1.  
九月の南イタリアは、暑い。  
空は目が痛くなるほどの青空。太陽は遮る物もなく、ひたすら照りつける。  
街道は土埃が巻上がり、刈り取りが終わった畑は乾ききってひび割れている。  
そんな風土はそこに住む人たちに独特の容貌を与えた。もちろんモンテヴェルデ人も例外ではない。  
ノルマン由来の青白い肌はいつか赤銅色に焼け、金色の髪は褐色に変わった。  
幼い頃から強い日射しに曝され、自然と色が抜けた赤毛や栗毛は美人の証でもある。  
(それゆえヒルデガルトのような生来の金髪碧眼が珍重されるのだが)  
しかし、今焼かれるのは乙女の髪ではなく、鉄だ。  
黙々とトルコ軍を待ち受ける、甲冑姿の兵士たちである。  
 
やがて陽炎の立ちのぼる平原の向こうに騎馬の影が現れた。  
その数は一つから二つ、やがて数十へと膨らみ、城門へと向かってくる。  
「コンスタンティノ殿、戻られました!」  
物見の声がアルフレドの耳にも届き、彼は目の前の紙片から視線を上げた。  
アルは四つの軍団からなるモンテヴェルデ軍の一軍団長として、城壁の南側を担当していた。  
ここ数日、彼は城門のすぐ脇にある教会で兵士と起居を共にしている。  
その教会は十一世紀にオリーブ圧搾業者の寄進によって建てられた、町でも由緒あるものだ。  
いつもなら僧侶が瞑想や散歩に用いる中庭とそれに面した回廊が、アルの本営だった。  
そこは明るく、町の喧噪からも遮られ、中庭に植えられた植物が僅かなりと心を慰めてくれる。  
また教会の鐘楼は城壁をしのぐ高さがあって見張りも置けるなど、何かと都合がよかった。  
 
兵士の報告を聞いて程なくして、表通りの方から人の声や馬のいななきが聞こえてきた。  
閂を抜く音、扉の開く音が木霊し、大理石の床を叩く甲高い足音が近づいてくる。  
アルが出迎えに立つ暇もなく、甲冑姿のコンスタンティノが回廊に入ってきた。  
彼は今ではアルの副将である。  
「成果は?」  
「北へ延びる街道で、トルコの騎兵とやり合ってきた。三十騎ほどだ。  
確認した敵の死骸は十三。こっちは二人やられて、一人怪我をした」  
「あなた自身は?」  
「二人斬った」  
アルの期待を込めた目に、コンスタンティノは誇るでもなくそう付け加えた。  
傍らの小姓に脱いだ兜を渡すと、断りもせずアルの隣に腰掛ける。  
その髪は汗で額に張り付き、顔は泥と血で汚れていた。  
戦場から帰還したままの殺気に、アルはかけようとした言葉を飲み込む。  
 
コンスタンティノは荒っぽくワインを杯に注ぐと、一気に飲み干した。  
口を手で拭い、ため息を一つ吐く。  
「……馬鹿どもが『追撃する』と言って聞かなかったが、なだめすかして引き上げた……。  
それでいいんだったよな?」  
「ええ、偵察や略奪を妨害してくれれば……それで敵の様子は?」  
アルも改めて隣に腰掛けると、机に地図を広げた。  
そこには新しい筆跡で、モンテヴェルデ軍の布陣と、トルコ軍の位置が描き加えられている。  
トルコの上陸地点は町からほぼ馬で一日の距離。  
町の近くは守りが固く、遠浅で上陸には適しないことを、先日の経験からトルコ側も学んでいた。  
「宿営地から大砲を運び出そうとしているようだった。かなりの数の牛馬が集められていたぞ」  
「トルコのあれは重いですからな。配置につく前に地盤を確かめ、陣地を築き、弾薬を集積する……  
本格的な合戦になるのは、あと一週間から十日後といったところでしょうか」  
コンスタンティノが振り返る。  
いつの間にか、後ろにフランチェスコが立っていた。  
 
「このまま敵の斥候を妨害していただきたい。こちらには地の利があるのだから、出来るでしょう?」  
天気の話でもするような様子からは建築総監としての威厳は微塵も窺えない。  
「地の利『しか』無いがな。数も精強さも向こうが上だ。言われなくても決戦など出来んよ」  
皮肉めいた笑いを上げながら、コンスタンティノは杯を再び持ち上げた。  
『決戦』論はモンテヴェルデの貴族や騎士層を中心にいまだ根強かった。  
アルやフランチェスコは予定通り持久戦の方針を貫くべきと主張し、評議会は紛糾した。  
だが最終的にはヒルデガルトが持久戦を支持し、方針は決まった。  
すなわち、町に立て籠もり同盟国の救援を待つ、と。  
しかしオートラント奪回が優先される今、モンテヴェルデのような小国に救いが届くのか……。  
誰にも確言は出来なかった。  
 
「このまま奴らの偵察が失敗して……出来れば稜堡に気づかないでくれればいいのだが」  
稜堡の詳細や、町周辺の地勢を知らずに大砲を据え付ければ、それだけ砲撃の威力は削がれる。  
例えば平坦ではない地形や緩い地盤は、砲の命中率に大きく影響するものだ。  
トルコ人が不利に気づいて砲の再配置を決めれば、それだけで一週間は砲撃不能になる。  
斥候同士の小競り合いが籠城戦の成否を決定するかもしれないことは双方が理解している。  
その戦いは、小規模だが常に凄惨だった。  
 
だが、フランチェスコの楽観を歴戦の傭兵は軽く笑い飛ばした。  
「あんなデカイものに気づかない方がどうかしている。トルコ人は盲だとでも思ってるのか。  
戦は本で読んだとおりにはいかんぞ」  
コンスタンティノは空になった杯を振って見せる。  
「それはウルビーノ公によく言われましたよ。一四七八年です」  
フランチェスコは懐かしい思い出でも語るように呟きながら腰を下ろした。  
「……お前さんもポッジボンシに居たのか」  
「ええ。技師としてね。あなたの『凶暴騎士団』の噂はよく耳にしたものだ」  
コンスタンティノは意外そうな目を向けるコンスタンティノに、フランチェスコは含み笑いを漏らす。  
その顔は、「噂」が決して良い物ばかりではなかったことを表していた。  
 
