どくん、と弾けた。  
「あ───」  
彼は大きく喘ぎ、胸を波打たせた。  
クロードの綺麗な目が何かを悟ったように閉じられ、上気した首筋もあらわに顔が、添えられていたサディアスの掌に投げ出された。  
柔らかな頬の感触に、背筋が震えた。  
 
何度も脈打ちながら、彼は、彼女の中で完全に果ててしまった。  
甘美さと、それを上回る情けなさで、彼はクロードの上に突っ伏した。  
 
*  
 
「サディアス…」  
小さな声がする。  
目を開けると、喘ぎを閉じ込めようとしている彼女がじっと、サディアスを見つめていた。  
「…終わったの…?」  
「………」  
サディアスは大きな掌をあげて、その頬に指の背をあてた。  
撫でると、クロードが微笑した。  
その顔はもう美しいといっても全く違和感がなく見えた。  
こいつは女なんだな、と今更ながらに衛兵長は納得した。  
つい数分前まで貪っていたのに、今さら納得するというのも妙な話ではあるが。  
「…だめだ」  
サディアスは、怠い口を開いて呟いた。  
「そんな顔をするのはいかん……離したく、なくなる」  
クロードの唇がひく、と震えた。  
「……え…?」  
 
「……俺は」  
サディアスは続けた。  
情事の後だからというだけではない。  
ここのところの、ろくに睡眠もとらなかった一週間分の疲れが一気に出てきたような、ひどく気怠い気分だった。  
「お前の言うとおり、単純で……間抜けの、どうしようもない男だ」  
「サディアス」  
「いいから聞け」  
指の背で唇を塞ぐと、クロードは少しふくれたような頬になって黙った。  
サディアスは彼女の上から降りて、ごろりとうつぶせになると少し離れたたき火を眺めた。  
もう熾き火に変わっていたが、まだ充分暖かった。  
 
「クロード……どうしても衛兵隊を辞めるのか?」  
かすかに衛兵長の声で彼は呟いた。  
クロードは俯いて、ふっと笑った。  
しどけない姿のくせに、副長の声で彼女は答えた。  
「……全部あんたにバレちまったのに、平気で男として居座るほど、神経が太くないんでね」  
「では決まりだ」  
サディアスは眠そうに呟いた。  
「俺も辞める」  
 
クロードは跳ね起きた。  
「何言ってんだ、サディアス!」  
完全に副長の声になっている。眉を逆立てて彼女は続けた。  
「やめられるわけないだろ!あんた、あんなに衛兵の仕事──」  
「エデュの街に」  
サディアスは無視して続けた。  
クロードは目をぱちぱちさせた。話の変わりようについていけない。  
「…コリーヌ様のお入りになった、女子修道院のある?」  
王家の一番上の王女だ。  
穏やかで美貌だがやや病弱の気のあるその王女は、格式あるその修道院の院長として、弟にあたるイヴァン王子の婚礼を機に王宮からその街に移っていた。  
「修道院だけではない。大きな駐屯軍がある…あそこは北部の防御の要だからな…秋口から叔父に、そこの連隊長にと誘われている」  
「ジェイラス将軍に?」  
「うむ。陛下に忠誠を尽くすには変わらぬ。悪い話ではないだろう?」  
初耳だ。  
「決心がついたらお前も誘う気でいたのだ……その、決心が……なかなかつかなくてな」  
「………ああ。そうだよね。都には、気になるお方もいらっしゃるしね」  
やや無表情な声になったクロードを、サディアスはちらりと、憚るような横目で眺めた。  
「…衛兵隊にはお前と俺の後釜を狙ってうずうずしている奴もいる。特に俺は、もう十五年も勤めた事だし──」  
サディアスは言葉を止めた。  
 
