1.  
その日、突撃は三度繰り返され、三度とも撃退された。  
夕暮れを迎えたとき、堀には百を超えるトルコ兵の死体が横たわっていた。  
それだけの犠牲を払っても、トルコ軍は「睫毛」を抜くことすら出来なかった。  
モンテヴェルデ軍の損害はごく僅かで、城壁の損傷も小さい。  
兵士たちは疲れ切っていたが、圧倒的な大軍に対する勝利とあって、士気は上がっていた。  
 
ヒルデガルトは城壁へと馬を進めていた。  
僅かな護衛と、決して側から離したことのないステラを連れての視察だった。  
勝利。  
今日一日城の礼拝堂で祈りを捧げていたヒルダにとって、それは僥倖だった。  
トルコ兵が乱入する瞬間を恐怖とともに待ち受けた今日が、やっと終わろうとしている。  
文字通り「あるとは思っていなかった明日」が繋がったことに、ヒルダは改めて感謝した。  
だが、馬から見下ろす町の人々にそんな喜びは感じられない。  
「……どうしたんでしょう、姫さま」  
ヒルダの隣を馬で進むステラが訝しげに尋ねた。  
確かに、城壁から宿舎へと引き上げる兵士の顔に比べて、女や子供の表情は固い。  
その原因にヒルダは気づいていた。  
「空腹なのよ。見てご覧なさい、あの粥の薄いこと」  
声をひそめるヒルダの指摘で、ステラは初めて人々の手にした椀が「食事」だと気づいた。  
まるで水のような麦粥に、カビが生えたパン。  
教会の前で僧侶から無造作に渡されるそれを、無言で受け取る人々。  
何かの間違いではないか、という目で見返すが、すぐ抗議など無意味と悟って去っていく。  
「これが『教会の施し』の正体よ」  
「でも……戦士が空腹では戦争など出来ません」  
「そうね。でも彼らの持っていた食料まで取り上げるのはやりすぎじゃなくって?」  
ステラは答えなかった。  
女主人の非難がアルフレドに向けられているのを察して、議論を打ち切ったのだ。  
不意に、ルカは今何を食べているのだろうと思ったが、すぐ我に返った。  
城壁の登り口に到着したのだ。  
 
町の西南、聖マルコ稜堡へと続く傾斜路。  
そこに待っていたのはジャンカルロとフェラーラのジロラモだった。  
「申し訳ありませんが、馬を下りて頂きます」  
まだ甲冑姿のジャンカルロに言われ、ヒルダ一行は馬を下りた。  
傾斜路は馬車一台が通れるぐらい広い。  
これは稜堡に大砲を引っ張り上げるためにわざわざ造られたものだった。  
ジャンカルロに先導されながら、ヒルダは坂道になったそれを登る。  
坂の途中には、所々に小さな出っ張りが付けられている。  
ここに砲車の車輪を引っかけて、人夫たちが一息つくのだ。  
 
城壁の中ほどで傾斜路は平らになり、城壁を貫く通路へと繋がっていた。  
城壁を穿ちアーチで補強した通路を抜けると、そこはもう稜堡の中だった。  
半球状の部屋は薄暗い。僅かに開いた砲門から、かすかに夕日が射し込んでいる。  
「……臭いでしょうが、我慢していただきたい」  
なぜかジャンカルロは笑いながら言った。確かに焦げたような匂いがヒルダの鼻をつく。  
嗅いだことはなかったが、それが火薬の匂いだと彼女は直感的に理解した。  
天井に開けられた換気口は、使い込んだかまどのように煤で真っ黒になっていた。  
「トルコ人をお目にかけましょう、こちらから屋上に上がれます」  
ジロラモが指し示す部屋の隅には狭い螺旋階段が設けられていた。  
ヒルダたちは一列になりながらそこを登る。  
「屋上へは、ここからしか上がれないのですか?」  
「その通り」  
ステラの問いに、ジャンカルロが答えた。  
「敵が稜堡を占拠しても、すぐには城壁の内部に侵入できぬように、だ。  
大砲のある部屋は内側から閂がかけられるし、先ほど通った通路にも落とし扉がある」  
「それでは、命令を伝えたりするのに不便でしょう」  
ヒルダが口を挟むと、ジャンカルロは無言で首を振った。  
「この階段の反対側の隅に、稜堡を貫く『井戸』があります。  
それを使えば各部屋が声をかけあうことも、釣瓶で物をやりとりすることも出来ます。  
危険な火薬などは地下に蓄えてあり、『井戸』を使って各部屋に分配するのです」  
ジャンカルロが説明している間に、一行は屋上へとたどり着いた。  
 
