1.  
雨が降っている。  
 
冬の雨は冷たく、重い。こんな日は、あらゆるものが活動を止める。  
そんな中、アルフレドは五指城の図書室にいた。  
窓際に並んだ書見台に腰掛け、黙って本の頁をめくっている。  
アルの隣には、ほぼ同じ年頃の若者が同じように座っていた。  
その若者は、本に熱中するアルの横顔にちょっと目をやってから、小さくため息をついた。  
ラテン語どころか、俗語の読み書きすら出来ない彼に、図書室はただの埃っぽいゴミ箱に過ぎない。  
「アル、それ面白いのか」  
聞いても無駄だが、それでも若者は聞かずにはいられない。  
アルは若者を横目で見て、わずかにうなづく。  
呆れたように肩をすくめ、若者は目の前に置かれた分厚い写本を無造作にめくった。  
絵が目に入る。聖人、聖女、聖職者、異教徒、悪魔。そして、キリストとマリア。  
挿絵からしてどうやら聖書に関係する本らしいが、理解できないことに変わりはない。  
さらに頁をめくると、裸の女性の絵が出てきた。  
男を誘惑するように手を伸ばした、全裸の女。その背後には黒い悪魔が同じ姿で男を誘っている。  
七つの大罪の一つ、<肉欲>の図だ。  
だが、若者はこの挿絵を見てにやりと笑う。  
 
「アル、アル」  
しつこく呼びかける若者に、アルはうんざりした声で答えた。  
「……あのさ。退屈なのは分かるけれど、それなら僕のそばにいることはないだろう」  
「いや、本も面白いもんだな、これ見ろよ」  
そう言って若者が指し示したのは、先ほどの<肉欲>の図だ。  
「ええと、『喜びは愛よりいずるものなり。すなわち異性への愛は、喜びなり。  
しかれども、愛より出でし喜びは神への愛に劣るがゆえに<肉欲>となり……』」  
挿絵に添えられた文を読むアルフレドに、若者はにやりと笑う。  
「いや、文章じゃなくて、絵の方だ。なかなかいいおっぱいだと思わないか、この女」  
やれやれ、とアルは頭を振った。  
「ルカ、それは聖イシドルスの『語源録』の注解だぞ。<肉欲>の語源についての精緻な議論を……」  
「アルフレド、あんまり堅物なのもどうかと思うぜ」  
ルカと呼ばれた若者は、声を殺して笑った。  
さきほど大きな声で馬鹿話をして、アルと図書館長に怒られたばかりなのだ。  
 
ルカは大公に仕える兵卒の一人である。農村ではなくモンテヴェルデの城下町出身らしい。  
町育ちだからか、他の兵卒より目端が利き、物言いも直接的で、飾ることがない。  
アルが咎めないからとは言え、まるで対等の相手にするように話すのも、そういった出自ゆえだった。  
兵卒たちと剣の稽古をした日以来、なぜかアルフレドに付きまとっている。  
「ところで、なんで昨日の晩、俺たちと来なかったんだよ」  
再び自分の本に目を移したアルに、ルカは声をかける。  
「噂のスラヴ娘、なかなかかわいかったぜ? なあ、何でだよ」  
「そりゃあ、もちろん……」  
しばらく考えてから、アルはぎこちなく付け足した。  
「……城で用事があってさ」  
「嘘つけ。おおかた姫様にこっぴどく怒られて、出てくる隙がなかったんだろ? 騎士見習いも大変だね」  
ルカはそう言ってアルの肩を叩いた。  
からかい混じりの声に、アルは困り顔だった。  
 
 
ルカたちは、昨日の晩しっかりと町の女と上等の酒を楽しんでいた。  
アルが行かなかったのは、もちろんヒルダの目があったからというのもある。  
昨日は床に就くまで、わざわざ彼女の目に留まるところで過ごしたぐらいだ。  
後で「こっそり城を抜け出したのでしょう?」などと言われないように。  
そこまで気を使っても、ヒルダは相変わらず今日も機嫌が悪い。  
だがそれとは別に、アルの胸にわだかまる言いようのない恐れも理由の一つだった。  
ヒルダと自分を繋いでいるのは、密かな献身と貞節以外は何もない。  
それを破ったとき、アルフレドはただの自堕落な騎士見習いに過ぎなくなる。  
それが、恐ろしい。  
もし女を知ってしまったら、自分は堕ちてしまうのではないか。その代償に一体何を失ってしまうのだろうか。  
 
『異性への愛は、喜びなり。しかれども、愛より出でし喜びは神への愛に劣るがゆえに……』  
 
「――<肉欲>か」  
そっと先ほどの文言を繰り返す。  
ヒルダへの想い。  
それさえあれば、アルフレドは満たされる。彼女にわが身を捧げるのは<喜び>に他ならない。  
だが、もしイシドルスの注解が正しければ、その行き着く先は……。  
恐ろしい考えが浮かぶ。  
アルは頭を振って、その想像を追い払おうとした。机に立ててあった蝋燭の火が、かすかに揺れる。  
結局、アルは諦めたふりをしながら、騎士への夢を捨てられないのかもしれない。  
「騎士は『貞節』でなくてはならないんだよ」  
「ふぅむ……昨日サンフランチェスコのニコロ卿は淫売屋でお楽しみだったそうだけど?」  
「……彼は確か昨日は不寝番だ。朝まで城にいたはずだぞ」  
そうは言っても、アルもニコロ卿の噂は知っている。「ちょくちょく平民の女をつまみ食いしている」と。  
ニコロは成年に達するや、たちまち騎士になった。もし彼の父親が伯爵の一人でなければ、こうはいかなかっただろう。  
一方、アルフレドがどれだけ騎士の徳を守ろうとも、決して彼のようにはいかない。  
 
