その日は雨で、慧美は十六歳だった。
小降りと言うには強過ぎたし、大降りと言うには中途半端な雨模様だったと思う。
“思う”と言うのも、その日は色々と複雑な事情があって、いまいち詳細が不明瞭なのだ。
それでも慧美は事あるごとにその日を思い出す。
公園には他に誰も居らず、遊具や地面を跳ねる雨音だけが辺りに響いていた。
そんな心寂しい場所で、遥か彼方の喧騒を聞いている様な空虚感と疎外感を覚えながら、
慧美は濡れ鼠になってベンチに座っていた。
いま思えば、馬鹿な事をしたものだと情けなくなる。
慧美はほんの些細な事(あまりにも下らなすぎて実はもう覚えていない)で母親と喧嘩をして、
傘も持たずに家を飛び出したのだった。
まあ、世間的には、十六歳という年齢なら別に珍しい行動でもない。
そういう時期は誰にだってある。大体の少年少女はそういう事をするものだろう。
そういう意味では、慧美は実に平凡な高校生であると言えた。
ただ、慧美の場合はそれが十六歳の梅雨のとある一日だった。
桜の舞う春や、蝉の鳴く夏や、風が冷たい秋や、空の重たい冬だったら、
或いはきっと平凡なままだったのかもしれない。
生温い雨が降りしきる梅雨だった故に、運命は慧美にその出逢いをもたらしてくれた。
「どうしたの、キミ」
それが第一声だった。
顔を上げると、すぐ目の前にやや年上と思しき男の人が立っていた。
自分が濡れる事など気にもならないと言った風に、透明なビニール傘を慧美の方に差し出しながら。
「別に、どうもしません」
その時はろくに相手の顔も見ずに俯いてしまった。
「私に構わないでください」
はっきり言えば、慧美は苛立っていた。
やはり十六歳前後の少年少女は大して意味もなく漠然と苛々する時期がある。慧美もそうだった。
七歳の頃に事故で死んでしまった父に苛々していたし、
それからずっと女手一つで育ててくれた母に苛々していたし、
馬鹿馬鹿しい事で大騒ぎする子供っぽい友人達に苛々していたし、
苛々する事しか出来ない自分に苛々していた。
そして、見ず知らずの自分に声をかけてきたその男の人にも苛々していた。
「風邪引くよ、そんなんじゃ」
慧美の胸中を知ってか知らずか、彼はのんびりとした口調で言った。
慧美は小さく溜息をついた。
どうでもいいからさっさと何処かへ行ってくれ。そう言おうともう一度顔を上げて――
思わず言葉を失ってしまった。
言い繕ったところで仕方が無い。それは一目惚れだった。
実は彼は人気俳優も真っ青の美形だったのだ……というわけではない。
ひょろりと背が高くてやや童顔であること以外は、何処にでも歩いていそうな風貌の持ち主だった。
それなのに、慧美は激しい衝撃を受けた。
雷に打たれた様な――という表現が正しいのかは分からないが――そんな心地だった。
心ではなく身体を射抜かれてしまったみたいに、慧美はがくんとよろめいたきり動けなくなった。
もっとも、当時はそれが一目惚れだとは分からなかった。
初めて味わう胸のざわめきに戸惑い、混乱していただけだった。
彼の方は、何処か眠たげな茫洋とした瞳をしばらく慧美に向け、
それから何も言わずにベンチに傘を立てかけた。
「早く家に帰った方がいいよ。こんな場所で一人で雨に打たれてるっていうのも……
つまり、あんまり感心できる事じゃない」
とだけ言って、彼は踵を返した。
慧美は、ただ未知の感情に頭の中を掻き乱されたまま、その背中を見送った。
彼の残してくれた傘だけが、慧美から雨を凌いでいた。
それからふらふらとした足取りで家に戻り、母親にごめんなさいと頭を下げて、シャワーを浴びた。
お湯が顔を打った瞬間、慧美は言い様の無い後悔と絶望を感じた。
その時になってようやく気付いたのだ。あれは一目惚れだったのだ、と。
しかしもう手遅れだった。文字盤の針を戻す事は出来ても、時間まで戻る事はない。
もう二度とあの瞬間には戻れない。
前触れさえなく突然訪れて、風の様に吹き抜けて手の届かない場所へ去っていったのだ。
