1.  
背後で石を蹴飛ばす音がして、アルフレドは立ち上がった。  
座っていた石段には彼の温もりが残っている。それほど長くアルはそこにいた。  
立っていたのはヒルデガルトだった。  
「……武器を降ろしなさいな」  
暗闇の中で、優しい声が響いた。  
アルは剣の柄にかけていた手を、ゆるゆると降ろす。  
五指城から、古い船着き場へと降りる秘密の通路。  
アルもまさか、ここに自分以外の人間が来るとは思っていなかった。  
 
「どうして、ここを――」  
「あら、何を言ってるの? ここを教えてくれたのはあなたじゃない」  
鈴のような声で笑いながら、ヒルダはアルの方へと降りてきた。  
アルは正面に向き直る。ヒルダはその横に立ったが、座ろうとはしなかった。  
「そうだったっけ」  
「そうよ。アルが半日もいなくなって、私が探していたらひょっこりと顔を出して。  
『秘密の砦を見つけたんだ!』って私をここに引っ張ってきたんじゃない」  
小さく苦笑するアルの声が聞こえた。  
「思い出したよ。まだ泳げなかった僕を、ヒルダが海に突き落とした」  
「違うわよ、泳ぎを教えてあげようと思ったの!」  
二人分の笑い声が重なった。  
 
ひとしきり笑った後、不意の沈黙が流れた。  
目の前には、アドリア海が静けさをたたえたまま、月光に輝いている。  
波が光を反射する以外、動きは何も見えなかった。  
「見てごらん。港を封鎖していたトルコの軍船が一隻もいない。  
今日敵は少なくとも三百人の兵士を失った。僕たちが数えただけでね。  
だから多分、船に残っている戦士や船員を陸に上げて、その穴埋めをするつもりなんだろう」  
昨日までは、無数の船の灯りが海を漂っていた。  
開場からの補給を阻むべく、トルコ海軍は封鎖線を張っていたのだ。  
だがそれが今はいない。  
見張り兵は、トルコ軍の泊地の方へと艦隊が南下するのを目撃していた。  
「本国からは補給がきていないらしい、増援も」  
「あら、どうして?」  
「スルタン・メフメト二世はもう長い間病気なんだ。  
いまトルコじゃ跡継ぎ争いが水面下で起こってるらしい。だから、どこの戦線も様子見なのさ」  
 
不意にアルが言葉を切った。  
ヒルダが自分の横顔をじっと見つめているのに気づいたからだった。  
「……あなたはやはり、戦争を続けたいのね」  
冷たい声だった。  
夜風が、二人の間を駆けていく。アルは目線を海に向けたまま答えた。  
「評議会の決定には従うよ。それに僕にはもう手勢も腹心の部下もいない。  
『兵なき将軍は、火のない竃のようなもの』さ」  
 
 
評議会はアル、ヒルダ、ジャンカルロ、ジロラモ、そして主だった隊長たちによって開催された。  
会議の流れは、当初から混乱した。  
まず北の聖アンナ門が突然破られた原因が明らかにされた。  
守備していた『狂暴騎士団』の傭兵の一部が、トルコに降伏しようと門を開けたのだ。  
当然傭兵隊の軍規に従えば、裏切りは死罪によって報いられる。  
だが隊長であるコンスタンティノを失った傭兵たちは、烏合の衆と化していた。  
誰もが責任者になることを嫌がり、隊としての決断が出来なくなっていたのだ。  
汚れ役を引き受けたのは、フェラーラのジロラモだった。  
自分が率いる鞭打ち教団から部隊を提供した彼は、今や一武将に昇格していた。  
彼は即刻処刑を主張し、誰も反論出来なかった。  
 
ついで問題になったのは、今後の戦略である。  
確かに市内に入ったトルコ軍は撃退出来たし、多くの敵を倒した。  
だが、モンテヴェルデ側の受けた被害も甚大だった。  
コンスタンティノ戦死。ディオメデウス戦死。シエナのフランチェスコ行方不明。  
死傷者は百を超え、たった一日で一割の戦力を失ったことになる。  
二つの門が突破されたことで、そこに配置してあった武器の多くが破壊された。  
大砲、火縄銃、投石器、石弓……そして何より貴重な火薬。  
だが何よりの問題は、もはや兵士たちに戦う気力が失われたことだった。  
 
「傭兵たちは宿舎に引っ込んだまま出てこない。  
ナポリ人はディオメデウスの跡を誰が引き継ぐかで内輪もめ……これで戦争なんか、出来るか」  
誰に言うともなくアルフレドは呟く。  
今日の勝利は、結果的にアルから全てを奪い去ってしまった。  
アルが帰国してからの権力を唯一支えていたものが失われたのだ。  
 
