1.  
モンテヴェルデの人々を、千年の歴史が見下ろしている。  
五指城の謁見室。天井を彩る煤けたフレスコ画や――壁際にはめ込まれた木像の偉人たち。  
その視線は厳かに、しかし優しく子孫たちの歩みを見守ってきた。  
人々はやがて自らもその一部となり、歴史の中に消えていくことを知る。  
いま謁見室に集うモンテヴェルデ人は誰もがそれを自覚し、誇りとしてきた。  
 
だがそんな人々も大広間に流れる冷たく澱んだ空気に、たちまち感慨を奪われてしまう。  
そう。  
彼らの対面に、もう一方の歴史の担い手が陰鬱な顔で並んでいるからだ。  
それは、コンスタンティノやディオメデウス・カラファ、ナポリの騎士――異邦人たちだ。  
モンテヴェルデの歴史にも、建国の父たちにも連なることのない、異質な部外者。  
そんな人間が、病のようにはびこり、自分たちが築いてきたものを奪おうとしている。  
そう感じるのは、その経緯はどうあれ、モンテヴェルデ人として当然のことだった。  
ただ一人、彼らを束ねる「公子」アルフレド・オプレントを除けば。  
 
アルは、謁見室の一番奥、玉座のすぐそばに設えられた豪勢な椅子に腰掛けている。  
中央の玉座は、相変わらず空位だ。大公マッシミリアーノの容態は一向に快復しない。  
そして一段高くなった玉座の隣、通常なら大公妃が座る場所に、摂政ヒルデガルトの姿があった。  
モンテヴェルデの貴族や廷臣はヒルダの側に、異邦人たちはアルの側に並んでいる。  
それが、現在のこの国における無言の対立を象徴しているようだった。  
 
象徴という意味では、アルとヒルダの位置もまたそうだった。  
帰国して数日のうちに、ヒルダの勅令によってアルの名誉は回復された。  
もちろん、摂政であるヒルダには、大公が下した裁きを覆す権限がある。  
それでも、ヒルダもアルの罪を取り消すことに全くためらいを感じないわけにはいかなかった。  
彼女自身はアルが戻ってきてくれたことが嬉しくないわけはない。  
だが、アルの名誉回復は彼女の自発的な意思によるものではなかったからだ。  
ナポリやウルビーノの圧力、教皇庁の介入、そしてアルが率いる軍勢。  
半ば脅されるように、ヒルダと評議会はアルを赦免する決定を下した。  
それが評議会の貴族たち――そしてヒルデガルトの心中に、かすかな苛立ちと屈辱を与えていた。  
 
アルフレドが赦免と名誉回復以外求めなかったことにヒルダは安堵していた。  
ただでさえ、外国人が大きな顔をして乗り込んできたことにいい顔をしない者は多い。  
万が一にも「公子」としての待遇や摂政の身分を要求されれば、彼らは一斉に反発していただろう。  
それを知ってか、アルはただの一貴族としてヒルダの命に従うことを宣言していた。  
とはいえ、救国の英雄であり公子として認められた男を、ただの臣下として扱うこともまた出来ない。  
そこで非公式にアルは摂政の補佐を務め、その位も七大伯に準ずることが定められていた。  
玉座の一段下に設えられた特別席、というアルの座所は、彼の微妙な立場を的確に表していた。  
 
――そして、彼らの前に新しい異邦人が立っている。  
「ようこ――」  
「ようこそ、マエストロ(親方・師匠)」  
ヒルダの声を遮るように、アルが歓喜に満ちた顔で挨拶する。  
マエストロ、と呼ばれた男は静かに頭を下げるだけだ。  
「あなたの噂は、ウルビーノ公フェデリーコ陛下から伺っています。  
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ殿。あなたのような才人を迎えることは、この上も無い喜びだ」  
「過分なお言葉を賜り、身に余る光栄です」  
そんなやり取りを聞いて、モンテヴェルデ人の中には露骨に嘲りの笑みを浮かべる者もいた。  
アルが言葉を尽くすこの男は、小太りな中年男に過ぎない。  
顎の下に肉をたるませ、もじゃもじゃ頭に小さな帽子を載せた姿は、町の八百屋のようだ。  
継ぎのあたった上着や漆喰の汚れがあるズボンは、彼を一層みすぼらしく見せている。  
ただ目と口元がゆるやかに下がっている様子が、彼の人の良さを示していた。  
そんな何一つ人に感銘を与えるものを持たない男に向かって、アルは興奮を隠せないようだった。  
「あなたを迎える理由が異教徒との戦争のため、というのがもったいないほどです。  
もし時間があれば、様々な学芸についてご教授願いたいところですが……」  
そう言いつつ、アルは無言で背後に手を伸ばす。  
すると、そこに控えていたルカが素早く幾枚かの紙片を渡した。  
その阿吽の呼吸は、長年アルに仕えてきた従士を思わせるほどだった。  
「……あなたの才能は、このウルビーノ公からの手紙と――同封されていたあなたの論稿でも明らかだ。  
多忙なあなたを派遣して下さったウルビーノ公の寛大さにはどれだけ感謝しても足らないでしょう。  
その知識がわが国の危難を救う大きな助けとなると確信しています、マエストロ」  
「誠心誠意務めます。公子アルフレド殿下」  
フランチェスコがそう答えると、その場にいた多くの人間が、何かしら居心地悪そうに体を揺すった。  
「公子」という言葉が人々の心を過敏にしている――それはヒルダも例外ではなかった。  
 
