1.  
トルコ軍の将軍は苛立っていた。  
何より、自らの無能さ加減に苛立っていたのだが、それは彼にしか分からない。  
それゆえ彼の周囲では、怯えた部下たちが雷を避けるように彼の機嫌が直るのを願っていた。  
歯噛みしながら、将軍は眼前に展開する自軍と、その向こうのモンテヴェルデ軍の陣地を見やる。  
両軍のにらみ合いは朝から始まり、太陽が天頂に差し掛かろうとする今になっても続いていた。  
 
「全く……全く忌々しい。あのネズミども!」  
苛立ち混じりに指揮杖を振りまわす。  
そもそも、彼がトルコ軍総大将アクメト・ジェイディクから命じられた任務は  
「モンテヴェルデ領の飛び地を攻撃することで、敵の兵力、輸送能力、防備状況を偵察する」  
ことであって、会戦を挑んで打ち破ることではなかった。  
だからこそ本土から離れた島を攻撃したのだし、兵力もガレー船十隻、兵士千人で十分だった。  
当初の予定では、敵の反攻を待ち、交戦して敵の実力を測った後、ただちに撤収するはずだったのだ。  
もし反撃してこないなら、それは「取るに足らない相手」ということであり、今後は無視して構わない。  
だが、モンテヴェルデは来た。  
そして、望んでいない持久戦に追い込まれつつある。  
それは指揮官として全く想像していないことだった。  
 
何よりトルコ軍にとって痛かったのは、サン・ドミノの食料庫が火事で焼失したことだった。  
そこには船で運び込んだ食糧と町から徴発した食糧の大半が保管されていた。  
町の反乱分子が火をつけたのか、それとも密偵が侵入したのか、今となっては分からない。  
そもそも人口が二千人に満たない島に、千人のトルコ兵が侵攻したことで、島の食糧事情は極度に悪化していた。  
そのため、トルコ軍は市民への配給をぎりぎりまで減らした上で、船で絶えず食糧を運びこまねばならなかった。  
侵攻以来、五隻のガレー船が本拠地ヴァローナからの食糧輸送にかかりきりになっている。  
だからこそ、海の見張りが手薄になり、モンテヴェルデの上陸船団を察知することも出来なかったわけだ。  
とはいえ、これまでは島にあった備蓄のおかげもあって、兵士は飢えずに済んでいた。  
だが、食糧庫が焼かれたため、一気に彼らは飢餓線上の生活を強いられることになった。  
全軍撤退しようにも、船が足りない。  
あるいは将軍と彼の配下の兵だけならば可能だったかもしれない。  
だが、戦いもせず兵を見捨てて逃げたとあっては、アクメトの怒りを買うことは間違いない。  
だから将軍は島に残ることを選んだ。  
そして、港に残していた軍船も全て食糧輸送任務に当てることにした。  
いまやトルコ軍は移動手段の大半を手放し、撤退することすら出来ない。  
当然、「兵力の半数を海上輸送して、モンテヴェルデ軍を挟み撃ち」など出来るはずも無かった。  
モンテヴェルデ軍が進撃を止めたというのに、攻撃に出られないのはそのせいだった。  
もし敵の指揮官がそれを見越していたとすれば――将軍は頭を振って嫌な想像を追い払う。  
 
いま両軍は、サン・ドミノの海岸沿いを走る街道の隘路を挟んで対陣している。  
トルコ側が布陣したのは幅一キロほどの平地である。  
左手には砂浜が広がり、右手は内陸に向かって次第に険しさを増し、山岳地帯へと続いている。  
砂浜は地盤がゆるい上に水が湧き出すので、強固な陣地は作れない。  
トルコ軍陣地は前面に簡単な堀と柵を築き、十門ほどの火砲を配置しただけのものだ。  
三列の槍兵と剣兵が陣地を補強し、弓兵は後方に七列に渡って待機していた。  
陣地の前方で、道は急に狭くなる。  
内陸からはむき出しの岩肌が迫り、反対側はすぐ海へと落ち込んでいる。  
隘路の長さは約四百メートル。  
その幅は歩兵ニ十人、騎馬でも十騎ほどが並ぶのが精一杯だった。  
モンテヴェルデ軍は、その隘路を抜けたところに広がる平原に陣を張っている。  
もし攻めかかれば、隘路の出口で敵の集中射撃を浴びることになるだろう。  
もちろんモンテヴェルデ軍が攻撃してきても同じことだ。  
トルコ軍の前衛にぶつかる前に、数百の弓と火砲の集中砲火で突撃隊は壊滅する。  
だが、食糧が極度に不足しているトルコ軍にとって、このまま待ち続けることは不可能だ。  
モンテヴェルデ軍がどれだけ食糧を持っているかは知らないが、トルコ兵はもう丸一日食事を採っていない。  
 
(こんなことなら、騎兵をもっと連れてくるのだった――)  
後悔しても手遅れだった。  
軍馬を運ぶ平底船は速度が遅いので、どうしても船団の足を引っ張る。だから騎兵隊は連れて来ていなかった。  
山がちの島で速やかに移動できるのは、軽騎兵しかない。  
彼らは頑健な馬を乗りこなし、山岳地帯も平地のごとく駆け抜ける。  
幸い、トルコ帝国は山岳民族の多いバルカン半島を支配下に置いているから、軽騎兵の確保には困らない。  
だが、いまサン・ドミノにいるトルコ騎兵は偵察のために連れてきた二十騎ほどに過ぎなかった。  
もっと多くの騎兵がいれば、山地を抜けてモンテヴェルデの背後を襲わせることも出来るのだが……  
 