そのどうしようもない事実に慧美はただただ泣いた。
新しい涙が零れるたびに恋心は膨れ上がり、
同時にもっと早くその感情を理解できなかった自分を呪った。
理屈ではない。正に本能的な恋だった。
それは一種の飢えや渇きに似て、狂おしい程に慧美を責め立てた。
どうして分かってくれなかったんだ。
そのせいで、お前はもう満たされる事はなくなってしまったんだぞ――と。
しかし、どれだけ罵られようと、慧美にはもう泣く事しかできなかった。そうするしかなかった。
結局、夜には泣きつかれてさっさと眠ってしまった。
翌日はその日が嘘だったかの様な快晴だった。
実際、思い出そうとしても頭の中が霞がかったみたいに記憶は不鮮明だった。
でも玄関の傘立てには彼が残してくれたビニール傘があったし、
何よりも胸の奥でちくちくと疼く感情が雄弁に現実を物語っていた。
傍目にも慧美の落ち込み振りは酷いものだったらしい。
母親は慧美の具合を心配し、学校を休んだ方がいいんじゃないかと言ってくれた程だ。
慧美は「大丈夫だから」と笑顔を作ってみせた。
何でもいいから何かしたかったのだ。
友達と下らない冗談を言い合ったり、面白くも無い授業を聞いたり、
とにかく何かして気を紛らわせてしまいたかった。
結論から言えば、それは全く無意味な事だった。
友達からはやはり具合でも悪いんじゃないかと言われ、
授業中はぼーっとしているんじゃないと先生に叱られた。
何をしても飢渇が鎮まる事はなく、むしろ時と共により深くより大きく慧美を蝕んだ。
まるで大切な心の一欠片をあの瞬間に落としてきてしまったみたいだった。
周囲の何もかもが慧美の中に留まる事はなく、通過駅を走り抜ける新幹線の様に過ぎ去っていった。
慧美自身も無感動にそれを見送るだけだった。
気の遠くなる様な人生のほんのひと時をしくじるだけで、
こんなにも色々と変わってしまうものなんだ――ぼんやりとそんな事を思った。
学校が終わると慧美は友達の誘いを断って一人で帰途に就いた。
考える事は幾らでもあった。でも何も考えられなかった。
ただ、気がつけばあの公園に足を向けていた。
もしかたらという希望を持っていたわけではない。
記憶の残滓にしがみ付きたかったわけでもない。
ふと気がついた時にはそこに向かっていたのだ。
心が動いていない間に体が動いていた、とでも言えば表現的にはしっくりするだろうか。
そして、そこで慧美は彼と再会した。
あの日慧美が座っていたベンチに腰を下ろしていた彼は、目が合うと小さく会釈してきた。
「やあ。偶然、だね」
慧美は殆ど愕然としていたけど、彼の方も少なからず驚いていたらしい。
その口調は何処と無くぎこちなかった。
「昨日は……風邪とか、大丈夫だった?」
慧美は操り人形の様にかくんと頷いた。
まだ現実味が感じられないでいたのだ。
どうしたら良いのか分からず突っ立っていると、彼が思い出した様に言った。
「とりあえず、座ったら? いや……つまり、何か急いでないなら」
再びかくんと頷いて、慧美は彼の隣に座った。
お互い視線を合わせようともせず、前を向いたままで。
前日に降っていた雨のせいだろう。二人の間には濃い土の匂いが漂っていた。
「どうして、またここに?」
僅かな沈黙の後、彼はぽつりと訊いた。
むしろそう尋ねたいのは慧美の方だったし、
それに自分自身でさえその問いの答えを見つけられなかった。
黙りこくっていると、彼は小さく溜息をついた。
「俺は、ここに来ればまた君に逢えそうな気がした」
「……え?」
慧美は思わず彼の横顔を見つめてしまった。
彼は心無し眉をひそめ気味にして、地面の一点を凝視していた。
「いや。違う……そうじゃない、かな」
彼は何度か頭を振り、そして言った。
「君に逢いたくて、またここに来ていたんだ。
昨日ほんのちょっと顔を見ただけの女の子が気になって仕方が無かった。
何をしても君の面影が瞼の裏にちらついて。我ながら馬鹿みたいだと思ったよ。
二十歳にもなって高校生に一目惚れしちゃうなんてさ」
