1.  
『なぜ、我が一門はかような侮辱を受け続けねばならないのです、父上?』  
『騎士たる者は常に真実のみを口にし、弱きを守れ――その誓いに背いたからだよ』  
 
俺はそんな父親の態度が大嫌いだった。  
卑怯な二枚舌を用いたのは爺さんの話じゃないか。  
しかも、それが主君ジスモンド二世のためだと信じたからだ。  
それなのに、我がデ・ウルニ家は卑怯な、裏切り者の一族と呼ばれ続けている。  
 
大公家は狡猾だった。  
俺たちには真実を明らかになど出来ないと確信して「犠牲の羊」に選んだのだ。  
大公に抗議すれば、叛乱に荷担した罪で一家は断絶するだろう。  
自ら大公の密偵であったことを公言すれば、旧反乱者は我々を許さない。  
ただ俺は、俺たちは「裏切り者」の汚名を着て黙っているしかなかった。  
 
――あの日、俺は父に連れられ、初めて五指城に上がった。  
その前年、父の手で騎士に叙せられた報告をするためだ。  
俺はそこであの二人に出会った。勝ち気で美しい金髪の少女と、泣き虫の少年に。  
一目見て、それが誰だかは分かった。  
家臣団の中でも噂になっている、大公の養女と私生児。  
『さあ、もう一度剣を取るのよ』  
少女は叫んでいた。  
だが、目の前の少年はただ手で涙を拭うばかりで、足元の木剣を拾おうともしない。  
少女は苛立ち紛れに剣を振り回している。  
 
――どうしたのだ。  
俺が声をかけると、少女ははっと振り返った。  
その目には激しい敵意が籠もっている。俺は思わず言葉を飲んだ。  
俺は子供からこれほどの敵意を向けられたことなどなかった。  
『アルフレドに剣の稽古を付けているの』  
――女なのにか。  
『剣なら父さまから教わったわ』  
少女の父は俺も名前だけ知っていた。  
大公の義理の弟に当たる男で、昨年マラリアで亡くなったと聞いていた。  
 
俺が物見高く見物しているのが気に障ったのか、少女はぷいとそっぽを向いた。  
そして少年の剣を拾うと、強引に持たせる。  
『さあ、続きよ!』  
『もう嫌だよヒルダ。だってヒルダは、思いっきり殴るんだもの』  
涙声で訴える少年の額は腫れて青あざになっていた。  
どうやら少女が振り回した木剣をまともに食らったらしい。  
無手勝流の剣術は手練れでも捌きにくい。少女の剣はまさにその類に見えた。  
思わず俺は含み笑いを漏らす。  
 
『笑うな!』  
激しい反応に俺は戸惑う。  
――気に障ったなら謝る。  
『大人は嫌いだ、あっちへ行け!』  
そう言うと、子供たちは――というか少女は再び稽古に集中する。  
だが、俺は立ち去りがたい感情を覚えて、それをしばらく見つめていた。  
――なぜ嫌いなのだ。  
俺が不意に発した質問に、少女の剣がすぅっと下がる。  
そんなことを問われることすら想像だにしていなかったらしい。  
 
『アルフレドを馬鹿にするから』  
少女は吐き捨てるように言うと、また剣を構えた。  
アルフレド。大公マッシミリアーノの私生児。  
貴族の銘も与えられず、かといって聖職者の道も許されず……  
ただ城内で飼い殺されているという噂だった。  
――馬鹿にされたのが悔しくて、剣を教えているのか。  
無視されると思ったが、聞かずに入られなかった。  
案に相違して、少女ははっきりと頷いた。  
『いつか、馬鹿にした大人たちを見返してやるの。  
アルフレドを強くて、立派な騎士にする。私が任命するわ。  
そして、あいつらをこてんぱんにしてやるんだから』  
 
俺はその頃、既に家を捨てて出奔する計画を立てていた。  
こんな因習にまみれた国で、苔むしていくなんてまっぴらだ。  
俺は腕一本で生きていく。そう思っていた。  
だが、こいつらは。  
あくまでここで戦おうというのか。  
 
俺が近づいたので、二人は動きを止めた。  
――剣の稽古をつけてやろう。  
少女は初めて子供らしい驚きを顔一杯に見せた。  
大きな青い目が、まん丸に開かれる。  
――俺がこの国に残していく、唯一の置き土産だ。  
俺の言葉の意味が分かるはずもなく、二人は首を傾げている。  
だが、俺が笑うと、二人とも笑い返してきた。  
――俺がもしこの国に帰ることがあれば、その時は三人で倒そうじゃないか。  
稽古の後、俺たちはこっそりと約束した。  
三人で、この国の大人たちに復讐するのだ、と。  
 
