1.  
兵士は絶叫と共に梯子から城壁へと降り立った。  
そこへ、モンテヴェルデの騎士が斧を振り上げて襲いかかる。  
剣と斧が数合打ちあって離れる。  
次の瞬間、斧の間合いに飛び込んだトルコ兵が騎士の首を刎ねた。  
その横から、弓兵が短剣を抜いて踊りかかる。  
血しぶきを上げてトルコ兵は倒れた。先ほど自分が倒した騎士の上に。  
だがそれは弓兵にとっても束の間の勝利に過ぎない。  
さらに続々と梯子から新たなトルコ兵が飛びかかってくる。  
死の舞踏はこうしていつ果てるとも無く続いていた。  
 
五指城を攻め落とさんと押し寄せるトルコ軍。  
それはまるで菓子に群がる蟻の群れを思わせた。  
矢玉が降りしきる中、兵士は丘を駆け上がり、梯子をかけ、壁に取り付く。  
対するモンテヴェルデ兵は矢を射かけ、石を落とし、煮立った油を浴びせて抵抗した。  
城へと続く丘は兵士の死骸で覆われ、血がぬかるみを作る。  
巨石が城壁から落とされ、巻き込まれたトルコ兵が絶叫と共に斜面を転がり落ちていく。  
梯子を昇る途中に矢で射られた兵が墜落し、血肉をぶちまける。  
地獄もかくや、と思わせる凄惨な戦場だった。  
 
太陽が頭の上に昇る頃になっても、今だトルコ軍は城の外城壁すら落とせなかった。  
モンテヴェルデに利したのは地勢と城壁である。  
トルコは大砲や投石器も使えず、ひたすら梯子と人間の数で押し込むしかない。  
アクメトは城外の宿営地に僅かな守備兵を残しただけで、全てを決戦に投じた。  
それでも、数百年をかけて築き上げられた五指城の城壁は、未だ決然と彼らを拒んでいる。  
城はまるで血に飢えた獣のように兵の命を吸い続けていた。  
 
だが、モンテヴェルデの優位もいつまで続くか怪しいものだった。  
たかだか数百メートルの城壁を守る兵すら不足しているのだ。  
兵に混じって女や老人、子供までもが戦っていた。  
彼らは矢を放ち、石を投げ、武器や食料を運び、ときに敵と素手で掴みあった。  
早朝から始まった戦いは彼らを苦しめ、次第に疲弊させていく。  
だが最後の望みに全てを託して、彼らは持ち場を守り続けた。  
 
その全てを、ヒルダはじっと見守っていた。  
城壁全体を見渡せる塔の上に立ち、傍らに巨大なモンテヴェルデの旗を掲げながら。  
軍旗はよい的になる。  
実際、ヒルダの体や顔を何度も敵の矢がかすめた。  
それでも彼女はもう何時間も身動き一つせず、戦場を見つめ続けていた。  
 
城壁の反対側では、アクメトが無言のままモンテヴェルデの軍旗を見上げていた。  
彼は丘の麓に設けられた陣屋に立っている。  
両側には突撃の順番を待つ歩兵隊が並び、眼前では延々と死闘が繰り広げられている。  
彼もヒルデガルト同様、一歩も動くことなくその場に立ち続けていた。  
もう何時間も、彼は部下が自分の死体で丘を敷き詰めていくのを見つめている。  
それに耐えられるほどの剛の者は、アクメトの側近にはいなかった。  
 
側近の一人が、今届いたばかりの報告をおずおずと告げる。  
「パシャ、ヴォルカン殿の隊、攻撃失敗です」  
「では残りの兵をまとめて攻撃を再開せよ」  
アクメトは無表情に答えた。  
「……もう生きている兵はおりません」  
「ヴォルカンは!」  
「亡くなりました」  
その死人すら冥界から呼び出して叱責しそうな勢いに、男は後ずさる。  
だがアクメトは怒りを爆発させることはなかった。  
 
「ではイエニチェリを出せ」  
「パシャ、すでに千人以上が……」  
がちゃり。鎧を鳴らしてアクメトが振り向く。  
夏の太陽に半日焼かれたというのに、アクメトの目は生気に輝いていた。  
蓄えられた口ひげが、一瞬震える。  
 
「……分かっている。イエニチェリ軍団が突撃の準備を終えるまで、他の兵は休息させよ」  
意表を突かれた側近を尻目に、アクメトは背後の天幕へと足を向けた。  
「私ものどが乾いた。兵には冷たい水を配ってやれ」  
アクメトの姿が見えなくなり、召使いも天幕へと急ぐ。  
側近たちは一様に安堵の息を吐いた。  
「よく言う。『天国で休めばよい』と顔に書いてあるわ」  
将軍の一人が自嘲気味に呟く。  
諦め気味の顔を威厳の仮面の下に隠し、彼は伝令に各隊後退を命じた。  
 
 
2.  
ひとつ、ふたつ、みっつ。  
門扉を勢いよく叩く音が聞こえ、そのたび土埃と割れた木屑が兵士の上に舞い落ちる。  
男たちが内側から門を押さえているが、それも無駄に終わろうとしていた。  
ひとつ、ふたつ、みっつ。  
トルコ兵が叩きつける丸太の勢いは衰えることを知らない。  
鉄枠がはまった巨大な城門の扉に裂け目が走り、次第にそれが大きくなっていく。  
城門の上や銃眼からは敵を撃退しようと無数の武器が発射される。  
だが誰かモンテヴェルデの矢に倒れても、すぐ別のトルコ兵が丸太を担いだ。  
ひとつ、ふたつ、みっつ。  
もう割れた扉の隙間から、動くトルコ兵の影が見える。  
 