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ。  
ウルビーノ公フェデリーコの宮廷に仕える無数の知識人の一人である。  
工房の町・シエナの出身で、少年の頃から絵画・彫刻・建築を学んだ。  
青年を過ぎてからはウルビーノに招かれ、学究生活の間に多くの建築工事の監督を務めていた。  
とくにウルビーノ公の宮殿建設に携わることで、その名は既にイタリア中に知られていた。  
もちろんアルフレドもこれまで何度かその名を耳にしたことがある。  
しかも耳にするたび、その名は限りない賞賛とともに語られるのが常だった。  
 
「……私も、あなたの論稿を読ませていただきましたわ、マエストロ・フランチェスコ」  
凍った空気を打ち破るように、ヒルダが凛とした声を上げた。  
「ヘルメスの業績にもお詳しいようね」  
ヒルダはそう言いつつ、微笑みを浮かべる。だが、笑っているのは口元だけだった。  
幾人かの廷臣、特に聖職者の一団が一様に眉をひそめる。  
「ヘルメス」とは当時の知識人に絶大な影響を持っていた神格「ヘルメス・トリスメギストス」を指す。  
それは全ての学芸と技術の始祖と信じられ、多くの学者が彼の書き残したとされる文書を権威としていた。  
だがそれは単なる学問ではなく、錬金術・魔術・占星術など「異教的」要素を含む思想体系でもあった。  
それゆえ保守的な聖職者にとって、「ヘルメス主義」は異端思想と同じなのだ。  
「ヘルメス、アルキメデス、マルクス・グラエクスなどの引用も……大変博識でいらっしゃるのね」  
「殿下」  
「――たとえば、人体と都市との照応などは、小宇宙=大宇宙論の発展なのでしょう?」  
「……殿下」  
とうとうと喋るヒルダを、フランチェスコは少しきつめの口調で押しとどめた。  
あえて柔和な顔のまま、左右の冷たい視線に応えるように口を開く。  
「私の興味は美しい絵画や彫刻の比例を導き出すこと。そして堅牢で心地よい建築を建てることです。  
そのためには神がこの自然に書き留めた、人の言葉ではない『言葉』を読み取らねばなりません。  
過去の教父たちはその技法を『自然魔術』と呼びました。私はそれを学んでいるに過ぎません」  
それは、言外に自らがキリストの教義から逸脱していないことを訴えるものだった。  
「そうでしょうね」  
あくまでヒルダは優しく同意した。  
「『大砲の力に抗しうる者は、人というより神の技を持つ』とあなたもおっしゃっていますから」  
その言葉に、今度はざわめきが上がった。  
人間の知識が神のそれと比肩するという発言自体、不遜・傲慢と捉えられても不思議はない。  
とくにモンテヴェルデは「ルネサンス」の息吹から遠く離れた、素朴で保守的な風土を強く残す国だ。  
自然魔術もヘルメス学も「異端」とみなす人間は多い。  
 
「マエストロ」  
助け舟を出すように、アルはことさら明るく言った。  
「あなたをモンテヴェルデの建築総監督に任命したい」  
たちまち場の注目はアルへと移った。  
「任期は半年。建築については、全て摂政殿下の代理とみなされると思っていただきたい。  
よろしいでしょうか?」  
フランチェスコは体を折り、深く頭を下げた。  
ほんの数秒の間に、この中年男に巨大な権力が譲渡されたのだ。  
すでに評議会で決定済みの方針とはいえ、やはりそれは一定の驚きをもって受け止められた。  
「そこで、まず……」  
 
「何よりまず、この町の防衛から取りかかって頂きたいのですが」  
今度は、ヒルダがアルの発言を遮った。  
フランチェスコも、頭を上げるとヒルダに向き直る。  
「いつ、具体的な話をお聞かせくださいますか?」  
あくまで礼儀正しく、ヒルダは小首を傾げた。  
だが、フランチェスコの返事はそんな態度などたちまち吹き飛ばすものだった。  
「今すぐにでも」  
「……今すぐ、ですって?」  
それでも、狼狽を見せなかったのはヒルダの貴族としての誇り故だったのかもしれない。  
問い返す彼女に向かって、フランチェスコはゆっくりと頷いてみせた。  
「フェデリーコ陛下からモンテヴェルデに赴くよう命じられたときから、既に計画は練っておりました。  
もちろん、細部はまだ検討を要しますが――大まかな防衛計画は既に出来上がっています」  
今までにこやかに笑っていた目に、英知の光が宿るのを、全ての人が見た。  
その瞬間、彼もまた「歴史を担う者」の一人だということを誰もが悟ったのだった。  
 
 
2.  
海風が、部屋の鎧戸を叩いては去っていく。  
夜、フランチェスコはその宿坊に数人の客を迎えていた。  
一人は言うまでも無くアルフレド。それにルカとコンスタンティノ。  
四人は、蝋燭の灯りを頼りになにやら書き物をしている。時折短い会話を交わす以外、誰もが無言だ。  
なすべき仕事は各々が山のように抱えていた。  
そのほとんどがフランチェスコの計画に関わることであるが故に、アルたちは宿坊を訪ねたのだ。  
 
