開けたドアの先には、久し振りに逢う幸人の姿があった。  
「よぉ…」  
仏頂面で低い声を漏らす幸人を、私はまじまじと凝視する。  
台風のせいか手にした傘も役立たず。シャツもジーンズも濡れた処の騒ぎじゃない。  
「何やってんのよ……」  
呆れた私の言葉にも幸人の表情は変わらない。  
「風呂、貸して。風邪引く」  
自己中。そんな言葉が私の脳裏をかすめるけれど、今は口論をする気はない。  
このまんま濡れ鼠の男を部屋の前に放置しておいたら、ご近所にいらぬ噂が立つのは目に見えている。  
「靴下、脱ぎなさいよ」  
玄関から離れながら何とかそれだけを口にすると、幸人の目許が少しだけ和らいだのが見えた。  
 
幸人と私は、俗に言う幼馴染みだ。  
幼稚園から高校までずっと一緒で家も近所。小さな頃は良く遊んだし、今も親達は一緒に旅行に行く程に仲が良い。  
けれど、流石に大学は違う道を選んだ私達は就職先も当然ながら別々で、就職してからと言うもの顔を合わす機会なんて殆んどなかった。  
お互い独り暮らしをしている身で、良い歳になった男女が仲良く互いの家を行き来するなんて、恋人でもなければ有り得ない。  
私と幸人の間にはそんな感情は無いに等しい。いや、きっと無い。  
そう私は思っている。  
 
幸人が使うシャワーの音が静かな室内に響く。  
自分の部屋の筈なのに、その事が妙に居心地を悪くさせて、私はサイドボードに仕舞ってあった煙草の箱に手を伸ばした。  
最近肌の調子が悪いのと、つい先日まで付き合っていた彼が残した煙草だったせいで、ここ暫く禁煙していたのだけれど。  
安っぽい蛍光ピンクの百円ライターで火を点すと、暗い窓に薄く煙の姿が写った。  
窓の外と部屋の中、二つの水音が耳を打つ。  
絶える事のない音を聞きながら、私はキッチンに向かうと換気扇のスイッチを入れた。私が咥えた煙草の煙が、するすると機械に飲み込まれていく。  
その様子をぼんやりと眺めていると、不意に真後ろのバスルームのドアが開いた。  
いつの間にか、室内の水音は止まっていたらしい。  
「サンキュ、園村。助かった」  
ガシガシとバスタオルで頭を拭きながら、着替えを済ませた幸人が現れる。  
ユニットで良かったと言うべきか。  
私は内心の動揺を押し殺しながら、態と口許に意地の悪い笑みを浮かべた。  
「ちゃんと恩返ししなさいよ?」  
 
 
向かいに座る園村は、俺の作った焼き飯を旨そうに食っている。  
中学の時にお袋を亡くして以来、親父と二人で暮らしてきた俺は、必然的に家事全般をこなす事になった。  
焼き飯ぐらいなら誰でも作れる(と、俺は思っている)が、昔から手先の無器用だった園村は、俺の手際の良さに感嘆の声を上げた。  
「主夫になれるんじゃない?」  
「貰い手が居ればな」  
即席の卵スープをすすりながら、俺は園村の様子に目を這わせた。決して、園村には悟られぬように。  
昔からやって来た事だ。今更バレる筈もない。  
実際、園村は俺の視線にも気付かずに、箸を動かす手を止めない。  
「ご馳走様でした」  
パシンと両手を合わせ頭を下げた園村は、はぁ〜と満足そうな吐息を漏らしながら、机の端に置いてあった煙草の箱を手に取った。  
「お前……煙草吸うんだ」  
俺の言葉に園村の動きが止まる。何処か決まり悪そうに、箱から煙草を取り出す事はせず、所在無さげに箱を両手に持ち直す。  
改めて聞く必要なんてなかった。俺が今着ている服はどう見ても男物だし、室内には煙草の香りが染み付いている様子もない。恐らく前に付き合っていた男の影響か何かだろう。  
「……少しね」  
表情を曇らせながら園村は頷くと、箱を机に戻し、空になった食器を重ね始めた。  
俺も同じように食器を重ねると、台所へと持って行く。  
早いうちに洗ってしまおうと蛇口を捻った俺だったが、先に部屋に戻った園村がベッドに腰を掛けながら俺を呼んだ。  
「幸人、ソレ、後回し」  
話が先。  
そう促して園村は俺をじっと見つめる。  
俺は暫し沈黙を返したが、やがて流れる水を止めると部屋へと戻った。  
 
