1.
これほど、満ち足りた朝を迎えたのは一体いつ以来だろう?
もしかして生まれて初めてじゃないだろうか。
目を覚ましたとき、ラコニカはそう思った。
その一瞬あと、奈落の底に落ち込むような絶望が襲ってきた。
自分の隣にあの人の姿がなかったから。
昨夜のことは、天に召される瞬間に見た束の間の幻影ではないかと思ったから。
だが、すぐにそれを上回る歓喜が押し寄せた。
自分が今身を横たえている寝台は、カラブリアのそれではない。
モンテヴェルデの、あの人の部屋のものだ。
ここが彼の部屋である証はすぐ見つかった。
たとえば、暖炉の上にかけられた愛用の剣。
なんどもブラシをかけたことがある、彼の外套。
そして、ほのかに香る彼の匂い……。
横たわったまま、そっとシーツを持ち上げてみる。
乱れ、皺になった敷布と、自分の裸体がある。
昨夜の営みの名残が、ラコニカの体には無数に残っている。
だがそれに頼らずとも、昨夜の感触をラコニカは一つひとつ思い出すことが出来た。
乳房に赤い口づけの跡が刻まれている。特に念入りに愛された場所だ。
それを考えると、恥ずかしいような、でも誇らしいような気持ちで胸が一杯になる。
他人より大き目の乳房を、故郷の村では少年たちに囃し立てられたが今はもう恥ずかしくない。
アルの寵愛を受けられるなら、それが何であれラコニカの勲章だった。
激しい交わりだった。
湯浴みし服を着替えたラコニカに、アルは眠るよう言った。
長い一人旅をしてきたラコニカの体はそれほど傷ついていた。
だが、ラコニカは拒否し、無言でアルの手を握った。
手を取っただけで、アルはラコニカの求めている物が分かったし、何より目がはっきりと告げていた。
無言でラコニカが彼を引き寄せると、アルもそれに応える。
二人は抱き合い、次の瞬間には寝台に倒れこんでいた。
アルにはこれが初めての経験だったが、それでも溢れるほどの若々しさを注いだ。
アルが力尽きれば、ラコニカの愛撫と口づけでたちまち息を吹き返した。
ラコニカが疲れ果て余韻に身を委ねようとしても、アルの求めだけで再び体は燃え上がった。
何度精が放たれ、何度それを受け止めたのか。
そんな快楽と放心の谷間で、二人はいつしか眠りに落ちていった。
今では記憶も曖昧で、ただ互いの吐息と甘いささやきと、快感だけが思い出せる。
――あの時……。
昨夜の出来事を思い出し、ラコニカはそっと自分の肩を抱きしめた。
アルに抱きしめられた時、その瞬間ふいに頭に浮かんだ光景を思い出す。
それは、焼け落ちる我が家と、引きずり込まれた暗い納屋。
自分にのしかかってきた、二人の傭兵。
臭い息を吹きかけられ、唇を奪われ、犯されたあの瞬間だった。
アルの口づけが甘ければ甘いほど、その手が優しく肌を撫でれば撫でるほど。
ラコニカははっきりとあの光景を思い出した。
――変な顔をしてしまわなかったかしら。
ラコニカはそれだけが心残りだった。
初めて汚された経験や無数の男に抱かれた時と、アルとのそれは全く違った。
ラコニカは吐息を漏らし、甘え、求め、いつしか獣のように叫んでいた――と思う。
そんなことは初めてだった。だから、自分がどんな顔をしていたのかも想像がつかない。
ただ気にかかるのは、アルの前で娼婦の顔を見せなかったかどうか……
義務のように、人形のようにアルの好意を受け流してしまわなかったかどうか。それだけだった。
――でも。でも……もしかして、はしたな過ぎたかも。
ふとそんなことを考え、顔が火照る。
村の新婚夫婦や親の振る舞いで、男女が夜「何をするのか」は知っていた。
だが、「どうするのか」は今もよく知らない。
――あまり他人と違っていなかったのなら、いいのだけれど。
アルが初めてならば、ラコニカにとっても何もかもが初めてだった。
あんな夜は。
その時、隣の部屋の扉が開いた。
入ってきた男に、ラコニカは太陽のような笑みを向ける。
一瞬目があって、アルは恥ずかしそうに目を伏せた。
部屋に入ろうとして戸惑い、ベルトのバックルを無意識に弄る。
やがて、ラコニカを盗み見ながら、少女の笑みとは対照的なはにかみを浮かべた。
身なりは貴族そのものだが、何といっても中身はまだ童貞を捨てたばかりの少年なのだ。
――昨夜は何か間違っていたのではないか?