「……コンスタンティノ!」  
門の機械室で、コンスタンティノとルカは対峙していた。  
外からは戦いの喧噪が聞こえてくる。  
トルコ軍は稜堡を制圧し、城壁づたいに攻め寄せてくる。  
目下の目標は、この聖アンナ門の開閉を司る、機械室だった。  
門を制圧すれば、そこから一気に大軍を市内に突入させられるからだ。  
 
「門を開けるつもりか」  
「その通りだ」  
コンスタンティノの背後では、彼の部下が四人がかりで巻き上げ機を動かしている。  
鎖がこすり合わされる音が響き、少しずつ落とし格子が上がっていく。  
跳ね橋は既に下ろし終えた。  
落とし格子を持ち上げれば、城壁の中と外を妨げるものは何もなくなる。  
「……なぜ」  
剣を構えたまま、ルカは尋ねた。  
だが、あえてコンスタンティノは答えなかった。  
思えば、余りに子供っぽい理由だ。  
忘れたつもりで、ずっと忘れられなかった理由。  
二人の子供と交わした約束。  
それは血なまぐさい約束だったが、純粋で無邪気だった。  
(俺も老けたもんだ)  
コンスタンティノが笑う。  
ルカはそれを答えだと思ったらしい。  
「……裏切り者」  
そのとき落とし格子が上がりきる、大きな音がした。  
――同時に、ルカが斬りかかってきた。  
 
アルフレドは、聖アンナ門の鐘楼に立っていた。  
傍らにはコンスタンティノ、その手には『凶暴騎士団』の旗が握られている。  
二人の足元に、顔を腫らしたルカが座り込んでいる。  
コンスタンティノに一発殴られてあえなく黙らされた証、だった。  
「気にくわねえ……」  
うめくルカを尻目に、アルとコンスタンティノは満足そうだった。  
いまやトルコ兵は鐘楼どころか、稜堡からも追い出されつつある。  
北側に配置されていた部隊も、モンテヴェルデ騎兵の突然の反撃に逃げまどうばかりだ。  
さんざん逃げる敵を斬った騎兵たちは、ゆうゆうと聖アンナ門に引き上げてくる。  
「そうやって二人で俺をからかってやがるんだろう」  
「まさか、そんな意地悪するわけないだろう?」  
アルの声も明るかった。  
 
もともとトルコ軍が町の北側を重視しなかったのは、土地の狭さが原因だった。  
門は一つしかなく、五指城に見下ろされていては、部隊の動きも制限される。  
だからあえてコンスタンティノは聖アンナ門を開けた。  
思ったとおり、トルコ軍はその一点に北部隊を集中させる作戦に出た。  
門の背後にアルフレド率いる騎兵隊が待機していることも知らず。  
騎兵の突撃をまともに食らった北部隊は一気に潰走した。  
まさに紙一重の勝利だった。  
もし門を開けるのが遅れれば、鐘楼自体がトルコの手に落ちていただろう。  
かといって早すぎれば、騎兵隊の準備が間に合わず、ただ敵に利するだけになる。  
アルとコンスタンティノの阿吽の呼吸無しでは不可能な作戦だった。  
それに気づいて、ルカはむくれているわけだ。  
 
「アルフレド、いい気分だろう」  
城内に振り返りつつ、コンスタンティノは言った。  
鐘楼に翻る『凶暴騎士団』の軍旗に向かって、味方が歓声を上げている。  
そこには民兵も、騎士も、モンテヴェルデの貴族もいる。  
誰もがアルフレドとコンスタンティノを称えているのだ。  
私生児と裏切り者の末裔を。  
「……いい気分です」  
コンスタンティノの気持ちを知ってか知らずか、アルはそう答えた。  
 
しかし、それも長くは続かなかった。  
誰とも無く、異変に気づいていた。  
町の方が騒がしい。それは勝利の歓声ではなかった。  
コンスタンティノが目を凝らす。密集した下町の向こうを。  
町の西北に開いた聖レオ門。そこに翻る旗はナポリの旗のはずだ。  
金と紫の縦縞をあしらった盾の紋章だ。  
そこに今、赤字に白の半月旗が立っていた。  
まるでドミノ倒しのように、次々と旗が変わっていく。  
一つの塔の旗が引きずり下ろされ、またその隣の塔、といったように。  
「コンスタンティノ、何を見て……」  
「敵だ! 敵だぞ!」  
叫ぶと同時に、コンスタンティノが走り出す。  
アルとルカも慌ててそれを追った。  
「アル、お前は部隊をまとめろ。ルカ、城に伝令だ。  
聖レオ門が破られた、予備隊が要る。早く、早く、早く!!」  
 
