1.
雨音の向こうから聞こえる教会の鐘が、九時課(午後二時)が始まったことを告げる。
ヒルデガルトは城の一室から、ぼんやりと海を見ていた。
アドリア海はいつも澄んだ青さを見せている。しかし二月の空気の中では、それは一枚の氷を思わせた。
薄暗い自室の窓際が、最近のヒルダのお気に入りだ。
ベンチに腰掛け、一日海を眺める。
そうしているとふと、これまでの出来事は全て夢であるかのような錯覚に陥ることがあった。
アルフレドが、モンテヴェルデの掟と法を破り、身分違いの馬上槍試合に出たこと。
ヒルダはジャンカルロ伯の勧めに従い、アルフレドに自らのヴェールを与え、結果として彼を追放へと追いやったこと。
何もかも窓際でまどろんだ一瞬に見た悪夢。本当はアルはまだ城にいて、相変わらず図書室で本を読んでいるのではないか。
そう、剣の稽古もせずアリストテレスやオウィディウス、ヴェルギリウスに夢中になっているのではないか、と思う。
――でも、アルフレドはもういない。
アルはなぜあんなことをしたのだろう。
勝手に国法を破るような人間ではないことは、ヒルダが一番良く知っている。
おそらく、誰かにそそのかされたに違いない。
思えば、ニコロ卿へヴェールを与えるよう耳打ちしてきたとき、ジャンカルロ伯は不自然なほど熱心だった。
伯爵が影で何らかの糸を引いていたのは間違いない。彼はアルフレドを疎ましがっていたから。
でも、なぜアルは企みを見抜けなかったのか?
用心深くなければ、彼は子供のうちに殺されていたかもしれない。
そんな生い立ちが、アルに年齢には不釣り合いな用心深さと落ち着きを与えていた。
いつもなら、ジャンカルロ伯の考えの裏の裏まで読んでいるはずなのに。
それとも、避けられないほど周到な罠だったのだろうか、あるいは罠と知って――
扉が軋み音をたて、ヒルダを思考の迷宮から救い上げてくれた。
振り向くと、侍女のステラが入ってくるところだった。
三つ年下の彼女を、ヒルダは妹のようにかわいがっている。知らずに頬が緩む。
だが、ヒルダの微笑みにもかかわらず、ステラの顔は暗かった。
「ヴェネツィア大使閣下がいらっしゃいました。姫さまもご挨拶するようにと、大公陛下がおっしゃっています」
「ええ、すぐ行くわ」
頭を下げるステラに、軽やかに答える。
ヒルダはヴェネツィア大使からの「個人的な贈り物」の礼をまだ言っていなかった。
一月前、モンテヴェルデへの荷物を積んだヴェネツィア船がトルコ海軍に拿捕される事件があった。
聖ヨハネ騎士団に護衛されていた、あの船団だ。
その荷物の中にはヒルダやステラのための絹や香が含まれていたことが、問題をややこしくしていた。
モンテヴェルデとヴェネツィア間の条約に従えば、ヴェネツィアに弁済義務が発生するのはアドリア海で起こった損害だけ。
だが大公息女の個人的な荷物が被害にあっており、また条約が更新されたばかりであるという事情から、ヴェネツィアは例外的に弁済を決めた。
だが一方で、下手に弁済すればモンテヴェルデに条約の拡大解釈の口実を与えることも懸念された。
これらの理由により、ヒルダの受け取るはずの荷物は、大使からの贈り物という形で償われたのだった。
「……召し上がらなかったのですか」
机の上にほとんどそのまま残った昼食を見て、ステラが眉をひそめる。
潰したばかりの豚肉で作ったシチュー、揚げた魚のすり身、チーズ、リンゴの砂糖煮、そして赤ブドウ酒。
どれもヒルダの好物である。だが、どれもほとんど手をつけていない。
「ごめんね。今日は食欲がなくて」
ステラに心配をかけまいと、はっきりと笑顔を作ってみせる。だが、ステラは黙って首を振るだけだった。
「『今日は』じゃないでしょう。ここのところ、ずっとです。せめて食事だけでもきちんと取ってください」
まるで母親のように、困った顔を見せる少女に、ヒルダはまた少し笑った。
「大丈夫よ、だって……夜中こっそり夜食を作って食べてるから」
そう言ってふざけてみても、ステラは怖い顔で睨んでいる。
その視線におされて、ヒルダはうつむいた。
「……ごめんなさい」
