祖父は微動だにせず、窓の外から病院の広い庭を眺めていた。斜めに射した陽が窓から入り込んで白い床に落ちていた。
「お爺様」
瑞希が呼びかけると祖父はゆっくりとこちらを見た。
小さな老人だった。病院の白いベッドに腰掛けて、痩せ細った身体をそれでもまっすぐに伸ばしていた。
大鐘征二郎は開口一番こう言った。
「くどいぞ、瑞希」
「これだけは譲るわけに参りません」
瑞希は静かだが強い口調で訴えた。
「今は小康状態でいらっしゃるでしょう。主治医から外出許可は出るはずです。お願いです」
頭を下げる。
「たった一度でかまいません。祖母のお骨に手を合わせに来てくださいませんか」
老人は答えなかった。そのままじっとそうしていると、突然個室の扉が開き、老婦人が顔を出した。瑞希ははたと会話を打ち切る。
「あら、瑞希さん。いらっしゃいまし」
「妙さま。お邪魔しています」
会釈をし顔を上げると瑞希は瞠目した。
婦人は大きな花束を抱えていた。一抱えもある巨大な束には瑞希の見たことも無いような種類の大輪の花が、おそらく最も美しいであろう状態で咲き誇っている。
足元の見えない婦人がよたよたと危なっかしい足取りになっているのを見て瑞希は駆け寄った。
「お手伝いします」
「まあ、ありがとう。なら私は花瓶を出します」
瑞樹が花束を受け取ると生花特有のいい香りが鼻をくすぐった。様々に表情を見せている花々は間近で見ると圧倒的な存在感があった。
「この花束、どうされたんですか」
婦人はにっこりと笑った。
「龍司さんよ」
「えっ……」
今度こそ瞠目して、瑞希は鸚鵡返しに尋ねた。あの、
「龍司……さんがですか?」
「そうよ。二週間に一度、必ずこうして届けてくれるの。この人の仕事をかなりの量継いでくれていて忙しいのにねえ。それをこの人ったら」
この人とは祖父、征二郎のことだ。妙は彼の妻である。
たおやかで上品な老婦人で、事実上大鐘の女たちを取り仕切っている存在でもあった。頑固な征二郎と正反対の性格をしていたが、人に対して公平であるところは同様だった。
愛人の孫である瑞希にもわけへだてなく優しい。この女性がいなければ瑞希はおそらくこうしてここにいることは無かっただろう。
征二郎は妙の言葉に鼻を鳴らした。
「花なぞなんの役に立つ」
「こうだもの」
妙は苦笑して瑞希に目を向けた。
「男の子にこう言うのもなんですけど」
妙は瑞希から花束を受け取った。
「瑞希さんも、見捨てないでやってね」
「……」
ぎこちなく微笑んで瑞希は重い気分を追いやった。
今日は土曜日だ。
龍司は車窓から窓の外を流れる景色を眺めていた。
龍司には基本的に休日は無い。取締役としての業務は当たり前だが日を選ばない。会社の高い地位にいる人間の常として、龍司も自身の限界まで仕事を詰め込んでいた。
それでも土曜の夕方には何とか空き時間をねじ込むことができた。これでも執行役員のころよりは時間が取れるようになっているのだ。
第一遊ぶ時間も無ければ、とてもではないがやっていけない。どれだけ偉くなってもやることは基本的には事務仕事だからだ。
龍司にとって遊びとは女と遊ぶことだった。
龍司に決まった女はいない。継続的に付き合っている女はいるが複数人で、そのほとんどとは(少なくとも龍司にとっては)金と身体だけの関係だ。
例外もいるものの、それとて愛し合っているかというとそうではない。せいぜいセフレといった間柄に過ぎない。友人と会って仕事の愚痴をぶつけ合って、
ついでにちょっとした快楽を得る、そんな程度の認識だ。おそらく相手もそうだろう。
だから龍司は彼女らに対して我をぶつけることは無い。相手の嫌がることはしない。無茶な要求もしない。互いにそれなりに楽しめればそれでよい。
