1.  
「やァッ!」  
「違う! 馬鹿者が!」  
少年が思い切り振りかぶって繰り出した斬撃が、老騎士の剣でがちりと受け止められる。  
「ふっ!」  
老騎士は相手の剣を弾くと、素早く上段に構え直し、踏み込み、打ち下ろす。  
「おおっと……!」  
刃同士が再び鋭い音をたてて噛み合う。  
跳びずさる少年の間合いに、老騎士はさらに踏み込み、両腕の力で相手を剣ごと吹き飛ばす。  
少年はそのまま木の床に叩きつけられ、仰向けに転がった。  
「かはぁっ」  
息絶える間際の声に似た、乾いた声がした。  
それを見下ろすようにして立ち、老騎士は剣を鞘に収めた。  
 
「何度言ったら分かる。跳んでかわそうなどと思うな。  
実戦では甲冑の重みが圧し掛かるのだぞ。もっと相手の切っ先を見ろ。見て、防げ!  
良い目は良い戦士に欠かせぬ。切っ先の向き、肘の曲がり、肩の動き……  
よく見れば相手の太刀筋は予測できる。それに先んじて、剣を振るうのだ。  
いいか、最後の瞬間アルフレド殿の命を守るのはお前なのだ、ルカ。忘れるな!」  
老騎士の声は老いを含んでいたが、まだまだ力強く、自信に溢れていた。  
「ちぇっ。俺はアルの従士になったわけじゃないんだぜ」  
悪態をつきながら、反動をつけてルカは立ち上がった。  
軽業師のようなそのふるまいに、老騎士は苦い顔を見せる。  
「アルの方が場慣れしてるんだ。俺の腕なんか当てにすんなよ、ディオメデウス」  
「勇将の下に弱卒なし、だ。口を動かす前に腕を上げろ、愚か者」  
ぶすっと顔を膨らますルカを見て、あっけらかんとした笑いが二つ聞こえた。  
アルフレドと、コンスタンティノだった。  
全員が軽い服を身につけていたが、手には各々の愛用の剣が握られている。  
 
ナポリ王国艦隊、「パラッツォ・デル・レ(王の館)」号の甲板上。  
彼ら四人は日課である剣の稽古に励んでいた。  
教師は、ナポリ皇太子アルフォンソの側近ディオメデウス・カラファ。ギリシャ人の血を引く老兵だった。  
ディオメデウスの他にナポリ王国騎士が三十人、この船には乗り込んでいる。  
彼らは「モンテヴェルデ公子アルフレド」の近衛兵である。  
「では……アルフレド殿、もう一度お手合わせ致しましょうか?」  
笑っていたアルに向かって、ディオメデウスは鋭い眼光を投げる。  
とはいえ、その言葉は丁寧で、アルの意思を確かめるようだった。  
「いや、もう勘弁してくれ。さすがに疲れたし、汗だくだ。今すぐ海に飛び込みたいぐらいだよ」  
アルなど比較にならないほどの実戦を潜り抜けてきた老騎士は、その言葉に黙って従った。  
一礼すると、黙って船倉に下りていく。剣の手入れでもするのだろう。  
残された三人は船縁に体をあずけて座った。  
 
「ルカは、踏んだり蹴ったりだな」  
「あんたと違って、商売にはならないしね。こりゃ帰ってたんまりご褒美をもらわなきゃ、割に合わねえや」  
苦笑するコンスタンティノに、ルカは大げさに嘆いて見せた。  
ルカの立場は、今でもヒルダの私的な伝書使に過ぎない。  
周囲からはアルの家臣とみなされ、そう振舞うよう求められているが、その見返りはない。  
「今からでも遅くないぞ、俺の隊に来ないか? 給料は月に……」  
「いい、止めとく。武器と馬を買わされて、とんでもない借金作るなんてごめんだ」  
そう言ってそっぽを向くルカを、コンスタンティノはそれ以上口説こうとはしなかった。  
今、彼の『狂暴騎士団』はナポリ王国からの義勇兵として、アルの指揮下に入っていた。  
金さえ支払ってもらえれば、コンスタンティノは昨日までの部下を大将と仰ぐことなど気にもしなかった。  
「それじゃ、僕が大公になったらルカにも城を一つあげよう。それまでは、僕の護衛を務めてくれよ」  
「そうやって、俺もくそったれの貴族の仲間入りか、こりゃ楽しみだ」  
不躾なルカの言葉にも、アルは笑顔を崩さなかった。  
もちろんアルにはルカの気持ちが分かっているし、ルカも同じだった。  
「でも、俺が今欲しいのは一杯の冷たい白ワインだ。それで茹で蛸がつまみなら最高なんだが!」  
もちろん、船の上でそんなものが手に入るわけがない。  
それを知っていて、アルはルカの肩をちょっと叩いた。  
「分かった。今は無理だから、モンテヴェルデについたら、いの一番に僕がおごろう」  
「よし、約束だぞ」  
軽く念押ししてから、ルカもまた船倉へと降りる階段に足を向けた。  
 
南イタリアの荒涼とした大地を背景に、海原を行くのは、ナポリ・ウルビーノの混成艦隊だった。  
護衛のガレー船にはウルビーノ公フェデリーコの座乗を示す、黒鷲の大公旗が翻っている。  
しかし、この艦隊を率いるのは誰あろう、アルフレドその人なのだ。  
一介の流刑者から、一軍の大将へ。  
アルは運命の不思議さを思わざるを得ない。  
彼の配下には、モンテヴェルデ全軍に匹敵する兵士が集められていた。  
アルフォンソが提供した、ディオメデウス率いる騎兵一個コンパニア。  
フェデリーコの護衛隊から派遣された五十名の火縄銃隊。  
コンスタンティノの『狂暴騎士団』<フルミーネ(雷)>と<テンペスタ(嵐)>の二個コンパニア。  
その兵士たちと軍馬、武器を腹に収め、艦隊は一路モンテヴェルデを目指す。  
さらにフェデリーコの命で、ウルビーノ本国からは新型の火砲が送られてくる予定だった。  
 