がば、と起き上がり、彼は崩れた壁の向こうの曙光の気配が薄め始めた闇をすかして、王都方面を窺った。  
「迎えが来た」  
「え!」  
慌ててクロードは傍らのブラウスを掴んだ。  
部下たちが迎えに来たなら急いで副長に戻らなければならない。  
すでにブラウスの袖に腕を通し始めたサディアスが、彼女の太腿の包帯に目をくれた。  
「…ああ…少し血が滲んだな」  
「平気さ」  
クロードはその視線から隠すようにそそくさと身繕いをすませ、漆黒のさらりとした髪を耳にかけて衛兵長に振り返った。  
「ほら、愚図だな!トロトロしてないで急げよ!」  
「……こ、困った」  
サディアスは、本当に困ったように、上着のボタンを止めないまま呟いた。  
「……どどどどんな乱暴な口を叩いても、おおお前が男に見えぬのだが」  
「………」  
かぁっ、と、クロードは頬を紅潮させた。  
サディアスも赤くなった。  
「……ほら、外で待とうぜ」  
クロードは衛兵長の広い背中を押し、廃墟の外に連れ出した。  
 
*  
 
火から離れると夜明けの風は寒く、サディアスは大きなくしゃみを二回した。  
「大丈夫かよ」  
疲れ気味の衛兵長が風邪をひきかけていたことを思い出す。  
その彼が大汗をかいたままシャツなしでお仕着せを着ているという間抜けな事態に陥っていることに、クロードは思い至った。  
その原因を思い出すと、また頬に血が集まる気配がした。  
 
黒髪を掻きむしり、クロードはきっと衛兵長を睨みつけた。  
「…あー!!もう!…もう俺は明日にでも家に戻るからな!あんたもいない衛兵隊じゃ、こんなんじゃこの先やってけねえや」  
「……お、おおお前の故郷はどこだと言ったかな」  
サディアスは、都の方角に顔を向け、鼻を擦りながら呟いた。  
「サラシュ」  
北部の、貿易の盛んな海岸都市である。  
 
クロードは、ふとサディアスに視線をむけた。  
なぜ衛兵長はどもっているのだろう。  
 
「エ、エデュから馬でどのくらいだ」  
「………」  
クロードは碧の目を見開いた。  
「…ど、どのくらいなんだ?」  
「……一時間半」  
「………よよ、よし」  
衛兵長は巨大な躯を縮めて、肺が空になるのではないかと思われるような深い溜め息をついた。  
背筋を伸ばすと、いかつい顔をクロードに向けた。  
青い目は緊張でいつもよりも薄い色になっている。  
「お、俺が、立候補してもいいか」  
「……何に?」  
「れ、連隊長の退役後だが………モ、モモ、モリソン貿易商会の、む、婿にだ」  
「………………」  
 
しばらくして、クロードは声を絞り出した。  
「………子爵家の坊ちゃんじゃんかよあんた」  
「お、俺は、四番目だから。そのあたりの息子の身の振り方など、誰も気にせん」  
呆然と、クロードは明るくなってきた空に浮かび上がる衛兵長の姿を眺めた。  
 
「う、う腕がたつとか、尊敬されるというあたりは、あ、あてはまらぬと思うが、い、一応、いつもお前に単純だ間抜けだお人好しだと罵られ───」  
抱きついてきた副長の細い躯を受け止めて、衛兵長はたたらを踏んだ。  
 
「………あんた、馬鹿だろ」  
やがて顔をあげた副長が、碧い目を登り始めた朝日に眩しそうにしかめながらぼそりと言った。  
「……うむ。それもよく言われるな」  
自分の言ったことが半分かたこの単純極まる衛兵長には伝わっていないというこの事実に、クロードはげんなりした顔をした。  
「…いーよもう。戻ってさっさと服着替えて寝ろよ」  
その胸を押しやって無理矢理に街道に向け、クロードは顔を開けはじめた空に向けた。  
 
──あなたのご存知ない事ではあるけれど、どうやら、ナタリー様をお恨みせずにすみそう、ですよ。  
 
澄んだ空に浮かぶ王子妃の清楚な面影に、クロードは微笑んだ。  
 
*  
 
「ああ、来たぞ。あれはジョンとフィリップだ。──い、今言ったことは考えてくれるのか、副長…?」  
心配そうに振り向いた平凡な青い目に映ったのは、空を見上げている、とてつもなく綺麗な19の娘の姿だった。  
 
 
 
 
おわり  
 

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