1.  
ここ数ヶ月、ルカは不満だった。  
仕事がたて込んでいるのは仕方ない。城の兵士だった頃からそれは変わりない。  
職人だった父親とて、病で死ぬまで一日たりと休むことは無かった。  
周りの人間たちが「アルフレドのお小姓」扱いするのも不満ではあるが、それも我慢できる。  
何しろ彼に従っていれば寝る場所と食事には困らない……いや、困らないどころではない。  
ここのところ、平民どもはまともな食事を摂ってないという話だ。  
人口が三千に満たない町に傭兵が大挙して押しかけ、彼らの食い分を奪ったからだ。  
加えて、戦に備えてパンや干し肉、ワインや酢が、大公の名において買い占められている。  
物価高は貧民層を直撃し、農地も菜園を持たない者は教会の施しに頼る有様だった。  
それに比べれば、自分はワインも飲めるし肉も食える。  
 
それは結構。  
だが、腹が満ちれば後はどうでもいい、というものではない。  
(まあ、つまりは女なんだよな)  
番いの犬に餌を与えると、それを平らげた後はすかさず交合に励む。  
ルカは「人間だけが理性の存在であり畜生とは異なる」などという教会の説教は信じていなかった。  
人間とて、いや人間だからこそ、人肌が恋しくてたまらない時があるものだ。  
だが、ルカはここしばらく女に触れていない。  
理由は二つあった。  
 
一つは町の雰囲気だ。  
モンテヴェルデの町にも、もちろん娼婦は大勢おり、酒場もあいまい宿もある。  
しかも今や女に飢えた傭兵が町に溢れているというのに、これらの商売は今ひとつ繁盛していない。  
戦を控えた貼り詰めた空気が、それを許さないというのもある。  
実際、酒を飲んで馬鹿騒ぎした傭兵が市民に散々殴られた挙句、裸で道に放置される事件もあった。  
戦慣れした人間なら大目に見るのだろうが、モンテヴェルデ人は「うぶ」過ぎた。  
傭兵など無駄飯喰らいなのだから、戦が始まるまで大人しくしておけ、と言いたいらしい。  
アルやコンスタンティノにとっても、飲酒や女買い程度で暴力沙汰が頻発するのは困る。  
おかげで娼館や酒場の集まる一帯は、夜ごと憲兵が巡回するようになってしまった。  
うるさがたに睨まれながらでは楽しめるものも楽しめない。  
しかも、憲兵や隊長たちよりうるさいのが「鞭打ち教団」だった。  
彼らが「聖戦を控えた町にふさわしくない」との理由だけで娼婦の多くを追放してしまったのだ。  
一部の信徒が酒場を襲撃し、そこにいた傭兵たちと乱闘になったことすらある。  
指導者であるフェラーラのジロラモは信徒たちに暴力を禁じていたが、過激な人間はどこにでもいる。  
酒を飲むのも命がけ……ルカが溜まった欲望を発散できないのは、そんな情勢のためであった。  
 
(いや、俺は飲みたきゃ飲むし、抱きたいときは抱く男だ)  
などとルカは思いなおす。  
とはいえ、彼の歳では手練の娼婦を御するどころではないし、ルカは酒より食い気の男なのだが。  
(とどのつまり、あの女の目がいけないんだ)  
と、ほぼ同い年の少女の顔を思い出す。  
(そうだ……あの小生意気な侍女のせいなんだ)  
 
城に仕えていた頃、ルカにとってステラは単なる貴族の一人に過ぎなかった。  
口を聞く機会があるわけもなく、せいぜい「あと数年経てばいい女になる」ぐらいにしか思っていなかった。  
ステラと個人的に知り合うようになったのは、ヒルデガルトの密使を依頼された時だ。  
その時から、彼女の明らかに見下した視線をルカは苦々しく思っていた。  
それでも密使の件を引き受けたのはアルへの義理立て、そして意地のせいだった。  
(気にくわねえ。全く気にくわねえ)  
彼女の目を思い出すたび、ルカはむかつきが込み上げて仕方がない。  
 
決定的な出来事は、アルフレドと共に帰国した後に起こった。  
アルにいつも付き従うルカ。ヒルダにいつも付き従うステラ。  
ある意味同じ立場だが、ステラの視線は帰国前よりさらに侮蔑的な物になっていた。  
ルカはよく知らなかったが、主人同士の行き違いが、ステラが自分を敵視する原因になっているようだ。  
さらに、アルフレドに尻尾を振って私利を貪っているとも思われているらしい。  
(だいたい俺はアルの子分になった覚えもないし、貴族に尻尾を振った覚えもないぞ)  
ずっと貴族相手の裏稼業をしてきたルカに、ステラ如きに軽蔑される理由はない。  
あの小娘が誇りに思っている血筋や家系など、一皮向けば泥棒や詐欺師にも劣るものではないか。  
そう確信するルカに、彼女から向けられる視線は屈辱だった。  
 
そして、ある日。  
ステラはルカに金貨を一枚放り投げ、こう言い放ったのだ。  
『姫さまからの褒美です。よくやりました』……と。  
どうせその金で酒を飲むか、女でも買うのでしょう? とでも言いたげな顔だった。  
 
だから、ルカは決意した。  
必ずあの小娘に、別の褒美を支払わせてやる。  
いみじくも密使役を引き受けた時に言ったように、「姫さまは無理だろうが、褒美は君でも構わない」のだ。  
力ずくでは意味が無い。  
あえて彼女に愛の言葉を囁き、自分を信頼させる。そして、愛し合っていると錯覚させてやる。  
そして、彼女の心を奪った後、捨ててやるのだ。  
とにかくステラに一杯食わせてやりたい。  
それまでは、商売女を抱くつもりはなかった。  
あの軽蔑の視線を思い出すと、とてもそんな気にはなれないから。  
 