宿坊自体はそれほど大きなものではなかった。  
本来なら、五指城に滞在する貴族の下男やその荷物を収めるための部屋である。  
だが、普段なら五・六人の男が生活できる空間を、今はたった一人の男の荷物が埋め尽くしていた。  
フランチェスコの仕事道具や、蔵書の一部である。  
それはベッド以外の全ての棚や机、物入れを占領した上、さらに床にまで積み上げられていた。  
 
「マエストロ、武器目録の整理が終わりました」  
一仕事終えた、といった風にアルは机から顔を上げた。  
振り返りながら、背中合わせに座ったフランチェスコに羊皮紙の束を手渡す。  
それを受け取りながら、彼は首を何度か捻った。強張った肩がごりごりと音を立てる。  
体をほぐしながら、フランチェスコはアルのまとめた書類を素早くめくっていく。  
「ふーむ……前途多難、ですなぁ」  
顎を撫でながら、フランチェスコはアルの方をちらりと伺う。  
アルは、遠慮は無用とばかりに首を振った。  
「弓三十二に石弓二十二。長槍三十四に矛槍十九。槌矛が二十二、長剣二十六……  
これで全てですか。たったこれだけが」  
「それに、皮鎧四十八と鎖帷子が二十九組、小札鎧と胴鎧が十八組です。兜も含みますが」  
申し訳なさそうにアルが付け加える。  
今上げたのが、モンテヴェルデに蓄えられた武器の全てだった。  
 
「ルカ。そっちは終わったかね?」  
「大体ですけどね。俺はまともに字が読めないんだから、見逃しがあっても許してくださいよ」  
そう言うと、ルカもまた分厚い紙の束をフランチェスコの机に積み上げた。  
そこには虫に食われたボロボロの羊皮紙もあれば、まだ真新しい紙の書類もあった。  
フランチェスコがめくり始めると、アルも肩越しにそれを覗く。  
「――何枚あった?」  
「五枚ごとに木片に刻みをつけたんですが、そいつがええと、ひのふのみ……十八あります」  
「九十か」  
ルカがまとめていたのは、モンテヴェルデが購入した火器の明細書だった。  
購入した日付や作った職人の名、代金や火器の重さ、付属品一覧などが書かれた書類が九十。  
「手銃に射石砲に臼砲に――てんでばらばらな上に、どれもこれも骨董品ですなぁ……」  
フランチェスコは苦笑しながら書類を一枚一枚繰っている。  
数は豊富だが、形も性能も操作法もばらばらの火器群。とても使い物になるとは言えない。  
それに、最近購入されたものが数えるほどしかないのは、書類の古さですぐ分かった。  
 
モンテヴェルデの武器備蓄を調べるのは骨だった。  
長い平和が書類を散逸させていたし、大公以外が購入した物も多くあったからだ。  
しかも手間の割に、その結果は誰もを暗澹とした気分にさせるものだった。  
全てかき集めたとしても、槍兵と弓兵を五十名ずつ武装させるのが精一杯だろう。  
もちろんいくつかの武器は使い物にならなくなっている可能性があるから、実際はもっと少ない。  
 
「あの時トルコ軍が上陸していたら、石でも投げるしかなかったな。この町の連中は」  
話を聞いていたコンスタンティノが、書類に向かいながら笑った。  
確かに城の武器庫がこの有様では、民兵をかき集めても持たせる武器が無いわけだ。  
もう百年近い平和を享受してきたせいとは言え、あまりにお粗末な状況だった。  
「とりあえず、鍛冶屋と弓師に色々と発注しなくてはいけませんねぇ」  
「……こうなってはマエストロだけが頼みです」  
じっと横顔を見つめながら、アルは呟く。  
当の本人は、小さくため息をついて書類の束を投げ出した。  
「工事が間に合えば良いのですがね……」  
時間は有限だ。いつトルコが襲来してもおかしくない。  
そして、それは明日かもしれない。誰にも確かなことは分からない。  
 
――フランチェスコが大広間で説明したモンテヴェルデの防衛計画は以下のようなものだった。  
 
まず、全ての資源と労力をモンテヴェルデ市に注入する、と彼は言った。  
守るべき町は多いが、全てを守る余裕はない。逆にこの町が陥落すれば公国は崩壊する。  
幸いモンテヴェルデの市城壁は二百年をかけて完成されており、そう見劣りするものではない。  
ただ一つ、トルコの持つ大砲だけが、最大の懸念材料だった。  
 
そのための対策をフランチェスコは既に考えていた。  
イタリア中探しても、フランチェスコに並ぶ要塞と大砲の専門家は五人といないだろう。  
それを期待されて彼はウルビーノに招かれ、かつモンテヴェルデに派遣されたのだから。  
 
彼が述べた具体的な方策は、“bastione(陵堡)”と名づけられた、新式砲台の建設だった。  
城壁の外側に張り出すように作られるそれは、それまでの塔などとは全く異なった形をしていた。  
上から見ると、それは槍の穂先のように尖っており、その「切っ先」を外側に向けている。  
この傾斜が敵の砲弾をそらし勢いを殺す役割を果たす。外壁も普通の塔の倍の厚みを持っている。  
陵堡は三階建てで、各階に広々とした砲撃室があり、それぞれ数門の大砲が設置される。  
これによりトルコ軍の大砲を逆に砲撃し、城壁から遠ざけようというのだ。  
既存の城壁や塔では、このようなことは出来ない。  
設計が古く、大砲を置けるような空間がない上に、床の強度も足りない。  
一方陵堡の床はレンガ積みのアーチで支えられ、遥かに頑丈に設計されている。  
 