「……半年、か」  
半年前。アルはただの騎士見習い、盾持ちだった。  
それからたった六ヶ月の間に、罠にかけられ、国を追われ、生死の狭間を彷徨った。  
傭兵となり、人を殺め――なぜか、外国の軍隊とともに帰国しようとしている。  
「たった、半年。それだけなのに……」  
誰にも聞こえないよう、そう呟いてみる。  
おそらく、追放刑を無視して帰国したとしても、アルは処罰されないだろう。  
ナポリ、ウルビーノという後ろ盾。四百を超える軍勢という脅威。  
たとえジャンカルロや他の領主たちが反対しても、アルはモンテヴェルデに居座ることが出来る。  
やがてアルは軍を背景に国家の実権を奪い、大公の位に就く。  
その途中、ジャンカルロや諸侯軍、あるいは実の父と刃を交えることになるかもしれない。  
だが、たとえそうであっても構わなかった。  
今やモンテヴェルデをトルコの脅威から生き残らせる道は、これしかないとアルは信じていた。  
いや、実際は信じようと努力しているだけだったかもしれない。  
個人の思惑はどうであれ、動き出した歯車は、すでにアルに止められるようなものではなかった。  
 
アルの領土割譲の約束を守らせるべく、アルフォンソもフェデリーコも幾つかの「保険」をかけていた。  
例えば、フェデリーコ自身が艦隊に乗り込んでいるのは、帰国のついでにモンテヴェルデに立ち寄るためだ。  
そして、彼自身の言葉でマッシミリアーノや貴族たちを説得することになっていた。  
ウルビーノはモンテヴェルデと北で国境を接する強国であり、友邦でもある。政治的圧力は小さくない。  
また、アルが帰国する頃には、教皇シクストゥス四世からの書簡が届いているはずだ。  
そこには「公子」アルフレドの帰国を支持すること。  
アルの軍団がモンテヴェルデに駐留することを「対トルコ聖戦」の大きな助けとして歓迎すること。  
モンテヴェルデはナポリやウルビーノの「友情と助言」を拒むべきではないこと。  
そういった内容が書かれている。  
これはフェデリーコの娘婿ジョヴァンニが教皇の甥であることを活かした工作だった。  
 
もう一つの保険は、ある「契約」だった。  
それはアルフレドが率いる軍勢にかかる経費をナポリとウルビーノが肩代わりする、という内容である。  
だが最終的な弁済義務はモンテヴェルデにあり、担保はその「領土」である。  
当然、アルも含めて誰一人モンテヴェルデがそれを返済できるとは思っていない。  
それは法の則って領土を割譲させる詐術に過ぎなかった。  
だが最終的にこの契約が締結され履行されるかどうかは、マッシミリアーノやヒルダの同意が必要だ。  
そしてアルフレドの大公即位も欠かせない。  
 
最後の保険は、アルフレドの軍勢そのものである。  
もしアルがマッシミリアーノやヒルダの説得に失敗したら。もしくは彼の大公即位が不可能になったら。  
そして万が一にもアル自身が再びアルフォンソたちを裏切ったなら。  
ディオメデウスは間違いなくアルやヒルダ、大公を拘束し、あるいは殺害するだろう。  
「近衛兵」と言えば聞こえがいいが、実のところ常に刺客に取り囲まれているのと変わりはない。  
――この人も、そうなんだろう。  
アルは傍らで気持ちよさそうに海風を受けているコンスタンティノを見る。  
『狂暴騎士団』を雇っているのはナポリ皇太子であり、ウルビーノ公だ。アルフレドではない。  
おそらく、「万が一」の場合には彼もアルの敵になるに違いない。  
他国人に祖国を蹂躙されるか、否か。  
それは一重に、アルが大公の地位を簒奪できるかどうかにかかっていた。  
 
「どうした、変な顔して」  
コンスタンティノに声をかけられ、アルは我に帰った。  
その目は親しげな色をたたえていたが、アルにはどこか邪悪なものに見えた。  
猜疑の心を気取られぬよう、アルは何気ない風を装いながら尋ねた。  
「――どうして、僕を助けてくれたんですか」  
コンスタンティノがアルを助ける理由は何一つないはずだった。  
アルがあのままカラブリアに幽閉されたとしても、彼の仕事に何の差し支えもない。  
それどころか、一度は剣でもってアルの前に立ちはだかったのだ。  
「さて、何故かな」  
わざと眉を大げさに動かし、コンスタンティノは笑った。  
だが、それはアルの警戒心をさらに強めただけだった。  
「こうなることを、望んでいたんですか……兵を率いて、モンテヴェルデに帰ることを?」  
言ってから、アルはしまったと思った。  
これでは、コンスタンティノに疑いを抱いていることを悟られるかもしれない。  
しかし、あくまで彼は平静だった。  
「ふん。それはお前の望みだろう。俺にとっては仕事は仕事。  
カラブリアであれ、モンテヴェルデであれ、命じられたところに行くだけさ」  
では、「誰に」そう命じられたのか。  
最も重要な点をはぐらかされたことにアルは気づいたが、あえて黙っておいた。  
 
「まあ、一つの国取り物語を見物すると思えば、面白い仕事ではある」  
ぽつりと漏らした言葉に、アルは意外な表情を見せた。  
コンスタンティノが、面白いなどと言うとは思ってもいなかったのだ。  
「……今のところ、お前の手はまわりくどいとしか思えんがな」  
「そうですか?」  
続けざまに意外な言葉を聞かされ、アルは問い詰めるのも忘れていた。  
「皆、契約だ教皇の書簡だと面倒な手を打っているが、もっと簡単なやり方がある。  
お前にとってもいい話だ。何しろ血が流されることはない……いや、ほんのちょっぴり血が流れるが……  
俺のやり方なら、誰一人殺さず大公になれるぞ」  
「……どんな手です?」  
コンスタンティノは、さっと顔を近づける。  
そして、誰にも聞かれていないかと目配せしてから囁いた。  
「簡単さ。船がモンテヴェルデに着く。夜になったら、お前はヒルダに会いにいけ。そして――」  
一拍おいて、コンスタンティノは口を歪めて笑った。  
「――彼女を口説け。それから一発やっちまえ。そのまま結婚しちまえば、お前は晴れて大公だ。  
ついでにお世継ぎも出来て万々歳。どうだ?」  
「ば、バカっ! そんなこと、出来るわけ……!」  
からかわれたと気づいて、アルは思わず叫ぶ。  
それでも、コンスタンティノは平然とした顔だった。  
悪びれもしない無感情な目が、アルには虚ろな洞窟を思わせる。  
 
「駄目か」  
「駄目に決まってるでしょう!」  
あご髭をさすりながら言うコンスタンティノに向かって、アルは噛み付くように言った。  
その様子は、全てが冗談というわけでもなさそうだった。  
「あの女に、引け目があるのか?」  
冷たい指摘がアルの胸に刺さる。その意味するところは明白だった。  
弁解しようとして振り向きかけたところに、さらに声がかかった。  
「――おいてきた娘が恋しいか。あんな薄汚い女が」  
その言葉に、アルは押し黙る。  
何も告げず、捨てるようにカラブリアに残してきた、ラコニカ。  
アルの行く先は死地だ。そんなところに彼女を連れて行けない。行きたくない。  
そう思ったからこその決断だった……はずだった。  
「怖いんだな。女が」  
はき捨てるように言うと、コンスタンティノは音もなく立ち上がった。  
 