「嘘……」
「嘘や冗談ならまだ幾分かマシだったんだろうけど」
彼はもう一度嘆息すると、慧美の方を振り向いた。
「どうやら、本気みたいだ」
「やだ……うそ……」
「いや、だから――って。な、泣いてるの?」
狼狽した様に表情を引きつらせた彼に言われて、慧美はようやく気づいた。
目尻に溜まった涙が頬を伝ってぽろぽろと零れ落ちている事に。
自覚すると後はもう止め処なかった。
安堵。驚愕。喜悦。羞恥。不安。
そういった様々な感情が全部涙になって流れ出てしまった。
「ご、ごめん。急にこんなこと言われたら誰だって驚くだろうって分かってはいたんだけど……
迷惑なら迷惑でもいいんだ。こんなの普通じゃないって思うし。
それに、俺が勝手に言っただけなんだから……」
「う、ううんっ……そんな、こと……」
慧美はぶんぶんと勢いよく首を振った。
「私も、昨日、一目見てから……忘れられなくて……
もう二度と逢えないんだって思うと、凄く悲しくなって……
でも、今日また逢えて……好き、って……言って、もらえて……」
「じゃあ、君も?」
「うん……」
彼はぽかんと呆けたかと思うと、突然、口元を緩めてくすくすと笑い出した。
何だか可愛い笑い方だなあ――などと胸中の能天気な慧美が場違いに呟いていた。
「なんだ、君も割かし変わり者だったんだな」
「あ、それは酷いよ。貴方だってそうでしょ」
「だから君“も”って言ったろ?」
彼は肩を揺する様にして竦めてみせた。
「まあ、きっと変人同士上手くやっていけるんじゃないかな。俺にはそんな気がするけど」
「うん。私も、そんな気がする」
慧美は赤い目をしたまま、真面目っぽい顔を作って頷いた。
長続きはしなかったけど。
お互いの視線が出会うと、途端に表情が崩れて、笑みが溢れ出てきた。
「俺は佐伯靖彦。君は?」
一頻り笑い合った後に、ふと気づいた様に彼――靖彦が尋ねた。
「萩村慧美」
「慧美、か。じゃあ、これからよろしく……でいいのかな?
こんな形で付き合い始めるって経験、流石に無いからなあ……」
「確かに滅多に無いだろうけど。でも、始まりなんだから『よろしく』でいいと思うよ。
と言うわけで、こちらこそよろしくね、靖彦さん」
そうして、慧美は日が暮れるまで靖彦と一緒に過ごした。
高校の事や家族の事、食べ物の好みから嫌いなものまで、それはもうありとあらゆる事を話したし、
大学の事や恋愛経験、趣味から休日の過ごし方まで、それはもうありとあらゆる事を訊いた。
たった一日で佐伯靖彦という人の多くを知った。
その中に慧美を失望させるものは何一つとして無かった。
彼を知れば知るほど想いは深まるばかりだった。
斜陽が遠くの影に隠れてしまうと、靖彦は慧美を家まで送ってくれた。
「また明日ね」
玄関先で慧美は軽く手を振って靖彦が背中を向けるのを待った。
だが彼はじっと慧美の方を見つめたまま、
何かを言いかけては逡巡する様にして、何度か口を半端に開いては閉じていた。
「……?」
慧美が首を傾げると、靖彦は小さく頭を振った。
その時にはもう気づいていたのだが、
何か考える時に頭を振るのは彼自身さえあまり自覚していない癖らしかった。
まあ、それはともかく。
靖彦は無言のまま慧美に近づき、両手で頬に触れ、そっと顔を持ち上げた。
彼は海の底を覗き込む様な瞳で、じっと慧美の眼を見つめた。
唇が重なったのは、次の瞬間。
初めてのキスだったが、慧美はそれを当然の事として受け止められた。
何故なら、慧美もまた、靖彦と同じ気持ちだったからだ。
この日に芽生えた二人の関係を確かな形として残しておきたい。
慧美は勿論、きっと彼もそう考えていたのだろう。
この出逢いが、この恋が、夢でも幻でもない事の証拠として。
実際、そのキスがあったからこそ、慧美は靖彦と始めて逢った日を不鮮明ながら覚えていられたし、
この日の事はずっと克明に覚えていられた。
言うなれば、その唇を合わせただけの儀式めいた行為が、慧美と靖彦の始まりだったのだ。