そういうスタンスでやってきた。今の生活で特に不満は無いはずだった。
しかし、ならば俺はあのたった十八の少女の何を欲しかったのか。
龍司は無言でひたすら窓の外を眺めていたが、ある通りを横切った瞬間、即時運転手に車を止めさせた。
帰り道、瑞希はとぼとぼと街路樹が規則正しく並ぶ歩道を歩いていた。周囲は閑静な商店街で、端的に言うとセレブと呼ばれる人々が入りそうな高級な店が軒を連ねている。
自分の安普請はここを抜けてやっとたどり着いた駅から電車で幾つか先の駅で降りてさらに何キロか先だ。
歩くごとに足が鉛のように重くなっていくことを自覚しながら、それでも時間までにはアパートへ戻らなければならない。
家へ戻りたくないと思うその理由――つまり先週の出来事は、ありていに言ってひどいものだった。
その後は丸一日何も喉を通らなかった。正直もう思い出したくも無い。
それでも彼女は結局、その原因を作った龍司を恨みきるには至らなかった。いっそのことそうできてしまえばどんなに楽だったかもしれない。
しかし育ての親である祖母が根っから明るかった所為か、彼女はこれまで恨みつらみといった感情を知ること無く生きてきた。
祖母はどんなにつらい事があっても最後には結局笑って済ませてしまうような人だった。瑞希はそれを見て育ってきたし、その祖母に人生とは何たるかを教わってきた。
だから十八にもなって今更そういった感情を持つことのほうが、彼女にとってはかえって難しいことだったのだ。
だがもちろん、それと龍司への嫌悪とは別だ。しかもその嫌悪感を嫌でも増幅させることには、これから週に一度の割合で、その大嫌いな龍司と逢わねばならないということだった。
瑞希は着ているスーツの端をぎゅっと掴んだ。こうなったら意地でも耐えてやる。この逆境を乗り越えて絶対に目的を果たすのだ。
女二人、しかも年配の女性と子供での暮らしは大変なもので、国からの援助と祖母のパートでやっと食いつないでいた状態だった。だから瑞希としては一刻も早く働きたかった。
だから最初は高校へも行かないつもりだった。しかし女で中卒となると、働き口は皆無だった。仕方なく高校へ進学し、バイト漬けの日々を送った。
高校なんてとっとと卒業して、さっさと就職して、祖母に楽をさせてやるのが彼女の人生最初の目標だった。
そしてそれをかなえる前に祖母が死んだ。
瑞希の落胆は相当なものだった。祖母の遺骨を前に、これから先、私は何を目標にして生きていけばいいのだろうと、そんなことばかり考えた。
そんな折、一通の手紙を受け取った。宛名は祖母で、宛先は祖母のとても古い住所で、これでよく届いたな、と感心した。
中を読むと手紙の主は祖母に子供ができたことすら知らない様子だった。手紙は妙からのものだった。
それは祖父が病気で余命いくばくもない、会ってやってほしいと言う手紙だった。祖母の経歴は知っていたから、あまり驚かなかった。
祖母を失っていくらも経っていなかったので、会ったこともない祖父が病気だと言われても実感がわかなかった。
しかし瑞希はほとんど発作的に返信していた――自分は男であると偽って。
昔から負けん気が強く、小学校のころは男友達から『男女』などと呼ばれていた類の、絵に描いたようなお転婆だった。
加えて前述のような理由もあって、昔から「自分が男だったら良かったのに」と思い続けていた。そしてこの時、祖父の男女に関する考え方も手紙の内容から推測した。
龍司に言った、祖母のお墓と土地が欲しいというのは本当だった。しかしそれ以上に、祖母の事を認めて欲しいと思った。認めて、祖母の墓前に出向いて欲しかった。
そして出来るなら、少しでいい、自分のことも認めて欲しい。それには自分が男のほうが都合がいいと思った。