打つ手はなかった。  
モンテヴェルデ軍はまるでこちらの苦境を見越したように、陣地に引きこもったまま動こうとしない。  
ただ、向こうが先手を打って攻撃してくることを祈るしかなかった。  
「――斥候が帰ります!」  
傍らの兵がそう叫んだ。  
将軍が目を凝らすと、偵察に出してあった騎兵が砂埃を上げて帰ってくるところだった。  
陣地の隙間を通り、兵士の列を抜け、将軍のいる本陣へと駆け込んでくる。  
そして、彼の前でひらりと馬から飛び降りた。  
「イタリア人の様子はどうだ?」  
「はっ」  
斥候は跪き、頭を軽く下げる。  
「動く気配は未だなく……陣地の前面には堀と土盛りが二重にめぐらされ、逆茂木が植えられていました。  
馬防柵は二列から三列。長槍兵と弓兵がそれを固めています。一番奥に騎兵が控えているようです」  
「両翼の守りは?」  
「敵の左翼は正面と同じく、塹壕と柵で守られていました。  
右翼は砂浜で、工事が出来なかったのでしょう。長槍兵の分遣隊が配置され、少数の騎兵も見えました」  
「午前中よりも防御を固めているな……」  
報告を聞きながら、将軍は頭の中で敵陣地の構造を思い描く。  
自分の歩兵隊が敵の矢を浴びながら、塹壕を超え、柵を引き倒し、敵の隊列に殺到する……。  
いかに兵力が倍とはいえ、防御を固めた敵を正面から攻めれば甚大な損害を被るだろう。  
「……隘路の出口まで敵の矢は届きそうか?」  
「おそらく違うでしょう。隘路を抜けてから敵の陣地に達するまで、三百ファゾム(約五百メートル)はあります」  
再び、将軍は思案する。  
ならば、こちらの火砲をそこまで進出させる手もある。  
歩兵で守りながら砲兵隊を前進させ、敵の射程外から砲撃する。  
耐えられなくなって陣地から出てきた敵を、後方の主陣地で撃滅する――  
砲手は犠牲になるが、その程度の損害は仕方無いだろう。もちろん、敵が仕掛けてくればの話だが。  
 
その時だった。  
隘路の向こうで突然高々と喇叭が吹き鳴らされ、イタリア語の叫び声が聞こえた。  
「……何事だ!?」  
将軍が叫ぶ。望遠鏡を手にした親衛兵が、振り返って答えた。  
「イタリア人が、攻めてきます!」  
「何っ!」  
瞬間、将軍の顔がほころんだ。  
やはり西洋人は愚かだ。騎士だ貴族だといっても、血の気の多い猪武者ばかり。  
数で劣るくせに攻撃することしか考えていない。それが奴らの御立派な「戦法」なのだ。  
将軍はアラーに感謝の言葉を呟くと、兜を被る。  
「撃ち方用意!」  
「撃ち方よーい!」  
将軍の号令に、陣地前方の砲手たちが作業に入る。  
卵ほどの鉛球を撃ち出す小型砲だが、密集隊形になら相当の効果が見込める。  
同時に弓兵で叩けば、たとえ重騎兵の突撃だろうが勢いは失われるだろう。  
あとはこちらの番だ。一気に隘路を駆け抜け、敵陣地を蹂躙してやる。  
徐々に近づいてくる鬨の声と、地鳴りのような足音の中で、将軍は笑った。  
「弓兵! 構え!」  
「弓兵、構えーっっ!」  
数百のトルコ兵が一斉に動いた。矢筒から流れるような動作で矢を抜き取り、つがえる。  
引き絞られる弦が、魔物の歯軋りのような音をたてた。  
 
じっと、兵士たちは待っている。  
敵が現れる瞬間を。  
その白刃が自らに振り下ろされる瞬間を。  
兵士たちは「敵を殺す」とは考えない。常に「敵に殺される」と考える。  
ただ自分が殺されないために殺すのだ。  
弓兵は力を込めて弓を引き絞り、砲手は照準を定め、槍兵は自らの得物を水平に構えた。  
そして――来た。  
防具が擦れる騒音。踏み鳴らされる足音。そして、兵士の絶叫。  
モンテヴェルデ兵は一団となって、トルコ軍の陣地に殺到してくる。  
林のような剣と槍の連なりが、陽の光を弾いてざわめく。  
あえて将軍は敵をひきつけることにした。  
ぎりぎりの瞬間に全ての武器をぶつけることで、敵の戦意を完全に砕くつもりだった。  
一塊の鉄にしか見えないものが、次第に一人一人の兵士の集団へと変わっていく。  
一列になって押し寄せる重騎兵の背後に、剣や槍を振り上げる歩兵が続く。  
吠える敵兵の顔が浮かび上がり、旗印や上衣の文様すら分かろうか、という時。  
ついに将軍は叫んだ。  
「放てーっ!」  
 
トルコ側の陣地が白煙に包まれる。  
全火砲が一斉に火を放ち、立ち込める煙に一瞬モンテヴェルデ兵の姿が消えた。  
そして、矢が空を切る雨のような音が、全ての兵士の耳に響く。  
だが、モンテヴェルデ兵は足を止めなかった。砲弾に叩き潰された死体を乗り越え、さらに前進する。  
そこにトルコ弓兵の放った矢が降り注ぎ、モンテヴェルデ兵の隊列が僅かに崩れる。  
それでも兵士たちは倒れる戦友のそばを駆け抜け、塹壕へと飛び込んで行く。  
盾を頭上にかざしながら塹壕をよじ登り、ついにモンテヴェルデの前衛がトルコ軍と接触した。  
たちまち、そこかしこで武器が打ち合い、鎧の砕かれる音が響く。  
トルコ兵が突き出す槍をモンテヴェルデ兵が切り払い、トルコの隊列に乗り込んだ騎士がやみくもに剣を振り回す。  
柵を引き倒し、土盛りを飛び越えるモンテヴェルデ兵に、トルコ弓兵の斉射が浴びせられる。  
倒されても倒されても、モンテヴェルデ軍は狂気に駆られたように押し寄せ、トルコ軍はそこに立ちふさがり続けた。  
死闘は全く互角に見えた。  
――だが、それは長くは続かなかった。  
モンテヴェルデ軍の一角で絶叫と喇叭の音が響き、それはさざ波のように全軍を包んだ。  
隊列の後方にいた兵士が最初に背を向けた。イタリア語の叫びが兵から兵へと伝わっていく。  
後続がいないことに気づいた前列の兵士が立ち止まる。騎士は馬を一目散に後方へと走らせ始める。  
そして逃走が始まった。  
 
「将軍! 敵は逃げています!」  
副官の嬉しそうな声に、将軍も上機嫌でうなづいた。逃げる敵を打ち破るのは容易なことだ。  
古今東西、戦死者の大部分は一方が敗走する際に生まれる。戦意を失った兵は、兎にも劣る獲物だ。  
いまや好機だった。  
このまま敵を蹂躙し、ついでに敵陣地も一掃する。それで戦は終わりだ。  
アクメトに賞賛される自分の姿を想像して、将軍は笑みを浮かべた。  
「陣地を出ろ! 全軍突撃!」  
そう言うと自ら馬に跨り、拍車を入れる。  
勝利の確信が広がり、トルコ軍の将兵は歓声を上げ、陣地から躍り出た。  
自分たちが作った柵を倒し、塹壕を乗り越え、逃げるモンテヴェルデ軍を追う。  
だが、将軍も兵士も気づいていなかった。  
モンテヴェルデ軍の隊列が未だ崩れていないことに。  
 