――と、意気込んだはいいが、実際はさっぱりうまくいっていなかった。  
ルカがどれだけ親しげにステラに声をかけても、彼女は一向乗ってこないのだ。  
打ち解けた様子を見せてみても駄目。  
おどけた振りをしても駄目。  
優しく愛を囁いても、愛に飢えた下僕の演技をしても、さっぱり駄目だった。  
(……あんな世間知らず一人騙せないなんて)  
くやしさのあまり、寝つけない日があるほどだ。  
あんな小娘より遥かに世間を知っており、世慣れている自分が……。  
そう思うと、ルカは思わず歯噛みしてしまう。  
彼の不満は、結局のところ「世間知らずのステラ」にすら相手にされていない自分に向けられていた。  
 
そんな感情を持て余したのか、ルカは息苦しさと共に寝台から跳ね起きた。  
すでに夜。  
ルカも仕事を終え、自室で休んでいる。  
だが、ステラのことを考えていては、眠れそうもない。  
(全く、俺が寝ることすら邪魔しようってのか、あの女は……)  
寝台を離れると、部屋の中を少し歩き回る。  
仕事中ついうっかりステラの「攻め手」を考えていて、アルやコンスタンティノに注意されることもあった。  
(迷惑だ。本当に迷惑だ)  
そう思いつつも、ステラのことを考える時間は妙に気分が高揚するのも事実だった。  
だから失敗や寝不足も自業自得なのだが、ルカはそれには思い至らない。  
 
と、そのとき、ルカの部屋の扉を叩く音がした。  
「誰だ」  
鋭く問う。  
同時に、部屋の隅に立てかけてある剣に手を伸ばした。  
ルカにとって、五指城が危険な場所であるのは今も変わりない。  
ジャンカルロあたりは、ルカを亡き者にしたいだけの理由を十分持っている。  
「……怪しい者ではありません」  
その答えに、ルカは音も無く剣を抜き放った。そう言って怪しくなかった者など、いない。  
 
「こんな夜更けに訪ねて来るのは、夜這いか刺客か悪魔だ。お前は夜這いではなさそうだな」  
あえてはっきり指摘してやる。すると、扉の向こうでうろたえる気配がした。  
「……いえ、あなたに害をなすつもりはありません。あるご婦人の使いを仰せつかった者で」  
「誰だ、それは」  
「名前は申せませんが、あなた様が愛を捧げる方に近しい方。あなたが以前仕えていた方です」  
「ヒルデガルトさまか?」  
答えはなかった。だが、ルカには無言の肯定があったような気がした。  
剣を構えたまま、ルカはそっと扉を開ける。  
影から、蝋燭の灯りが差し込んだ。それを掲げた男に、ルカは見覚えがある。  
確かに、ヒルダの下僕の一人だった。ルカ自身かつて何度か口を聞いたこともある。  
 
「侍女の一人に関して内密なお話があるとかで、どうしてもルカ殿に来ていただきたく」  
「……ふうん」  
ルカはさっと思考を巡らす。  
ここ最近、露骨にステラにちょっかいをかけている。  
アルには「ヒルダも嫌がっているから、ほどほどにしてくれよ」と言われていた。  
ヒルデガルト自身、ルカに釘を刺そうというのかもしれない。もちろん罠の可能性もある。  
「…………よし、行こう」  
だが、あえてルカは従うことにした。  
顔見知りが現れて安堵したせいもあるが、ステラとの関係に何か変化を期待するところもあったからだ。  
振る舞いだけとれば、それは恋に身を焦がす男と同じだったのだが。  
 
下僕を先に立たせて、ルカは夜の城内を行く。  
もちろん剣を手放してはいない。  
人気のない部屋を抜け、階段を上がる間も、下僕は口一つ聞かなかった。  
案内されながら、ルカは自分がヒルダの私室の方に向かっているのに気づいてた。  
やがて、小さな部屋の前に着いた。  
確か、ヒルダの私室と隣り合う衣裳部屋。普段男は近寄ることすら出来ない部屋だ。  
ルカは安堵した。この部屋の鍵を持つのはヒルダ本人と、ステラだけ。  
ジャンカルロといえど、ヒルダのお膝元に罠を仕掛けるのは不可能に近い。  
 
下男は黙って扉を開けた。  
部屋の中も外と同じく薄暗い。だが、僅かな灯りが部屋の中に一つの人影を浮かび上がらせていた。  
「……ステラ?」  
それは、あの少女だった。部屋の中央で、ルカに無言で微笑んでいる。  
彼女の格好に気づき、ルカは思わず赤面した。  
それは貴族しか身につけられない、薄い夜着だった。  
月光に、少女の凹凸の少ないなだらかな肉体が露になる。  
「どうしたんだ、こんなところで――」  
その瞬間、ルカは完全に警戒心を解いていた。  
だから扉の影に別の人影が潜んでいることなど、予想すら出来なかった。  
 
後頭部に鈍い打撃。思わず膝をつく。  
だが、父親譲りの石頭は、この程度で倒れることを拒否した。  
「ス、テラ……」  
頭を振りながら、目をステラに向ける。  
もう、彼女は笑ってはいなかった。泣き出しそうな顔で、ルカを見下ろしている。  
それはルカに、というより、別の何かに赦しを請うているようだった。  
「どういう――」  
ルカが言い終わる前に、ステラの視線が動いた。  
「待って! もうそれ以上、彼を傷つけないで!」  
ルカの背後にいる誰かに向かってそう叫ぶ。  
次の瞬間、ルカはさらに重い一撃を喰らって意識を失った。  
 