幸い、自分の名前は男の名前だった。昔は、同じみずきなら『美月』の方が良かったと訴えたこともあったが、そんな時祖母は決まって「希望の『希』が入ってるんだからこっちのほうがいいじゃないの」と答えたものだ。
その祖母に何か一言言って欲しい。謝って欲しいとは言わないが、祖母にもう一度会って欲しいと思うのだ。
復讐ではないが、もしかしたらそれに近い感情なのかもしれない。自分でも意固地になっていると思う。だが、出来るところまでやってみたいと思った――
ぱっと目を開けると目前にディスプレイウインドウが迫っていた。
「うわっ」
思わず声を上げて大仰によけてしまう。赤面して辺りを見回すが幸い人はいなかった。考え事をしながら歩いていたため、通りの角に差し掛かったのに気付かずぶつかってしまいそうになったのだ。
ここはいったい何の店だったかと目の前のディスプレイを見る。きらびやかなアクセサリー類が並んでいた。宝石店とわかる。
それから店の名前を確認し、瑞希はああ、この通りか、と自分のいる位置を見当付ける事ができた。
しかしそれはそれとして、
「あ、これいいな」
と思わず目の前のアクセサリーを眺めてしまうのは、男の格好をしていても女であることを捨てきれない人間の性というものか。
宝石類のディスプレイなのでウインドウの中は何段かに仕切られており、ちょうど彼女の目線の位置に飾られているペンダントがあった。
思わずじっと見入る。素材はシルバーで、小さな凝ったデザインの二連リングがトップに据えられたものだった。
鎖は短めで、ペンダントトップがちょうど鎖骨の下あたりに収まるだろう長さだ。
「……はっ」
気がつくとウインドウに手まで添えてべったりと張り付いている自分がいる。
瑞希は渋い顔をした。
「駄目駄目。どうせ買えないもん」
かぶりを振って歩き出す。瑞希にはこういった本物のシルバーアクセサリーはもちろん、露天で売っているような安物でさえ手が出せない。
ただでさえ切り詰めた生活をしている上にわずかながらも貯金をしているのだ。必要のないものは一切買わない。彼女の黄金ルールだった。
しかし、
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
店員らしき若い女性が入り口の前に立っていた。手荷物を見るに、買い出しにでも行っていたらしい。
社交的な性格らしく、ただディスプレイを見ているだけの瑞希にも積極的に声をかけてきた。
「よろしければどうぞ中へ。あ」
瑞希の見ていたペンダントに目を留めて笑う。
「そちら、新作ですよ。いかがです?」
「え、いえ、わ……いや、俺は」
慌てて半歩下がると、瑞希はわたわたと応対した。にこやかに、だがさりげなくこちらを観察してくる店員に、居心地の悪い思いで頬を掻いた。
店員はそのペンダントが女性ものと気付くとにっこり微笑んだ。
「彼女へのプレゼントですか?いいですね、うらやましいわ。素敵な彼氏がいて」
「はあ」
愛想笑いを浮かべると瑞希は言い訳をするように両掌をさっと上げて相手の台詞を遮った。
「あの、今ちょっと持ち合わせが無くて。またの機会にします」
店員は残念そうに肩をすくめた。
「そうですか?またお越しくださいね」
「は、はいっ」
くるりと向きを変えて歩き出す。何とかその場を逃げ出すと、瑞希はため息をついた。目を伏せる。少年じみた表情がふと憂鬱に染まった。
その想いに呼応するように日が沈み始めた。
龍司が六畳間へ上がりこんで来たとき、瑞希は六畳間の真ん中に置いてある卓袱台の脇で、龍司に背を向け、黙って座っていた。
正直、顔も見たくないし、声も聞きたくない。が、