「……強いて言えば、復讐だ」  
「え?」  
肩越しに振り返りながら、コンスタンティノが呟く。  
聞き返すアルに、彼はやはり無表情に応じた。  
「お前を助けた理由だよ」  
それだけ言って、コンスタンティノは歩き出した。  
追おうとして立ち上がりかけ――アルは再び船縁に腰を下ろす。  
海風が、いつの間にか汗を乾かしてくれていた。  
汗のせいか、それとも波しぶきのせいか、白く塩を吹いた手をじっと見つめる。  
ヒルダ、コンスタンティノ、ラコニカ。「誓い」、「復讐」、「引け目」。  
無数の人の顔が、その言葉と一緒になってアルの脳裏に湧き上がる。  
押し黙ったまま、しばらくアルは物思いに耽っていた。  
 
 
2.  
男はひどく緊張していた。  
自分の主人が基本的には公平で、寛大な人物ということは理解していた。  
だが、相手がどんな性格であれ、その人物に不愉快な話を伝えるのは嫌なものだ。  
ましてや、とばっちりを食ってはたまらない。  
細かな彫刻が施された、背丈の二倍もある扉の前で、男は一つ息をした。  
そうやって気持ちを落ち着ける。それからおずおずと戸を二、三度叩いた。  
「入りなさい」  
奥から帰ってきた言葉の優しさに、少し気持ちがほぐれるのを感じる。  
だが部屋に足を踏み入れる瞬間、やはり体が強張っていくのが分かった。  
 
「アリか。何かあったのかね?」  
トルコ海軍総大将、アクメト・ジェイディクは執務室の窓際にたたずんでいた。  
ガラス窓のすぐ外にはヴァローナの港が見える。  
そこには十数隻の軍船と、ほぼ同数の帆船が停泊していた。  
アリは、主人がすでに何か察していることに驚いた。そして、改めて尊敬の念を憶えるのだった。  
だが、種を明かせばアクメトは既に小一時間前、港に快速ガレー船が入ってくるのを見ていたのだ。  
そして、自分が本営を構える旧ヴァローナ市庁舎に、騎手が馬を飛ばして駆け込んでくるのも。  
 
アクメトはゆったりとした歩調で机に足を運ぶと、優雅に腰を下ろす。  
先ほどまで仕事をしていた机の上には、配下の戦隊司令官からの報告書が散らばっていた。  
ヴァローナがいかに大きな港とは言っても、百五十隻もの艦隊を収めておくことは出来ない。  
何より町にはそれだけの宿舎と食糧がない。そこで、数十隻の戦隊ごと近くの港に分散させていた。  
近頃は少数の偵察艦隊以外出撃させる予定もないので、それで何の不便もない。  
スルタン・メフメト二世からは新しい命令はこない。  
とりあえずヴェネツィアと停戦に至ったことで、アドリア海の地歩は固めた。  
だがスルタンの性格からして、おとなしく矛を収めるとは思えない。  
北のヴェネツィアを攻めないとすれば、向かう先は西。  
今、アクメトはいつイタリア半島への上陸命令が出てもいいよう、出撃の準備に追われていた。  
 
「トレミティ諸島に向かった、分遣隊からの連絡で……」  
そう言いかけたアリは、とっさに言葉を濁した。  
急に、アクメトの表情が曇ったからだ。  
「……イタリア人に島を奪回され、将軍は戦死。ほとんどの兵が命を落としたようです」  
そう言うと、アリはとっさに頭を下げた。  
自分に向かったものではないとしても、アクメトの怒りを目にするのは苦手だった。  
だが、アクメトはあくまで落ち着いてた。  
「そうか……分かった」  
そう呟くと、アクメトは手でアリに退出するよう伝えた。  
 
召使いが出て行ったのを確かめてから、椅子の背に体を預ける。  
「モンテヴェルデ公国、か。小国とはいえ侮れんようだな……いい勉強だった」  
失った兵は惜しくなかった。  
どうせ将軍の子飼いが半分。残りも自分の領地から率いた兵士ではない。  
それに、千人に満たない損害など、補充に何の苦労もない数だった。  
「しかし、やはりアドリア海は深く広いイタリアの堀だな」  
そう呟きながら立ち上がり、アクメトは壁一面にかかった巨大な海図に近づく。  
それは、イタリア半島の全体とアドリア海、バルカン半島の西岸全部を収めたものだった。  
ヴァローナから視線を左へと移していく。  
すると、イタリアの「かかと」サレンティーナ半島にたどり着く。その距離は僅かに三十海里。  
半島にはいくつかの港町が並んでおり、全てナポリ王国の支配下にある。  
「攻める、か……?」  
そう言ってから、すぐに自分の言葉を打ち消す。  
「しかし、ただ攻めても、トレミティの二の舞になるかもしれないな」  
攻めるなら、全軍を一度に投入すべきだろう。だが、まだ物資の準備が不十分だ。船も補修中のものが多い。  
「まだだ、まだ早い」  
 
次の瞬間、アクメトは何か閃いたように、小さく頷いた。  
再び机に戻ると、命令書を書くために白紙を一枚取り出す。  
だが、もう何時間も机に座って書類と向かい合ってたので、目が少し痛んだ。  
「カフヴェが欲しいな」  
かつてスルタンの命でアラビア半島を訪れたときに知った、あの漆黒の飲み物。  
眠気を拭い去り、頭脳を明晰にしてくれるそれを、アクメトはひそかに愛好していた。  
この前エジプトから買い付けた分は、まだあっただろうか? 確かあったはずだ。  
「アリ!」  
仕事の前に、彼は召使いを呼ぶことにした。  
命令書には一服してからとりかかろう。  
やがて姿を現した召使いに、カフヴェを淹れるよう命じると、再び机に戻る。  
座り心地のよい執務用の椅子は、わざわざイスタンブルの職人に作らせた逸品だ。  
そのほどよい反発を体に感じながら、アクメトはふと思い出に浸る誘惑に駆られた。  
まだ二十歳を超えたばかりの若者だったころのことを。  
 