 
2.  
モンテヴェルデの町が活気に満ちているのとは対照的に、ニーナの朝は憂鬱に始まった。  
がらんとした寝室で目覚め、腹ごしらえに昨日の粥の残りをすする。  
それから宿舎の中庭で井戸から水を汲み、身づくろいを済ませるのだ。  
体の重さがとれない。だがぐずぐずしている余裕はない。  
気力を奮い起こして外に出る。  
とたんにむっとする熱気と人の喧騒に包まれ、ニーナはうんざりといった顔をした。  
宿舎の前に繋いであるロバに跨り、城壁の方に向かう。  
 
七月の太陽は、すでに高いところにある。寝坊してしまったようだ。  
――私も年だろうか。  
ロバの背に揺られながら、ニーナはそんなことを思う。  
不意に懐のものが気になり、まさぐる。手垢と汗で黒ずんだ銀貨が一枚。  
昨日自分を買った男は若く、乱暴だった。  
もう十年もこの仕事をしていれば、男に抱かれる嫌悪感は無い。  
乾いた肉体に荒々しく突き入れられようが、自動人形のように艶めいた演技を見せられる。  
若い頃は朝を迎えるたび、吐き気のような嫌悪感に苛まれたものだが、それも薄れた。  
今では逆に肉体が耐えられない。  
事実、鞍に擦れる股ぐらがひりひりと痛む。身体も鉛のように重い。  
――昨日の精を掻き出すより、傷の手当てを先にすべきだった。  
ニーナは今更のように悔やんだ。  
 
(そろそろ、潮時なのかも)  
自分が娼婦としては相当いい年であることをニーナは自覚していた。  
本来なら、やりて婆として若い娼婦たちをひっぱたきながら生きるか……  
運が良ければ適当な傭兵とくっついて、妻とは名ばかりの雑役婦をやっているところだろう。  
誰の種とも分からぬ子が三、四人いたかもしれない。  
だが、そんな機会は結局無かった。  
 
最初に子を身ごもったのは十三の時だった。  
その事実に耐えられなかった自分は、ロマの魔女にもらった薬をためらいもなく飲んだ。  
一度壁を乗り越えてしまえば、後は惰性だった。  
昔は自然と湧いた懺悔の言葉も、今は思い出せない。  
もしコンスタンティノに拾われなければ、どうなっていたのだろう。  
ふとそんなことを思い、身が冷えるのを感じる。  
彼は読み書きや帳簿のつけ方、傭兵たちの御し方を仕込んでくれた。  
何故? きっと理由などない。彼にとってニーナは……いや人生全部が戯れなのだ。  
(でも、そのおかげで私は大きな顔をして生きていける)  
コンスタンティノは嫌な男だ。冷酷で、皮肉屋で、陰険だ。  
ニーナは殴られたことは無かったが、彼が他の娼婦を時折殴るのを知っている。  
敵の矢玉が降り注ぐ中で塹壕を掘れ、と女たちに命じたことすらある。  
親友がその時目を射抜かれて死んだ。死体は兵士の弾除けにされた。  
あの日が、声を出して泣いた最後だった。  
 
おそらく戯れに拾われたニーナだが、今ではコンスタンティノにも欠かせない半身になっている。  
今も、『狂暴騎士団』本隊はニーナが仕切っている。  
ニーナに戦闘の指揮は出来ないが、傭兵たちを食わせ寝床をあてがうことなら慣れたものだ。  
コンスタンティノ自身は各地に分散配置された『騎士団』の指揮を採るため、町から町へ飛び回っている。  
何しろ、隊長の目がなくなれば傭兵など盗賊や無頼漢と変わらないのだ。  
 
モンテヴェルデの大通りはすでに人で一杯だった。  
アルフレドの帰還から一ヶ月以上。町はすでに来るべき戦争に備え、静かな緊張に包まれている。  
町を行き交う人の顔もどこか不安げで、誰もが小走りだ。  
やるべきことは多い。城壁の防御工事に民兵の訓練。そんな中でも日常の仕事は休めない。  
通りを行くニーナの耳に、金属同士が打ち合う甲高い音が響く。  
鍛冶屋が真っ赤に熱した鉄の板を、徒弟と共に鍛えあげているところだった。  
おそらく剣か、胴鎧の部品になるのだろう。  
アルフレドは大量の武器生産、さらに食糧や物資の貯蔵を命じている。  
そのおかげで鍛冶屋、パン屋、ワイン醸造者だけは、他のあらゆる責務を免じられていた。  
額に浮かぶ汗も拭わず、鍛冶屋は黙々と槌を振るう。  
その手が生み出すものに、町の命運がかかっていると言っても過言ではなかった。  
 
喧騒に包まれた町を抜け、普段なら静かな町外れに到着する。  
だが今は、そこも町を出入りする無数の人でごった返していた。  
人々は押し合うようにして城門を通り抜けていく。  
人の頭の波に浮かんだ船のように、ニーナはロバに跨ったまま城門を抜け町の外に出た。  
 
「どうだい、様子は」  
門を出てすぐが、工事現場だった。  
ニーナはロバを繋ぐと、数人の石工親方と話し込んでいるフランチェスコに声をかけた。  
小太りなマエストロは、ニーナの方に振り返りざま、挨拶抜きで答える。  
「問題はない」  
そしてにやりと皮肉な笑みを浮かべ、  
「『問題がある』ということが常態なんだから、問題があるってことは問題がないというわけだ」  
片目をつぶって見せた。  
「つまり、いつもの如く問題山積ってことだね」  
常に陽気なフランチェスコとは違い、ニーナは苦労人だ。  
ただ、自分の下にいる人間に弱音を漏らさないだけの分別はある。  
 