「酔っ払って淫売屋の階段から転げ落ちたってさ。明日の槍試合どうするんだろうねえ」  
ルカはそう言って楽しそうに笑った。  
馬上槍試合は、臣下が主君に日ごろの鍛錬の成果を見せる場である。  
だが一方で臣下の義務「軍役奉仕」の備えに怠りがないことを示すという意味もあった。  
それに出られないということは、すなわち主君への裏切りにあたる。  
いくら伯爵の息子でも、酔っ払って怪我をしたあげく出場しないとなれば、大変なことになる。  
ルカのような一兵卒ですら噂している以上、大公や貴族たちの耳にも届いているだろう。  
ニコロが適当な理由をつけて欠場すれば、噂を自分から認めているようなものだ。  
意地でも試合には出て見せなければならない。  
 
(どうせ替え玉でも立てるんだろうな)  
アルは忌々しげに口の端をゆがめる。  
馬上槍試合に出られるのは騎士だけと決まっている。しかし、実際の戦争は騎士だけで出来るものではない。  
そもそも純粋な騎士だけで数えれば、公国が集められる重騎兵の数は百騎に満たない。  
軍勢の大半は押し着せの武具を与えられた平民や従卒で埋め合わせることになっている。  
もちろん法と掟で定められた陣立てには反するが、それは公然の秘密だった。  
ニコロ卿も武芸に秀でた平民や従卒を大勢連れている。それを替え玉にすればいい。  
彼ら高級貴族にはいくらでも抜け道がある。  
不寝番をさぼって女を買おうが、軍役奉仕の義務を怠ろうが、なんとでもなる。  
やり場のない怒りに、アルは読書の続きも忘れ、じっと宙を睨んでいた。  
 
 
――その時、入り口の扉が軋みを上げて開いた。  
薄暗い図書室に、灯りを提げた小さな人影が入ってくる。  
その顔にアルは見覚えがあった。確かあれはヒルダの侍女の一人のはず……。  
そう思った次の瞬間、当のヒルダが図書室に入ってきた。  
葡萄酒のような深い紅のドレスを身にまとっている。  
図書室の翳りの中で、その髪は金色に輝き、大理石のような肌は柔らかな白い光を帯びているように見えた。  
侍女の持つランプの灯りに、赤みのさした顔が浮かび上がる。  
流れるような足取りで部屋の中央へ。そのしぐさはすでに女王の風格を漂わせている。  
「これは、姫様」  
図書室の管理人、城付きの司祭が深々と頭を下げながら迎えに出る。  
ヒルダはわずかに微笑みながら、司祭の挨拶を受ける。  
「何か本をお探しで?」  
「ええ」  
ヒルダはうなづく。わずかに波打つ金髪が、光を弾いた。  
「この雨でしょう? 槍試合も延期になったし刺繍でも、と思ったのですけれど、いい図案が浮かびません。  
ですから、何か参考になる絵図を教えていただければ、と思いまして」  
司祭は少し考えるようにあごひげをしごく。「それで、どのような?」  
「出来れば、匹夫の勇を戒めるような騎士の寓意図にしたいと思います」  
「ふむ……ならば、シチリア王国の神学叢書をご覧になるべきでしょう。どうぞこちらへ」  
司祭に案内され、ヒルダは図書室の奥の方へと向かう。  
ヒルダが机の傍を通るとき、アルは一瞬視線を向けたが、ヒルダはおおげさに顔をそむけて見せた。  
どうやらまだ彼女は怒っているようだ。  
 
図書室には、アルフレドとルカ、侍女が残された。  
侍女をルカは絡みつくような視線で、眺めまわす。  
まだ少女とでもいうべき年頃だが、ふっくらと肉付きのよい体つきをしていた。  
侍女が不愉快そうににらみ返す。だが視線があったところで、ルカはさっと片目をつぶって見せた。  
たちまち少女の顔が曇り、つんと顔を背ける。  
それでもルカの視線が気になるのか、横目でちらちらとルカの方を見ている。  
すこし頬が赤らんでいるのは、年頃の娘ゆえのことだろうか。  
アルはそんな二人の対決をよそに、読書を続けた。  
 
「……有難うございました。参考にさせていただきますわ」  
「このようなことでよければいつでも」  
しばらくして、司祭とヒルダが奥の書架から戻ってきた。  
ヒルダの胸には、大きな革表紙の本が抱えられている。  
それを見た侍女が慌てて本を受け取りに行き、ルカと侍女の対決はおしまいになった。  
「ステラ、行きましょう。他の方の読書の邪魔をしてはいけませんから」  
侍女にそう声をかけながら、ヒルダは図書室を出て行く。アルが目で追っているのもまるで気にしない様子で。  
再び扉が鈍い音を立てて閉まり、図書室に静けさが戻った。  
ただ少女たちが焚き染めた爽やかな香の匂いだけがいつまでも二人の名残を止めていた。  
 
