賓客のための長い長い宴がようやく果てて賑やかな灯火が落とされ二時間がたつ。  
広大な王宮は冬も終わりの凍てついた星空のもとにひっそりと静まりかえっていた。  
平和で静かな深夜である。  
 
だが、よくよく見れば庭や城壁沿いの要所要所に、闇に同化した漆黒の制服を着た衛兵たちが、王家の紋の縫い取りの金糸と目を、  
かがり火に小さく光らせている。  
それも普段の当直の人員より、その数ははるかに多い。  
非番の者もかり出された総動員態勢のようだ。  
なぜか。  
 
その理由は実はしばらく前のとある慶事にさかのぼる。  
 
*  
 
一週間前、王子妃の初めての懐妊の知らせが離宮より届けられた。  
 
その報を告げるのに使者ではなくイヴァン王子本人が馬をとばして乗り込んできたあたりに、  
この問題における王家の喜びようを知ることができるだろう。  
最もその際、国王執務室内において父子の間でなにやら多少のイヤミの応酬が繰り広げられたらしい。  
だがそれは扉の前を護る衛兵長しか知る事のないささやかな珍事であり、王都ではすぐに全ての教会の鐘が鳴らされて、  
臣民は早くもお祭り騒ぎの前哨戦を繰り広げることになった。  
世継ぎの王子は他の特質はどうあれ聡明なので人望があり、その若く美しい妃の人気は絶大で、  
しかも王と王妃がかつてなかなか世継ぎに恵まれなかったことを知る年代の人々の記憶もまだ失せていなかったためである。  
だがこの懐妊に誰よりも度外れた感激を示したのは、実は善良なる臣民でもなければ夫である王子でもなく、客観的に見て本人である王子妃ですらなかった。  
誰かというと、当然というか意外というか、胎児の祖父である老王その人だったのである。  
 
その喜びようは尋常ではなく、すぐに記念の大量恩赦を行い全ての物資の関税をひき下げ、王国中の全妊婦に見舞金を贈るという騒ぎにまで発展した。  
周囲は必死で止めたのだが、国王の上に年寄りという二重苦のせいか人の言うことを聞くような人物ではない。  
ついに王の感動は、父祖伝来、王朝始まって以来このかた門外不出の貴重な宝物群を、王宮の迎賓館にあたる正門に近い南棟の大広間に飾り、  
これらを上は貴族から下は庶民まで誰彼構わず公開するという……太っ腹は太っ腹なのだが、  
これで王子妃無事御出産の暁には一体どんな騒ぎになる事やらと関係者を恐怖に陥れる事間違いなしの大盤振る舞いに及んだのである。  
それでも公開期間を一週間と限定できたのは、さすがに女性ならではの現実感覚で、王より一足早く理性を取り戻すことができた王妃の尽力に負うところ大だった。  
 
そしてもちろん、この一週間というものの王宮付衛兵隊の苦労は並大抵のことではなかった。  
これまでは北搭にある宝物倉だけ厳重に警護しておればよかったものを、実はこの一週間の間に国外からの賓客をもてなす晩餐会が三つあり、  
その間も南館には例の貴重きわまりない宝物が鎮座しっぱなしなわけである。  
本来の王室及び賓客の警護任務以外にも、その警護対象が出来心で泥棒に早変わりせぬかとその心配もせねばならず、  
もちろんそれ意外の理由による宝物の紛失などあってはならぬので客の全員をそれとなくチェックしていなければならない。  
王宮付衛兵長を務めるサディアス・ダジュールの心労は並大抵のものではなかった。  
普段から任務一途の熱血な男なので、警護の陣頭に立ちっぱなしでこの一週間、ろくに眠ってもいないはずである。  
おそらくこの任務が終わったら血反吐を吐いて倒れるのではないかというのが周囲の部下達の見解だ。  
そして今宵が最後の一夜、やっと三つ目の宴が果て、貴重なる宝物は全て元通りに北搭の倉に戻され、このまま朝まで何事もなく無事に過ぎればこの臨時体制を解くことができるというところにまで事態は進んだ。  
 
あと数時間で冬の終わりの弱々しい夜明けの光が、彼ら衛兵の疲れた顔を優しく照らすことだろう。  
 
*  
 
 
国王陛下にも困ったものだ……。  
 
ふと浮かんだその感慨を不敬と気づいて慌てて脳裏から振り払い、サディアスは衛兵長だけに許されている派手な装飾帽をかぶりなおした。  
 
だが実際のところ、こうして一緒に並んだ部下たちの疲れ果てた顔つきを見ているとその思いが胸をよぎらざるを得ない。  
もちろん王子妃の懐妊はおめでたい限りである。  
だが、今後長く苦しい妊娠期間を経てご出産になるのはあくまでもナタリー様なのである。  
まだまだお妃様にはおつらいこともおありだろうに、現時点でここまで浮かれるだけ浮かれて舞い上がっている老王の無責任なはしゃぎようが、なぜかカンにさわってしかたないのだ。  
…疲れているのだろう。  
彼は片手をあげて目頭を揉みほぐした。  
なんとなく、うっすらと、頭も痛いような気がする。  
夜警続きで風邪でも引きこんだか。  
 
自分はもう若くはないのだろうか、と彼はふと思った。  
とはいうものの、実は彼は先日三十代に入ったばかりなのでそういう熟した感慨を持つには早すぎるのだが、最近、有り体に言ってどうもサディアスはやる気がでない。  
あれだけ情熱を持っていたはずの王宮勤務の華であるこの衛兵長の仕事にも、これまでに感じたことのない索漠とした虚しさを覚えている。  
この一週間の過酷な任務で燃え尽きたのかもしれない。  
気まぐれな思いつきを本当に実行なさるとは、しかし国王陛下は全くのところ何を考えておられるのか…。  
 