偶然だが、朝の冷めた空気の中で二人とも同じことを考えていた。
はっとラコニカは我に返った。
アルは既に身支度を整えている。部屋に入ってきたのは、剣を取りに来たからだ。
「ご、ごめんなさい! 私すっかり眠ってしまっていて……」
素早く身を起こすと、シーツを体に巻きつけてアルに近づく。
それを慌ててアルは遮った。
「いいから、寝てるんだ。まだ、起きちゃ……」
ラコニカの肩を掴むと、強引に寝台へと引き戻そうとする。
今度はラコニカがそれを拒む番だった。
「もう、眠たくありません。体だって……」
「駄目だ!」
珍しくアルの口調は厳しい。思わずラコニカは目を丸くした。
「医者も言ってた。『こんな体でよく辿り着けたもんだ。あと二日遅れていたら行き倒れだった』って。
数日はゆっくり眠って、体を癒して、それから――」
そう言ってから、アルはラコニカから目をそらす。
顔には、苦渋と一抹の安堵と……それ以上のいたわりがあった。
一息置いてから、アルは言った。
「カラブリアに、帰るんだ」
「嫌です」
アルの答えを予想していたかのように、ラコニカは即答した。
その顔には固い決意が見える。引き結ばれた口は、梃子でも動かないといった様子だ。
アルもそれを予想していたのか、僅かに視線を彷徨わせてから、ラコニカの目を見る。
「私は、もうアルフレドさん――アルフレドから、離れたりしません。もう、絶対です」
「……どうして、そんなこと言う。僕は」
「私は、ここにいたいんです。アルフレドさ……アルフレドのいる所に」
ラコニカの目が、僅かに潤んだ。
「……迷惑ですか」
「ここは、危険だ……いつ戦争になるか分からないし――僕はそんなところに君を置いておけない。
けれど、カラブリア――あるいはナポリの都なら。あそこなら守りも固いし、戦乱から隔たれている。
明日か、明後日にでも船を手配させる。それに乗って、すぐこの町を離れて欲しい」
不意打ちのような涙に、いつになくアルの言葉は歯切れが悪い。
だが、ラコニカは首を軽く振っただけで、アルの言葉を一蹴した。
「じゃ、ますます離れるわけにはいかないです。だって、アルフレドさ……じゃなくて」
言葉を区切ると、そこで何度か「アルフレド、アルフレド」と口の中で繰り返し練習する。
それは彼のそばを片時も離れないという、彼女の決意そのものを示しているようだった。
息を整えると、言い間違えないよう、ゆっくり一語一語切るようにラコニカは続けた。
「私……アルフレドを一人に出来ない」
「僕なら平気だ。友人も、強い味方も大勢いる」
「味方は多い方がいいでしょう? 私にも何か出来ることがあるはず。そうやって――」
不意にラコニカは頬を染めた。
「――私たちはカラブリアで二人で暮らしていたんだもの」
不意にあの町での日々を思い出し、アルも赤面した。
あの頃は決して触れまいと思っていた肌に、自分は触れてしまった。
目の前の少女を汚さないように、礼節と尊厳をもって接していたというのに。
だがラコニカは、もうアルとの新しい関係を築こうとしているのだった。
「君の仕事はここにはない。君は弱いし……」
言うまいと思った言葉を、おずおずと呟く。
「女だ」
だが、ラコニカはの中で何かが変わっていた。
それはアルと隔てられた日々が、そして会いたい一心で旅をした日々が、作り上げたものだった。
ラコニカはそっとアルの首に腕を絡めた。
