「おまえが天和流の師範・緑風(リューファン)だな?」  
 
 待ち伏せしていたかのようにそこに立っていた相手に名前を呼ばれ、緑風と呼ばれた男は目線を下げた。  
 大柄ながら、余分な筋肉はついていないためどちらかというと細身な印象を与えるその男は、ボサボサの髪をかき回しながら不思議そうに目を二、三度瞬かせる。  
 自分が生活しているこの山の中で人に会うのも珍しかったのに、その相手が自分を知っているなどと言う体験は初めてだったのだから無理も無い。  
「……ああ。まあ、字名(あざな)なんてのは俺にはもともと無くて便座上つけたもんだから、普通はファン、って名で呼ばれることが多いけどよ」  
 相手の気配に穏やかならざるものを感じ取り、ファンは声こそ親しげなものを出すものの慎重に背後に背負っていた薪拾い用の籠を地に下ろした。  
「やっと見つけた……」  
 その相手は、どう見ても友好的とは思えない声でつぶやくと、ゆっくりと拳法の構えをとる。  
 まるで知らない相手に、まるで身に覚えの無いことでいきなり戦闘態勢を取られたとしたら。  
 しかも相手が、まだ十代前半くらいにしか見えない小柄な少年の姿だったとしたら。これでも人よりは呑気な性格を自覚していて多少のことでは動じないファンといえど、さすがに戸惑ってしまう。  
(なんで俺、いきなりこんな子供に狙われてんだ? 俺なんかしたっけか神様?)  
 と心の中で信じてもいない神に問いかけながら、ファンは首を捻った。  
 
「あのよ、話が見えねぇんだけど……俺お前になんかしたっけ?」  
 できるだけ穏やかに質問したつもりだったが、ファンを呼び止めた相手――見た目十代前半の小柄な少年はキッ、とファンをにらみつけた。  
 短い黒髪は綺麗にまとめられ、活発な印象を与える。少年のボサボサ髪というよりは少女のボーイッシュなショートカットに近い。  
 ややサイズが大きめなためか袖や裾を捲くってサイズを合わせている道着は見た目からして古臭く、おそらく彼自身のものではなくお下がりなのだろうと思わせる。  
 少年特有の大き目の瞳には強い決意の光が満ちていて、殺気で汚れた目と言うよりは目標に向かって真っ直ぐ進む清らかな目をしている。しかしその視線は射殺すかのようにファンを鋭く凝視している。  
 少年少女問わず周囲からは人気がありそうな中世的な顔立ちは可愛らしく、しかし身にまとう気配は一流の武道家にもひけをとらない。  
 
「ボクの父は牙心流の師範代だった……そう言えば分かるだろ?」  
 構えを解かないままで少年が言う。その出された流派の名前にファンは聞き覚えがあった。  
 
 ファンは天和流という拳法の師範だ、と目の前の少年は認識しているようだが、実は少し違う。ファンは元々捨て子であり、親の顔を知らない。  
 そんな彼が23年前、山に捨てられていたのを拾ったのが、当時世を捨てて山の中で隠居していた高名な拳法の達人だった。  
 ファンはその男に育てられ、また彼が住んでいた山の中で自然と共に生きるうちに天然で身に着けた野生の身体能力と自然と共にある戦い方。それが彼にとっての生き方であると同時に彼の使う拳法となった。  
 だから彼の使う拳法に名前は無い。彼の育ての親であり師である拳法家も既に流派は廃していたため、師の後を継いだわけでもない。もちろん、彼は自分の拳法を世に広めるつもりも弟子を取るつもりもなく、  
 自分が生まれ育ったこの山の中で生きていくための生活術の一つに過ぎないと思っていた。  
 その唯一の例外が三年前だった。既に高齢に達していた彼の師が病にかかり、山に生えている薬草では治しようが無かった。しかし時々訪れる町に下りて薬を買うにしても大金は無い。  
 そんな折、都合よくその町で腕自慢の拳法家たちが集う格闘大会が開かれるのを知った。  
 彼は便座上、天和流を名乗り、リュ―という字名をつけその大会に出場し、優勝した。その時決勝戦で戦った相手の流派がたしか牙心流といったな、とファンは思い出す。さすがに決勝に残った相手だけあってかなりの腕。  
 それまでの相手が弱かったため(実際はファンが強すぎたわけだが)型にはまった町の道場拳法を内心馬鹿にしていたファンだったが、その認識を改めざるを得ないほどの相手だった。  
 もちろん、その時の相手は目の前にいるまだ幼さの抜けきらない少年ではなく、虎中(フーチュン)という名の熟練した達人の雰囲気を持つ30代後半ほどの男だったが。  
 