……どうも思考が空転している。  
 
しばらく休暇をとるべきかな…、と彼は考え、自分で自分の気弱ぶりに辟易した。  
踵をつけ、背筋に力をいれてサディアスは気合いを入れ直した。  
あと数時間。  
「もうすぐ夜明けだ。油断するな」  
部下に声をかけ、今宵何度目かの巡回に向かおうとして歩き始めた彼の背中を、ぽんと誰かが軽く叩いた。  
 
「おいおい待てよ。巡回に行くのにおまえ、一人でか?」  
 
サディアスは巨体を半分巡らせてちらりと背後に目をやった。  
「ああ。忘れてた」  
「忘れてたぁ?」  
その目線の先に、あからさまに意外げな口振りになった細身の男が顔をしかめて立っている。  
サディアスと同じく衛兵の黒衣のお仕着せを身につけ、その色にも負けず劣らずの漆黒の、耳にやっとかけられる程度の短髪を持つ若い男だ。  
「寝ぼけてんじゃねーかサディアス。巡回は一人じゃアブねぇっていつも俺たちに口を酸っぱくして言ってんのはてめぇだろ。自分だけは違うんじゃ、衛兵長ってないい加減な商売だぜ」  
「そう思うなら変わってやってもいいぞ、クロード」  
サディアスは体の向きを元に戻した。  
歩き出した彼を追いながら、クロードと呼ばれた黒髪の青年はわずかに慌てたように言葉を継いだ。  
「待て待て!冗談だ」  
衛兵長は太いため息をついた。  
「いや、本当に忘れておったのだ。いかんなどうも」  
「…確かに妙だ、最近のあんたは」  
クロードは肩に背負っている矢筒を揺すりあげてその横に並んだ。  
横の巨漢とはかなり歩幅が違うので、早足になっている。  
通り過ぎると衛兵たちが挙手の敬礼を彼らの長に対して行うが、その横のクロードに対する視線にもそこはかとなく畏れの光が見て取れる。  
 
*  
 
衛兵副長クロード・モリソンは若いながらも弓の名手である。  
王都からかなり遠方の海に面した都市の出身であり、貿易商を営んでいる父親がいるらしい。  
貿易船ばかりか海岸都市を略奪する海賊の脅威に対抗すべく自衛のため町に雇われた傭兵から、幼少時より弓の手ほどきを受けていたのがきっかけで才能が花開いた。  
ついには退役した王軍の弓術の師範の元に通い始めて十代半ばにも満たぬうちに師範代を務めかねないまでの腕前となり、あまりの入れ込みように弓を捨てて家業を継げと迫る父と大喧嘩して家を飛び出し都に出てきた。  
彼はすぐさま王宮の門を叩き、衛兵隊に志願した。  
いきなり来るあたりが心臓だが、王宮付の衛兵隊といえば泣く子も黙るエリート集団であり、世間を知らぬ地方出身の才能あふれる青少年が憧れて目指すのも無理はない。  
衛兵隊には貴族の子弟をあてるというのが不文律だったが、あまりに弓の手が鮮やかだったので偶然その光景を見ていた国王じきじきのお声がかりで見事見習いとして入隊したのが五年前。  
当時ダジュール子爵家の四男坊サディアスはすでに副衛兵長として衛兵隊に在籍しており、面倒見のいい性格を見込まれて、この平民出身の少年の面倒を見ることになった。  
 
…なったのだが、最初から、なかなか苦労しそうな相手だった。  
 
*  
 
宿舎の食堂で発見した時、少年クロードは他の見習いから離れた席で一人盆を抱え、まずそうに肉団子のスープを啜っていた。  
 
「クロード・モリソンか?」  
 
声をかけると、ぎょっとしたように黒髪の少年は顔をあげた。  
目は碧かった。  
「副衛兵長のサディアス・ダジュールだ。お前の指導の任を受けた」  
うさんくさそうに匙を置き、少年はじろじろと上から下まで先輩衛兵を観察するとおもむろにこう言った。  
「…驚いた。鐘楼が動いてるみたいだぜ。聞いていい?何食ったらそんなにでかくなれんの?」  
「お前と変わらぬだろうと思うが」  
偉丈夫揃いの衛兵隊にあってもひときわ巨漢のサディアスは自分の盆の上に並んだスープやパンを示してみせた。  
無礼な子供だと思い彼は内心顔をしかめたが、傍のテーブルから会話を盗み聞きしていたらしい見習いが口を挟んだ。  
「副長殿に生意気な物言いをするな。ちょっと弓ができるからって、汚らしい平民の癖に生意気だぞ!」  
そのとたん少年が小さい拳を固めて身を乗り出し、目にも留まらぬ鋭いパンチを相手にお見舞いした。  
見習いの鼻から鮮血が噴き出したが、あっけにとられていたサディアスが取り押さえようとすると少年は素早く身をかわし、鼻を押さえた見習いに叫んだ。  
「それしか言えねぇのかよ!血の巡りが悪ぃ癖にいっぱしに鼻血出しやがって、汚ぇんだよこの穀潰しの臑齧りが!」  
 
この会話であらかたの事情を察知したサディアスは椅子を退いて立ち上がり、むんずとクロードの襟首を掴むと食堂から引っ張り出した。  
「放せよ!もっと殴ってやるんだ。あいついちいち絡んできやがって気にくわねぇ!」  
少年がじたばたしたが、自分をつり下げた二の腕の硬い盛り上がりを見て、この副長に膂力でかなうはずがない、と悟ったらしい。  
だらんと両腕を下げて猫の子のように運ばれたが、食堂からはるかに離れた馬舎の裏でようやくおろされ、地面に足の裏がつくとまたわめきだした。  
「なんの用だよオッサン!じゃますんな」  
 