 
2.  
剣戟の音、悲鳴、断末魔の声は、ステラの耳にも届いた。  
西の門の方から、それは次第に近づいてくる。  
それが何を意味しているのか、聡明な侍女はすぐに気づいた。  
主君に危機が迫っていることも。  
 
脱兎のごとく走り出すと、ヒルデガルトの姿を探す。  
教会堂の中には見つからない。礼拝室にも、聖具室にも。  
とっさに中庭に飛び出す。  
先ほどまで静かだった中庭は、にわかに騒然とし始めていた。  
うろたえた修道女や軽傷者が回廊を走り回り、誰彼構わず状況を尋ねている。  
そんな喧噪の中で、ステラはヒルダと見知らぬ少女が寄り添っているのを見つけた。  
 
「姫さま!」  
「ステラ、これはきっと……」  
「敵です、たぶん西の門が抜かれたんだと思います」  
冷静な侍女に、ヒルダも首肯して見せた。  
ステラは、女主人が傍らの少女の手をしっかりと握っているのに気づいた。  
少女は怯えていた。  
ヒルダの手を両手で包むようにして、視線を泳がせている。  
それに比べて、自分が冷静なのにステラは驚いた。  
いや、おそらくそれは自分の安全を確信しているからだ。  
護衛兵もいれば馬もいる。城に逃げ込むこともできるのだ。  
「姫さま、とりあえず五指城に引き上げましょう」  
「ええ、そうね……。あなたも一緒に来る?」  
公女の威厳を漂わせながら、ヒルダは傍らの少女に問うた。  
 
振り返った瞬間少女の顔から恐怖は消えていた。  
「私……残ります。怪我をした人たちを逃さないと。  
修道女さまたちを手伝わなきゃ。私だけ逃げるわけには行かない」  
少女の勇気に、ステラは自分を恥じた。  
怪我人を見舞ったというのに、自分は彼らのことなどもう忘れていた。  
それどころか、主君の安全を口実に、早く逃げることだけを考えていたのだ。  
 
だが、少女から恐怖が消えたように見えたのは錯覚か、あるいは一瞬のことだった。  
かみしめた唇は蒼白で、顔は血の気を失っている。  
だが震える手でヒルダの手をもう一度握ると、少女は離れた。  
「……姫さま、知らぬこととは言え、これまでの無礼をお許し下さい。  
ここでお別れです。どうかご無事で。  
ただもし、私に何かあれば……もし、私に何かあれば……」  
精一杯の微笑みに、ヒルダは首を振った。  
「……駄目よ、あなたが残るなら私も残らなくては。  
私のために傷ついた兵士を見捨てて、何の摂政でしょう」  
「姫さま……!」  
もう一度言い募ろうとして、少女はきっぱりと拒絶された。  
「それに、あなたを死なせたらアルフレドが悲しむわ。そうでしょう、ラコニカ」  
「私のこと、ご存知だったんですか……?」  
ヒルダは力強く手を握り返した。  
「ステラ、護衛の者に命じて馬を裏口に。怪我人を城へ逃がすのよ。  
歩ける人を先に発たせて、歩けない怪我人は馬で運びましょう」  
「はい、姫さま」  
ヒルダの言葉に、弾かれたように少女たちは動き出した。  
 
「姫さま、こちらにはもう誰もいません。私たちも出発を」  
ステラの声が空っぽの聖堂に木霊した。  
彼女が再び中庭に戻ったときには、もう教会は閑散としていた。  
所々に転がったままの燭台や杯が、撤退の慌ただしさを伺わせた。  
修道女は軽傷者とともに、一足先に城へ向かっている。  
一人で歩けない者を馬に乗せる作業も終わり、今やヒルダを待つだけだ。  
姫のそばには、不安顔のラコニカと二人の騎士が立っている。  
 
「聖具室をそっくりそのまま残していくなんて、もったいないわ」  
「聖遺物だけでも救えたのですから、主も許してくださるでしょう」  
ヒルダの顔は晴れない。  
人を救えば物が、物も救えば魂の救済を気にかけてしまう。それは性分だった。  
聖具室には金銀で作った燭台や香炉、豪華な写本が収められている。  
それもまもなく押し寄せるであろう、異教徒に荒らされてしまうのだ。  
だが、物よりも傷ついた兵のために馬を使ったヒルダを、ステラは誇りに思った。  
「でも、せめて祈祷書だけでも……」  
立ち去りがたく、何度も振り返るヒルダに、ステラは頭を振った。  
今にも駆け戻りそうな姫のそばに、ぴたりと騎士が寄り添う。  
「姫さま」  
兜の下から、くぐもった声が聞こえた。  
次第に戦闘の喧噪は近づいてきている。ぐずぐずする暇はなかった。  
「もしどうしてもと仰るなら、私が取りに行きます」  
ヒルダはラコニカの方を振り向いた。  
目を見開くヒルダに彼女は黙って頷く。その目は議論の余地は無い物だった。  
「……今夜、主に許しを請うことにします。行きましょう」  
 