屋上に出たとたん風にあおられ、ヒルダの服が翻る。  
白いふくらはぎが寸時露わになった。  
武装した集団の中にあって、色味にあふれた女の衣装は例え質素でも艶やかだ。  
そこに現れた女性が何者か、兵士たちはすぐ気づいた。  
屋上にいた者は目礼し、離れたところから見ていた男たちは何事かを噂し合う。  
「殿下、風が寒いでしょう。これをどうぞ」  
「ありがとう」  
ジャンカルロは自分の外套を脱ぐと、ヒルダの体を兵士の目から隠した。  
その意味に気づいた護衛の一人が、ステラにも同じことをする。  
外套の前を両手でしっかり閉じ、ヒルダは稜堡の先端に立った。  
足下の方では、数人の男が槍や弓を手に「睫毛」の内側を巡回している。  
「睫毛」の外に広がる堀の底に、白い人影が散らばっていた。  
「あれは、トルコ人の死体?」  
「ええ、異教徒どもです」  
生き生きと答えたのはジロラモだった。黒い頭巾の奥に笑みが浮かんでいる。  
「今日、ジャンカルロ殿の軍団だけでトルコの攻城砲を四つ、投石機を五つも破壊された。  
討ち取った敵の数はざっと三十人。神のご加護により、こちらの被害は極めて……」  
「そう浮き足だってもらっては困るな、ジロラモ殿」  
一歩下がったところに立っていたジャンカルロはぼそりと呟いた。  
抗議の声を上げようとするジロラモを遮るようにして、ヒルダが尋ねた。  
「何か問題があるのですか?」  
当然だ、というようにジャンカルロは肩をすくめる。  
「今日だけで私の軍団に割り当てられた火薬の四割以上を使ってしまいました。  
パッサヴォランテ砲の弾は一門当たり三発しかありません。  
射石砲と手銃用の火薬は残り七百五十リブラ、備蓄のほぼ半分です。  
弾丸は新たに作れるし、フランチェスコ殿は火薬の代用品も準備出来るそうです。  
しかし明日からは兵士どもに『武器を節約して戦え』と命じなくてはならんでしょう。  
実際……何日持ちこたえられることやら」  
ジャンカルロの軍団は聖マルコ稜堡を核に、ほぼ一キロの長さの城壁を担当している。  
その下には騎士三十五人を含む二百人以上の兵がいる。  
新型のパッサヴォランテ八門以外に弓八十張、石弓二十丁、投石機三器などを持つ。  
だが火器の弾薬だけでなく、矢や投石用の石も足りない。  
 
「卿、まさか降伏を……」  
「幸い」  
ヒルダの弱々しい声を、ジャンカルロは大声でうち消した。  
「トルコ人は我々の大砲の威力を十分認めた。  
ご覧なさい。やつら、投石機も大砲もあんなに遠くに待避させている。  
あそこからではろくに当たらないし、威力もさっぱりでしょう。  
人足を集めているところを見ると、塹壕を掘りながら徐々に接近するつもりですな。  
まあ城壁に辿り着くのに二週間といったところか」  
ジャンカルロが指揮杖で指し示すのを見て、ヒルダはほっと安堵の息をもらした。  
寄り添うステラも、そっとヒルダの手を握る。  
 
「ふん! そもそも火薬だの何だの、いかがわしいものを頼っているのが間違いなのだ!」  
遠巻きにヒルダたちのやりとりを聞いていた兵士がぎょっとした顔を向けた。  
とくに砲手の顔に怒りの色が浮かんだのも当然だった。  
「ジロラモ殿、それは言葉が過ぎましょう。フランチェスコ殿は良きキリスト者ですぞ」  
ジャンカルロがとがめても、ジロラモの声は止まなかった。  
「では卿はなぜ火薬が弾け、炎と風を生むのかご存じか?  
聖書にはあのような怪しげな物は記述されておりませんぞ。  
何故ならそもそも火薬は魔術によって生み出されたものに他ならぬから……」  
「もちろん私はなぜ火薬が爆発するのかは知らない。  
だが火薬を発明したのはドイツの修道僧です。あるいはキタイ(中国)とも聞くが。  
とにかく、自然の物質の調合で生まれたのは間違いない。あれも神の知恵です」  
「火薬が敵を倒すのではない、良き意志を持ったキリスト者が異教徒を倒すのだ!」  
ジロラモが叫ぶと、血のように赤い口が露わになった。  
「よろしいか、良きキリスト教徒はたとえ武器が無くとも戦うのだ。  
剣が折れれば束を握って戦い、それも無くなれば拳で戦うものなのだ……。  
腕を切り落とされれば足で蹴り、足もなくなれば噛みつけばよい!  
男も女も、子供も老人も、全てがその気概で戦えば、決して負けはせぬ!」  
「……では、その戦いの果てに、何が残るのでしょうな?」  
ジャンカルロは冷ややかに言った。  
ジロラモはかっと目を見開いた。口の端に泡を浮かべ、噛みつくように叫ぶ。  
「神だ! 神が残る!」  
 