気づけば、評議会で徹底抗戦を叫ぶのはアルとジロラモの二人だけになっていた。  
民兵を率いる市民隊長たちはこぞって降伏を勧告。傭兵と外国人は棄権。  
ヒルデガルトははっきりと意見を言わなかったけれども、決してジロラモに賛成しようとはしなかった。  
ジャンカルロが、アルのすがるような視線に促されるように、最後に口を開いた。  
『確かに、まだ食糧も水もある。多くの兵を失ったとはいえ、補充できないことはない……。  
だが、このままどこからも助けが来ないのであれば、結局我々は滅びるしかないだろう。  
だから相手も痛手を負った今、講和を申し出るべきだ』  
渋々の同意を示す唸り声が、大広間に流れた。  
ジロラモすら、決然としたジャンカルロの態度に、機先を制されてしまったようだった。  
『……しかし、軍にはまだ力が残っています!』  
アルが食い下がる。ジャンカルロは厳父のような顔で静かに言い渡した。  
『余力が残っているうちに和睦すべきだ。全てが失われたら、何を条件に講和するというのか』  
これで決まりだった。  
ジロラモだけがなお抗戦を訴え続けたが、もはや誰も従おうとはしなかった。  
 
「……明日の朝一番に使者を出し、交渉中の安全を求める。  
それが認められれば私が敵陣に赴きます」  
「君が……!?」  
振り返り、立ち上がる。  
だがヒルダは淡々と頷くだけだった。目は醒め、何ごとにも動じないように、唇を引き結んでいる。  
アルには、その瞬間のヒルダが勇敢な戦乙女のように見えた。  
「……彼らが欲しいのはこの町と民。  
私が首を差し出せば、きっと降伏を受け入れてくれるはずよ」  
「それは……」  
少女の目が、アルの視線を避けた。  
差し出すものが「首」などではないことを、彼女は悟っていた。  
 
「それは……僕たち男の仕事だ。僕が……」  
「あなたでは駄目よ。だってただの私生児ですもの」  
ヒルダは冷ややかに笑ったようだった。  
アルは言葉に詰まる。  
嘲られたからではない。ヒルダの言葉が、初めて恐怖に震えるのが分かったからだった。  
 
「……もう、決めたの」  
沈黙の後、ヒルダは身を翻し、城への道を登り始めた。  
「さよなら、アルフレド」  
遠ざかっていく足音が、やがて聞こえなくなり、波音だけが戻ってきた。  
アルフレドは少女の姿が消えた闇を、見つめ続けた。  
いつまでも幻のように残っていた彼女の白い影が、不意に曇る。  
目から溢れた雫を拭うこともなく、アルは消えたヒルダの影をずっと見送っていた。  
 
 
2.  
「しかし、アルフレドさまにあんな所で会うとは、全く幸運でございましたよ」  
そう言って親父は陶製の杯を持ち上げ、喉を鳴らしてエールを飲んだ。  
横に座ったアルフレドも、微笑みで答えながら、自分の酒に口を付ける。  
アルを取り囲むのは老若男女入り混じった素朴な顔。  
男たちはアルと一緒に大きな円テーブルを囲んでいる。  
女たちは料理を運んだり、あるいは男たちの話に口を挟んだりと忙しい。  
特に若い女は、誰もがアルの世話を焼こうと互いに牽制し合っているようだった。  
老人や子供も、宴を遠巻きにしながら、楽しそうに相伴に預かっている。  
それは今のアルの荒んだ心を、ほんの一時とはいえ解してくれる光景だった。  
 
彼らはアルフレドがかつて領主を務めていたオプレント村の住民だった。  
領主と言っても、ジャンカルロの下で盾持ちだったころ武装を整えるためにあてがわれた貧しい村だ。  
アル自身は自分の領民ということで、出来る限り村に足を運び村人の意を汲もうと努めた。  
税についても、自分の武装が軍規に違反しない程度で我慢し、小さな不正には目を瞑っておいた。  
だから、アルフレドの評判は決して悪くない。  
というより、まだ少年のアルを村人は自分たちの息子、村の誇りのように考えていた。  
それゆえ、追放になった後も、彼らはアルを領主とみなし続けたのだった。  
 