その時、扉が荒々しく開いた。  
戦士たちの本能は、頭で理解するより早く動いた。  
護衛の騎士が体の位置を入れ替えるようにステラとヒルダを庇う。  
だが、盾を構える暇は無かった。  
二本の矢が風を切る。  
僅か十歩ほど離れた位置から放たれた矢は、板金鎧すら射抜く力を持っていた。  
胸を貫かれ、騎士は崩れ落ちる。  
その向こうに鎧姿のトルコ弓兵が二人、立っていた。  
 
三人の少女とトルコ人の間にはもはや死体しかない。  
弓兵は相手が女と知ると、構えていた弓を下ろし、代わりに半月刀を抜きはなった。  
ヒルダがそっと腰に手をやる。  
護身用というには余りに華美で繊細な短刀をそっと握る。  
「姫さま、おやめ下さい」  
ヒルダが男顔負けの剣の腕といえど、二人相手に勝てるわけがない。  
言葉とは裏腹に、ステラの体は動かなかった。  
それどころか、守るべき主君の影に隠れるようにして、一歩前に出ることも出来ない。  
 
三人は後ずさる。  
トルコ兵は、面頬の影から笑みを覗かせつつ、近づいてくる。  
教会の裏口までは、中庭に面した扉をくぐり、廊下を走って、ほんの百歩。  
だが、その前に追っ手の手は少女たちに届く。  
いや、誰か一人が犠牲になれば、後二人は逃げおおせるかもしれない。  
ステラは震えていた。  
ラコニカも、震えていた。  
ヒルダだけが燃える瞳で、にじり寄る敵を真正面から睨んでいた。  
 
ひゅっ。  
再び矢が風を切る音がした。  
ステラとラコニカは、思わずヒルダの両肩にしがみつく。  
ヒルダすら、身を固くして目を閉じていた。  
だが、倒れたのはトルコ兵だった。  
少女たちが目を上げる。  
残ったトルコ兵が盾を構えた。  
中庭の入り口のところに、弓を構えたルカが立っていた。  
 
ルカはここに駆けつける間に盾を捨てていた。  
二の矢をつがえる余裕はなかった。弓を投げ捨て、長剣を抜く。  
トルコ兵もそれに応じた。  
半月刀が夏の太陽を弾いて光った。  
振り下ろされる刃を、間一髪横に跳んでかわす。  
とたんに、足がもつれてルカは転倒した。  
『跳んでかわそうなどと思うな。実戦では甲冑の重みが圧し掛かるのだぞ!』  
刹那、ディオメデウスの教えが蘇る。  
しかし後悔する余裕もなかった。冷たい汗が背中を走る。  
思えばこの一週間、ルカが積んだ経験など羽根のように軽い物だ。  
ただ城壁の矢はざまに隠れ、弓を撃っては頭を引っ込める。  
敵と向かい合って刃を交えたことなどない。  
 
覆い被さるように立ちふさがった敵が、再び刀を振り上げるのが見えた。  
まるで芋虫のようにルカは体をくねらせた。  
一瞬前ルカの体があったところに半月刀が突き刺さる。  
素早く刀を逆手に持ち変えると、トルコ兵は飛びかかってきた。  
とっさにルカは剣を捨てていた。  
覆い被さられる前に、背筋を振り絞り、体を丸めて反動で立ち上がる。  
ベルトに差し込んであった短刀を素早く引き抜き、相手の腹目がけて腕を伸ばす。  
敵の刀がルカの肩に食い込むのと、短刀が深々と突き刺さるのは同時だった。  
口から血の泡を吹きながら、トルコ兵は倒れる。  
 
「ルカ、お見事です!」  
真っ先に体の自由を取り戻したのは、やはりヒルダだった。  
すぐさま駆け寄ると、肩を押さえて崩れ落ちそうになる少年を助け起こす。  
「普段から口を閉じ、黙々と今のように努めれば、城の騎士にも劣らないのに」  
「冗談でしょう姫さま。口八丁手八丁、それが俺の戦い方ってもんです」  
痛みに呻きながらそう答えるルカに、ヒルダは晴れ晴れとした笑顔を向けた。  
 
