1.
――次に意識を取り戻したとき、今度こそ間違いなく煉獄に落ちたのだと思った。
以前にそう思ったときは、傍にヒルダがいて、そこが煉獄ではないことを教えてくれた。
今はヒルダもいない。
思えばダンテ・アリギエーリの詩でも、彼は旅をするうちに冥界へと迷い込んでいた。
ならばアルフレドがそうならない理由があろうか?
だが、ゆっくりと頭を巡らしたとき、自分の想像が全く間違っていることにアルは気づいた。
ここはどこか部屋の中だ。木造の建物で、床一面に藁が敷き詰めてある。
厩のようだったが、自分が寝かされているのは明らかに人間用の寝台だ。
粗末な毛布は、何度も洗濯されて擦り切れてはいたが、清潔だった。
改めて自分の体を観察する。着ているのは自分の服ではなくリネンの下着だ。これにも洗濯の跡があった。
枕元には小さな台があり、蝋燭と欠けた水差しが載っていた。
全てのものが、生活臭を匂わせている。だからここはまだ人間界なのだろう。
耳を済ませても、もう雨音は聞こえない。静けさの中でゆっくりと体を起こす。
額に手を当てる。熱はもう下がっていた。
「ああ、そろそろ目が覚めると思ってたよ」
その声にアルはあわてて頭を巡らす。
それまで気づかなかったが、部屋の隅に小さな入り口があって、そこから一人の女性が顔を出していた。
自然と、アルは体を引いた。それを見て女性が小さく笑う。
「怯えることはないよ。何も取って食おうってんじゃないんだから……ちょっと待ってな」
そう言うと女性はいったん姿を消し、手に大きな陶器のジョッキを持って再び現れた。
年の頃は三十手前か少し過ぎたころだろう。腰の強い黒髪を、後ろで束ねて結い上げている。
体は少しふっくらとしているが、顔は少しやつれて見えた。あるいは光の加減かもしれなかったが。
一見して、市民階級の母親のような女だった。
アルのそばに来ると、彼女はそのまま寝台に腰掛け、片手をアルの額に当てた。
「熱は下がったね。じゃ、これをお飲み」
熱くして、蜂蜜と胡椒を入れたぶどう酒だ。アルが戸惑っていると、女性はそれを強引に手渡す。
仕方なく、ちびちびとそれを口にする。
久しぶりに味わう温かさと甘み。そして胡椒のわずかな刺激が、アルの体を奮いたたせてくれた。
「もうすぐ食事が出来るからね。あとで持ってきてあげるよ」
「あ……はい」
無邪気さを漂わせる女性の微笑みに、アルは赤面しながらうなづく。
「……さて、それじゃまず名前を聞こうか」
アルが一息ついた拍子に、女性はそう尋ねた。
その目は敵意や冷たさはなく、どちらかと言えば好奇心――アルが何者であるか、純粋に知りたいという欲求が感じられた。
アルはそのおかげで落ち着いて答えることが出来た。
「僕の名前はアル。アルフレド・オプ……あ、いや……アルフレドです」
オプレントの名は追放のときに剥奪されていた。今はただの「アルフレド」だ。
そんな風にアルが言いよどむのを聞いても、女性は詮索すらしなかった。
「私の名前は、<ニンナ・ナンナ>。みんなはニンナとか、ニーナとか呼んでる」
「<子守唄>……?」
ニンナもナンナも、幼児に使う言葉で『おねんね』という意味だ。二つ重ねると『子守唄』という意味にもなる。
明らかに偽名である。だが、アルの疑問にも女性は涼しい顔をしている。
「その辺は詮索しないのが私たちの決まり。いいかいアルフレド?」
ニーナが優しく微笑むので、アルはうなづいた。まるで子供に言い聞かせる母親のようだ、とアルは思った。
そういう点からすれば、<子守唄>とは彼女にぴったりの名前と言えた。
「で、あんたは一体何者なんだい、アルフレド? なんであんなところで行き倒れてた?」
「僕は……」
そう言いかけて、アルフレドはまた口ごもる。果たして何もかも話してしまって良いのだろうか。
不意に、例の「泥棒一家」に騙された記憶が蘇る。
「……詮索しないのは、あなたたちの決まりじゃないんですか?」
その言葉にニーナは目を丸くした。一瞬あっけに取られてから、ぷっと吹き出す。
「うまい切り返しをするじゃないか、坊や」
女性がさもおかしそうに笑うので、つられてアルも少し笑った。
「それについては、今回は例外だ。とりあえず何者か答えてもらおう」
そのとき、もう一人が部屋に入ってきた。アルとニーナは同時に振り返る。
入ってきたのは、こざっぱりした格好の体格のいい男だった。アルより一回りは年上、おそらくニーナと同い年ぐらいだろう。
着ているものは普通の厚手の上着にズボンだったが、その袖口から鎖帷子が覗いているのをアルは見逃さなかった。
「……これは、お前の物か?」
その男が差し出したのは、アルフレドの長剣だった。泥にまみれていたはずの鞘は綺麗に汚れが落とされている。
アルは手を伸ばして剣を取ろうとしたが、いち早く男は一歩後ろに下がり、アルの手を逃れた。
「返してください」
はっきりとした口調で言う。そして、男に向かってさらに手を伸ばした。
男はアルの目をじっと見つめていたが、やがてすらり、と長剣を鞘から引き抜いた。
その仕草だけで、男が戦慣れしていることが伺えた。この男は戦士だ。
「振ってみろ」
そう言って男は剣の柄を差し出した。
しばらく見つめ合い、ためらった後で、アルは自分の剣を手に取った。
久しぶりに握る愛剣は想像していた以上に重かった。おそらく体が相当に衰えているのだろう。
そういえば一体どれだけの間眠っていたのだろう? 一日? それとも一週間?