フランチェスコの見積もりでは、陵堡を四つ造る必要があった。  
モンテヴェルデ市は南北に細長い長方形の形をしており、南北にそれぞれ一つ、西側に二つ門がある。  
門ごとに陵堡を築き、これを防衛するためだ。  
そして陵堡同士、あるいは塔と陵堡が互いに火器や飛び道具で援護しあえるよう配置される。  
相互の支援により、陵堡自体も砲撃や歩兵の襲撃から守られる。  
陵堡群を陥落させない限り、トルコの大砲は有効射程の遥か彼方から砲撃するしかない。  
――少なくともその間は、市城壁が破られることも無いはずだった。  
 
「私は、マエストロの才能を信じています」と、アルは言った。  
「もしこの計画が実現しなければ、この町も、もちろん国もトルコ人に攻め滅ぼされるでしょう。  
だから、その実現には労を惜しまないつもりです」  
「そこまで信じていただくと、逆に不安になる。少しは疑っていただいた方がいい」  
まっすぐ見つめてくるアルの視線に、フランチェスコは恥ずかしそうに頭を掻いた。  
だが、アルの確信に満ちた様子は揺るぎない。  
「何か必要なものがあれば、遠慮なく仰ってください」  
アルはマエストロの手を握る。その力強さに、フランチェスコの顔も真剣にならざるを得ない。  
 
「そうだ。何しろ未来の大公陛下だからな。欲しいものは何でも言っておいた方がいい」  
からかうような声は、コンスタンティノのものだった。  
肩を揺すって笑いながら、相変わらず書類にペンを走らせている。  
「コンスタンティノ、何か言いたいことが……」  
「公子」  
憮然とした表情を向けるアルに、フランチェスコはその手を握ったまま言った。  
「私の才能を確信していただいていることは光栄です。  
しかし、ある人間の確信が他の人間にとっては誤謬である、それは当たり前にあることです。  
どうかその目で」  
フランチェスコの柔らかい眼差しが、アルの目を覗き込む。  
「広く万人の立場から物事をご覧になることをお忘れなく」  
「……マエストロ」  
宿坊に、沈黙が戻ってきた。  
風は相変わらずびゅうびゅうと音を立てて通り過ぎていく。  
それは五指城に襲いかからんとする悪魔の吐息のようだった。  
 
強張った少年の肩を、不意にマエストロの暖かい手が触れた。  
「さて、何でも言って欲しいとおっしゃられたのだから、さっそく一つ望みがあります」  
「な、なんでしょう?」  
アルはさっと背筋を伸ばし、フランチェスコの言葉を待つ。  
一瞬真面目な顔をしたフランチェスコだが、すぐその相貌を崩して見せた。  
「腹が減った。何か食べ物と……一杯のワイン。これがあれば、もう一時間は仕事に打ち込める」  
アルの顔もまた緩んだ。  
「確かに、マエストロ。それは全く確かです……ルカ」  
目端の効くルカに、何か食べ物を取ってくるよう命じようとアルは振り返る。  
と、その時宿坊の扉を叩く音がした。  
 
 
3.  
席を立ったのはフランチェスコだった。  
「どなたですか、こんな夜更けに……」  
そう言いながら扉を開ける。  
次の瞬間、フランチェスコは雷に打たれたように体を強張らせた。  
「ヒルデガルトさま……!」  
「今晩は、マエストロ。お邪魔してもよろしいかしら?」  
驚いたのはフランチェスコだけではなかった。アルも予想もしなかった訪問者に驚いている。  
沈黙を肯定ととったヒルダはマエストロの横を悠然と通り過ぎ部屋に入った。  
その後にはナプキンをかけた盆とランタンを持ったステラが続く。  
「どのような御用でしょう。いえ、決して迷惑だと言うのではないのですが……。  
こんな夜遅く、しかもこのようにむさ苦しい所にわざわざお越しいただいたのは?」  
当然すぎるフランチェスコの疑問を聞きながら、ヒルダはステラに盆を机の上に置くよう命じた。  
「ありがとう、もう休んでいいわ。ランタンだけは置いていって頂戴ね」  
ステラは言われたとおりにすると、それぞれに頭を下げ部屋を出て行った。  
フランチェスコは困ったように、もう一度同じ質問をしようとしてヒルダの手に遮られた。  
 
「大したことではないのです。ただ私の居室からちょうどこの部屋の灯りが見えたもので――  
遅くまでお仕事をされているようですから、何か食べ物でもと思いまして」  
そう言いながらヒルダは盆の上にかかったナプキンを取ると、まだ湯気を立てる菓子が姿を現した。  
小さな素焼きの壺に入ったワインもある。  
「これは――」  
それを見て、アルが歓声を上げかけ、はっと口を抑えた。  
それを面白そうに見つつヒルダは菓子の皿を持ち上げる。  
金色に輝く四角い菓子が幾つか乗っている。その上には干しブドウが飾られていた。  
「ヤギのチーズの焼き菓子ですわ。  
もう厨房の火が落ちていたので、部屋の暖炉で作れるものを――と考えるとこれしかなかったのです」  
ヒルダははにかみつつ皿を差し出す。  
「お嫌いでなければお一つどうぞ」  
 