――アクメトの目の前で、白亜の城壁が轟音とともに崩れ落ちるのが見えた。  
崩れる城壁が砂煙を巻き上げるさまは、まるで子供が砂の城をたわむれに足で崩したようだった。  
だが、銀色の甲冑を見につけたキリスト教徒たちが瓦礫の中に消える光景。  
そして、白い装束のイスラム兵士たちも巻き添えになる光景。  
それが、アクメトを現実に繋ぎとめた。  
確かに今、<カプト・ムンディ(世界の都)>が自分たちの前に膝を屈しようとしている。  
それは、神話の巨人が打ち倒される瞬間にも似て、圧倒的な感動とある種の畏敬を感じさせた。  
 
1453年・コンスタンティノープル。  
アクメトは震える体をなんとか押さえつけながら、傍らの青年に目を移した。  
陣中にありながら、白い簡素な衣装にターバン、腰に短剣を吊るしただけの姿で、青年はわずかに手を振る。  
その姿は、彼が召使いに何か言いつけるときの仕草にそっくりだ、とアクメトは思った。  
だが、その仕草は侍従長から伝令、伝令から各軍団長を通じて、数万の兵の奔流へと変わるのだ。  
「イェニチェリ軍団を押し出せ。だが略奪は許可あるまで禁じる――あれは、すでに『私の町』だ」  
スルタン・メフメト二世。  
若き帝国の支配者は、淡々と呟くように命じ、背後の巨大な天幕へと引き返す。  
アクメトは他の戦士たちと一緒に主君につき従う。  
彼は地方領主である父親とその軍団に従ってこの戦に参陣していた。  
だが若すぎることを理由に部隊は与えられず、護衛兵としてメフメト二世の側に仕えていた。  
自分と三つしか違わない、若きスルタン。  
即位わずか二年目にして古代ローマ以来の帝国を滅ぼし、歴史に名を刻んだ男。  
「私が欲しいのはたった一つ……コンスタンティノープルを下さい」  
かつて、彼は家庭教師に笑顔でそう告げたという。  
細く引き締まった、頼りなさすら感じさせるあの肉体のどこに、それほどの野心が詰まっているのか――  
玉座にゆったりと腰掛ける彼を見ながら、アクメトは先ほどとはまた違う震えを感じていた。  
 
「アクメト、君は西へ行け。進めるだけ進めばいい。欲しければローマ教皇の首を取ったって構わない」  
イスタンブルのトプカプ宮殿でそう言われたとき、アクメトはそれが戯れ言でないことに直感的に気づいていた。  
すでに二人とも老いた。  
スルタンはその年齢にふさわしい割腹を身につけ、かつての柔らかく白い手はくすみ、皮は薄くなっている。  
だが、あの目だけは違う。  
それは、コンスタンティノープルを滅ぼした、あの瞬間に見た目のままだ。  
自分の声一つで数千の命を奪うことに、何の疑問も持っていない目。  
その指先が指したものは、必ず自分のものに出来るという、確信に満ちた目。  
アクメトの体に、三十年前の震えが蘇ったのも、当然のことだった。  
 
「――西、か」  
コンスタンティノープル戦以来、アクメトは有能な海軍提督として、スルタンの期待を裏切らずにきた。  
戦功を上げるたびに領地は増え、今では帝国でも十本の指に入る大領主だ。  
今の彼には、これ以上の欲望はない。だが、彼の主君はまだ「飢えている」。  
軍内部の噂では、聖ヨハネ騎士団の本拠地ロードス島侵攻も予定されているらしい。  
もちろん、あの島は帝国領内にただ一つ残った「キリスト教徒のとげ」だ。  
制圧できれば、トルコ船の往来はこれまで以上に安全になる。  
だが正直、理解できないことだった――まるで偏執狂のように、領土を求めることが。  
アクメトがため息をついたとき、アリがカフヴェの入ったポットと茶碗を持って入ってきた。  
彼は黙って黒い飲み物を華麗な磁器の茶碗に注ぐ。  
下がる直前、アリは懐に収めていた書類を机に残していくのを忘れなかった。  
部屋の扉を閉まるのを確かめてから、アクメトはカフヴェをそっとすする。  
カフヴェがクルアーンに照らして合法かどうか、ウラマー(イスラム法学者)の間でも意見は一致していない。  
だからアクメトはあくまでこれを独りのときだけ嗜むことにしていた。  
何より過酷な軍隊生活において、頭脳を明晰にしてくれるこの飲み物は欠かせない。  
神の敵と戦う助けとなるのだから、アラーも見逃してくれるだろう、とアクメトは考えていた。  
 
粛々とカフヴェを口に運びながら、今アリが持ってきた報告書を開く。  
そこには、トレミティ諸島に送った船のほとんどが無傷でトルコ側の港に到着したことが記されていた。  
島が奪回される直前、食糧輸送のため島を発っていたので、巻き添えにならずに済んだのだ。  
アクメトの顔が緩む。  
オスマン・トルコ帝国は確かにキリスト教国を圧倒する量の海軍を所有している。  
だが、その質は未だ低い。  
そもそもトルコは海になじみのない小アジアの部族から発した国家だ。  
トルコの船は、キリスト教徒の船……とりわけヴェネツィアのそれに比べ居住性が悪く、すぐに廃船になる。  
彼の艦隊が出撃出来ないのも、多くの船が修理のため船渠に入っているせいだ。  
水夫の質も劣り、その供給は常に海軍の要求を大幅に下回っていた。  
それにしても、近頃の人手と物の不足は酷すぎた。おそらくロードス島攻略が優先されているせいだろう。  
「まあ……仕方あるまい。手元にあるもので出来ることをするだけ、だ」  
ともあれ、十隻のガレー船とその船員は、それに乗った千人の兵より価値がある。  
「とりあえず、彼らの次の仕事は決まったな」  
アクメトは残りのカフヴェを飲み干すと、さっそく自分の計画にかなった艦隊の編成案を作り始めた。  
 
 
3.  
穏やかな春の日差しに包まれながら、ヒルデガルトは「領主館」と呼ばれる建物の前階段を上る。  
海を思わせる群青のビロード服に白いヴェールを纏い、一見何事にも動じないかの如く。  
そのすぐ後にはステラと、執務を補佐する家令、さらに二列に並んだ十人ほどの護衛が続く。  
しかしそれは、どこかヒルダという少女には不釣り合いな、一種こっけいなほど武威ばった光景であった。  
 
扉をくぐる寸前、ヒルダはふと頭上を見た。  
領主館は頑丈な石造りの四階建ての建物で、教会などを除けば、これほど立派な建物は市内には他にない。  
外壁こそ味気ないものの、その四隅を飾る怪獣像や三位一体を表現した窓枠が落ち着いた美しさを感じさせる。  
さらに頂上は城や城壁のようにノコギリ壁で縁取られ、ひときわ高い塔には大きな時計がはめ込まれていた。  
見上げるヒルダの目には、殺人口が自分の方に口を開けているのが見えた。  
正面の大扉に取り付いた人間目がけ、石や油などを投下するよう設計されたものだ。  
これがただの装飾でないことは一目で分かる。優美な外見に反して、領主館はちょっとした砦と言えた。  
それも当然だった。  
なぜならこれはモンテヴェルデ大公のもう一つの肩書き、すなわちモンテヴェルデ「領主」の居館だからだ。  
 