サディアスは草地に腰を下ろした。  
「まず座れ」  
少年は並んだ副長の巨大な躯に改めて気付いたらしく、毒気を抜かれたようにぴくぴくと鼻をうごめかせた。  
「…臭ぇんだけど、ここ」  
馬糞の発酵した匂いが風に流されて、狭いはげちょろけた草地全体にもの悲しげに漂っている。  
「そのうちに慣れる。しばらくは我慢するのだな」  
サディアスはわずかな草の上に腰を下ろした。  
「なんなんだよ…」  
ぶつぶつ言いながらクロードもすこし離れた場所に座った。  
座っていてもなお嵩高いサディアスにちょっと圧倒されているようにも見えた。  
 
「お前に言いたいことは二つある。まず、俺はオッサンではないと思う」  
サディアスは帽子をとり、ふさふさと癖のある平凡な赤毛を示した。  
「…あー。ま、その、だね。…禿げてねーよ」  
少年は気まずそうにうなずいた。  
…わりに素直な子供だな、とサディアスは内心頷いた。  
口のききかたも知らず、なにやら肩肘はって非常にぴりぴりしてはいるが根は悪くないようだ。  
「そう。まだ25だ。次に」  
副衛兵長は空を見上げた。  
「俺の叔父はジェイラス・ダジュールと言う」  
クロードの口がぽかんと開いた。  
「ジェイラス…?…まさかあの、ジェイラス・ダジュール将軍?…すっげえ!いいなあ!」  
みるみる視線が尊敬のまなざしに変換される過程を見てとって、サディアスは苦笑した。  
「現金な奴だ」  
「だって!」  
クロードは立ち上がった。興奮のままに、転びそうな足取りで狭い草地を歩き始める。  
「去年のストラッド防衛戦でのジェイラス将軍、あ、その時はまだ将軍じゃなかったっけ…とにかくあの奮戦ぶりを知らねー奴はこの国にいねーよ。すげー。すげーよおい」  
「昨年、功により次男ゆえ爵位を持たなかった叔父は一気に将軍の地位と新たな爵位を得た」  
サディアスは続けた。  
「今の国王陛下は戦場で勇猛な騎士というだけではなく明晰果断なお方だ。実力さえお見せすることができれば相応しい地位へと引き上げてくださる。…だがそう思っているのは本人とその一族だけでな。そして、俺が『偶然』24の若さで副長になったのも昨年だ」  
 
少年がぴたりと足を止める。  
「どういう事?」  
サディアスは肩をすくめた。  
「世の中にはそういう現象に腹が立つ人間がいるのだ。わかりやすい事例だろう」  
「………」  
クロードは草地に座り直した。  
「あんたが将軍の引き立てで不正に出世したって思ってる人達がいるって事?」  
「そうあからさまに要約されるとなんだが」  
サディアスは眉を寄せた。  
この子供はさほど頭も悪くないらしい。  
「叔父が動いたかどうかは知らぬが、そういうやり方は我が一族の流儀ではない。それに、我々にも言わぬが、叔父も軍の中枢を占める門閥高官の中で苦労している。だから、俺は自分の忠誠と努力で今の地位をいただけたと信じている。なによりも、そう考えたほうが楽しい」  
 
クロードは鋭く副長に視線を投げた。  
黒髪に碧い目というのはなかなか負けん気が強そうに見えるものだが、この少年には似合っていることを副長は発見した。  
サディアス自身は平凡な赤毛につきものの平凡な青い目である。  
「貴族もいろいろあんだな。知らなかったぜ」  
「同情してもらえて、大変嬉しい」  
サディアスがいかつい顔を緩めると、少年は警戒するように目を細めた。  
「…なんかオッサ…じゃねえや……あんたって、単純そうな奴だなぁ」  
いかにも、気にくわない、といった口調で少年は呟いた。  
「単純なんだろう。それなりに楽しくやっておる。それに俺の名前はサディアスだ」  
サディアスは立ち上がった。  
「志願して受け入れられたのだ、お前もここで楽しく過ごすように努力しろ。実力があるのだろう?」  
「…王様の折り紙付きだぜ」  
少年はにやっと笑い、巨漢の死角になって踏みつぶされるのをおそれたらしく、ぴょこんと慌てて立ち上がった。  
 
*  
 
それ以来、クロード少年は副長になんのかのとつきまとうようになった。  
指導しされる間柄ということもあってなにかと行動を共にした事もあるだろうし、彼の叔父のジェイラス将軍という憧れの星の存在が、サディアスに対するクロードの生意気加減をぐっと和らげたのかもしれない。  
それとも、単純だが包容力のあるらしい性質が気短な少年に気に入られたのか。  
 
とにもかくにも日々の任務を重ねるうちに二人は互いの力量を認め──クロードの弓は国王の眼鏡にかなっただけあって、衛兵隊にあってもなお抜きん出ていた。  
一方サディアスの剣は巨体に似合わず力押しだけではない確かな技術を誇っていた──共に過ごしているうちに意外にもウマのあうことも発見し、五年たった今では衛兵長とその副長としてなくてはならぬ名コンビとなっている。  
 
巨漢のサディアスが衛兵長の要職に就いたのは一年半ほど前の夏である。  
その夏、あれは国を揺るがす大きな叛乱の勃発前後だったが、使用人に紛した男が国王の唯一の世継ぎであるイヴァン王子の命を狙うという不祥事が起きた。  
暗殺未遂犯は逮捕され監禁されたはずだったがある日を境にその行方はふっつりと絶え、その行方は今でもわかっていない。  
もしかしたら闇から闇に葬られたのかもしれない。  
 