逃げる敵兵の背を斬りつけながら、トルコ軍は隘路へと突っ込んで行く。  
密集した細長い一団となって、彼らは駆け続けた。  
だがあまりに密集したために、前の兵士は後ろから押され、後ろの兵士は足踏み状態となった。  
それでも将軍は全軍の先頭で剣を振るいながら敵を追い続けた。  
戦は勢いだ。ましてや鈍足の歩兵主体のトルコ軍に、立ち止まって隊列を整える暇はない。  
将軍は喉も裂けよと兵を叱咤激励し、前へ前へと彼らを駆り立てた。  
そして、トルコ軍の前衛がようやく隘路を抜けようとしたときだった。  
殿の方から悲鳴に似た叫び声が上がった。兵士たちは何事かと振り向き――恐怖に顔を凍りつかせた。  
それは、モンテヴェルデ騎兵の姿だった。  
 
「ジャンカルロ閣下、ご命令を!」  
丘の上から敵陣地を見下ろしながら、ジャンカルロはうなづく。左右には九十騎の騎士。  
その傍らには、あの羊飼いの男がいる。  
彼は島の地理を知り尽くしている。当然、馬が通り抜けられる山道も。  
羊飼いの道案内で、騎士たちはトルコ軍に気づかれることなく背後に回りこんだのだ。  
トルコ軍への無謀な正面攻撃は、彼らを陣地から誘い出すのが目的だった。  
敵の食糧庫を焼き払わせたのも、もちろんジャンカルロの作戦だった。  
一週間ごとに港に戻るトルコ船団。一週間はちょうどサン・ドミノ島とヴァローナ往復にかかる日数である。  
敵が増援を送り込んでいないとすれば、食糧を運んでいるのではないか? それに気づいたのは彼の彗眼だった。  
だがそうでなくとも、少し頭を働かせれば敵も食糧不足に苦しんでいることは容易に想像できた。  
だから、彼は敵の飢えを最大限利用することにした。  
食糧不足による焦りと、囮の正面攻撃。  
この二つで、敵を隘路へと誘い込むのだ。  
「陣地を蹂躙し、敵本隊を背後から切り崩す! 抜刀――!」  
ジャンカルロが剣を抜き放ち、他の騎士たちもそれに倣う。  
「突撃ッー!」  
ジャンカルロを先頭に、騎士たちは一団となってトルコ軍に襲い掛かる。  
「聖ペテロ!!」  
「聖ペテロ! 護り給え!」  
騎士は伝統の鬨の声を上げ、一気に丘を駆け下った。  
重騎兵の突撃に、陣地に残っていたトルコ兵は一瞬で血の海に沈む。  
僅かな生き残りは散りぢりに逃げ去ったが、ジャンカルロはそれを追うことを許さなかった。  
「狙うは大将の首! 敗残兵に構うな! 続けーっ!」  
これまでの訓練の成果を、モンテヴェルデの騎士たちは存分に見せた。  
素早くジャンカルロの下に集うと、隊列を整え、隘路で立ち往生するトルコ軍へと押し寄せる。  
 
 
「――将軍!」  
副官の悲鳴に、将軍は自分が罠にかかったことに気づいた。  
「戻れっ、引き返せ! 槍兵、防御隊形!」  
しかし、その命令も虚しかった。  
背後をから襲われた後衛は必死に前へ逃げようとし、引き返そうとする槍兵との間で大混乱が発生した。  
そこへモンテヴェルデ騎士が突撃する。  
押し合い、右往左往するトルコ兵を、騎士たちはなで斬りにしていく。  
軍馬から逃れようとした兵士が、隣の兵士を突き飛ばす。  
つんのめった兵士が、他の兵士を巻き込んで倒れ、それを軍馬が踏み潰す。  
狩る側と狩られる側が入れ替わった、新たな惨劇が繰り広げられた。  
「将軍……将軍!」  
副官の目に、絶望の色が浮かぶのを将軍は見た。  
それは彼も同じだった。だが、今彼が希望を捨てれば、一千の将兵が死ぬ。  
「……こうなれば、敵陣に突っ込んで血路を開くしか――」  
そう呟き、モンテヴェルデ軍の陣地に目を向ける。  
そこで、彼は自分の命運が尽きたのを悟った。  
隘路の出口を塞ぐように、モンテヴェルデ軍が整然と配置につくのが見えた。  
弓兵と石弓兵が一斉に矢を放ち、歩兵が再び突撃してくる。敗走は偽りだったのだ。  
身動きのとれない兵士たちが、ばたばたと矢に倒れていく。その中には彼の副官もいた。  
(こんなところで、死ぬのか)  
噛み締めた奥歯が軋む音がした。  
「――アッラーフ・アクバル!!」  
将軍は叫び、混戦の中へと躍りこむ。  
それが、彼の最期の姿だった。  
 
 
2.  
穏やかな日差しの中で、ラコニカは目を覚ました。  
そして、そのまぶしさに再び瞼を閉じた。  
やがて、おずおずと目を細めるようにして再び周りの様子を伺う。  
白く輝く部屋に、ラコニカは横たわっていた。その体を優しく受け止めているのは、小さな寝台。  
目が慣れてくると、部屋が徐々に輪郭を取り戻す。  
漆喰の壁、白く塗られた鎧戸、潮風に錆びた蝶番、丸椅子に大きな衣装入れ。  
ここはラコニカの部屋。アルフレドとともに過ごした、二人の家だった。  
 
視線を近くに戻すと、シーツの上に伸びる自分の腕が視界に入った。  
ゆっくりと持ち上げ、両手を何度か開いたり閉じたりしてみる。力は入らないが、確かに肉体はここにある。  
ラコニカは上体を起こし、自分の体を観察する。リネンの洗いざらしの下着だけを身につけていた。  
いつもの癖で、さっと寝台から立ち上がろうとした、その途端。  
「いたッ!……」  
鋭い痛みが走り、思わずラコニカは自分の右足を庇うように体を曲げた。  
恐る恐るシーツを持ち上げる。  
包帯が巻かれた太ももが目に映った。  
痛みに怯えながら、そっと脚を動かし、怪我の様子を観察する。  
包帯にはわずかな染みが出来ていたけれども、それは血の色ではなかった。  
茶褐色の染みは血が固まったものなのか、それとも別の何かなのか、ラコニカには判別がつかない。  
だが、既に傷はふさがっているように見えた。  
そこで初めて、彼女は自分の置かれた状況を思い出した。  
 