「逃げなかったか。偉い偉い」
その台詞に瑞樹はぱっと振り返った。
「誰の所為ですか!?」
「俺の所為だって言うんだろう」
「そうよっ」
龍司は敵意剥き出しの視線に肩をすくめると、ポケットから何かを取り出した。掌に収まるほどの小さな箱を、彼は手の内でもてあそんだ。
「ほら」
龍司はその箱をぽんと放り投げてきた。
「――――」
反射的に瑞希はそれを受け取った。素材は厚い紙で、中は重いとも軽いともいえない、なんとも手にしっくりなじむ程度の重量だった。
なんだろうと軽く振ってみるとわずかに何かの揺れる音が聞こえた。
「やるよ。馬鹿正直に待ってたご褒美だ」
その一言に瑞希はむっとした。開けずに卓袱台の上へ置く。
「お返しします。いらないわ」
「開けてみろよ」
「いりません」
「驚くからさ」
「いりませんってば」
応酬はしばらく続いたが、最終的には龍司の「開けなきゃばらすぞ」の一言で決着がついた。
しぶしぶ箱を開けた瑞希は、中に更に小さな箱が入っているのを見た。ジュエリーを納める類の、角が丸く表面がビロードのような質感のあれだ。
「……?」
何かを予感してその中身を見た瑞希は、果たして龍司の言ったとおり、驚いて一瞬固まった。
「…………どうしてこれを」
中には昼間瑞希が宝石店で見入っていたペンダントが入っていた。店で見ていたものに間違いない、色も形も寸分違わないそれだ。思わず手に取って見る。
龍司がからかうような口調になった。
「仕事中に車で移動してたら、店のガラスに張り付いてるお前を見つけたんだよ。店員と話してたからその店員に話聞いたらまあ、だいたい予想がついてな」
「いつの間にっ」
耳まで赤くなって瑞希は呻いた。あんな姿を見られていたとは屈辱だ。
実際手に触れた感触に瑞希は心ならずも感動してしまったが、これが龍司から与えられたものとなれば話は別だった。未練を断って箱を元の通りに収める。
「……いりません」
「強情だな」
「好きでもない人に物をもらっていい気分はしません!」
ことさらはっきりと発音してみせる。それを聞いても龍司は特に気分を悪くした様子は無かった。部屋を横切り、押入れの前に立つ。
「ふむ」
龍司は勝手にその扉を開けた。上段に敷布団が仕舞ってあるのを見つけると手をかけて引っ張り出そうとする。
「ちょっと、何するのっ」
勝手に家内を捜索された怒りと戸惑いで叫ぶ。彼は良質の敷布団であればありえない布団の重さにいささか驚いたようで、結局敷布団は出さずにその上にたたまれてあったシーツだけを引き出した。
「畳の上でやりたいのか?先週みたいに」
「――」
龍司の言うとおりだった。先週は結局茣蓙を新しいものに取り替えなければならなくなったのだ。
「……もう勝手にしてっ」
毒づくと、それきり口出しせずにそっぽを向く。ちらりと見るとシーツがばさりと音を立てて畳の上に広がったところだった。
そのままネクタイを解き始めた龍司は実にあっさりとこう言った。
「お前は脱がないのか?嫌だって言うんなら俺が脱がせてやってもいいが」
「……!」
憤死しそうになりながらも瑞希は彼に倣うしかなかった。ただでさえ手持ちの衣服は少ないのに不必要に汚すわけにはいかないし、何より龍司に脱がされるのだけは我慢ならなかった。
男物のシャツの、胸元のボタンをはずしたところで龍司の視線に気付き睨み付けると、彼は肩をすくめて向こうを向いた。
シャツを脱ぎ、次にズボンを脱ぐかサラシを取るかで少し迷ったが、意を決してサラシを解き始める。
彼女はもともとスレンダーな体型で胸の発育も良くはなかったが、それでもサラシが無ければ男の真似はできない。サラシがするすると地面に降りていく。