力をいれずとも、自然と二人は顔を寄せ合ってしまう。アルの意思に反して。
「アルフレドに必要なのは、味方でも、友人でも、隊長でも兵士たちでもない。『女』よ。
弱くて、泣き虫で、恥ずかしがりで、思ったことも口に出来なくて、とっても臆病な、そんな女よ」
そこで、恥ずかしそうにラコニカはうつむく。
「……私みたいな」
そう。昨日の夜、ラコニカは気づいていた。
もう自分はアルフレドと離れては生きていけないということを。
彼に愛されてしまった自分の体は、もう他の男に委ねる苦痛に耐えることなど出来ない。
ましてや、金銭の代価に体を差し出すことなど、たとえ悪魔に命じられても出来ないことを。
もしそうなれば、自分は舌を噛み切って死ぬ――いや、自ら手を下すまでもなく、恥辱と苦悩で死ぬだろう、と。
「お願い」
アルの目を真正面から見据え、ラコニカは言った。
「もう、私はどこにも行けないの。故郷も、家族も。あるのはあなただけ。あなたが私の家族なの」
軽くつま先立ちして、アルの頭をぎゅっと抱きしめる。
ラコニカの柔肌と、髪と、ほのかな花の匂いに包まれて、アルは身動き一つ出来なかった。
「――だから、私が、あなたの家族なの」
頭は白熱し、我慢していたはずの涙がこぼれ、火照った頬はさらに熱くなった。
拒絶されれば、もう自分はどうしようもない。
その時は、どうしたらいいのだろう。
やがて、アルの腕がラコニカの肩を掴んでその体を引き離した。
ため息混じりに頷いてみせる。
「頑張ってみる……国一つ守るより、君を守る方がよっぽど大変そうだけどさ」
その意味を、ラコニカはすぐには理解できなかった。
ただ分かったのは、涙の向こうでアルが笑っているということ。
「じゃあ……」
ラコニカは何かを答える前に、アルに思い切り抱きしめられていた。
その力は昨夜のそれとは違って、痛いほどだ。
けれど、嬉しい。
背中を這うアルの手が、たくましい。抱きしめた体も一回り大きくなったようだった。
ラコニカは相手の肩に自分の頭を預けると、その温もりに酔った。
やがて、二人はどちらともなく体を放した。
少し乱れたアルの服を、ラコニカが黙って整える。
それが終わるのを待って、アルは暖炉の上の長剣を手に取った。
「厨房係には言っておくから、食べ物は彼からもらって」
「うん」
「部屋を出て右に行き、階段を降りると中庭に出る。一階が厨房だから。
この部屋と隣の部屋は自由に使ってくれていい。何か不便があったら小姓を呼んで――」
「もう、忘れないでよ。私は農民の娘よ」
アルがはっと気がついて頭をかく。
ラコニカは、無邪気な笑い声をたてた。
アルも、その笑みに自然と顔がほころぶ。
彼女のそんな顔を見たのは、出会ってから初めてだった。
「昼食は仕事場でとるから、用意しなくていい。夜は、その……夜は、できるだけ早く帰る」
シーツに包まれたラコニカの体を見ながら、アルはもごもごと言葉を濁す。
ラコニカも思わずうつむく。
「……遅くなりそうなの?」
だが、ラコニカの方が頭の切り替えが早かった。
名残惜しそうに視線を外しながら、アルはああと頷く。
「知らせが来たんだ。君がまだ寝ている時に」
アルは顔を引き締めると、廊下へと続く扉を開ける。
その横顔を見て、ラコニカからも笑みが消えた。
「オートラントにトルコ軍が上陸した。ナポリ王国の領土だ」
振り返りつつ、呟いた。
2.
