1.  
エーゲ海のおだやかな波の上を、四隻の船が滑るように進んでいた。  
前を行くガレー船の船尾にはためくのは白地に赤い十字の旗。  
小アジア(現在のトルコ)近く、ロードス島に本拠を構える、聖ヨハネ騎士団の軍船である。  
後ろを行く船は、金の獅子の旗をなびかせたカラック(帆船)。ヴェネツィア共和国の商船隊だった。  
 
船団は、ペロポネソス半島(ギリシア)の南を、西へ西へと急いでいる。  
今は1月。すでに航海の季節は終わっている。  
大西洋に比べれば、四季を通じておだやかな地中海とはいえ、冬の航海は危険だった。  
このヴェネツィアの商船隊は事故で船を損傷し、ロードス島に一ヶ月以上拘束されたため、帰国が遅れたのだ。  
騎士団長は船団長に航海の延期を勧めたが、ヴェネツィア人は強情だった。  
 
無謀な彼らに護衛をつけてやるのは納得のいかないことであったが、仕方が無かった。  
彼ら聖ヨハネ騎士団は、もともと聖地巡礼者の保護のため設立された組織である。  
いまではエルサレムを追われ、ロードス島に本拠を移したとはいえ、その任務は変わっていない。  
事実、彼らはすでに百年以上、ヨーロッパの商船団をトルコ海軍から守るために戦い続けている。  
その一方、トルコの船に対しては「聖戦」――実態は海賊行為――を繰り返していた。  
傲慢なヴェネツィア船とはいえ、守らねばならないことに変わりはない。  
 
「皮肉なものだな、船長」  
船楼の上に立って、甲冑姿の騎士は隣の船長に話しかけた。  
「ヴェネツィア人は法王猊下の禁則をいいように解釈しては、トルコ人と商売をしている。  
そのヴェネツィア人たちを、我らが守ってやっている」  
船長は何も言わなかった。  
ヴェネツィア人が東方貿易に興味を失い、船団がトルコへ向かわなくなれば、騎士団も困るのだ。  
もしそうなればロードス島は孤立し、早晩トルコに攻め滅ばされるだろう。  
実際、多くのヴェネツィア人たちは、投資先を貿易からイタリア本土の農業へと移しつつあった。  
今、東方貿易は盛時の勢いを失っている。  
大きな原因は1453年、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)がトルコに占領された事だった。  
貿易の一大拠点となっていたこの都市の喪失は、ヴェネツィアにとって立ち直る事の出来ない打撃だった。  
東方貿易の危険性を少しでも引き下げることが、ひいては騎士団自身の利益になる。  
船長はそれを思ったのである。  
 
「もうそろそろ、ロードスに引き返しても良いのではないかな」  
騎士はそう言って後方のヴェネツィア船の方に振り返った。  
あと一日ほどでアドリア海の入り口に到達する。その海域はヴェネツィア海軍が守っている。  
「トルコ艦隊が遊弋中という噂もあることだし、ヴェネツィア海軍に引き継ぐまでは……」  
船長は答える。  
騎士はドイツ人である。故郷を離れ、騎士団に加わってすでに二十年、海上での戦闘にも慣れた。  
とはいえ、やはり海は騎士のいる場所ではない。  
はやくしっかりとした地面に足をつけたいと思うのが人情だった。  
一方の船長は同じ海の男であるヴェネツィア人に同情的だった。  
二人の温度差はそこから来ていた。  
騎士は、この船に乗り組んだ三十人の石弓兵と、八人の騎士を束ねている。  
だが、船の事は船長に全面的に依存していた。少なくとも、名目的には船長の指揮下にある。  
「では、あと一日だけ」  
騎士はそう言うと、船楼を降りて自室に帰ろうとした。  
 