ルカの肩に食い込んだ刃は、鎖帷子によってかろうじて致命傷とはならなかった。  
次に駆け寄ったラコニカが、懐のハンカチーフで傷を押さえる。  
強く押さえられ、ルカはうっと短く呻く。  
「おい、命の恩人なんだ。アルの時みたいに優しくしてくれよ」  
「城に戻ったらすぐ手当てしてあげるから。それまでそのお口は閉じておきなさい」  
大人びた口調でぴしゃりと言うと、ラコニカはさらに力を込めた。  
「運がよかった。骨と骨の間に刃が当たっていたら、腕を切り落とされていたかも」  
「ちぇ、おどかすなよ」  
おどけた様子で肩をすくめながらも、ルカはもう何も言わなかった。  
少女二人に支えられなければ歩けないほど、怪我はひどい。  
たちまちラコニカの手はあふれた血で真っ赤に染まっていく。  
だらりと垂れ下がった腕の上を、血が滴り始めていた。  
 
「それにしても間がよかったわ、ルカ」  
「惚れるなよ」  
無口なはずのラコニカも、饒舌になっていた。  
それだけ、敵兵の前に無力で放り出されたことに恐怖していたとも言える。  
忘れたふりをしていても、故郷で受けた辱めを若い娘が忘れられるわけがないのだ。  
ルカもそれを知ってか知らずか、軽口で返している。  
「城に戻る途中、ちょっと気になったから寄ってみたのさ。  
そしたら、ちょうどトルコ人どもが教会に入っていくのが見えたんでな。  
……もう一足早ければ、あの二人も」  
「言っても詮ないことよ、ルカ」  
ヒルダは冷たく言葉を遮った。  
「あなたは精一杯やった」  
 
ヒルダとラコニカに支えながら、ルカはよろよろと歩き出した。  
ようやく、ステラが我に返ったようにヒルダに付き従う。  
両側から誉めそやされるルカは、少し憮然として、照れくさそうにも見えた。  
そんな彼を見ると、何故か嬉しい。  
そして歯がゆくもあった。  
確かに、よくやったと言えるけれど。  
姫さまやラコニカさんに誉められて、いい気になっている場合ではないでしょう。  
大体、私には何の言葉もないなんて、おかしいとは思わないのかしら?  
 
ステラの胸はまだ激しく打っている。  
敵の兵士に睨みつけられたときの驚きと恐怖。確かにそれはまだ彼女の中にある。  
だが何故一向に胸の高なりは収まらないのだろう。  
いや、それどころか、ルカが他の二人と言葉を交わすたびに強くなる。  
小さな痛みを伴って。  
一瞬ルカと視線が合う。  
何か言おうとして、ステラは言葉を探す。  
だが何を言うべきなのだろう。  
「よくやった」……? ルカは「偉そうだ」と怒るのではないか。  
「お見事」……? ヒルデガルトならともかく、侍女がかける言葉ではない。  
それとも「遅かった」と叱責する方がいいのか。悠然と頷き返せばいいのか。  
いや、一番簡単に「ありがとう」と言えばいいのだろうか。  
ステラの心は千々に乱れた。  
 
ようやく口を開き駆けたとき、ルカの視線は離れていった。  
時間にしてみればほんの瞬きをする間だった。  
唯一、ルカに声をかけるべき時間は、それだけしか無かった。  
けれどそれっきりステラは彼に声をかける機会もなかったし、勇気も持てなかった。  
「さ、城に急ぎましょう」  
ヒルダの声で、四人は教会から姿を消した。  
 
 
3.  
モンテヴェルデの反撃部隊は二手に分かれて聖レオ門に突入した。  
アルフレド率いる十騎は、門へと続く大路を馬上突撃する。  
それに呼応したコンスタンティノ隊は、城壁沿いに北から攻撃をかける計画だった。  
たちまち、町の通りで、城壁の上で、激しい白兵戦が勃発した。  
 
もともと、聖レオ門を守るナポリ軍団は四つの軍団で最も弱体であった。  
ディオメデウスが率いる騎士は八十騎。従士を入れても二百を超えない。  
そこからアルの近衛兵が引き抜かれている。劣勢は明らかである。  
コンスタンティノが行くところ、無数の騎士の遺体が転がっていた。  
誰もが武器を手にしたまま、息絶えている。背中から斬られた者はほとんどいない。  
一騎当千の兵の最期だった。  
 