「ふん……で、こっちがスカラムッチャ(小競り合い)の間に、あんたらはお勉強かい」  
傭兵隊長の視線は、机の上に散らばった紙片へと向けられていた。  
建物や柱、歯車装置、裸体や動物の図。その横にはびっしりと手書きの字が書き込まれている。  
「なかなかマエストロがご自分の『建築論』をまとめる時間がないからね……。  
時間が空いた時に少しでもお手伝いしておこうかと思って。ついでに写しも作ってるんだ。  
マエストロが滞在した証を僅かでも残したいし、戦のためだけに働いて頂くのはもったいないからね」  
「ほう、こいつァお前の手か。なかなか器用に描くじゃねえか。絵心あるぜ」  
コンスタンティノが取り上げた紙片を見ながらそう言うと、恥ずかしそうにアルは頭をかく。  
その仕草に、コンスタンティノはまた鼻を鳴らした。  
 
「――ま、兵士の手前、将軍がぶるってないところを見せるのもいいかもな」  
「そう言ってもらえると、嬉しいです」  
そう答えながらアルはコンスタンティノの杯に酒を注ぐ。  
すると突然、コンスタンティノの鉄の手がアルの手を掴んだ。  
「……アル、やっぱりお前今日はもう部屋に戻って休め」  
声は低く、目は伏せている。  
「手が震えてるぞ」  
さらに強く握ってくる手を、アルは強引に振り解く。  
彼の柔らかい手にコンスタンティノの鎖帷子が赤い跡を残していた。  
 
「何、恥じることはない。私だって怖い。それにあなたが責任を負うのは……」  
「慰めはやめてください!」  
フランチェスコの言葉を、アルは激しく遮った。  
周りの幕僚が何事かと立ち止まる。その視線をコンスタンティノは素早く察した。  
「……さ、もう仕事は終わりです『閣下』。後は我々に任せてお休み下さい」  
自ら立ち上がりながら、アルを出口へと促す。アルも逆らおうとはしなかった。  
 
だが、二人の歩みは聖堂を出ようとしたところですれ違った伝令兵に遮られた。  
「アルフレドさま。至急五指城の方へお越し下さい」  
馬を飛ばして来たのか、兵の息は荒い。  
アルが答える前にコンスタンティノが尋ねた。  
「何か重大事か」  
叱責されることを予感したのか、兵士は軽く頭を下げた。  
薄暗い聖堂に、彼の息づかいだけがしばし響く。  
「……大公陛下が、意識を取り戻されました」「陛下が?」  
アルの驚きにつられて、中庭の幕僚や僧侶たちが聖堂を覗き込んだ。  
コンスタンティノが睨みつけると、野次馬はたちまち顔を引っ込める。  
だがアルの声は建物に木霊し、残響はいつまでも止まなかった。  
「殿下とお話がしたいと仰っておられます。摂政殿下もお待ちです。お早く」  
同時に見つめ合うアルフレドとコンスタンティノ。  
傭兵隊長が小さく頷き、アルは伝令について教会を出た。  
 
 
2.  
アルフレドが通されたのは謁見用の広間ではなく、大公の寝室だった。  
この部屋に入ったことは、帰国以来一度もない。  
ヒルデガルトと共に入った時、真っ先に感じられたのは染みついた薬の匂いだった。  
閉め切った部屋のむせるような湿気と暑さの中、大公は長椅子に横たわっている。  
重ねた枕に上体を預ける様子は、つい先ほどまで死人同然だったことを窺わせた。  
「下がっていてくれるか……三人だけで、話がしたい」  
傍らの医者が素早く退出する。部屋の扉を再び閉めると、重苦しい空気が戻ってきた。  
それは決して部屋の悪臭や湿気のせいだけではない。  
自分を無感動に見据える大公と背後からのヒルダの視線に、アルは動くことが出来なかった。  
 
「陛下」  
「こうしてお前と話をするのも、ずいぶん久しぶりだな。いつ以来だ?  
お前が身分を偽って槍試合に出た時以来……いや、それより前だな。お前が城に帰った日以来か」  
快癒の祝いを口にするより先に、大公はそう言って一人で頷いた。  
反射的に跪き、臣下としてふさわしい礼儀を示そうとするアルに、大公は言葉を続けた。  
「わずかな間にずいぶんと偉くなったものだ。今では……その紋章を身につけているのか?」  
そう言いながら大公の指さすのは、アルの羽織る外套の肩口だった。  
そこには大公家の紋章が小さく描き加えられた「オプレント」の紋章が描かれている。  
通常、近親者にしか許されない紋章の付与。それは大公が不在の間に決まったことだった。  
 
大公の質問にどう答えるべきか、アルが考えているうちに彼は納得したように頷いて見せた。  
アルには汗を拭うことすら出来ない。手足を沈黙の鎖が縛っていた。  
傍らに立つヒルダが、まるで法廷の警吏のように思える。  
言われるまま城に赴き、大公の言葉を待つ。これが裁きでなく何なのか。  
 
「……もうしわけ……」  
「ん? 何故だ、何故謝る? お前のしたことはここにいるヒルダと評議会の決定なのだろう。  
ならば謝ることはない。私も領主として、一軍の大将をずっと跪かせているほど無礼ではない。  
立て。そしてこちらに来てくれ。普通に言葉を発しているようで、これでも随分な苦労なのだ」  
言われるままにアルは立ち上がり、大公の枕元に近寄る。  
大公の指がアルに顔を寄せるよう告げる。アルは素直にそれに従った。  
「国を追放されている間、何があったのか――いや、言わずともよい。  
随分人も殺めたし、盗みもしたし、女も知ったのだろう。お前の体は……そう、ひどく『臭う』」  
とっさにアルは自分の体を見回していた。  
無意識のうちに袖口を鼻に近づけるとたんに大公が顔を崩した。  
 