アルを故郷へと旅出させたこと。  
彼を送り出した後、あの傭兵隊長が尋ねてきたこと。  
自分を馬に乗せると、コンスタンティノは信じられない速さでアルを追ったこと。  
彼に羽交い絞めにされ、脚を短刀で傷つけられたこと。  
そしてアルフレドの胸の中で意識を失った――はずだった。  
「誰か、いるの?」  
声をあげても答える者はいない。  
ただ、台所の方から人の気配がする。誰かがこの家にいることは確かだった。  
胸が、躍った。  
アルフレドだろうか?  
いや、それはありえない。  
彼が故国モンテヴェルデを強く思っていることは明らかだった。  
故郷の危機を聞いた彼の顔は青ざめ、目には憂いがあった。ラコニカが読んでも答えようともしなかった。  
――ヒルダさんのことを考えている――  
そう考えた瞬間、ラコニカは泣き出しそうになった。  
それは彼女の初めての失恋だったから。  
でも、何故かほっとしている自分が一方にはいた。  
何かは分からないけれど、自分の手の届かない遠くに思いをはせるアル。  
時折見せる彼の憂いを含んだ視線の正体。  
いつか離れ離れになってしまうだろうという予感。  
そんな全てが、ようやくはっきりとラコニカの前で一つの形になった瞬間だった。  
 
「……お昼、かな」  
いつも窓の外から聞こえてくるはずの喧騒が聞こえない。  
陽気な南イタリア人たちはまるで歌うように話し、それがラコニカには心地よかった。  
洗濯をする母親たちの歌声。街路を駆け抜ける子供の笑い声。農夫の押す荷車の軋む音。教会の鐘の音。  
そういったものが町の息づかいとなって、いつも町に響いていた。  
けれど、漁師や職人たちが昼食を採りに帰る時間だけは、レッジョ・カラブリアの町もひと時の静寂に包まれる。  
今が、まさにそうだった。  
そのとき、ラコニカのお腹がぐぅ、と小さな音を立てた。  
それは、彼女が確かに生きているという証だった。  
涙が込み上げる感覚に、ラコニカは思わずシーツを抱きかかえた。  
(私は生きてる)  
それは生の喜びではなかった。  
 
死は、とっくの昔に覚悟していた。  
無表情なコンスタンティノが尋ねてきたときに、死ぬ覚悟をした。  
いやもっと以前、脱走を手助けすると決めたときには、もう漠然とした死の予感があった。  
死。それは彼女の望みでもあった。  
(あなたのために、私が出来ることなんてこのくらいしかない)  
ラコニカはそう信じ、アルに自分を見捨てて行くよう告げたのだ。  
だから、死んでも悔いも恐れもないはずだった。  
しかし、ただ一つだけ不安があった。  
意識を失う間際に聞いた、あの「ごめん」という言葉。あれはどういう意味だったのだろう。  
もし、彼女を見殺しにすることを謝ったのだとしたら、それは思い違いというものだ。  
彼の心は、ヒルデガルトというお姫さまのものなので、自分のものではない。  
だとすれば、自分に出来ることは、彼の望むままさせてあげること。  
せめて彼の心の片隅に永遠に生きることが出来れば、それで幸せだと思った。いや、思おうとした。  
(私……わがままだ)  
かすかな嫌悪感が胸中に広がる。  
アルの心に永遠に生きるということは、彼にいつまでも自分の死を思い出させることだ。  
心優しい少年には、それもまた辛いことに違いない。  
「わがままだね……ごめんね」  
思わず、呟く。  
 
だがもし。  
「君の思いを裏切ってごめん」という意味だったらどうだろうか。  
もしそうだとしたら、確かにそれはひどい裏切りだ。  
生命をかけた愛の告白が、踏みにじられたということなのだから。  
謝ってもらって済む問題ではない。  
でも――アルフレドは、どこまでも優しかった。  
通りすがりにすぎない自分を、体を張って助けてくれた。  
汚らわしい生業に身を落としたというのに、愛そうとまでしてくれた。  
アルがラコニカを裏切り、命を救おうとする。何の不思議もないことだ。  
「もしそうなら、私は……」  
独りごちながら、その帰結を考える。  
それはつまり……自分が、アルに選ばれたということだ。  
美しいお姫さまではなく、ただの農民の娘である自分が。  
 
(……私、生きてる!)  
ラコニカを包んだ喜びは、「愛されている」喜びだった。  
飛び上がりそうなほど逸る心をおさえ、ラコニカは周囲を見回す。  
アルフレドはどこにいるのだろう。  
この家にいるのだろうか、台所の人の気配は彼のものなのだろうか。  
早く会いたい。  
会って伝えたい。自分の気持ち、今までの想い、これからの誓いを、全て。  
もう痛みは感じなかった。シーツを払いのけ、立ち上がろうとする。  
そのとき、部屋の扉が開く音がした。  
「あ、アル……アルフレドさんっ…………!」  
人影を目にしたその途端、ラコニカは叫んでいた。  
 
だが、それはアルフレドではなかった。  
「あ……ニーナ……さん?」  
「そうだよ、私だよ……よかった、やっと目を覚ましたんだね」  
部屋に入ってきたニーナは、そう言って胸を撫で下ろした。  
そして、目を細めてラコニカに笑いかける。  
「私――」  
「心配おしでないよ。あんたは生きてるさ。全く……コンスタンティノのやることときたら!」  
吐き捨てるように言いながら、ニーナは椅子に腰を下ろす。  
不思議そうな顔のラコニカに、ニーナはかいつまんで今まで起こったことを話してくれた。  
 
コンスタンティノがラコニカの足を斬ったのは、はったりに近かった。  
まるで外科医の技の如く大事な血管も筋も傷つけず、派手に血が流れるように見せたのだ。  
もちろん、ラコニカが一時的に意識を失うのに十分な傷ではあったが、致命傷ではなかった。  
「……あと一週間も寝てれば、また元気に跳んだりはねたり出来るようになるってさ」  
ニーナはそう言って、ようやく腹の底から笑った。  
「じゃあ、私をここに連れてきてくれたのは……」  
「いや、コンスタンティノじゃないよ」  
そう呟くニーナの顔が少し曇ったのを、ラコニカは見逃さなかった。  
彼にとって、ラコニカなど死のうが生きようがどうでもいい存在だ。  
加減したのも、あっさり死なれてはアルフレドへの脅しにならないから、ただそれだけだった。  
もしアルが見捨てていたとしても、コンスタンティノはラコニカを助けに戻るつもりではなかったらしい。  
「アルだよ。あの子があんたを町まで連れてきたのさ」  
その瞬間、ラコニカは笑みを浮かべずにはいられなかった。  
胸が熱くなるのがはっきりと分かった。  
 