心に浮かんだ疑問をとりあえず脇に押しやり、アルは寝台から上半身を起こしたままで剣を構える。
すぐ傍で、ニーナが不安そうに男とアルを見比べていた。
アルはニーナにちょっと微笑みかけてから、両手で柄を握り、真上に振りかぶる。
何度か振って見せる。さらに右から左、左から右へと薙ぐ。
基本中の基本の動きを繰り返し、さらに別の構えを見せようとしたとき、男が口を開いた。
「もういい。分かった」
そう言うと男はアルの剣を奪い取った。それは有無を言わせぬ手つきだった。
「……どうやら、追いはぎや墓荒らしの類ではなさそうだな。かと言って傭兵でもあるまい」
男の言葉に、アルはずっと思っていたことを口にした。
「ところで、あなたは誰です? ここは一体どこです? どうして僕を助けたんですか?」
矢継ぎ早にはなった質問に、男は苦笑する。
だが、その目には先ほどまであった警戒の色はもはや無かった。
「俺の名前はコンスタンティノ。ここはトレンティーノの町……最後の質問は、お前の答え次第といったところだ。
しかしお前、いったいどこに行くつもりだったんだ」
アルがマチェラータかアンコーナに行くつもりだったと答えると、コンスタンティノは驚いたようだった。
彼の話によると、アルが倒れていたのはマチェラータからさらに内陸に入った街道沿いだったという。
アルは目的地を遥かに通り過ぎ、アペニン山脈の方へと入り込んでいたのだ。
ちなみに、彼らが今いるトレンティーノはマチェラータより内陸の小都市である。
「冬にアペニンを越えようなんてのはどうしても必要がある奴か、よっぽどの馬鹿だけだ。俺たちが通りかからなければ、確実に死んでたな」
「じゃあ、なぜあなたたちはこんな時期に山越えを?」
「……質問には、お前が先に答えろ。そうすれば俺たちも答えてやらないこともない」
コンスタンティノの言葉にアルはまたためらう。しかし、結局答える以外に方法はないと悟るのにそれほど時間はかからなかった。
そもそもいまさら隠すこともない。武器も荷物も取り上げられて、失うものなどないのだし。
「僕は…………騎士見習いでした。でも、追放されたんです」
「どこの国に仕えていた」
「モンテヴェルデ公国」
アルの答えに、コンスタンティノは眉をぴくり、と動かした。そのまま何か思案しているのを、アルはしばらく黙って見守る。
だが、いつまでたってもコンスタンティノが黙っているので、我慢しきれず口を開いた。
「それで、あなたたちは何者なんです? 何故僕を助けたんですか?」
コンスタンティノははっと我に返ったようにアルの方を見た。どうやらアルのことを失念していたらしい。
「俺たちは、傭兵団<オルディネ・インデモニアート>……俺はそのカピターノ(隊長)だ」
<オルディネ・インデモニアート>とは『狂暴騎士団』あるいは『悪魔崇拝修道会』という意味。
傭兵団はその名を喧伝するため、ことさら背徳的な名前や、恐ろしげな名前を自らにつけることが多かった。
「助けた理由は……あえて言えばきまぐれからだが、看病してやったのは動くに動けなかったからだ。
実は仲間が何人か病気でな。アペニン越え出来るか様子を見なきゃならなかったんだ」
「そういえば、みんなの様子は?」
不意に思い出したかのようにニーナが尋ねた。
だが、コンスタンティノは首を振った。無数の人の死を見てきた人間が見せる達観の表情。
「さっきロレンツォが逝っちまったよ。声一つ挙げずに……あいつが最後だった」
「……そう。二日も目を開けなかったしね」
ニーナが胸の前で小さく十字を切る。彼女はまだコンスタンティノの境地には達していないようだった。
アルも見知らぬロレンツォのために祈った。
だがコンスタンティノはもうその話は終わったとばかりにアルフレドの方に向き直った。
「ところでお前、馬には乗れるな」
「もちろん」
アルはその先が容易に予想できた。
「ここでぐずぐずもしてられない。俺たちは先を急ぐ。お前の看病はここまでだ。
だが馬と装備が余ってる。何しろたくさん死んだからな……もしお前がそうしたいなら、そいつをお前に託そう」
つまりそれは傭兵になることを意味していた。
傭兵。金のために命を売り買いする男たち。狂暴で、強欲で、神を侮り、罪にまみれた者。
確かにアルは既に故国では罪人である。
だが、一度罪を犯したのだからあと何度犯しても構わないというのでは、心の底から罪人になってしまう。
そもそも、騎士になりたい、そのためには法を破ってもよい、と考えたからこそ自分は追放されてしまったのではないか。
ならば、二度と騎士の掟を破ることなく生きること、同じ過ちを繰り返さないことこそ、真の道ではないのか?