 ちなみにその際、ファンは優勝して病に効く薬を買って帰った。それで一時的にはよくなったがやはり年波には勝てず、その翌年、つまり今から二年前にファンの師は亡くなっている。  
 それからはファンは一人、彼の父であり師が住んでいた小屋を守りながらたまに薪や果実や獣を町に売りに行くという生活を続けながら山に生きている。   
   
「あのときのオッサンの流派か……あの人はマジで強かったな。で、お前はなんだ? あの人の子供か?」  
 同意するように、目の前の少年は小さく頷いた。  
 
「けど、俺になんの用だ? あの時は別にお前の親父さんを殺したわけじゃないし、正々堂々と戦っての勝負だった。少なくとも、そんな怖い顔して睨まれるような覚えはねぇんだけどなぁ?」  
「……かもしれない。けど、ボクはどうしてもお前を倒さないといけないんだ!  
 ボクの名は牙心流師範代・虎蓮(フーレン)! ファン! いざ尋常に勝負だ!」  
 問答無用、話は終わりだと言わんばかりにレン、と名乗った少年が駆け出す。ファンとの間合いを数歩で一気につめると、ファンの顔面めがけて飛び蹴りを放った。  
 無駄の無い動きで的確にダメージの大きな箇所を狙う、悪くない動きだとファンは瞬時に判断する。  
 その一撃を左腕で受けるファン。右手に一瞬電流が走ったかのように痺れが来る。  
 そのまま右手でレンの足を捕まえようと思ったところに二段目の蹴りが放たれる。ファンは捕まえるのを諦めて回避せざるをえない。後退したところに今度は追撃の裏拳が来る。  
 小柄な身体の弱点であるリーチの短さをレンはスピードで補い、ファンの懐に飛び込んで一撃を加えようという戦法を取っている。  
 
「っと、待て、っての!」  
「待つもんかっ!」  
 理由も分からず攻撃してくるレンに戸惑うファン。しかしレンはそんなファンの様子などお構いなしに攻撃を続ける。こりゃ話し合いとかって状況じゃねぇな、と一人ため息をつきながらファンは神経を研ぎ澄ませる。  
 怒涛の連続攻撃がレンの小柄な身体から繰り出される。突き、蹴り、肘打ち、裏拳。ファンの制空圏をかいくぐってのスピードのあるラッシュにファンは内心関心しながらもダメージを受けないようにかわしていく。ファンがだんだんと後退していくうちに、  
 二人が最初に出会った道からは離れ、木々が生い茂り日の光がささない山奥へと勝負の舞台が移っていく。  
 レンの攻撃を身体を捻ってかわし、時には風に舞う木の葉のように受け流し、けっして自然に逆らわない柔軟な動きでファンはレンの攻撃をいなしていく。  
 なるべく距離をとろうとするファンに対してこのままでは決め手を欠く、と判断したのかレンの身から放たれる気がさらに増した。  
 