その時だった。  
「……左舷に船っ!」  
主マストの頂上から、見張り員が大声を上げた。  
騎士は降りかけた船楼に戻る。  
「どこの船だっ! 数はっ!」  
「……船尾に半月旗……トルコ船ですっ……数は一隻!」  
船長は望遠鏡で見張り員の指差した方を覗く。間違いない、トルコのガレー船だった。  
隣に立った騎士に、望遠鏡を貸してやる。騎士はそれを覗いてから、うむ、と小さく呟いた。  
「どうします」  
「あの位置では、我らは振り切れるが、ヴェネツィア船は捕まるかもしれん。  
少し時間を稼いでやるしかあるまい」  
騎士は戦闘に関しては自信があった。  
軽装のトルコ兵に比べ、甲冑をまとった騎士と、貫通力に優れた石弓は優位にある。  
こちらはガレーのこぎ手もあてに出来るが、こぎ手を奴隷に依存するトルコ船は純粋に戦闘員だけが戦力だ。  
質と数で勝っているなら、しかけて負ける事はあるまい。  
 
「ヴェネツィア船に伝えろ。こちらがしかける間に全速力で逃げろ、と」  
「分かりました」  
騎士の決断は早く、船長もまたそれに匹敵するぐらい早かった。  
てきぱきと船員に指示を伝え、船はトルコ船と相対して加速する。  
甲板上には石弓手たちが姿を現し、船縁に盾を並べ、戦闘体勢を整えていた。  
「引けッ」  
騎士の号令に、いっせいに石弓を巻き上げる音が響いた。  
少しでも遠方から攻撃し、相手をひるませるのが定石だ。だが。  
「後方に船! ……トルコ船ですっ!」  
見張り員が叫ぶ。  
船長が慌てて望遠鏡を船尾方向に向ける。  
ヴェネツィア船のはるか後方、水平線の向こうから、五隻のガレー船が、こちらへ向かっている。  
「くそっ、おとりか!」  
騎士が歯噛みする。  
おそらく後方のトルコ船団はずっと自分たちを追尾していたに違いない。  
そして、一隻をおとりにして、護衛のガレー船を船団から切り離しにかかったのだ。  
ヴェネツィア船は必死に逃げようとする。  
しかし、船体が細く、帆にくわえて櫂の力で進むガレー船は、カラックに比べ圧倒的に速い。  
すでに騎士団の船は引き返せないところまで来ていた。おとりのトルコ船はもう目の前だ。  
ヴェネツィア船には、自分で身を守ってもらうしかない。  
「……放てぇぇぇっ!」  
騎士の号令に、一斉に矢が風を切った。  
 
2.  
「……それでは、次の議題だが」  
モンテヴェルデ公国の大公マッシミリアーノは、重々しく手を挙げた。  
後ろに控えていた小姓が、その手に小さく折りたたまれた紙片を手渡す。  
マッシミリアーノは、円卓に座った諸侯が自分に注目する十分な時間をとってから、それを読み始めた。  
 
「『令名高きマッシミリアーノ公へ、ヴェネツィア共和国統領ならびに元老院より心よりの挨拶を送る。  
さて、我らは主の年1454年に結ばれた同盟に基づき、二十五年の期限で定められた条約がさらに延長される事を望む。  
すなわち、貴国の港および港湾施設に、ヴェネツィアの艦船が自由に立ち寄ること。  
さらに、もろもろの税を免除された額で水、食料、その他船の修理に必要な資材を購入し、  
必要とあれば水夫および石弓手を徴用する権利が、我々に与えられんことを。  
 
我々はアドリア海の防衛を担当し、海賊、異教徒その他から、貴国の商船および物品を防衛する事を約する。  
もし、貴国の商船および物品がオートラント(南イタリアの都市)より北の海域において、  
神の御業による原因(註、自然災害)以外で何らかの損害をこうむった場合は、  
公証人が作成したる取引書類に基づき、それに記載された価格と同額を貴国に弁済する……』」  
 
そこまで読んだところで、マッシミリアーノは言葉を切った。後は儀礼的な言葉が並んでいるだけである。  
「諸侯はどう思われるか」  
「妥当なものでしょう」  
最初に口を開いたのはジャンカルロ伯、列席した貴族の中では、大公に次ぐ権勢を誇る人物だ。  
それゆえ、次の大公になるのは彼という見方も強い。  
マッシミリアーノの統治の正当性は、養女ヒルデガルトの後見人であるというその一点にかかっている。  
ゆえに、マッシミリアーノがもし亡くなれば、大公位は誰の懐に転がり込むか分からない。  
 