手勢のほとんどをアルに託したコンスタンティノは単身戦場に躍り込んだ。  
戦いつつ、生き残りの騎士や民兵を集めて一隊を再編成していた。  
もともと人ひとりすれ違うのが精一杯の城壁だ。  
兵の数より、個人の剣の腕が戦いの趨勢を左右しつつあった。  
「閣下!」  
壁の下の方から声をかけられ、コンスタンティノは立ち止まる。  
フランチェスコと弟子たちだった。  
「どうしたマエストロ!」  
「加勢に参りました。これに」  
と言って差し出した頭陀袋の中から、フランチェスコは小さな壺を取り出す。  
「火をつけて投げつければ勢いよく燃えます」「ギリシア火か?」  
オリエントで発明された可燃物「ギリシア火」は、イタリアでも良く知られている。  
だが、フランチェスコは首を振った。  
「これは私の特製でして、火酒や硫黄、硝石、柳の木の灰、煮詰めた馬の小便。  
これらを混ぜ合わせて良く練ったもので、水では消えず……」  
「錬金術の講義なら後で聞こう。俺たちは上から行く。マエストロは下から行ってくれ。  
門の所で落ち合おう、アルが確保しているはずだ!」  
「分かりました、ご武運を!」  
行くぞ、と声をかけるとフランチェスコの弟子たちは歓声を上げた。  
着慣れない鎖帷子や兜、腰に吊った剣が騒々しい音を立てている。  
彼らが去るのを見送って、コンスタンティノはまた走り出した。  
とにかく門へ。  
トルコ人のいる方へ。  
 
コンスタンティノ隊が到着したとき、既に聖レオ門の楼閣では乱戦が繰り広げられていた。  
立てられた半月旗を引きずり下ろそうとするモンテヴェルデ兵。  
それを防ごうとするトルコ兵。  
旗が入れ替わり、また引きずり下ろされ、そのたび新たな兵が旗竿に飛びかかる。  
一見両者は互角のように見えた。  
だが次第にモンテヴェルデの旗が優勢となり、ついに入れ替わることはなくなった。  
楼閣を占拠したのだ。  
塔の頂上から鬨の声が上がり、兵士が槍や剣を振り回している。  
 
「アルフレド、良くやった!」  
楼閣の上で、二人は再び顔を合わせた。  
少年の顔がほころぶ。もうそれは臆病な子供の顔ではなかった。  
自信に満ちた、傲慢と言えるほどの傭兵隊長のそれだった。  
「このまま稜堡も取り返しましょう」  
「門は?」  
「奪い返しました。マエストロ・フランチェスコが守っています」  
指差す先は、門の上に築かれた銃眼付き胸壁だった。  
その影に十人ばかりの男が隠れている。職人の服に胸甲を着けた不思議な姿だ。  
その真ん中に、小太りのフランチェスコがうずくまっていた。  
男たちは、トルコの矢玉が途絶えた隙を見ては、手にした丸いものを下に投げつけている。  
門扉を破ろうとするトルコ兵の一団に、炎の舌が伸び、荒れ狂った。  
たちまち悲鳴と苦痛の叫びが上がる。  
コンスタンティノのいる楼閣の上まで、硫黄と焦げた肉の臭いが立ち上ってきた。  
 
コンスタンティノは背後の少年に振り返った。  
剣を杖代わりにするほど疲労しているのに、アルの表情は明るい。  
矢が飛び交い、剣戟の音と絶命の叫びが響く中、二人はしばし無言だった。  
やがて、歴戦の男は唾をぺっと吐き出した。  
「……今度は俺が先に行く。給料分は働かんとクビになりそうだ」  
男たちの朗らかな笑いが、夏晴れの空に木霊した。  
 
その声を合図に、モンテヴェルデ部隊は一斉に稜堡へと突撃した。  
稜堡の屋上からは矢がびゅんびゅんと風を切って飛来する。  
アルとコンスタンティノは、鋸壁を盾に一歩一歩近づいていく。  
時折運の悪い兵が苦痛のうめきと共に倒れる。  
だが戦いは勢いだ。  
流れは自分の側に有利と知った兵士は、いつもより勇敢になる。  
形勢を悟ったトルコ兵が怖じ気づく中、兵士たちは着実に稜堡に迫っていた。  
 
トルコ軍の矢が雨のように降り注ぐ。  
盾を頭上にかざすアルに対して、コンスタンティノは平然と身を曝していた。  
そして声を振り絞って部下を励ましていた。  
いや、部下すら置き去りにするのではないかと思われる勢いだ。  
アルはとっくに彼の背中を後ろから見守るしかないほどだった。  
「アルフレド!」  
聖レオ門から稜堡へと続く城壁の上で、コンスタンティノが振り向いた。  
「何です?」  
立ち止まると、傍らを走り抜ける兵士に押し出された。  
「俺がお前に最初会った日の話はしたか?」  
「なんですって?」  
 