「アルは、アルフレドさんは、どこ?」  
早く彼に会いたい。そして、はっきりと言いたい。  
あなたを死ぬまで愛し続けます、と。  
きっと彼は顔を真っ赤にするだろう。そうしたら、黙って口づけをしよう。一杯の愛情を込めて。  
そんなことを考え、顔をほころばせる。  
だが、ニーナは不意に顔を背けた。  
口ごもり、目を伏せ、わずかに身をよじる。  
「――ニーナさん?」  
そこで、ラコニカは何かよくないことが、とてつもなくよくないことが彼の身に起こったことに気づいた。  
 
「……アルは、捕まったよ」  
「え――」  
言葉を失うラコニカに、ニーナはきっぱりと言い放つ。  
僅かな希望を残すことが、かえって罪であるかのように。  
「当たり前だろ。脱走は串刺しが決まりなんだ。見逃されるわけないじゃないか」  
その言葉にラコニカの顔から笑みが消えた。  
強張った表情のまま、救いを求めるように目を彷徨わせる。  
だが、ニーナは首を振っただけだった。  
「あの子はお城に連れて行かれたよ。コンスタンティノの話じゃ、今日皇太子さま直々の査問があるらしい。  
――安心おし、すぐに殺されやしないよ、あの子にはまだ建築査察官の仕事が残ってるからね。  
皇太子さまも、この国の守りを固めるまではあの子を生かしておくだろうさ。でも、もう……」  
その時初めて、ニーナはラコニカに目を向けた。  
泣きそうになるのを必死にせき止めるように、ラコニカは唇を噛み締めている。  
「もう、ここには帰って来ない。二度とあんたに会うこともない。  
きっと仕事のとき以外は城の牢屋で過ごすんだろう。そして、仕事が終わったら……」  
それ以上は口に出来ない、とでも言うようにニーナはうつむく。  
 
「――あんたに、よろしく伝えてくれって」  
そうニーナは言葉を濁した。  
しかし、ラコニカにも彼女が言わんとすることは分かる。  
傭兵団にとって兵士の逃亡は見逃せない事件だ。もし見逃せば、規律などたちまち崩壊する。  
見せしめの意味も含め、逃亡兵に対する処罰は極刑が普通だ。時には逃亡兵同士を殺し合わせることすらある。  
「アル……フレドさん……まさ、か……」  
首を左右に振るニーナ。  
ラコニカの恐れが確信に変わる。アルが無事ですむ可能性は果てしなくゼロに近い、と。  
「嘘……そんなの、そんな……嘘でしょ? ねえ、ニーナさん、嘘よね……!?」  
ラコニカは絶叫した。  
「嘘に決まってる、会えないなんて。私信じないから、絶対信じないから! 嘘つき! ニーナさんの嘘つき!!」  
叫びながらニーナの体を掴み、揺さぶり、打った。  
「いや! そんなの嫌よ! アルは死なないからっ。私をおいて死んだりしないからっ! 絶対、絶対……」  
やがて叫びは嗚咽に変わり、いつしか途切れる事のない泣き声に変わる。  
「死んじゃったりしない……絶対よ……絶対……」  
「ラコニカ」  
体を震わせて泣くラコニカをニーナは抱き寄せる。  
けれど、その手もまた、止めようもなく震えていた。  
 
 
3.  
アルフレドはもう何日もカラブリア城の一室に幽閉されていた。  
ラコニカを連れて町に戻り、ニーナに彼女を託したところで皇太子の兵に捕縛されたのだ。  
幸いというべきか、幽閉されたのは地下のじめじめした牢屋などではなく、ごく普通の居室だった。  
寝台と机、それに小さな祭壇があるだけの簡素な部屋。  
何もすることはなかったが、おかげで自分の現在、そして未来について考える時間はいくらでもあった。  
しかし、いくら時間をかけようが、「ない未来」について考える意味は見つかっていない。  
(僕は……何もかも失ったんだ)  
アルはもう何時間もマリアの祭壇に向かって跪いている。  
それ以外には、どのような格好も今の自分にはふさわしくないと思われた。  
(僕は全てについて、力及ばない男だった。権力も、肉体の力も、何も手に入れることが出来なかった。  
手に入れたように見えたものも、結局人から渡されたに過ぎなかったんだ)  
名目だけの貴族の肩書きも、傭兵としての日々の稼ぎも、建築査察官としての地位も……  
考えれば考えるほど、自分の力で手に入れたと胸を張れるものはないように思える。  
 
(まさか、僕は考えていたのか? 放浪の果てに自分が英雄のような力を手に入れられると?  
あの、伝説の騎士ベルトランドのように力強く、聡明で、数多の勇者を惹きつける徳に満ちた人物に?)  
だが、はっきり分かった。  
アルは、ベルトランドになりたいと思い――いつしかなれると思い込んでいたと。  
とんだ傲慢だ。  
(放浪のうちに、何を学んだと言うんだ。  
ただ五指城では知らなかった現実を突きつけられ、うろたえていただけじゃないか。  
そのくせ……何の責任も果たせないまま、他人をあてにして自分勝手に振舞っていただけじゃないか!)  
不意にニーナに言われたことを思い出す。  
「誓いだの何だのは、明日のパンを稼げるようになってからお言い」という言葉を。  
死にたくない、ただその一心で傭兵になり、それでいてその生き方を拒んだ自分。  
彼女の人生を背負う覚悟もなく、ラコニカを助けた自分。  
そして……ラコニカを愛することもなく、彼女に甘え、モンテヴェルデに帰ろうとした自分。  
いや、今思えば、ヒルダを守れなかった代わりに、ラコニカをヒルダに見立てていただけではないか。  
(ラコニカは僕のために……だというのに、僕はそれを裏切ってしまった……  
彼女は、僕がこんなところで愚痴をこぼすために命をかけたんじゃない!)  
 