「しかし……果たしてその約束、守られましょうか」  
末席の貴族がそう言った。彼は俗に「モンテヴェルデの七大伯」と呼ばれる領主の一人である。  
「すでにアルメニア王国もトルコの手に落ち、ヴェネツィアはダルマチア(アドリア海の東岸地域)に圧迫されております。  
トルコのスルタン、メフメト二世は大艦隊を築きあげており、アドリア海に乗り込んでくるといううわさも……」  
「その時、ヴェネツィアが勝ってくれればよいが、物資や人手を取られた挙句、負けたとあっては自力で国を守る事すら出来ません」  
もう一人の伯がそう付け加えた。ヴェネツィアが求めているのは、簡単に言えば戦時における物資と人員の供給である。  
モンテヴェルデ公国は中部イタリアを治める教会国家と、南イタリアを治めるナポリ王国の境にある。  
ヴェネツィアからは船で数日の距離にあり、普段はヴェネツィア船が立ち寄ることもない。その必要がないからだ。  
しかし、戦時となればその距離が逆に重要になる。  
西欧一の造船能力を持つヴェネツィア国営造船所で作られた軍船に、近隣諸国から徴用した水夫を乗せれば短期間に戦力化できる。  
ヴェネツィアは、人口の少なさから、戦のたびに水夫と兵士をそろえるのに苦労してきた歴史がある。  
モンテヴェルデの小さな人口ですら、彼らにとっては喉から手が出るほど欲しい人的資源なのだ。  
しかし、この小さな国がヴェネツィアの求めに応じれば、この国の壮丁の三分の一はいなくなるだろう。  
二人の伯はそれを案じているのだった。  
 
「しかし、トルコの異教徒が攻めてくるとすれば海からだ。我らにその備えはない。船も、要塞もない。  
もし貴公がヴェネツィア以上に強大な海軍を持つ国を御存知というなら、教えていただきたい」  
ジャンカルロにそう言われては、他の貴族たちは黙るしかない。  
そのとき、家臣たちの会話を聞いていた大公が静かにもう一枚の紙片を取り出した。  
「……ちなみに、フィレンツェの友人、ロレンツォ殿からはこのような手紙をもらっておる。  
『親愛なるマッシミリアーノ公へ、トスカーナの友人より。  
法王猊下、数多の領主閣下、ナポリ王、ミラノ公、ヴェネツィア共和国そしてフィレンツェ共和国。  
我らは皆兄弟であり、主の年1454年に互いの権利を尊重する事を約しあった。  
今、不幸にしてフィレンツェとナポリは刃を交えている。  
しかし、これが友人にはよくある、ちょっとした行き違いによるものであると私は思う。  
この不幸な状態も、長くは続かないだろう。  
願わくば、我らの友情が陸にあっても海にあっても、いつまでも変わりませんように』  
……分かるか? 『陸にあっても、海にあっても』だ。  
まったく、あの僭主殿はどこでヴェネツィアの手紙を盗み見たのやら」  
面白そうに含み笑いをしながら、大公はフィレンツェの王冠なき王、メディチ家当主ロレンツォの手紙を円卓の上に投げた。  
彼が求めているのは、公国とヴェネツィアの条約が何の変更も無く更新されることである事は明らかだった。  
 
1480年のイタリアは、フィレンツェ共和国の実質的支配者、ロレンツォ・ディ・メディチによって差配されていた。  
イタリアには、俗にポテンターティ(列強)と呼ばれる五つの国がある。  
北のロンバルディアを治めるミラノ公国。地中海の女王ヴェネツィア共和国。  
法王が治める教会国家。アラゴン家の支配する南イタリアのナポリ王国。  
そして毛織物と金融で栄えるフィレンツェ共和国である。  
彼らは常にその権益を巡り、時に戦争、時に陰謀と、様々な形で争ってきた。  
しかし、1453年トルコのメフメト二世がコンスタンティノープルを陥落させると、状況は一変した。  
強大な外敵を前に、五大国の間に一種の協調関係が生まれたのである。  
それが、二通の手紙でたびたび言及されている1454年の和約、いわゆる『ローディの和』である。  
これは一種の勢力均衡策で、五大国はそれぞれの権益を侵さないことを互いに保証しあった。  
そして、その実質的調停者が、フィレンツェの大商人、ロレンツォ・ディ・メディチである。  
 