「誤解して欲しくないが、あんたのところの傭兵はよく働いてくれてるよ。何しろ体が丈夫だから」  
慰めるようにフランチェスコが言った。傭兵隊も城壁工事には協力させられている。  
「堀の方も計画の三分の一は出来上がった。町の人だけじゃこうも早くは出来なかっただろう」  
「『たった』三分の一だけどね」  
ニーナの皮肉を、フランチェスコは礼儀正しく聞き逃した。  
フランチェスコは城壁の外に堀を掘るようアルフレドに進言し、受け入れられていた。  
堀と言っても、深さは大人の背丈程度、幅も十メートルほどの急ごしらえのものだ。  
フランチェスコの理想とする半分に満たない規模だったが、時間と労力を考えると妥協せざるを得ない。  
 
「ただ、牛馬が問題だ。軍馬に秣や餌を取られて、どいつもこいつも痩せ細ってる。  
毎日十頭ずつ潰れていくんだ、このままじゃ来月には石材を人が背負って運ぶことに……」  
石材については、フランチェスコが五指城の解体を強行したために不足は無かった。  
レンガや木材も不足気味だが、細々と供給は続いていた。  
だが、運ぶ手段がなくなれば、工事の進み具合に大きな影響が出る。  
ただでさえ軍馬は農耕馬などにくらべ、いい餌を大量に消費する傾向にあった。  
それが、『狂暴騎士団』だけで五百頭近くいるのだ。  
「出来るなら、軍馬を工事現場に貸してもらえると……」  
「戦の前に、騎兵の足を潰そうってのかい」  
フランチェスコを遮るようにニーナは答える。  
篭城戦であっても騎兵の仕事は多い。予備隊として、あるいは城外へ打って出るためにも。  
コンスタンティノからは、傭兵隊に出来るだけ戦争以外のことはさせないよう、釘を刺されていた。  
 
「だが、このままじゃ陵堡の完成は覚束ない。せめて一日おきでもいいから……」  
「コンスタンティノには伝えておくよ」  
すがるようなフランチェスコに、ニーナは冷淡だった。  
残念ながら自分の一存で決められることではない。コンスタンティノの決済が必要だ。  
ならば、なまじ期待させない方が彼のためだった。  
無言の抗議を背に受けながらニーナは再びロバに跨る。  
振り返ると、黒々とした石塊――陵堡――が圧倒的な質量をもってそびえ立っている。  
とはいえ、それはまだ半分も石積みが終わっておらず、完成した姿を想像するのは難しかった。  
その向こうには、丘の上に建つ五指城が見える。  
だが、石材を流用するため塔を解体された姿は、無残な廃墟のようだ。  
「なんて醜くいんだろう……この風景は」  
ニーナは軽くロバの腹を蹴った。  
 
町の広場についたとき、ロバが不満げないななきを上げた。  
ニーナは鞍を降りると、手綱を引いて井戸へと連れて行く。  
ちょうど自分も喉が渇いたところだった。ロバもそうなのだろう。七月の太陽はそれほど強い。  
「またパンが値上がりだってよ」  
「本当かね?」  
ニーナの耳に、不意にそんな言葉が飛び込んできた。  
井戸の釣瓶を引きながら声のした方に目を向ける。二人の女性が洗濯していた。  
「ぶどう酒も、オリーブ油も、酢も、何もかもじゃないか」  
「仕方ないよ、戦だからね」  
「と言ったって、戦が始まる前にこっちが干上がっちまう。  
旦那も息子も、やれ工事だ、訓練だと日も置かず駆り出されてるのにさ。  
腹ペコで帰ってくる家族に満足にパンも食べさせられないなんて!」  
一方の主婦は、腹立ちを紛らわせるように洗濯物を桶に叩き込む。  
もう一人は諦めたように、黙々とシャツを擦っては汚れの落ち具合を確かめていた。  
「あんな坊やまで兵隊にとられるなんてね。そんな法を最初に作った奴、引っ叩いてやりたいよ」  
 
「それもこれも、あの傭兵と外国人どものせいだよ。  
これじゃあいつらに町を乗っ取られたようなもんじゃないか。トルコ人と何が違うってんだ!」  
「めったなことを言うんじゃないよ。城の兵士にでも聞かれたら……」  
声を荒げた主婦は、慌てて辺りを見渡し、首をすくめて見せた。  
「トルコ人はキリスト教徒を捕まえると、子の目の前で親を斬り殺すっていう話だ。  
それでもって、親無しになった子供に異教を教え込み、奴隷にしちまうんだってさ」  
「イヤだイヤだ。勝っても負けても碌なことはなさそうだね」  
「……大丈夫さ」  
洗濯物に八つ当たりする友人に向かって、もう一人の主婦は呟く。  
「Senzorecchio(片耳)将軍がいらっしゃるからね。あの方はきっと神の遣わされた方さ」  
その言葉にわずかに力がこもるのを、ニーナは聞き逃さなかった。  
『片耳将軍』とはアルフレドのことである。彼の容貌を見た庶民たちのつけたあだ名だ。  
それは一部の人々には英雄の代名詞だった。少なくとも女の一方はそう感じているようだ。  
だが、もう一人はちょっと鼻を鳴らしただけで、すぐ自分の仕事に戻った。  
 