門の後ろには、選りすぐりの戦士が控えていた。  
騎士、盾持ち、傭兵を問わず、手には業物の武器を持ち、磨きぬかれた甲冑で固めている。  
その中央にはヒルダがいた。  
円盾と長剣を構えた姿は、ワルキューレもかくやという勇ましさだ。  
丈合わせのために無造作に断ち切った鎖帷子が、逆に歴戦の戦士を思わせた。  
皆、戦乙女に率いられた勇者のように最後の戦いを待っている。  
背後には城の内部へと通じる扉しか残されていない。  
「……最後まで、希望を捨ててはなりません」  
外から聞こえる異国の叫び声にかき消されそうになりながら、ヒルダがそう叫んだ。  
何よりまず、自分に言い聞かせるように。  
 
彼女の隣にいた騎士が、不意に声をかけた。  
「姫、扉が破られたら、あなたは城の中へと走りなさい」  
言われた意味が分からず、ヒルダはきょとんとしている。  
「我々が壁になります」  
同調するように、何人かの戦士が頷く。モンテヴェルデの男だった。  
 
ヒルダの顔が曇った。  
「なぜ……です。私が足手まといだからですか」  
「生きているのも総大将の仕事ですよ。あなたがいなくなってはこの国の柱がなくなる」  
「ここは大人の言うことを聞きなさい、姫」  
そう言うと、男たちはヒルダを隊列の外へと促す。  
優しく、しかし有無を言わせぬ腕が彼女の背を押した。  
「けれど……」  
「言うことを聞きなさい、マドモワゼル」  
別の騎士が兜の面を跳ね上げ、言った。  
「傭兵とは言え、ブルゴーニュ人は淑女を戦わせたりはしない」  
異国訛のイタリア語で、その騎士は微笑む。すると、隣の兵士がすぐ混ぜっ返した。  
「……気取るんじゃねえよ、フランスのバルバリ(野蛮人)が」  
「ナポリターノ(ナポリ人)の心意気を見ておいて下さい、姫」  
「ウルビーノ人は臆病ではないですぞ、姫さま」  
「モンテヴェルデ以外の者も勇敢であったと、語りついでいただきたい」  
引きずられるように城へと連れ去られるヒルダに、皆が口々に告げる。  
閉じる扉の向こうに、手を振る男たちの姿が見え、そして消えた。  
 
丘のふもとから見上げても、門が破られるのが時間の問題であることは容易にみてとれた。  
トルコ兵は全ての攻撃を門に集中している。  
モンテヴェルデの反撃も衰え、最後の力は門を守ることに注ぎ込まれている。  
城壁から放たれる矢は勢いを失い、防戦を命じる叫びは途切れがちになっていた。  
まるで敵も味方も最後の瞬間を固唾を飲んで見守るかのようだった。  
 
アクメトにも扉が割れていく音は、はっきりと聞こえていた。  
門を破る工作兵の背後には、突撃隊が静かに控えている。  
時折城から放たれた矢に倒れる者がいても、もう誰も悲鳴すら上げない。  
半日以上血にまみれ、傷つき疲れた兵士たちにもはや戦う理由などなかった。  
死ぬか、生き残るか。あるのはそれだけだった。  
 
ひときわ大きな、木の裂ける音が響いた。  
アクメトは隣の副官に頷く。それを合図に副官は手を高く振り上げた。  
ラッパ手が、突撃の調べを奏でんと、楽器を口に当てる。  
 
そして一斉に、突撃ラッパの音色が響き渡った――  
 
アクメトが振り返る。  
副官も、ラッパ手たちも……彼らは、まだ吹いていない!  
この音色はトルコの軍楽隊の調べではない。モンテヴェルデのものでもない。  
それは町の外から聞こえてきた。  
低く高く、味方に勇気を、敵に恐怖をもたらす調べが。  
 
「……教皇軍の先陣だと!」  
アクメトは驚愕した。  
彼は初めて部下の前で絶望の悲鳴を上げた。  
総大将の動揺はまるで波のように広がり、トルコ人は一斉に自分たちの背後を見る。  
町の郊外にある丘に、無数の旗印が並んでいる。  
黒い鷲を描いたウルビーノ公の旗。金と紫に塗り分けられたナポリ王国の旗。  
整列した騎士や軍楽隊。様々な甲冑を身につけ、その手にしっかりと槍を握った姿。  
太陽が彼らの武器や鎧の表面で弾け、銀色に輝いている。  
まるで丘全体が光っているようだ。  
 
再度ラッパが鳴り響いた。  
陣太鼓が地を揺らし、そこに軍馬の蹄の轟きが加わる。  
騎士たちはゆっくりと丘を下っていく。  
鬨の声、馬のいななきが重なり、モンテヴェルデの地を揺さぶった。  
彼らの狙いは明らかだった。城の外にあるトルコの宿営地だ。  
アクメトが手を伸ばす。敵の姿を掴もうとするかのように。  
だが彼の手がそれを捕らえられるはずもなく、騎士たちは突撃を開始した。  
 