メディチ家はこの頃、すでにフィレンツェの共和制を骨抜きにし、実質的な支配者・僭主となっていた。  
そして、その莫大な富と血縁関係を駆使し、常に不協和音を発するイタリアの安定を保とうとしてきた。  
それは正しい選択であった。  
15世紀はまさに「ルネサンス」の盛期であり、ギベルティやブルネレスキがフィレンツェで活躍したのもこの時期である。  
そして、フィレンツェや「列強」のみでなく、他の国も多かれ少なかれこの安定と繁栄を謳歌していた。  
ゆえに、ロレンツォはイタリアのまさに中心人物であり、人々は彼を『ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)』と呼んだ。  
 
「フィレンツェはナポリ軍にかかりきりだ。これ以上厄介ごとを増やしてくれるな、と言いたいのであろう」  
一人の貴族がそう言った。二年前からフィレンツェとナポリの戦争状態が続いている。  
ナポリには教皇が支持を与え、フィレンツェにはミラノ公国がついていた。  
「だが、講和が近いという噂もある。何でもミラノ公のご息女イッポリタ・マリア様が仲介に入られるとか」  
イッポリタの嫁ぎ先は、ナポリ王の息子アルフォンソである。仲介役としてはふさわしい。  
「ありうる話だ。ロレンツォの手紙も、和解が近いことを匂わせているように思える」  
ジャンカルロ伯がそう呟くと、座は静まった。  
戦が終わるなら、フィレンツェから引き出せるものは何もないだろう。全てが1454年の状態に戻るのだ。  
「では、条約は延長されるべきであろう。ヴェネツィアもフィレンツェも、我らの頼もしい友邦なのだから」  
大公はそう言ってこの話に決着をつけた。  
諸侯たちは黙ってうなづく。  
つまり、大公の腹は最初から決まっていたのだろう。  
大評議会の円卓――それはここに最初に国を築いたノルマン人の部族長会議に起源を持つ。  
だが、国が生まれて500年以上、この伝統ある集いもいまや形だけのものだった。  
 
3.  
五指城の中庭に、鋭い剣の音が響く。  
アルフレドが、一人の戦士と剣術の稽古に励んでいた。  
互いに鎧は着けず、簡単な革の上着を着ているだけだが、使っているのは真剣だ。  
二人の額から、滝のような汗が吹き出る。冬の冷たい風など、二人の熱気を冷ますのに何の役にも立たなかった。  
周りでは、同じような姿の男たちが、二人の打ちあう様子を見物している。  
アルフレドの対戦相手が、先に動いた。  
勢いよく間合いに踏み込み、右、左と連続して打ち込む。  
しかし、アルはそれを軽く受け流し、相手の剣を弾いた勢いで、素早い一撃を相手の身中に繰り出した。  
それを後ろ跳びに避けようとして、相手は尻餅をつく。勝負ありだった。  
「いや、いや、参ったまいった」  
剣を投げ捨て、男は頭を振って立ち上がる。周りからは冷やかすような笑いがどっとおこった。  
「さすがは『熊殺し』。いい腕だ」  
アルが姫君の危機を救ったという話は、緘口令が引かれたものの既に城中に広がっていた。  
衆人環視の中、ヒルダが血相を変えてアルを城に連れて帰ったから、それも仕方のないことではあったが。  
「君の場合、相手の腕より足に注意を払う癖がある。バシネットを被ると、相手の上半身は見にくいからかも」  
バシネットとは、目から上を覆う、皿型の兜のことだ。騎士ではなく、歩兵たちが愛用している。  
そう。対戦相手も、周りにいる男たちも全て身分の低い兵卒だった。  
全員、この大評議会の開催に合わせて君主に同行した者たちである。  
 