「はは……いや、すまない。からかったつもりはないのだが。  
何にしろ、大事なのはお前が何をしてきたかではない。何者であるか、という点だ」  
一瞬、マッシミリアーノの視線がヒルダの方へと向けられたように見えた。  
ヒルダの顔は、明らかに青ざめている。  
それに気づいて、あえてヒルダに話しかけたかのようでもあった。  
不意の沈黙の後、マッシミリアーノは再びアルに向き直った。  
「お前は今や大兵を率い、かなりの臣下の支持もある……ジャンカルロの助けもあろう。  
教皇猊下や大国の後ろ盾があり、正統性も申し分ない。  
モンテヴェルデ公爵を継ぐことが出来よう――欲するままに」  
アルはマッシミリアーノの口調から、怒りか何かが含まれていないか探ろうとした。  
だが言葉は静かで、大公は唇を動かすことすら大儀だとでも言うように力無く身を横たえている。  
「その代わり、失った物は多かろう。人や、財産や……そうだな、領土。違うか?  
フェッランテやフェデリーコ卿、教皇庁がただで手を貸すほど善人とは思えんからな。  
思えば、我が治世もどれだけ僅かな代価で相手の譲歩を得るか、それに腐心してきただけだった」  
小さく息が漏れた。  
「……今なら、お前にも分かると思う」  
 
「どこで、そのことを知られたのですか? その、私がナポリ王やウルビーノ公と……」  
アルが驚いて問い返すと、マッシミリアーノは初めて呆れたような顔を見せた。  
「どこで、だと!」  
鋭い叱責の声に身をすくめたのはヒルダだった。  
マッシミリアーノがこんな顔をするのも、こんな声を出すのも、彼女には覚えがない。  
大公の養女になって以来、ヒルダはマッシミリアーノの溺愛の対象であり続けた。  
もちろんヒルダを養女にしたのは大公位を盤石にするため。それは誰の目にも明らかだった。  
だからヒルダは公私を問わず彼を父とみなさなかった。  
実の父母への想い、そして血の繋がらない男が大公家を乗っ取る事への反発。  
ヒルダが時に露骨にそれを表にしても、マッシミリアーノは決して怒らず、諫めもしなかった。  
形の上だけの愛情はあっても、彼は決してヒルダに感情を露わにしなかったのだ。  
だが、今マッシミリアーノはアルフレドに感情を見せている。  
 
ヒルダのとまどいをよそに、マッシミリアーノはアルの頬に手を当てる。  
「いくつかの事実を指摘すれば足りよう。お前が追放者であり、無一文であること。  
我が国が貧しい小国であること。ところがお前は軍を率い、多くの同盟国を連れて戻ったこと。  
それが指すところは……分かるだろう。最も単純な可能性を受け入れば答えは自ずと定まる。  
オッカムのグリエルモ(ウィリアム)も言ったようにな」  
「確かに。もうしわけ……」  
マッシミリアーノは笑ったようだった――だが、部屋の薄暗さが全てを隠した。  
「なに、謝ることはないのだ。お前の軍団がなければこの国は守れぬ。  
君主として礼を言うぞ。その支払いをその『君主』という肩書きで支払うことになるだろうが」  
今度は明らかだった。  
マッシミリアーノは二人にもはっきり見える笑みを浮かべた。  
全て罠と知りつつ、足を踏み入れる余裕の笑みだった。  
 
「陛下……弁解と思われるでしょうが……」  
だが、大公はアルに釈明を許さなかった。  
手で押しとどめながら、体を眠りやすいよう傾ける。  
「統治者にはいかなる弁解も不要だ。私の死後は誰に愚痴を零したり弁解したりしようというのか。  
とにかく、次の公爵の顔を見たかったのだ。それだけだ。さあ、出ていってくれ。鎧戸を閉めてな」  
そう言うと、マッシミリアーノはアルに背を向けた。  
力を使い果たしたように、大公はそのまま深い眠りにつく。まるで彫像のようだ。  
僅かな呼吸音がなければ、本当に死んだとしか思えなかっただろう。  
アルはもう何も言わなかった。  
命じられるまま鎧戸を閉め、ヒルダと共に部屋を出る。  
部屋の扉を閉めるとき、何故かアルは初めて人を殺した時のことを思い出していた。  
暗がりの奥に、マッシミリアーノの影が見える。  
(僕はいま、彼を殺すのだ)  
そんな言葉が脳裏をよぎり、消えた。  
 
「うまく認めてもらったわね」  
嘲笑混じりの声は、背後から飛んできた。  
「一人前の跡取り、といったところかしら。『公爵』さま」  
「君も変わったね、ヒルダ」  
「私が?」  
向かい合ったアルとヒルダ以外、誰もいない。  
ようやく山の向こうに消えていく太陽が、窓から橙色の光線を二人に公平に投げかけていた。  
そのまぶしさに、ヒルダはかすかに目を細める。  
相手の表情が読みとりにくい。だが、アルはいつものアルのようにしか見えない。  
だからこそ、ヒルダには意外な言葉だった。  
「そんな思わせぶりな、人の心を逆なでするような言葉は使わない。僕の知っているヒルダは」  
 
「私の知っているアルも、もういないわ」  
二人はその間に二、三歩の距離を残して立っている。  
「結局、あなたがしたかったことは、自分たちの血筋を残すことだったのね。  
だからこそ、陛下はあなたのしたことを許した……きっと今頃、いい夢をご覧になっているでしょう」  
「……じゃあ、君のしたいことは何なの? 君の家が公爵を継ぐこと?」  
「それ、は……」  
かすかにヒルダの体が揺れる。  
ヒルダはその瞬間まで忘れていた夢を思い出していた。  
――マッシミリアーノもいつかは死ぬ。  
自分の体には正統の血が流れ、アルフレドには前大公の血が流れている。  
二人は若く、どちらが公爵を継いでもおかしくない。  
ならば、モンテヴェルデは若い女公爵とその夫の治める国となって――  
 