「ヒルデガルトさまもいらっしゃるし、大公陛下も最近お体の調子がおよろしいそうだし。  
……きっと何もかもうまく行くよ」  
そう呟きながら傍らの友人をちらりと伺う。だが、彼女はそんな話に興味はないようだった。  
「聞いたかい? 今度それぞれの町内からプリオーレ(行政官)を集めて、平民会を開くんだって」  
「ふーん」  
「主人が言うには、これも『片耳』さまの取り計らいなんだそうだよ。  
私らの意見も聞いて頂けるらしい、税や労役のことについて。古い法にはそう定めてあったんだって。  
なんでも百年ぶりに開かれるとか」  
熱を込めて語る主婦に、もう一人はちらりと冷たい視線を向ける。  
 
アルは市民の不満をおさえ、戦争に積極的に協力させるため、平民会を招集したのだ。  
古法によれば、それは大公―大評議会に連なる、平民たちの意思を代表する組織である。  
だが、それも忘れられて久しい。もはや前回の平民会を知る者もいなかった。  
「……私にゃ、あの『片耳』さまこそ、災いの種に思えるけれどね」  
「そんなあんた――」  
熱っぽく喋っていた女の言葉が、絶句する。  
「大体、戦は貴族の仕事だろう。だから私らだって黙って税を納めてるんだ。  
それがいまさら平民会だ、代表だ、なんて目くらましもいいところさ。  
それに、傭兵や外国人を連れてきたのは、あの人じゃないか。  
ナポリ人や傭兵隊長を取り巻きにして、大公陛下や姫さまをないがしろにしてるって――」  
「しっ、口が過ぎるよ!」  
注意を促す声に、ニーナもはっと我に帰る。  
密告屋呼ばわりされたくなければ、もう立ち去るべきだった。  
 
ロバが十分水を飲んだのを確かめ、ニーナはその場を離れた。  
広場を民兵の一隊が行進していく。これから町外れで訓練なのだろう。  
その肩に乗っているのは、手入れのされていない石弓や、錆びのついた槍。  
不恰好な鎖帷子や、頭に合っていない兜を被った兵士は、皆老人か子供だった。  
誰もが青白い顔のまま、黙々と歩いている。  
それとすれ違うように、真っ黒な長衣を着た男に率いられた一団が通る。  
『鞭打ち教団』だった。  
背中が露になった服を着て、自ら鞭打ちながら歩いていく。  
鞭が肉を裂く音だけが、町の騒音を圧していた。  
信徒は、老若男女を問わず、とめどなく涙を流している。  
そしてひたすら『悔い改めよ』とだけ繰り返す。  
 
行列の後ろを、手を縄で縛られた娼婦たちが引き立てられていく。  
髪は剃られ、衣服は剥ぎ取られていた。信徒が見せしめとして「罰」を与えたのだ。  
それでも彼女たちは涙も浮かべない。ただ家畜のように黙々と歩いている。  
彼らとすれ違う時、皆一様に仕事の手を止めて行列を見送った。  
黙示録の一場面を見る目で。  
 
「神さま」  
ニーナは知らず知らず呟いていた。  
「これが、あんたの与えた試練ってわけだ。飢え、貧困、戦争。これが私らに与えた……」  
あの日、ニーナの親友も試練のために死んだのだろうか。教会は「然り」と答えるだろう。  
「試練なら耐えてやるよ。あんたなんかに負けやしない。だが、もし悪戯なら」  
天を見上げ、吐き捨てるように言う。  
「悪魔にかけて、呪ってやる」  
 
 
3.  
五指城の控えの間。  
別名「地理学の間」とも呼ばれ、モンテヴェルデの各地方を描いた地図が掲げられている。  
大広間からは数室を隔てた所にあるため、自然と謁見や会議を控えた人士が集まる。  
それゆえここは、無数の密談、裏切り、暗殺が繰り広げられた歴史を持つ。  
「モンテヴェルデの歴史は『地理学』によって築かれた」と囁かれるほどだ。  
 
百数十年ぶりの平民会を前に、アルフレドは「地理学の間」で定例の報告を聞いている。  
彼の周囲では数人の小姓が、せわしなく働いていた。  
だが、ルカの姿はない。  
「……さて。それで何か新しいことが?」  
たった今手にはまった薄い手袋の具合を確かめつつ、アルは背後に振り返る。  
そこには同じく礼装に身を包んだコンスタンティノとディオメデウスが並んでいた。  
取り巻きが多いのは貴族の定めだが、アルはそれがない。  
有象無象が彼に取り入ろうとしきりに工作していたが、全て撥ねつけていた。  
コンスタンティノかディオメデウス、そしてマエストロ・フランチェスコとルカ程度だ。  
今日はそのうち二人が欠けている。フランチェスコは相変わらず工事に没頭しているからだ。  
 
まず口を開いたのはディオメデウスだった。  
「本国からの知らせがあり、我々が危惧していた通り、トルコがロードス島に侵攻しました」  
腰に手を当てつつ、淡々と事実だけを述べる。一瞬、残りの二人の顔に緊張が走る。  
だが、すぐに一抹の安堵がその場を支配した。  
「幸いというべきか、ロードス島は水に乏しく、悪疫が蔓延る地。トルコ人もそうとう難儀をしているようです。  
しかし聖ヨハネ騎士団六百に対し、トルコ軍は約十万――もって一ヶ月かと」  
「つまり、少なくともあと一ヶ月は猶予があるということだね」  
アルが安堵の表情を浮かべたのは、それが理由だった。  
「いかにトルコが大国といえど、十万の軍をエーゲ海に送りつつ他所を攻める余裕はないでしょうな。  
アドリア海ではトルコ船の活動が活発になっていますが、我らへの牽制と見るべきでしょう」  
ディオメデウスの予想はいかにも妥当と思われた。  
食糧、武器、衣服、水、飼い葉、それを運ぶ船。十万人の遠征軍を養うのは大事業だ。  
その労力を考えれば、今ただちにトルコがモンテヴェルデに侵攻してくる可能性は低い。  
 