それがヒルダの得意料理の一つであることをアルは知っていた。  
「これは勿体ない。ヒルデガルトさま手ずからのお菓子を頂けるとは」  
「お気になさらず。それに、少しマエストロとお話したいこともありますし」  
恐縮するフランチェスコを見るヒルダの目がほんの一瞬細まり、すぐ穏やかな笑顔に戻った。  
優雅な様子で、コンスタンティノやルカも誘う。  
「さ、熱いうちにどうぞ……皆さんもお一ついかが?」  
男たちは礼を言いながらそれを一つずつとった。誰もが黙って口に運ぶ。  
フランチェスコは一口に頬張り、ゆっくりとそれを味わった。  
「――うまい。このようなうまい菓子は、故郷はもとよりウルビーノでも食べたことがない」  
「それは何よりですわ」  
そう言うと、ヒルダはもう一つどうぞ、とでも言うように皿をフランチェスコの方に差し出した。  
 
「アルフレド殿はいかがですか? お口にあったかしら?」  
不意を突かれ、アルは思わず無言で何度もうなずいた。  
何しろ、子どもの頃からこれはアルの大好物で、ヒルダもそれを知らないはずはないのだから。  
改めて尋ねられ、アルフレドは何故か顔を赤くしてしまった。  
それをごまかすために、もう一つ焼き菓子を取り、齧りながら窓の外に視線を移す。  
そっぽを向くアルの横顔を、ヒルダはしばらく見つめていた。  
だが、やがてそれに飽きたのか、ヒルダはテーブルの上の本を指でなぞる。  
「それにしても、たくさんの本ですこと。まるで図書館の一室に迷い込んだようですわね」  
すぐ側にあった羊皮紙を手に取ると、ヒルダはそれを声に出して読んだ。  
 
「『ヴィトゥルヴィオも言っているようにあらゆる技そして理論は、よく形作られ均整の取れた人体から生まれる。  
そして、肉体とくに四肢が不完全な場合、それは手当てされねばならないが、我々は手当てを容易に見出す。  
すなわち現存する古代の遺物やとりわけ要塞の堅固さの中に、見出すのである……』これは、マエストロの?」  
「ええ。私なりに建築と技芸についてのウィトルウィウスの意見をまとめたものです。  
あいにく御婦人の好まれるような本は持ち合わせておらんのです、申し訳ございません」  
書きかけの文章を見られた恥ずかしさからか、フランチェスコはそう言って頭を掻いた。  
同時にヒルダの聡明さにも驚いているようだった。  
普通女性は、詩や散文を読むことはあっても硬い論文を読む習慣がない。  
「アルフレド殿下も気に入ってくださって、是非執筆の手伝いをさせて欲しい、と……」  
「あら、そんなことを申し出られたの?」  
アルは言葉もなく頷くのが精一杯だった。  
ウルビーノに残してきた仕事に、モンテヴェルデでの仕事、そして研究。フランチェスコは余りに多忙だ。  
見かねたアルが手伝いを申し出たのは、決して個人的な学問欲のせいではなかった。  
だが、この火急を要する時期に他人の研究を手伝うことに、国の指導者としては負い目もある。  
 
「――それはそうと、お話とはなんでしょう?」  
無言でアルを見つめるヒルダに向かって、フランチェスコが改まって尋ねる。  
ヒルダの菓子は既に男たちの腹に収まっていた。  
初めて思い出したかのように、ヒルダはちょっと体を揺すって向き直る。  
だが、既に顔からは柔和な笑みは消えていた。  
「今日ご説明頂いた計画について、いくつかお願いがあります」  
「ほう」  
話が長くなりそうだと悟ったのか、ルカがヒルダに席を持ってきた。  
ごく自然にその椅子に座りつつ、ヒルダは厳かに言う。  
「――まず、新たな『陵堡』の建築資材の調達方法についてなのですが」  
「む……」  
そう言われた瞬間、マエストロはああそれか、とでも言うように小さく呻いた。  
「石材を領内から調達するのも、輸入して賄うのも難しい。それは分かっています。  
しかし……五指城を解体することだけは止めていただけないでしょうか?」  
「……それについてはご説明したはずですが」  
瞬間、ヒルダ以外は一斉に表情を曇らせた。  
 
フランチェスコの陵堡建築計画の障害のひとつが、「資材の不足」である。  
今のモンテヴェルデに他国から資材を購入する金はないし、領内で調達するにも限界がある。  
石工や職人を大量に雇う必要もあり、なんらかの経費削減が必要だった。  
フランチェスコはもちろんそれも計算した上で計画を立てていた。  
彼の言い出した経費削減策の一つが、「五指城の解体」であった。  
 
五指城はその名前の通り五つの塔を持つ。それが天を掴む指のように見えることからその名がついた。  
だが、フランチェスコに言わせればこれはもはや無用の長物だった。  
五指城自体がモンテヴェルデ市の北東の隅――陸側から見れば町の最奥部に建っている。  
そのため、市城壁が突破されるまで、五指城は防衛戦に何の役割を果たすことも出来ない。  
さらに、高くそびえる塔自体が現代戦では不要とフランチェスコは考えていた。  
高いだけでは大砲のいい的なのだ。  
クレーンなど無い時代ゆえ、大型の火器を設置することも出来ず、せいぜい見張りに使えるだけだ。  
それゆえ、解体して陵堡を建設する資材に流用する。  
そうすれば石材の購入費も節約できるし、遠くから運んでくる手間も省けるというわけだ。  
だが、この発言はモンテヴェルデ人の感情を著しく傷つけていた。  
なにしろ、五指城の塔は数百年に渡ってモンテヴェルデの象徴であり、彼らの誇りだったからだ。  
貴族だけでなく平民たちも、朝夕見上げる塔に信頼と栄光を感じてきた。  
それを無用と断じ解体するとなれば、反発は必死だ。  
 