「君たちが、まさかここに避難してきているとは思わなかったよ」  
「フィオーレの二番目の倅が、村の様子を伺っているトルコの物見を偶然見かけましてな。  
村を守る者がいるでなし、かといって他所に逃げる伝があるはずもなく……  
それにお城にはアルフレドさまがいらっしゃると聞いておりましたから」  
「それならそうと、尋ねてくれればよかったのに」  
聖ジョヴァンニ門近くの自分の宿舎に戻る途中、村長に声をかけられたのがきっかけだった。  
それまでアルはオプレントの村人が集団で避難してきているとは全く知らなかったのだ。  
「言ってくれれば、こんな厩の片隅ではなく、もっといい住居をみんなに用意して……」  
「そいつぁいけません、アルフレドさま」  
酔っ払った村長が首を振った。  
「よそ者が町でいい暮らしなんかして御覧なさい。町の連中が放っておくわけがないでしょう。  
今だって村の荷物を盗まれないよう、昼夜を問わず見張り番を立てとかなきゃいけないんです。  
ここんとこ食う物も乏しくなってきましたからね。自分の身は自分で守らなきゃ。  
物盗りどころか、殴られたり、殺されたりしたって町の代官は私らを助けちゃくれないんですから」  
教え諭すように言われ、アルフレドは黙った。  
正直、町の人々がそれほど荒んでいるとは思っていなかった。  
不満はあるとはいえ、危機に皆力を合わせて立ち向かっているのだ、と勝手に信じていたのだ。  
だが、村人たちのおどけた目の向こうに、失望感が広がっているのに気づかないわけは無かった。  
 
「……ところでアルフレドさま、剣の具合はいかがで?」  
領主の沈黙の理由を察したのか、中年のたくましい男が陽気な声を上げた。  
アルフレドの長剣を鍛えてくれた、村の鍛冶屋である。  
「うん、ずいぶんこいつに命を助けられた。折れも曲がりもせず、いい剣だよ……ありがとう」  
誉められた鍛冶屋は赤ら顔をまるで子供のようにほころばせた。  
彼の背後に立っていた妻も、夫の肩をいたわるように一つ叩く。  
 
「君にも、礼を言うよ」  
アルはすばやく首を巡らせ、離れた所に座っていた指物師にそう言った。  
「この鞘を作ってくれたおかげで、僕は……」  
指物師は話が見えず、きょとんとしている。アルはそれを見て小さく笑った。  
アルの指が、鞘にあしらわれたモンテヴェルデ大公の紋章を撫でる。  
これがなければ、アルフレドはここには帰ってこられなかった。  
どこか異国の地で、モンテヴェルデがトルコに蹂躙された報を聞くことになっていたかもしれない。  
あるいは、カラブリアの城で虜囚のまま生涯を終えたか。  
だが結果は一緒だった。  
明日、ヒルダはトルコ人の所へ行く――あらゆる努力も、苦労も無駄だった。  
 
 
「アルフレドさまはこちらですか?」  
聞き覚えのない声に、その場にいた全員が振り返った。  
もちろんアルフレドは真っ先にその声を発した方を見据えている。  
厩の入り口に、外套を羽織った男が立っていた。  
アルの知らない男だった。だが武装から、おそらく城の兵士の一人と見当がついた。  
「何事だ」  
声に威厳を取り戻し、立ち上がる。  
男は小さく頭を下げると、アルフレドの側に駆け寄った。  
その手には小さくたたんだ紙が握られている。  
アルは差し出されたそれを開くと、さっと目を走らせる。  
ラテン語で書かれたそれは、公用文書であることは一目瞭然だった。  
 
「……援軍が、来る」  
「えっ、そりゃ本当ですかい?」  
アルフレドは村長の声に、力強く頷く。  
「教皇猊下が軍を発せられた。総大将はウルビーノ公フェデリーコ閣下だ。  
ハンガリー王の軍や、ポルトガル王とジェノヴァの艦隊も向かっている。  
ナポリのアルフォンソ閣下も、トスカーナで休養中だった軍団を率いて急行中とのことだ」  
その文書には教皇シクストゥス四世の署名が入っていた。  
彼は教皇領、そして全イタリアからの異教徒の放逐を全キリスト教徒の王に命じていた。  
つまり、ナポリ領オートラント、そしてモンテヴェルデからトルコ人を追い出せと言っているのだ。  
「そいつぁ……そいつぁすごい。そ、それで、法王さまの軍はいつ到着するんです?」  
「はっきりしたことは言えないが、おそらく二・三週間といったところだろう。  
ウルビーノ公の先発隊は、すでに都を発ってモンテヴェルデに向かっているそうだ」  
村人たちに安堵の空気が流れた。  
もちろん、アルにとってそれは天からもたらされたに等しい幸運だった。  
もしかすると、評議会の決定をもう一度ひっくり返せるかもしれない。  
そうすれば、ヒルダも――。  
 