不意にルカが口を開く。  
「……かわいいなァ……」  
頬杖をつきながら、ため息まじりに言う。  
アルフレドが無視していると、ルカはわざとアルに聞かせるように言葉を続けた。  
「髪はまるで御伽噺のニンフ(妖精)だ。手もお顔も真っ白で、ほんと、雪かアーモンドの花みたいだし。  
ほっそりとして、背が高くて……まるで歌うみたいにお話になる……そう思わないかアル」  
「そうだね」  
それだけ答えて、また頁に視線を落とす。  
アルが会話に乗ってこないので、ルカはさらに少し声を大きくした。  
「ま、俺には姫様の侍女でも高嶺の花だけどな。あの子はもうちょっと胸の肉付きが良くなれば……」  
そこまで言ってルカはまた声を出して笑う。アルはそれをたしなめるように一つ咳払いをした。  
この新しい友人は、もう少し場の雰囲気をわきまえるべきだと思う。  
――正直なところ、アルはそういう女性の品定めはよく分からない。  
確かに、八年ぶりにヒルダに会って、こんなに美しい女性がいるのかと思った。  
ただ、ヒルダは綺麗だと思うが、それが他の女性と比べてどうかといったことには関心がない。  
初めて彼女を知ったときから、つまり物心がついたときから、アルにとってはヒルダは唯一の女性だったのだ。  
唯一つの存在を、何かと比べることが出来ようか。  
 
「……ところで、アル」  
さっきから読書の邪魔ばかりされている。  
アルは精一杯の反抗として、少しルカを睨んだ。もちろんルカには痛くも痒くもないのだが。  
「さっきの話なんだけどさ」  
「さっきの話って」  
アルはとうとう読書を諦めた。続きはルカがいないときに読むことにしよう。  
「……ニコロ卿さ。どうやらこっそりジャンカルロ伯に泣きついたらしい」  
「へぇ」  
ニコロの父は周囲からジャンカルロ伯の友人、というか彼の手下と見られていた。  
息子の危難に、親分に助けを頼んだというわけだろう。  
「そこでだ、アルフレド。お前、出てみないか」  
「……は?」  
ルカはそこまで言って、まだ分からないのかという顔をした。  
薄々アルフレドにも話は見えている。だが、まさか。  
「そのまさかだ。お前がニコロ卿の替え玉になるんだよ。どうだ?」  
ルカはいい話だろう、とでも言いたげだ。しかし、アルにはどうにも不可解な点があった。  
 
「なんで君がそんな話するんだ? 僕はジャンカルロ閣下からは何も言われなかったぞ?」  
「そりゃあ、お前」  
ルカは呆れた声を出した。  
「令名高き伯爵閣下が、自分の盾持ちに国法を破れとは言えないだろうさ。  
だから伯爵とニコロ卿は、こっそり俺に口利きを頼んだってわけ……ま、よくあることなんだ。  
こう見えても俺は、ずっと前から色々と貴族様のために働いてるんだぜ?」  
それを聞いてアルは納得していた。なぜルカがこうまでアルにはすっぱな口を聞くのか、を。  
つまり、この若者は貴族の本当の姿を知っている。  
金と女に汚く、そのくせ体面を気にして平民に尻拭いをさせる奴ら。  
それがルカにとっての「貴族」なのだ。  
 
「ジャンカルロ伯もニコロ卿も、『熊殺しの腕を見込んで是非アルフレドに』と仰ってる。  
それにニコロ卿のお父上が、この仕事を引き受けてくれたらアルに騎士の称号を与えてもいいとさ」  
「……僕を、騎士に……?」  
アルの心が揺れた。  
まさか、とは思う。  
しかし、ニコロ卿とその父に貸しを作れば、今すぐでなくても、あるいは。  
もう一年か二年騎士見習いを勤めた後、適当な口実をつけて騎士にしてくれるかもしれない。  
大公がアルフレドに騎士の身分を授けない以上、何か裏口を使わなければ騎士にはなれない。  
これは――好機なのではないか。  
 
ヒルダの顔が浮かぶ。  
正式に騎士に認められ、大勢の貴族の前で、彼女に忠誠の誓いを立てる自分の姿も。  
「……どうする?」  
ルカの問いに、アルフレドはぎゅっと拳を握り締めた。  
 
 
2.  
腹の底に響くような、馬の蹄の音。  
空高く広がっていく、人々の歓声。風をはらむ軍旗。  
そして、色とりどりの上衣を羽織った騎士たち。  
モンテヴェルデの町外れに作られた競技会場では、今まさにトゥルネアメント(馬上槍試合)が始まろうとしていた。  
 
柵で楕円形に仕切られた野原に、階段状の観客席が設えられ、廷臣や婦人たちが席を埋める。  
その中央、すこし高いところに大公マッシミリアーノの姿がある。その隣にはヒルダもいた。  
大公は一見無関心に、目の前で準備を整える家臣たちを見つめている。  
一方のヒルダは、隣に座った誰かの奥方となにやら話し込んでいた。  
今年の勝者は誰か、どの騎士に自分のヴェールを与えるのか、そんなことを話しているのだろう。  
 