それは一方的な虐殺だった。  
宿営地を守る少数の兵に、騎兵の突進を食い止められるはずもない。  
右へ左へと逃げるうちに馬に踏み潰され、なで斬りにされていく。  
守備隊を追い散らした騎士たちは、思う存分天幕を踏みにじり、火を放ち始める。  
逃げ惑う奴隷や小姓、召使いの悲鳴が、町の中にまで聞こえてくる。  
天を突く黒煙の下で、食料、衣服、そして住居が灰になっていく。  
アクメトとトルコ軍は、目の前で何もかもが焼け落ちるのを、ただ見守るしかなかった。  
 
その時、再び城で歓声が上がった。  
「何事だ!」  
アクメトは我に返り、叫ぶ。  
だが、誰かが答えるより早く、それは目に飛び込んできた。  
五指城の門が開き、一斉に敵が打って出てきたのだ。  
決して数は多くないものの、浮き足立った兵はそれを食い止められない。  
一団となった戦士の突撃に、たちまちトルコ軍は丘から蹴落とされていく。  
もはや誰も戦おうとせず、逃げ惑うだけだった。  
 
「……防御体制! 兵を円陣に組み替えろ!」  
アクメトはようやくはっきりとした声で命じた。  
混乱していた将軍たちも、その声に鞭打たれたように正気を取り戻す。  
待機していた伝令が馬に飛び乗り、近衛兵は持ち場に走る。  
「兵をまとめろ! 円陣を組め!」  
アクメトが再度叫び、副官がそれに応じようとした時、一人の伝令手が飛び込んできた。  
「アクメト・パシャ!」  
馬を飛び降りると、アクメトに駆け寄る。その手には封がされた書簡が握られていた。  
「スルタンからの書状です!」  
近づく伝令に「後にしろ」と怒鳴り返そうとして、アクメトは動きを止めた。  
スルタンの書状? このような時に?  
だがいつ何時であれ、スルタンの指令はアクメトの、そして軍の運命を大きく左右する。  
アクメトは差し出された書簡をひったくった。  
たしかにその封緘は、スルタンからの手紙であることを示していた。  
荒々しく封を剥ぎ取り、書簡を開く。  
副官も、伝令も、衛兵たちも、アクメトが書面に目を走らせるのをじっと見守った。  
やがて、アクメトの手から書簡が落ちた。  
 
「……敵に和睦の使者を送れ」  
「……は?」  
将軍の一人が首を傾げる。  
アクメトはさらに大きな声で告げた。  
「……戦争は終わりだ。スルタンが――」  
その瞬間、将軍たちにはアクメトが笑ったようにも見えた。  
「陛下が崩御された」  
 
 
3.  
モンテヴェルデの大聖堂「サン・ステファノ・デントロ・ディ・ムーラ」。  
そこにこれほどまで幸せそうな人々が集まったのは何ヶ月ぶりだろう。  
着飾った紳士淑女の一団は、この国に平和が戻ったことを明瞭に示している。  
彼らは今まさに生まれようとする新しい夫婦の門出を祝うために集っていた。  
長い篭城戦が終わりを告げ、徐々に町はかつての賑わいを取り戻しつつある。  
それは明日へと進む活力であった。  
そして、二人の若い男女はこの国の未来を象徴するかのようだった。  
 
『……この者たちを正式な夫婦と認める。父と子と聖霊の御名において』  
跪き、握り合わせた手をそっと掲げた二人に、司祭が十字を切る。  
低いラテン語の祈りは、大聖堂の高い天井に響き、そして消えていった。  
『アーメン』  
最後の文句を唱え終わると、司祭はそっと横へと退いた。  
新婦は静かに立ち上がり、跪いたままの夫に相対する。  
参列した人々の視線が、少女を追う。  
横に退いた司祭が、改めて少女に小さな王冠を手渡した。  
 
レースと花で着飾った少女は、威厳を込めて言った。  
「私は、この男を伴侶とし、この男が私の正式な夫であることを認める。  
そして、定められた法に乗っ取り、私が相続すべき全ての権利をこの男に授ける。  
亡き父と、我が伯父ジャンカルロから引き継いだ領地の全て――  
――すなわち、ルピーノ伯およびネレトの領主権を、エンリーコの息子、騎士ルカに」  
幼さを感じさせない仕草で、ステラはルカの頭に冠を掲げ、被せた。  
「ルピーノ伯ルカ・ディ・エンリーコ万歳!」  
壁に並んだ衛兵が叫ぶ。  
「神よ、新たな領主に栄光を授けたまえ。彼の統治に公正さと正義があらんことを」  
ステラがそう唱え、人々が神への祈りを唱和する。  
一斉に大聖堂の鐘が鳴らされ、新たな夫婦が今誕生したことを町中に告げる。  
こうして、ルカとステラの結婚式は幕を下ろした。  
 
式が終わり参列者が三々五々去っていく中、アルフレドはルカに声をかけた。  
「ルカ、おめでとう」  
「……お前のおかげで、ついに俺も糞ったれな貴族の仲間入りだよ」  
だが彼を向かえたのは鋭い一瞥だった。  
ルカは堅苦しい襟回りを緩めながら、ほぐすように首をごりごりと回して見せた。  
「俺は、茹でたタコと白ワインを奢ってくれればそれで良かったんだがな」  
「……ごめん」  
モンテヴェルデに帰国する船上で交わした約束は、未だ守られていなかった。  
守られたのは、もう一人の男との約束だけだった――それをルカは望みもしなかったが。  
「まあ、いまさらアルに愚痴っても仕方ねえな。最後は俺が決めたことなんだし」  
口ぶりとは逆に、ルカの顔は晴れ晴れとしていた。  
 