アルフレドは、同じ貴族身分より、彼らの中にいる方が心休まる事に気づいていた。  
城の騎士や貴族は、アルフレドを蔑むか、先日の殊勲を嫉妬するか、とにかく対等に付き合おうとはしなかった。  
その点、兵卒たちは若い騎士見習いに過ぎないアルに、気後れも遠慮もしなかった。  
彼が大公の息子である事は全く知られていない。ただ、騎士になれない貧乏貴族だと思っている。  
「さすが、きちんと剣術を習ったお方は違う。俺たちゃ盲滅法振り回してるだけだからな!」  
そう言うと、周りの兵士たちはまた笑った。めったに褒められない剣術を誉めそやされ、アルは頭をかいた。  
そんな様子も、兵卒たちには身分を鼻にかけない謙虚さと映っているようだった。  
彼らと、アルの境遇はある意味似ている。  
彼らは戦士だが、身分は農民である。領主の命令で、食い詰めた農家の次男や三男が奉公しているに過ぎない。  
故郷に帰っても、相続すべき田畑はなく、これ以上出世することもない。  
戦争になれば一財産築く機会もあるかもしれないが、平和なこの国ではそれも難しかった。  
年老いる前に傭兵に転じて流浪の人生を送るか、老年まで奉公して、痩せ馬一頭とわずかな金を渡され暇を出されるか。  
どちらにしても未来はない。アルが一生騎士見習いで、一村の領主に終わるように。  
 
アルフレドも彼らも、自分たちがここで腐っていくことを半ば諦めとともに受け入れていた。  
戦になれば、田畑や町が焼かれ、女や子供が殺され、犯される。  
そうなるくらいなら、わずかな数の兵士が不遇を囲っている方が、いいではないか?  
だが、頭で分かっていても、自分たちが何の希望もない一生を送る事を皆納得しているわけではなかった。  
「しかし、姫様のお命を救ったんだ。せめて、大公様からご褒美でももらえないのかね」  
「馬鹿。熊一頭殺したぐらいで恩賞がもらえるなら、猟犬はみんな『領主さま』だろうぜ!」  
「違いねえ」  
アルの武勇伝を聞いても、兵卒たちはそう言って笑い話にして黙り込んでしまう。  
求められているのはその人間が「何をしたか」ではなく「何者であるか」なのだ。  
アルは兵卒たちの冗談を、ただ黙って聞いていた。  
それは自虐と不満と、諦念が奇妙に入り混じった、悲しい笑いに聞こえた。  
 
「それより、明日はトゥルネアメント(馬上槍試合)だ。今晩は城下町はお祭騒ぎだな」  
一人の兵卒が舌なめずりをして、そう言った。  
大評議会は1月6日、公現の祝日に始まり、三日続く。その後馬上槍試合が二日開催され、大宴会で幕を下ろす。  
モンテヴェルデの一年を決める大事な行事、ということになっているが、評議会が形式化した今ではその後の槍試合と宴会が主である。  
城の浮かれた雰囲気に合わせたように、城下町もちょっとした祭の賑わいを見せるのだった。  
「やはり、俺は『金拍車』亭だな。あそこのエールと豚の串焼きは絶品だから」  
「食い気もいいが、女だ。てめえのかかあなんざこの際忘れて、町のいい女を抱こうや」  
「城壁の外にある淫売屋に、たいそう上物のスラヴ娘がいるって聞いたぞ」  
「たまには違った味も試してみんとな。かかあに搾り取られるだけじゃ、たまらねえ」  
夜の賑わいを前に、兵卒たちは下品な笑いを立てる。  
だが、貧しい彼らが年に一度少し羽目を外したからといって、それを咎めることが出来ようか。  
アルフレドはそんな様子を、兵卒の輪の外から黙って見守っていた。  
 