ある婦人に忠誠を捧げた騎士が、馬上槍試合に望むにあたり、彼女が身につけているもの――  
たとえばハンカチーフやヴェールなどを忠誠の代償としてもらうのは、古式ゆかしい騎士の風習である。  
また試合の勝者に、臨席した婦人から改めてそういった物が「寵愛」の証として与えられることもある。  
モンテヴェルデ公国は、どちらかと言えば尚武の国、しかも古いノルマン人の掟を重んじる国だ。  
誰が勝者になるのか、誰がどの貴婦人から証を与えられるのか。誰もが関心を持っている。  
それは貴族であろうと、平民であろうと変わりない。  
その証拠に、試合を一目見ようと、柵の外側には黒山の人だかりが出来ていた。  
観客席に入れない平民たちだ。  
全て、この年最も優れた騎士は誰なのかを見届けたい一心からである。  
 
そして貴族平民を問わず、その振る舞いが最も注目されているのはヒルデガルトだった。  
ヒルダ姫が誰を勇者と認めるのかは、誰にとっても気になる事柄だ。  
そして、それは単に名誉の問題ではなく、大いに政治的な関心を含んでいた。  
大公の息女であり、この国の正当な後継者の血を引く唯一の人間。  
彼女の「寵愛」の行方が、政治的な問題になるのは自然な成り行きだった。  
 
ファンファーレが鳴り響き、試合の開始が近いことを告げる。  
馬上槍試合のルールは簡単だ。  
二人の騎士が一対一で、直線状の馬場の両端から向かい合って馬を走らせ、槍で突き合う。  
槍に突かれて落馬すれば敗者。相手を落馬させるまで馬上にいれば勝者である。  
試合に勝った騎士は、さらに別の試合の勝者と対戦する。こうして最後の一人が勝ち残るまで試合は続く。  
この試合形式から、馬上槍試合――トゥルネアメント――は「トーナメント」の語源となった。  
試合とはいえ、それは限りなく実戦に近い。  
先端を丸くした槍を使い、詰め物を入れた盾を使っても、怪我は茶飯事だし、死者がでることもある。  
しかし、馬上槍試合とはそういうもので、それが騎士の生き方であると誰も疑うことはない。  
教会は野蛮だと非難していたが、貴族たちは試合に勝つことこそ最高の名誉と信じている。  
 
他の騎士に混じって出番を待つアルは、大公とヒルダの後ろにジャンカルロ伯がいるのに気づいた。  
伯爵は二日目からの試合に出るので、今日は観客席にいる。  
その彼の目が、一瞬アルフレドに向けられたような気がした。  
おかげで、アルは今日の自分の役目を思い出すことが出来た。  
アルフレドにとって、他の騎士のように勝ち残ることは許されない。  
もし勝ち残れば、当然皆の注目を浴びることになり、偽者であることがばれる可能性が出てくる。  
ニコロ卿の名誉を傷つけない程度に勝ち、適当なところで負ける、それがアルフレドの役目である。  
誰かに命じられたわけではないが、アルはそれをきちんと理解していた。  
 
突然、喇叭手が高らかに出陣の調べを吹き鳴らした。  
それを聞いて、最初の試合に出る騎士が馬にまたがり、触れ役が二人の姓名と身分を読み上げる。  
ひときわ歓声が高くなった。双方の親族や家臣たちの声援だ。  
向かい合った二騎は、静かに槍を構える。  
次の瞬間、突撃喇叭に合わせて二人の騎士は猛然と突きかかっていく。  
こうして、馬上槍試合は始まった。  
 
身分の低い騎士から試合を始めたので、アルの出番まではかなりの時間があった。  
小さく見えるヒルダの姿に、もう一度覚悟を決める。  
――法を破ったとしても、騎士になる。  
いや、誰にも気づかれなければ法を破ったことにはならない、アルはそう思い込むことにした。  
貴族たちは大なり小なり、こっそり法や掟に背いている。自分ひとりがしていることではない、と。  
どんな手段であれ、騎士になればヒルダも喜ぶ。  
そうすれば、他人の前で彼女に堂々と忠誠を誓うことが出来る。  
それを考えると、自然と体の奥から力が沸きあがってくるのだった。  
「次なるは名高き城代、サンフランチェスコのニコロ殿! サンフランチェスコのニコロ殿!」  
触れ役の声に、アルは我に返った。自分の出番だ。  
対戦者の騎士は、既に馬場の反対側に詰めている。  
アルは兜の面頬を下ろすと、ニコロ卿の従卒から槍を受け取った。  
個々人の体格に合せて作られる甲冑以外、家紋入りの上衣、盾、馬、槍は全てニコロ卿のものである。  
もちろん、従卒は「ニコロ卿」が本物で無いことを知っている。  
そしておそらく周囲の騎士の何人かはニコロ卿が別人であることに気づいているに違いない。  
鎧が違うのだから、近くで見れば一目で分かるはずだが、騒ぎ立てる者は誰もいなかった。  
たとえライバルや敵であれ、お互い面目を公然と潰すようなことはしない。  
それが貴族社会だった。  
 