ルカを騎士に叙任し、ステラと結婚するよう図ったのはアルフレドだった。  
無数のモンテヴェルデ貴族が戦争で死に、多くの女が土地付きで残された。  
大公に次ぐ貴族であるジャンカルロの跡を誰が継承するのか。  
それは貴族間に新たな争いを招く恐れがあり、早急に解決すべき問題であった。  
しかし、アルはジャンカルロの末期の言葉を忘れることは出来なかった。  
 
――ステラに私の領地を――  
 
彼が望んだのは自らの領地の安泰だけだったのだろうか。  
あの言葉は、たった一人の姪の幸せを望むものだったのではないか。  
そう信じてアルは決断した。  
 
「……白ワインとタコなんて物と引き換えにしていいのかしら?」  
黙り込むアルの背後から、ヒルデガルトが姿を現した。  
頭を白い簡素なヴェールで覆った姿は、少年たちに嫌でもあることを思い出させた。  
姫の髪は、まだ男のように短いままだ。  
だから、人前に出る時にヒルダはいつもヴェールを被った。  
ヒルダが「女」に戻れる日は遠い。  
それは荒れ果てた町の再建よりも早いのだろうか。それとも遅いのだろうか。  
アルはそんなことを思わずにはいられない。  
 
「こんな素敵な花嫁さんを一杯の酒と交換してはいけないわ」  
微笑むヒルダに、ルカは憮然とした顔を見せた。  
彼女のすぐ後ろに、今永遠の契りを誓ったばかりの娘の姿を見つけていた。  
銀の糸で刺繍した青い衣装をまとったステラに、もう式で見せた威厳はない。  
うつむきがちに頬を染めた様子は、いつもの幼い少女だった。  
「殿方というのは失礼なものね、ステラ?」  
元主人にそう言われては、ステラも何か言わざるを得ない。  
口ごもったあと、つんとルカを見上げる。  
「……私の領地は年一万ドゥカートもの収入があるのよ。  
感謝することね。それを目当てに求婚してくる貴族の方も多かったのだから」  
「相変わらず可愛くない女だ。その領地がなきゃ、お前なんか誰も貰ってくれねえよ」  
そっぽを向きながら、二人の距離は寄り添うほど近い。  
はにかむステラと、気恥ずかしそうなルカ。  
そんな様子を見れただけでも、結婚を無理にまとめた甲斐があったとアルは思う。  
 
「やあ、おめでとうルピーノ伯殿」  
野太い声に、四人は一斉に振り返り、頭を下げた。  
その声の持ち主は、彼らの命の恩人に他ならない。  
教会軍総司令官を務める、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ。  
その後ろには、カラブリア公アルフォンソ・ダラゴーナもいる。  
二人はオートラントに赴く途中、モンテヴェルデに立ち寄っていた。  
 
「こちらがステラ殿か、噂通り美しい娘さんだ」  
片目鷲鼻の相貌を崩しながら、フェデリーコは何度も頷く。  
「甥のジョヴァンニがそなたとちょうど良い歳回りだったのだがな。  
このような美しい人を逃したと知ったらきっと悔しがる。奴を式に呼ばず正解だった」  
がはは、と豪快な笑い声を上げ、フェデリーコはルカとステラの肩を力強く叩く。  
同意を求めるように、ウルビーノ公はアルに目配せした。  
ルカとステラはひきつった笑みを浮かべ、アルも無言で頷くしかなかった。  
フェデリーコもアルフォンソもモンテヴェルデに大きな貸しがある。  
隙を見せれば彼らは貸し以上のものをモンテヴェルデから掠め取るに違いない。  
戦争が終わって一月も経たないうちに結婚をまとめたのは、このためだった。  
いわば、ルカを使って、モンテヴェルデの領土が侵食されるのを防いだのだ。  
 
「このたびのこと、お二人には、謝らなくてはなりません」  
アルは優雅に頭を下げて見せた。  
瞬間、場が凍りついた。  
フェデリーコとアルフォンソも返事に詰まっている。  
「……勝手に貴軍の軍旗を用いました。ご無礼をお許しいただきたい」  
アルは二人の企みなど何も気づいていないように、深々と頭を下げている。  
「……なに。計略を用いるのも大将の才覚だ。気にすることはない」  
「話には聞いています。知略においてアルフレド殿ほどの者は、そうはおりますまい」  
ひきつった笑いを浮かべながら、二人の公爵は答えた。  
 
 
彼らがモンテヴェルデに着いたのは「トルコ軍が去った後」のことだった。  
あの日、モンテヴェルデ郊外に現れた教皇軍の先陣は、教皇軍ではなかったのだ。  
少数の騎兵を率いて町を脱出、トルコの背後へ回り込み、救援に来た教皇軍を装う――  
アルフレドの立てた作戦はこういうものだった。  
百騎の騎兵は「アルとヒルダの秘密の通路」を抜け、かつての船着き場から町を脱出した。  
必要な船とハシケは、マエストロ・フランチェスコが徹夜で用意したものだ。  
ヒルダの役目は全てが終わるまでトルコ軍の目をひきつけることだった。  
こうして計略はかろうじて成功した。  
 