「はあぁっ!!」  
 レンは地を蹴って跳躍する。10メートルはあったファンとの距離を一瞬で縮める驚異的な瞬発力で接近したレンは、そのまま止まることなく拳を繰り出す。  
 牙心流の基本技にして最強クラスの技・連牙。左右の拳から驚異的なスピードで繰り出される二連激の突きは、まさに獲物を仕留める獣の二本の牙が如く。  
 まともな相手ならこれだけで倒されるほどの攻撃を、ファンはこれまたレンの跳躍に負けない速度でとっさに背後に飛んで回避する。レンの両の拳が空を切り裂き、大気をかき鳴らす。  
 そのまま距離を置こうと後方に跳び続けるファンを追うように、二歩三歩とレンも前へと飛ぶ。足場の整備されていない山道を、レンは平らな道場の床の上を歩くかのように平気で支配する。  
 ファンの左側にレンが回りこんだ。一瞬立ち木が二人の間に立ちふさがり、ファンの視界を塞いだ瞬間に仕掛ける。  
「てやぁーっ!!」  
 体をひねりながら、遠心力を利用して加速のついた跳び蹴りを三発、ファンへと叩き込むように放つ。上段・中段・下段を同時に攻撃する高速の足技・散牙。  
 まともにガードしきれないと判断したファンはこれも前方へと体を投げ出すように跳んで回避する。  
 空を切ったレンの散牙の生み出した衝撃の刃で、ファンが立っていた先にあった木に三本の傷跡が刻まれる。  
 これも常人ならばガードどころか回避すら不可能の必殺の一撃。それを無傷でかわせるのはひとえにファンの超人的な動体視力と反射神経の賜物である。  
 自然の中で磨かれたその身体能力と観察力で、相手の攻撃の軌道を読み切りとっさの回避行動を可能にする。  
 それこそがファンの、いや彼が身につけた天和流の一番の武器でもあった。  
「やるねぇ、伊達に牙心流の師範代を名乗っちゃいない、ってワケか」  
 口元を緩めながら楽しげに声を漏らすファン。しかし目は笑っていない。子供の一撃、と侮っては致命的な一撃を食らうであろうことは彼もよく分かっている。  
「だったら少しは反撃したらどうだ!? 逃げてばかりじゃボクには勝てないよ!」  
 生い茂る木々の間を器用に潜り抜けながらレンはファンを追いかける。  
「そうしたいんだけどなぁ…いいのかい? 本気でやっても」  
「っ!? ば、馬鹿にするな! 本気のお前を倒さないと、意味が無いじゃないか!」  
 自分の実力を過小評価されたと思ったのか、レンの声に怒気が混じる。さらに追いかける速度を上げ、死角を突き一撃を繰り返してはまた離れ、を繰り返したヒットアンドアウェイ戦法で四方八方からファンへと襲い掛かる。  
(……小柄だが、その分スピードは親父さんより上だな。余計な筋肉がついてないのもいい。野生の猛獣をイメージし、柔軟な筋肉を用いて全身のバネで瞬発力を生み出し猛攻を仕掛ける牙心流を使うなら、ああいう身体のほうが理想的だ)  
 ファンはそう判断していた。彼は決してレンを過小評価していない。それどころかスピードなら自分より上。うまくまこうとしても逃げ切れはしないだろう、と仕方なく振り切るのをあきらめ、構えをとった。  
 それでも彼が本気を出すかどうかためらっていたのは、やはりレンが150cm程度と小柄な体つきだったせいだろう。もともと彼の拳法は戦うために身に着けたものではない。  
 恩師と一緒に暮らすうちに自然と身についたものであり、自分の身を守り、必要最小限の獣や魚を取るときにしか使わないような物である。それこそ人を相手にするほうが例外中の例外だ。  
 だから、彼は自分の拳で人を、しかも子供を叩きのめすことには抵抗があった。  
 それでも向こうが自分の流派の誇りを持って全力で戦いを挑んできている以上、それを裏切ることこそ失礼に値するだろう。ファンはそう判断すると全神経を研ぎ澄まし、自然の気配と己の存在を一体化させる。  
 次第にファンはファンであって、しかしファン自身のみではない大きな気で身体を包む。  
 