ゆっくりと馬場の端に馬を進める。  
ここからでは観客席は遠く、大公が、ジャンカルロ伯が、そしてヒルダがどんな様子なのかはよく分からない。  
それゆえ好都合ともいえる。そんな距離で甲冑の違いに気づく人間はいないだろう。  
余計な考えは捨てて、アルは槍を小脇に挟む。  
盾をしっかりと支え、手綱を握り締めた。  
とにかく、最初の試合ぐらいは勝たねばならない。  
相手もそこそこ名の知れた騎士。もともと文弱なアルは、死に物狂いで行かねば勝てない。  
ヒルダを守ったときのような力が、果たして出るのだろうか。  
(もし、負けたら)  
アルの背中を恐怖が走る。だが、すぐにそれは吹き飛ばされた。  
突撃喇叭が鳴ったのだ。  
相手の騎士が、鬨の声をあげ、こちらに向かって突っ込んでくる。  
(神よ、守りたまえ――)  
アルも雄たけびをあげながら、思い切り馬の腹に拍車を入れた。  
二騎が馬場の中央で交差する。  
――盾を突かれたとき、アルは跳ね飛ばされるような衝撃にのけぞったが、落ちる寸前のところでこらえることが出来た。  
同時に、自分の槍が相手の盾をかわし、胴鎧の真ん中に命中するのが見えた。  
まさに幸運だった。  
体勢を立て直しながら、すれ違いざまに振り向く。  
相手の騎士が落馬する光景が、アルの後ろに流れ去っていく。  
(勝った――)  
ニコロ卿の体面は守れた。アルはその安堵から、全身の力が抜けるのを感じていた。  
 
だが、二人目は強敵だった。  
最初の突撃で、アルはかろうじて相手の攻撃を盾で受け止めることに成功した。  
しかし相手もまた、アルの一突きを軽く盾を動かしただけで捌いた。  
(すごい……)  
激しく揺れる馬上での、無駄の無い滑らかな動き。的確な槍使い。  
対戦者ヌヴォローゾのロベルトは、名の通った武芸者だった。  
 
二人の槍は衝突の勢いで真っ二つに折れたので、二人とも新しい槍を従卒から受け取った。  
とにかく、どちらかが落馬するまで試合は終わらない。  
槍を構え、アルとロベルトは馬場に入る。  
再び、馬を駆る。百メートルほどの距離を、鋼鉄の塊が疾駆する。  
地面がゆれ、雷のような蹄の轟きが草原に響き渡った。  
 
アルは全神経を集中して、相手の体の中心を突こうとする。  
だが、ロベルトはそれを見越したように盾を構え、アルの攻撃を綺麗に防ぎきった。  
一方アルは、相手の一突きを何とか盾で受け止めるのがやっとだった。  
衝撃を支えきれず、ロベルトの槍がアルフレドの盾を押しのける。  
それた槍先は、アルの肩口を強打していた。  
苦痛にアルの顔がゆがむ。  
二人はすれ違い、それぞれ馬場の反対側まで馬を走らせる。  
どちらの槍も、真ん中から綺麗に砕けていた。  
頑丈なとねりこの木で出来た槍が折れるほどの衝撃だ。打撲とはいえ、アルの受けた傷は深い。  
しかもアルは相手を突くことを完全に失敗していた。  
ロベルトは悠々と新しい槍を構えている。  
(次は、無理だな……)  
痛みの中で冷静に判断する。おそらく盾を素早く動かし、相手の突きを受けることは出来ないだろう。  
だが、すでに二度突きあい、互いに槍を折っている。  
観客に「いい勝負だった」と印象付けるには十分戦ったはずだ。  
(よし、負けよう)  
アルは従卒から新しい槍を受け取りつつ、致命傷にならない落馬の仕方をすでに考え始めていた。  
 
その後、従卒に肩の傷を手当てをさせながら、アルは残りの試合を見物し続けた。  
今勝ち残っている騎士は八人。その中にはアルを打ち負かしたロベルトもいた。  
アルを倒してから、彼は苦戦することもなく勝ち進み、おそらく最後まで勝ち残るのではないかと思われた。  
 
朝から始まった試合はまだ終わらない。だが、日は傾きつつあった。  
夕暮れが迫ると、急に風は冷たさを増し、平原も薄暗い闇に包まれていく。  
観客たちも、試合より肌寒さと暗さに気をとられているようだった。  
観客席に座った何人かは、大公が早く試合の中断を言い出さないかと、彼の顔ばかり伺っている。  
やがて、上衣に描かれた騎士たちの紋章さえ見極められなくなったとき、ついに大公が片手を挙げた。  
それを見た喇叭手が、「突撃待て」の調べを吹き鳴らす。  
試合中断だ。  
その調べに、用意を整えていた騎士たちさえも、ほっと力を抜くのが見えた。  
観客たちもすでに試合ではなく、大公のいる観客席の方に注目している。  
 
全員の注目を浴びながら、大公は黙って立ち上がった。  
会場が静まるのをしばらく待ってから、大公は初めて口を開いた。  
「騎士たちよ、高貴なる方々よ。今日はもう日も落ち、このままでは武勇を見届けるのは難しいと思う。  
したがって、勇士たちには明日に備えていただき、今日は散会するが良いと思うが、いかがか」  
もちろん異を唱える者はいない。試合中断を告げる決まりきった文句だ。  
大公の言葉に従うように、人々は一斉にに頭を下げ、立っていた者は跪いた。  
「それでは、この続きは明日にするとしよう……。  
だが、ご婦人方が勇士を称えたいと思われるなら、この場にて申し出られよ」  
これもまた、毎年繰り返される口上だった。  
大公の言葉に従い、勝ち残っていた騎士たちは下馬し、静かに観客席の前に並ぶ。  
観客席のあちらこちらから、数人の貴婦人が立ち上がり、席の前の列へと進み出る。  
そして、跪く騎士たちに自分のハンカチーフやレースを与えていく。  
名のある婦人が前に進み出るたび、観客からため息とも歓声ともつかない声が漏れた。  
 