もしトルコが計略に気づいていたら、アルの部隊などたちまち全滅させられていただろう。  
もちろんヒルダと五指城の人々も。  
いや、アルフレドは実はアクメトは気づいていたのではないか、と考えていた。  
どれだけ旗を掲げ、鳴り物を鳴らしても、兵力を百倍に見せられるはずもない。  
時間が経てば、アルフレド隊の背後に教皇軍がいないことなど分かったはずだ。  
だがアクメトにこれ以上戦う理由はなかった。  
スルタン・メフメト二世の崩御が、最終的に彼から戦う意思を奪った。  
彼は一刻も早く帰国したかった。だから計略と分かっていながら和平を結んだ――  
それは確信に近い想像だった。  
(僕は、幸運なだけだった)  
アルは空々しく自分の知略を誉めるフェデリーコとアルフォンソを、醒めた目で見ている。  
 
「……さて、アルフレド殿」  
社交辞令が交わされた後、フェデリーコはこれが本題だと言わんばかりに言葉を改めた。  
アルも自然と姿勢を正す。  
「いつ、モンテヴェルデ軍は出発出来るかな?」  
「……兵糧が集まれば、すぐにでも。あと十日もあれば道中必要な分は確保出来ましょう」  
フェデリーコが満足げに頷く。  
モンテヴェルデはウルビーノとナポリに兵を借りた。  
ならば借りを返さないわけにはいかない。  
オートラント市を巡るトルコとの戦争はまだ終わっていない。  
三十騎の騎士と同数の歩兵。それがアルフレドの「割り当て」だった。  
 
フェデリーコは少し頭を捻ってから、言った。  
「では、一週間以内に式を執り行わねばな」  
「……式? 式とはなんです?」  
アルが問い返すと、フェデリーコは少し驚いた顔をして見せた。  
「聞いておらんのか。貴殿の父上から、わしとアルフォンソ殿に遺書が託されておってな」  
「大公陛下から!?」  
初耳だった。  
アルが思わずヒルダに視線を投げる。だがヒルダも小さく首を振る。  
 
「アルフレド、貴殿を騎士に叙任して欲しいそうだ」  
「私を、騎士に?」  
重々しく頷くフェデリーコ。  
「わしが貴殿を騎士に任じ、立会人はアルフォンソ殿に務めていただく」  
「フェデリーコ閣下は帝国騎士でもいらっしゃいますからね」  
補足するように、アルフォンソが短く口を挟んだ。  
 
アルは言葉を失っていた。  
二人の公爵の顔を交互に見比べ、ようやくそれが本当だと納得する。  
「……でも、ありえないことです」  
ようやく口にしたのは、そんな言葉だった。  
「なぜ。モンテヴェルデ公が騎士の位も持たないのでは格好がつくまい」  
「父は……父は僕を嫌っていたはずです。だから僕はずっと騎士見習いのままで……  
僕を、僕を騎士にするはずなんてない……ましてや、僕を跡継ぎになんて――」  
アルは何度も頭を振った。  
「だって、僕は私生児だ」  
ありえない、ありえない。そう何度も呟くアル。  
 
フェデリーコは少し考えて口を開いた。  
「貴殿の父上が何を考えていたかは知らぬ……だが血を分けた子を憎む親はおるまい。  
自分は私生児だと貴殿は言うがな……わしだって私生児だ。  
兄が死んでウルビーノ伯の地位を継ぐまでは他国の人質にされていた。  
だが、父がわしを嫌っていたなどと思ったことは一度もないぞ?」  
「でも、僕は」  
大公に、いや父に憎まれていると信じていたからこそ、アルは生きてこられた。  
強烈な憎しみと反発心を、ヒルダへの献身に変えることで。  
 
ふと、ジャンカルロが死ぬ時に言った言葉をアルは思い出した。  
『大公はお前を疎んじることで、お前の命を守ったのだ』と。  
だが――そんな愛があるのだろうか。  
ただそれだけのために、十六年ものあいだ息子を冷遇し続けることが出来るのだろうか?  
フェデリーコの手が、アルフレドの肩を掴む。  
「親の気持ちを分かるようになるには、貴殿はまだ少し若いかな」  
フェデリーコの隻眼が、不意に緩んだ。  
アルは、黙り込むしかない。  
「残りの一生を費やして、父上のなされたことを考えてみなさい」  
「――はい」  
涙混じりに、アルは答えた。  
 
やがてフェデリーコが去り、アルフォンソが去り、ルカとステラが去った。  
薔薇窓から差し込む光が、アルを暗闇の中に浮かび上がらせる。  
その肩を別の手がそっと触れた。  
ヒルダだった。  
アルフレドはうつむいたまま、その手を握り返す。  
人気の絶えた大聖堂に、二人はいつまでも立ち尽くしていた。  
 