 周囲の木を利用しながら、巧みに死角から襲い掛かるレン。突き、蹴り、手刀、疾風怒濤に繰り出されるその攻撃全てが乾坤一擲、必殺の域。  
 そのことごとくをファンはかわし、避けきれない攻撃は流水の如き無為自然の動きで受け流し、ダメージを受けることなくレンの攻撃を裁いていく。  
「くっ――!」  
 カマイタチを髣髴とさせる強烈なレンの回し蹴りが右後方から飛ぶ。だがそれを僅かな気配と空気の流れで読んでいたファンは、一歩先んじてレンの懐にもぐりこむ。そのままカウンターであわせるように、レンの脇腹に膝を入れる。  
「うぐっ」  
 肺の中の空気が無くなったのではと思うほどに強烈な衝撃がレンを襲う。苦痛で歯を噛み締めながら後ずさると、再び距離を置いては攻撃をしかけるタイミングを待つ。  
 しかし序盤こそ休む間もなく攻撃を繰り出していたレンだったが、そのことごとくがいなされ続け次第に攻めが慎重になってきていた。  
 それだけではなく、やはり大人と比べたら見劣りする体格のレンにはまだスタミナが十分ではなかった。そして戦闘においてスタミナ配分を考えられるほどにはまだ至っていない実勢経験の少なさもあって、次第にレンの顔には疲労の色がにじみ始めていた。  
 自然、二人の攻守は逆転する。  
 レンの仕掛けた足払いをファンが高く跳躍してかわす。即座に上を見上げるレンだが、ファンの姿が見えない。しまった見失った、と精神を研ぎ澄ましファンの攻撃に備えるレン。一瞬の気配を感じたときにはすでに、ファンの手刀が背後から迫っていた。  
「う、うわっ―――!?」  
 首筋を狙った一撃をなんとか紙一重でかわすレン。しかし反撃に移ろうかと体制を整えた時には、既にファンの姿は生い茂る木々の中に隠れてしまい再び姿を見失う。  
 それからは待っていたかのようにファンの反撃が始まる。矢継ぎ早に繰り出されるファンの連続した攻撃の前にレンは防戦一方。攻撃をなんとかかわすのが精一杯で、反撃する間もなくまたファンの姿を見失い、体力を消耗していく。  
 なんのことはない、自然を利用して姿と気配を隠しての攻撃は先ほどレンが仕掛けた戦法と同じである。  
 しかしレンほどのスピードもなければ姿を隠すにはやや不都合なファンの大柄な体だが、それでも自然と己の波長を一体化させて気配を消す技術においてはファンのレベルはレンを遥かに凌駕する。  
 その上後先を考えない先ほどの連続攻撃で消耗したスタミナと、焦りから生まれる精神の乱れがレンの状況を悪化させていた。  
 自分が反撃される立場に立ってレンは初めて、姿の見えない相手に死角から攻撃される戦法の恐ろしさを肌で感じた。ファンの一撃はレンのような鋭さこそないものの、ファンとの体格差を考えれば一撃まともにくらっただけでも大ダメージは必至である。  
「な……ならっ!」  
 肩で息をし始めたレンが大木を背にして構える。三百六十度を空けていた先ほどとは違い、それなら背後からの死角は無くなる。気を配るのは特に木の上からの奇襲に集中すればいい。  
(ふぅん、やるねぇ……なら、)  
 レンの頭上でかすかに音がした。カサカサと葉が擦り合うような音を常人以上の聴覚で捕らえたレンはひそかに笑う。  
(やっぱりこうすると上から来るんだな。見てろ、油断したお前に一撃食らわせてやる)  
 僅かな空気の乱れ。上から何かが落ちてくる気配を察し、ギリギリまでひきつけて身体を反転。よけると同時に回避の暇も与えない正拳突きをそれに向かって放つ――!  
「なっ――!?」  
 確かに手ごたえはあった。だがそれは、鍛え抜かれた人体を打ち抜いたときとはまるで違うもの。それは――そのあたりにいくらでも落ちている、ただの太目の枯れ木だった。  
(しまっ、ハメられ――!)  
 気付いたときには、背後からファンが接近しているのが見えた。その名のとおり、風のように速く。上から仕掛けると見せかけ枯れ枝を頭上に放り投げたフェイントに見事にひっかかったレンにかわす余裕はない。  
「うわあぁぁっ!」  
 それでも必死でファンの一撃をかわそうと、軸足で思いっきり地を蹴り、その反動で身体を捻りながら倒れこむように反対側に跳ぶレン。ファンが振り下ろした手刀が眼前をスレスレで通り過ぎていく。  
 首筋に打ち込み、気絶させて終わらせようと目論んだファンの一撃は空を切る。だがその先端がわずかにレンの道着の胸元をかすり、切り裂いた。  
 半ば転んだような体勢から急いで次の攻撃に備え、起き上がるレン。しかしファンは先ほどまでレンが立っていた大木の前から、追い討ちをかけるでも再び姿を消すでもなく立っていた。「どーしたもんかねぇ」とでも言わんばかりに頭を掻きながら。  
 