フランチェスコは同じ説明をもう一度ヒルダの前でゆっくり繰り返した。  
それでも、ヒルダの表情が晴れることはない。  
「――どうしても、ですか」  
ヒルダが改めて問うても、彼の渋面は変わらない。  
「また日を改めて詳しくお話させて頂きますが、私が設計した陵堡なくして町の防衛は不可能でしょう。  
そのためにはあらゆるものを犠牲にしなくてはなりません。『あらゆるもの』を」  
「アルフレド殿下も同じお考え?」  
ヒルダの厳しい視線が、次はアルへと飛んだ。だがアルはゆるゆると頷くだけだ。  
 
小さくため息をつき、ヒルダは再びフランチェスコの顔を見上げる。  
「では――市民たちの立ち退きも、譲っては頂けないことなのでしょうね……?」  
「ええ」  
当然のようにフランチェスコは短く答えた。  
フランチェスコが考えた計画では、陵堡および市城壁の周囲は更地でなくてはならない。  
もし建物が残っていては、陵堡から砲撃するときの妨げになる。  
フランチェスコは平均的な大砲の射程範囲――城壁から約五百メートル――を更地に戻すよう求めていた。  
もしそれが実行されれば、城壁外に住む多くの市民が家を捨て、立ち退かねばならない。  
さらにそこには教会に付属する捨て子養育院や病人の隔離施設もあった。  
 
「統治は厳格で、時に冷酷でなくてはなりません。しかし庇護を必要とする者まで苦しめることは……」  
ヒルダはそっと目を伏せる。  
「しかし、この町がトルコに蹂躙されてしまえば、その弱き者たちが生きることも出来無くなります。  
彼らのために、この町全体を危機にさらしていいことにはならない。いや、出来ない」  
あくまでフランチェスコは譲らない。  
ヒルダは助けを求めるように周囲を見渡す。  
だがアルとルカは目を逸らし、コンスタンティノに至っては平然と見返すだけだ。  
再びフランチェスコの方に向き直るヒルダに、彼は冷たく言った。  
「私は、他ならぬ摂政殿下と評議会の名において、建築総監督の肩書きを預かっています。  
町の防衛計画については私に従って頂きます――例えそれが摂政ご自身であろうとも」  
そう言い切ると、フランチェスコは自分の机に戻り、再び羽根ペンを走らせ始めた。  
もはや彼の目にヒルダは映っていない。  
フランチェスコの横顔を見ながら、無言でヒルダは唇を噛み締めている。  
「……すっかり長居してしまいましたね、お休みなさい皆さん」  
そう言ってヒルダは立ち上がる。  
男たちが返礼をする前に、彼女はするりと扉をくぐり、廊下の闇の中に消えていた。  
 
 
4.  
「ヒルダ!」  
「アル……?」  
ヒルデガルトが自室に戻る途中で、アルフレドは彼女に追いついた。  
フランチェスコの宿坊をヒルダが出た直後、すぐに彼女を追ったのだ。  
窓から指す僅かな月明かりとランタンの灯りが、二人を闇に浮かび上がらせる。  
揺らめく灯明と月光に照らされたヒルダは、暗い森に住むニンフのようにも見えた。  
その白い影の前で、アルはいったん立ち止まり、軽く息を整えた。  
 
「ヒルダ……」  
顔を上げ、そう呟いてからアルは言葉を失った。  
言葉を発しようとするたび、何かが胸を締め付ける。  
そして不意に、モンテヴェルデに帰還を果たしてから初めてヒルダと二人きりなったことに気づいた。  
公子と摂政という立場で帰国と歓迎の挨拶を交わし、その後も何度も口を利いている。  
だが、ただのいとこ、幼馴染みとして言葉を交わすのは、これが初めてなのだということに。  
 
ヒルダは何も変わっていないように見える。  
その姿も気性も、アルが知っている彼女、放浪の空の下で何度も夢見た彼女のままだ。  
だが、果たして今この瞬間自分は何を言えばいいのか。  
アルにはそれが分からなかった。  
「――何か、用?」  
業を煮やしたヒルダが、少しきつめの声でそう言い放った。  
その率直さと飾り気の無さには、逆にアルの呪縛を解く効果があった。  
一つ歳上の従姉はやはり「あの」ヒルデガルトなのだ、と。  
「……少し、話をしようと思って」  
はにかみながらアルは答える。  
「そう」  
夜更けに、人気の絶えた闇の中で話をする。  
それが何も不思議ではないかのように、ヒルダはごく自然に窓際に腰掛けた。  
無言で自分の隣を少し空ける。アルも彼女に倣った。  
 
再び、沈黙。  
その膠着状態を破ったのは、またしてもヒルダだった。  
「アル――耳、怪我したのね」  
それは先ほどの冷たく言い放った言葉とは違って、不安におののく少女の響きを含んでいた。  
視線の先には、少し長めに伸ばした髪に隠れた、深い傷痕がある。  
「う、うん……」  
アルは、じっと自分の顔を見つめるヒルダにどぎまぎしながら何とか頷く。  
それを聞いたとたん、ヒルダの眉間に皺が寄った。  
そっと指を伸ばすと、自分と同じ金色のアルの髪を掻き分け、傷を曝す。  
赤黒く、ぐちゃりと潰れた耳の残骸が、月光の下に露になった。  
「……ひどい傷。何があったの?」  
「それは……」  
 