その男の運命よりも衛兵隊にとって問題になったのは、刺客の潜入を許した王宮の警備体制である。  
幸いにも暗殺の実行以前に不審を察知して容疑者を逮捕できたものの、長の立場に関わる重大な責任問題には変わりない。  
そういうわけで叛乱終結後に衛兵長の交替がおこり、副長のサディアスが新しい長として就任することとなった。  
サディアスは張り切った。  
副長の後釜にクロードを指名して体制を整え、彼らしい真面目さで衛兵隊を再編成した。  
衛兵隊は熱血男とその脇の斜に構えた男二人のもと、揺るぎない忠誠心と確かな技による選抜を行い、隊員の質も格段に向上した。  
国王の実力主義に傾く治世への不満が爆発した叛乱鎮圧のあとだけに、衛兵隊の再編成がやりやすかったのは幸運だった。  
 
護るべき王室メンバーもこの一年半で変化した。  
イヴァン王子は妃を迎えて都南東部の離宮へ入り、それから二ヶ月後その姉にあたる王女が一人女子修道院長として王国北部の街に移った。  
そして一週間前、未来の新たな王室の顔となる胎児の存在がめでたく判明した。  
衛兵隊の責務はますます重く、彼ら精鋭の一層の団結と忠誠が発揮されることをさらに期待される今日この頃──。  
 
しかし、このところおよそ三ヶ月の間。  
───副長の見るところ、サディアスの様子はほんの少しおかしくなっているのである。  
特にここ一週間ほど、任務に忙殺されている様子に紛れてはいるが、彼の不審な変化は変容しこそすれ治る気配がない。  
 
*  
 
「気付いてたぜ。……他のヤツはどうだか知んないけどよ、俺の目はごまかせねぇ」  
クロードがぼそっと呟いた。  
巡回の道のりはほとんど終わりに近づいている。かがり火に照らされた、裏門の詰め所が見えてきた。  
 
サディアスは足をとめなかったが、クロードから見上げる位置の顎から頬がうっすら赤くなったのが、行く手に焚かれてあるかがり火のおかげでわかった。  
「副長だからな。悲しいことに常日頃から、あんたを観察する癖がついちまってンだよなぁ」  
クロードは早足で回り込み、巨漢の前面に立ちはだかった。  
しかたなく立ち止まり、サディアスは咳払いした。  
「…あー。邪魔だ」  
「バカ。邪魔してんだよ」  
クロードは詰め所までまだ少し距離があることをちらりと確認し、腕を組んだ。いつも肩にかけている白いアシュの弓が軽く揺れた。  
副長は普通のサイズの長弓は使わない。彼が使うのは一般には短すぎると思われるサイズの特注品ばかりだ。  
「持ち歩きしにくいじゃねぇかよ」というのがその言である。  
ひきにくいその手の弓でクロードのようなやせっぽちの優男がよく剛毅な矢を射るものだと衛兵長はいつも感心している。  
そのあたりが名手と呼ばれ、この若さで副長就任した平民出が部下達に一目置かれる理由なのだと知ってはいるのだが。  
 
「あのさあ…」  
無礼で短気なクロードが珍しくいいづらそうだった。  
「…聞くのも野暮なンだけど…あのさ……女…だろ」  
「どけ」  
サディアスは大きな手でクロードの肩を押しのけようとした。その腕につかまるようにして抵抗し、副長は続けた。  
「困ンだよ、その態度。副長の俺に隠し事かよ?」  
 
「…かかかか隠し事など、し、しておらん」  
 
クロードは捕まえているでかい腕をぽんと平手で叩き、一瞬だけ口元を緩めた。  
サディアスが極度に緊張したり照れたりするとこの癖が出ることなど百も承知だ。  
「……その、女だけどよ」  
いささか寂し気な口調なのは、苦楽を共にしてきた衛兵長が言い逃れようとしたせいか。  
「その…もしかしたら、惚れちゃいけねぇ相手なんじゃねーの」  
びくっ、と衛兵長の背中が揺れた。  
開いているほうの片手で派手な装飾帽を素早く脱いで被り直し、サディアスは表情を隠した。  
だが頬は真っ赤だ。  
それが照れかそれとも心の秘密の場所に土足で入り込まれることへの怒りか、そこまでは副長にもわからない。  
「ししししし知らぬ」  
クロードのおさえている片腕にぐっと力が籠り、サディアスが逃れようとしている気配が伝わった。  
「…誰かに惚れちまうのは仕方ねーけどさ、あんたそれ不毛だぜ」  
「言うな!」  
衛兵長は咆哮した。深夜の空気がびりびりと振動した。  
思わず固まった副長の背後で、何事かと詰め所から衛兵たちが飛び出した気配がした。  
 
クロードの手を簡単に振りほどき、サディアスは青い目で威圧するように彼を見据えた。  
「…それ以上とぼけた詮索をすると許さんぞ、副長。話はこれで終わりだ」  
わかりやすい癖は消えていた。  
叫んだ直後にもう自制心を取り戻したらしい。  
感心すると同時になんともいえぬ辛そうな目になって、副長は帽子をとった。  
さらさらと短い黒髪が闇に溶けた。  
「……すまねぇ。だが、サディアス…」  
 
 
言葉はそこで途切れた。  
副長は帽子を放り出すと細い躯を丸めて思い切り衛兵長に体当たりし、巨漢ごと石畳に転がった。  
後ろの闇から飛び出してきた男が、衛兵長のいたはずの空間を通り抜けてそのまま城壁へ駆けて行く。  
その、前に構えて突き出した握りこぶしをかがり火が照らし、ナイフらしき刃物の煌めきが見えた。  
「不審者だ!捕えよ!」  
起き上がった衛兵長は叫んだ。  
傍らで副長も素早く跳ね起きて片膝だちになり、弓を肩から掌まで滑らせようとして呻いた。  
「…糞っ、弓筈が!」  
体当たりでアシュ弓の下側の先端が折れ、弦がだらりと哀れにぶら下がって揺れている。  
詰め所から飛び出してきていた衛兵たちが成り行きを理解したらしく、一斉にこちらに向かって走りはじめた。  
 