 
4.  
旅立ちの日が来た。  
アルフレドは馬に跨り、ゆっくりとモンテヴェルデの大通りを行進していた。  
彼の背後にはオートラントへ赴く三十騎の騎士と兵士たち、馬車の列が続く。  
晩夏の柔らかな太陽に照らされた兵士たちは、まるで絵から抜け出たようだ。  
幾旒もの旗印が海風にはらむさまは、誰の胸にも熱いものをかきたてずにはいないはずだ。  
しかし、出征する軍隊には歓声も興奮も見られなかった。  
通りの両側で見送る市民の数も少ない。  
誰もが戦争とはどんなものなのか知ってしまった。  
もはやそこに何の幻想も抱くことは出来ないし、誰も望んではいない。  
あるのは武勇への憧れではなく失望のみ。そんな静かな出陣の光景だった。  
 
「……よく見ておかなくて、いいの?」  
アルフレドの隣を、ラコニカが同じ歩調で馬を進めている。  
彼女にちらと目を走らせた後、アルは振り返って丘の上の五指城を見た。  
戦の痕跡は未だ生々しい。壁は崩れ、炎に舐められた煤が黒くこびりついている。  
あの城の、無数の窓のどこかにヒルデガルトがいる。  
そう思うと、アルは胸が詰まった。  
「これが見納めだなんて、思いたくないんだ」  
「…………そう」  
口で否定はしてみても、アルには分かっていた。  
もうモンテヴェルデには戻れないだろう、と。  
 
これからアルフレドとその軍隊は、オートラントを目指してイタリアを南下する。  
トルコ軍は篭城を続けているが、総大将アクメトを欠いては長くはあるまい。  
その後、アルフレドはウルビーノの都へと赴くことになっていた。  
そこでフェデリーコの娘と婚約する予定だった。  
アルは彼を義父とし、ウルビーノ公の臣下となる。  
モンテヴェルデにある領地も、ウルビーノの支配に服することになるのだ。  
つまりは体のよい人質だった。  
それを思えば、文化の薫り高いウルビーノの宮廷での生活など何の慰めにもならなかった。  
 
アルフレドの婚約と同時に、ヒルデガルトにも婿があてがわれる。  
候補に挙がっているのはオートラント戦で父を亡くしたアクアヴィーヴァ候である。  
こうして、モンテヴェルデの南半分はアクアヴィーヴァ候とナポリの領土になる。  
それが一年後になるか、二年後になるかは分からない。  
しかし、もうそこはアルフレドの故郷モンテヴェルデではない。  
二つの大国に分割された、ただの町だ。  
 
そっとアルは自分の唇のそばを指でなぞってみる。  
つい先ほど、ヒルダの別れの口づけを受けた場所だった。  
ふっくらとして、かすかに濡れた感触を、まだはっきりと思い出すことが出来た。  
「……ヒルダさんのこと、心配?」  
慌てて手綱を握り直し、アルは首を振った。  
そんな様子を見て、ラコニカは目を細めた。  
「私、やきもちなんて焼いてないんだから」  
ラコニカの馬が、すっとアルの軍馬に近づく。  
「あの人は遠くにいるけど、私はずっとアルフレドのそばにいるんだもの。  
勝負になるわけないじゃない?」  
いたずらっぽく笑ったラコニカに、アルは肩をすくめた。  
 
「心配ないさ、ルカもステラもいる。それに――ニーナも」  
そう言ってみたものの、アルは彼らが永遠にヒルダの味方とは思っていなかった。  
ルカも妻を娶り、自分の領地、自分の領民を得た。  
ルカはルカなりに自分が信じた道を行くだろう。それが君主のあるべき姿だった。  
それがアルやヒルダと異なったものだったとしても、仕方ないことだ。  
ステラもまた、いつまでもヒルダの侍女ではない。  
一人の妻として、そしていつの日か母として、生きていかざるを得ない。  
 
ニーナはアルフレドについていくことを拒んだ。  
『狂暴騎士団』を離れ、五指城の下女として生きることにしたのだった。  
「――この町に、根を下ろすことにしたのさ」  
別れを告げに来たニーナは、吹っ切れたようにそう言った。  
「あの男はきっと今ごろ煉獄で苦しんでるはずだよ。あれだけ悪い奴だったんだからね。  
だからせめて私ぐらいが弔ってやらなきゃ、かわいそうじゃないか――」  
とはいえ、百日のミサでもあいつの魂は天国にはいけないだろうけどね。  
ニーナは涙を振り払うようにそんな軽口を叩いて見せた。  
ようやく安住の地を見つけた女の、たくましさすら感じさせる口ぶりだった。  
「それに、知りたいのさ……コンスタンティノが愛し、憎んだ町を少しずつでも知りたい。  
だから、一緒には行けないよ」  
――ごめんね。  
そう付け加え、ニーナはアルフレドを抱きしめた。  
きっと母親とはこういう感じなんだろう。アルはそう思った。  
せめて彼女の残りの人生が穏やかならんことを。アルは祈らずにはいられなかった。  
 
「――ヒルダは、強いから」  
自分に言い聞かせるように、アルはそう言った。  
「僕が守ってあげるなんて、傲慢だったのかもね」  
ヒルダを守る。  
そのために自分がやったことを、アルは見ながら町を通り過ぎていた。  
燃え落ちた家々。壊された家財道具。焦げた木々。踏みにじられた畑。  
何週間も続いた葬列。トルコの奴隷となり、行方不明になった人々。  
町は復興に向けて活気を取り戻しているとはいえ、その姿はあまりに痛々しい。  
何も得るもののなかった、無益な戦争。  
全てアルが「一人の少女を守るために」したことの結果だった。  
 