「あ……あれは何?」  
二人のやりとりを遮るように、ステラが堀の向こうを指さした。  
その言葉に、言い争っていた二人も、ヒルダも振り返った。  
堀の向こうに十ほどの人影が見え、それがゆっくりと堀へと近づいてくる。  
トルコ人だった。小さな梯子を担ぎ、それを使って堀の中へと降りていく。  
底に降り立つと、彼らは二人一組になって、散らばる死体を担ぎ始めた。  
「卿、偵察でしょうか……でも、それにしては様子がおかしいわ」  
ヒルダの問いに、ジャンカルロは首を振った。  
「死体を埋葬するのでしょう。  
ムスリムの教えでは、死者はその日のうちに葬らねばならないと決まっているから。  
いや、戦場では普通ですよ。死体を放置すれば二・三日で蛆がわき、疫病の元になる。  
キリスト教徒同士の戦争でも、そうするものです」  
だから攻撃してはならない、ジャンカルロの説明には言外にそんな含みがあった。  
 
「……異教徒の教えなど尊重してやる必要はあるまい?」  
ジロラモの言葉に、一同は再び振り返った。  
そこには、兵士から奪ったものか、弓を構えたジロラモが立っていた。  
「ジロラモ殿、待ちなさい。まさか……!」  
しかしヒルダが声をかけるより、ジロラモの動く方が早い。  
稜堡の縁から身を乗り出すと、止める暇も与えず、ジロラモは矢を放った。  
 
「……なんてことを!」  
トルコ人の背に矢が突き刺さるのと、ヒルダの叫びは同時だった。  
突然の攻撃に、働いていたトルコ人が一斉に逃げ散る。  
鋸壁に足をかけてよじ登ると、ジロラモは叫んだ。  
「聞け、トルコ人ども! 貴様らに埋葬など許さぬ!  
どうせ貴様らが教えを守ろうが守るまいが、行く先は地獄なのだからな!」  
 
「――パシャ、モンテヴェルデから書状が参りました」  
夜、自分の天幕で体を休めていたアクメトのところに、侍従長が姿を現した。  
アクメトは杯を手にしたまま、もう一方の手で入るよう命じる。  
柔らかな敷布に身を横たえる主人に、侍従長はそっと書状を手渡した。  
横になったまま、アクメトは蝋で封をした羊皮紙を開く。  
「……ふん」  
「何が書いてありましたか」  
アクメトが鼻で笑ったのを見て、侍従長は好奇心を刺激されたようだった。  
家臣の疑問にはすぐには答えず、アクメトは傍らの奴隷女に空の杯を突き出した。  
「今日の夕方、死体を回収しに行った兵が矢で射られた話は聞いていよう?」  
注がれる赤い液体を見ながら、アクメトは言った。  
「モンテヴェルデの姫が直々に謝罪してきた。  
興奮した兵が誤って撃っただけで、今後はこのようなことが無いようにする。  
今後の埋葬作業を妨げるつもりはない――だそうだ」  
「滑稽ですな」  
侍従長はそう呟いて、少し笑った。  
アクメトも、それにつられるように声を出して笑った。  
 
ひとしきり二人で笑いあった後、アクメトは声を絞って言った。  
「今日は手酷い打撃を被った……火砲の多くが失われ、兵の命も……」  
「まだ我々の船には多くの兵と武器が積まれています。  
砲術長も船から陸へ大砲を下ろすよう手配したようですし、ご懸念には及びますまい」  
侍従長は主人の憂鬱をはらそうと、ことさら明るく言った。  
手持ちの砲の過半数を失った砲術長には、海軍の砲を配下に置くよう命じていた。  
だが、それが船から下ろされ、陣地に据え付けられるまでは長い日数がかかるだろう。  
「ふふふ」  
だが、思いがけずアクメトが笑ったので、侍従長は首を傾げた。  
「心配などしておらんよ。それどころか、良い知らせだよ、これは」  
さらに首を傾げる家臣に、アクメトは杯を掲げて見せた。  
「戦争だというのに、奴らは謝罪し我々の信仰を尊重すると言う。  
つまり恐れているのだ……我々が本気になるのを、な。  
あるいは、モンテヴェルデの内情は想像より悪いのかもしれんな」  
侍従長は得心がいったように頷いた。  
「……少し揺さぶってみるか。返事を書こう、書記を呼んでくれ」  
一気に酒を飲み干すと、アクメトは不敵な笑いを浮かべた。  
 
 
2.  
それから三日経ったが、状況は変わらなかった。  
多くの大砲を失い、モンテヴェルデの反撃を恐れるトルコは白兵戦を仕掛ける。  
一方弾薬の不足に苦しむモンテヴェルデは、決定的な打撃を与えることが出来ない。  
トルコは稜堡と城壁の前に死体の山を築いている。  
一方、モンテヴェルデは城壁へと伸びるトルコの塹壕を食い止められない。  
こうして、どちらも決め手を欠いたままひたすら末端の兵士の犠牲を積み重ねていった。  
 