答えようとして、アルは何故か口ごもる。  
問われた瞬間、ラコニカの顔が脳裏に浮かび、消えた。  
ただそれだけだったが、何故かヒルダに真実を告げることが、ひどい裏切りのように思われた。  
「これ…………傭兵になってから、へまをやってね。処罰されたんだ」  
嘘をごまかすように、照れ笑いを浮かべるアル。  
「何しろ、ヒルダも知ってる通り、僕はたいした兵士じゃないからさ。要領も悪いし」  
乾いた笑いを漏らしながらヒルダの方を向き直る。  
だが、ヒルダはきつい視線でじっとアルを見つめていた。  
それは彼を非難しているようにも、不安げなようにも、あるいは涙を堪えているようにも見えた。  
その表情をどう解釈すればいいのか。アルは戸惑い、三たび口ごもる。  
「もう、傷は痛まないから。心配しなくっていい」  
あくまで自虐的に笑う。  
 
「あの人、そんなに怖い人なの?」  
「……誰のこと?」  
「あの傭兵隊長、コンスタンティノ・デ・ウルニ。彼は昔、モンテヴェルデの騎士だった男でしょう?」  
身を乗り出しながら、ヒルダは心配そうに尋ねた。  
顔をぐっとアルに近づけ、瞳を覗き込んでくる。  
それはまだ幼かった頃、アルが大人に虐げられるのを、なす術もなく見つめていた時の顔だった。  
「公国の貴族には、まだあなたを……敵視している人たちが多い。あの人もあるいは……」  
ヒルダの記憶も既に曖昧だったが、コンスタンティノも公国にいた頃はアルを蔑む一人だったはずだ。  
そして彼は公国を捨てた男。心のどこかで公国やアルを恨んでいるのかもしれない。  
ヒルダ自身はその疑いを捨てることが出来なかった。  
「コンスタンティノはそんな人間じゃないよ」  
「でも、でも……耳を削ぐような人を優しい人間とは言わないわ!」  
アルの言葉が理解できないのか、頭を振りながらヒルダは声を荒げた。  
その激しさにアルは少し戸惑う。だが耳を失ったのは自分のせいなのだ。  
ヒルダを落ち着かせようと、アルはその肩に手を置き、わずかに力を込めた。  
「傭兵が生きるってのはそういうことなんだ。しくじれば仲間の命や隊そのものを危険に曝す。  
狼の群れは弱った仲間を噛み殺すっていうだろう。それと同じさ。  
――それに僕は彼のおかげで少しは色々なものが見えてきたような気がする」  
「でも……!」  
 
ヒルダは激しくかぶりを振った。  
「でも、私はアルのことが心配なの……!」  
突然叫ぶヒルダに驚きつつ、アルはそれをなだめようとする。  
「大丈夫だよ。ルカもいてくれるし。コンスタンティノはそう悪い人でもない。  
マエストロ・フランチェスコだって信頼できるから……」  
「どうして!?」  
アルに最後まで言わせまいとするように、ヒルダはきつく睨む。  
その勢いに、アルは言葉を飲み込んだ。  
「なぜ、あんな外国人たちのことをそんなに簡単に信用できるの?  
ウルビーノ公もカラブリア公も、私たちの国をばらばらにするために、あの人たちを送り込んだのよ?  
マエストロだって、あんなひどい命令を出すのに躊躇すらしないなんて……!」  
「それは、必要だからだよ。ヒルダ」  
 
ヒルダははっとアルを見上げた。  
顔に驚きが広がり、目の前の少年をまじまじと見つめる。  
たくましく日焼けした顔、少し長くなった髪。そして、鋭い眼光を。  
気弱だが、優しかった少年の面影を探し、ヒルダは視線を彷徨わせる。  
だがそれは叶わなかった。  
「アル……あなたは……本気で?」  
アルは黙って首を縦に振った。  
後ずさるようにヒルダは立ち上がる。怒りに満ちた目でアルを見つめながら。  
「……分かったわ。じゃあ、アルはアルの信じるようにすればいい。  
この国をばらばらにして、土地も財産も……全部外国人に売り渡してしまえばいいじゃない」  
「ヒルダっ」  
ヒルダの体が震えた。アルは初めて言葉を荒げていた。  
アルがヒルダにそんな口を利くなど、二人が出会って初めて――つまり生まれて初めてのことだった。  
「僕が……僕が何のために帰って来たと思ってるんだ!」  
捕まえようと伸びるアルの手を、ヒルダは滑るように逃れた。  
間合いを取りながら、それでもアルの顔を睨むことは止めない。  
口をきつく引き結び、二人はほんの一瞬激しく視線をぶつけ合う。  
「私が――私が、あなたのした約束を知らないとでも思ってるの?」  
ヒルダが怒りに任せて獣のように吠えていた。  
「大公の位を継いで、ウルビーノやナポリの属国になるのがあなたの望みなんでしょうっ!?」  
 
ヒルダの叫びは短いこだまになって、消えた。  
アルは顔色一つ変えない。ただ強い怒りに満ちた目で、ヒルダを見ている。  
そこには一片の恐れもためらいも、悲しみすらなかった。  
がちゃり。  
アルの装具が音を立て、彼は無言でヒルダに背を向ける。  
どちらも、一言も声を立てない。ただ凍りついたように立ちすくんでいるだけだ。  
そのまま闇の中にアルが消えていくのを、ヒルダはただ見送るしかなかった。  
 