目を開けると、木の板に描かれた「聖母子像」が目に入った。  
(神よ……)  
何かを祈りかけて、アルは心に引っかかりを感じる。  
もう、アルフレドに出来ることは何もない。もう誰も助けてはくれず、助けてくれた人たちは全て裏切ってしまった。  
虜囚となった自分は、ただ運命を受け入れることしか出来ない。  
それなのに、「護り給え」などと神に言えようか?  
目の前の神に言うべき<何か>、祈るべき<何か>。それすらアルには無かった。  
(僕には、何もないのです……神よ)  
そう呟くと再び頭を垂れ、アルは運命が降りかかるのを待った。  
 
 
アルがアルフォンソの部屋に召喚されたのは、その日の午後だった。  
「やあ、アルフレド君。今君の話をしていたところだ」  
部屋の一番奥に座ったアルフォンソが、にこやかに彼を迎え入れる。  
それはまるで宮廷での噂話でもしているかのような口調だった。  
だがアルはこれが査問――実際は判決の場であることを理解していた。  
部屋は、明るく、贅の限りが尽くされていた。  
緋色のビロードのカーテン。金で縁取られた窓枠に、大きな明るいガラス窓。  
天井は鮮やかなフレスコ画で飾られ、壁に沿って歴代の大公の肖像画が掛けられていた。  
アルフォンソは部屋の奥に置かれた小さな机に、足を組んで優雅に座っている。  
その背後には見事な彫刻が施された暖炉があり、天井からナポリ王家の旗とカラブリアの旗が下がっていた。  
ぴったりとした絹のズボンに金の刺繍がされた上着を羽織ったアルフォンソも、この部屋の一部のようだ。  
それは、彼自身がカラブリアであり、権力であることを意味していた。  
傍らには、対照的にゆったりとした赤い長衣を羽織ったウルビーノ公フェデリーコがたたずんでいる。  
その顔から何か表情を読み取ることは難しい。微笑みを浮かべるアルフォンソとは、これも対照的だった。  
そして、鎧をつけたコンスタンティノが、二人の背後に控えていた。  
 
「ご苦労。下がってよろしい――ああ、そこの椅子に座りたまえ」  
アルフォンソの言葉に、アルを部屋から引き立てて来た衛兵が退出する。  
指し示された椅子に、アルは素直に腰を下ろした。  
「今コンスタンティノ殿と、今後の君の処遇を話し合っていたのだがね――」  
自分の意見など何も聞かれないのだな、とアルは改めて諦めを抱く。  
モンテヴェルデを追放されたときと同じだ。力なき者には口を開くことすら許されない。  
「残念ながら、これからはこの城で暮らしてもらう……外出も制限するよ、仕事以外はね。  
ただ、もし不便があったら言ってくれたまえ。必要な物とか、足りない物があれば申し出て欲しい」  
自らの寛大さを示すように、アルフォンソはそっと両手を広げる。だが口ぶりはあくまで事務的だった。  
「それから、一連の要塞建設が終わるまで君の身柄は私が預かることにした。  
査察官として城を出るときは監視を付けさせてもらう……といっても何時までのことになるか分からないがね。  
その後の処置については、コンスタンティノ殿に委ねようと思っている」  
アルフォンソの言葉に、コンスタンティノは同意するようにうなづいた。  
それを確かめ、アルフォンソは再びアルに視線を戻す。  
これで、「査問」は終わりだった。  
 
一仕事終えたようにほっと息を吐き、アルフォンソは穏やかに口を開いた。  
「私は今回の逃亡について、君を罰するつもりは無い。もちろん、それを助けたあの女性も。  
だが――君には失望したよ。まさか、契約を安易に破るような人には見えなかったからね」  
口ほど失望した様子はない。だが、口で親愛の情を表していても、目は笑っていなかった。  
アルは何も言わない。そして、非難を甘んじて受けることを態度で示した。  
「……それほど、祖国の危難が心配か」  
その時フェデリーコが初めて口を開いた。  
アルに尋ねながら、机の上にある手紙を取り上げる。  
「これはモンテヴェルデのヒルデガルト姫からの私信だ」  
その言葉に、アルは伏せていた目を上げた。  
ヒルダの書いた手紙。アルは不意にあの従姉が姿を現したような気がした。  
その紙片を通じて、ヒルダと同じ空気を吸っているような錯覚すら覚える。  
 
だが、錯覚は錯覚でしかなく、フェデリーコも手紙をあくまで無造作に扱った。  
「先日届いたばかりだ。アルフォンソ殿下に、トルコ軍の情報提供を請うている。  
言外に融資の斡旋や、援軍の派遣も求めているようだが……彼女自身、半ば諦めているようだ。  
ま、よほど内情は苦しいようだな。たった一国でトルコに戦を挑んだとあれば当然だが」  
困ったものだ、とでも言わんばかりに、フェデリーコはその手紙を机の上に投げ捨てる。  
かさりと音をたてながら、紙片が散らばった。  
「伝書使は返事をもらうまでは帰れない、と頑張っているが……正直、答えに困る。  
我々はモンテヴェルデと運命を共にする気もないし、恩義もない。なぜかは、お前にも分かっているだろう」  
アルはかすかにうなづいた。  
それは、モンテヴェルデに力が無いからだ。ナポリやウルビーノを動かす力が。  
つまり、アルフレドと同じだった。彼と同じく無力な――いや、本当に同じなのだろうか?  
「お前の国は見捨てられた……だからと言って、お前一人帰ったところでどうしようもあるまい。  
いくら国を思おうと、騎士見習い一人帰ったところで何の意味がある?」  
フェデリーコはそう言うと、アルに一歩近づく。  
「たった一人の戦士、いや戦士ですらないお前が。己すら守れぬお前が、どうして国を守れよう?」  
初めて、その隻眼が僅かに伏せられた。  
それは寵愛した少年の裏切りに、純粋に心を痛めているように見えた。  
 
「無謀と勇気は、違う」  
アルフォンソが何気なくそう呟いた。  
「君をこの場で処刑しないのは、君の国を思う心や勇気に感心したから、などと思わないことだ。  
私は君の彼女――ラコニカといったかな? 彼女の献身に心打たれたから、君を寛大に扱うことにしたのだ」  
悔しさに、アルは血が流れそうになるほど唇を噛み締める。  
傷つき眠るラコニカ。今また彼女に助けられた――そう思い知らされるのは、拷問よりも辛いことだった。  
そして、目の前にいる男たち。  
もし、彼らのように力があれば。  
ゆるぎない権威、広大な領地、精強な兵士たち。そして、その武芸、胆力、知識、人徳……。  
二人の大公が持っているもので、僅かでもアルが比肩しうるものがあるか?  
いや、せめてコンスタンティノのように勤勉で、狡猾で、兵の心を掴むことが出来れば。  
身一つで国を救おうなどという愚かな真似はしなかったはずだ。  
だが、現実のアルは、貧しく愚かで、全ての信頼を失った少年だった。  
 