「すまないが、すぐ城に戻る。評議会を再び招集しなければ……」  
無造作にアルが席を立つと、村人の一人が慌てて彼の外套を取りに走った。  
いつしか、全員が黙ってアルを見つめている。  
自分を見つめる無数の目、目、目……。  
今にも走り出しそうだったアルは、オプレント村の人々に決然と振り向いた。  
「……すまないが、あと僅かの期間耐えてくれ」  
皆が頷く。それは確信に満ちていた。  
 
「それは、やはり戦争を続けるということですか?」  
思いがけない方向から声をかけられ、アルフレドは驚く。  
そう問うたのは、手紙を届けた兵士だった。  
兵士とは思えない不躾な言葉に、アルは首を傾げる。  
 
「ではっ……!」  
「アル危ないっ、下がれ!!」  
二つの声が重なった。  
とっさにアルは体を引く。  
そこに、兵士が抜き放った刃がかすめていった。  
「何をっ」  
村人の悲鳴。女たちが逃げ散る。  
倒れこみながらアルは剣の柄に手をかけた。  
兵士は第一撃を外したものの、素早く剣を振りかぶり、アルに襲いかかる。  
アルの目の前に、白刃が振り下ろされた。  
 
 
3.  
「危なかったな」  
床には剣を手にした兵士の死体が転がる。  
その背中には、僅かに湾曲した短剣が突き刺さっている。  
それを投げた人物――ルカ――の手をとって立ち上がりながら、アルはまだ呆然としていた。  
「……こいつは?」  
「恐らく、ジャンカルロの放った刺客だろう。抗戦を主張しているのはアルとジロラモだけだからな。  
奴はジロラモとも密かに通じていたようだが、やっと一戦交える気になったらしい。  
そうなると邪魔なのは、大公の息子で抗戦派のアル、お前だけだ」  
「待ってくれ、ルカ。君は何を言ってるんだ?」  
息をつき、頭が働くようになったところに投げつけられた言葉は、アルを再び混乱させた。  
 
「ジロラモと、奴の教団が蜂起した。  
ヒルデガルトさまに翻意を迫り、聞き入れられないと知って彼女を捕らえたんだ。  
ジロラモは今、武装した信徒どもと領主館に立て篭もってる。  
ジャンカルロは家臣を率いて奪い返すつもりだ。姫さまを手土産にトルコに降伏する気だろう」  
「なんだって? つまり、それって……」「内紛さ」  
死んだ兵士からルカは短剣を引き抜くと、ブーツの底で血を拭ってから、ベルトに差し込んだ。  
よろけたアルが椅子に座り込むのも、気にならぬ風だった。  
 
「なんで……」  
「そんなこと知ってるのか、って?」  
机に手を置いて体を支えながらも、アルの視線は定まらなかった。  
ルカはそんなアルに目をむけず、ただ顔を歪める。  
「……ジャンカルロとジロラモに脅されていてな。アル、お前の情報を二人に流していた。  
お前がどこに行ったのか、誰と会って、何を話したのか、何を考えているのか、そんなことを」  
「…………どうして」  
ルカは小さく首を振った。  
歪んだ顔に、自嘲気味の笑いが浮かぶ。  
「ステラに危害を加える、と脅迫された。俺があいつに懸想してると思ったらしい。  
ひどい勘違いだぜ、あんなこまっしゃくれた餓鬼に、俺が本気になるわけ……」  
言い訳のように吐き捨てると、ルカは不意にアルの方を向き直った。  
「その手紙も、お前に届ける前に俺がジャンカルロに見せた。  
奴は破った封を直し、お前に届けるように部下に命じた。だから悪い予感がしたんだ。  
つけてきて正解だった」  
 
罪を告白してつかえが取れたのか、ルカは安堵の息を吐いた。  
「……姫さまの情報は、ステラが流していた」  
「ステラが!?」  
信じられぬ風情のアルに、ルカは駄目押しするように頷いた。  
「忘れたのか、ジャンカルロはあの子の伯父で、後見人だ。生殺与奪の権は奴が持っている。  
――彼女も辛かったんだ。責めないでやってくれ」  
そう言ってルカが背を向けると、アルはもう何も聞かなかった。  
アルとルカのやりとりを、オプレントの村人たちは困惑した顔で見守っている。  
だから二人が黙っても、誰も言葉を発しようとはしなかった。  
 