一四八〇年七月二十八日、アクメト・ジェイディク率いるトルコ軍は、オートラントに侵攻した。
オートラントはトルコ海軍根拠地ヴァローナから、アドリア海を挟んで僅か八海里である。
ナポリ王国とオスマン・トルコの最前線と言えるこの地に、アクメトは大軍を送り込んで来た。
その数、歩兵のみでも七千名。水兵や騎兵、砲手を含めれば一万八千にも上る。
さらに、攻城重砲五門と、千五百門を超える軽・中型砲と艦載砲も投入された。
対するオートラントの守備隊は僅か三百名。
トルコの上陸は全く妨害を受けることも無く成功した。
守備隊はただちに王都ナポリに救援を求めたが、上陸の翌日には町は完全に包囲されていた。
八月八日には攻城砲の陣地が完成。
守備隊とトルコ軍の死闘はその後三日間続いた。
八月十一日、オートラント守備隊はついにトルコ軍に降伏。
イスラムへの改宗を拒む市民八百人が処刑された。
「……予定されていた塩千リブラは、価格の高騰で調達が遅れております。
また、エミーリアから今月末までに買い付ける予定だった品ですが……。
穀物四百スタージョ、オリーブ油二百カラファ、ワイン八百カラファについては購入の目処が立っていません。
購入できたのは大麦十三スタージョ、米二十四スタージョ、塩漬け豚肉八カンタロです。
以上が、八月上旬の購入品の状況です」
会計官が書類を読み上げると、一同は小さくうなった。
入れ替わるように倉庫役人が立ち上がり、羊皮紙の書類を開いた。
「城の食糧庫の在庫は……」
話し始めようとすると、ジャンカルロがそれを手で制した。
「細かい数字はいい。率直に言ってくれ。どれだけだ、どれだけ篭城できる。一ヶ月か、二ヶ月か」
機先を制された男は、しばらく数字を頭の中でいじくっていたが、やがておずおずと口を開いた。
「――六日です。今の町の人口がそのまま変わらなかったとして」
「六日、だと」
流石のジャンカルロも、顔色を変えざるを得ない。
アルフレドやヒルデガルトは、言葉もないようだった。
オートラントの陥落後、モンテヴェルデを取り巻く環境も一変した。
町を占領したトルコ軍は、ここを拠点に周辺地域の制圧に乗り出す。
一月も経たないうちに、イタリアのかかと・オートラント地方全体がトルコの占領下に入った。
これを受けて、ナポリ王フェッランテは教皇庁を通じ全キリスト教世界に助けを求める。
交渉によるトルコとの停戦の試みは、当初から頓挫していた。
教皇シクストゥス四世はただちに応えた。
ナポリへの救援をキリスト教国全体に命じたのである。
教皇の勅命は、北はスコットランド、東はポーランド、西はポルトガルにまで及んだ。
教皇庁から大量の財政援助がなされると同時に、傭兵隊の派遣が決められる。
また、幾つかの王国はナポリ救援のために立った。
例えば、直接トルコと刃を交えているハンガリー王国は、軽騎兵団の派遣を決めた。
一年前フィレンツェとの戦争に動員され、トスカーナで休養中だったナポリ軍も急遽帰国を早める。
ナポリ各都市では民兵が徴集され、商船団は海軍提督の元に編入されている。
皇太子アルフォンソの陣頭指揮の下、対トルコ戦の準備がそこかしこで進んでいた。
とはいえ、金も人間もまだ一欠片たりとナポリに届いていない。
それでも、その影響は既にモンテヴェルデにもはっきりと現れていた。
すなわち物不足と物価の高騰いう形で。
「フェッランテめ、慌てて買い占めに走ってるようだな。これまで何もしてこなかったくせに。
全く迷惑なこと……あー、いや、バーリ大司教のせいも大きいが。もちろん」
会議の卓の末席にいたコンスタンティノが、いつものように皮肉を言いかけ、慌てて引っ込めた。
ディオメデウスの不機嫌そうな顔が飛び込んできたからだ。
バーリ市の大司教は、ナポリの諸侯と共にいまオートラント近郊で防衛戦の真っ最中だった。
その彼がモンテヴェルデ周辺で相当量の食糧を購入したことがあった。
もちろん、ナポリ王フェッランテの方がよほど影響は大きい。
だが、ナポリ王の臣下の前で彼を批判することは、流石のコンスタンティノでもはばかられた。
人も物も、戦争に必要なあらゆるものがナポリ王と教皇に買い占められていた。
商人たちは当然、より高く買ってくれる買い手に物を売る。
何しろ戦場であるオートラントとモンテヴェルデは僅か百六十海里(三百キロメートル)。