「姫さま」
ステラは片付けの手を休め、ヒルダのすぐ傍に立った。
「御自分を責めてらっしゃるのですか。ジャンカルロさまの言葉に従わなければ良かったと」
「……違うわよ」
それは嘘だった。もしあの時、ジャンカルロの言葉に従っていなければ……そう思わないわけがない。
嘘をついたところで、ステラに自分の気持ちが見抜かれていることを、ヒルダも分かっていた。
不意にステラの手がヒルダの顔に触れた。
ときどき、この「妹」が見せる年上風のしぐさを、ヒルダは愛しいと思っている。
「御自分を責めてはいけません姫さま。姫さまは何も悪くありませんから……だって」
「だって、何? 私は何も知らなかったから? それじゃ、蛇の甘言に乗ったエヴァに罪はないの? 彼女は何も知らなかったのよ」
「あの、姫さま、私は……」
ステラは慌てて手を引く。
ヒルダはそんな当惑した侍女の顔を、まっすぐに見つめていた。
だが、その視線はすぐに優しく緩んだ。
窓際から立ち上がると、ヒルダはステラを抱きしめる。小柄なステラが、すっぽりと腕の中に収まった。
「ごめんなさい、あなたをやり込めるつもりはないのよ……ありがとうステラ」
ヒルダのぬくもりに、ステラも甘えるような仕草を見せた。
そのまま、ヒルダの手がステラの髪を何度か撫でた。くるくると指に髪を巻きつけ、遊ぶ。
ステラは少し笑い声をあげて、ヒルダの手から逃れようとした。本当の姉妹のようだった。
「姫さま、くすぐったいです」
「いいじゃない、もう少しだけ」
ステラが逃げようとすると、ヒルダは腕に力を込めた。
少女二人分の笑い声が、ヒルダの部屋にしばらく響いた。
そうやってじゃれあった後、不意にヒルダが真剣な声で呟いた。
「……あなたは私が自分を責めていると言うけれど、自分を責めているのはステラ、あなたの方でしょう」
「わたしが?」
ステラが不思議そうな声をあげても、ヒルダは全て分かっている、といった様子だ。
侍女がヒルダの気持ちをよく知るように、ヒルダも少女の考えていることは手に取るように分かるのだった。
「ジャンカルロ伯がなさったことに、ステラが責任を感じる事も無いのよ。
アルフレドがジャンカルロ伯の人質だったように、あなたは大公陛下と私の人質なのだから。
本当は恨んでいい――私のことも大公陛下のことも……望むならジャンカルロ伯のこともね。
でもあなたは優しい子だから、わたしのことも伯爵のことも嫌いになれないのでしょう?」
ステラは、ジャンカルロの姪である。
両親を早くに亡くしたため、伯父のジャンカルロが彼女の後見人となった。
だがそれだけに留まらず、ステラが継ぐはずの領地と収入も、今はジャンカルロの管理に置かれている。
それは彼の全収入の八分の一にも当たるが、もしステラがいなくなれば、管理権は後見人の手を離れる。
そうなれば大公がステラの領地の相続権を主張することもありえたし、実際相続する可能性は高かった。
大公がステラをヒルデガルトの侍女に選んだのは、明らかに伯爵への牽制と考えられていた。
アルフレドがこれまで謀殺されなかったのも、あるいはステラの存在があったせいかもしれない。
だから、ジャンカルロの策謀に衝撃を受けたのは、ステラも同じだった。
あの日以来、とくにヒルダの身を案じて一層世話を焼くようになったのを、ヒルダは感じていた。
「姫さま、私は……」
「いいのよ」
戸惑いの言葉を吐くより先に、ステラを抱くヒルダの腕の力が一層強くなった。
ヒルダは無言でステラを抱く。その力強さが、ヒルダの思いの強さをも表していた。
「今は我慢して頂戴。私……もっと強くなるから。大公にも、伯爵にも負けないようになるから」
「姫さま」
ステラが何か言おうとするより先に、ヒルダはさっと彼女の体を放し、扉の方へと歩き始めた。
あっけにとられているステラに、振り向きながら微笑む。
さきほどの言葉などすっかり忘れたように。
「遅くなると、大公陛下に怒られるわ。さ、行きましょう。これが終わったら、何かお菓子でも作らない?」
「…………はい、そうしましょう姫さま」
2.