「何か、言いたいことはあるかね」  
アルフォンソは机の上のヒルダの手紙を弄りながら言った。  
もうアルフレド自身にはほとんど関心を持っていないような態度だった。  
(本当に、何も出来ないのか? 僕は?)  
不意にそんな考えがアルの脳裏に浮かんだ。  
(「明日のパン」すら稼げない男なのか?)  
内なる声が、どこかで違うと囁いている。  
違う、お前にはまだ出来ることがある、と。  
(そう囁くお前は、悪魔か? それとも……)  
その考えを追い払おうとしても、「声」はひたすら同じことを囁き続ける。  
万策尽きたのではない。確実ではないが、手はある。そんな声だった。  
(……ずっと否定してきたことじゃないか。そんな手を使うぐらいなら……)  
必死でそれを忘れようとする。その「手」を使うことは、アルの良心と誇りが許さない。  
しかし、ニーナの言葉が現実に繋ぎとめてくれた。  
明日のパンを稼ぐ。  
そのために誰もが必死に生きている。  
家族が飢えているのに「もう畑を耕したくない」「俺は魚を獲りに行きたくない」などという父親がいるだろうか?  
そんな人間はいない。だがアルが言っているのはそういうことだ。  
農民も、漁師も、鍛冶屋も、貴族も、娼婦も、「明日のパン」のため自らを殺すことが出来る。  
ならば、もっと大きなもののためには文字通り命を捨てられるはずだ。  
ラコニカがそうだった。生きるために貞操を捨て、アルのために命を捨てた。  
(失うものは無いんじゃなかったのか? そうだろう、アルフレド!)  
誇りすら、捨てられるに違いない。いや、とっくに失っていたのだ。何をためらうことがあろう。  
その思いは、アルの意思とは関係なく彼の口を動かしていた。  
 
「――僕は、モンテヴェルデに帰らなきゃいけないんだ」  
最初はためらいがちだった。  
意外な言葉に、その場にいた三人とも眉をひそめる。  
だが、冷ややかな五つの目を前にしても、アルの口は閉じられることはなかった。  
「僕は、あの国に裏切られた。でも、あの国で生まれ育ち、守るために生きていると信じた」  
アルの声は、部屋を震わせる。  
ひとたび紡ぎ出した言葉は、糸のように次々と思いを形に変えていった。  
アルは伝説の騎士のようにすっくと立ち、熱意を宿した瞳で高らかに告げる。  
「今も、信じてる。あそこには僕の守るべき土地や、民や、守るべき人がいるところだ……!」  
あの五つの塔を持った城が、町から立ち上るかまどの煙が目に浮かぶ。  
懐かしい図書室や、中庭。領民や名主の顔。何よりヒルダと、父親の姿がはっきりと思い出されていく。  
「――なぜなら」  
この体に流れる血が、帰れと告げている。  
そのためならば、どう思われようと、何をされようと、帰る……!  
「僕は、アルフレド・オプレント――モンテヴェルデ公マッシミリアーノの息子だからだ!」  
 
震えが、収まった。部屋を包むのは、静寂。  
「……それが、真ならば」  
口を開いたのはフェデリーコだった。  
その目には既に悲しみや憐れみはなく、決戦を前にした武将の鋭い眼光が宿っていた。  
いま、目の前の少年がその舌だけで戦おうとしていることを、この老将は感じていた。  
「お前は国に帰らねばなるまいな。神より授かった領主の責任を果たすために……だが」  
「だがもし、命乞いのでまかせならば……私がこの場で首を刎ねてやろう」  
アルフォンソはフェデリーコの言葉を引き継ぐと、立ち上がった。  
アルフレドの前に立ちふさがり、その目を覗き込む。  
 
そんな鬼気迫る様子にも、アルは怯えることはなかった。  
「僕を、モンテヴェルデに帰して欲しい」  
いまや対等の立場として、アルは語っていた。  
ぴんと張った空気に、誰一人動く気配を見せない。しかし、各々が放つ熱気だけで陽炎が立ち昇るようだった。  
「君にそれを口にする権利があるかね? それに君を帰したとしても、償いはしてもらわなければなるまい。  
君は一度私を騙したのだから。あるいは償いの代わりに、何か私のためにできることがあるのかな?」  
その問いにアルは鷹揚にうなづき返す。  
アルフォンソの口が歪み、相手の目の奥に潜むものを探る狡猾な顔を見せた。  
「よろしい。君の提案を聞こう。君は一体、我々に何が出来る? 何をもって償いをする?」  
答えは、簡単だった。  
「我が領土で。僕が帰国し大公となった暁には、ナポリ王国と接する南三分の一を殿下に……  
そして、ウルビーノ公国と接する北三分の一をフェデリーコ陛下に差し上げましょう」  
「ほほう……」  
面白い提案だ、だが「面白すぎる」――アルフォンソの顔にからかいの色が浮かんだ。  
その後ろでフェデリーコは腕組みをし、二人を見守る。  
「だが君にそんな力があるのかね?」  
「今はまだ。でも、もし僕に三百の兵を与えてくだされば、大公の座を奪ってご覧に入れます」  
「ふん、大きく出たな。逃がしてくれというばかりか、兵を貸せと言うのか?」  
それはフェデリーコの声だった。  
アルはまるで金を持たずに掛け金を吊り上げる博徒だ。  
彼が今この賭場に見せているのは「大公の息子」という言葉だけだというのに――  
「僕の望みは国を救うことだけです。それが果たせれば、たとえ領地を失おうと構わない」  
「はっ。でまかせにもほどがある!」  
アルの言うことは、貴族として全く理屈に合わなかった。  
領地と貴族の身分は不可分であり、領地を欠いた貴族など簒奪する意味もない。  
「何の欲もないというのか? そんなことを言う男を信用するほど我々がお人よしとでも?  
いや、そもそも国の三分の二を他国に譲ると聞いたら、家臣が黙ってはいまい。  
第一、マッシミリアーノがそんなお前に位を譲るとは思えんな。そうなったら、どうする?」  
 