この小国は、オートラント戦争のちょうど良い補給基地になのだ。
アルフレドたちがなけなしの金をはたいて買った食糧も武器も、全てナポリに転売されてしまう。
「もはや、貨幣など何の価値もありません。黒パンですら普段の十倍もするのです。
市民たちは物々交換でかろうじて糊口を凌いでいる有様です」
会計官の言葉に、一同はまた唸る。
ナポリ王国や教皇庁は死に物狂いだ。
その代わりにモンテヴェルデは日々やせ細っていくが、それを阻むすべはない。
「……ジロラモ師」
「はっ」
不意にヒルダが顔を上げて『鞭打ち教団』の指導者に声をかけた。
この場にいるのは全てモンテヴェルデの重臣たち。
もともと一介の騎士にすぎないジロラモはそぐわない。
不審がる他の人間をよそに、ジロラモは平然とヒルダに近い位置に座を占めていた。
「教団の力で、貧者への救済をしてください。費用については、国庫で面倒を見ます」
「はい」
ヒルダが市民の惨状に注意を払うのはいつものこと。
ジロラモの教団が貧者に施しをするのもいつものことだ――少なくとも、表向きは。
皆が違和感を感じつつ、二人のやり取りには口を挟まなかった。
何しろヒルダの信頼を得ているらしい彼に苦言を呈する人物など、いようはずもない。
それに、ジロラモの白蝋のような肌とドクロのような顔を見ては、誰もが黙ってしまう。
「ところで陵堡の建築はどうなっている」
部屋の不穏な空気を敏感に察したのか、ディオメデウスがフランチェスコに話を振った。
彼ら二人は同盟国の重鎮として、特別に臨席を許されている。
フランチェスコも空気を察したのか、皆に聞こえるような明るい声で答えた。
「堀については、ほぼ完成いたしました。海側で若干地盤のゆるいところがあり、難航していますが……
陵堡についても南側の一個と、東側の城壁に作った二個は完成間近です。
北側の陵堡はまだ最上階が未完成ですが、最低限の火砲は配置できます」
「さすが、<カーポ・ビアンコ>だな!」
ディオメデウスの軽口に、座は一瞬笑いに包まれた。
カーポ・ビアンコとは「白い頭」という意味で、フランチェスコに人々がつけたあだ名である。
カーポは単に「頭」だけでなく、「指導者」「監督」という意味もある。
何はともあれ、いつも頭を白い石埃で汚しながら働く彼を端的に表すあだ名だった。
また、まだ老年と呼ぶには早いが、頭に白髪の混じる彼をからかう意図もあった。
「よくやってくれた、フランチェスコ・ダ・シエナ。君の名こそ称えられてあれ」
アルフレドは微笑みながらも固い口調で告げる。フランチェスコは深く一礼した。
会議室の一同を見渡すように、アルは背筋を伸ばした。
列席した人々も、アルの言葉を待つ。
「敵将アクメト・ジェイディクは歴戦の提督だし、スルタンの信も厚いと聞く。
オートラント攻撃も、一時的なものとは考えにくい。スルタンはイタリアに地歩を固める気だろう。
トルコ軍船が活発にアドリア海を往復していることからも、それは明らかだ」
そこで言葉を切り、アルは全員が自分の意見を脳裏に刻む時間をとった。
「占領地域を広げるには、さらなる兵士、さらなる食糧が必要だが、そのためには」
「オートラントは小さな港です。とても二万以上の兵を養える町ではありません」
ディオメデウスがそっと補足した。
アルはありがとう、と言うように鷹揚に頷くと言葉を接いだ。
「ディオメデウスの言うとおり、どこか別の港を確保しなければならないだろうね。
だが、オートラントに近いブリンディシやターラント、レッチェは既に守りを固めている。
また、トルコにしてみれば北方から来着しつつあるナポリ軍を遮断しなくてはならない。
つまり――」
「――つまり、だ」
薄いカフヴェのカップを置きながら、アクメトは言った。
占領されたオートラントの砦は、すでに彼の本営となっていた。
窓の外には、オートラント市民の死体が晒されている広場が見える。
異教徒とはいえ、死体を冒涜するのはムスリムとして気が引けるが、市民の反抗心を挫くには仕方ない。
「斥候隊の報告によると、キリスト教徒たちは援軍が到着するまで防御に徹するつもりらしい。
援軍は主に教皇軍と、ハンガリー王だ。我々に対する牽制のつもりなのだろう。
何しろ今や我が陸軍はブダ・ペストやウィーンすら狙える位置にいるからな」
机に置かれたヨーロッパの地図を指でなぞりながら、アクメトは言った。