激しい雨が、外套を叩く。
ぬかるみに足を取られながら、アルフレドは黙々と歩いていた。
追放されて以来、ただひたすらモンテヴェルデから海沿いを走る街道を北上し続けている。
だがアルには目的地もなければ、落ち着く先のあてもない。
ただし北には教皇領マチェラータ市が、さらに北にはアドリア海側における教皇領最大の港町アンコーナがあった。
どちらも交通の要所で、モンテヴェルデの町よりも遥かに栄えている。
そこまで行けば、なんらかの仕事にありつくことも出来るだろうし、次の目的地も決まるかもしれない。
モンテヴェルデの領地にとどまっても、追放されたアルでは仕事や住居を手に入れられない。
他国に身を寄せる以外、選択肢はなかった。
街道とはいえ道は悪く、天候にも恵まれなかった。
イタリアの冬は雨の季節だ。雨とみぞれが獣道に毛が生えた程度の道を泥沼に変えて行く。
一足しかないブーツは、泥がこびりつき石のように重い。粗末な外套は水を吸ってアルの体にのしかかる。
一歩一歩が苦行のような旅だった。
泥の中を半日歩けば、つま先の感覚は失われ、指は動かなくなる。
さらに、じわじわと足元から昇ってくる湿気と冷気が両脚の筋肉を棒のように固くしていた。
それでも足を引きずるようにして進む。アルには進むしかない。
夕闇が迫っていた。
夜は獣と盗賊、そして悪霊の闊歩する「魔の刻」である。
アルは安全に眠れる場所を探して足を早めた。もちろん、アルが思った十分の一も足は動かなかったが。
しかし、必死に歩き続けるうちに、彼方に小さな光がいくつか見えてきた。
さらに進むと、ぼんやりとした家の形が雨の向こうに浮かび上がった。薄く立ち上る煙は、その建物が「生きている」ことを示している。
街道沿いに一軒だけぽつりと建っているならば、民家や倉庫ではなく宿屋だろう。旅人にとってはかけがえの無い避難所だ。
しかし、アルの顔には安堵も喜びも見えない。ただ無表情に歩いて行く。
やがて宿屋の前に立つと、一つ息を吐き、建物を観察した。
それは遠くから見たより遥かに大きく、二階建てだった。
一階には珍しくガラスの窓がはまっていて、暖炉の炎が優しく揺れているのが見えた。
二階はおそらく寝室なのだろう。人の気配はなく、物音もしない。
わらぶき屋根を伝って雨が滝のように流れ落ちていた。
馬の小さないななきは、隣り合って立つ厩からのものか。雨に濡れずに眠れることを馬も喜んでいるようだった。
意を決して戸口に手をかける。
木製の分厚い扉の向こうから、にぎやかな話し声、音楽、さらに耳をすませば、暖炉の火がはぜる音が聞こえてきた。
ああ、暖炉の火! もう三日というもの、体が乾いたことはない。
アルはとにかく火が恋しかった。
ためらいがちに扉を押す。まるで盗人のように音も立てずに。
だが入ってすぐのところに小太りの男が待ち構えていて、全ての出入りを見張っていた。
丸椅子に座り、手にしたエールに顔を赤くしているが、眼光は鋭い。
値踏みするようにアルの頭のてっぺんからつま先までをしげしげと見る。
「……泊まりかね?」
男はこの宿屋の主人だった。アルはフードをとり、うなづく。
「ああ、一晩の宿を頼みたい」
「巡礼かね。それなら巡礼証明書、教区の印章の入った奴を。そうじゃなければ旅行許可証を見せてくれ」
「いや……どちらも持ってない」
「商人なら組合が発行した登録証だ…………とにかく証明書がなけりゃ、泊められないね」
そう言い捨てると、男は席を立って奥の方へと去っていった。
馬も連れず、大荷物も背負っていない少年が、行商人であるはずもない。
長年の経験から、主人はすでにアルが「普通」でないことを見抜いているようだった。