ぱさりと音を立てて端まで落ちると、上半身が露わになった。嫌でも顔に血が上る。龍司がまだ向こうを向いていることを確かめて、彼女はズボンにも手を掛けた。
裸になるのは嫌だが、脱ぐところを見られるよりはるかにましだ。しわになったズボンが足元から抜かれる。
「……」
最後の一枚だけは流石に躊躇った。何秒かかけて羞恥を押さえ込んでからやっと、彼女はショーツを取り去った。
顔を上げると龍司は既に全部脱ぎ終わり、シーツに腰を下ろしてこちらを見ていた。慌てて胸と茂みを手で隠す。
見られたのと見てしまったのと両方で頬を真っ赤に染めて瑞希は立ちすくんだ。
「来いよ」
横柄な命令にそれでも逆らうことはできず、瑞希はのろのろと動き出した。卓袱台を回り込み、シーツの前まで来て足を止める。
それ以上踏み出せずにいると手を掴まれて引き寄せられた。
「あっ」
バランスを崩してシーツの上に手をつく。間抜けな声を出してしまったことを恥じながらまた胸を隠そうと手を上げたが、その前に龍司の手がそれを押しとどめた。
押し倒される。
龍司は瑞希の首筋に顔を埋めた。龍司の髪が喉元を這う感触に瑞希は震えた。
「やめて」
瑞樹は硬い声で言った。さっと横を向いて唇を開く。
「余計なことはしないで……っ」
語尾が鋭く龍司にぶつけられた。その声はわずかに震えていた。龍司がわずかにあきれた様子で言う。
「お前が痛いだけだぞ?」
「その方がずっとましだわ」
頑なに横を向いたまま、ぎゅっと目をつぶって瑞希は一息に言った。緊張した肌が外気に熱を取られてほんのりと赤く染まっていた。
「貴方みたいな人は、自分が気持ちよくなれればそれでいいんでしょ?好きにさせてあげるから、さっさと終わらせて……」
言い終わらないうちに首筋を舐められ、瑞希は「ひっ」と声を上げた。
「な、何でっ」
「好きにさせてくれるんだよな?え?瑞希」
龍司は唇を歪めて笑った。
「他はどうだか知らないが、俺はどっちかというとその余計な事をしたがる方なんだ。それに」
龍司は彼女の耳朶に顔を寄せてささやいた。
「結局お前は俺の言いなりになるしかないんだ。わかってるな?」
「……っ」
かっと赤面し、瑞希は叫んだ。
「卑怯者っ」
罵声を浴びせた彼女の唇を塞いだキスは、先週のものより更に深く執拗だった。
歯を割り開く。口蓋をくまなく犯す。舌を絡める。唾液を流し込む。責められているのは口内だけなのに、戦慄は彼女の神経を伝ってあっという間に全身に広がった。
「ん……くふ……」
我知らず瞼をぴくぴくと震わせる。瑞希は懸命に息を継いだ。流されてはいけない。流されては駄目だ。気をしっかり持て。気を……
だがその思いとは裏腹に、脳裏には徐々に靄が掛かり始めた。身体に力が入らない。意識がどこか知らないところへ引きずり込まれていく――
「…………っ!」
駄目だ!すんでのところで彼女は失いかけた理性を引き戻した。されるがままだった舌を引っ込め、舌が抜かれた隙に口を閉じて無言の抵抗を示す。
舌を噛んだほうが早かったのだろうが、それはためらわれた。
唇を離した隆二は多少残念そうな顔をしたが、非難はしなかった。
その代わりとでも言いたげに、今度は先ほど顔を埋めていた首筋にキスを落とす。彼はそれを一度だけで無く何度も同じところへ繰り返した。
瑞希は震えた。そのキスは徐々に彼女の身体を降下し始めた。
「――」
目をぎゅっと瞑って視界を閉じる。意識して聴覚から音を締め出す。身体を硬くして触感を断つ。全力でそこまでしてもなお、身体は敏感に反応していた。
くらくらと目が回るような錯覚を覚えた。
いつの間にか、龍司の唇は下腹部にまで達していた。瑞希は知らず知らずシーツの端を握り締めていた。縋るものが何も無い手は薄いシーツだけを拠り所として震え続ける。