やがて、一通り婦人たちがその「証」を与え終わると、観客の目は自然とヒルデガルトへと向かった。  
その好奇心で一杯の目を平然と受け止めつつ、ヒルダは立ち上がる。  
やがて、静かに懐からハンカチーフを取り出し、騎士ロベルトへと差し出した。  
再び観客席が静かにざわめく。  
それは当然の結果に満足した声にも聞こえた。  
 
その時だった。  
観客席の後ろの方にいたジャンカルロが、ヒルダにそっと近づいた。  
そして、ヒルダの耳元に何事かささやく。ジャンカルロの言葉に、ヒルダは何度かうなづいている。  
会場中が何事かと息を呑む中、突然ジャンカルロが朗々とした声で告げた。  
「このたび、大公御息女ヒルデガルト様はヌヴォローゾのロベルトを勇者と認められた。  
だが、そのロベルトと互角に渡り合い、二度も槍を折らせた勇士にもまた、その証は与えられるべきであろう。  
すなわち――サンフランチェスコのニコロに!」  
ジャンカルロの言葉に、観客の目は一斉にニコロ卿……つまりアルフレドに向けられた。  
アルは最初その意味が理解できなかった。  
だが、全ての目が自分に向けられていることに気づき、愕然とする。  
「サンフランチェスコのニコロ、前へ!」  
観客はまだ、ニコロが替え玉であることに気づいていない。  
会場は既に薄暗く、くわえて遠目からでは騎士一人一人の顔を見分けることなど出来ないからだ。  
しかし、観客席にヒルダの「証」を受け取りに行けば……。  
「どうなされた、ニコロ殿! さ、早く前へ!」  
ジャンカルロがさらに大声で呼ぶ。  
(どういうことです、閣下――――)  
次の瞬間、アルフレドは自分にかけられた罠に気づいた。  
自分は、高名な騎士が負傷したのをいいことに、身分違いの槍試合に出た「掟破り」にされたのだ、と。  
 
だが逃げることは出来ない。満場の視線を浴びた今、逃げることなど不可能だ。  
アルはのろのろと立ち上がる。まるで脚は鉛を埋め込まれたように重い。  
それを着たまま逆立ちすら出来るというのに、甲冑はずっしりと体にのしかかるようだった。  
ヒルダの顔がしだいにはっきり見えてくる。  
彼女はまだ気づいていない。  
自分が証を与えようとしている相手が自分の幼馴染みの若者だということに。  
彼の破滅が近づいているということに。  
 
顔を隠すように、観客席の前に跪く。  
顔を挙げればヒルダに、大公に、そして前列に席を占めた大勢の貴族たちに自分の顔をさらすことになるだろう。  
すでに何人かは、かすかな違和感を覚えたのか、ざわめいている。  
(どうか、このまま――頭を垂れたまま「証」が授けられますように……)  
 
だが、アルの祈りは無意味だった。  
「さ、面を上げられよ、サンフランチェスコのニコロ殿!」  
ジャンカルロの言葉は死刑宣告と同じだった。  
アルがゆっくりと顔を挙げ、ヒルダの顔を真正面からしっかりと見る。  
その美しい顔が、驚きに凍りつく様子が、アルの心をえぐった。  
 
 
3.  
ヒルダは気丈にも、何事も無かったかのようにアルに自分のヴェールを授けた。  
だが、それは忠勇に対する褒賞ではなく、非法への報いだった。  
アルもうやうやしく受け取る。  
他の貴族も、おおっぴらに騒ぎ立てはしなかった。  
栄えある馬上槍試合を汚すわけにはいかないと、誰もが考えたからである。  
だが会場の外に出た途端、アルは衛兵たちに取り押さえられた。  
城に着くや、武具甲冑はもとより、上着やズボンすら剥ぎ取られる。もちろんヒルダのヴェールも。  
 
アルは裸同然の格好で、城の地下牢へ放り込まれた。  
地下牢は、まさにこの世の果てを思わせる場所だった。  
身を切るような寒さ。じめじめとした土がむき出しの床。  
湿気と息が詰まりそうなほどよどんだ空気。部屋の隅に積みあがった排泄物と鼠の死骸。  
日に二回与えられる水とパンの食事以外、時を告げるものは何も無い暗闇。  
一体何日、そこに閉じ込められていたのか。  
アルは今が何日なのか、昼なのか夜なのかすら分からなくなっていった。  
だから、突然牢から連れ出されたとき、それまでの時間が一瞬のようにも、あるいは十年たったようにも思われた。  
 
粗末な下着姿のままで、アルは城の大広間へと引きずり出され、強引に跪かされる。  
真正面の玉座に大公マッシミリアーノとヒルダが座っている。両側にはジャンカルロや家臣たちの姿も見えた。  
懐かしいヒルダの顔を見た瞬間、アルフレドの目から涙がこぼれ出た。  
だが不思議なことに、頬に流れる涙が感じられない。  
その時初めて、アルは自分の顔が一面不精髭に覆われていることに気づいた。  
 