アクメトの話を聞いているのは、輸送船団を率いる提督だった。
オートラントに陸兵を上陸させてからは仕事も無く、配下には休息と船の修理を命じていた。
彼には召喚される心当たりがない。ましてや陸軍の話など門外漢だ。
「彼らがオートラント地方に辿り着くのに、アペニン山脈の西側を南下する道はいかにも困難だ。
何しろフィレンツェ、ローマ、ナポリを経て、イタリアの南を大きく回り込まなくてはならない。
それなら、ロンバルディア平原を縦断し、アペニンの東側を南下した方が早い」
もし彼らが海路を使ったら、という疑問は考えることすら愚かだった。
今やアドリア海にキリスト教徒は釣り船一隻浮かべられないことは明白だ。
「だから、我々はこの流れをどこかで遮断しなくてはならない。
この作戦の利点は三つある。まず、今オートラント地方にいるわが軍の数は多すぎる。
ほとんどが遊兵(作戦に寄与しない兵士)だ。しかも飢えている。
口減らしも兼ねて、どこかに新たな攻撃を仕掛けるべきだ」
オートラント地方は狭く、一万八千の兵は明らかに過剰だった。
その六割が毎日掠奪に明け暮れているという報告を、アクメトは受け取っていた。
「二つ目の利点は、キリスト教徒を分散させ、幻惑出来ることだ。
別の地点を攻撃すれば、奴らはなけなしの援軍をそこに振りむけねばならなくなる。
三つ目の、そして最大の利点は、アペニンの東側を遮断できればナポリはほぼ孤立する、ということだ」
アクメトがそう言って軽く片目をつぶったので、提督はやっと彼の意図が分かった。
「だから、我々はこの町を――と言いながら、アクメトは地図の一点を指した――攻撃する」
提督は、任務を理解した軍人の顔で大きく頷いた。
アクメトも、満足げに笑う。
「輸送船団は、いつでも出撃できます。アクメト・パシャ」
「よろしい。近日中に増援が届く。いつでも出港できるよう準備しておきたまえ」
3.
ヒルダの私室に男がいるなど、めったにないことだった。
普段なら掃除夫か、医者か。それですら、年老いた者がせいぜい一人。
ところが、今日は男が二人だ。
「――心遣い感謝いたします」
ジロラモはヒルダに向かって深く体を折った。
手にはステラから渡された小切手と、手紙が一通。
それはロンバルディアの商人に、大量の穀物を買い付けるよう依頼したものだった。
そのうちの幾らかは城に備蓄されるが、大半は貧者への施しに使われる。
「ヒルデガルトさまの援助なしでは、私など無力な小男に過ぎませぬ」
深くかぶったフードからは、ジロラモの表情を伺うのは難しい。
だが、ヒルダは口調から彼が安堵しているのを感じていた。
「私には蓄えはあっても、それをどう使っていいかは分かりません。
ジロラモ師がいなければ、私も無力な女に過ぎない……そうよね?」
ヒルダは、傲慢には聞こえないよう言葉を選びながら微笑んだ。
傍らのステラに同意を求めるのは、傲慢と卑下どちらにも取られないための気づかいだった。
「ジロラモ師、鞭打ち教団は、私にとって戒めなのですよ?」
それは、ジロラモに、というより自分に言い聞かせているように聞こえた。
「統治は公正であろうとするほど、一方で苛烈になりがちです。
あなたの信徒たちの言葉は、私にいつも思い起こさせてくれるのです。
私や……アルフレド殿下が何かを決めるたび、苦しむ民草がいるということを」
そのとき、ヒルダはおや、と首を捻った。
フードの下から除くジロラモの口が、苦痛に歪んだように見えたからだ。
自分は、何かいけないことを言っただろうか。
「どうしたのです?」
ヒルダが問うても、ジロラモは低い唸り声を上げて無言を貫いている。
もう一度、ヒルダは声をかけた。
「ジロラモ師、何か憂慮すべきことがあるなら、おっしゃって下さい。
お手伝いできるなら、力に……」
「いえ、殿下」
ヒルダが立ち上がろうとすると、ジロラモは一歩後ずさった。
それは明らかに動揺しているように見えた。
「――うれしいのです、殿下。あなたのように民を想う領主がどれほどいることか。
新たな千年紀に入ってもう五百年。神は軽んじられ、徳は失われ、異教徒だけが武威を誇っています。
黙示録の予言が次第に実現しているのだ……そう思わない日はありません。
だが、殿下のような方がいらっしゃれば、反キリストの到来後にも、その後にも希望が見出せるのですよ、私は」
ジロラモはそこまで早口で言ってから、不意に左右に目を走らせた。