「すまんすまん、大丈夫かお前」  
(……?)  
 一瞬その言葉の真意を図りかねたレンだが、妙に右胸のあたりがスースーするのに気付く。不意打ちを食らわぬように神経は前方に向けたまま、胸元に視線を落とす。  
 瞬間、レンの張り詰めていた集中力が一気に崩れた。  
 先ほどの一撃の勢いで斬られた道着の胸元が破れ、右胸がその白い素肌を完全に晒していた。  
(……っ!!!!)  
 ばっ、と左腕でかばうように胸元を隠す。しかし口元を決意を決めたように硬く締めると、すぐに隠していた胸元を露わにして再び戦闘の構えを取った。  
 筋肉のついていない、柔らかそうでいて皿のように平らな胸はレンがまだ見た目相応の年齢であることを如実に物語っている。  
「まだやる気かい?」  
「こ、これくらいでいい気になるなよ。ちょっと服が破れたくらいでなんだ。それともお前、男の胸なんか見たがる変態なのかよ」  
 若干顔を赤くしながらレンは言い返す。  
「いや、そんな趣味はないけどよ……もういいだろ。お前もなかなかやるけど、まだ実力の差は大きいってことくらい分かるだろ。お前にはまだ早ぇ」  
「ふざけるなっ! ボクはお前を倒すために今日まで修行して来たんだ! 今のでボクを倒しておかなかったこと後悔させてやる!」  
 レンが拳に力を込める。やや大きめの真っ直ぐな瞳が、射るようにファンを睨む。  
「……分かった。なら、やってみな」  
 ファンは正面を向き、左手をズボンのポケットに入れる。右腕も、だらしなく腰の横に垂れ下がったままだ。  
「――――――!?」  
 一見して勝負を放棄したかのようにやる気の無いファンの姿勢だが、その全身から滲み出る気配にレンは戦慄した。動物が本能で逆らわぬべき強い相手を感じるように、レンはファンという男が見せたその本気を武道家の本能で察した。  
 強い。  
 こいつは、猛獣を模倣した牙心流どころじゃない。本物の猛獣、虎や熊すら人間の身で打ち倒すほどの闘気。  
 さっきまでの攻防が戯れに思えるほどに、ファンの気配から感じる実力は桁が違っていた。  
 その気から伝わる、それまで感じたことの無い恐怖と、ここに来て本気を出したということはそれまで手を抜いて自分を相手にすらしていなかったファンへの怒りが半々でレンの中に湧き上がる。  
 足が震える。凍りつく背筋に生暖かい一筋の汗が流れる。今すぐにでもここから逃げ出したくなるファンの闘気。だがレンは父の顔を思い出し、絶対にファンを倒す、という決意を思い出し必死にその恐怖に打ち勝とうとする。  
 縮こまろうとする闘争心を奮い立たせ、四散しようとする気を体内に集中させる。  
「行くぞ――!」  
 ファンから見ても、レンの気は並みのものではなかった。まだ功夫(クンフー)が浅いとはいえ、並の拳法家とは比較にならない修行を積んできたのだろう。  
 そんなレンの成長、そして覚悟など自分とは何の関係も無いはずなのに、ファンはなぜか少しだけ嬉しくなった。  
 