各稜堡に向かって平均三本の塹壕が掘り進められている。  
トルコ軍の攻撃は全戦線に渡っているが、それは反撃を分散させるのが目的だった。  
生き残りの僅かな火器に援護されたトルコ歩兵はひたすら城壁へと押し寄せる。  
盾をかざしただけで、矢玉の雨の中を進む彼らは毎日十人単位で倒れていく。  
この三日の内に数カ所で「睫毛」が突破され、城壁に梯子がかけられることもあった。  
しかし僅か数カ所の突破では兵力の優位は決定的ではなく、トルコ軍は撃退されていた。  
 
一方、モンテヴェルデにとっては兵と武器の不足が深刻になっていた。  
塹壕を潰すために兵力を集中しようにも、城壁を守るのに精一杯なのだ。  
予備として残された騎兵も敵の突破点を塞ぐために投入せざるを得ない。  
火薬の不足は相対的に弓と投石機の重要性を増大させたが、どちらも威力で劣る。  
トルコの掘削隊は塹壕の両脇に土を盛り、盾を並べつつ接近してくる。  
その要所要所に配置された銃兵や弓手は、多くのモンテヴェルデ兵を倒している。  
巧みな防備と反撃のせいで、トルコの塹壕は日に日に長さを増していった。  
何よりモンテヴェルデにとって痛いのは、交代の兵がいないことだった。  
トルコは兵の多さを頼みに、夜も砲撃を続け、少数による夜襲を繰り返している。  
その度にモンテヴェルデ兵は持ち場に着かねばならず、いたずらに消耗していく。  
 
さらに三日がたち、攻防七日目を迎えたとき、新たな脅威が加わった。  
稜堡の地下倉庫で弾薬運びをしていた兵が、奇妙な音を聞きつけたのだ。  
それは、トルコ軍が城壁の下へトンネルを掘り進める音だった。  
フランチェスコはそれを予測していた。  
早速頑強な男が市民から選抜され、彼の指揮の下、対抗用の坑道が掘られた。  
そうしてトルコ兵を追い払って爆薬で坑道を塞ぐことで、事なきを得た。  
だがその日以来、戦闘は地上のみでなく、地下でも繰り広げられることになったのだ。  
 
――こうして攻防十日目を迎えても、モンテヴェルデはまだ陥落していなかった。  
 
夕闇は、いつしかモンテヴェルデ兵にとって福音となっていた。  
朝から夕方まで続く波のようなトルコの攻撃も、夕方一旦収まる。  
兵、特に砲手の目が闇に慣れるまで、トルコは無理な攻撃をしようとはしなかった。  
一時間も経てば新たな砲撃と夜襲が始まるのだが、一時の平穏には違いない。  
最後のトルコ兵が闇に消えるのを確かめ、モンテヴェルデの男たちは崩れ落ちる。  
ほとんどの兵士は疲労の限界を超え、動くことも出来なかった。  
うずくまる兵士を縫うように、食料係がパンや干し肉を配って歩く。  
それが今日初めての食事という者もいた。  
ルカも、そんな朝から戦い続けた一人だった。  
 
「お前、怪我したのか?」  
無感動にパンを齧っていたルカに声をかけたのはコンスタンティノだった。  
頭を上げることすら億劫だ、といったようにルカは目だけを声の方に向けた。  
ルカと違って、コンスタンティノは重い板金製の鎧を身にまとっている。  
だというのに、彼はまるで疲労を感じていないかのように、軽やかに腰を下ろした。  
コンスタンティノの視線は、ルカの腕に巻き付けられた包帯状のものに向いている。  
そこには大天使ミカエルの刺繍が施してあった。  
「……怪我じゃない、単なるおまじないさ」  
「そりゃ結構だ……飲むか?」  
コンスタンティノが掲げる水袋を見て、ルカは無言で頷く。  
昼頃に自分の水袋が空っぽになって以来、ルカは一口の水も口にしていない。  
放り投げられた袋を宙で受け取ると、ためらうことなく口をつける。  
「……! こりゃ、酒じゃないか!」  
「おや、お前酒は苦手か?」  
意地悪そうに微笑むコンスタンティノに、ルカは抗議の目を向けた。  
もちろんルカが飲めないわけではない。  
どちらかと言えば、酒が自由に手に入る隊長格への抗議だった。  
 
「ところで……アルは生きてるかい」  
かさかさの喉に引っかかるパンを酒で洗い流し、ルカはようやく一息つく。  
疲れ切った足を延ばすと、もう一口酒を含む。その時初めて味が感じられた。  
「死んでもらっちゃまずいからな。俺はずっとお守りさ。  
かといって安全なところに引っ込んでる訳にもいかん。見極めが難しい」  
兵士たちは将軍の臆病をすぐ見抜く。  
どれだけ公平であろうと努めても、下級兵士の不満は消えたりはしない。  
だがその中でも、将軍が自分の命を惜しんでいると思われるのは最悪だった。  
「あんたも大変だね。アルの顔を立て、兵士の顔色を伺い……。  
『雇い主』の期待にも応えなきゃなんない」  
「ああ、せめて『凶暴騎士団』の十人でもいてくれれば違うんだがな」  
『凶暴騎士団』の半分にあたる一個コンパニアはアルの直率となっていた。  
残る半分のうち、五十騎ほどがナポリ軍団に、残りが北の未完の稜堡に配置されている。  
今のコンスタンティノは一人の部下も連れていなかった。  
 
