そこは温かく濡れていたが、想像していたより随分と窮屈だった。  
公彦は少し眉をひそめた。或いは本当に処女なのだろうか。  
「……女の子にこんなことを訊くのは気が進まないけど、もしかしてこういうのは初めて?」  
その質問にオフィーリアはすぐには答えなかった。  
恥ずかしがっているのでもなく呆れているのでもなく、  
ただどう返事をしようか迷っているみたいな様子だった。  
「こういう風にしてもらうのは、初めてのことよ」  
オフィーリアは目を閉じたまま呟いた。  
「気にしないで、貴方のしたいようにしていいわ。私はそう望んでいるから」  
公彦は何も言わずに頷いた。  
唇を重ねるだけのキスをしてから、ゆっくりと円を描くようにして彼女の中に入れた指を動かす。  
「ふあ……ああぁ……」  
丁寧に粘膜を撫で回してやると、オフィーリアは鼻から抜けるような声を漏らした。  
どうやら苦痛の類は無いらしい。  
公彦は指を動かしたまま、オフィーリアの胸に顔を近づけた。  
ピンと尖って上を向いているその頂を口に含み、舌先で弾く。  
「あうっ……あっ、ああっ……」  
唇で圧迫したり、歯で擦ったり、舌で転がしたり、  
そんな愛撫の数々にオフィーリアは素直に喘いで身をくねらせた。  
秘所からはもう止め処なくとろとろと熱い粘液が湧き出してきている。  
公彦の指は膣口の辺りを撫でているだけだったが、  
それでも既にくちゅくちゅという水音が聞こえてきていた。  
「あっ……きみ、ひこッ! 私、もう……あうぅっ」  
何かを堪えるようにオフィーリアががくがくと身体を揺らす。  
公彦は乳首から口を離し、痙攣する腿のその付け根を見やった。  
秘所の上部に、控え目にクリトリスが顔を覗かせていた。  
親指の爪先でそれを弾いてみる。  
「ひああっ! そんなっ、ダメぇ! ほんとに、もう……ああぁんっ!」  
「いいよ、我慢しなくても」  
オフィーリアの耳元に口を寄せて公彦は囁いた。  
小さなクリトリスを押し潰し、彼女の中を強く撫で上げる。  
「ああああぁ――――ッ」  
背筋を弓なりに仰け反らせてオフィーリアは一際高い嬌声をあげた。  
溢れ出した愛液がべっとりと内腿を濡らして流れ落ち、シーツに染みを作った。  
「あっ……あぁ……はあ……」  
くたり……と肢体を投げ出したオフィーリアを公彦はそっと抱いた。  
絶頂に達してもなお、この皮膚の下は硝子でできているのではないかと思うほど、  
彼女の身体の芯の部分は冷たくて硬かった。  
公彦は、そのことがとても辛く、そして哀しく思えた。  
言葉でオフィーリアを暖めて解きほぐしてあげられるのなら、声がかれるまで話し続けてもいい。  
だが公彦には何をどういう風に話せば彼女を慰められるのか分からなかった。  
オフィーリアは公彦のことを知っているけれど、公彦はオフィーリアのことを何も知らないのだ。  
だからただこうして抱き合うことしかできない。  
その様にして話すより他にどうしようもないのだ。  
「ねえ」  
公彦の胸に顔を埋めたままオフィーリアがぽつりと言う。  
「硬くなってるわ」  
「何が?」  
「私に言わせる気なの?」  
「……仕方がないんだ」  
と公彦は嘆息した。  
「可愛い子の身体を触って、抱き合ってれば、その気がなくても自然とこうなる。  
ならない男はいない。いたらそいつは変質者だね、間違いなく」  
「そう……」  
オフィーリアは何度か頷くと、公彦の背に回している腕を引き寄せた。  
彼女の腹部に強くペニスが押し付けられる。  
「貴方がしたければ、してもいいわよ」  
あまりにもさらりと言うものだから、公彦はついまじまじとオフィーリアの顔を覗き込んでしまった。  
「どうかしたの」  
「いや……でも、それは……」  
 