「アルフレド・オプラント」  
重々しい声に、アルはのろのろと頭を上げる。話しているのは大公の家令の一人だった。  
「お前は、いまだ馬上槍試合に出ることを許されぬ見習いの身でありながら、無断で騎士の方々と槍を交わした。  
――間違いないな?」  
「それは……」  
弁明しようとして、アルは黙る。  
ニコロ卿に依頼された? ジャンカルロ伯が認めた? そんなことを言って何になろう。証拠はどこにもない。  
唯一ルカだけが証人だ……だが彼はこの場にいないし、平民の言葉など一顧だにされないだろう。  
アルは敗北を悟り、頭を床にこすり付けた。  
「…………間違いありません」  
アルが罪を認めたとき、誰も何も言わなかった。  
大公も、家臣たちも――――ヒルダさえも。  
「では、お前は父祖が定めた、スウェビの法に背いたことになる。その代償は知っているな」  
「……はい」  
感情を失ったアルの声が大広間に響く。  
アルフレドの言葉を書き留める書記の、ペンのすべる音だけが淡々と流れている。  
「アルフレド・オプラント。全ての名誉と領地を剥奪し、公国から追放する。  
そして、二度と公国の城、都市、館、荘園に足を踏み入れてはならぬ。  
ただいまより、明日の日没までにこの町から退去すること。  
だが神の慈悲によって、お前には腕一抱えの財産が与えられよう。以上」  
側近が告げ終わると同時に、大公は立ち上がり、大広間から出て行った。  
それに家臣たちも続く。  
足音が遠ざかったところで、ぱたり、と書類挟みが閉じる音がした。  
書記が全てを書類に記載し終わったのだ。大公の印が押されればそれは決して覆ることはない。  
 
そして、静寂が戻った。  
がらんとした大広間には、二人の衛兵とアルフレドだけが残された。  
衛兵は乱暴にアルフレドを立たせる。  
二人の屈強な男に引きずられながら、アルはもう一度だけ振り返った。  
ヒルダの面影を求めて。  
だが、そこには空っぽの玉座があるだけだった。  
 
 
次の日の朝。  
アルは城門の前に一人で立っていた。  
ぼさぼさに伸びた髪が、強い風に煽られる。  
無精髭にまみれた顔に、くっきりとしたしわが刻みつけられていた。  
牢に閉じ込められていた一月という時間が、アルから少年らしい風貌を奪ったのだ。  
背中には小さな麻袋を背負っている。  
法に定められた「慈悲」により、そこには生きていくのに最低限の道具と食料が入っていた。  
それがアルの全財産である。  
アルは一度だけ振り向き、五指城を目に焼き付けようとした。  
幼い頃、遊び場だった中庭。  
愛馬マレッツォと初めて会った厩。  
頂から町の様子を眺めた五つの塔。  
夢中で本を読んだ図書室。  
そして、ヒルダがいる居館――もう二度と目にすることはないだろう。  
アルフレドは向き直り、城門をくぐった。町へ下る大通りをゆっくりと歩く。  
この町にも、もう足を踏み入れることは出来ない。アルは寄る辺無き「さすらいびと」となったのだ。  
 
だが、彼を待ち構えている人物がいた。  
しかも、二人。  
「ルカ……」  
兵卒のそれではなく、私服に身を包んだルカが城門脇に立っていた。  
アルを見つけ、ためらいがちに近寄る。  
「……やあ」  
「…………やあ」  
だが、先に声をかけたのはアルの方だった。  
ルカはアルと目を合わそうともしない。一方のアルは、落ち着いた目でルカを見つめていた。  
不思議と、アルの胸中に彼を恨む気持ちは沸いてこなかった。  
それどころか、見送ってくれることを心から喜んでいた。  
 
すると、不意にルカの手が動いた。  
アルの手をとり、小さな皮袋を手のひらに握らせる。  
じゃらり、と固い音がする。袋の外からでも分かる、銀貨の感触。  
「……使ってくれ。少しでもあった方がいい」  
「すまない」  
家財道具と食料を除けば一文無しだ。見栄を張って突き返すほどアルは馬鹿ではなかった。  
アルは黙って、皮袋を懐にしまった。  
「アルフレド。信じて……いや、信じてくれとは言わん。だけど俺は……」  
「分かってる」  
ルカが全てを言い終わる前にアルは首を振った。  
 
もはや、どうでもいいことだ。  
ルカがジャンカルロの企みの手先であろうが無かろうが、この結末を選んだのは自分なのだから。  
「それよりもルカ、君も逃げた方がいい。真相を知っている以上、殺されるかもしれない」  
アルフレドに言われるまでもなく、ルカは逃げるつもりだった。  
名を変え、モンテヴェルデの城下町から出てしまえば、ジャンカルロの刺客をまくことは簡単だ。  
すでにその準備は整っている。アルを見送れば、自分も故郷を捨てる。  
「気をつけろ。君がなぜジャンカルロに嵌められたのかは知らないが、あいつは蛇のように狡猾だぞ」  
「分かっている。誰も僕のことを知らない土地に行くつもりさ」  
ルカは初めてアルの顔を見た。  
泣きそうな顔は、はしっこい町の若者というより、母親に叱られた子供のようだ。  
しかしもう二人は何も言う必要はなかった。  
軽く握手をして、アルは背を向ける。  
去り際、互いに呟いた別れの言葉は、海風にかき消され、どちらの耳にも届くことはなかった。  
 