「知ってるか。アルフレドの奴、兵と同じ物食って女の所にも帰らず、なんだ」  
ルカが顔を上げると、コンスタンティノは笑っていた。  
「俺が『兵の模範となれ』って言ってやったら糞真面目に守ってやがる。  
いい加減、乳離れする年齢だろうにな」  
「……あんまりアルを甘く見ない方がいいぜ」  
不意に釘を刺され、コンスタンティノは驚いてルカに目をやった。  
ルカは白けた目のままちびちびと酒を口に運んでいる。  
「あいつは、あんたを盲信するほど馬鹿じゃない」  
「ほう。俺について何か言ってたかい」  
おどけた調子でコンスタンティノが聞く。  
腰を落ち着ける気になったのか、剣を外すと床に放り投げる。  
ぶつかった鞘が、騒々しい音を立てて転がった。  
 
「あんたがこの仕事を受けた理由。『復讐』なんだろ」  
それだけ言って、ルカは黙った。  
コンスタンティノは、さらに言葉を促すようにルカの顔を覗き込む。  
だが、沈黙は続いた。  
「……なんだ、お前分かって言ってるわけじゃないのか」  
「アルがそう言ってたってだけさ。それ以上は教えてくれなかったけど」  
すねたように顔を背ける。  
だが、不必要な話をしないのはアルフレドの美点だとルカは密かに思っていた。  
少なくとも根も葉もない噂をまき散らす貴族どもよりはずっといい。  
 
「なるほど。では教えてやろう、『復讐』の意味を」  
「……いいのか? 何だか知らないが、そんな大事な話俺に漏らして」  
かまわない、とコンスタンティノは頷いた。  
「どうせ俺たちはこの町に閉じこめられた鼠さ。今更あがいたって始まらない。  
生き残れたら、また違ってくるだろうが」  
自虐的な笑みを浮かべると、コンスタンティノはルカの水袋をひったくった。  
酒でのどを潤すと、一つ咳をする。  
 
「大公ジスモンド二世の時、この国に内乱があったことはお前も知ってるだろう」  
「あ……ああ、俺の爺さんがまだ子供だった頃の話だな」  
突然の話にとまどうルカをよそに、コンスタンティノは淡々と話し続けた。  
「大公の課税に反対したいくつかの都市と地方領主が同盟して、反旗を翻した。  
税の撤廃と都市の自治を要求して、大公の代官を追放したんだ。  
もちろん大公も黙ってはいなかった。ジスモンドは武力で反乱を鎮圧する構えを見せた。  
反乱者たちも、自分たちに賛成する騎士や貴族と共に連合軍を結成した……」  
ごくり。コンスタンティノが酒を飲み干す音がした。  
「……だが、結局大公の方が何枚も上手だった。  
都市連合についた貴族を、さまざまな利権の約束と引き替えに寝返らせたんだ。  
結局反乱者は全て殺されるか逮捕され、最後まで協力した貴族たちも同様の目にあった。  
領地を没収されたり、一家皆殺しにされた家もあった。デ・ウルニ家――俺の一族も」  
そこでコンスタンティノはにやりと笑って見せた。  
「……反乱軍についたのは俺のひい爺さんさ。最後まで反乱側の騎士として戦ったそうだ」  
「じゃあ……なんであんたの家は処刑されずに済んだんだ。おかしいじゃないか」  
反乱側の首領格の家系が生き延びている――  
それどころか、コンスタンティノの代まで公国の騎士だったなんて有り得ない。  
口には出さずとも、ルカの疑問は明白だった。  
 
「俺のひい爺さんは、密かに大公側に内通してたんだ。つまり、はなから寝返ってたのさ」  
「え、じゃあ……」  
ルカが尋ねる隙も与えず、コンスタンティノは続けた。  
「だが、俺の一族はそれ以来、裏切り者の汚名を受け続けることになった。  
大公の一族は反乱の代償がいかに高くつくか、その見せしめに俺たちを使ったんだ。  
寝返りの見返りに受け取ったのは領地没収と、反逆者の烙印さ。  
俺の祖父も、父親もそんな罵声を浴びて生きてきた。  
だが、俺はそんなのは嫌だった。だから、俺は国を捨てて傭兵になった。  
そこでは裏切り者、反逆者は称賛の対象だった。  
なにしろ馬鹿な雇い主を裏切るのも『優れた傭兵』の資質だからな」  
 