その時にはもうサディアスは剣を抜きながら不審者に猛進していた。  
詰め所の傍らを抜けようとするとはふてぶてしい賊だが、高い足がかりのない城壁に取り囲まれた内側の庭から外に出るには夜間この門しか隙間はない。  
他に仲間がいる気配はない。  
単独犯。  
ということは大胆ではあるが考え無しの盗人だな、と彼は追いながら判断した。  
宝物はすでに北塔に納められている。  
昼間見物の群衆に紛れて王宮内部に侵入したものの、隙を見いだせぬまま宝物は納められて夜になり、今や意味のない事にやっと気付いて夜明け前の脱出をはかったというあたりだろう。  
賊は門の横の木製の物見櫓にとびついた。  
「あがるぞ!」  
衛兵長の叫びに、頂上に詰めていた番兵が不用意に下を覗き込み、賊に襟首を掴まれてバランスを崩したのが見えた。  
 
「門を開けろ!クロード、馬三頭!バトーユ!ジョン!ガデス!来い!」  
城壁は外部からの侵入にはやたら頑丈に出来ているのだが、必死の風情で賊が物見櫓から飛び移り、みるみる越えていくのを見ていると内側からの攻略には脆いのがよくわかる。  
サディアスは歯がみしながら、重い鋲打ちの扉を衛兵と番兵が渾身の力で押し開くのを手伝った。  
蹄の音がして振り向くと、クロードが馬をひいた部下をひき連れて広場にかけこんできた。  
すでに新しい弓を肩にかけている。  
「俺と副長でヤツを追う。追いつけるだろう、ヤツは一人だ、人気のない方に向かう。つまりあっちだ」  
サディアスは街外れに向かう道を指差した。  
城壁の周囲を巡るように堀と街道と街が並んでいるが、こちら側は堀のために街にも壁があるから中に入ることはできまい。  
「バトーユは西、ジョンは北、ガデスは城を回り込んで南だ。万が一のために街道をおさえて見張れ。いくぞ、クロード!」  
了解した部下たちが馬上にあがってそれぞれに門から飛び出し、サディアスは残りの衛兵たちに二言三言指図をすると腰の鞘に剣をおさめて副長に向き直った。  
「俺たちゃ走りかよ?」  
クロードが叫んだ。  
「馬だと見落とす」  
そのまま走り始めた衛兵長の広い背中を肩を一瞬竦めてうんざりしたように眺め、気を取り直したようにクロードも駆け出した。  
あっというまに闇の中に姿の消えた二人を見送ると、衛兵たちは急いでサディアスの指示通り、重い城門をきっちりと閉じた。  
 
*  
 
予測は的中した。  
 
闇の中のしばしの無言の追跡の果て、町外れ、夜明け前の微妙な陰影を刻んだ空を背景に、  
石切り場へ向かう坂の頂上近くを逃げて行く人影を衛兵コンビは発見した。  
一言も声を交わさないまま、疾走しながら衛兵長が剣の鞘に手をかけ、副長が矢筒に片手をあげた。  
だがその足音と気配を察したらしく、足を止めた人影は振り返り、急な角度で突然に、街道から脇の荒れ地へ飛び込んだ。  
「ちっ!」  
でこぼこの荒れ地に低い灌木がいくつも伏せている複雑な地形に、副長が片手をおろして舌打ちした。  
「追いたてる。坂の底の茂みへ廻れ」  
言い捨てた巨体が荒れ地に飛び込み、クロードは弓を握りしめてたたらを踏んだ。  
「気ィつけろよ、サディアス!」  
 
サディアスは薄い闇の中地形を読んだ。  
もはや賊との距離はない。焦る心で走り続けたヤツにはもはや余裕もないはずだ。  
わざと起伏が上昇する方面に回り込んでみせると、賊は簡単に目論みにひっかかった。  
だらだらと石切り場へと降りる斜面を駆け下りていく。  
 
軌道を修正して一気に加速したサディアスは顔をあげ、喉の奥でくぐもった呻きを漏らした。  
払暁にはまだ早いがそれでも星明かりでぼんやりと浮かび上がった黒い坂の途中に、細い影が立っていた。  
少し早い、と衛兵長は胸に叫んだがクロードの頼りないほどの痩身は弓を構え、一直線に近づいてくる賊にぴたりと狙いを定めた。  
坂道で足をとられ、止まれないままの賊が意味の聞き取れない叫びを放ち、刃物を握ったままだった手を振り上げた。  
クロードとの間を糸よりも鋭い光が結び、次の瞬間よろりと副長の影が揺れたのをサディアスは見た。  
弓が手を離れ、矢筒から黒い矢が散らばるのも見えた。  
悲鳴のような、笑いのような叫びをあげながら空手の賊はその横を走り抜け、街道をひょろひょろと横切ってそのまま西の斜面へと逃げていった。  
 
「クロード!!」  
辛うじて足をとどめたサディアスがほとんどぶつかるように抱きとめた躯は恐ろしく細かった。  
「…ってぇよ!……俺はいい、早く追え!」  
クロードが叫んだが、衛兵長は賊の背中に目をちらとやっただけで、すぐに腕の中の副長にかがみ込んだ。  
「どこを、やられた」  
「足だ。情けねぇ」  
副長は顔をしかめたが、はっと気付いたように、自分を抱きとめている太い腕に視線を止めた。  
「傷を見せろ」  
眉をよせたサディアスに、彼はわめいた。  
「大したこたねーよ!それよかヤツだ!このままとんずらかよ、けったくそ悪ィ!」  
「ヤツは、西に逃げた」  
衛兵長は諭すように声を低めた。流石にさきほどからの疾走の連続で息があがっている。  
「バトーユ、がいる……もし、街の城壁をまわって北へ向かえば、ジョンだ……ヤツは空手だ。逃げられぬ」  
「ああ…」  
クロードは顔を歪めて笑った。  
賊の投げたナイフが血に塗れた刃を剥き出しに、傍らに転がっている。  
衛兵長はそれを拾い上げ、星明かりに斜めにすかすようにその刃を眺めた。  
 