「俺がこの町でお前に初めて会った時のことだ! お前はまだ四つか五つでな」  
「聞こえない! コンスタンティノ、聞こえないんです!」  
言葉を命令か何かと思ったアルが叫び返す。  
そこかしこで砲撃の音が聞こえ始めた。城壁を飛び越えた砲弾が町に落下している。  
劣勢を悟ったトルコ軍が砲撃を再開し始めたのだ。  
「約束しただろう! 俺とお前とあの姫さまとで!」  
一発の砲弾が城壁に当たり、揺さぶった。  
アルは思わず鋸壁に手をつく。だが、コンスタンティノは平然と立っていた。  
「コンスタンティノ、危ない! 身をかがめてください!」  
アルの声も聞こえていないようだった。  
「俺たちは、この国の奴らに復讐してやるって――」  
その瞬間、アルの意識は途絶えた。  
 
再び身を起こしたとき、最初に触れたのは石のかけらだった。  
払いのけるようにして手をつくと、息を吐く。  
目の前には石畳が押しつけられるように見えている。  
アルの傍らを固い足音が通り過ぎていった。  
顔を壁に擦りつけるようにしながら持ち上げる。  
モンテヴェルデ兵の一団が駆け抜けていくところだった。  
膝を曲げ、四つん這いになって体を起こす。  
銃眼にもたれて座りながら呻いている兵士がいた。  
綺麗に並んでいた鋸壁は砕け、辺りには人間の体が転がっている。  
 
「コンスタンティノ……?」  
彼が立っていたところは削り取られていた。石積みが崩れ、漆喰がむき出しになっている。  
まるで竜が爪でひっかいたようだ。  
「コンスタンティノ! どこにいるんです?」  
アルは立ち上がって叫んだ。  
だが、砲声はともすれば彼の声をかき消そうとする。  
「コンスタンティノ! 返事をしてください!」  
歩き出そうとするアルの足に、何かが当たった。  
最初それは負傷兵の体か何かだと思った。  
だが、違った。  
剣を握った腕。  
籠手をつけた腕の、肘から先は無くなっていた。  
付け根から流れ出た血が石畳を赤く濡らしている。  
それは戦場に不釣り合いなほど鮮やかで、アルは信じられない気持ちで一杯だった。  
こんな綺麗な物が死体から出るとは。  
しかし、アルフレドが信じることを拒んでいたのは血の色のせいではなかった。  
その剣はよく知っていた。  
もう半年以上前、「凶暴騎士団」に入隊してからずっと稽古をつけてくれた剣。  
コンスタンティノの愛用した剣。  
 
 
4.  
――夜。  
アルフレドは大聖堂・聖ステファノ教会を目指して歩いていた。  
今日の戦いの負傷者たちがそこに集められていた。  
だが彼の目的は負傷者の見舞いではない。  
 
戦いは小康状態を取り戻していた。  
突破したトルコ軍は思いのほか少数で、夕方までには城外に放逐された。  
城壁には再び兵士が配置され、トルコ軍は堀の外へと退いた。  
モンテヴェルデ軍が数えた敵兵の死体は三百以上。  
一日に敵に与えた損害としては、これまでで最大の数だった。  
 
だが、失った物は大きかった。  
『凶暴騎士団』は十名、ナポリ人はその半数に当たる四十名を失った。  
モンテヴェルデの兵士も三十名以上が死傷していた。  
占領された北稜堡と、聖レオ稜堡にあった大砲は全て喪失し、投石機や石弓も同様だった。  
損害は軍隊にとどまらなかった。  
十数戸の家が砲撃で破壊され、その倍にあたる家が焼失していた。  
市民の死傷者も百人を超え、行方不明になった親族を捜す声が夜になっても響いている。  
その中には「マエストロ」を探すフランチェスコの弟子たちもいた。  
彼は聖レオ門をめぐる乱戦の最中、行方が分からなくなっていたのだ。  
 
アルがこれまで通り過ぎた幾つかの教会では鎮魂のミサが行われていた。  
とくにナポリ人の嘆きは悲痛だった。  
大将であるディオメデウス・カラファを失ったからだ。  
彼の亡骸は門の楼閣に折り重なった死体の中から見つかった。  
無数のトルコ人の刃を受けてもなお、悪鬼のような顔のまま死んでいたという。  
老騎士の亡骸は清められ、帰国の日まで教会の一角に安置された。  
多くの市民が、異国の自由のために戦った将軍が主のそばに登ることを祈った。  
 