語り終わると、コンスタンティノは立ち上がった。  
ルカは彼の顔を見ようともせず、じっと足元に視線を落としている。  
「じゃあ、あんたは大公や姫さまをぶっ殺しに来たってのかい」  
「まさか。そんなことしたって一文の得にもならない」  
もうそこには告白者の影はなく、いつもの皮相な傭兵がいた。  
「この国が滅茶苦茶になるのを楽しみにしているのさ。それを見物に来たんだ。  
お前も聞いているだろう。トルコの大将が降伏勧告を送ってきた話……。  
『俺たち全員がムスリムに改宗すれば、殺さず許す』ってな」  
立ち上がり、コンスタンティノはルカに背を向けた。  
「アルフレドやヒルダ嬢ちゃんはどうするんだろうなぁ」  
 
「……あんたの思い通りにはさせねえよ」  
「なんだと?」  
ルカの言葉に、コンスタンティノは振り返った。  
少年の目は暗い。だが拳は決意を表すように、固く握られていた。  
「ここは俺の生まれた町だ。いいか? 俺たちが生まれた町だ」  
「フムン」  
突然生気を吹き込まれたように、コンスタンティノの顔が輝く。  
「いいぞ、ますます楽しくなってきた。いい舞台には、いい道化役も必要だ!」  
眉毛を何度か持ち上げて見せてから、彼は歯をむき出しにして笑った。  
 
 
3.  
「姫さま、ようこそいらっしゃいました」  
教会から姿を現した女を見たとたん、ヒルデガルトは何故か親しみを感じていた。  
すり切れた上着、洗いざらしのスカート。それでいて肉感的な体。  
農民にしては血色がよく、修道女にしては服装も身のこなしも俗っぽい。  
だが、その正体に思い至るより先に、女の挨拶に思考はかき乱された。  
「姫さまから賜った品々のおかげで、みな励まされております」  
女の挨拶に頷きながら、ヒルダは教会の前階段を上る。  
もちろんステラも傍らに連れている。  
外からでも分かるほどの人の熱気に、ヒルダはもう一度新鮮な空気を吸い込む。  
今日は傷病兵を収容している教会の視察に訪れたのだった。  
古来高貴な血には癒しの力が宿るとされ、とくに素朴な農村では根強く信じられている。  
「王の奇跡」の力を俗界統治の根拠とする聖職者や学者もいる。  
だが今回の視察には、単純に兵の士気を高めるという意図もあった。  
 
「ところであなた、修道女には見えないけれど……」  
階段を上がったところでヒルダが問うと、女は恥ずかしそうに笑った。  
「ええ、違います。けれど負傷者の手当は慣れておりますので、お手伝いをして……  
もちろん手当だけではありませんが……つまり、そういう仕事なのです」  
それ以上問うな、といったように女は微笑んだ。  
うぶなヒルダでも、すでに彼女の正体は分かっていた。  
修道女でもないのに、治療に通じているとすれば、それは軍隊の女しか有り得ない。  
そして、軍隊に付き従う女といえばほぼ例外なく一つの商売しかしていないものだ。  
「あなたの名前は?」  
「卑しい私のような者の名など、姫さまにお聞かせする価値もありません。  
ですが周囲の者からはニンナ・ナンナ、あるいはニーナと呼ばれております」  
「そう。今日はよろしくね、ニーナ」  
ヒルダの答えにほっとしたように、ニーナは教会の扉をくぐった。  
 
教会の中は、異様な空気に包まれていた。  
人が吐き出す息の匂い。体から発する垢と汗の匂い。  
傷口から染み出す血と体液の匂い。腐った肉の匂い。そして死臭。  
だが、そんな中にあってもヒルダは気丈に振る舞い続けた。  
傷病兵に声をかけ、訴えに耳を傾けた。  
死に行く者に感謝と祝福を与え、その傷口や病巣に触れた。  
癒しの奇跡などヒルダは信じていない。  
だがそれでも何かの慰めになると信じて、ヒルダは一人一人声をかけ続けた。  
 
ニーナによれば、すでに百人以上が傷つき、倒れたという。  
死者の魂を慰めるために、教会の奥には新たな祭壇が設けられていた。  
もちろんヒルダもそこで祈った――死者が全て主の隣に引き上げられますように、と。  
ジロラモに言わせれば、これは教皇が認めた聖戦。だから戦死者は皆天国に行く。  
いや、もし今日にも城門が破られ市民が皆殺しになっても魂は救われるのだと彼は言う。  
ヒルダはジロラモが常に弱き者の立場から発言することに共感してきた。  
彼の教団には多くの信徒がおり、互いに助け合ってこの戦争を乗り切っている。  
その姿にヒルダは希望すら感じていた。  
だが――  
戦友を埋葬しようとしたトルコ兵を射殺したジロラモ。  
死を称揚し、死を恐怖と思わないジロラモ。  
果たしてそんな彼の言葉を信じて良いのだろうか――?  
祭壇に向かうヒルダは、いつしかそんな思考の迷宮に潜り込んでいた。  
 