二度目の今、龍司以外の男を知らない瑞希にも、龍司がこの手の行為に関してよほど手馴れているのだろうということだけは推測できた。
相手の弱みを突こうとする手は嫌味な程正確だった。瑞希のわずかなリアクションに対しても即座に応じてくる。
下腹部に舌を這わせたときの反応を見て、龍司はそこを重点的に責め始めた。
「く、うっ」
彼女は身じろぎして耐えようとしたが、腰を押さえ込まれて動けなくなった。ああ、この男を今すぐ張り倒したい――しかしそう思うたびに脳裏に祖母の顔がちらつき何もできなくなる。
膝頭を掴まれる。彼女は嫌な予感に脚を閉じて抵抗したが、自分より頭二つも背の高い男の力には適わなかった。あっさりと脚を拡げさせられる。
ぐっと顔を背ける。見られている――彼女は目を閉じてその現実を頭から締め出そうとした。
その時、未知の感覚に襲われた。
「……!」
ぞわりと背筋に悪寒が走った。何事かと視線を下げてそれを見てしまったとき、彼女は危うく自失しそうになった。
龍司が自分の秘所を平然と舐めていた。気が遠くなった。知識としては知ってはいたが、実際にされるとひどくショックだった。
キスはどんどんと深くなっていった。最初は入り口を舐めるだけだったものが、次第にエスカレートしていった。
ぬるぬるとしたそれに媚肉を割り開かれ、何度も何度も愛液をすくわれる。まるで別の生き物が自分の中に入り込んで好き勝手に暴れているような錯覚に陥る。
あまりのことに悲鳴すら上げられない。今すぐにでも失神してしまいたかった。気絶してしまえばこれ以上の羞恥は味あわずに済むだろう。
しかしそのすぐ後には現実的な攻撃が待っていた。
舌が離れ、代わりに指が入り込む。
「っ、は!?」
舌に較べて刺激の強い指はたちまち彼女を正気づかせた。シーツを握り締める手が震える。
「な……やっ……」
嫌、と言いかけた口から零れたのはわずかな吐息だけだった。入れられた指はあくまで優しく内部をかき回した。痛くないよう、より彼女に敗北感を感じさせるように、指は動いた。
それを延々と続けられれば嫌でも緊張を途切れさせてしまうことになる。意思の力だけではどうにもならなかった。
耐え切れず、彼女は腰をくねらせた。自分でもいやらしい動きだと思った。
「舐めてやったせいか、随分感じやすくなってるみたいだな」
「……!ちが……ん、う……っ」
震える唇から声が漏れ、彼女は羞恥で真っ赤に染まった。身体から勝手に力が抜ける。何かがおかしい。そう思った時には既に変化が訪れていた。
「――」
身体が熱かった。気がつくと、鳩尾の辺りが発熱したように熱を持っていた。
彼女は戦慄した。
「……っ……あ……」
腕に鳥肌を立てて彼女は呻いた。
「やめてっ……!」
悲鳴のようにささやいた。龍司はやめない。自分は支配されている側なのだということを痛感する。戒められてもいないのに自分は動けず、相手は好きに自分を弄ぶ。
どうしようもなく濡れているのが自分でもわかる。前回より更に潤んで、指の動きに合わせて泡すら立てて零れ落ちていた。
自分の身体がこんなことに慣れていくなんて信じられなかった。
「やだ……やだ、やだ、やだあっ」
子供のようにかぶりを振って、彼女は全力でその恐怖から逃げ出そうとした。脚が言うことを利かず暴れだしている。
龍司はそれを、彼女の片脚を上げさせて封じた。指をくんと曲げる。
「っ……ひぃっ」
瑞希は最も弱い一点を突かれてあえいだ。その衝撃にまた愛液があふれ出す。この上ない屈辱だった。
「お願い……もう、やめて……」
彼女は涙声で懇願した。こんな台詞を言ってしまう事自体が屈辱だったが、他にどうすることもできない。これ以上は精神が耐えられそうに無かった。