「殺します」  
アルの答えは素早く、簡潔だった。  
「――それが、父であってもか?」  
アルは黙ってうなづく。  
いつしか、少年の顔からあの不安に満ちた、幼い風貌が消えていることにウルビーノ公は気づいていた。  
今、アルフレドは死んだのだ。ここにいるのは一人の簒奪者だ。  
「では……それがヒルデガルト姫であったら? 姫が大公即位を妨げたら、お前はどうする?」  
フェデリーコは、問うた。  
アルの守るべき人がヒルダであることを、彼は知らない。  
だが、若き騎士が命をかけて守る相手などこの世に一つしかない。それは美しい姫と相場が決まっているものだ。  
ましてやこの少年がここまで帰国に執着するのは貴婦人への忠誠からに違いない、彼の直感がそう告げていた。  
それが叶わなくなったときアルはどうするのか? これは純粋な疑問だった。  
 
「――ならば、殺します」  
ためらった時間はあったが、それはフェデリーコの想像より遥かに短く、言葉は淀みなかった。  
「姫の魂が天国に昇るよう祈り、殺しましょう。そして血塗られた玉座につき――僕は自害し、地獄に行きます。  
その後、モンテヴェルデはお二人で好きに分ければいい。主を失った国を切り分けるなど容易なことでしょう」  
アルは何のおびえも見せなかった。  
「ヒルデガルトを殺し、自らも殺す、か」  
「はい」  
自殺は、キリスト教徒にとって大罪だ。魂は救済されず、神の恩寵の及ばぬところで永遠に苦しむ。  
だが、アルがもはやそれを恐れていないことは明らかだった。  
地獄で永遠の責め苦を受けようという男は、畏れを持たない――それゆえ何も失うものがない。  
国も、財産も、魂すら。  
いや、何も持たないが故に畏れがないのだ。  
「よろしい……わしは腹を決めたぞ。アルフォンソ殿下は、如何?」  
はっきりとしたアルの肯定を聞き、フェデリーコは満足げに笑った。  
「ふむん……結構、彼の覚悟は私も買いましょう。しかし最も大事なことが……  
つまり、彼が本当に大公の息子である、という証はない」  
彼は同意を求めるように首を傾げたが、フェデリーコは何も言わなかった。  
その代わりに肩をすくめ、アルに問いを含んだ視線を向ける。  
「……だそうだが?」  
アルは初めて口ごもった。  
もちろん、証など持ち合わせているわけがない。  
ただ熱に浮かされるように自分の思いを口にしただけだった。  
この二人が本当に自分を信じて、モンテヴェルデに帰してくれる確信があったわけではない。  
大公の椅子がどうでもいいことは本心だったが、それを簒奪するなど、今まで考えたこともなかった。  
それ以上に、自分が「ヒルダを殺す」と平然と口にしたことが信じられなかった。  
今、アルフレドは血族を殺し、国を奪おうとする、呪われた私生児になろうとしている。  
その振る舞いは売国の徒であり、一つ道を過てば祖国に混乱と内戦をもたらしかねない。  
だが自分は間違いなくそれを「望んでいる」。これが……悪魔にとり憑かれるということなのか?  
初めて恐怖に背筋が震えた。  
 
 
「では、証は俺が立てよう」  
思いがけない声に、皆が一斉に振り返った。  
今まで黙っていたコンスタンティノが、不意に口を開いたのだ。  
「お前が?」  
フェデリーコの不審げな声に、彼はうなづく。  
「彼の剣の鞘を見るがいい。この男が国を追い出されて放浪していたときから、ずっと持っていたものだ。  
そこには大公マッシミリアーノと、オプレントの紋章が入っている。お二人もその図案はご存知だろう?」  
アルにいたずらっぽく笑いかけ、その肩を一つ強く叩く。  
あっけにとられていたアルは、そこで初めて我に返ったように身震いした。  
「どうして…………い、いや、いつから?」  
「行き倒れのお前を拾ったときから。お前の剣を見たときからだ」  
アルの脳裏に、病床で請われるまま剣を振って見せたあの日の光景が蘇る。  
確かに、コンスタンティノは自分の名を言い当てた。ただ剣とアルの太刀筋を見ただけで。  
その意味に気づいたアルに、コンスタンティノは畳みかけるように言った。  
「それに、昔の面影が残っているな。  
お前は覚えていないだろうが、もう十年以上前、俺はお前に会っている。あの五指城の中庭で」  
「まさか、あなたも……モンテヴェルデの?」  
「この前剣を交えたとき、確信したよ。剣の癖はあの小娘と同じだったからな。  
お姫さまに苛められてた泣き虫坊主が、強くなったもんだ」  
そう言ってから、コンスタンティノは残る二人に向き直った。  
「確かに彼はモンテヴェルデ大公のただ一人の息子だ。  
モンテヴェルデの騎士コンスタンティノ・デ・ウルニ――この剣にかけて誓う」  
 
「お、俺も証人になります!」  
その時、突然扉が開き、若々しい声が飛び込んできた。  
突然の闖入者に、誰もが振り返る。しかし、アルはその声に聞き覚えがあった。  
旅立ちの日に自分の幸運を祈ってくれた、あの少年の声だ。  
「どうして、ここに……!?」  
驚くアルにさっと片目をつぶって見せると、その少年――ルカは二人の大公の前で膝をついた。  
「で、伝書使? 貴様、一体……」  
だがルカは改まって頭を下げるだけで、アルフォンソの口を封じることができた。  
「突然の無礼をお許しください。しかし、ヒルデガルトさまの密使として申し上げます。  
彼は確かに、我がモンテヴェルデの大公マッシミリアーノの血を引く者である、と」  
それから、ルカはもう一度深々と頭を下げた。  
叱責を口に仕掛けたアルフォンソだったが、その勢いに言葉を失う。  
尻餅をつくようにして、彼は再び椅子に腰を下ろした。  
「さてさて殿下。これはどうしたものだろうね」  
困惑した顔のアルフォンソに向かって、フェデリーコはくすくすと忍び笑いを漏らす。  
問われた皇太子は、軽く頭をかき、一同の顔を見回した。  
フェデリーコ、不敵な笑みを浮かべる傭兵隊長、神妙に頭を下げる密使。  
敗北を確信したように、アルフォンソは肩を落とした。  
その表情は何かを吹っ切ったようでもあったし、あるいはほくそ笑んでいるようでもあった。  
「……よろしい、アルフレド・オプレント」  
最後に、頬を紅潮させる騎士見習いを見て、アルフォンソは言った。  
「貴殿を信用しよう」  
 
(続く)  
 

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