「だが、ヴァローナの造船所は日に夜をついで艦隊の修理に勤しんでいると聞くが?」  
コンスタンティノの言葉に、ディオメデウスはむっとした視線を返す。  
「それがただちにイタリア侵攻の予兆とは言えまい。ロードスで船腹が足りないのかも知れぬ。  
事実、ラグーザ共和国の大使は何も言ってこん」  
ラグーザはバルカン半島にあるキリスト教国だが、トルコとは中立を維持している。  
キリスト教世界とトルコの事実上唯一の窓口でもあった。  
「……スルタンの頭の中は誰にも分からない。とにかく聖ヨハネ騎士団の善戦を期待しよう。  
彼らが長く抵抗すればするほど――僕たちは防備を固める時間が増える」  
残酷ではあったが、それが一国を預かる者として当然の結論だった。  
同じキリスト教徒としてロードス島の運命は気になるが、モンテヴェルデに出来ることは何もない。  
ならば、一刻でも長く時間を稼いで欲しいと願うのが自然な気持ちの流れだった。  
「ありがとう、ディオメデウス。今後もロードス島の情勢には注意が必要だな……  
とにかくナポリ本国との連絡は絶やさないようにしてくれ。ありがとう」  
アルの口調から、退出を求めていることを察したディオメデウスは、軽く頭を下げて部屋を出て行った。  
 
「……ねえ、彼は本当のことを言っているのかな、コンスタンティノ?」  
扉が閉まり、たっぷり十数えてから、アルフレドは呟いた。  
その顔は気負った公子のそれから、不安げな騎士見習いの顔に戻っている。  
「お前が『スルタンの頭の中は誰にもわからない』と言ったんだろう。俺も知らんよ」  
「いや、そうじゃなくって……彼が何か隠していることはないか、と……」  
ふん、と鼻を鳴らし、コンスタンティノはアルに近づく。  
「一つ忘れちゃならんのは、ディオメデウスの仕事はこの国を守ることじゃないってことだ。  
だから、当然隠してることはあるかもしれんし、無いかもしれん。それに――」  
「それに、あなたも。コンスタンティノ、あなたもこの国を守るためにいるんじゃない」  
アルの目には皮肉めいたものが浮かび、コンスタンティノを喜ばせた。  
 
「ディオメデウスはナポリの、俺は金のために働いている。だが一つだけ一致している。それは」  
「それは、この国がトルコ人の手に落ちたら自分の取り分がなくなる、ってこと」  
「よく分かってるじゃないか、坊や。さすがに俺がこの国を愛しているなどとは思わなくなったか」  
正しい答えを導き出した生徒を褒める教師の如く、コンスタンティノは笑う。  
だが、彼の余裕もそこまでだった。  
アルは冷酷な判事を思わせる口調で続けた。  
「調べさせてもらったからね。あなたの家のこと、デ・ウルニ家とあなたのお父上のこと。  
ずっと気になっていたから。この国に帰るのが『復讐だ』って言った意味を」  
急に、コンスタンティノの視線に敵意がこもった。やり取りを聞いていた小姓の一人が慌てて目をそらす。  
 
「お前……俺を牢屋にでもぶち込む気か?」  
アルは首を振る。  
「あなたの意図を知りたかっただけ。それに、あなたは何も語らないから……」  
「失礼します」  
部屋の外にいた衛兵の声に、二人の会話は遮られた。  
「用意が整いました。アルフレド殿下、大広間においでください」  
「――分かった」  
挨拶代わりの一瞥をコンスタンティノに投げ、アルは身を翻した。  
 
「――殿下」  
大広間に向かう途中、アルフレドに寄り添うよう影があった。  
アルは思いがけない人間の登場に少し驚くが、腰の剣に手をかけるほどではなかった。  
それは、ジャンカルロだった。  
「少し、よろしいかな」  
その顔から好意は伺えなかったが、敵意もない。  
これまでも、アルに声をかけ取り入ろうとする貴族は大勢いた。  
皆等しくへつらいと隠しきれない蔑みを見せるのとは対照的に、ジャンカルロは全く中庸だった。  
 
「いつも、外国の方を周りに連れておいでなので、なかなか腹を割った話が出来ませんな」  
アルが黙っていると、ジャンカルロは勝手に話を切り出した。  
どちらともなく歩みを緩める。大広間の一つ手前の部屋で、二人は立ち止まった。  
小さな窓しかない部屋は薄暗く、それだけで密談には相応しい雰囲気だった。  
「――まずは、無事なご帰国をお喜び申し上げます」  
白々しい一言に、アルの視線が鋭さを増す。慌ててジャンカルロは言葉を続けた。  
「もちろん、過去の我々の遺恨を忘れているわけではありません。  
ありませんが――だが、今は忘れたふりをしませんか、殿下」  
あくまでジャンカルロは冷静だった。  
「トルコに侵略されてしまえば、元も子もない。そうでしょう?  
あなたはあなたの取り分を失うし、私は私の取り分が……」  
そこで、ジャンカルロは初めて笑みを浮かべた。口の端を吊り上げる邪悪なそれを。  
アルは不愉快げな一瞥で応えた。  
 