モンテヴェルデ大公位は、はるか昔ノルマン人がこの地に住み着いたとき、教皇から与えられたものだ。  
伝説では、諸部族を束ねる王がキリスト教の洗礼を受け、教皇に臣従するようになったという。  
各部族の長はそのまま大公の臣下となった。ジャンカルロたち七大伯や、他の貴族の起源である。  
しかし部族長は大公に臣従した後も、各々の領地について特権を保持し続けた。  
すなわち租税徴収権、兵の招集権、そして裁判権である。  
大公は彼らの代表者として外交や貿易を独占し、さらに諸侯の調停者として振舞う。  
伯や有力貴族はそれらについては「大評議会」で助言を許されているに過ぎない。  
その一方で大公自身も広大な直轄地を持つ領主である。  
つまりモンテヴェルデ大公は、二つの顔を持つ。  
Duca di Monteverde(モンテヴェルデ大公)と、Signore di Monteverde(モンテヴェルデ領主)だ。  
今日、ヒルダが「領主館」に足を運んだのは、一人の領主として配下の代官と会議を開くためだ。  
 
モンテヴェルデ領主は八つの都市(その一つは他でもない、モンテヴェルデの城下町だ)を治める。  
さらに五指城を含む十三の城砦、二十四の荘園と十二の村、さらに無数の水車や醸造所を所有している。  
もちろんそれを全て一人で管理することは出来ない。代官や執政官が統治を代行している。  
代理である以上、彼らはモンテヴェルデ領主に完全に従属するはずである。  
だが、事態はそう簡単ではなかった。  
それぞれの代官職は、もう何代も前から子々孫々引き継がれる一種の世襲職になっていた。  
さらに、歴史的経緯から七大伯や他の領主にその職責が与えられている所もあった。  
たとえば今をさかのぼること六代前の大公ジスモンド(ジギスムント)二世の治世。  
いくつかの都市が同盟を組み、大公に反逆したことがあった。  
反乱が鎮圧されたとき、ジスモンド二世はその都市の代官職を軍功を上げた貴族に与えたのだった。  
 
こうして、公国内の封建関係はひたすら錯綜していった。  
「大公と伯」という互いに不可侵な権利を持つ二人が、一方で「領主と代官」という上下関係であったり。  
またある場面では対等な「領主」同士といったように。  
それは、摂政ヒルダにとっては煩わしい歴史的なしがらみだった。  
これまでの大公たちは権威と実力で伯を黙らせ、代官たちを臣従させてきたと言える。  
だがマッシミリアーノが倒れ、若いヒルダが摂政となった途端、彼らは己の権利を声高に――  
それまで以上に声高に主張するようになったのだ。  
ヒルダがわざわざ会議に自分から赴いたのも、代官たちに配慮した結果だった。  
 
「Monsignora(わが主よ)」  
大会議室に足を踏み入れた途端、低いざわめきのような声がヒルダを迎えた。  
部屋の形に合わせたような、長いテーブルの両側に、五十人以上の男たちが並んでいる。  
壁の一方には窓があり、室内を明るく照らしている。  
もう一方の壁には、モンテヴェルデの歴史に残る戦いの場面を描いたフレスコ画が描かれていた。  
ヒルダは軽く片手を上げて返礼すると、部屋の一段高いところに設えられた玉座に腰掛けた。  
小さくうなづくと、一斉に代官や騎士たちも着席する。  
「このたびは、ヒルデガルト・モンテヴェルデ殿下にわざわざ御足労いただき、恐縮に存じます」  
一番手前にいた男が再び立ち上がり、全員を代表してそう告げた。  
彼は代官職でも最も格式が高い、モンテヴェルデの城下町の執政官である。  
「――会議を開催する前に、新たに代官に就任した者を紹介させて頂きたいのですが、よろしいでしょうか」  
意外な言葉に、ヒルダは執政官に向き直る。  
すんでのところで、ヒルダはそれまでの落ち着き払った振る舞いをかなぐり捨てずに済んだ。  
ぱっと見開きかけた目がすっと細まり、鷹揚に頷く。  
その仕草を見て、執政官はテーブルの一番奥に腰掛けた男に、手で立つように促した。  
 
「先々月亡くなった、ドメニコ会士マルケリーニ師の後任が決まりましたので、紹介いたします」  
ヒルダの隣に控えていた家令は、彼女が眉間にかすかに皺を寄せるのを見逃さなかった。  
「……エルメリーノ修道院の院長だった人物です」  
教会や修道院の役職は、世俗領主ではなくその地域の司教、さらには教皇が任命する。  
しかしモンテヴェルデに限らず、聖職者は世俗領主を兼ねていることが多い。  
マルケリーニは修道院長のほか、マッシミリアーノの騎士と荘園代官も兼ねていた男だった。  
(確か彼には後継者がいなかったはず……)  
空位の代官職を巡って、水面下の抗争があったことをヒルダは思い出した。  
マッシミリアーノはこの機会に子飼いの男を代官に就けようとしていたが、今では有耶無耶になっていた。  
ヒルダに横車を押すだけの力量は無かったし、他の仕事に忙殺されて構う余裕も無かった。  
自分の代官にも関わらず、それを任命するどころか就任の報告すら聞かされなかったこと。  
それはヒルダのプライドを深く傷つけた。  
(それでも――それでも、あなたはこの国の摂政なの、ヒルダ?)  
人知れず歯噛みするヒルダに向かって、新しい修道院長が頭を下げた。  
 
その瞬間、ヒルダは息を呑んだ。  
こけた頬、ろう細工のように白くつやのない肌。丸く、ぎょろりとした大きな目。  
頭には僅かに髪の毛が残っているだけで、ほとんど禿頭に近い。薄笑いを浮かべる唇は不自然に赤い。  
「フェラーラのジロラモ殿です。修道士たちと平信徒たちの推薦により、司教猊下が任命いたしました」  
「……公国に神の慈悲あらんことを」  
それは、あの鞭打ち教団を率いる男だった。  
 