失われたのは人命や財産だけではなかった。  
平和が訪れたとたん、あれほど団結していた人々の間にはたちまち不和が生じていた。  
平民たちは貴族の無能を怒り、権利を求めて声を上げている。  
貴族は貴族で、失った財産を取り戻すために重税を課し、領民と対立を深めていた。  
ナポリ人やウルビーノ人は今では支配者面で町を闊歩している。  
そして、『狂暴騎士団』の傭兵たち。  
彼らも町に居座ろうとし、市民や農民は彼らを邪魔者扱いし始めている。  
 
あの団結はなんだったのか。  
隣人を救おうと命を投げ出した尊い行為は? 気高い精神は?  
全て意味のない熱狂だったのか?  
モンテヴェルデは戦争前に戻るどころか、より悪くなってしまった。  
それが全てヒルダを守ろうとあがいた結果だとしたら……  
自分こそ、煉獄どころか地獄に落ちるべき存在だ。  
 
アルは黙り込む。  
ラコニカですら、どう話しかけていいのか分からなかった。  
そして、悲しかった。  
アルフレドは「自分を助けたこと」だけでは心の平安を見出せないのだから。  
(でもね、アルフレド)  
ラコニカはアルが好きだった。  
他人を恨まず、最善を尽くさなかった自分を恥じる姿を、愛しいと思った。  
 
その時だった。  
突然、二人の前に小さな子供が飛び出してきた。  
一人は男の子、もう一人は女の子。  
「きしさまだぁ。きしさまー、きしさまー!」  
「だめだよ、おこられるってば」  
男の子がまっすぐ馬の前へと駆け出してくるのをアルは素早く視界に捉えた。  
そして慌てて手綱を引こうとする――  
だが、男の子ははっと気づいたように、アルとラコニカの手前で立ち止まった。  
 
「……ぼく、ちゃんといいつけ、まもってるよ」  
アルを見上げながら、手に木剣を握った男の子は誇らしげに言った。  
「おうまさんのまえにたったら、あぶないんだよね」  
二人の傍らに、母親らしき女がやってきた。  
その親子に、アルは見覚えがあった。  
 
――無事だったのか  
アルフレドはしばしその親子をじっと見つめていた。  
元気そうな男の子と、姉らしき女の子。そして母親の姿を。  
その姿は、たくましく生きていく庶民のものだ。  
「ありがとうございました」  
母親は子供に頭を下げさせ、自らも頭を下げると去っていった。  
その後ろ姿が見えなくなるまで、アルはずっと彼らを見送っていた。  
 
「……アルフレド、あなたのしたことは」  
ラコニカが全てを言わなくとも、アルには何が言いたいかは分かった。  
隣で微笑む女性に、頷き返す。  
「無駄じゃなかった……今はそう信じていいかな?」  
「私はずっと信じてるわ。愛しいあなた」  
ラコニカはすっと手を伸ばし、アルの手に重ねた。  
(ありがとう)  
アルは声に出さず、そう呟く。  
ラコニカも無言で応じた。  
 
やがて二人は再び馬に拍車を入れた。  
優しい太陽と、潮の香りの中を彼らは行く。  
どこまでも青いアドリア海の風が、いつまでも二人に別れを告げていた。  
 
 
 
エピローグ  
 
だが、歴史の流れはアルフレドを、そしてヒルデガルトを翻弄し続けた。  
一四八一年九月、トルコ軍は教皇=ナポリ連合軍の攻撃を受けオートラントを撤退。  
二年近くに及んだオスマン・トルコのイタリア侵攻は完全に失敗に終わった。  
戦前の協定に基づき、モンテヴェルデは領地の多くをナポリとウルビーノに割譲する。  
その年の十二月、ヒルデガルトとナポリの貴族アクアヴィーヴァ候との婚約が発表される。  
アルフレドもウルビーノでの半軟禁生活に入った。  
 
だが一四八二年、ウルビーノ公フェデリーコが陣中で病没する。  
対ヴェネツィア戦争の傭兵隊長として活躍中の突然の死であった。  
老練な君主の跡を継いだのは、まだ十歳になったばかりの長子グイドバルド。  
その混乱を、アルフレドは見逃さなかった。  
「フェデリーコ死す」の報が届くや否や、アルはウルビーノから逃亡。  
「下女」一人だけを連れての逃亡に驚かされたのはウルビーノ公国のみではなかった。  
 
ウルビーノの切り札が消えたと考えたナポリは、さらなる利権を求めて行動を起こす。  
協定を破り、モンテヴェルデ北部の実力による占領を目論んだのだ。  
アクアヴィーヴァ候はナポリに軍の派遣を要請。  
精鋭二千の騎兵が国境を越え、モンテヴェルデを目指して北上を始める。  
 
それに反発したのは、モンテヴェルデの市民と農民たちだった。  
彼らはトルコとの戦争に対する貢献によって発言力を強め、自治意識に目覚めていた。  
だがそれはアクアヴィーヴァ候の専制的な政治によって弾圧され続けていた。  
外国人領主の横暴に不満を高めていた市民はこれを機に叛乱を起こす。  
市民軍は直ちにアクアヴィーヴァ候を捕らえ、五指城に監禁した。  
ヒルダもまた婚約者に同調したとして逮捕されてしまう。  
もはや市民の間にヒルダに対する敬意は微塵も存在しなかった。  
 