アルに気づいた客の何人かが、胡散臭げな目で睨む。アルは無言で背を向け、外に出た。
扉が閉まると同時に話し声と音楽は消え、雨が大地を叩く音が戻ってきた。
アルはしっかりと外套を体に巻きつけると、再び歩き始めた。
大半の人間が生まれた土地を一歩も出ることなく人生を終えた時代。
旅人とは、「旅をしている」というだけで、別の社会・文化に属する生き物と考えられていた。
それゆえ、定住者と旅行者、二つの異なる社会を繋ぐ「宿屋」は、特に注意の目が注がれる場所だった。
とりわけ犯罪者や浮浪者の侵入を嫌がる領主たちは、身元の確かでない客を泊めることを法で禁じていた。
もし、アルのような身元の不確かな人物――しかも罪人――を泊めたと分かれば、彼らは縛り首だ。
アルは旅に出て以来、屋根の下で寝たことがない。あらゆる宿で、宿泊を断られていた。
モンテヴェルデの町を出てから既に一週間、アルフレドは多くのことを学んだ。
旅人たちの世界について、そして定住者たちの世界について――その隠された姿を。
領主には豊かで人情味溢れた世界に見えた農村は、放浪者にとっては敵の砦のように危険だということも。
農民からよそ者に向けられるあからさまな不快感と敵意。冷たい拒絶と罵り声。
アルがどれだけ懇願したとしても、食料の購入も宿泊も、いや村に入ることすら拒絶された。
村はずれの廃屋で寝ていたところ、鎌や棍棒を持った農民たちに襲われたことすらあった。
やがてその敵意が、自分の腰にぶら下がっている剣に向けられていることをアルは知った。
農民にとって、武器を持った人間は全て敵なのだ。
税を搾り取り、労役に駆り立てる貴族たち。まるで狼のようにさすらう盗賊や追いはぎ。
そして、農民たちが最も恐れ嫌悪している傭兵の一団。
戦になれば作戦の一環と称して村を略奪し、戦が終わればただ食事と女を求めて村を襲う彼ら。
傭兵は乞食と変わらないような者も多いが、商売道具の武器だけは貴族にも劣らないものだ。
粗末な身なりに伸び放題の髪と髭。それにも関わらず、手入れが行き届いた剣を帯びた少年。
そんなアルフレドが傭兵の一味とみなされても、おかしくはない。
背の小さな袋を担ぎなおす。小さなフライパンと鉄製のランプがぶつかり会う音がした。
追放されたときに渡された食料はまだわずかに残っている。
パンチェッタ(豚バラの塩漬)が一片。豚の背脂が小さな壺に半分ほど。それにわずかな固焼きパン。
それはあと一食分ほどに過ぎない。
一日も早くアンコーナかマチェラータ――少なくともよそ者にも食物を売ってくれるような町にたどり着かなければ、アルは動けなくなる。
歩くしかない。
もう呪詛の言葉を口にする気力も無かった。
土混じりの雨が吹きつけ、アルの顔をだらだらと冷たい水が流れ落ちる。
ねっとりと絡みつく泥濘から、力を振り絞り足を持ち上げ、無心に歩いた。
足が動かなくなるのが先か、町にたどり着くのが先か。
「まるで渡り鳥だな……」
ある種の渡り鳥は地中海を渡り、はるかアフリカの果てまで飛ぶ。その旅は毎年繰り返され、迷うことはない。
自然魔術によれば、北の夜空に輝く「船乗りの星」から放出される遠隔力が鳥たちに道を示すという。
磁石が北を指すのもその「遠隔力」の作用とされていた。聞くところによると、ある学者は鳥の腹から磁石を取り出そうとした……
アルフレドは不意にそんな話を思い出していた。図書館で読んだ本の記述の一節だ。
「……まだ、僕は大丈夫だ」
そうひとりごち、歩く。そんなことを思い出す余裕があるなら、あと三日でも四日でも歩けそうだった。
やがて少年の姿は、夜の闇に消えていった。
3.