「――ご冗談でしょう?」  
代官の一人が声をあげた。  
だが、ヒルダはその怒ったような、あるいは呆れたような言葉を無視して言った。  
「代官収入の百分の五、たったそれだけです。それだけあれば石切り場を再開するだけの職人は雇える」  
「恐れながら」  
別の代官が気持ちの悪いニヤニヤ笑いを浮かべ、手揉みしながら言った。  
「我がサンツィオ家の代官収入は大公陛下との間に定められた権利であります」  
「それを言うなら、我が一族もそうだ」  
「いや、殿下はこの一年だけと仰っておられる。この危急のときに、家臣一同協力しなければ……」  
「とはいえ、一年で終わらなければどうなる? 戦が一年で終わる保証も無い」  
自分を差し置いて口々に話し出す代官や執政官を見て、ヒルダは密かにため息をついた。  
ようやく、評議会や主だった貴族たちは、対トルコ戦争に向けてヒルダに協力する姿勢を見せ始めていた。  
トレミティ諸島の占領が、トルコの脅威を実感させたのだ。  
既にジャンカルロの勝利は本国にも伝わっている。だが、トレミティの被った損害は甚大だった。  
ヒルダはこの機会を逃さず、国庫からトレミティの領主に復興資金を貸し付けていた。  
ジャンカルロの手柄だけが注目されないよう、大公家は気前の良い主人でなくてはならない。  
しかし、諸侯は城砦の強化や武器の購入などを自力で行うが、代官たちはそうではない。  
資金も、人材も、計画さえも全てヒルダが手配してやらねばならない。  
ジャンカルロの活躍で、トルコを打ち破れるという自信は広く家臣に広がっていた。  
あとは、トルコの襲撃を防ぐための手立てが必要だ。  
となると、沿岸に新たな砦を築く、街道を補修するなど、様々な土木工事が欠かせない。  
その手始めが石切り場の再開計画なのだが、国庫の金は既に尽きかけていた。  
 
「金が無いというなら、我らがさらに領民から取り立てれば良いのではないか?」  
一人が渋い顔でそう言うと、すぐ隣の男がすぐにそれを取り消す。  
「まてまて。トレミティからの難民や海戦の被害で民は困窮している。これ以上税を取り立てれば……」  
「村を捨てて逃げられては元も子もないぞ」  
「しかし……前例を作れば我らの権利がさらに侵食されるかも知れぬ」  
三人目の男の発言に、一瞬その場にいた全員が言葉を失った。  
それは間接的に、主君への疑念を口にしたものだった。  
年若い騎士が、激昂したように立ち上がった。  
「貴様! それでもモンテヴェルデ家の臣下の発言か!」  
「古よりの権利は権利だ! 口にして何が悪い!」  
「――黙りなさい!」  
場を圧する言葉は、ヒルダがそれを口にするより早く、別の男から発せられた。  
さっとその人物に全員の視線が注がれる。  
それは、ジロラモだった。  
 
「何ゆえ犠牲を厭うのか? 何ゆえ僅かな献身を惜しむのか? 主の言葉を忘れたのか?」  
最初の言葉とはうって変わって、ジロラモは静かに語り始める。  
「……いや、その惜しんだ金で、貴公らは一体何をした?  
思い出せ、この町で馬上槍試合があった日のことを。あるいは復活祭の夜の喧騒を!  
領民が身を粉にして納めた税は、全て饗宴と馬鹿騒ぎと、芸人たちに費やされたではないか!」  
ジロラモに指摘され、ヒルダさえも言葉に詰まった。  
祭は、決して貴族のためだけにあるものではなく、領民たちに日常の鬱憤を発散させるためのものでもある。  
貴族たちはそれゆえ領民に馳走を振舞い、大道芸人を招き、あるいは巨大な山車を作らせて祭を盛り上げる。  
しかしもとを辿れば、それもまた領民たちの税に違いない。ジロラモはそれを責めているのだ。  
「いや祭りのみならず、四旬節の断食すら忘れた者どもに、神の助けがあると思うか?  
人は皆、悔い改めねばならん! さもなくば再び異教徒の刃が――それでもまだ、自らの振る舞いを改めぬか?」  
突然ジロラモは何かに憑りつかれたように目を見開いた。  
「――神をも恐れぬやつらめ! 目の前の僅かな金に目が眩み、異教徒に魂も売ろうというのか!  
神は自ら助くる者を助けん、ならば我らの寸土たりとも、我らの手によって守らねばならぬ!  
だというのに……ああ、恥知らずどもめ! 殿下のご心痛も察せず、私利私欲に走りおって!」  
真っ赤な口をかっと開き、ジロラモは吠える。  
「き、貴様ッ!」  
腰の剣に手をかけて、一人の騎士が立ち上がろうとした。  
だが、ジロラモはひるみもせず、改悛を説くときの燃えるような瞳で、その騎士を睨んだ。  
金縛りにあったように男の動きが止まる。  
やがて、ジロラモの眼力に圧されるかのように、騎士は再び腰を下ろした。  
 
「殿下」  
向き直ったジロラモの顔は、驚くほど穏やかだった。  
突然の暴言を恥じているのか、その頬は紅潮し、目はうって変わって悲しみに満ちていた。  
光を浴びてなお漆黒の衣の中に、白い顔だけがぼんやりと浮かび上がり、透き通って見えた。  
「御無礼をお許しください。ただ、私は――」  
震える声でそう告げるジロラモを、ヒルダは驚きの眼差しで見ていた。  
ほんの一瞬前獅子のように振舞った男は、今はまるで兎のように震えている。  
「許すなど……」  
「殿下、私は」  
ヒルダを遮るように、ジロラモはおずおずと話し始める。  
「私は新参者ゆえ、この場の作法も慣例も知りませぬ。しかし、無礼を働いたことは理解しているつもりです。  
お詫びとして……我が代官収入の全てを今年は殿下に返上いたします」  
その言葉に、ヒルダのみならず他の者たちもどよめいた。  
「しかし、それではあなたの生きる糧はどうなりましょう?」  
「私は日々水とパンのみで生きることを旨としております。お気遣いなく。  
それに、教団の信徒たちが最低限のものは寄進してくれますゆえ」  
そう言うとジロラモは頭を上げ、ちょっと微笑んで見せた。  
それは意外なほど愛嬌に満ちた笑みだった。  
 