(馬鹿ね、私)  
まだ物を知らなかった少女の夢だ。  
何も知らないから夢想に浸り、それが実現するかのように思うことが出来ただけ。  
成長したのはアルフレドだけではない。彼がただの若者から将軍となったようにヒルダも……。  
「私は、モンテヴェルデ公の摂政。領民を守り、臣下の封土を保ち、国を残すこと。  
それが私のなすべきことよ。聞かなくても分かるでしょう?」  
そう言って、ヒルダは僅かに胸を張った。  
「……本当に?」  
「ええ、そうよ。いいこと、大人になったのが自分だけだと思わないことね。  
それにもう、アルに守ってもらわなくたって、私は立派にやっていけるの。  
あなたの忠誠は、あなたが捧げるべき女性に捧げたらどうかしら――アルフレド」  
突き放すように言うと、ヒルダはアルに背を向けた。  
一瞬彼女の髪が光を弾き、アルの目をくらませる。  
次に目を凝らしたときには、もうヒルダの姿は消えてしまっていた。  
 
「困ったものだな、姫さまも」  
柱の影から姿を現したのは、ジャンカルロだった。  
彼もまた一部将としてアルより先に大公に謁見していたのだが、それをアルが知る由もない。  
「……立ち聞きとは、趣味が悪い」  
「おや、とっくに気づいておられたのでは? だからわざと……いや、まあそれはよろしい」  
「閣下には願わしい状況でしょう。それとも僕と摂政殿下が仲良くするのを望んでおられる?」  
「若者の語らいに口を挟むほど、野暮ではありませんのでな」  
ジャンカルロが話をはぐらかしているのはアルも気づいたが、何も言わなかった。  
「姫さまは大局を見失っておられるようにも思えるな。  
領民を保護するのも大事だが、部分を助けて全体を殺しては何にもならぬ。  
おそらくフェラーラのジロラモが吹き込んでいることなのだろうが。  
ここのところ奴をまるで参謀のように連れ歩いておられる。つい先日も……」  
「いや、もしヒルダの言うとおりにしたら、聖職者は黙っていなかったでしょう」  
 
モンテヴェルデには今無数の難民が押し寄せていた。  
その多くは周辺の村々からトルコを恐れて逃げ出した農民だった。  
町が安全か、それとも故郷を捨て流民となるのが安全なのか、それは誰にも分からない。  
だが現実にトルコ軍は村々を襲い、食料を奪い、住民を殺戮している。  
遠い将来など考える余裕すらない。  
目の前の災いから逃れるために、農民は持てるだけの財産を持って町に逃げ込んだのだ。  
アルやジャンカルロはこれを幸いと、難民たちの財産に重税を課した。  
食料は分配するため全て取り上げ、持ち込んだ財産にふさわしい税を取り立てる。  
無用な人口を抱えて籠城する不利を減らすためには仕方のないことだった。  
ところが、これに強硬に反対したのがヒルダだった。  
彼女は代案として聖職者に税を課すことを提案した。  
教会は領主たちとはまた別に「十分の一税」などの税を農民から取り立てている。  
聖職者に軍役の義務はない。だから代わりに財産の一部を差し出させようというのだ。  
提案者はヒルダだったが、考えたのはジロラモに間違いなかった。  
彼は日頃から「聖戦を前にのうのうと特権を維持する教会上層部」を非難していたのだ。  
だが、アルフレドたちは教会を敵に回すことを恐れ、この案に反対した。  
結局、「聖職者が難民の保護に努める」という約束を取り付け、何とかヒルダを納得させたのだった。  
 
「……殿下の説得のおかげで、あれが評議会の議題に上がることもなく、助かりました」  
ジャンカルロは大げさな身振りで感謝を示した。  
評議会にも多くの聖職者が世俗領主の肩書きで参加している。  
自分たちへの課税が提案されただけでも、その場が紛糾したであろうことは目に見えていた。  
「おかげで、僕はジロラモの恨みも買ってしまったようだけれどね」  
アルの口振りは身に迫る危険など全く気にも留めていない。  
「これは、剛胆でいらっしゃる。しかし気をつけた方がよろしい。何しろ前例がありますからな」  
脅かすように、ジャンカルロは急に声をひそめた。言われた少年は苦笑する。  
そんな物言いに、アルはもう慣れすぎていた。  
彼から何か利を得ようとすり寄って来る貴族や聖職者、御注進屋におべっか使い。  
その内容がたわいもない誹謗や噂話であっても、彼らはさも重大そうに声をひそめる。  
 
「ジロラモが暗殺者でも雇いましたか、『山の老人』でもあるまいに」  
「やま……何のことです」  
「ヴェネツィア商人マルコ・ポーロが伝えたところによると、ムスリムの中には暗殺を生業とする……  
いえ、それはどうでも良いこと。『前例』とは何でしょう?」  
まだ不思議そうな顔のジャンカルロだったが、アルは話を元に戻す。  
些末な講釈をしてしまうほど、ジャンカルロに親しみなど感じてはならない。心の中でそう戒める。  
「……殿下のお母上を殺した罪、ですよ」  
「母?」  
今度はアルが戸惑う番だった。  
「母」ほど、アルにとって馴染みのない言葉はない。  
「木の股からお前は生まれた」と言われれば信じてしまうほどに、彼には関わりのないものだ。  
 
「母は苦悩の末、病で死んだ。検死は厳格を極め、疑いを差し挟む余地は無かったと聞きます」  
「それは前のお后さまの事でしょう。私が申し上げているのは殿下の『ご生母さま』のことです」  
アルの体が震えた。  
「その人が亡くなったのは、誰のせいでもない。その原因は……」  
男子を生んだ妾が、子のない正妻を追い落とす――  
その恐怖ゆえに后は発狂し、アルの母をいびり殺した。  
アルフレドは、自らの誕生によって二人の母を失ったのだ。  
「……僕にある」  
 