「マッシミリアーノ陛下に、ヴェネツィア市民と元老院を代表してご挨拶いたします」
謁見を行う大広間で、ヴェネツィア大使は優雅に頭を下げて見せた。
正面には大公とヒルダが座り、部屋の両側には家臣たちがまばらに並んでいる。ジャンカルロ伯の姿もあった。
多くの家臣たちは、評議会と馬上槍試合の終了とともに、それぞれの領地に帰っていた。
だがその中で筆頭家臣のジャンカルロだけが未だにモンテヴェルデの町に腰を落ち着けていた。
「ヒルデガルトさまもご機嫌麗しゅう」
「大使閣下もお元気そうで何よりです。先日は高価な品を頂き、ありがとうございました」
「気に入っていただければ、至上の喜びです」
少女は慇懃に微笑む。大使もそれに応えた。会見は、こうして和やかに始まった。
儀礼的な言葉の応酬が終わると、ヴェネツィア大使は少し口ごもった。
大公は、その言葉の切れ目を縫って話し出した。
「……今日はまた格別の用が御ありだと伺ったが、どのような御用件なのだろうか?」
「さよう、今日お伺いしたのは……」
大使は少し逡巡して見せた。
大公はとぼけているが、今日話しあうべき内容については部下から大まかに聞いて知っている。
だからこそ大使にとっては言い出しにくいのだった。
「ご存知の通り、トルコ海軍は近頃新たな艦隊をヴァローナ(アルバニアの港・トルコ領)に派遣しました。
その際、我々の輸送船と聖ヨハネ騎士団の軍船が襲われたのはご存知の通りですが……」
「痛ましいことであった」
大公の言葉には、あまり感情がこもっていないようだった。
なにしろ、船はヴェネツィアのものでも、積み荷のほとんどはモンテヴェルデのものである。
しかし、弁済されたのはヒルダのための品々だけであり、その他の弁済をヴェネツィアは拒否していた。
だが、大使はその点については無視した。寛大さはあまり大盤振る舞いするものではない。
「このトルコの策謀に対抗すべく、我らは新たな艦隊を編成しており、多くの水夫を必要としております」
「つい先日、条約に従って百人の水夫と同数の兵士をわが国からお送りしたはずだが?」
大公の顔が少し翳った。まるで義務を果たしていないかのような大使の言葉が気に触ったのである。
「……もっと必要なのです陛下。もっと多くの水夫と兵士が」
大使の声がひときわ大きく広間に響き渡った。
二百人というのはガレー軍船三隻分にも満たない数であったが、モンテヴェルデにとっては重い負担だった。
モンテヴェルデの城下町の人口は、周囲の農村を含めても三千人ほど。そのうち艦隊勤務に適した健康な若い男に限ると、二百人を下回る。
もちろん、二百人全てを城下町から集めたわけではないが、公国にとってこれがいかに困難かはわかるだろう。
「モンテヴェルデ公国の援軍には心より感謝いたします。しかし、さらに水夫と兵士がいなければ、アドリア海を守ることは難しいのです」
大使は決して傲慢ではない。大国の大使にありがちな、本国の力を露骨にちらつかせることも普段はしない。
しかしだからと言って、一国の大公を恐喝することにためらいはしなかった。
「もし、アドリア海をスルタンの浴槽にしてもよいとおっしゃるなら……」
「ではお国の元老院は、どれだけの人手が必要だと考えておられるのか? 我々はどれだけの協力をすればいいのか?」
海の守りを人質にされている以上、断るという選択肢はモンテヴェルデにはない。
だが、少しでも割り当ての人数を値切らなくては、この国は女子供と老人だけになってしまう。
「少なくとも、あと四百人」
その言葉に大公は絶句した。
驚きというより、半ば呆れたように頭を振り、玉座に深く身を預ける。
だが、大使は頭を抱えている大公に、冷厳に言い放った。
「これは他言無用に願いますが、全体で軍船八十隻と輸送船三十隻の新造を計画しております。
すなわち水夫、兵士、こぎ手を含めて二万人が必要なのです」
今度は家臣たちに動揺が広がる。それはモンテヴェルデ公国の人口の半分にすら匹敵する数だった。
これでは三度目の徴用も覚悟せねばならないだろうが、その時どれだけの人間を要求されるか、予想もつかない。
大公はもう一度頭を振る。
「四百人など到底不可能だ。村々に残る男は老人と子供だけになってしまうだろう。
あと一ヶ月もすれば種まきだというのに、それを行う人間がいなくなればこの秋我々に何を食べろというのか」
「しかし、アドリア海の防衛にはそれだけの人員が要るのです。
確かに多くの若者が何ヶ月も故郷を離れなければならない。農村の窮状も分かります。
だがその一方でアドリア海の安全もまた、モンテヴェルデの方々の望むものではないのですか?」
噛んで含めるように大使が言う。その声に甘い響きが混じるのを、誰もが聞き逃さなかった。
「……アドリア海の防衛と安全というが」
話を聞いていた家臣の一人がたまりかねたように口を挟んだ。
「先日編成された艦隊がどこに向かったか、我らが知らないとでも思っておられるのか?