「……では、私も」  
先ほど剣を抜きかけた騎士が、苦虫を噛み潰したような顔をしながら言った。  
「殿下の前で、怒りに駆られ剣を抜こうとするなど騎士の恥。我が収入も、殿下にお返しいたします」  
それだけ言うと、ジロラモから目をそむけるようにして騎士は座った。  
「では……」「うむ、我らも」「……同じく、殿下に忠誠をお見せしよう」  
ためらいがちな賛同が、会議室に広がっていく。  
たちまちのうちに、ヒルダの提案した、代官収入・百分の五を一年徴収する案は可決されてしまった。  
「ありがとう、尊き方々」  
ヒルダは安堵の笑みを浮かべながら、丁寧に頭を下げる。  
「モンテヴェルデ家が今日の協力を忘れることは、決して――」  
そう言いかけたとき、会議室の扉が荒々しく開かれた。  
突然のことで、誰もが叱責の言葉すら忘れたように、入ってきた男を見つめる。  
それは城の騎士だった。  
「……で、殿下!」  
荒い息を吐きながら、切れ切れに叫ぶ。  
「お、沖合いに……! 沖合いに、トルコの、トルコの艦隊が!!」  
 
 
4.  
ヒルダが、真っ先に動いた。  
「来なさい!」  
モンテヴェルデ市の執政官に一声叫ぶと、素早く立ち上がり、走った。  
風のように領主館の中を駆け抜け、表玄関から飛び出す。  
突然現れた姫の姿に、衛兵も召使いたちも度肝を抜かれて立ちすくんだ。  
「誰か馬を!」  
そう言うなり、ヒルダはもっとも近くにいた馬にひらりと跨る。頭を飾るヴェールが羽のように翻った。  
普段のヒルダなら、召使いの手を借り、静々と鞍に腰をかける。その姫君の突然の変貌に誰もが目を丸くした。  
「城に残った兵に、持ち場に着き命令を待つよう伝令を! 全ての教会にも早鐘を鳴らすよう命じなさい!」  
矢継ぎ早の指示に、数騎が慌てて馬に跨り、走り去る。  
それを見届けると、ヒルダはさっと手綱を引き、馬首を巡らした。  
「十騎、来い!」  
ヒルダは叫び、一つ馬の腹を強く蹴った。  
 
モンテヴェルデの町を、ヒルダは駆け抜けた。  
白いヴェールをなびかせ、空を飛ぶように馬を走らせるヒルダ。  
そしてその後を黒い鎧をまとった騎士の一団が、稲妻のような蹄の轟きを響かせて続く。  
やがてヒルダの指示が届いたのか、方々から鐘の音が響き始めた。  
それは町に危険が迫ったことを告げる鐘だった。  
幾重にも重なる鐘の音の中、ヒルダはひたすら馬を走らせた。  
市民たちは、突然の早鐘と大通りを駆け抜ける騎馬の一団に、何事かと目を丸くしている。  
やがて、町の門がヒルダの眼に映った。  
町の一番南にある、サン・ジョヴァンニ門である。  
三階建ての建物に匹敵する高さの重厚な門には、分厚い木の扉が取り付けられている。  
さらに内部には落とし格子があり、扉が破られても一挙に門を突破されないよう工夫されていた。  
門の両側には一対の円塔がそびえ、その頂上には大公家の旗が風にはためいている。  
ヒルダは門の側に馬を留め、塔の脇の小さな扉を開けて中に入った。  
スカートをたくし上げると螺旋階段を駆け上がる。  
 
頂上に出た瞬間、ヒルダの体を強い風が包んだ。  
ほのかな潮の香りが、鼻をくすぐる。それぐらいサン・ジョヴァンニ門は海の近くにあった。  
「姫……さま!?」  
門の守備隊を指揮する騎士は、突然現れた君主の姿に驚く。  
だが、当の本人はそんな驚きなど一向意に介さなかった。  
「トルコ船は?」  
朗々と町中に響き渡る鐘の音の中でも、ヒルダの凛とした声ははっきりと聞こえた。  
守備隊長が指を差す方に、ヒルダは頭を巡らす。  
眼前には、城外町が広がっており、それを貫いて街道が南へ、地平線の向こうへと消えていた。  
右手の遥か彼方にはアペニン山脈の青い影がぼんやりと浮かび上がり、峰々が美しい連なりを描いている。  
そして左手――漁師たちの船着き場があり、あとはなだらかな砂浜が続く。  
その向こうに、トルコの軍船がいた。  
沖合いに錨を下ろしたそれは、手を伸ばせば指でつまめるのではないかと思える大きさに見えた。  
 
「一隻、二隻、三隻…………二十五隻も!?」  
ヒルダの驚愕に、守備隊長は黙って頷いた。  
少なく見積もっても一隻につき兵士百人、さらに水兵を含めれば、三千人は下るまい。  
艦隊の中にはガレー船だけでなくカラックの姿も見えた。騎兵や砲手も引き連れているに違いない。  
「トレミティは陽動だったのか……」  
思わずそんなことを口にする。  
未だジャンカルロの軍は帰還していない。トレミティでトルコの残党狩りの最中だ。  
だが、今はそんなことを思っても仕方ない。今はこの瞬間を乗り切ることに全力を尽くすべきだ。  
「トルコ船の様子は?」  
「先ほどから、沖合いに停泊したまま動きがありません。時折小船を船同士往復させているようですが」  
「まだ攻めてはこないつもりかしら」  
ヒルダの問いに、守備隊長は答えなかった。  
そのとき、背後から複数の足音がして、甲冑姿の騎士の一団と執政官が姿を現した。  
「殿下……」  
「すぐに執政官の名において、各街区の長を召集しなさい。武器を取れる男は全て旗の下に集まるように。  
城に伝令を。家令に命じて、城の武器庫を開けさせます」  
「し、しかし……民兵などもう何十年も招集したことがありません。物の役に立つか……」  
執政官はうろたえたように口を開く。その瞬間、ヒルダの叱責が飛んだ。  
「そんなことを言っている場合か! 行けっ!」  
 
慌てて階段を駆け下りて行く執政官の姿を確かめ、ヒルダは再びトルコ船に目を向けた。  
「あの小船……さっきから行ったり来たりして…………そうか!」  
ヒルダが手を一つ打つと、守備隊長も同じことを悟ったようだった。  
「水深を測っているのですな。船が直接浜に乗り入れられるかどうか、調べているのでしょう」  
ヒルダも頷く。  
それはモンテヴェルデの沿岸や港の情報がトルコ側に漏れていないことを意味した。  
トルコ海軍は、あまりこちらの地理には詳しくない。それは僅かとはいえ有利な状況だった。  
「とはいえ……」  
いま、ヒルダの手元にいる兵力は、騎士がたったの五十名。町を守るにも心もとないものだ。  
彼らの盾持ちや従士、城の歩兵たちを集めても、百名を超えるかといったところだ。  
そこに市民兵を加えたとしても、三千のトルコ兵の攻撃を支えることなどどうして出来ようか。  
 