大学を出て三年。  
正月とかお盆とか、何かしら帰省の時には顔を合わせるものの、こうして改めて二人になる事なんて、下手すりゃ中学の時以来だ。  
お袋が死んで暫くは晩飯を園村の家でお世話になる事も多かったが、高校に入ってからはその機会も減った。  
園村の進んだ大学と俺の選んだ大学は近かったが、それでも駅一つ分の距離はある。  
園村がこっちで就職すると聞いて俺もこっちで就職したが、態々逢いに行く事はなかった。  
今日だって特に理由があった訳じゃない。部屋に明かりが点いてるの見た瞬間、無性に顔が見たくなった。  
ただそれだけ。  
けど、そんな理由で園村が納得する筈もない。  
誤魔化そうと思えば幾らでも出来る。友達の所に行ったついでだとか、たまたま近所に用事があったからとか。  
あながち間違いじゃないのだから素直に言えば良いのかも知れないが、何故かそんな事はしたくなかった。  
男物の服と煙草のせいかも知れない。  
 
ベッドに胡座を掻いた園村は、何も言わない俺を黙って見つめる。  
その視線を受けて尚、俺は園村から視線を外したままだった。  
カタカタと窓が揺れる。  
「何かあったの?」  
いつまで足っても口を開かない俺をどう思ったんだろう。園村を見上げると、形の良い眉が僅かに顰められ、床に座る俺を訝しげに見下ろしている。  
「……ねぇ、ゆき──」  
「会いに来た」  
尚も促そうとする園村を遮り、俺はきっぱりと言い放った。  
その瞬間、園村の愁眉が晴れる。  
俺の言葉の意味を考えているのだろう。園村の手が前髪に添えられる。考え事をしている時の癖だ。  
「会いに来た。まどかに」  
同じ言葉を繰り返すと園村は益々目を丸くして、呆けたように開いていた口を閉ざした。  
 
 
──会いに来た…?……誰に…私に?……何で?  
ぐるぐると疑問が脳裏を駆け巡るが答えは出ない。  
そのせいか、久方振りに逢わす顔から自分の名が紡がれた事に気付くまで、まどかは暫しの時間を要した。  
──今…名前で呼んだ…?何で今更…。……いつからだっけ…幸人が「園村」って呼ぶようになったの…。  
一度にいくつもの事が起こったような錯覚。実際の所まどかの疑問はただ二つ──言われた意味と名前で呼ぶ意図──だけなのだが、混乱を起こした思考回路ではその事に気付く事も出来ない。  
まどかの混乱を見て取った幸人は、深々と吐息を漏らすと重くなっていた腰を上げた。  
今ならまだ間に合う。  
冗談だと笑って頭を小突けば、まどかの混乱は収まるだろう。その後には冗談で済ませた理由を考えるかも知れないが、自分の事を深く詮索するのは長くは続かない筈だ。  
しかし。  
自分の言った意味の重さがどれ程の物かは、言った本人が一番良く分かっている。  
──今更……何言ってんのよ、俺…。  
産まれてから早四半世紀。築いてきた「幼馴染み」の枠は、そう簡単には取り払えない。  
そう思う反面、まどかを一人の女性として意識してきた事も否めない。意識した瞬間から、幸人はまどかの名を呼べなくなった。  
枠を壊すのが嫌で態と「園村」と呼んでいたのに、たかが着替えと煙草の存在が、幸人の臆病とも呼べる理性を壊してしまった。  
──……馬鹿だ…。絶対馬鹿だ…俺。  
そう思いながらも、幸人は静かにまどかの隣に腰掛けた。  
 