「……へへ、ところで、アルフレドさまは、どちらがお好みで?」  
調子のいい若い兵卒が、てもみしながらアルフレドに振り返った。  
まさか自分に話が及ぶとは思っていなかったので、とっさには何の言葉も出てこない。  
「そりゃあ、アルフレドさまはまだ若いんだから、食い気だろう」  
「いやいや、若いうちは木の股を見ても、こう、むくむくと来るもんだ」  
「どうです。良ければ俺たちと一緒に」  
「あ――いや、僕は」  
アルフレドは困ったように笑みを浮かべている。  
正直、女に興味がないわけではない。だが、気恥ずかしさが先に立ってしまうのもまた率直な気持ちだった。  
「……まさかアルフレドさま、まだ女を御存知ない?」  
勘のいい男が、にやにやと笑いながら言った。  
一斉に意地の悪い、しかし興味深そうな目がアルフレドに向けられた。  
「それはいかん。これは是非とも我らがアルフレドさまをこの世の天国にお連れせねば」  
「うむ。ぜひ噂のスラヴ娘をいの一番に試していただきたい」  
「俺なら手馴れた年増を勧めるが。おぼこ娘はうるさくていかん。とくにローマ生まれは駄目だ」  
その言葉が、男たちに生気を吹き込んだようだった。  
「女ならやはりヴェネト産だろう」「ナポリ女は熱っぽくてお勧めですぞ」「いやいや初めてなら……」  
一斉に、アルフレドの最初の相手はどこの女が良いか、という相談が始まったものだから、アルはうろたえた。  
「あの、僕は別に……」  
だが、アルフレドの言葉など既に誰も聞いていない。勝手に女の寸評を繰り広げ、自分の経験を語り合う。  
 
「アルフレド!」  
中庭に鋭い一喝が響いた。兵卒たちは慌てて口をふさぐ。  
その声は皆聞き覚えがあった。  
「ヒルデガルトさま」  
大階段の一番頂上に、ヒルダの姿があった。慌てて兵卒たちは頭を下げる。  
アルフレドは、一番に頭を下げていた。  
「用があります。剣の稽古が終わったのなら、こちらに来るように」  
「はい」  
「大公陛下のお城にふさわしい話というものがあります。貴族とあろうものが、範を示さないでどうするのです」  
「……はっ」  
兵卒たちが声高に繰り広げていた話は、ヒルダに聞こえていたに違いない。  
男たちは少し気まずそうに、肘で互いをつつきあう。  
アルは、死刑を言い渡された罪人か何かのように怯えた目で、ゆっくりと階段を登っていった。  
 
ヒルダが黙って居館の中に消えたので、アルも後を追う。  
そこは、謁見室の控えの間だった。ふだんはあまり使われる事も無く、人も通らない。  
ちなみに、この頃の貴族の館には一般に「廊下」がなく、部屋と部屋は直接つながっていた。  
「……申し訳ありません、ヒルデガルトさま。お城の中で下賎な話をお耳に入れまして」  
「仮にも大評議会が開かれているというのに、困ります」  
背を向けたままのヒルダは、冷たく言い放った。  
何か弁解をしようかとアルフレドは思ったが、やはり黙っておいた。  
ヒルダに兵卒の、いや男の気持ちを分かれという方が無茶だし、ヒルダの言うことは正しい。  
「……それで」  
「それで、とは」  
振り向いたヒルダは、頬をぷぅっと膨らませて、すごい形相でアルフレドを睨んでいる。  
アルは思わずたじろぐ。  
「アルは、スラヴの娘がお気に入りなの? それとも、ヴェネトの赤毛がお好みなのかしら」  
「あ、あの……ヒルデガルトさま?」  
アルが返事に困っていると、ヒルダはまたつんとそっぽを向いた。  
「兵卒たちと出かけるんでしょう? 殿方は故国の女たちより他国人の方を喜ぶなんて、知りませんでしたっ」  
「ヒルデガルトさま、僕は別に彼らと一緒に出かける気は……」  
ヒルダの前に回り込もうとしても、彼女はアルの顔を避ける。  
「それにしては、鼻の下を長くして、話に聞き入ってたみたいだけど?」  
横目で冷たく睨むヒルダに、ひやりと心が冷える。  
「だ、だからそれはヒルダの誤解だってっ」  
「うそ」  
「嘘じゃないです」  
「嘘ですっ」  
こうなると子供の喧嘩だ。アルフレドもヒルダもいつの間にか敬語を使うことを忘れている。  
天を向くように睨んでくるヒルダに、アルもムキになってにらみ返す。  
「珍しく剣の稽古をしていると聞いて行ってみれば、女性の話に花を咲かせてるなんて!」  
「だ、だからそれは兵卒たちが勝手に始めたことで、僕は興味はなかったんだってば」  
「そうやって下々のせいにするなんて……アルがそんな人だなんて思わなかった!」  
ヒルダの怒りはおさまりそうもない。  
あたふたと言葉を重ねるアルの様子が、さらに怒りに火を注いでいるようだった。  
 