「ヒルデガルト殿下は聡明だが、少し理想主義的過ぎる。  
外国人はお嫌いなようだし、マエストロ・フランチェスコのようなヘルメス主義者も、ね。  
だが、その者の生まれより才能を重視するべきでしょう。特に危難の時にあっては。  
いや、都市共和国では既にそんな風潮があると聞きます。いつしかそういう時代も来るのかもしれません。  
貴族の血ではなく、平民の選挙と合議で何事も決定されるような時代が」  
「……それで、つまり閣下の仰りたいことは何なのです」  
ジャンカルロの長広舌を、アルはため息と共に遮った。  
それを聞いて、ジャンカルロは大げさに目を見開いて見せた。  
「気分を害されたならお許し願いたい。  
ただ私は殿下のなさることに反対ではない、と言っているのです。今回の平民会の招集も。  
――ヒルデガルト殿下や、大公陛下は反対なようですが」  
最後の言葉をジャンカルロは声をひそめて、早口で付け足した。  
 
顔が近づく。ジャンカルロの顔に濃い陰影が刻まれた。  
「殿下がお望みなら、諸侯のとりまとめを私にさせて頂きたい。  
大評議会の大半は、失礼ながらまだ殿下の力を理解していないようだから」  
眼窩の奥で、ジャンカルロの目が僅かに光った。  
 
「お二人とも、何のお話かしら?」  
不意の声に、アルとジャンカルロは同時に振り向いた。  
礼装を身に纏ったヒルダが、ステラと侍女たちを連れている。  
訝しげな視線を、二人に平等に投げかけながら、間に割って入ってくる。  
「遅れると、平民たちが痺れを切らしますわ」  
同意を求めるように、ヒルダは少し首を傾げた。  
その言葉に、男二人も黙って従う。  
 
「殿下」  
ヒルダの背後に並びながら、ジャンカルロは囁く。  
「先ほどのお話、ご検討を。お早い返事を待っておりますぞ」  
大広間への扉が開かれると同時に、喇叭が吹き鳴らされた。  
アルはジャンカルロを見ようともせず、無言で頷く。  
平民会の一同が、摂政と太子を迎えようと一斉に立ち上がる音がした。  
 
 
4.  
頭上には数羽のカモメ。耳には心地よいアドリア海の波音。  
ふと気づけば、アルフレドはこんな所に迷い込んでいた。  
 
一人になりたくて選んだ場所は、大昔に放棄された城の船着き場だった。  
五指城の隠し通路の中でも最も古い、城から直接海へと逃れるためのトンネル。  
今では半ば封印されたそれをくぐり、断崖絶壁に直接刻んだ階段を降りていく。  
すると城の建つ崖の足元に隠された船着き場へと出られる。  
万が一落城の際には、城主やその家族がここから逃げのびるために作られた場所。  
戦もなく、北の入り江に大型船用の桟橋が整備された今では、全く忘れ去られた場所だ。  
アルはそこでただ一人、岩に腰掛け、波に素足を洗っている。  
遥か頭上にある城の喧騒も、ここまでは届かない。  
ただぼんやりと海と空が描く青を見ながら、彼は今日の会議を思い出している。  
 
百数十年ぶりの平民会にかけるアルの意気込みは大きかった。  
平民の不満は積もりに積もっている。重税、労役、傭兵の横暴。  
だがトレミティの惨劇も、二ヶ月前トルコ海軍に襲われた恐怖も薄れた。  
そして、トルコがロードス島に侵攻したという話は、「もう彼らは来ないのではないか」という憶測を呼んでいた。  
ならば、何故苦しい思いをしてまで傭兵を雇い、城壁を改修しなくてはならないのか?  
そういう感情を払拭し、祖国防衛のため一致団結を促すこと。  
それがアルが平民会開催にあたり、密かに目論んだことだった。  
 
そのため、わざわざ大公マッシミリアーノの臨席までお膳立てしたほどだった。  
彼はいまだ口も聞けず、体を自ら起こすことも出来ないが、一時よりは回復していた。  
もちろん、アルは帰国後まだ一度も話をしたことはない。  
だが、久しく見なかった君主の姿があれば、皆から妥協を引き出せるのではないかと期待したのだ。  
 
しかし会議は失敗だった。  
平民会代表は表向き、「町の防衛には命も惜しまない」と答えた。  
モンテヴェルデは周壁の中と外にそれぞれ四つの街区を持つが、全ての代表がそう口を揃えたのだ。  
けれども、平民会は完全に混乱のまま幕を閉じた。  
平民たちは己の苦境を声高に叫び、それを何とか他の人間に押し付けようと必死だった。  
曰く、他の街区より余計に働かされている、曰く、某氏は払うべき税を納めず、不公平だ……と。  
貴族はそれを冷笑的に眺め、平民同士争うのをまるで闘犬か何かのように楽しんでいた。  
アルが裁定しようとしても、誰もが言を左右し、具体的な協力は何一つ取り付けられなかった。  
ヒルダはすました顔で、アルの悪戦苦闘を眺めていた。  
協力したのはジャンカルロとその子飼いのニコラ卿だけ、という有様だった。  
 
彼が何より落胆したのは、平民たちに目先の利益以上の何の考えも無いということだった。  
自らの負担を減らすための前向きな提案は無く、ただ「自分はしない、誰かにさせろ」と言うだけなのだ。  
もちろんその誰かとは「貴族」であることは口ぶりから明らかだった。  
だが、もはや現状では貴族だけでモンテヴェルデを守れない。  
一例を挙げれば、民兵抜きで市城壁の銃眼全てを守ることすら出来ないのだ。  
市民の協力無しでは、兵は足りず、武器も足りず、工事の完成も危うい。  
だが――その程度の未来を想像することすら、平民会の代表たちは出来ないようだった。  
 