と、不意に指が抜かれた。
「あ……」
全身から力が抜けた。くたりとシーツに身を預ける。
やめてくれた……?彼女は朦朧とした視線を上に向け、そこで急激に強い刺激を受けて白い喉を仰け反らせた。
「……ん……くぅ……!」
膣内に異物が進入してきた。
指よりもはるかに太いそれは、前回よりもはっきりとした形を伴って彼女の中に入り込んでくる。
前回と正反対の驚くほどゆっくりとした挿入に、彼女の腰は小さく何度もびくびくと跳ねた。
「あ……く……」
押し広げられて喘ぐ。前回に較べて痛みは少ない。しかしどうせ同じことだ。またあの乱暴な行為が始まる。
しかし瑞希はかえって安堵した。痛みになら耐えられる。恥ずかしい反応をしてしまうことも無い。瑞希はむしろ穏やかな気分でそれを受けた。
しかし龍司の次の行動は彼女の予想を完全に裏切った。
挿入した時と同じくらいゆっくりと、龍司は抽送を開始した。ぎりぎりまで抜き、また挿入する。押し込み、引き抜く。それら全てがひどいスローペースで行われた。
彼女は、挿入後は龍司が前回のように彼女を激しく貪り尽くすのだとばかり思っていた。
もしも自分に感じさせることで龍司が優越感を得ようとしているのだとしても、挿入してしまえば自分自身の快楽に負けてただ好き勝手に陵辱すると思った。
だからもう、彼女にとっての屈辱は終わったと思った。
だからまだ痛みはあれど彼女が他の感覚も伴うようなこのやりかたに、彼女はひどく困惑した。
「……っ……は……あ……!」
瑞希は掻き回され、混乱させられた。この男はいったい何をしようとしているのか。
瑞希は翻弄されながらうっすらと目を開いたが、龍司の顔色からは何も窺い知ることはできなかった。
そして急に、瑞希はあることに気がついた。
龍司は自分勝手に動いているのではなかった。瑞樹が喘いで背を仰け反らせると動きを止め、息をついて我を取り戻した途端また動き始める。
また、瑞樹が痛みに声を上げたときには、更にペースを落とす。龍司はそれらを執拗に繰り返していた。
明らかにこちらの反応を窺っている。
――瑞希は怖気を覚えた。
「やあっ……嫌……こんな……っ……」
ともすれば漏れそうになる喘ぎ声を抑えながら、瑞希は必死に声を絞り出した。何故こんなことをするのか。
自分が楽しみたいならこの前のように、それこそこちらのことなど構わず好きに動けばいいだけのことだ。それをどうしてこんな風に私を追い詰めるのか。これでは、このままでは、私は――
龍司がこちらを見ていた。冷たい目で注視されていることに悪寒が背筋を這い登ってくる。同時に恥ずかしさで体中が熱くなった。彼女は絶望感に喘いだ。
ゆるやかで不規則な抽送に無理やり身体が高められていくのをどうすることもできない。痛みはまだあったが、それを上回る圧倒的な性感が彼女を苛んだ。これでは愛撫されていたときと同じだ。
「はあ……っ……ひぁ……」
また腰を引かれる。またゆっくりと挿入される。内壁の擦れる感触が回を重ねるごとにクリアになっていくような気すらした。瑞希はせめて声だけは聞かせまいと唇を噛んだ。
スローペースな抽送は続いた。恐ろしいまでに徹底された間隔で彼女を責め立てる。瑞希は為す術も無く高みへ押し上げられていった。
「んん……!ん――――…………!」
駄目……駄目!髪を振り乱して彼女は耐えた。
龍司が何故自分の快楽を捨てるような真似をしてまでこんなやり方をしているのか、瑞希には全くわからなかった。
ただ、龍司が彼女の中の大切な砦をまたひとつ崩壊させようとしていることだけはわかった。嫌だ。嫌だ。嫌だ――彼女は心の中で叫んだ。もうこれ以上、私の中に入ってこないで!