逮捕されたヒルダとその婚約者アクアヴィーヴァ候。  
二人の解放を要求して北上を続けるナポリ軍に対し、モンテヴェルデも軍の召集を決定。  
総大将には対トルコ戦争の英雄、ルピーノ伯ルカが選出された。  
一四八二年十一月、モンテヴェルデ郊外ネレトの野において両軍が激突。  
僅か八百のモンテヴェルデ軍は地の利を活かし、ナポリ軍を完全に撃滅した。  
 
同年十二月、「市民会」はアクアヴィーヴァ候と摂政ヒルダの廃位を決議。  
同時に市民会はルピーノ伯ルカを終身執政官に選出し、共和制を宣言した。  
こうして公国は消滅し、一四八三年一月「モンテヴェルデ共和国」が成立する。  
同年三月、共和国裁判所はアクアヴィーヴァ候とヒルダの処刑を決定。  
罪状は「モンテヴェルデの自由と独立に対する反逆」であった。  
終身執政官ルカは「遅くとも四月中には」二人が処刑されるべきであると宣言。  
これは市民会において喝采をもって受け入れられた。  
だが、ここで事件が起こる。  
処刑前日、ヒルデガルトが脱獄に成功。そのまま行方不明となる。  
後に念入りな調査が行われたものの、結局犯人は見つからずじまいであった。  
 
こうして、旧大公家の血統が全員行方不明という形で、モンテヴェルデ公家は断絶した。  
 
しかし、モンテヴェルデ共和国もまた短命だった。  
一四九四年、フランス王シャルル八世がナポリ王国の継承権を主張してイタリアに侵攻。  
父の跡を継いでナポリ王となっていたアルフォンソは、たった二年で王位を追われる。  
彼の息子フェルディナント二世は本家のスペイン・アラゴン家に援軍を要請。  
一四九五年、フェルディナントはスペイン軍を率いて南イタリアに上陸する。  
 
こうしてイタリアはフランスとスペインの勢力争いの場と化した。  
二つの大国の争いに、モンテヴェルデも巻き込まれていく。  
一五〇三年、南イタリア・チェリニョーラ近郊でスペイン軍はフランス軍に勝利。  
同年、ゴンサロ・デ・コルドヴァ率いる2万のスペイン軍がモンテヴェルデに入城。  
その後モンテヴェルデはスペイン副王の支配下に入り、共和国は滅亡した。  
 
彼らの独立回復は、一八六一年イタリア王国の成立まで待たねばならなかった――  
 
現在のモンテヴェルデは、アブルッツォ州に属する田舎町である。  
夏はドイツからのヴァカンス客で賑わうが、それ以外にこれといった産業もない。  
十%以上の高い失業率にあえぐ、南イタリアの典型的な都市に過ぎない。  
かつての面影を残す建物も、今では少なくなってしまった。  
アルフレドたちが死闘を繰り広げた城壁は十九世紀に取り壊された。  
今では「旧城壁通り」や「聖レオ稜堡広場」といった地名にのみ残っている。  
大聖堂と五指城も、二つの世界大戦で大きな被害を受けた。  
第二次大戦中イタリア空軍の司令部だった五指城も爆撃にあい、今では廃墟となっている。  
現在はイタリア文化財保護省の管理下で修復が進んでいる。  
 
唯一、往時をしのばせるのは領主館の建物だ。  
奇跡的に戦災を免れた建物は市庁舎と町の公文書館になっている。  
公文書館はモンテヴェルデの歴史を今に伝える貴重な文書を大量に保管している。  
現在の館長はマウリツィオ・ルピーノ氏。ルカから数えて二十八代目の「ルピーノ伯」だ。  
彼は長年、公文書館の未発表資料の調査・研究に尽力している。  
 
マウリツィオ氏の調査によれば、アルフレド・オプレントはヴェネツィアに逃亡したらしい。  
元老院の記録に、同姓同名の傭兵との雇用契約が出てくるのだという。  
その後「傭兵アルフレド」は功績を認められ、元老院議員に取り立てられている。  
妻の名前は不明だが、「トスカーナ出身の女」と記されており、四人の子供をもうけた。  
彼が亡くなったのは一五二五年。妻はその後を追うように、一五二六年に亡くなっている。  
 
ではヒルダはどうなったのだろうか。  
彼女の墓は大公家の墓所である聖ニィロ教会にある。  
だが、それは十八世紀に作られたもので、中はからっぽなのだ。  
一説によると、彼女はシラクサの女子修道院に逃れ、そこで一生を終えたという。  
修道院名簿にヒルデガルトなる一四七三年生まれの修道女の記録があるというのが根拠だ。  
おそらく、それが最も有力な説なのだろう。  
だが、ヒルダの脱獄を助けたのは実はアルフレドであったという説は今も人気がある。  
実際、アルフレドが一四八二年の叛乱の黒幕だった可能性は高いらしい。  
 
だが、人々が信じているのはそんな無味乾燥な話ではないようだ。  
今でもモンテヴェルデの母親は子供たちへのおとぎ話を次のように締めくくる。  
 
 
『こうして勇敢な騎士とお姫さまは、一生幸せに暮らしましたとさ』  
 
 
(火と鉄とアドリア海の風・終わり)  
 
 

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