「殿下」  
顔をしかめるヒルダに、守備隊長が声をかけた。  
「……出来れば、門を閉めたいのですが」  
「それはまだ駄目です」  
そう言うと、ヒルダは城壁の外に目を移した。  
鳴り響く鐘の音に未だ戸惑うように、城外の住人たちが門へ門へと押し寄せている。  
いま門を閉めると、彼らを見捨てることになる。  
「しかし、殿下」  
「駄目です!」  
激しく拒絶するヒルダに、守備隊長はしぶしぶ引き下がる。  
だが、トルコ船がいつ兵を上陸させるか分かったものではない。  
幸い、モンテヴェルデ市の南側は遠浅の浜で、大型船は余り近づけない。  
しかし、そんなことにはもう気づいているだろう。トルコ軍は小船に兵を移して上陸してくるはずだ。  
迎え撃つべきか?  
いや、僅か五十騎では水際で撃退できるかどうかも怪しい。  
それに騎士たちはすでに各自の持ち場に走っているはずだ。いま呼び戻しても間に合わない。  
 
その時だった。塔の守備兵が、絶望的な声をあげた。  
「で、殿下!!」  
ヒルダはその声で我に帰る。そして、彼の指差す方に目を向けた。  
「騎兵? もう上陸していたの……!?」  
体から力が抜けていくのが、ヒルダには分かった。  
城外町のさらに先、なだらかな丘の向こうから、ドロドロと太鼓のような音が響いてくる。  
やがて、丘の陰から林のような槍の群れが姿を現した。  
無数の旗印をたなびかせ、幾つかの小集団となった重騎兵が、丘の頂きに集結していく。  
「殿下! 門を! 門を閉める命令を!」  
「……まだ、待ちます!」  
ヒルダはそう答えるのが精一杯だった。  
まだ城外の住人は半分も逃げ込んでいない。  
今扉を閉めれば、彼らは恐慌をきたし見捨てるよりひどいことになる。  
溢れそうになる涙を堪えながら、ヒルダは丘の上の騎兵団に目をやった。  
彼らは戦闘隊形のまま、ゆっくりと丘を下ってこちらに向かってくる。  
「多い……」  
背後にいた騎士の一人が思わず呟くのが聞こえた。  
それは一月前、ジャンカルロが率いて出陣していった軍団にも匹敵する数だった。  
あの騎兵に船の戦力が合流すれば、一体どうなるのか?  
 
やがて、騎兵団は城外町の外れに達した。  
まだ市民たちは門目がけて殺到し続けている。  
ヒルダはなすすべもなく、ただその光景を見守っているしかなかった。  
――そのとき、騎兵団の一角が崩れた。  
本隊から分かれた五騎ほどの騎兵が、ヒルダたちの方に駆けてくる。  
三旒の旗を掲げ、街道を通って一直線に向かってくるのがはっきりと見えた。  
「殿下!」  
「……門を……門を閉めなさい。弓兵は射撃用意」  
喉の奥から搾り出すようにして、ヒルダは命じた。  
守備隊長が頷くと、兵の一人が命令を伝えに走っていく。  
塔の上にいた弓兵たちは、一斉に矢を引き絞って、構えた。  
 
「……いや、待て。様子がおかしい」  
ヒルダの背後で、そんな声がした。  
騎士の一人が身を乗り出すようにして、近づく騎兵の一隊を指差す。  
ヒルダも見た。  
その一隊が近づくと、まるで「出エジプト記」のように門に押し寄せる人波が分かれていくのだ。  
騎兵たちは、そんな町の人々を気にも止めず、門に近づいてくる。  
「撃ち方、待て!」  
守備隊長が命じるまでも無かった。  
彼らの掲げる旗印は、あきらかにトルコの半月旗ではない。  
「モンテヴェルデの方々よ! モンテヴェルデの方々よ!」  
それは確かにイタリア語の響きだ。  
騎兵は大声で叫びながら、門のすぐそば、互いに顔が見えるほどの距離で、馬を止めた。  
強い海風に翻るのは、ナポリの二色旗、ウルビーノの黒鷲旗、そして――モンテヴェルデの旗だ!  
ヒルダの鼓動が激しさを増した。  
予想が確信へと変わっていく。しかし、それでもまだ自分でも信じられない。  
まさか、彼が。  
「どうか武器を収めていただきたい! 我らは味方なれば、心配御無用!」  
全身を甲冑で覆った騎士が面頬を跳ね上げ、顔を見せて叫ぶ。  
「大公陛下にお伝えを! 我らは聖戦の大儀に従い、ともに轡を並べて我ら戦わんとする者!  
どうか参陣をお許し願いたい!」  
周囲にいた市民たちが、それを聞いて一斉に歓声を挙げた。  
 
ヒルダや兵士、市民たちが見守る中、騎兵団はゆっくりと向きを変え、浜辺の方へと下っていく。  
中央にはモンテヴェルデの「山に導きの星」の軍旗が翻り、周囲を数十騎の重騎兵が守っている。  
その背後では歩兵団が堅固な方陣を作り、両翼を騎兵部隊が突撃隊形で待機していた。  
突然、喇叭の音が高らかに響き、太鼓が激しく打ち鳴らされた。  
それをきっかけに、騎兵たちは鬨の声を上げた。まるでトルコ軍を威嚇するように。  
「見ろ……! トルコ船が! トルコ船が引き返していく!」  
塔の上の見張り兵が歓喜の声を上げた。  
確かに、トルコ船はゆっくりと、しかし確実に速度を上げて水平線の向こうに消えていく。  
「待ち伏せされたと思ったんだ……」  
守備隊長の言葉に、ヒルダも頷く。  
トルコ船が一隻、また一隻と撤退するのを、そこに集った人々全てが無言で見送った。  
そして、最後の船のマストが見えなくなった瞬間、誰かが叫んだ。  
「……万歳……万歳! モンテヴェルデ万歳!」  
戸惑いがちな声。しかし市民たちは次第にそれに唱和していく。  
モンテヴェルデ万歳、ナポリ万歳、ウルビーノ万歳、そんな声がうねりとなって、町中を駆け抜けた。  
 
歓声の中、ヒルダは言った。  
「我が名はヒルデガルト・モンテヴェルデ。病床の大公陛下に代わり、この国を治める者。  
貴殿らに参陣の許しを与える前に、頼もしき援軍の大将の名を賜りたく存じます」  
騎士は答えた。  
「我が主、我が大将の名はアルフレド……アルフレド・オプレント!」  
「アル……!」  
突然、暗く闇に沈んでいた部屋に、一条の光が差し込んだようだった。  
その顔に喜びを称え、ヒルダはひときわ大きくはためく大将旗を見つめた。  
 
 
(続く)  
 

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