ヒルダは、アルフレドが剣術や馬術を本心では嫌っている事など、小さいときからよく知っている。  
そんな彼を軽蔑した事もあった。思えば幼い子供の軽率な判断だったと思う。  
でも、アルフレドはいつしか歯を食いしばり、砂を噛むように騎士の修行に励むようになっていった。  
そういう、真面目すぎるほど生真面目なアルをヒルダは誇りに思い――ほのかな思いを寄せていた。  
だと言うのに、稽古の途中にあんな――あんな話をしているなんて!  
「ふ不潔ですっ……それに、卑怯だわ!」  
「じゃ、じゃあ僕が認めれば満足なのかい? ああ、もう。一体どう言ったら信じてくれるんだよっ」  
頭をかきむしり、ヒルダをじっと見つめる。  
真面目な顔をして見つめるアルの目線に、ヒルダはかあっと顔が火照るのを感じた。  
「もう……知らないっ」  
ヒルダは隣の部屋に逃げていった。  
自分の心に宿ったものが、軽い嫉妬であることすら気づかない。  
男の女の機微についていえば、それほどまでヒルダは「うぶ」だった。  
もちろんそんな事はアルにも分からない。だが放っておくわけにもいかず、彼女を追いかける。  
 
ヒルダに追いついたのは、円卓の間の隣の部屋だった。  
「ヒルダ、僕は嘘なんかついてない……」  
声をかけようとしたその時、隣室の扉が開いたので、アルフレドは慌てて口をつぐんだ。  
ヒルダと親しげに口を聞いているところを人に見られたら、大変だ。  
 
出てきたのは、ジャンカルロ公を先頭にした、モンテヴェルデの諸侯たちである。  
「ジャンカルロさま」  
自らの主君の姿を見て、アルフレドはさっと頭を下げる。  
豪華な衣装に身を包み、他を圧倒する堂々たる態度で出てきたジャンカルロは、アルの姿を見て微笑した。  
「アルフレドか、どうした」  
「いえ、別に」  
口ごもるアルに、ジャンカルロは特別な注意を払わなかった。  
しかし部屋を見渡し、ヒルダの姿を見つけると、その態度は一変した。  
「おお、これは姫様。ごきげん麗しゅう」  
ゆったりとした態度で一礼する。  
ヒルダはさっきまでの取り乱した態度をつくろうように、背筋を伸ばし、ジャンカルロを見下ろしていた。  
「伯爵もごきげんよう。大評議会は終わりましたの?」  
「ええ、今年もつつがなく」  
笑みを浮かべる伯爵に、ヒルダの表情は変わらない。  
だが、冷たくされても、男盛りを迎えたこの大領主は丁寧な態度を崩さなかった。  
「……そう言えば、先日は危ないところでしたな」  
「ええ、伯爵の御家中の方に助けていただき、九死に一生を得ましたわ」  
「これからは、少し遠乗りを控えられる方がよろしいでしょうな。幼馴染みも常にそばにいるとは限りますまい」  
ヒルダは努めて客観的に言ったつもりだったが、伯爵には通用しなかった。  
伯爵は、アルフレドが大公の後継者になることを警戒する筆頭の人物なのだ。  
彼の言葉は、はっきりとアルとヒルダの関係を疑うものだった。  
「アルフレドも、よくやったぞ。さきほど、陛下からじきじきにお褒めの言葉をいただいた」  
ジャンカルロはそう言って大笑した。もちろん、アルには何の音沙汰もない。  
「それは……光栄の至り」  
アルフレドが深く頭を下げると、ジャンカルロはその話題は終わった、とばかりに歩き始めた。  
 