「この状況で躊躇うなんて随分とお堅いのね。まあ、分かってはいたことだけれど。  
それでも実際に貴方の反応を見ると貴方らしく思えて、何て言うか……嬉しいわ」  
と彼女は微笑んだ。  
「言い方を変えるわね。私が貴方にしてあげたいの。  
わがままを聞いてもらったお詫びとお礼を兼ねて」  
「でも、やっぱりそんなことで……」  
「いいのよ。私がしたいと言っているのだから。貴方には色々と感謝しているし」  
唐突に公彦の視界がぐるりと回った。気がついた時には仰向けにされてしまっている。  
腰に跨ってきたオフィーリアが、そのひんやりとした手で頬に触れた。  
「私は、貴方の血に――」  
彼女の呟いた言葉は途中までしか公彦に届かなかった。  
聞き返そうとした途端、甘い香りの唇を素早く重ねられる。  
差し込まれた舌で口腔を焦らすように辿られ、公彦は喉の奥で喘いだ。  
ついこちら側からも舌を伸ばそうとするが、すっとオフィーリアは顔を引いてしまう。  
「お願い、どうか私を拒まないで」  
彼女は熱っぽい吐息を公彦の耳孔に吹き込むようにして囁いた。  
「お願い」  
「……」  
流されてもいいのだろうか。本当にこうすることが正しいのだろうか。  
勿論、公彦の胸中にそういった疑問が浮かばなかったわけではない。  
……だが。  
擦り寄ってくる肢体の柔らかさが、ふわりと漂う芳香の甘さが、低い声音に宿る色情の濃さが、  
小波が砂をさらうように少しずつ少しずつ理性を削ぎ落としていった。  
ベルトを外しズボンを脱がせ上着をたくし上げるオフィーリアの手を制すだけの気力も失せ、  
公彦はただされるがままに裸になってしまう。  
「言って。私を受け入れると。私と交わりたいと」  
半ば呆然としている公彦の胸に頬を寄せオフィーリアが言う。  
「そう貴方の言葉で聞かせて」  
「オフィーリア……」  
公彦はのろのろと手を伸ばし、灰色の長髪を戴く頭に触れた。  
彼女を拒絶するだけの理由ももう見つけられなかった。  
「俺も、君が欲しい」  
艶やかな髪を撫でながら公彦はそう言っていた。  
実際、彼女のお腹の下のペニスは、文字通り痛いほどに張り詰めている。  
「じゃあ公彦クンはそのままでいて。私がしてあげるから」  
オフィーリアは体を起こして膝立ちになった。  
片手で勃起したペニスを掴み、片手で濡れた秘唇を広げ、ゆっくりと腰を落としていく。  
「あ……」  
性器同士が出合うと、オフィーリアはぴくりと身体を震わせた。  
ほんのささやかな茂みの奥にある割れ目がその形を歪めて亀頭をくわえ、  
それから長い時間をかけてペニス全体を飲み込んでいった。  
「はあぁ……」  
小振りなお尻が公彦の腰に着くと、オフィーリアは悩ましげに溜息をついた。  
彼女の中はやはりとても狭く、気持ち良かった。  
何も考えずにいると秘肉のいやらしい蠢きだけで達してしまいそうなくらいだ。  
彼女はしばらく公彦の腹に手をついて呼吸を整え、そして不意にくすっと笑みを零した。  
「凄く、熱いの。貴方が居るのが分かる。上手く言えないけど……素敵なことだわ、とても」  
公彦は唇を動かして、それからまたすぐに閉じた。  
言いたいことが上手く言葉にならなかった。  
「分かっているわ、貴方の考えていることは。まだ迷っているのね。  
私とこうすることが正しいのか、意味があることなのか、そう悩んでいる」  
白い手が公彦の肌を滑り、胸の辺りで止まる。  
「眠る前にあった色々なことや、三百年という時間が、私から多くのものを抜き取っていったわ。  
そうしてできた心の虚を埋めるのは本当に難しいの。  
でも体の虚を埋めるのはそれと比べれば簡単なことだし、貴方とこうしていると、  
不思議と心の虚の方は気にならなくなってしまうのよ」  
とオフィーリアは微笑んだ。  
「貴方は温かい人。私にはそれが分かる。だから私は貴方を感じることができて嬉しいの」  
「俺も――」  
嬉しいのは同じだ、と言おうとした唇をすっと伸びてきた指で止められてしまう。  
 