――しかし、死の恐怖は掟よりも強かった。
あの寒さ、空腹、病そして孤独。
ここで彼らと別れたら、アルはまた一人で死に怯えつつ旅をしなければならない。
コンスタンティノは口の端をゆがめて笑う。率いる傭兵団の名にふさわしい。誘惑する悪魔の笑みだった。
アルはためらいがちに首を縦に振った。その答えにコンスタンティノは満足したようだ。
あるいは、これを予見して自分を救ったのではないか、アルはそう思った。
「冬の終わりとはいえ、アペニン超えはきついぞ」
「はい」
「病み上がりでも容赦はしないからな」
「……はい」
それだけ聞くと、コンスタンティノは二人に背を向けた。
「出発は明後日だ。それまでに仲間を紹介しておく。装備は自分でまとめろ。いいな」
コンスタンティノは長剣を鞘ごとアルへと放った。宙で受け取るアル。
部屋を出る瞬間、コンスタンティノはほんの一瞬立ち止まった。
「よろしくな、アルフレド・オプレント」
「え? あなた何故……」
だが、アルが問い直すより先にコンスタンティノの姿は消えていた。
2.
コンスタンティノの言葉どおり、冬のアペニン越えは過酷だった。
一団は、イタリア半島を南北に走るアペニン山脈を、東から西へまっすぐ横切ろうとしている。
降り積もった雪に足を取られ、ときおり吹雪に苦しめられる旅だ。
天に向かって続くような急な山道を登り、吸い込まれそうなほど切り立った谷を恐る恐る下る。
足は岩に切り裂かれ、肺は氷のような空気に痛めつけられる。
誰もが外套や毛皮を何枚も重ね着して、のそのそと進んでいく。それでも寒さは体の芯まで染みこんで来た。
ロレンツォの馬がなければ、病み上がりのアルは最初の一日すら着いていけなかったに違いない。
「ところで、目的地はどこです」
コンスタンティノに馬を並べながら、アルは尋ねた。
ほぼ先頭を行くコンスタンティノは、甲冑の上に外套を羽織った姿で、迷うことなく皆を導いているように見えた。
「……まずはペルージャだ。それから進路を北西に取り、トスカーナへ向かう。最終目的地はポッジボンシだ」
トスカーナ地方は、ローマの北、イタリアの西岸地域である。起伏に富んだ地形と、農産物の豊かさで知られている。
その大部分がフィレンツェ共和国の領土であり、ポッジボンシもフィレンツェ領の町のひとつだった。
「……ということは、あなたたちはフィレンツェとナポリの戦争に参加しているんですね?」
「そうだ、俺たちはナポリ側だ……正確に言えばナポリの同盟者、ウルビーノ公国フェデリーコ公に雇われている」
ウルビーノ公国は、モンテヴェルデ同様、教皇が統治する教会国家の一角を形成している。
ナポリは教会国家と、フィレンツェはミラノ公国と同盟したため、この戦争はイタリアを二分して、もう二年近く続いていた。
アルフレドは周りを見渡す。隊列は細く、長い。隊列の前後左右は騎兵が守っている。
中央には、歩兵たち。革鎧に鉄兜はアルにも見慣れた姿だが、手にしている武器は見た事がないものだった。
石弓のようにも見えるが、弓の部分がなく、その代わりに木製の台尻の上には鉄の筒が取り付けられている。
「コンスタンティノ、彼らが持っているのは……」
「ああ、<スコピエット>だ。知らないわけじゃないだろう?」
「あー……話には聞いていましたが、実物を見るのは初めてです」
アルの言葉にコンスタンティノは声に出して笑った。自分の無知を笑われ、アルは少し不機嫌な顔を見せる。
スコピエットとは、いわゆる火縄銃のことである。
当時、小火器にはようやくバネ仕掛けの引き金装置が取り付けられるようになった。
それまでは、銃身に開いた穴に、手で直接火縄を突っ込んで撃っていたのである。
この改良により、スコピエットはより扱いやすい兵器となり、急速に普及しつつあった。
だが一方で騎士には「臆病者の武器」として軽蔑されており、とくに尚武の国モンテヴェルデにはほとんど入っていなかったのだ。