サディアスが指名した三人の衛兵の顔を思い浮かべたらしく、クロードは納得した。  
「剣が得意な奴らばっかだしな…」  
そこまで呟き、小さく呻く。  
衛兵長の大きな掌が靴ごと足首を掴み、引っ張ったからだ。  
「平気だっつってんだろ…!いてて、引っ張るな、馬鹿野郎!」  
「黙れ」  
サディアスは抵抗するクロードの腕をうるさそうに払いのけ、膝に手を滑らせると引き寄せて、太腿に視線をやった。  
ズボンの布地がおよそ掌ぶんの長さほど切り裂かれ、漆黒なのでわからないがかなり出血している様子だった。  
ほの白い素肌がわずかに見えたが、傷口の詳細は夜明け前の星明かりが頼りではよく確認できない。  
 
サディアスは眉を寄せた。  
「暗くてわからん」  
「手当は戻ってからでいい。いい加減、放せよ衛兵…」  
長、の言葉がクロードの喉で消えた。  
いきなり広い背中を丸めたサディアスが傷口に口をつけたのだ。  
「……あ、おいっ!!何の真似だよ!」  
一瞬呆然としていた副長が顔を真っ赤にしていきり立ち、巨漢の肩をこづいて帽子を払い落とした。  
だががっちりと固定されている足はびくとも動けない。  
「やめろ!やめ…」  
クロードは、ぎくりと、赤毛の頭に目を据えたまま固まった。  
舌に傷口を覆われ、強く吸われる感触に驚いたのだろう。  
 
衛兵長はむくりと身を起こし、地面に、唾と一緒に黒いものを吐き捨てた。  
吸いとったクロードの血だ。  
袖口で汚れた口元を拭い、サディアスは放り出したナイフをちらと眺めて呟いた。  
「刃に何か塗ってある。匂いからしておそらくただの油だろうが、用心はしておかぬとな」  
「………あー。なるほど」  
クロードは、あっさりと解放された足を眺めた。  
「だが思ったより出血している。とりあえず、どこかで応急処置だな」  
衛兵長は首をぼきぼき鳴らすと、また身を屈めて副長の背に掌をあてた。  
クロードは不吉な予感に顔を顰めたが、案の定膝の下にもう片方の腕が入り込んできた。  
 
両腕に痩身を抱いた衛兵長が立ち上がると、抱かれた男は喚き始めた。  
「や・め・ろ、つってんだろ!!こんな恥さらしな格好を部下どもに見られてみろ、もう二度と睨みがきかねぇ!」  
「…副長、ちゃんと食事をとっておるのだろうな?」  
拳を振り回して暴れる副長を危なげもなく運びながら、サディアスはやや心配そうに尋ねた。  
「細いとは思っておったが、こうしてみるとあまりにも軽い」  
「あんたに比べりゃ熊でも軽いぜ。いーから!肩だけ貸してくれりゃ歩けンだよ!はなせよーっ!!!!」  
「何か巻くまでは動かぬほうがいい。…それと、耳元で喚くな」  
何をやっても無駄とわかったクロードは黙り、ずんずんと歩いてゆくサディアスの行く手に目をやった。  
 
凍てつく夜気に沈む石切り場を越えた斜面の途中に、荒れ果てたかつての修道院の跡が不気味なシルエットになって浮かんでいる。  
 
クロードは喉の奥でなにごとか罵った。  
「おいおい…よりによって、夜の石切り場の坊主のすみかの廃墟かよぉ。おあつらえ向きの怪談の舞台じゃねぇか」  
「夜が明ければ部下達がこのあたりを探しに来る。目印には格好だ。…少しは黙れ」  
ちっ、と舌を鳴らし、副長は実に居心地悪げにサディアスの腕の中で躯を硬直させた。  
「了解、衛兵長」  
 
*  
 
古くさい廃墟にもいいところはある。  
目印になることもその一つだが、そのへんを適当に探すと、吹き寄せられた枯れ葉や枝やゴミが雨に濡れない場所に転がっていることなどだ。  
その上、早く、怪我をした副長を暖めてやらねばならないサディアスにとってはおあつらえむきなことに、  
石切り場の職人が休憩時間に入り込んで作ったらしき、たき火に格好の石組みまで見つけることができた。  
この過酷な一週間の締めくくりとしては悪くない。  
 
炎が安定して伸び上がり始めると、サディアスは抜け落ちた梁のような灰色の太い丸太を真ん中に渡した。  
これで放っておいても消えることはない。  
振り返ると、がれきの山を背に横たわっていたクロードがあからさまに警戒した顔つきになって口を開いた。  
「ここまでしてもらえりゃ安心だ、すまねぇ…手当なら、あとで、自分でするからよ。あんたは休んでくれないか」  
「何を言っておる」  
衛兵長は漆黒の上着を脱ぎ始めた。お仕着せのブラウスも脱ぎ、前合わせのシャツをめくる。  
みるみる分厚い躯が露になっていくのを目の当たりにしたクロードが喉に息が詰まったような声をあげた。  
「な、何だ、その真似は」  
「こんなものですまぬが、他に適当な布地がないのだ」  
サディアスは上半身裸になり、短剣をとると、その刃を脱いだばかりのシャツにあてた。  
細く裂き、幾条もの包帯もどきをでっちあげ、彼はそれを丁寧に掌に掬い上げると副長に見せて笑いかけた。  
「さあ、脱げ。下だけでいい」  
 