その時、物音がしてヒルダは我に返った。  
音のした方を見ると、少女が一人、驚き立ちすくんでいた。  
「ごめんなさい。お祈りの邪魔をしてしまって……」  
どうやら暗がりと普段に増して質素な姿のために、ヒルダの正体に気づかなかったらしい。  
少女はもじもじと謝罪の言葉を述べながら、手に持った新しい蝋燭を祭壇に供え始めた。  
燃え尽きた蝋燭を交換し終えると、少女はまた頭を下げた。  
「本当にごめんなさい。あんまり真剣にお祈りしているものだから……  
私、あなたがそこにいるとは気づかなかったの」  
見れば、彼女はヒルダとほぼ変わらない年格好だ。  
だが少女のイタリア語には、少し聞き慣れない訛があった。  
「あなたは、この教会の人?」  
ヒルダが尋ねると、少女は僅かに首を傾げた。  
「そうとも言えるし、違うとも言えるわ。私はここの小間使いをしているの。  
でも普段は……」  
その時ヒルダは、少女が髪を綺麗に結い上げ、白い頭巾で隠しているのに気づいた。  
未婚の女性は髪を頭巾で覆い隠したりはしない。  
「――結婚してるの?」  
「ええ……そうね、そうとも言えるし、違うとも言える」  
少女の謎めいた言い方に、今度はヒルダが首を傾げた。  
 
「ねえ、よければ少しお話しない?」  
「私と?」  
少女は不思議そうに尋ねた。ヒルダは頷く。  
「色々教えて欲しいの。この教会のこととか、怪我人のこと、それに、あなたのことも」  
「私の、こと……?」  
自分に興味を持つ人間がいるなど信じられない。  
彼女の言葉にはそんな響きがあった。  
「駄目かしら?」  
ヒルダは少し甘えた声を出し――そして自分がまだそんな声を出せることに驚いた。  
暗がりの中で、少女が少し逡巡する気配がした。  
だが、すぐにそれはきっぱりとした言葉になって表れた。  
「ええ、いいわ」  
 
二人の少女はそろって教会の中庭へ出た。  
柱廊に囲まれた庭では、ひとりの修道女が薬草を摘んでいる。  
差し込む日射しと、鳥の声。  
そのさえずりが砲撃の爆音に遮られることさえなければ、戦争中とは思えぬ静けさだった。  
二人は修道女の邪魔にならないよう、少し日陰になった廊下の隅に腰を下ろした。  
「……あなたの旦那さまは、何してらっしゃるの?」  
ヒルデガルトの問いに、少女ははにかみながら視線を城壁のある方へ向けた。  
理解したヒルダは、小さく頷く。  
今この町にいる男で、体の動く者は全て戦っている。彼女の夫も例外ではないのだろう。  
 
「本当を言うと、夫じゃないの」  
「え?」  
僅かな沈黙の後、少女は告白するように言った。  
「私たち、とても結婚できるような身分じゃないの。  
でもね、私にとって彼は全て。彼がいなければ私は生きていなかった……。  
だから、彼が私を拒絶する日まで――もしそんな日が来れば、だけど――  
私、彼のそばにいようと思うの」  
少女は熱っぽく語って、次の瞬間視線を落とした。  
そっと自分の髪と頭巾に手を当てる。  
「これは、その誓いの代わり。神さまの前で誓う代わり」  
 
ヒルダは言葉を接げなかった。  
きっと、この少女の想い人は貴族か聖職者なのだ。  
そうでなければ結婚できない「身分」とは言わないはずだった。  
おそらく彼女は一生日陰の身として生きていくのだろう。  
ヒルダはそんな女性たちについて多くを知らない。  
領主に献上された農民の娘か、没落貴族の娘が転じた高級娼婦か。  
高級娼婦ならば、まだ寵愛を受けて宮廷で力を持つ可能性もある。  
しかし目の前にいる少女は、決して教養と才に秀でた高級娼婦には見えなかった。  
 
だがこの少女の明るさは何だろう。  
神の祝福を受けない、決して大っぴらに語れる間柄ではないというのに。  
「……彼のこと、すごく大事に思っているのね」  
ヒルダはぼんやりとではあるが、最初少女に感じた印象の源を悟っていた。  
まるで修道女のような、純粋で強い献身の意識。  
少女の男への想いは、修道女が神に、家臣が君主に捧げるそれに似ている、と。  
「彼は多くの人に守られている……でも孤独なの。  
彼を守る人たちはね、彼から何かを得ようとしてそうしている。  
誰も彼を心から尊敬したり、忠義を誓ったりしているわけじゃないの」  
私の言うこと分かる? と少女はヒルダに首を傾げて見せた。  
ヒルダも目で同意を表す。  
「だから、せめて私だけはあの人に見返りなんて求めないようにするわ。  
最後まで彼を信じて、彼の慰めになって――だって、彼に救われた命だもの」  
「……彼に捧げても、惜しくない」  
ヒルダが先回りした言葉に、少女はええ、と答えた。  
「この戦争が終わったら、私、彼に正式に申し込むわ。  
『あなたの家来にしてください。主従の誓いを立てさせてください』って。  
そうやって私が死ぬか、彼が死ぬまでそばにいること。それが私の願いなの」  
 