だがジャンカルロは首を振った。  
「確かに筋は通っている。跡継ぎを巡るご婦人同士の確執。よく聞く話だ。  
しかし、事実は――もちろん僅かな者しか知りませんが――違う。  
あなたと母上が亡き者になって喜ぶ者は、お后さま以外にもおられた。お分かりでしょう」  
彼の言いたいことは、アルにもとっくに分かっていた。  
アルの肩を、ジャンカルロはしっかりと抱いている。ジャンカルロの息が首筋にかかった。  
「殿下が生まれたために、自分の娘が継承権を失うことを恐れた人間がいたわけです。  
お后さまの妹君とその夫。つまり……ヒルデガルトさまのご両親が」  
ジャンカルロの顔にはためらいも苦痛もない。  
殺人の告発をしているというのに、彼は微笑んですらいた。  
「彼らが、ご生母さまの仇です」  
 
 
3.  
窓から聞こえる町の喧噪がひときわ高くなったのは、夜明け直後からだった。  
同時に、日曜日でもないというのに街々からミサの祈りが挙がる。  
遂にその日が来た。  
今この瞬間、千人の男たちが剣を握り、兜を被り、城壁に向かおうとしている。  
 
ルカもまた、五指城の部屋で一人支度を始めていた。  
腕と首回りに鎖を編み込んだ服を身につけ、歩きやすいよう革靴を履く。  
それから太腿とすねを守る足鎧をはめ、腰回りを守る鎖帷子を巻き付ける。  
次に身につけるのは袖のない革の上着と胸甲。背中を守る鎧までは金が足りなかった。  
それでも城の兵士だった頃に比べれば随分「安全」になった、とルカは思う。  
頭巾と皿形の兜を被る。弓を引く邪魔になるから手甲はない。代わりに鋲を打った革手袋をはめる。  
最後に腰のベルトの左右に剣と矢筒を結びつけ、弓を手に取った。  
 
一晩の間に冷え切った鉄が、ルカの体に重くまとわりつく。  
しばらく腕を振り回したり、部屋を歩き回ったりしてみる。特に違和感はなかった。  
ふう、と息を吐きつつ窓辺に座る。弓の具合を確かめるためだ。  
傷みはない。弦も張り直したばかり。弓を背負うと、次に剣を抜き放つ。  
「……こいつを使う状況にはなりたくないね」  
光に刃を曝しながら独り言ちた時、不意に扉を叩く音がした。  
 
「……そうやって、いつも怯えているのかしら?」  
抜き身を構えたまま自分を歓迎したルカに、ステラは呆れたように言った。  
当の本人は口の中でぶつぶつと不満を漏らしながら、剣を鞘に収めている。  
ステラの顔を見ようともしない。  
――もう、まったく……。  
ため息を吐いて、ステラはそっと机に手をついた。  
汚れた杯に触れてしまい、慌てて手を引っ込める。  
「……何しに来たんだ。こんな時に」  
ようやく悪態をつき終わったのか、ルカはステラの方に振り向く。  
「悪いがもうすぐ持ち場につかなきゃならないんでな。行けねえぜ。ヒルダさまがお呼びでもな」  
ルカの隊はアルフレドの軍団に属する。その持ち場は町の南側。城から最も遠い場所だ。  
だがルカの口振りには、距離や時間の心配よりも、ヒルダの召還に対する露骨な嫌悪があった。  
 
「ヒルダさまがこんな大事な日にそんな馬鹿なこと仰るわけないでしょう」  
「そうかい。あんたが来るもんだから、俺はまたアルフレドのことで癇癪でも起こしたのかと」  
話が長引くと思ったのか、ルカは兜を脱いで机に放り投げた。  
重々しい音がして、ステラは思わず首をすくめる。  
「冷たい言い方ね。仮にもかつては城の……」  
ルカが鼻を鳴らした。  
その不機嫌な音色は、ステラに言葉を失わせるには十分だ。  
 
「ルカは……」  
「何だ」  
言い淀むステラに、ルカはぶっきらぼうに答えた。  
彼女の視線を避けるように、抜いた短剣を手持ちぶさたに弄くっている。  
「ルカは、随分私に不満がありそうね」「……不満だって?」  
突然ルカがステラの方に歩み寄った。手には短剣が握られている。  
その迷いのない足取りに、ステラは後ずさる。  
無言で迫る武装した男。その唐突さは十四の少女を怯えさせるには十分だった。  
ステラを壁際に追いつめるようにルカは壁に手をつく。彼女の頬を、短剣の切っ先がかすめた。  
 
「俺を金で操ろうとしたこと、俺を馬鹿にしたこと、確かに不満だらけさ。分かるか、このガキ」  
「が、ガキって……」  
反論する間も与えず、ルカは顔をぐいっとステラに近づけた。  
「……だが、一番気にくわねえのは、お前が本当はヒルダさまを慕っちゃいないってことだ」  
「え、ち、違っ……」  
「違う? じゃあ何であんな糞坊主の言うことをはいはいと聞いてるんだ。  
誰のせいで、誰のお陰でアルを裏切るはめになったと思ってるんだ!」  
そのまま、さらに顔を近づける。ルカの額が、ステラの額に触れた。  
 
「……あなたには悪いことをしたと思ってる。共犯者にしてしまって――」  
「ふざけるな」  
ルカの口調に、怒気がこもった。  
「『悪いことをした』? お前が何をした。お前は何もしてない。  
まさか、それで情けをかけてるつもりか? 違うね。情けをかけてるのは俺の方だ。  
お前の命と引き替えにされたところで、奴の脅しに従う必要なんてないんだからな。  
なのになんで……くそッ、自分の甘さに涙が出る」  
ルカが体を離す。軽い擦過音と共に、短剣は鞘に収まっていた。  
それまでステラを包んでいた、殺気のこもった圧力が消える。  
だというのに、ステラはまるで縫いつけられたように壁から離れられなかった。  
 