 ファンとレンの気に怯えたかのように木々がざわめき、葉が細波のような音を立てて揺れる。  
 その音が止んだその瞬間。  
 
 レンが動いた。  
 
 闘争心を野生の獣の如く極限まで高め、体内の気を足元に集中させて目にも止まらぬロケットスタートを切る。それこそが牙心流奥義の初動。  
 弾丸のように飛び出したレンは、そのままイナズマのように加速する。大地を蹴っている感触は既にほとんどなく、まるで空を高速で駆けているかのよう。  
 真っ直ぐに、ひたすら打ち負かすべき敵へと。高速はやがて光速へ。自分以外の全てが止まって見える世界で、レンは光の流星となって突撃する。  
 牙心流奥義・閃牙。失敗すれば、いや例え相手に命中しても自らもダメージを負う危険のある両刃の剣だが、その高速が生み出す破壊力はあらゆる敵を打ち砕き、その光速の突撃をかわせる者などまずいない。  
「わあぁぁぁぁぁぁっ!」  
 幼さを残したレンの声が咆哮を上げる。そして拳を振りかぶり、最後の一歩を踏み出す。全ての気を拳の先に賭けて、ファンの胸元へと正拳の一撃を叩き込む――――!!  
   
 
 
 命中したときに身体にかかる衝撃に備え、当たる寸前に目を瞑って自分自身の防御力を高めていたレンは、なにが起こったのかわからなかった。  
 タイミングは間違いなかったはず。当たる寸前までファンはよけようともしていなかった。あれから回避行動を取ったところで間に合うはずは無い。  
 ではなぜ、自分も相手も共に無傷なのか。  
 なぜ、自分の拳は外れ、空を切っているのか。  
 なぜ、自分はまるであやされる子供のように、ファンに抱き止められているのか。  
 なにが起こったのかレンには皆目わからなかった。  
「……どう、して」  
「あー、つまりだな、なんていうか……」  
 困ったようにファンが口を開く。  
「あれをくらったらさすがに俺も痛い。で、お前も痛い。かといってあれをかわしたらお前が向こうにそのまま飛んでって木にぶつかってお前が痛い。  
 じゃあ両方痛くないように、ってんでお前の突っ込んでくる勢いを弱めて受け止める、それが一番いい。だからそうしたってことだ」  
「ウソだ……」  
 簡単に言ってくれるが、奥義は破られないから奥義と言う。しかも父はあの勝負では観衆の前での勝負と言うこともあり奥義を出さなかった。奥義とは人に見せるものではない、というのが父の持論だったからだ。  
 つまりファンにとっては初めて見る回避不能の奥義を、完全に無効化したのだ。レンの中で、それまで積み上げてきた自信と厳しい鍛錬に耐えてきた自分自身が崩れ去っていく。  
「ウソ……だ……んっ」  
 レンを抱き止めた姿勢のまま、ファンはレンの背中に回していた右腕をそっと持ち上げると、手刀でレンの首筋を軽く打った。自分になにが起こったのかを把握するヒマもなく、レンの目の前は真っ暗になり、意識は深い闇へと落ちていった。  
「……悪りぃな」  
 崩れ落ちるレンを両手で支え、右手はレンの膝の裏に、左手はレンの背中にまわして両の腕でレンを支えて持ち上げる。いわゆるお姫様抱っこのような姿勢でレンを運んだまま、ファンはとりあえず我が家へと歩き出した。  
 痛みのせいか悔しさのせいか、閉じられたレンの瞼からかすかに滲んでいた涙をファンはそっと指先で拭き取った。  
 