 
――やがて、アルが動いた。  
外套を羽織ると、振り返ることなく、建物の外へと歩きだす。  
「どこへ行くんだ」  
「助けに」  
アルの答えは簡潔で、それ以上何かを聞く必要のないものだった。  
ジロラモが勝つか、それともジャンカルロが勝つのか。  
どちらにしてもヒルダの命はない。そして、モンテヴェルデも。  
「一人で行くのか」  
「傭兵たちもナポリ人も、もう僕の命令なんて聞いてくれないからね……じゃ」  
「待てよ。俺も行く」  
再び歩きだそうとするアルをルカが引き止める。  
「ルカが責任を感じることはない。だから――」  
ふうっ、とこれ見よがしに吐き出されたため息に、アルは怪訝な顔を向けた。  
ルカは相変わらず、アルの目を見ようとはしない。  
「俺にも助けなきゃいけねえ姫さまがいるんだよ」  
「……そうか。そうだね」  
ルカがアルの横に並ぶ。  
不思議とアルフレドは、それだけで百万の援軍を得た気分だった。  
自分と志を同じくする友がいる、それだけで。  
 
「お待ちください、アルフレドさま」  
再び呼び止める声がした。  
「我々も行きます」  
村長がそう言うと、男たちは一斉にどよめいた。  
村長の息子も、鍛冶屋も、指物師も、皆立ち上がる。  
その顔は少年二人のように悲壮なものではない。まるで町の市場に出かけるように陽気な顔だ。  
「馬鹿言うな。君たちには関係のない――」  
「領主さまが来いと仰るなら、それに従うのが領民の務めというものです。アルフレドさま」  
アルは向き直ると、精一杯の威厳を込めて言った。  
「では領主として命じる。君たちは来るな。武器も持たない農民を殺すことは領主として出来ない」  
その言葉に、村人の動きが一瞬止まる。冷たい緊張が走った。  
だが、すぐにそれは破られた。  
 
村長が手で合図すると、村人たちは一斉に散る。  
そして、アルは驚いた。  
下着入れの底からは剣が。薪の束の中からは弓が。  
壁にぶら下がった鍋の影から兜や盾が。  
次々と武器や甲冑が引っ張り出されて来る。たちまち数十人分の武装が集まった。  
「さ、これだけあれば文句はありますまい。アルフレドさま」  
「し、しかし、どこでこれだけの…………」  
アルが呆然としていると、後ろからルカの笑い声がした。  
「毎年どこの領主の森でも鹿や猪が何十頭もいなくなるのは何故だと思ってるんだ。  
こいつら農民が貴族や王の決めた掟を律儀に守っていると思うのかい。  
そんなら役人なんてたちまち用済みじゃないか」  
あっけにとられているアルに、村人は気恥ずかしげな表情を向ける。  
笑いをこらえている者、目をそらして鼻をかく者、隣の男を肘でつつく者……。  
まるでいたずらを見つけられた子供のようだった。  
 
彼らは、羊の群れなどではない。  
自分よりも遥かにたくましく、狡猾で、強欲で……だからこそ、大事なものを守れるのだ。  
これほど頼もしい軍団はどこにもいないではないか。  
ようやくアルは、彼ら一人ひとりの顔を見ながら、頷くことが出来た。  
「オプレントの自由な民よ、続け!」  
アルフレドの叫びに、男たちは一斉に鬨の声を上げた。  
 
 
4.  
荒々しく門を叩く音に、男は顔を上げた。  
モンテヴェルデの城下町、領主館の一室である。  
細長い部屋には、それに合わせた長いテーブルが置かれ、正面には玉座がある。  
無数の蝋燭を灯した燭台が壁際にずらりと並べられ、室内をまぶしい程照らしていた。  
だが、数十人が一同に会せる部屋にあって、男は一人だった。  
 
再び門を叩く音が建物を振るわせる。  
まるで巨人が揺さぶっているような音。武装したその男は、訝しげに首を振った。  
そこへ、立派な鎧を着た若者が一人入ってきた。若武者らしく肩で風を切っている。  
「何事だ」  
「民兵どもです」  
「民兵だと? どこの配下だ」  
男はますます額に深い皺を刻む。市民隊長たちはまだ事態を把握していないはずだ。  
彼らが事態に気づくとすれば明日の朝。しかしそのころには全てが決着しているだろう。  
若武者は申し訳なさそうに頭を下げつつ、答えた。  
「分かりません。旗印も何もなく……丸太で正面の扉を破ろうとしております」  
「数は」「およそ三十。鎧を着けたものが半分、残り半分は弓を持っております」  
 