「……待って」  
「時間だ。今晩まで生きてたら用事とやらを聞いてやるよ」  
扉に手をかけるルカをステラが引き留める。  
ベルトを片手で握り、もう一方の手をルカの拳にねじり込んだ。  
眉をひそめつつルカは手を開く。そこに握らされていたのは小さな布だった。  
燃える剣を手にした有翼人が刺繍されている。戦士の守護天使ミカエルだ。  
刺繍したてだというのに既に糸はほつれ、間隔は不揃い。せっかくの天使も胴長短足に見える。  
お世辞にもうまいとは言えない。  
「……くれるってか」  
こくり。  
それ以上の言葉を待っても、ステラは何も言わなかった。  
ただうつむいたまま、ルカの不躾な目に自分を曝している。  
「こんなもん持ってても矢玉は避けてくれない」  
こくり。無言で頷くステラ。  
「…………感謝はしねえぞ」  
こくり。  
三度同じことが繰り返され、ルカは刺繍を鎧の隙間に捻り込んだ。  
 
貴婦人が騎士に肌身の品を託すとき、騎士はそれを信頼の証とし戦場に赴く。  
彼は婦人の名誉を汚さぬよう、正々堂々と危険に身をさらし、自らの勇気と技量のみで敵と渡り合う。  
そして味方には献身を、敵には慈悲を――  
だが昨今の戦場は、もはやそのような浪漫を許さぬ場となっていた。  
そこを支配するのは火と鉄。  
硝石と砲車と計算尺が勝利と敗北、生と死を司るのだ。  
 
 
4.  
やがて、日は昇りきった。  
二つの軍勢が沈黙の内に対峙する。  
モンテヴェルデ兵は城壁に、塔の頂上に、そして稜堡に鈴なりになっている。  
防衛の準備は整った。  
町を取りまく空堀の底には杭や落とし穴が設けられた。  
また、残土を盛り上げて作った土手が堀の内周に沿って築かれていた。  
その背後に、槍兵や下馬した騎士が控え、トルコ兵を迎え撃つ。  
無数の杭や柵が埋め込まれたその姿から、兵士や市民はこの土手を「睫毛」と呼んでいた。  
城壁の上には石弓手や銃兵、さらに大小の投石機や火器が並んでいる。  
防衛の要はフランチェスコの造った稜堡だった。  
地下一階、地上三階のこの建物は、町の南に一つ、西に二つ、北に一つある。  
それぞれが十門ほどの真新しい大砲を中に備える。どれも工房で作られたばかりの新型だ。  
 
稜堡は、城壁を守る四つの軍団の本陣でもあった。  
北稜堡は大公直参の軍団が守備についている。  
西側の二つのうち、北寄りの稜堡はディオメデウスとナポリ人が、南寄りはジャンカルロが守っている。  
アルフレドもまた、南側の「聖セバスティアノ稜堡」にいた。  
彼のいる屋上は広く、百人の男が座れるほどだ。  
今そこには小さな砲が配置され、砲手が作業を続けている。  
装填中に砲手を援護するため、十人ほどの石弓手や弓兵も配置されている。  
さまざまな兵種が互いの欠点を補い合うことで、初めて防衛戦は成功する。  
けれども、外国兵を除けば、モンテヴェルデ軍の質はそんなことが出来るほど高くない。  
アルはそれを補うため、稜堡を建てさせ、火砲を買い込み、さまざまな手を打ってきた。  
だが長大な城壁の防衛は、結局一人一人の兵士の肉体と気力に掛かっている。  
ジャンカルロやコンスタンティノがいかに名将であろうと、全てに目を配ることなど出来ない。  
最後に期待できるのは民兵の郷土愛、そして傭兵たちの経験。それだけだった。  
 
――かたやトルコ軍の陣は広く、厚い。  
塹壕と馬防柵を張り巡らせた攻城砲陣地と、歩兵方陣が町を囲んでいる。  
歩兵の隊列の中には車輪つきの盾や、破城槌が見える。  
さらに、幾つもの投石機と攻城櫓が、まるで巨人のように兵士たちを見下ろす。  
陣地の背後には白装束のイェニチェリ軍が切り札として控えていた。  
あちらこちらで歯車のかみ合う音、誰かを叱咤する号令が響いている。  
投石機は巻き上げられ、砲弾が大砲に収まっていく。  
そうやって小さな人間の力が、巨大な戦争機械に力を蓄えるのだ。  
城壁からほぼ二ミリア(三・六キロ)ほど離れたところに大きな天幕が建っていた。  
幾筋もの旗が翻り、騎兵に守られたそれが、大将アクメトの本陣だった。  
彼の視界には、モンテヴェルデ市の城壁と、それを取りまく彼の軍団が収まっている。  
背後に太陽を背負ったキリスト教徒たちが、時折白刃や鎧を閃かせる様子も見える。  
しかし、彼に何の不安もなかった。  
コンスタンティノープル陥落に立ち会った日の記憶が、まざまざと蘇る。  
あの日のスルタンのように、彼は鎧もつけず、青い衣装に刀を佩いただけの姿で町を見上げていた。  
 