クレタ島ではないか……我々の兵士が守るのはアドリア海ではなく、ヴェネツィアの土地であろう!」
クレタ島は地中海におけるヴェネツィアの一大拠点である。
東方貿易の中継地点として、コンスタンティノープルが失陥した今、計り知れない価値を持っている。
家臣の反論に大使はひるむこともなく、傲然と睨み返した。
目つきが鋭い。二人の間に火花が散った。
「トルコ本国からの増援を防ぐには、クレタに派遣した方がよいと考えたのです。海の戦いについては我らに一日の長がある。
少しは我々の判断を信じていただきたいものですな!」
ヴェネツィア人の船乗りとしての名声は、ヨーロッパ中、いやアジアにすら及んでいる。
海に浮かんだ町に住み、海上交易で生きてきた国民ゆえのことである。
一方モンテヴェルデ人は海とは馴染みのない者が多い。大使の言うことにも一理あった。
だが、自尊心を傷つけあうというのは、交渉の方法としては最悪だった。
大使に言い返された家臣が、さらに口を開こうとするのを、大公は手で制した。
「それでは、こういう案はいかがだろう。四百人全ては保証しかねるが、我々は出来る限り努力しよう。
だからヴェネツィア共和国も歩み寄っていただきたい。例えば――我々モンテヴェルデ人の乗った船はアドリア海の防衛にのみ使用するとか」
大公にとっては最大限の妥協だった。自分たちの利益になると目に見えて分かれば、家臣たちも納得する。
四百人という人間は、大公のみが負担するわけではなく、家臣の協力なしでは集められないものなのだ。
だが、大使はきっぱりと答えた。
「作戦についてあらかじめ制約を受けるようなお約束は、どんな種類のものであれいたしかねますな」
大使の言葉に、広間には諦めと怒りに満ちた空気が流れた。
妥協の余地のない交渉を、どうまとめろと言うのだ? 誰もが何かを言おうとし、何も言えなかった。
「陛下」
沈黙を破ったのは、驚いたことにヒルダだった。
その場にいた誰もが、不意に口を開いた少女の顔を見た。
「我々はヴェネツィアの方々と約束をしたはずです。我々が人を、ヴェネツィアが船を提供する、と。
守るのはヴェネツィアの利益でも、モンテヴェルデの利益でもなく、我々の利益、我々の海でしょう。
それに異教徒と戦うのは、何もアドリア海でしか出来ないわけではないのではありませんか?」
小さな声だったが、静かな部屋の中でははっきりと聞き取ることが出来た。
クレタ海域でトルコに圧力をかければ、アドリア海のトルコ海軍にも少なからぬ影響を与えられる。敵の後方を断つのは兵理の基本である。
ヒルダが言いたいのはそういうことだ。
だが、家臣たちは苦々しげだ。ヒルダの理屈が分かる者も分からない者も、まずヴェネツィアへの反感が先に立っている。
肝心の大公は、ヒルダをちらりと横目で見ただけで、その言葉を吟味する様子もない。
身内からの冷たい目線にもひるむことなく、ヒルダは堂々としていた。
「……大使閣下。我々が言えることは、条約を守っていただきたい、ということだけだ。
我々は水夫を提供する。それ以外のことは我々の義務ではなくあなた方の義務だ。
アドリア海が安全でなくなれば、ヴェネツィアが約束を違えたのであって、我々ではない」
大公の言葉に、ヒルダは落胆の表情を見せ、家臣たちは一様に満足そうな顔をした。
ヴェネツィア大使はそれでも必死に喰らいつこうとした。
「そのために、水夫と兵士の提供をお願いしているのです。我々に義務を果たせとおっしゃるなら……」
大公は分かっている、とでも言うように何度もうなづいた。