それは百年の平和が生んだ遺産なのか。  
それとも、所詮「平民は羊、貴族は番犬、そして教会は牧人」で、羊に戦えというのが無茶なのか。  
 
「……僕が、甘いのかな」  
平民会が閉会し、代表団が去ったあとの空気はいたたまれないものだった。  
コンスタンティノの冷笑には慣れていた。  
ディオメデウスが「馬鹿な領民たちだ」とでも言いたげに笑っても、我慢できた。  
ジャンカルロが呆れたように首をすくめたとしても、仕方の無いことだ。  
いや、ヒルダが何の言葉もかけず、さっさと退室したことすら、アルを傷つけることはなかった。  
だが、あの時。  
マッシミリアーノが笑ったのだ。  
口を聞く気力すらなく、会議の間ただ人形のように座っていた彼が。  
満座が驚愕する中、彼は腹の底から笑い続けた。一瞬、発狂したかと思うほどの激しさで。  
――つまらない茶番だった、そしてアル、お前はその茶番の道化なのだ――  
マッシミリアーノの大笑は、アルにははっきりとそう言っているように聞こえた。  
 
「大公は大公、騎士は騎士、私生児は私生児……私生児で、騎士見習いで、道化はどうあがいたって」  
主役なんぞ、張れるものか。  
誰もがそう言っているように思える。  
マッシミリアーノも、市民たちも、ヒルダさえも。  
 
足を、時折波が洗う。  
濡れるに任せながら、アルは寄せては返す波を見つめ続けていた。  
ふと、教会の鐘が聞こえた。六時課の始まりを告げている。もう午後だ。  
アルは立ち上がると、靴を履く。  
どれだけ下らない芝居を演じているとしても、舞台を降りるわけには行かなかった。  
降りたとしてもどこにも逃げ場はないし、もう降りないと心に決めていたから。  
――演じきってやるさ。  
アルは涙を拭って、城への階段を登り始めた。  
 
「殿下!」  
城に帰った途端、衛兵軍曹から声をかけられた。  
既に、アルの顔は『片耳将軍』に戻っている。  
「どこにおられたのですか。探しておりました」  
感情を押し殺し、軍曹を睨み返す。軍曹も、それ以上追求はしなかった。  
「何の用だ」  
「城門のところで怪しげな奴を捕らえました」  
「怪しげ?」  
軍曹は頷く。  
「まるで物乞いか狂人のようないでたちなのですが、ただひたすら『殿下に会わせろ』の一点張りで」  
「男か? 女か?」  
「分かりません。外見からは全く判断つかない程で……どうしたものか迷ったのですが、一応ご報告に」  
そう言いながら、アルは既に歩きだしている。  
軍曹は言われずとも、アルの案内に立った。  
「詰め所に閉じ込めてあります。武器らしきものは持っていないようですが、ご注意下さい」  
狂人を装った刺客の可能性もある。  
ジャンカルロはああ言っているが、アルが邪魔な存在であることに変わりない。  
彼以外にも、アルを疎ましがっている者は多いだろう。  
だが――ことさら目立とうとする刺客というのも初耳だった。およそ役目には相応しくない。  
 
すぐに城門脇の衛兵詰め所に辿り着く。  
衛兵たちは姿勢を正し、その視線でアルを詰め所の奥へと導いた。  
詰め所の奥には小さな牢屋が設えられていた。  
軍曹は鍵を取り出し、扉の錠前を外す。  
彼が力を込めて引っ張ると、少しさび付いた音がして扉が開いた。  
 
アルの目の前に、「それ」は横たわっていた。  
むき出しの床に力なく倒れたさまは、既に死んでいるようにすら見える。  
旅行者の好む外套をまとっていたが、それは風雨にさらされ、襤褸切れのようだった。  
髪は伸び放題に伸び、衣服とあいまってまるで街道を彷徨う「泣き幽霊」を思わせる。  
衣服の裾からのぞく足は汚れと垢で薄黒く、裸足だった。  
 
「私に会いたいというのは、お前か。私がアルフレド・オプレントだ。一体、何の用だ」  
アルはいつでも剣を抜き放てるよう、右手を柄にかけている。  
衛兵軍曹も、一瞬でも相手が怪しい動きを見せれば飛び掛かれるよう、構えていた。  
「……アル……フレ、ド……?」  
しわがれ声が、アルの名を呼んだ。しかし、その響きは老人のものではなかった。  
冷たい風と渇きが、元の声を奪ったのだ。  
「アル……アルフレド…………!」  
アルを呼ぶ声に力がこもる。  
どこにそんな力が残っていたのか、その人物は飛鳥のようにぱっと立ち上がった。  
 
「会いたかった……私……アル……」  
アルフレドは、心に僅かな疼きを感じて、その人物をまじまじと見た。  
幽鬼のようにぼさぼさの長髪と、襤褸に身を包んだ人物。  
だが、その瞳にも、唇にも、声にも、覚えがある。  
 
剣を抜き放とうとする軍曹を手で制しながら、アルは一歩近づいた。  
見えない力がアルを捉え、前への歩みを止めることが出来ない。  
一歩近づくたび、疑惑は確信に変わっていく。  
二人の距離が一線を超えた瞬間、アルと「彼女」は磁石が引き合うように抱きあっていた。  
「アル!」  
歓喜に満ちたその声。答えるアルの声もまた、同じだった。  
「ラコニカ……!」  
 
 
(続く)  
 

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