男は顎を撫でた。  
三十なら兵力では互角だ。しかもこちらは建物に立て篭もっている。  
領主館は教会を除けば、市内で唯一の石造の建物。  
しかも有事には要塞として使えるよう設計されている。防ぎきることは容易と思えた。  
「無理をするな。守りを固め、期を見て打って出よ。姫を奪われてはならん」  
「分かりました」  
若者は頭を下げると、脇に抱えていた兜をかぶり直し、去っていった。  
 
若者が去ってすぐ、再び扉が開く音がした。  
「何事だ」  
苛立ち紛れに振り返った男の顔が一瞬厳しくなり、ふっと和らいだ。  
「これはこれは。お外の部隊を率いるのはアルフレド殿下でしたか」  
男の口元に張り付いた笑みを、アルは視線で吹き飛ばそうとするように睨みつける。  
その手には剣が、もう一方の手には木製の盾が握られていた。  
「よく入ってこれましたな。つまり表の騒ぎは……」  
「陽動だよ。ルカが鉤付きの綱を用意してくれたから、屋上の窓から入るのは簡単だった」  
感心したように何度も頷きながら、男はアルを傲然と睨み返す。  
二人の距離が剣の間合いより一歩ほど離れたところで、アルは立ち止まった。  
 
「ヒルダを返してもらおう。ジャンカルロ」  
「……奪い返してどうなさるおつもりで? まさか、本気で教皇軍が到着するまで抗戦する気ですか」  
頷くアルフレドを見て、ジャンカルロは肩をすくめた。  
「二週間なら、まだ持久できるかもしれない。トルコの塹壕が城門に達するにはまだそれぐらいかかる。  
だが三週間なら。援軍が来るのが一週間遅れれば、もう和平の機会はないでしょう。  
勝ち誇ったトルコ人たちを前に、我々には疲れきり、矢玉の尽きた軍隊しか残っていない。  
そうなれば――虐殺だ。罪もない女子供や老人まで、なで斬りにされるでしょうな」  
からかうように体をくるりくるりと翻しながら、しかしジャンカルロは決してアルの間合いには入らない。  
まるで飛鳥のように、アルの目の前を彼は行き来した。  
 
「……僕には、守りたいものがある」  
「あの売女だけでは満足できませんか。顔は今ひとつとはいえ、なかなか豊かな乳房の持ち主だが」  
挑発の言葉にも、アルは激昂しなかった。  
ただ静かに盾を持ち上げ、剣を構えた。  
「よろしい。たかが女一人と二千の領民は釣り合うというわけだ。  
それが殿下のお答えなら、我々は戦うしかない」  
ジャンカルロは柄に手をかけた。  
黒革で包まれた鞘から剣が抜き放たれ、燭台の火をぎらりと弾き返す。  
ジャンカルロは盾を持っていない。  
だが、その体を精緻な彫刻を施した、板金の鎧が包んでいる。  
金で飾られた鎧は、古代の英雄を思わせる彼の体を一層たくましく見せた。  
 
「最後に一つ聞きたい。ジロラモはどうした」  
まるで試合のように剣を胸の前に掲げつつ、アルが言う。  
「馬鹿な男ですな。最後まで聖戦などという戯れごとを信じて死んでいった。  
ほら、そこに座っているでしょう」  
ジャンカルロが顎で指し示した方をアルは振り向く。  
玉座に、黒い修道服をまとった男が貼り付けられていた。  
骸骨のような顔は恐怖と苦痛にゆがみ、目をかっと見開いたまま。  
手足を釘で椅子に打ち付けられ、血の海の中でジロラモは息絶えていた。  
「……弄んで、殺したのか」  
「言葉では説得できなかったから。まさかあそこまで狂っているとは思わなかった。  
嫌いな種類の男だったが、初めて憎しみすら感じましたよ……だからつい、ね」  
まるで汚物を口にしたかのように、ジャンカルロはひとつ唾を床に吐いて、剣を構えた。  
「殿下も、すぐに彼と同じ所に送って差し上げますよ」  
 