「待ーてーよー!」  
クロードは跳ね起きた。  
「いちちち」  
サディアスは慌てて片手をつき、膝を進めて近づいた。  
「馬鹿者、動くな。傷口が開くぞ」  
「お、俺はなあ!」  
クロードが痛みをものともせず、近づいてくる衛兵長にくってかかった。  
「俺はこう見えてめちゃくちゃ丈夫なんだよ!いいから、頼むから、放っといてくれってば」  
「うむ。怪我さえしておらねばこうも人の親切を無にしたがる小僧など、放っておきたいのは山々だがな」  
サディアスはむんずとクロードの腕を掴んだ。クロードが激怒した。  
「小僧だと。いつまでもガキ扱いすんな、俺はもうすぐハタチだぜ。気安く触んなって!」  
衛兵長は、掌から伝わるなんとなく頼りない感触に顔を顰めた。  
「こうしてみるとやはり細い。何か悩み事でもあるのではないか?」  
「へっ」  
なんとか振り払い、クロードはいかついくせに人のよさそうな上官の顔を眺めて、いささか毒のこもった口調で呟いた。  
「あんたじゃあるまいしよ…」  
 
腕を放し、衛兵長は何も聞かなかったような顔でクロードの前にしゃがみ込んだ。  
「たまたま今日は一番いいシャツを着ていた。それを犠牲にしたのだ。恩を着せるつもりはないが、有効に利用させてもらうぞ、副長」  
「よせ!!」  
サディアスはにこりと笑った。  
「お前が衛兵長なら命令として聞いてもいいのだがな」  
否応無しにクロードは、鋼のような腕で引き寄せられた。  
クロードの頭をがれきの下にずり落とし、その躯を脇に挟むように抑えつけた衛兵長は、彼の上着をめくりあげ、ベルトを外し始めた。  
「よせよっ」  
両手を固めて殴りつけようとしたが、殴れる場所は背中しかない。  
「お前、なんだこの生っ白い腹は」  
逞しい背中越しに、呆れたようなサディアスの声がする。  
「痩せっぽちにも限度がある」  
「よせよ…!」  
副長の声がふいに弱々しくなった。ズボンが腰に沿って引き下げられ、下着がそれにつれてめくれたのがわかった。  
クロードは拳で顔を覆い、上半身を丸めるようにして縮こまった。  
「ふむ」  
サディアスの声がする。傷の付近を、指先が軽く抑える感触。  
「…派手には見えるが、浅い。すっぱりいったな。傷口も荒れておらん。これなら包帯をしておけば大したことはない」  
衛兵長が肩越しに振り向く気配がした。  
「安心しろ、副長…」  
サディアスは言葉を止めた。  
「クロード?どうした」  
「……………」  
慌てたように衛兵長はおさえていたクロードの腰から手を放し、向き直ってきた。  
「どうした。気分が悪くなったのではないか?」  
 
肩に手を置こうとして、彼は躊躇った。  
その肩が小刻みに揺れていた。その揺れは段々大きくなり、ついには声まで漏れ出した。  
「……っ、くっ、く…あ、あははは!」  
クロードは両手をぐいと顔から外し、大笑いを始めた。  
「あははは、はははっ、うあーっはっはっはぁ!!」  
これ以上もう我慢できないといった風情で、笑い過ぎで目尻には涙まで滲んでいる。  
「…副長」  
サディアスの顔は反対に深刻な影を刻んだ。  
「お前、変だぞ」  
「変なのはあんたさ、サディアス」  
にやりと笑って副長は片腕を伸ばすと素早く、下着ごとズボンを引き上げた。  
「いいなぁ、あんた。信じらンねーけどそういうとこがいいんだよなぁ」  
衛兵長は眉間に深い溝を作ったが、副長が元通りに傷を隠したのに気付いて口の端を曲げた。  
「手当だ、副長」  
「自分でする。浅いんだろ」  
きっぱりとクロードは宣言し、よろよろと立ち上がった。  
「男同士で裸になってる趣味はねぇんでな。悪いがあっちでさせてもらうぜ」  
親指で崩れ落ちた壁を指し、クロードは衛兵長の手から包帯を奪うと、危なっかしく歩き始めた。  
「肩を貸そう」  
見かねて立ち上がったサディアスの申し出を、今回彼は断らなかった。  
面白くてたまらないといった表情を一瞬みせて、クロードは碧い目に笑みを浮かべた。  
「悪りぃな」  
 
壁の向こうは吹きっさらしの青天井…いや、夜だから黒天井…だった。冷え冷えと石を敷き詰めた床しかない。  
「こんなところでは風邪をひく」  
サディアスは顔をしかめて、副長の胴を支える掌に力をこめた。  
「やはり、火の傍に戻ろう」  
言い終えた途端、大きなくしゃみをした巨漢を見上げて、クロードは声を潜めた。  
「あんたが風邪ひいてんじゃねえの」  
「それは…」  
衛兵長は鼻水をすすり上げた。そういえば、このところ風邪気味だった事をすっかり忘れていた。  
「…今、服を着ていないからだ」  
クロードは俯いて、うんざりしたように額を押さえた。  
「面倒見がいいのも考えモンだな…先に服くらい着てくれよ、頼むぜ衛兵長」  
「うむ」  
 
二人は引き返し、再び火の傍らに落ち着いた。  
サディアスが服を着るのを、副長は火に枯れ草を放って勢いをつけながら、疲れた顔で見ていた。  
が、その右手が反対側の肋の上をしきりに撫でていることに衛兵長は気がついた。  
「そこはどうした」  
「ああ…これか」  
クロードは舌打ちした。  
「詰め所ンとこで俺の弓がいかれただろ。折れた弓筈が突きこんできた痕がちっとな」  
 