アルフレドは共も連れず夜の道を歩いていた。  
僅かな時間でも、一人きりになりたかったのだ。  
戦いの後、彼の元に届いた知らせは死にあふれていた。  
将軍、隊長、兵士、女、子供、老人……。誰もが公平に、何の区別もなく死んでいた。  
アルが受け取った無数の名前の一覧は、その一個一個が今朝まで生きていたこと――  
もう二度と取り返せないことを示していた。  
アルの足取りは重かったが、それでも義務感が足を前へと進めた。  
やがて、モンテヴェルデの町では最も高い建物が見えてきた。  
聖ステファノ教会だった。  
 
「アルフレド、無事だったのかい」  
甲冑姿であっても、ニーナはアルの姿を素早く見とがめた。  
「今日は大勢死んだからね、心配してたのさ」  
前掛けで手を拭いながらニーナは近づき、そう小声でささやいた。  
聖堂の中には、今死のうとしている者も多い。  
「どうしたのさ、怪我したのかい? いや、あんたは公子殿下だものね。  
こんな汚いところなんかじゃなくて、城の医者にでも診てもらうか」  
からからと笑いながら、ニーナはアルの肩を叩く。  
そんなニーナをアルフレドは見ることが出来なかった。  
じっとうつむいたまま、胸に小さな包みをかき抱いている。  
どうしたんだいアル……そう声をかけようとして、ニーナは押し黙った。  
アルフレドの腰に、二本の剣が下がっている。  
アルの愛刀と、そうでないものが。  
 
「……アル、私はね、大抵のことには驚かないように出来てるんだよ。  
何しろ軍隊生活が長いもんだからねえ。洗い晒しのシーツみたいなもんさ。  
汚れたって破られたって、もう大した疵じゃあないのさ」  
その声ははっきりとしていて、震えてすらいなかった。  
ニーナはそっと両手でアルの肩を抱く。  
その重みが、ようやく彼を決心させたようだった。  
 
白い布で巻かれた包みを差し出す。ニーナは黙ってそれを開けた。  
「……死んだのかい」  
アルは頷いた。  
蒼白い、血の気のなくなった腕が一本、入っていた。  
まるで聖遺物であるかのように、ニーナはそれを両手で捧げ持った。  
無造作に、目線の高さまで持ち上げる。  
まるで肉屋が届けた品が注文通りか確かめるように、ニーナはそれを見ていた。  
 
「……確かに、あの憎たらしい奴の腕だよ、これは」  
嘲りの調子が混じっていた。  
顔をゆがめながら、アルの眼前にそれを差し出す。  
「見てごらん、人差し指と親指の間にほくろがあるだろ。憎たらしい、嫌らしい手さ」  
アルが目を上げると、白い指の間に黒々とした点が見えた。  
ふん、と鼻を鳴らすと、ニーナはその手の先を自分の目の前に掲げた。  
「この指でいじるんだよ、私のあそこをさ。何度も何度も、念入りにね……。  
これでも、若いころは花も恥じらう乙女だったから、私も我慢したもんさ。  
艶っぽい声なんて出しちゃいけないってね」  
腕を包んでいた布が、音を立てて床に落ちた。  
 
アルの目の前で、ニーナはその死骸の腕を、ぎゅっと抱いていた。  
「それなのにさ、あいつは私をもてあそぶんだよ。『止めて』って言ってんのに。  
『お前の本気の声を聞くまで止めない』なんて言ってさ……。  
堪忍して私が声をあげると、この指先を私に見せつけるんだよ……  
『お前の蜜は、よくあふれるな』なんて。私は恥ずかしくって恥ずかしくって。  
いつかひっぱたいてやるって、痛い目見せてやるって、そう思ってたのにさ…………」  
 
嗚咽が、漏れた。  
「……先に…………先に死んじまいやがって、いい気味だよ。  
あのけちんぼの、性悪にはふさわしい末路だろうさ、こんな場末で死ぬなんて……」  
胸に抱いた手を、ニーナはそっと頬に当てる。  
「もう二度と、あの助平に触られることはないんだよね……もう、二度と私を……」  
ニーナは跪いて、泣いた。  
もう動かない指に愛撫を求めるように、顔を擦りつけて泣いた。  
最後の抱擁を、聖堂の蝋燭がいつまでも照らし出していた。  
 
――アルはそっと姿を消していた。  
彼にはまだ悲しむことすら許されていなかった。  
城に戻らなくてはならない。平民や貴族を集めた臨時評議会が待っていた。  
議題は、聖レオ門の新しい隊長の選出。  
その候補はフェラーラのジロラモなのだ。  
 
 
(続く)  
 

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