ヒルダは、少したじろいだ。  
少女の思いの強さに、ではない。「戦争が終わったら」という言葉に、だ。  
戦争が終わることを少女は信じている。  
その時に自分と自分の想い人が生きていることを、何の疑いもなく信じている。  
ヒルダには、信じることが出来ない。  
「ねえ、あなたの想っている殿方って、立派な方なのね?」  
ヒルダの興味は、少女からその男に移っていた。  
こんな幼い娘にこれほど信頼され、尊敬される男なら、よほど名の通った騎士なのだろう。  
あるいは何もかも逆立ちしたこの世の中、果てしなく卑しい身分なのかもしれないが。  
ヒルダの質問に、少女はまるで自分が褒められたかのように頬を染めた。  
体をもじもじさせながら、言いにくそうに声をひそめる。  
「……私みたいな女があの方を知ってるなんて、信じてくれないかもしれないけど」  
そう言うと、少女はヒルダの耳にそっと口を近づけた。ヒルダも顔を寄せる。  
 
「……彼、『片耳将軍さま』なの」  
 
その時、北の方からけたたましい鐘の音が鳴り響いた。  
 
 
4.  
「あなた、怪我をしたの?」  
ヒルダが祭壇で祈りを捧げている頃、ステラは暇を持て余していた。  
しょうこと無しに怪我人たちの間を歩き回っていたのだが、そこにルカがいたのだ。  
 
殺菌という概念もない時代、僅かな負傷でも死に繋がる。  
怪我をすれば、たちまち運命は神の手に委ねられる。それは誰もが承知していた。  
だから、ルカが一見傷一つないように見えても、何の保証にもならなかった。  
実際、ルカの顔は泥と汗に黒ずみ、そこかしこに血の跳ねた跡がある。  
無数のひっかき傷の残る鎧に、壊れた兜。  
痩けた頬に落ちくぼんだ眼窩もステラの第一印象を悪い物にした。  
 
「怪我した戦友を連れてきただけだ」  
「……そう」  
ぶっきらぼうに答え、ルカはステラのそばを通り過ぎようとする。  
「……良かった」  
だが、ステラがそう呟いたとたん、ルカははたと立ち止まった。  
振り返る動きに合わせて腰の剣が鳴る。  
「あいつはいい奴だった。俺を庇おうとして矢に射られたんだ。  
脇の血管が傷つけられて――たぶん助からない」  
「あの、私は」  
言い直そうとするステラの言葉を、ルカは聞こうともしなかった。  
まっすぐに教会の玄関へと歩いていく。  
出口のところで、修道女が差し出した水の杯を一気に飲み干す。  
光の中へ消えていくルカを、ステラは必死に追った。  
 
ルカが前階段を下りかけたところで、ステラが追いついた。  
すでに階段の前には、ルカと一緒に負傷者を運んできた兵士の一団が待っていた。  
「ルカ! 私が言いたかったのはね……」  
「お前には、謝らなきゃならないことがある」  
不意に振り返ると、ルカは頭を下げた。  
「お前にもらったお守り、そいつの包帯にしちまった」  
 
その時、突然北の方から鐘の音が鳴り響いた。  
まるで鉄の籠を石畳に転がしたようなけたたましい音に、兵士たちは一斉に顔を上げる。  
教会からは修道女や軽傷者が姿を見せた。  
もちろんステラも、じっと鐘の音のする方を見守っている。  
何か急を告げること――何かよくないことが起こっているのは明らかだった。  
 
やがて、北から一騎、男が教会の方へ走ってくるのが見えた。  
教会の前に兵士がたむろしているのを見ると、慌てて手綱を引く。  
「お前ら、急いで北の門へ――聖アンナ門の守備に向かえ!」  
「おいおい、俺たちはアルフレド殿下の兵だ。持ち場は南だぜ」  
兵士の一人がうさんくさそうな顔で言い返す。  
騎馬の兵は上がった息を整えながら、何度か首を振った。  
「稜堡が、聖アンナ稜堡が敵の手に落ちた! 誰かが内側から門を開けやがった!」  
それを聞いたのは兵士だけではなかった。  
修道女や負傷者の耳にも、その言葉ははっきりと届いた。  
――誰かが内側から門を開けた――  
「どういうことだ、密偵が潜り込んだのか、それとも内通者か?」  
「詳しくはわからん。だが突然門が開いて、トルコ兵が……  
『凶暴騎士団』が守っていたはずなんだが……とにかく、行け、行け!」  
それだけ言うと男は馬に拍車を入れ、南の方へと去っていった。  
 
北の方からは相変わらず鐘が鳴り響いている。  
「ルカ!」  
仲間の呼ぶ声に、ルカは我に返った。  
とにかく行かなければ。  
「――コンスタンティノ、あいつ、まさか……」  
裏切り者の一族。  
この町を滅茶苦茶にする。  
そんな言葉がルカの脳裏をよぎった。  
 
 
(続く)  
 

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