ジャンカルロの剣は、アルフレドが知る誰の剣とも違っていた。  
まるで優雅な舞のような、変幻自在のヒルダの剣とも。  
殺意だけで出来上がったコンスタンティノの剣とも。  
押せば引き、引けば押してくる老獪なディオメデウスの剣とも違う。  
それまで無数に打ち合わせた誰の剣とも似ていない太刀筋で、彼は襲い掛かってきた。  
アルはジャンカルロの背後に、巨大な城、堅固な城壁が立ちはだかっているような錯覚を覚えた。  
それほど、彼の剣には隙がなく、いかなる欠点も見出せない磐石の動きを持っていた。  
盾を持たない不利など、微塵も感じさせない。  
いや、逆にいつしかアルが守りを打ち崩され、部屋の一角に追い詰められてしまっていた。  
「やはり幼いうちにお前を殺しておくべきだった、アル」  
戦いの中で、二人は語り合っていた。  
殺意をむき出しにしつつ、それでいて静かに語り合う姿を見る者がいれば、異様に写っただろう。  
 
「気づいているか、お前は多くの者に守られていた」  
「ヒルダや、生母や、父にすら、守られていたのだ」  
「大公はお前を疎んじることで、お前の命を守ったのだ。  
お前を後継者とみなさないことで、貴族どもの嫉妬と憎悪からお前を守っていたのだ」  
「お前が一人前になるために、どれだけの血が流されたと思う。両手では効かんぞ」  
「お前やヒルダのために、これから何百という民が死ぬ」  
「だからお前を殺さねばならない……!」  
 
アルは床に倒れた。  
盾は砕かれ、剣は手を離れたアルを、ジャンカルロは見下ろしている。  
首筋に、ジャンカルロの剣がぴたりと張り付いていた。  
軽く引けば、それで終わりだった。  
「……あなたもまた、この国を恨んでいたのか、ジャンカルロ卿」  
「自分が愛したのは、民と土地だけだ。アルフレド殿下」  
ジャンカルロは小さく祈りの言葉を呟いた。  
死に行く魂の安息を祈る言葉だった。  
 
剣が振り上げられ、振り下ろされた。  
 
「ぬっ……」  
その剣を、アルフレドは素手で受け止めていた。  
鎖の手袋で守られてなお、両手の指を千切られそうになりながら、剣をアルは握りしめる。  
そのまま、腕も折れよとばかりにジャンカルロの剣を引き寄せた。  
それが、剣豪の判断を一瞬誤らせた。  
とっさに奪い取られまいと力を込めたことが、逆にジャンカルロを後手に回らせたのだ。  
刹那遅れて長剣から手を放し、腰の短剣を抜こうとする。  
 
アルは刃を握ったまま、立ち上がり、ジャンカルロの懐に飛び込む。  
逆手に持った剣を、ジャンカルロへと叩きつける。  
それはジャンカルロの無防備な喉を貫き、鮮血がアルの顔を染めた。  
 
崩れるように倒れたジャンカルロのそばに、アルは跪いた。  
「……ア……ル……」  
先ほどまで鉄壁の城壁を思わせた男は、老人のように弱弱しく息をしていた。  
鮮血が口まで溢れ、血の気の引いた唇を化粧のように染めていく。  
「…………お前の生母を殺したのは……ヒルダの父母だ……それでも……」  
「ああ、僕はヒルダを愛している」  
ジャンカルロは笑った。  
その拍子に、一気に鮮血が口から吹き出す。  
彼の指が動きアルを招いた。アルは口元に顔を近づける。  
「……ステ……ラ……に、わ私……の、領……地…………を――――」  
「分かった」  
アルの答えを聞くと、ジャンカルロは満足げに笑い、そして死んだ。  
 
「ヒルダっ……!」  
「アルっ……」  
ヒルダは、すぐ隣の部屋に監禁されていた。  
嬉しさに怪我の痛みすら忘れて駆け寄ろうとして――アルはたちまち戸惑ったように立ち止まる。  
ヒルダはほとんど一糸まとわぬ姿のまま、鎖で壁に繋がれていたのだ。  
「……あ、え……っと――ごめ……」  
「ば、馬鹿っ。謝る暇があったら、早く何か着る物を貸してちょうだいっ」  
強がりを言いつつ、ヒルダも娘らしい恥じらいに頬を染める。  
アルは出来るだけ見ないようにしながら、自分の外套をヒルダにかけてやった。  
とはいえ、アルも若い男。一瞬ヒルダの白い肌に視線を走らせ……異変に気づく。  
 
「拷問、されたのかい……?」  
ヒルダの手から鎖を外しながら、アルは尋ねる。  
「こんなの、どうってことないわ。鞭で打たれただけだもの」  
白い肌には肉が弾けて出来た赤い傷が幾つも走っている。  
それは背中だけでなく、乳房や、腹、それどころか、女としてもっとも敏感な部分にすら及んでいた。  
アルの答えを打ち消すヒルダも、いつもの力強さはない。  
鎖から解き放たれると、倒れこむようにアルに身を預けた。  
 