「四百人はどうあっても不可能だ。だから、我々がどれだけの協力が出来るか、まず調べよう。
土地台帳をめくり、村々町々にどれだけの若者がいるか調べるのだ。そのためには時間がいただきたい」
「どれだけ待てばよろしいでしょうか」
露骨な時間稼ぎの提案に、大使の言葉尻が険しくなる。
だが、大公は眉一つ動かさなかった。
「出来るだけすぐにお答えしよう。しかしまず主だった諸侯を集めて評議会を開かねばなるまい。よって……」
「よく分かりました」
大公が全てを言い終わる前に、大使がそれを遮った。
「待ちましょう、互いの友情を信じて。出来るだけ早いお返事をお待ちしております。それでは」
大使はほんの少し頭を下げただけで、大公の挨拶も聞かず退出した。
あまりの非礼に、家臣たちが騒然となる。大公はまた打ちひしがれたように首を振った。
大公は確かに公国の支配者だ。だが、家臣もまたそれぞれの領地の支配者であり、公も口出しできない。
確かに、ヴェネツィアに海の防衛を任せるのは利点が大きい。
海軍力とは高くつくものだ。わずかな人員の提供で、キリスト教世界最強の海軍が味方に加わるのはよりよい選択と言える。
だが、それが今回のように、それぞれの家臣の権益を侵すことになれば、たちまち反対の声が挙がるのだ。
いまや大広間は、ヴェネツィアへの不満と不審の声に溢れていた。
――だが、そのざわめきの中、ジャンカルロ伯だけが何も言わず、にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
4.
「……なくなってる、まさか」
アルフレドの心臓がどきり、と鳴った。
もう一度シャツの下に手をやる。そこには、ルカからもらった金袋があるはずだった。
それが、ない。
いや、袋はあるし、中身も入っている。だが、その感触は明らかに銀貨のものではない。
慌てて首から下げた金袋を取り出す。そして恐る恐る開ける。
そこには、銀貨と同じくらいの大きさの石ころが、いくつか入っているだけだった。
「くそ……あの親父……」
アルは、その前の日、珍しく屋根の下で眠ることが出来た。
親切な農民の一家が、納屋を寝床として貸してくれたのだ。さらにわずかながら食料も売ってくれた。
もちろん対価として法外な金額を要求されたが、それでも雨に濡れ、盗賊や獣に怯えて眠るよりはましだった。
久しぶりに服を乾かし、干し草の香りに包まれて眠るという誘惑に、アルは勝てなかった。
一家は親切で、子供たちは旅の話をせがみ、その間に母親は外套のほころびを繕ってくれた。
思えば、そういう人並みの優しさすら、しばらく触れることがなかった。
――その晩、繕われた外套に身をくるみながらアルは人知れず泣いた。
最初に金袋を懐から出したとき、父親の目つきが変わったことをもっと良く考えるべきだったのだ。
とにかく、金袋の中身は消え、ご丁寧にも同じぐらいの重さの石とすりかえられていた。
引き返そうにも、もう丸一日近く歩いてしまっている。往復する余裕はない。
慌てて背負い袋の中身を確かめた。
フライパン、鉄製のランプ、木靴が一足、木匙、ナイフ、火打ち石。
……あの一家はまだ良心的だったのかもしれない。彼らから買ったパンとチーズも全て残っていた。
だが、金はもう銅貨一枚すら残っていない。明白な事実を突きつけられ、アルは愕然とする。
膝が地についた。
だが、力を失ったのは一瞬だった。再び気力を奮い起こして立ち上がり、歩き出す。
ひたすら、北へ、北へ。
――さらに数日経った。