次の瞬間、突然動きを変えた龍司の肉棒が、彼女の最奥に叩きつけられていた。
空白が訪れた。
「――――っ!」
瑞希は仰け反った。突然の衝撃に肌が粟立った。同時に、彼女は達していた。
自分でもわからないうちに身体がびくびくと痙攣し、叫びが喉を突いた。そしてその直前、その唇は大きな掌に塞がれていた。
「――――――」
叫びはくぐもった声に変わった。長く続く喉の震え、そして膣に注ぎ込まれる大量の精液に、瑞希は深い喪失感を味わった。
喪失感がゼロになった瞬間、その代わりに爆発するような怒りが胸を灼いた。
気がつくと、瑞希は自分の口に当てられていた掌に、思い切り歯を立てていた。
がり
と嫌な歯応えがして、口の中に血の味が広がった。自分が脅迫されていて本来ならこんなことをしてはいけないということは、瞬間的に頭から吹き飛んでいた。
ぼろぼろと涙を零しながら、瑞希は必死に龍司から身体を離した。シーツをかき抱いて身体を隠す。麻痺したようにけだるい下半身を否応無く意識し、彼女は泣いた。
「どうしてっ……」
しゃくりあげながら瑞希は言った。涙のフィルターを通して龍司をねめつける。
「どうしてこんなこと――」
言葉はそこで止まった。
龍司は自分の右手に絡みついた赤い血を無表情に見下ろしていた。やがて顔を上げる。
「自分の唇まで噛んだのか」
言われて初めて、瑞希は自分の下唇がぴりぴりと痛んでいることに気がついた。手で触れると指に血がついてきた。意外に深い傷らしく、かなり痛みを感じる。
「馬鹿だな」
龍司が言った。何気ない言い方だった。だがその響きは何故か無性に瑞希を切なくさせた。
龍司は無造作に手を伸ばしてきた。肩をすくませた瑞希の顎を持ち上げ上向かせる。そのまま引き寄せるようにして、龍司は唇を重ねてきた。
龍司の舌が瑞希の唇の端、傷のある部分に触れた。
「っ……」
生々しい感触と痛み。龍司の舌は丁寧に瑞希の唇から流れる血を舐め取った。ともすれば逃げ出しそうになる身体を必死で押さえつけ、瑞希はその手当てが終わるのを待った。
十秒ほどで龍司は舌を退いた。瑞希の唇を解放すると、龍司はいつの間にか血が滴るほど出血した自分の右手に、今初めて気付いたような顔をした。
「救急箱は無いか?」
「……」
瑞希は答えられなかった。その傷を見て急に、自分は人を傷つけたのだという実感が襲ってきた。相手が誰であれ、瑞希はそれを恐ろしく思った。
「……あ」
口をパクパクさせているうちに、龍司は散らかした衣類の中から自分の上着を探し出してそのポケットからハンカチを取り出し、左手と口を使って巻こうとした。
しかし聞き手を怪我しているため上手く巻く事ができない。
瑞希はしばらくの間何もできず、それを見つめていた。しかし龍司が三度目の玉結びを失敗した時、自分でも気がつかないうちに、瑞希は声を上げていた。
「貸してっ」
ハンカチをひったくると手早く折りたたみ、巻きつける。龍司の手を取りさっと結んだ後、巻きつけたハンカチの端を整えた。
瑞希はそこではっと手を退いた。
「……」
急に恐くなり、瑞希はわずかに身を引いた。私は何をしているんだろう。こんな男に対して――彼女が再び沈黙すると、無表情だった龍司がそこでようやく頬を緩めた。
「サンキュ」
と言うと、返礼のつもりか、彼は瑞希の服を拾ってよこした。瑞希はまた困惑した。服にすぐには手をつけずにいると、龍司は置いてあった時計に目を留めて立ち上がった。
少し慌てた様子で、
「今日はちょっと忙しくてな。もう行く」
手早く服を着込むと彼は座り込んだ瑞希の髪を左手でぎこちなく梳いた。振り払う気力も無かった。
傷ついた右手が視界に入った。
「じゃあな。また来る」
「もう来ないで……」
俯いてつぶやく。龍司の苦笑したような声が聞こえた。目の前の足音は遠ざかって、やがて玄関の扉が開いて、閉まる音がした。
静かになった部屋で、瑞希は虚ろな瞳を上げた。卓袱台の上に目が止まる。
龍司の置いていった小箱があった。
それを見たとき、瑞希は突然、己の内側から急激な怒りが噴出するのを感じた。
それが龍司に対するものなのか、目の前のそれに対するものなのか、あるいは他の何かに対するものなのか、自分でもわからなかった。
目の前の小箱を力任せに掴み、全力で振りかぶる。床に叩きつけようとし――
結局そうすることができず、彼女はのろのろと腕を下ろした。今度こそ気力を使い果たして肩を落とす。
まるで全身の力が吸い取られたようだった。彼女は呆然とその場に座り続けた。
あまりに強く握り締めたせいで少ししわになった小箱は、彼女の憤りなど知らぬげに、その手の中で静かに沈黙していた。