「アルこそ、ひどい怪我……」  
「あ、ああ――こんなの、包帯で縛っておけばどうってことないよ」  
「そんなわけ、ないでしょう!」  
血まみれの手を隠すように後ろに回すアルを、ヒルダは叱った。  
外套の端を歯で食いちぎると、細く破っていく。  
あっという間に包帯を作ると、ヒルダは馴れた手つきで怪我の手当てを始めた。  
「……来てくれると、信じていたわ」  
アルの腕の中で、ヒルダは呟く。  
照れくささに頭をかこうにも、手は未だヒルダの手当てを受けている最中だった。  
仕方なく照れ笑いを浮かべてみると、ヒルダと目があった。  
 
「ごめんなさい」  
謝ることはない――そう答えようとして、アルはヒルダに遮られた。  
「本当はね、少しだけ疑ってたの。私のことなんか放っておいて、ラコニカさんと……って」  
「ヒルダ……」  
アルも言葉に詰まる。  
ヒルダを愛しているのは確かだった。  
従姉として、幼馴染みとして――そして女性として彼女を見ている。  
だが、ラコニカもまた、アルフレドにとっては命を賭けるに値する女性なのだ。  
ヒルダにそれを分かれと言うのは、あまりに身勝手なような気がした。  
若い男女にとってやはり愛とは唯一無二のものなのであるべきで、しかもアルは不器用な少年だった。  
「ごめん、僕は」  
ヒルダは小さく首を振る。アルの言いたいことは、分かっていた。  
 
「……でもね、今は幸せ。私のために戦ってくれたんだもの」  
そこでヒルダは、少女のように笑った。  
見つめ合う二人。はにかみ合いながら、そっと顔を寄せる。  
「誓いを忘れた日は、無いよ」  
ヒルダの手を、そっと取る。  
持ち上げた手の薬指には、指輪がはまっていた。  
大公家の紋章をあしらった、古い指輪。  
「あの時も、私のために戦ってくれたものね」  
「これからも、そうだよ」  
少女には、それで十分だった。  
騎士は誓いを果たしたのだ。  
だから、貴婦人は褒美を与えなければならない。  
何も持たない少女に出来る褒美は、たった一つ。  
小さな部屋の中で、二人の唇がそっと重なった。  
 
「アル?」  
突然の声に、二人は慌てて顔を放した。  
振り返ると、ルカが立っていた。その傍らにはステラがいる。  
「姫さま!」  
「ステラ、無事だったのね!」  
姉妹同然の二人は、歓声を上げて抱きしめあった。  
それを、二人の若い戦士は誇らしげに見守る。自分たちが成し遂げたことに満足しながら。  
「ひどくやられたなアル」  
「相変わらずだよ。運が良かったのさ」  
「もっと剣の稽古をしないとな」  
ルカに肩を小突かれ、アルは苦笑いを浮かべた。  
 
「全く、心配してきてみればのんきに口づけなんて……」  
「ル、ルカっ」  
ヒルダが顔を真っ赤にしながら叱責する。  
叱られた少年は、そんな言葉などどこ吹く風、といったようにおどけてみせた。  
「こりゃ、もう少し遅く来た方が良かったかな?」  
「い、いい加減にしないと本当に怒りますよ、ルカっ!」  
ヒルダが拳を振り上げると、ルカはさっと身を翻してアルの影に隠れた。  
 
「そう言えば、ルカ」  
だが、もう一方の当事者であるアルフレドは、妙に冷静だった。  
とぼけたような顔をしながら、ルカとステラの顔を見比べる。  
「君も妙に遅かったじゃないか。ステラを探して連れてくるだけにしちゃ、時間が……」  
「おいおい、何を変な言い掛かり――」  
アルは顎でステラの方を指す。  
その瞬間、ヒルダも何かを悟ったように傍らの侍女を見た。  
もうずっと、ステラは顔を真っ赤にしたまま黙りこくっているのだ。  
恥ずかしそうに、服の胸元を直したりしている。  
ルカがどれだけとぼけようと、何があったかは明白だった。  
「……ステラ、あとでお話があります」  
「…………はい、姫さま」  
たちまち四人の男女の朗らかな笑いが、部屋を満たした。  
 
――これが、彼ら四人が友人でいられた最後の日だった。  
そしてこの日のことを、彼らは一生忘れなかった。  
 
 
(続く)  
 

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