「パシャ、少しよろしいですか」  
「……砲術長か。作業が遅れているようだな」  
背後から近づいた砲術長に、アクメトは冷ややかな声を浴びせた。  
開口一番の叱責に砲術長はわずかに顔をしかめる。  
彼に対する不満は、一つや二つではない。だが、ここで争っても仕方のないことだ。  
「地盤が緩いせいです。このあたりはどこを掘っても海水がにじみ出てくる。  
敵もそれと分かって我々が砲を据え付けるのを放置した。狡賢い奴らです」  
「わざわざキリスト教徒を称えるために来たわけではあるまいな?」  
露天に設けられた軍議用の卓に砲術長を導きつつ、アクメトはまず自分から腰を下ろした。  
手で席を勧めるアクメトに目配せしながら、砲術長はその隣に座る。  
本陣のある丘からは、南と西側の攻城砲陣地の様子は特にはっきりと分かる。  
砲手たちはまだ必死の装填作業を続けていた。  
「砲が密集しすぎなのです。一本の進入路に対して余りに多くの砲と馬車を通さねばならなかった。  
おかげで道は泥沼のようになってしまった。弾薬の集積も終わっていないのに……」  
砲術長の用事が陳情だと気づき、アクメトはその声を手で遮る。  
「戦の焦点は南と西だ。だから砲を集めた。北から攻めても突撃正面が狭すぎるし、五指城もある。  
城が乗っている岩盤はお前の砲でも打ち砕けまい?」  
アクメトの言うとおり、モンテヴェルデ市の北側は五指城が見下ろしている。  
突撃する兵は良いように撃ち下ろされるし、密集して敵の砲火を浴びれば大損害を被る。  
その点、町の南側は平地で、軍や大砲の展開もたやすく見えた。少なくとも陣地を作り出すまでは。  
 
「弾は撃つたびに後方に取りに行けばいい。とにかく早く砲撃を始めるのだ。  
一度砲撃を浴びせてやれば、それでキリスト教徒の士気は挫けるだろう」  
砲術長はアクメトに聞こえないよう小さく舌打ちをした。  
アクメトはコンスタンティノープルの陥落を見ているせいか、どうも巨砲の威力を過信している。  
だがあれから約三十年。キリスト教徒とて三十年を無為に過ごすほど馬鹿ではあるまいに。  
「ですが、反撃の砲火が飛んできたとき、今の状態では素早く砲を下げることも出来ません!」  
「どんな武器があるというのだ? 我らの大砲より遠くに飛ぶ武器など聞いたことがない。  
いや、万が一あったとしても、そんな巨大なものを城壁の上に据え付けたりは出来ようか?」  
攻城戦では一般に包囲側の方が有利である。  
費用に目を瞑りさえすれば、投石機だろうが大砲だろうが、幾らでも巨大な物を投入できるからだ。  
一方籠城側はどうしても城壁や塔に飛び道具の大きさを制限されてしまう。  
確かにモンテヴェルデの投石機も大砲も、トルコに比べればおもちゃのように小さいものだった。  
「城壁のどこかを崩せばあとは歩兵の仕事だ。貴官の心配するほどのことはない」  
そう言うとアクメトは軽く首を振った。それを見た衛兵が、砲術長へと近づいてくる。  
どうやら面会は終わりらしい。しぶしぶ彼は立ち上がる。  
確かに彼の配下にある巨砲ほど遠くまで届く武器はキリスト教世界には存在しない。  
しかし、どれほど巨大な大砲も、最大射程から撃ったのでは威力に乏しいのだ。  
経験上、最大射程の三分の一程度まで近寄らなければ、砲撃が「散って」しまい大した効果はない。  
砲術長は巨砲も軽砲もほぼ同じ距離――壁から半マイル(五百メートル強)――に配置させた。  
(この距離なら、あるいはキリスト教徒の大砲も……いや、まさか……)  
砲術長は恐ろしい想像を振り払うと、部下たちを督戦するために丘を下っていった。  
 
「……アル。心配事か」  
すぐ背後にいたコンスタンティノが肩を小突き、アルフレドは我に返った。  
「どうした、寝不足みたいな顔をして。そんなに遅くまで名残を惜しんだのか、昨日の夜は?」  
「え……ばっ、変なことを!」  
周囲には聞き取れないような声で、アルはコンスタンティノを叱る。  
とはいえその指摘もあながち間違ってはいなかった。  
「なに、恥ずかしがることはない。『明日は最期』という晩は、そういうことがよく起こる。  
俺も昨日はじっくり念入りにかわいがってやった」  
「……ニーナを?」  
「験かつぎさ。あれを抱いておけば、俺は死なない。こいつは一度も外れたことが無いんだ」  
そう言って片目をつぶり、笑って見せた。  
どうやらアルの気持ちをほぐすための冗談だったらしい。  
だが、アルは少し顔をゆがめただけで、すぐトルコ軍の方に目を向けた。  
いつもとは少し違う反応に、コンスタンティノも戸惑う。  
「……どうした、大公に呼び出されて以来おかしいぞ。何か変なことでも言われたか。  
それともまた姫さまと喧嘩でもしたか」  
「いや、何でもない。ごめん、集中する」  
そう言うと、アルは自分で顔を一つ叩いた。  
 
アルフレドの頭を占めていたのは、ジャンカルロに吹き込まれた言葉だった。  
あれを、アルは無批判に信用しているわけではなかった。  
ヒルダの両親が自分と生みの母の命を狙った。確かに不自然ではない。  
兄弟姉妹で玉座を巡る争いがあるのはムスリムのハーレムに限らないのだから。  
しかし、証拠は何もない。  
母が死んだ原因すらアルフレドは知らない。病死か、傷を負って死んだのか、それとも毒殺なのか。  
犯人を推理するすべすらないなら、ヒルダの父母を疑うなど馬鹿げている。  
ジャンカルロも今はアルに協力しているが、それはトルコ軍を退けるまでの話だ。  
その後は再び大公の座を巡って争う運命にある。  
ならば彼が、アルとヒルダの仲を裂こうと今から策を弄したとして何の不思議があろう?  
(でも)  
一つ、たった一つだけアルの心には晴れない疑念がある。それが、棘のように胸に刺さって抜けない。  
(幼い僕に、母を殺した犯人を教えたのはヒルダではなかったか――)  
アルの家族と言えるのはヒルダだけだった。ヒルダだけが彼の面倒を見、話し相手にもなってくれた。  
生母を殺した犯人を教えてくれたとすれば、ヒルダしかいない。しかし……。  
 