「その言葉は要らないわ。胸の内ではまだ迷っていることは分かっているから。  
今はそれでもいいの。こういう風にさせてくれるだけでいいのよ」  
彼女は自分の下腹部に掌を当てた。その内側にあるものの感触を確かめるように。  
「動いてもいいかしら」  
「ああ。いいよ」  
オフィーリアはこちらの胸の上に置いた手を突っ張り、そろそろと腰を持ち上げた。  
「あう、ああぁ……」  
長く細い吐息が漏れる。僅かに開いた唇の内側に、ちらりと震える舌が覗いた。  
腰が下りてくる。  
「はあ……」  
たっぷりと時間をかけて一往復すると、オフィーリアは艶っぽく息をついた。  
淫らに蕩けたその表情に公彦はただただ見蕩れてしまった。  
ふと、視線が合う。  
「ふ、ふふ。そんなに見ないで頂戴。あ、あまり自制できそうにない、の」  
「構わないよ。俺もオフィーリアの動きたいように動いてもらいたい」  
「恥ずかしい、のよ。本当に、どうしようもなくなって、しまいそう、だから」  
喋りながらオフィーリアはもう腰を動かしていた。  
初めは慎重に、そして次第に激しく。  
リズムをとるみたいにベッドを軋ませ、彼女はぽろぽろと涙を落とした。  
「あんっ……あっ、ああ……あっ……」  
公彦が何もせずともオフィーリアは自分で最も感じる場所を見つけ、十分に満喫しているようだった。  
動くたびに結合部から愛液が滴り、秘肉は強くペニスを締め付ける。  
小さめながらも誘うように揺れている乳房に公彦は手を伸ばした。  
「あっ、だ、だめぇ」  
腰を振りながら嬌声混じりに否定されても説得力などない。  
公彦は委細構わず指で乳頭を挟み、やや強く揉みしだいた。  
「い、いま、胸はぁ、ああんっ!」  
きゅっ、とオフィーリアの中が締まる。  
オフィーリアは大きく喘ぎながら、上気した裸身をまるで何かにとり憑かれたみたいに揺り動かす。  
「んっ、あん……あっ、ああ……!」  
「オフィーリア……っ」  
高まる快感に、いつしか公彦も彼女に合わせて腰を突き上げていた。  
ペニスの先が子宮口に触れてもオフィーリアは痛がる様子もなく、  
むしろ髪を振り乱してより一層悦楽の声を大きくした。  
下腹部に痺れるような感覚が広がる。限界が近づいていた。  
「オフィーリア、もう……」  
「わ、私、も……ね、このまま、いっしょ、にぃ……」  
オフィーリアの腕ががくがくと震え、強張った爪先が公彦の胸に突き立った。  
「ふああっ、ああ、あ――」  
膣全体がペニスを絞るように蠢動し、収縮する。  
その刺激に逆らわず公彦は射精していた。それは今までにないほど長く続いたように思えた。  
やがて全てを出し終えると、その時が分かったかのようにオフィーリアは力を抜き、  
体を倒して公彦の胸に頬をすり寄せてきた。  
「ん……」  
絶頂感の気怠い余韻の中、ふと公彦はこそばゆい感触を覚えた。  
頭を持ち上げて目を向けると、胸に点々と血が滲んでおり、  
それをオフィーリアが舐め取っている姿があった。  
どうやら達した際に彼女の立てた爪が皮膚を裂いていたらしい。  
「血が飲みたいのなら、石室でやったみたいにしても構わないけど」  
公彦がそう言うと、オフィーリアは小さく首を振った。  
「貴方からは覚醒する時にかなりの量を吸わせてもらったわ。  
これ以上は支障が出る可能性があるから、今はこれで十分よ」  
「そうか」  
公彦は再び後ろ頭をベッドに預けた。  
途端、急に抗い難い睡魔が襲いかかってくる。  
瞼が落ちそうになるのを必死に堪えるが、それも長続きはしなかった。  
「オフィーリア……悪い……何だか、ひどく眠くなった……」  
「口付けの直後だったのに無理をさせてしまったからかもしれないわね。  
いいわよ。私のことは何も気にしないで、そのまま眠りなさい」  
その言葉を聞いて、すとんと公彦の意識は闇に落ちた。  
 
 
 