アルは雨に打たれながら、街道脇に生えた大きな木の陰に身を横たえていた。
あの「泥棒一家」の家を出てから体の調子がおかしい。体が熱っぽく、頭がふらふらする。
裏切られたという衝撃とそれまでの疲労が、アルの体を本人が考えるより弱らせていた。
体調の異変に気づいたアルは、近道をしようとアンコーナではなく、より南の町マチェラータを目指した。
それが間違いだった。
ほぼ半日歩き続けたが、町どころか廃屋にすら行き当たらなかった。どこかで道を間違えたようだった。
アンコーナは港町だから、アドリア海を右手に見ながら北上し続ければ必ず辿り着く。しかし内陸の町は違う。
病に冒された頭は、時として致命的な過ちを犯す。近道より、確実さを取るべきだったのだ。
そもそも地図も案内人も無しに、一度も行ったことのない他国の町に行こうというのが無茶なのだが、もう手遅れだった。
それでもアルフレドは歩いた。生き残るためには進むしかなかった。
しかし最後には熱のせいで足が腫れ上がり、歩くことすら出来なくなった。
それでも這いずるようにして進み、この木の根元に身を横たえたと同時に、アルの進退は窮まった。
いまやアルはただ身を木の幹に預け、雨に濡れたまま身動き一つしていなかった。
もう一日以上眠っていない。熱のせいもあるが、体中が気が狂いそうなほど痒く、眠れない。
原因は、アルの体中にはびこった蚤と虱だった。
騎士見習いだったころは、旅に出ても誰かが替えの下着を用意してくれたし、洗濯もしてくれた。
それを怠れば、当然のように服は寄生虫の巣窟になる。アルはそんなことも知らなかった。
(……ずいぶんと、恵まれてたんだな、僕は)
朦朧とする意識の中、アルはそう思った。
屋根、乾いた床、そして火。清潔な下着と、散髪。
当たり前のように思っていたことが、全て王侯貴族の贅沢のように感じられた。
(ヒルダにいつか教えてあげよう、屋根と床があることが、どんなに幸せなことかって)
アルは笑っていた。
まるで世界の真理を見出した哲学者が知らず知らず浮かべるような微笑。
しかしアルは自分が何故笑っているのか分からなかったし、そもそも笑っていることにも気づいていなかった。
鉛のような腕を動かし、背負い袋からパンの塊を取り出す。
雨にぬれ、ドロドロに溶けかかったそれを、ゆっくりと口に持っていく。
つん、と酸っぱい匂いがアルの鼻を突き刺す。だが、もはやそんなことは気にならなかった。
一口かじり、飲み込む。
次の瞬間、猛烈な臭気が込み上げ、アルは咳き込みながらパンと一緒に胃の中身を吐き出した。
吐瀉物が泥水と混じりあい、足元に広がっていく。
そこにはもうどんな食べ物の欠片も見当たらなかった。
咳き込んだ拍子に、アルは体を折り曲げるように倒れた。
顔が水たまりに突っ込んだ。もがくうちに、口一杯に泥水を含む。
それでも必死で空気を求め、最後の力を振り絞って仰向けに寝転がった。
体全体に雨を浴びる。
乳白色の雲がアルの目に映った。
(ある種の渡り鳥は――――)
雨粒が妙にはっきりと見える。落ちてくる一粒一粒さえ見分けられそうだった。
その中に一つだけ、違う何かがある。
(地中海を越えて、遥かアフリカの果てまで――――)
小さな十字架のように見えるそれは、アルフレドの真上をゆっくりと旋回している。
薄れゆく意識の中で、アルはそれが遥か南へ向かうのを確かに見た。モンテヴェルデの方へ。
鳥か、それとも幻か。なぜか、それがヒルダに自分が死んだことを伝えてくれる、そんな気がした。
(続く)