幕僚たちを左右に控えさせ、アクメトは自軍を見下ろしていた。  
今、陣地の一角で彼が待ち望んでいた旗が掲げられた。最後の砲の装填が終わったのだ。  
すでに他の兵士たちは炎天下何時間も号令を待っている。疲労と苛立ちは既に限界だった。  
「パシャ、ご命令を」  
脇に控えていた砲術長が絞り出すように言った。  
一万の兵が、アクメトの指示を待っている。それを思うと彼は言いようのない興奮を覚えるのだった。  
――俺も、結局あの人と同じだ。  
自分もスルタンもこの興奮に取り付かれてしまったのだ。指一つで数千の命を奪う興奮に。  
「攻城砲を放て。歩兵隊は砲撃後、号令と共に前進せよ」  
逸る心を押さえつけるように、アクメトは押し殺した声で命じた。  
 
両軍の間に静寂が走った。次に、雷鳴。  
「撃ったァ!」  
誰かが叫ぶ。  
次の瞬間、建物を揺さぶる巨大な空気の波が押し寄せ、アルはわずかによろめいた。  
トルコ軍の陣地からまき上がる砲煙が視界いっぱいに広がる。  
つかの間、逃げるべきかためらったが、そんな暇はなかった。  
 
「……白煙、命中!」「お見事!」  
砲術長の周囲で、そんな声が挙がる。  
五門の巨砲のうち、四門が確実に命中した。軽砲の命中弾は数え切れない。  
そんな声をむっつりと聞き逃す砲術長に、アクメトも微笑みかけた。  
だが、砲術長の表情は変わらない。  
確かに命中した。それも自分が狙ったとおり「あの」建物に、だ。  
だが、あの真新しい建物がもし「アレ」だとしたら……。  
 
「……弾き返した!?」  
兵士の歓声に、目を瞑っていたアルは初めて我に返った。  
確かに自分の建っていた稜堡に敵の砲弾は命中した。その音は聞こえたし、振動も感じた。  
まるで建物ごとひっくり返るかと思うほどの衝撃。だが、自分はまだ生きている。  
いやそれどころか、稜堡はびくともしない。  
歓声は、後ろにそびえる城壁の兵士たちのものだった。  
「砲手ども……撃ち返せぇっ!」  
呆然とするアルの代わりに、コンスタンティノの叫び声が高く響いた。  
 
――あれを造った奴は天才か、悪魔だ  
砲術長は憎々しげにそれを見つめていた。  
敵の稜堡は確かに数十発の命中弾を浴びた。それなのに、僅かに表面の壁が砕けているだけだ。  
トルコ最大の砲弾を食らったというのに――!  
巨砲の再装填が終わるのは二時間後。だがその間にあの程度の損害など修復してしまえる。  
(とにかく、次の砲弾を運ばせて……いや、火縄銃隊に妨害射撃を……)  
そんなことを考えていた砲術長の目に、「稜堡」が赤い火を噴き出すのが見えた。  
 
「至近弾! 角度修正、黒一つ下げ!」  
「黒一つ下げ! 次は外すな!」  
稜堡内の砲撃室で、フランチェスコは叫ぶ。  
撃ち終わった薬室が砲から取り外され、新しい薬室がはめ込まれる。  
たった一度の射撃で、もう誰も彼も煤まみれだった。  
だが、汚れた顔の中で目だけがらんらんと輝き、皆がむしゃらに働いている。  
とにかく、一つでも多くの砲を潰さなくてはならない。  
「角度下げろ! 早く! ぐずぐずするな!」  
砲手たちは無我夢中で大砲に取り付く。  
フランチェスコは身の危険も忘れ、必死に働き続けた。  
 
「アクメト・パシャ、砲を後退させる許可を! 敵に狙われています!」  
「なんだと! まぐれ当たりではないのか!?」  
砲術長は青ざめていた。  
敵の砲術師の練度は想像以上に高い。  
最初の砲撃はかろうじて土嚢が受け止めたものの、次は確実に……  
だが、アクメトの号令が出る前に、稜堡が再び火を吹いた。  
 
兵士たちの目の前で、トルコの巨砲に砲弾が命中し、ばらばらになって吹き飛んだ。  
「命中!」「当たったァ!!」  
一斉に歓声が上がる。誰もが一斉に武器を掲げ、足を踏みならして叫んでいる。  
「次は隣のヤツだ、やっちまえ!」  
 
アクメトと砲術長が見守る中で、トルコ軍の砲撃陣地に砲弾が次々と降り注ぐ。  
砲を後退させろという命令も間に合わず、砲手は我先に逃げ出している。  
運ぶ人間の居なくなった砲に、モンテヴェルデ軍の狙いすました一弾が命中する。  
逃げ遅れた兵が砲弾の破片になぎ倒され、整列した歩兵方陣がたじろいだ。  
「……歩兵隊、突撃! 投石機と攻城機械は後ろに下げろ!」  
「パシャ……?」  
伝令が聞き間違いかと首を傾げる。  
だが、振り返ったアクメトの顔は怒りで赤を通り越し、真っ青になっていた。  
「これで投石機まで失われてみろ! どうやって壁を壊すのだ! お前が爆薬を抱えていくか?」  
怒気に押された伝令は、慌てて馬に飛び乗り本陣を飛び出した。  
「パシャ、援護無しに歩兵を突出させては……」  
「兵が怯えている。今攻撃を取り消したら総崩れになる! そんなことも分からんのか馬鹿者が!  
イェニチェリにも伝令だ! 一歩でも後退する者があれば、容赦なく斬れ!」  
 
死の命令がトルコ軍の陣地を駆けめぐり、軍楽隊が一斉に甲高い調べを奏でる。  
歩兵隊は一斉に陣地を飛び出す。  
剣を振りかざし、アラーの名を唱えながら、城壁目がけて数千の男たちが走り出した。  
 
 
(続く)  
 

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