オフィーリアは公彦の胸から唇を離し、彼の寝顔を見下ろした。  
東洋系の端正な面差し。その目元を隠す癖の無い黒髪をそっと撫でる。  
「……ごめんなさい」  
しばらく指先でその感触で戯れてから、ふと嘆息と共にオフィーリアは呟いた。  
「私は貴方ほど賢くはないし、貴方が想像するよりずっと卑怯」  
低い言葉を紡ぐ口元から、つうっと一筋の血が零れた。  
自ら口腔を噛み切ったのだ。  
「だから私にはこうするしかないの」  
公彦の唇に、紅く濡れた唇を重ねた。  
舌で歯を抉じ開けて唾液と一緒に血液を流し込み、鋭く尖った犬歯で彼の唇の裏側を裂く。  
痛みで起きてしまわぬように浅く、しかし確実に血が滲むほど深く。  
公彦がくぐもった呻きを漏らした。  
だがまだ口を繋げたまま、血と唾液を舌で押し込んでいく。  
「ん……」  
こくん、と公彦の喉が鳴ったのを確認して、ようやくオフィーリアは顔を離した。  
「ごめんなさい……」  
オフィーリアはもう一度ぽつりと呟き、公彦の胸板に掌を置いた。  
桜色の口唇が歌うように母国語の旋律を奏でる。  
もしその詩を理解できる人間が居るとしても、それが呪文だとは分からないだろう。  
唱え終えるとオフィーリアは深々と溜息をつき、手を離した。  
「今は安心して眠りなさい。貴方はまだ貴方のままでいる。  
でもいつか――その時が来たら、貴方は私を赦してくれるかしら。  
勿論、赦してほしいとは言わない。言う資格すらない。  
でも……その時が来るまでずっと私を傍に居させてほしいの。  
そしてその時に私を裁けばいい。貴方がどう断罪しようと私はそれを受け入れるから」  
心苦しそうにそう言うと、静かな寝息をたてる公彦の頬に唇を触れた。  
「おやすみなさい。どうか幸せな夢見を」  
オフィーリアは音も無くベッドから離れ、脱ぎ捨てたドレスを拾った。  
それを腕に引っ掛けたまま、着るような素振りさえせず、瞼を下ろしてしまう。  
変化が起こったのは次の瞬間だった。  
ゆらりと彼女の体の輪郭が揺らめいたかと思うと、白い粒子となって希薄化していったのだ。  
一人の少女が一群の霧と変ずるのにさほど時間は要さなかった。  
真っ白な霧は軽やかに浮かび上がると出窓に近寄り、  
目に見えぬ程度の隙間を縫って冷え切った夜の世界へと出でた。  
濃紺の空には蒼い月だけが煌々と輝いている。  
朝の訪れはまだ遠いようだった。  
 
 
 
扉を叩く音で公彦は目を覚ました。  
額に掌を押し当てながら上体を起こす。  
いささか頭の中が霞がかったみたいにぼんやりとしていた。  
貧血気味の体で性交などしたのだから、当然と言えば当然だろうが。  
と――そこでようやく公彦は思い出した。  
「……オフィーリア」  
彼女の姿が無い。ベッドの上にも、部屋の中にも。  
公彦は瞼を下ろし、深く嘆息した。  
正直なところ、こうなることを全く予期していなかった訳ではない。  
オフィーリアにしてみれば、  
公彦は雨宿りに立ち寄った軒下みたいなものだったのかもしれないのだから。  
だが公彦の方は、オフィーリアに対して、少なくともそれ以上の感情を抱いていた。  
とは言え、愛や恋とはまた違う。  
人間でない存在に恋愛できるほど公彦は器用ではないし、  
恋愛できるほどに彼女のことを分かってはいなかった。  
公彦は憐れんでいたのだ。孤独で儚く美しいあの少女を。  
「白柳さん、起きていますか?」  
再びノックする音がして、扉の向こうからあのコンダクターの声が呼びかけてきた。  
 