まどかはせわしなく前髪をいじりながら、ゆっくりと幸人の動きを視線で追う。  
「……会いたかったんだ…まどかに。……ただ…そんだけ」  
手を伸ばせば届く距離だが触れる事も出来ない。  
ポツリと呟いた幸人は、それ以上何も言う事が出来ずに目を伏せて押し黙った。  
久し振りに逢った幼馴染みの、いつもと違う姿。いつもと違う様子。  
そんな幸人の様子に、まどかの胸にぐるぐると妙な感情がとぐろを巻く。  
覚えのあるその感情に、脳裏を巡る疑問は押し殺られた。  
恥ずかしいのか、腹立たしいのか、怖いのか。まどかには判別がつかない。  
今まで一度だって幸人には抱いた事のない感情。自分がこんな感情を抱いている事を、幸人には知られたくないと思う。  
冗談だと言って欲しかった。  
だが。  
「好きだから…まどかが」  
不意に幸人が顔を上げる。その眼差しが真剣な色を帯びていて、まどかは思考回路が停止するのを自覚した。  
震えた声は幸人の緊張そのままで、知らずまどかは安堵の吐息を漏らす。  
前髪から手を離すと、まどかの視界には、幸人の姿を遮る物がなくなった。  
幸人の手が伸び、まどかの前髪に触れる。  
その仕草は無骨で、酷く優しかった。  
一瞬瞼を落としたまどかだが、額に感じる幸人の熱に薄く目を開ける。  
自分の物ではないその手は、良く知っている筈なのに、昔繋いでいた手とはまるで別の物のように思えた。  
「…返事とか…いらねぇし。……俺が勝手に好きなだけだし…」  
「……いつから?」  
そっと前髪を掬い上げ、指先から零すようにはらりと落とす。そんな事を繰り返しながらポツリポツリと呟く幸人の手の動きが止まった。  
 
疑問を投げ掛けられるとは思っていなかったのだろう。驚きを隠す事も出来ず僅かに目線の低いまどかを見下ろすと、まどかは微かに目許を赤くしている。  
目許だけでなく頬も耳も赤く染めてはいるが、まどかの目はしっかりと幸人を見据えて答えを待っている。  
「…中学ん時。…もう10年」  
ここまでくれば誤魔化す必要もない。態とおどけたような声で小さく笑うと、幸人の予想に反して、まどかの眉間に皺が寄った。  
「高校の時、彼女居たのに?」  
疑わしげな声に幸人はまどかの前髪から手を離す。  
「大学の時だって、夏休みに家に連れて来てたじゃない」  
頬を染めながらも憮然としたその表情は、信じられないと言わんばかり。  
それでも幸人は、積年の想いを告げたお陰か、笑みを浮かべるとまどかの頬に手を伸ばした。  
「居たけど…忘れられなかった」  
端的な一言が何を意味するのか。それが分からない程子供ではない。胸の疼きは止まないが、思考回路はいつものように動き始めている。  
「……最低な事してない?」  
「お前のせいだっつの」  
「何よソレ。勝手に好きになった癖に」  
「そう言うお前はどうなんだよ。俺の事、どう思ってんのよ」  
態と恨みがましく言ってはみたものの、問い返されると言葉に詰まってしまう。  
今のこの状況で嫌いなどとは言えないし、それ以前に本気で嫌いなどと感じた事もない。  
単純に好きかと問われれば頷けるが、恋愛感情となれば話は別だ。  
「……返事…いらないっつった癖に…」  
視線を外し何とか言葉を絞り出す。  
頭に血が逆流した気がするが、頬に触れる幸人の手のせいだと一人勝手に思いながら、近付く幸人の気配を感じてまどかはゆっくりと瞼を閉じる。  
 
窓の外の台風のように、まどかの胸中も幸人の想いもまだまだ晴れる様子はなかった。  
 

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