「ヒルデガルトさま」  
闇の中から声をかけられ、ヒルダは飛び上がった。  
慌てて振り向く。  
そこには、白く浮かび上がる男の顔があった。  
顔しか見えないのは、その男が灰色の長衣に身を包み、頭を半分フードに隠しているからだ。  
「ジロラモ……殿?」  
ヒルダに名を呼ばれ、フェラーラのジロラモは頭を下げる。  
一瞬彼の顔が宙にかき消えたように見えなくなった。  
「ジロラモ殿は、い、いつからそこに?」  
ヒルダは出来るだけ狼狽を悟られないよう尋ねた。  
もし、今の会話を聞かれていたとすれば、自分の立場がない。  
「いえ、先ほどまで礼拝堂で瞑想していたのです。  
寝室に戻るところだったのですが、思いがけなくヒルデガルトさまがおられたので――  
何か、あったのですか?」  
 
ヒルダは彼の顔をまじまじと見つめる。  
白蝋のような顔は常に表情に乏しい。だが、嘘をついている顔には見えなかった。  
「では……あなたは、先ほどのアルとの――」  
「アル? アルフレド殿下が何か?」  
「……いえ、何でもないのです。気にしないで下さい」  
いったい自分はどれほどの間、我を失っていたのだろう。  
アルの背中が見えなくなっても身動き一つ出来なかった。  
ただ彼が叩きつけるように残していった言葉だけが、何度も胸の中でこだましていた。  
とっさに言い返した台詞は、まるで他人が発したもののようにさえ思える。  
あのとき、アルは――  
 
「ヒルデガルトさま、実は」  
再び声をかけられ、ヒルダはまた自分が思索の森に迷い込んでいたことに気づく。  
小さく頭を振って、心を肉体に繋ぎとめるよう努力しなければならなかったほどだ。  
ジロラモに顔を向ける。相変わらずの無表情。  
「実は、お願いがございます。シエナのフランチェスコ殿を諌めていただけないでしょうか。  
城壁の外には信徒たちが大勢住んでおります。それに教会の慈悲にすがる病人や孤児たちも。  
彼らの住居を取り上げ、追い出すなど狂気の沙汰です」  
ヒルダはまた唇を咬んだ。  
たった今直談判におよび、すげなく断られてきたなどと言えようか。  
だが、言わざるを得ない。ごまかしたところでフランチェスコの考えを変えられなかったのは事実だ。  
ヒルダは手短にフランチェスコとの会話をジロラモに話した。  
 
「つまり大のために小を切り捨てる、というわけですね……」  
深いため息と、小さく頭を振るジロラモに、ヒルダは戸惑う。  
「仕方ないのです。フランチェスコ殿の言うことにも理は……あるのですから」  
「しかし、理だけで世の中は回りません。目の前で溺れている者は、なんとしても助けねば」  
ヒルダは摂政として、個人の感情を殺してでも自ら任命した男を庇わなければならない。  
だがジロラモはあくまで率直だった。  
「……ジロラモ殿、約束しましょう。貧者と病人、孤児たちには私からなんらかの保証をすると」  
例え自らの衣装や装飾品を売り払ってでも。  
それは口にしなかったが、ヒルダは密かに決意した。  
「……もったいのうございます、殿下」  
ジロラモは手で小さく十字を切り、神に感謝の言葉を囁いた。  
「殿下のような方こそ、まさに神意を体現した君主と申せましょう」  
ヒルダはきまりの悪さを憶えつつ、ジロラモの顔を伺う。  
だが、そこからはやはり何の感情も読み取れない。追従の気配すら感じさせなかった。  
 
「……では、お休みなさい。ジロラモ殿」  
そう言うと、ヒルダは背を向ける。  
二三歩進んだところで、ジロラモが不意に声を上げた。  
「殿下。僭越ながら、殿下は外国人の言葉に惑わされず、信じられた道を行くのがよろしいかと」  
思わずヒルダは立ち止まる。  
その声は預言者のように、全てを悟ったような冷徹さを含んでいた。  
「とくに、あの異端、ヘルメス主義を信じるフランチェスコのような男にはお気をつけを。  
情を切り捨て、神の愛に背く傲慢。人の有限なる知で神慮すら覆せるという傲慢。あれは……あれはっ」  
ふと言葉が途切れ、ジロラモは自らの熱気を抑えるように息を吐いた。  
「――いえ、言葉がすぎました。しかし私は不安なのです。  
フィレンツェやミラノなどでは、今や知識のみならず異端思想すら称揚されていると聞きます。  
虚栄と背信に満ちた他国の噂を聞くたび、私はいつしか神の裁きが下ると確信するのです。  
外国人のいいなりになっては、モンテヴェルデの美風はどうなってしまうのでしょうか。  
ですから、ですからどうか殿下だけは……」  
背筋が凍るような響きだった。  
もし外国人のいいなりになれば――考えを盗み見られたような錯覚に、ヒルダは身を震わせる。  
「ジロラモ殿、それは……」  
ヒルダは何か反論しようと振り返る。  
だが、そこにジロラモの姿はなく、ぽっかりと闇が漂っているだけだった。  
もはや物音一つしない暗闇の中で、ヒルダはいつまでも立ちすくんでいた。  
 
(続く)  
 

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