「はい。いま起きたところです。少し待っていてください」  
そう返事をしておき、公彦はベッドに散らばった服を手早く身に着けた。  
おかしな寝癖がついていないことを鏡で確認してから扉を開ける。  
「あ、すみません。私が起こしてしまったみたいですね」  
と彼女は頭を下げた。  
どうやらまだ瞼が上がりきっていないことに目敏く気付いたらしい。  
「気にしないでください。十分寝ましたし、具合も良くなりましたから」  
「それは良かったです。食欲の方はどうですか? 朝ごはんはまだ下の食堂で食べられますよ」  
「いただくことにします。昨日は昼から何も口にしてなかったんで」  
「分かりました」  
彼女は何か含みのある笑みを浮かべ頷いた。  
「その方が可愛いお連れさんも喜びますよ」  
「お連れ?」  
公彦は首を傾げた。  
昨日あの城の礼拝堂で一人旅だと彼女に告げた筈だ。一体何を言っているのだろうか。  
「ええ。先にごはんを食べていますよ」  
ご案内しますね、と言って彼女は踵を返した。  
お連れとやらのことを尋ねる機会を逸し、公彦は慌ててその後をついて行く。  
エレベーターに乗ったところで改めて尋ねてみようとしたが、  
その前に彼女の方がくすっと微笑んで口を開いた。  
「私も長いことこの仕事やっていますけど、  
こういうロマンスを目の当たりにしたのは初めてのことですよ」  
「ロマンス?」  
「おまけに若いカップルですからね。まるでドラマや小説みたいです」  
「……」  
いよいよ訳が分からなくなって公彦は黙り込んだ。  
エレベーターが止まり扉が開く。  
先立って歩いていく彼女に続きながら、  
ここまで来たら訊くより実際に見てみる方が早いだろうと公彦は思った。  
食堂はロビーを抜けた先にあった。  
針葉樹の立ち並ぶ庭に面した広い窓から明るい陽光が差し込んでいる。  
その窓際の一番奥のテーブルで、  
見慣れた少女が磁器のカップに白い指を絡め、優雅に紅茶を唇へと運んでいた。  
「食事はウェイトレスが持って来ますから、お連れさんのところへ行ってあげてください。  
時間になったら声をかけにいきます」  
そう言って彼女は公彦を残して空いている席を探しに行ってしまった。  
公彦は小さく溜息をつき、足早に少女の座るテーブルに近づいた。  
「おはよう、公彦クン。随分と遅いお目覚めね」  
「色々と疲れてたからな。それはそうとオフィーリア。『お連れ』ってどういうことなんだ」  
公彦が椅子に腰を下ろしたのを視線で追い、オフィーリアはカップをソーサーに戻した。  
「彼女には暗示をかけたの」  
「暗示?」  
「そう。彼女には私のことを『貴方が旅先で一目惚れして、  
駆け落ち同然に連れてこさせた女の子』と認識させているわ」  
「……俺、そんなことをした覚えはないんだけど」  
「そうでしょうね。された覚えがないもの。こんな可愛い子を相手に少々失礼だとは思わない?」  
とオフィーリアは悪戯っぽく微笑んで混ぜっ返した。  
だが次の瞬間にはその笑みが薄れ、瞳に不安げな影が過ぎる。  
「それとも貴方は私の面倒を見てくれる積もりはないのかしら。  
もし怒っていて、どうしても我慢ならないのなら、そう言って。  
彼女にかけた暗示を解いて貴方の前から去るわ」  
「今更そんなことを言うのはずるいな」  
「ごめんなさい……やはり怒っているのね」  
「いや、怒ってはいないよ。ちょっと呆れているだけで」  
ウェイトレスが盆を持ってやって来た。  
トーストとサラダと紅茶を公彦の前に並べ、軽く会釈をしてから厨房に下がっていく。  
「俺だって無責任に君を抱こうと決めたわけじゃないんだ」  
公彦はトーストにバターを塗り、一口齧ってから言った。  
「君のことを……何て言うか……気にかけているんだよ。  
一晩だけああいうことをして、後は放っておこうなんて積もりはない。  
勿論、君が望むのならということだけれど」  
「傍に居させてくれるの?」  
「君はここから――故郷から離れる覚悟はある?」  
そう尋ね返すと、オフィーリアははっきりと頷いた。  
「故郷と言ってもここにはもう何も無いし誰も居ないわ。唯一残っているのは虚無感だけ。  
それなら貴方と一緒に居た方がずっといい」  
「そうか。なら俺もオフィーリアを、  
『旅先で一目惚れして駆け落ち同然に連れてきた女の子』ってことにする」  
ほっとしたように笑みを浮かべたオフィーリアを見て、公彦も我知らず顔を綻ばせた。  
「ねえ」  
とオフィーリアが首を傾けて言う。  
「私、出逢ってから初めて貴方が自然に笑う顔を見たわ。可愛いのね、笑顔」  
「そんなことを言われたのは初めてだ」  
公彦は気恥ずかしくなって、顔を隠すようにして紅茶を飲んだ。  
「公彦クン、これからどこに行く予定なの」  
「さあ。そろそろ日本に帰ろうか、或いはバルカン半島の方に行ってみようか……  
まあ、時間はたくさんあるんだから、のんびり考えるさ」  
公彦はカップを置き窓の外に視線を向けた。  
綺麗な蒼穹が果てしなく、まるで何かを暗示するように広がっていた。  
 
 

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