――はぁ、という溜息の後。足音が、遠ざかっていく。
どくん、どくんと。
息苦しい。とても、とても息苦しい。
怖い。とても、とても怖い。
一つの問いが頭に浮かぶたび。
暗くて、とても重たい鎖が自分を縛り上げているような気さえする。
――吾輩は、秀司にどう思われているのであろうか?
心臓が、ぎゅうと握り潰されていくような感触がする。
同居人? 厄介者?
不安と不満が心に満ちる。
「莫迦なのである……」
口をついて、そんな言葉が滑り落ちる。
自分の感情なんて分からない。そんなものは見えもしないし、触れもしない。
それでも、何となく。
秀司が自分の傍に居ないのは不安だし、秀司が自分以外に近づこうとするのは不満だ。
もしかしたら、それが――恋、だとか愛だとか言うものなのかもしれないけれど、ホーエンハイム伯爵令嬢としての矜持が、そんなものを認めない。
自分から、そう言う感情を相手に向けるのは、何となく許せない。
――秀司が、吾輩のことを好きだと言うのなら…………まだしも。
今日だって、つい先刻だって。
待っていたのに。羞恥と驚愕と……ほんの僅かな期待を胸に、待っていたと言うのに。
結局、何もしないまま。
だから、つい呟いてしまった。『変態』と。
けれど、それも仕方のないことだ。
――普通、吾輩のような美少女の裸体を見れば忍耐も切れて欲情するのが筋であるのに秀司めが……っ!
………。
………。
不意に、自分の考えてることに気付き、顔がどんどん赤くなる。
「……秀司のせいなのである」
自分がこんな風に赤面するのも、妙な夢想をするのも、不安や不満を感じるのも総て。
総て総て総て、秀司のせい。
いらいらする。どうしようもなくいらいらする。
……何故こんなにイライラしなければならないのだろう。
いっそ、結果が分かればすっきりするのだろうか?
秀司が、自分をどう思っているのか。
自分が、秀司をどう思っているのか。
分からない、分からないが――
……気がつけば、眠っている秀司を見下ろしていた。
幸せそうに眠っているその顔を見ていると、自然と顔がほころぶ。
「……とと、そんなコトを考えている場合では無いのである」
とにかく、気持ちをはっきりさせる。
自分の、だけではなく、秀司の気持ちも。
そんな方法はあるだろうか?
どうにも、上手く思考が巡らない。
まだるっこしいのはイヤだ。
今すぐにでも、知りたい。こんな中途半端な気持ちが無くなってしまうように。
だから、だから――
目が覚めたのは、真夜中だった。
重い。体が重い。まるでミィが乗った時のような重さが、俺の上に掛かっている。
柔らかい。それは、まるでミィのような柔らかさで、俺の上に乗っている。
良い香り。それは、まるでミィが俺に買わせたシャンプーのような臭い。
――って。
それは、ミィが乗っているのでは無かろうか。
「……ミィ?」
小さく、声を掛ける。
怒っているのか、寂しがっているのか。
これは一体何のつもりでしているのだろう。やはり寂しいのだろうか。
ごそり、と俺の上で何かが蠢く。
「……しゅ……うじ……」
ミィの声。やっぱり、俺の上に乗っているのはミィのようだ。……ミィ以外だったら、それは侵入者ということで相当に異常な状態だと思うけど。
ミィが蠢くたび、俺の上の布団がもぞもぞと揺れる。
ふ、と。
妙に寒いな、と感じた。
布団に隙間がある。それでも、それはいつものこと。こんなに寒いなんてことは無い。
ぴと、と。俺の胸に暖かい何かが触れる。――それで、分かった。
俺は今、上着を着ていない。すっかりと上だけ脱がされ、て……。
がばっ、と布団を剥ぎ取った。
俺の上には、その頬を俺の胸にくっつけて陶然とした表情のミィが居た。幸いなことに、ミィはちゃんと服を着ている、が。
黒い髪は鴉の濡れ羽。いつに無く、妖艶さを漂わせている。
ほんのり紅い唇は一種の果実。しっとりと、艶めいている。
光を湛える瞳は黒曜石。気のせいか、何かを俺に伝えようとしている。
「……ミィ?」
呼びかける。呼びかけなくてはいけない気がした。
どくり、どくどくと血が巡る。巡り巡って、俺の体を熱くする。
俺の声に応えてか、ミィはほんの少し体を振るわせる。
「……どうか、したのか」
フラッシュバックする、ミィの裸体。
そんなことを考えるな、と思いながらも、思考はそちらにしか向かおうとしない。
ミィの服を引き裂いて、あの裸体を目にしたいと。そんな思考がぐるぐると回っている。
おかしい。こんな思考はおかしいと、そう思うのに。
その一方で、ミィを抱きしめたいと、口付けをしたいと、汚してしまいたいと、思ってしまう。
「……仕返し、なのである」
いつもより、弱弱しい声が俺の耳に届く。
あぁ、と。心の一部が納得する。
何だ、そんなことか、と。
それでも、心の別の部分は納得しようとしない。
――こんな声は初めて聞く。何か理由があるはずだ。
――仕返しだけなら、あんな顔をすることは無いはずだ。
なら、何の理由が――。
「…………やっぱり、違うのである・・・・・・」
名残惜しそうに俺の胸から頬を離し、ふるふると首を振る。
「……吾輩、秀司に言いたいことがあるのである」
ずるずると、俺の上をミィが動く。
少しずつ、その顔は俺の顔に近く、近く、近く。
一瞬、鼓動が止まる。
その、紅く上気した頬が、半ば開いて、空気を取り込もうとしている口が、とろんと潤った瞳が近づいてくるだけで。
身じろぎなんてできるはずも無い。
鼓動は、再び動き出す。
止まっていた間を取り戻すように、元をはるかに越える速度で。早鐘を打つように、どくん、どくんと。
あは、と。ミィが微笑んでいた。
「吾、は――吾輩は、秀司のことが大好きなのである」
一瞬詰まりそうになりながらも、それだけ言い。
そして、俺の唇にその唇を重ねた。