サディアスはじっと副長を見た。  
「そういえば礼がまだだった。感謝する、副長」  
「よせよ」  
クロードは笑った。  
「俺があんたを護るのは当然だろ」  
「いや。すまぬ」  
上着を羽織り、副長の傍に腰を降ろしたサディアスは彼に言った。  
「一応そこも見ておいてやろうか」  
「またかよ」  
クロードは、ぱっと飛び退…きかけ、太腿の例の傷を抑えて呻いた。  
「いちちち」  
「満身創痍なのだ。遠慮するな」  
「遠慮じゃねえんだよ!…あっ、この馬鹿」  
あっさり巨体に押さえ込まれて、クロードは顔を真っ赤にして叫んだ。  
サディアスは笑った。  
「世話をやかれたくなければもう少し肉をつけろ、副長」  
「やめろよ!イヤなんだよ、男に触られるのはっ」  
「………それはすまぬが。おや?」  
サディアスは間近で、優男の副長の顔をまじまじと眺めた。  
その、男にしておくのはもったいないようなどこか線の細い容貌には、確かに嫌悪と、それからよくわからない表情が浮かんでいる。  
「お前。なかなか女にもてそうな男前だったのだな、クロード」  
「うげっ」  
副長は呻いた。  
「よせやい、今さら。五年もつき合わせてた面だぜ。まさかそんな趣味があンじゃねえだろうな、あんた!」  
「ない。俺とて顔を近づけるのは女性のほうが楽しい」  
サディアスは身をおこし、クロードの襟首を引っ張り上げた。  
そのまま骨太い指でボタンを外し出すと、クロードは両腕をつっぱって逃れようとした。  
「女?……女ってな、例えばあれか。確か、アンヌっつったっけかな──金褐色の綺麗な髪の?」  
 
サディアスの指の動きが止まった。  
 
それはわずかの間だったが、クロードはその間に素早く言い添えた。  
「あんたの惚れてる娼婦だよ。え、身分違いもいいとこじゃねーか?──ダジュール子爵家のお坊ちゃま」  
ぎくしゃくと、衛兵長は躯を起こした。その口を突いて、例の癖が出た。  
「どどど…ど、どこでそそそれを」  
クロードも斜めに身を起こし、憎々し気に言い捨てた。  
「誰でも同じだろ。二ヶ月前だっけな。あんたを娼館に誘った部下からバッチリ聞いたさ」  
「ち、違う」  
サディアスは、やや頬を赤らめたがきっぱりと言った。  
「たた、確かにいかがわしい場所に行った。その女とも寝た──が、が──惚れてはおらぬ」  
「へえぇぇぇ」  
クロードは碧い目を細め、信用していないことが丸判りの抑揚を声に効かせた。  
「その女とは一度じゃなかったって聞いてるぜ。先月か?そン時もわざわざ同じ女を指名したんだってな」  
衛兵長は大きな図体を縮めるように座り直した。  
「ししし、指名はしたが…それは、その女だから、じゃない。…他には一人として居なかったのだ、あのような豪華な、金──」  
黙り込み、サディアスは顔をうつむけた。  
頭の毛を同じくらい、その顔が赤く茹で上がっていた。  
クロードはゆっくりと言った。  
「──金褐色の髪か?」  
「………」  
 
サディアスは返事をしなかった。  
副長の顔が複雑に変化した。  
身をゆっくりと乗り出した。太腿の傷も、肋を撫でるのも忘れている。  
「おい」  
衛兵長は巨体を揺らした。その頭の天辺に、クロードは不審も露に問いかけた。  
「…まさかよ」  
サディアスは無言だった。  
「あんたの惚れてる相手ってのは、本当に、その女じゃねーんだな?」  
「………ち、違う……」  
衛兵長は顔をあげた。嘘の吐けない青い目が怯んでいた。  
いつも剛毅で単純な衛兵長を見慣れたクロードの目に、それはひどく弱々しく、だからこそかえって恐ろしいものに映った。  
 
「…そのへんには転がってないような、豪華な金褐色の、綺麗な髪──」  
クロードはのろのろと呟いた。  
「あんたがおかしくなったのは──そうだ、イヴァン様が王陛下に閉じ込められて『あの方』がいらっしゃった、丁度三ヶ月前からだ──」  
「やめろ」  
衛兵長が叫んだ。  
副長に飛びかかり、口を塞ごうと掌を押し付けた。  
「いいい言うな、クロード!」  
「…娼婦どころの騒ぎじゃねぇや!」  
それより早くクロードが大声をあげた。  
「てめぇ、何考えてんだ!!!」  
「だだ、黙れ!!」  
口元を歪めた衛兵長に押し拉がれたクロードは悲鳴をあげた。肋と太腿をいっしょくたに庇って可能な限りに躯を丸める。  
その声にわずかに正気を取り戻したサディアスは、自分が副長の細っこい躯に体重をかけている事に気付いた。  
だが重みをのけようとはしない。  
青い目をぎらぎらさせて、サディアスは迫った。  
「いいい、い言うな。言うな。だ、誰にも言うな!!」  
「言えるかよっ」  
クロードが叫んだ。  
「バレたら、よくてあんたは追放だ──下手すりゃ殺されちまう。殿下の『あの方』への寵愛は知ってるだろう!」  
渾身の力でそこまで言うと、副長は激しく咳き込んだ。  
 
衛兵長の巨体から力が抜けた。  
クロードの上からよろりと離れて、彼は尻餅をつくようにへたり込んだ。  
しばらくの間、副長の咳き込む声と、たき火が弾ける音だけが夜の静寂を埋めた。  
 
「…知っている」  
やがて衛兵長はぼそりと呟いた。  
「判っている。イヴァン様の溺愛ぶりも、あのお方がご主人様を心底慕っていらっしゃるのも。俺は──」  
いかつい顔が歪み、クロードは信じられないものを見た。  
青い目が激情に潤んでいる。  
 
「俺は──聞いたのだ」  
 
ふつ、とサディアスは口を噤んだ。  
何を、とは聞けなかった。  
この男が、漏らさぬと決めた事は口が裂けようが漏らすことはないと、クロードもまたよく判っていた。  
衛兵長の首が深く俯くのを、クロードは深い胸の痛みとともに見守った。  
 
見守ることしか、できなかった。  
 

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