盗み聞きする者もいるはずのない部屋で、それを恐れるように。
「だのに、アルフレド殿下はまるでヒルデガルトさまを軽んじておられる。
共に大公陛下を支える身でありながら、様々な知らせを独り占めに……」
「ルカ、それは本当?」
ヒルダの顔つきは僅かに険しい。
ルカは最初何も答えなかった。そらした視線がステラと合い、顔が歪む。
けれど二人が目つきだけで会話を交わしたのはほんの一瞬だった。
「……アルのところには毎日色んな話が届く。そのほとんどは根も葉もない噂だけどね。
だから、ジロラモが言ってるのが何の話かはよく分からないな」
「いや、確かに聞いた。ナポリから重大な知らせが届いたという噂を!」
問い詰めるようなジロラモの叫びに、ルカは大きく息を吸う。
ヒルダも身を乗り出すようにしてルカの顔を覗きこむ。
二人の視線に、沈黙は不可能だった。
「――トルコ軍がロードス島を撤退して、どこかに向かったという話かい」
「まさか! それは本当なの?」
真っ先に驚いたのはヒルダだった。
ロードス島の聖ヨハネ騎士団は十万のトルコ軍相手に善戦を続けていた。
その包囲が解けたとなると、トルコの重圧はアドリア海方面にのみかかってくる。
大なり小なり、モンテヴェルデにも影響を及ぼさないはずがない。
だが、アルは彼女の前でそんな話をおくびにも出さなかった。
「……外国人に国をくれてやるのみならず、今では自分が大公の如く振舞っておられる。
アルフレド殿下はどうなされたのだ。鼻薬をかがされて、君主への忠誠すら忘れたのか――」
「なんですって? 今……『鼻薬』と?」
ジロラモは今度はためらわなかった。
「――城内の噂をまだ聞いてはいらっしゃいませんか。
アルフレド殿下がナポリから来た女を自分の部屋に囲っているという……」
ヒルダは、絶句した。
息を呑み、口を押さえ、まばたきすら忘れたようにジロラモを見る。
ジロラモが頷き返すと、ヒルダは一瞬天を仰いだ。
椅子に深く身を預け、他の人間がいることなど忘れてしまったように身じろぎすらしない。
噛み締めた唇が、白い。
「…………ルカ、本当?」
再び、ヒルダとジロラモの視線がルカに向けられる。
ルカが否定してくれることに僅かな望みをかけているのが、ありありと分かった。
ルカはつい先日までアルの前から姿を消した。
再び顔を合わせたときも、アルはただ静かに理由を聞いただけだった。
そして、あやふやな言い訳しか出来なかった自分をアルは疑おうともしなかった。
一度罠にはめた人間を、アルは本当に信じているのだ。
だが、自分は――
「……本当です、姫さま」
「それも娼婦だと聞きましたぞ! 娼婦ですぞ!」
ルカの苦々しげな言葉を押し流す勢いで、ジロラモは叫ぶ。
ルカは、頷くしかなかった。
「――アルフレド、あなたは」
何か言おうとして、ヒルダは絶句する。
ただ事実に圧倒され、何も考えることが出来ない。
力なく椅子に腰かけるヒルダに、ジロラモが音も無く近づいた。
「ヒルデガルトさま、挫けてはいけません。あなたが挫けては、この国はどうなるのです。
あなたには、まだ忠勇な兵士も、召使いもいるではありませんか……もちろん、私も」
修道僧の落ち窪んだ眼窩の奥で、その瞳が怪しく光る。
彼が頷き返すのを見て、ヒルダは顔をきゅっと引き締めた。
「ルカ、これからもアルフレドが誰と会ったのか、何を話したのか、何を考えているのか……。
真っ先に私に伝えなさい。滞りなく」
ルカが然りとも否とも言う前に、ヒルダは呟いた。
「……もう、あの誓いなど信じないわ」
**********
その夜も海は暗かった。
昼間あれだけ喧騒に包まれた町も、今は深い眠りに沈んでいる。
男は明日の労働に備えて、子供は母の胸で、恋人たちは寄り添いながら。
目を覚ましているのは、城壁を巡回する衛士だけだ。
アドリア海は何も言わない。
いま自らの懐で起こっていることも、これから起ころうとすることも。
だが、既に「それ」は始まっていた。
一隻、一隻。
水平線の向こうから巨大な軍船が姿を現す。
その腹に無数の兵士を飲み込み、高々と半月旗を掲げて。
衛士が遂に気がついた。
彼は走る。
鐘楼へ。
人々に急を知らせるために。
鐘楼に昇った彼は、鐘を打ち鳴らす寸前に海を振り返る。
そして見た。
闇の中に浮かび上がる、海を埋め尽くしたトルコの軍船団を。
彼らは、来た。
(続く)