「そういえば、ヴェネツィアとの条約の件、どうなりました」  
ヒルダはジャンカルロ伯の後ろを歩きながらそう切り出した。  
「……これまでどおり、ということで。ロレンツォ・ディ・メディチの後押しもありましたが」  
伯爵は、ロレンツォを呼び捨てにした。  
彼のような典型的封建貴族にとって、王侯のように振舞う商人など、片腹痛い存在だった。  
「それは良かった」  
安堵の笑みを浮かべるヒルダに、伯爵はいぶかしげな顔をする。  
女でも土地の相続権はあり、女君主というべき存在もいるにはいたが、やはり政治は男の仕事と考えられている。  
「今度のヴェネツィアの定期便に、私と召使いたちの服に使う絹が積んでありますの。  
……きっと、無事に届きますわね」  
慌ててヒルダが言いつくろうと、ジャンカルロはまた声を出して笑った。  
「全く、ご婦人方はのんきなものですな!」  
もちろん、ヒルダはヴェネツィアの海軍力がこれまでどおり味方になったことを喜んだのである。  
 
4.  
「騎士殿、お名前は」  
聖ヨハネ騎士団のドイツ騎士は、流暢なラテン語で話しかけられ、驚いた。  
ここは、トルコの軍船の上。  
自分が乗っていたガレー船は黒煙を上げていた。  
ヴェネツィア船も二隻が拿捕され、今は半月旗をその船尾に掲げている。  
逃れた一隻が何とか味方に連絡してくれる事を騎士は願った。  
戦闘は、一方的だった。  
おとりの船に切り込んだ瞬間、さらに二隻の別のトルコ船が戦闘に加入し、勝敗は決した。  
騎士団員は自分を除いて殺され、石弓手たちもほとんど死んだ。  
船長も行方不明。船員はみな奴隷にされていた。  
それでも、騎士としての誇りを失ってはならない。せめて、最期まで堂々としていよう。  
「……ザクセンのウィルヘルム。聖ヨハネ騎士修道会の修道士である」  
「あっぱれな戦いぶりでありました」  
話しかけてきたトルコ人は、目の細かい鎖帷子に、金の飾りが施された手甲、脚半をつけ、白いマントをつけている。  
顔は血に汚れているが、ウィルヘルムを見つめる視線は柔らかい。一見して身分の高い武人と分かった。  
「冥土の土産に、尊公のお名前をうかがいたい」  
そう言われたトルコ人は、大きな声で笑った。騎士ウィルヘルムは憮然とした表情を見せた。  
 
「何がおかしい」  
「いや、失礼」  
そう言ってからも、トルコ人はしばらく笑っていた。  
「勇敢に戦った戦士を軽々しく殺したりはせぬ」  
「どうかな」  
トルコ人の残虐さは良く知っている、とばかりにウィルヘルムは皮肉っぽい視線を相手に向けた。  
もちろん、自分たちがトルコ人にどのような残虐な振る舞いをしてきたかは都合よく忘れていた。  
「ふん……確かに、情けをかけておいた方がいいかも知れぬ。ここらはヴェネツィアの軍船の通り道だ。  
このような小艦隊でぐずぐずしておれば、今度はそちらが虜になりますぞ」  
ウィルヘルムは精一杯の強がりを言ってみせた。  
その根拠があれほど嫌っていたヴェネツィア海軍頼みというのが情けなかったが。  
「気にせぬ」  
しかし、言われたトルコ人は平然と答えた。  
「ウィルヘルム殿。これからはアドリア海も、我々のものとなろう」  
それは、虚勢ではなかった。確実な未来を見据えているかのような声だった。  
「……私の名は、アクメト・ジェイディク」  
トルコ人の名を聞いて、ウィルヘルムは息を呑んだ。  
その男は、エーゲ海にその名を轟かせる、トルコ艦隊の司令官であった。  
(続く)  
 

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