「……ん」  
 靄がかかったような視界の先に知らない天井を見ながらレンは意識を取り戻した。壁に空けられた窓から差し込む紅い日差しが眩しい。気絶したまま時間がたち、夕刻になったんだなとレンは判断する。  
 意識が覚醒してくると共に自分の状況もだんだんと理解していく。身体へのダメージはほとんど回復。けど無茶をしすぎた反動か全身の筋肉が少し痛む。  
 自分が寝ているのは木で組まれた簡単な寝具と粗末な布団。そして自分がいるのは知らない家の中。  
「ここは……」  
 
「俺の家」  
「っ!?」  
 独り言のように呟いたレンだったが、その言葉に返事するように聞こえてきた男の声に思わず身構えて振り向く。その先には果物を乗せた盆を持ったファンが立っていた。  
 一瞬闘志を燃え上がらせたレンだが、先ほどの完膚なきまでの敗北を思い出す。風船のようにレンの闘志はしぼんでいき、ファンから視線をそらすようにうなだれた。  
 
「……あのさ」  
「ん?」  
 ぽつり、とレンが小さな声で言う。  
「どうやってボクの奥義、破ったの?」  
 自分は負けた。けれどどうしてもそれだけは納得しておきたかった。悔しさと理不尽さを押さえ込むようにレンは布団の上に置かれた両の拳を握り締める。  
 既にレンに拳法家としての気合は無く、まるで悪戯を見つかってこってり怒られた子供のように落ち込んでいた。  
「……まあ、説明するのは難しいけどよ……お前も俺の戦い方が自己を自然と一体化するように精神、肉体を集中させるってのは分かるだろ。それを最大限に発揮させてだな、  
 足は大地に深く根付く大木のように地面を踏みしめ、身体は風に揺れる柳のようにお前がぶつかる衝撃を受け流し、腕は水を吸い込む土のようにしっかりとお前を捕まえる、というイメージでお前の攻撃を正面から受けて防いだだけだ」  
「そんなこと……あの一瞬で?」  
 奥義・閃牙は相手に反撃も回避もさせぬ刹那の一撃を放つ技のはず。そもそも破った理屈は理解できても、その技を防ぐ間などどこにあったというのか。  
「ま、お前が技を出してから準備したんじゃ当然間に合わないさ。けど、俺は元々他人を倒すためにこの拳身につけたわけじゃねぇから、俺の奥義が完全に防御用の奥義だっただけでな。  
 だから俺は全力出したときから相手がどんな技使おうが防げるよう、奥義のための呼吸をお前が奥義使う前から始めてただけの話だよ。  
 あ、言っとくが自信持てよ。お前のあの技、普通なら絶対回避も反撃も防御も不能のすげぇ技だと思うぜ」  
 勝ち誇るでもなく淡々と告げるファンの口調は、しかしだからこそ本気でレンの奥義を賞賛していることは分かる。だがレンの表情は曇ったままで晴れることは無い。  
 
「んじゃ、今度は俺からの質問な」  
「……いいよ、なんでも聞けば」  
 どうせボクは負けたんだから、とファンに聞こえないような小声で付け足す。それはレンなりに、敵にこれ以上借りは作らない、という気持の表れであったが、同時に完全敗北によって半ば自棄になっていることの表れでもあった。  
 自然の中で育ったがために聴覚のいいファンはそれを聞き、少し困ったように眉を顰(ひそ)める。  
「んじゃ、二つな。  
 まず一つ。なんで三年前のお前の親父さんとの勝負のことでお前が俺を狙ったのか。  
 んでもう一つ。なんで女のお前が男の格好して拳法やってんのか」  
「……!!」  
 二つ目の質問が発せられた瞬間、レンの顔色がハッキリと変わったのをファンは見逃さなかった。  
 

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