 
もう一人の待ち人は建物の影に隠れて立っていた。  
アルの領地の、いや「元」領地だった村の名主だ。  
「……アルフレド様」  
アルフレドの姿を認め、丁寧に頭を下げる。  
「止めろ、僕はもう君たちの領主じゃない」  
駆け寄る名主を手で押し止め、アルは立ち去ろうとする。  
だが、アルの目の前に、名主が立ちはだかった。  
その手には見慣れたものが握られている。見事な意匠の鞘に納まった、アルの長剣だった。  
それは、村の鍛冶屋がアルのために鍛えてくれたものである。  
「お持ちください」  
そう言うと、名主は深々と頭を下げた。  
「受けとれない。それに、受け取れば君まで罪人にしてしまう」  
名主が差し出す剣を、片手で押し戻す。  
この剣の正当な持ち主は、次の領主になる男であり、さすらいびとの自分ではない。  
だが名主は強情だった。  
無言で剣をアルの目の前に掲げて見せる。  
 
本来ならば禁じられた行為と知りながら、名主はアルに剣を渡しに来ていた。  
「慈悲」を除けば、アルは貴族として得た財産を一つたりとも持って行けない。  
だが、名主はあえて法を破った。  
名主は意を決してその理由をアルに告げた。  
「……あるご婦人から、これをアルフレド様に渡すよう頼まれました」  
本当は、黙って渡せと言われていたのだ。  
だが、名主にはそれが出来なかった……あの少女の涙を見てしまったから。  
「僭越ながら、私もこれはアルフレド様が持つべきものだと思います……あのご婦人のために」  
「……ヒルダ」  
アルは息を呑んだ。  
言葉に詰まり、無言で差し出される剣をじっと見つめる。  
静かに、アルの手が鞘を掴んだ。  
アルが受け取ったのを確かめ、名主はもう一度頭を下げる。  
「……ありがとう。皆によろしく伝えてくれ」  
差し出された剣を腰に佩き、アルフレドは歩き出した。  
未来無き未来へと。  
 
「よろしかったのですか」  
窓際のジャンカルロに向かって、ニコロ卿が言った。  
「何が、かね」  
ジャンカルロは城の一室から、アルフレドが出て行くのをかすかな哀れみと共に見守っていた。  
だから、名主が法を破って剣を渡したのも、ヒルダが武器庫から剣を盗み出したことも見逃すことにした。  
「わざわざ、ご尊名を傷つけてまで追い出す相手だったのでしょうか、アルフレドは」  
ニコロ卿は足に巻いた添え木によろめくようにして、ジャンカルロの傍に近づく。  
アルを追放するために彼は怪我のふりをせねばならず、馬上槍試合に出られなかった。  
ジャンカルロ伯も、自分の盾持ちの監督不行き届きを大公から咎められた。  
 
もちろん「ニコロが淫売屋で怪我をした」というのはルカにだけ吹き込んだ嘘である。  
表向き、ニコロは不寝番中に足を挫いたことになっているが、やはり試合に出られなかったのは痛い。  
わずかとはいえ汚名を着た上で、手に入れたのは「一人の騎士見習いの追放」である。  
それが大公の血を引く男とはいえ、それだけの価値があったのか。ニコロが聞きたいのはその点だった。  
「……あんな男のためにここまで策を弄さずともよかったのでは」  
ニコロの言葉にジャンカルロはかすかに笑った。  
「では、ヒルデガルトの寵愛があの男に向けられているとしたら、どうする。  
もし大公が突然亡くなったとして、ヒルデガルトがあの男を夫とすると言ったら、誰がそれを止める?」  
「まさか、そんな馬鹿なこと……」  
ジャンカルロは軽く首を振った。想像力の足りない若者への諦め。  
だが伯爵は、そんな話し相手にも機嫌を損ねることは無かった。  
「全ては可能性の問題だ。あるいは、アルフレドが大公の寵愛を取り戻すかもしれん。  
年をとればわが子が可愛くなるものだからな」  
「では密かに手にかけて……」  
「殺してしまえば良かったのかもしれないが、あの小僧はなかなか用心深くてな。  
それに、この一件で大公は二度と息子のことを口に出来なくなったし――何しろ罪人なのだからな――  
少なからず大公一派に揺さぶりをかけることも出来た。その方が殺すより効果的とは思わんかね?  
……とにかく、何よりあってはならんのは、マッシミリアーノの血が続けて大公位に収まることだ。  
だから、アルフレドには消えてもらうしかなかったのだよ。彼に恨みはないがね」  
 
ジャンカルロは無表情のままだった。  
ニコロにはその複雑な胸中をおもんばかるほどの頭はなかった。  
追従笑いを浮かべながら、大げさな口調で言う。  
「確かに。あのような簒奪者をいつまでも大公位に置くわけにはいきませんからなぁ。  
ましてやその一族が後継者になるなど、あってはならないことです」  
「……簒奪者マッシミリアーノの後を継ぐのは、私という簒奪者だが?」  
ジャンカルロの軽口に、ニコロは顔を引きつらせる。それは笑うわけにはいかない種類の冗談だ。  
困り顔のニコロにわずかな微笑みを残して、ジャンカルロは再び窓の外を見る。  
もうアルフレドの姿は見えない。  
どこまでも低く垂れ込めた、灰色の雲が遠くまで広がっている。  
「……かわいそうなアルフレド。大公の息子になど生まれなければ良かったのにな」  
 
(続く)  
 

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