火縄銃隊の後ろには、武器を積んだした馬車、さらに生活用品を満載した馬車やロバが続く。
天幕、鍋や釜といった調理道具、大工道具、ワインやパンなどの食料、飼い葉や、家禽を入れた檻まで。
隊列の最後には途中で食料にするための牛や羊の長い列と牧童がいた。
そして家畜のように荷物を背負わされた老人や女たち、さらに女たちに手を引かれた子供が見える。
その数は兵士たちより遥かに多い。
傭兵の家族や、雇われた人夫も含まれているが、そのほとんどは「娼婦」だった。
彼女たちは重い荷物を運び、家事から薪割りなどの力仕事までこなし、看護婦の代わりを務め、兵士の性欲を処理する。
その一団を率いるのはニーナだった。彼女も娼婦なのだ。
コンスタンティノ率いる部隊は総勢百人。
重騎兵が三十、弓や投げ槍で武装した軽騎兵が十数騎、長槍を持った歩兵が二十人強。さらに火縄銃兵が四十人。
それに従卒、人夫や娼婦を含めて三百人近い集団だ。
白い山肌をのろのろと進む黒く長い行列に、アルは思わずため息をついた。
「……これ、全てあなたの部下なんですよね」
「そうだ」
コンスタンティノはさらりと言ってのけた。
モンテヴェルデなら、これほどの軍勢を一人で集められるのは大公かジャンカルロ伯ぐらいだろう。
「これで全部じゃないがな。すでにポッジボンシを囲んでる奴らがいる。
俺の<狂暴騎士団>は……ちゃんと数えたことはないが、騎兵が二百前後、歩兵が四百といったところだ」
「……まさか」
アルが絶句したのも無理はない。たかが傭兵隊長一人が、公国全体の倍の兵力を率いているなど!
言葉を失った理由を、コンスタンティノはすぐに察したようだった。
「……田舎騎士よ、お前の国が安寧をむさぼっている間に世の中は変わったんだ。
少数の勇士が国を代表して剣を交える……戦がそんな『騎士の遊び』だったのは昔のことさ。
俺ですら、ウルビーノ公の配下では中堅といったところだよ。何しろ公はこのたびの戦で騎兵二千、歩兵一万を率いている」
アルフレドは完全に打ちのめされた。総兵力一万二千! モンテヴェルデの全ての男が武器を取ったようなものじゃないか!
呆然とするアルフレドの顔を、コンスタンティノはしばらく面白そうに眺めていた。
「さ、無駄話は終わりだ……日が暮れる前に宿営地を決めなければな」
そう言って、懐から地図を取り出す。アンコーナからペルージャの道が一直線に記された、長い巻物だ。
「……もう八ミリオ(約十五キロ)もいけば、小さな村に着くようだな」
コンスタンティノの言葉に、すぐ傍にいた道案内の男がうなづく。
ふむ、とひとりごち、あごひげをしごいてから、コンスタンティノは隊列の方に振り返った。
「あと二時間も行けば今日は休めるぞ! 歩け、蛆虫ども!」
「Che Cazzo(何てこった)!」「Merda(糞ったれ)!!」
兵士たちは罵り声で、しかし嬉しそうに答える。それを聞いてコンスタンティノは悠然と笑った。
3.
「諸侯に集まっていただいたのは、他でもない」
モンテヴェルデ、五指城の一室。
そこにはモンテヴェルデ公国の主だった諸侯が顔を合わせていた。いわゆる「評議会」の面々だ。
だが、この集いを開いたのは大公マッシミリアーノではない。
テーブルの一番端、全員の顔が見渡せる場所に席を占めたのは、ジャンカルロ伯である。
「……この度の大公陛下の決定について、諸侯の御意見を伺いたいからだ」
その言葉に、その場にいた全員が短くうなり声をあげた。
彼らはヴェネツィア共和国への人員の提供について議論するため、領地から呼び出されたのだ。
だが、慌てて集まったところに聞かされたのは、大公の一方的な命令だった。水夫の徴用が、評議会に諮ることなく決定されたのである。
「……大公陛下の心痛も察するべきであろう。
ヴェネツィア人め、『これ以上引き伸ばすなら、許可を待たず勝手に水夫を集める』とぬかしおったらしい」
その言葉に満場の諸侯たちから別の不満の声が挙がる。小国とはいえ、そこまで侮辱されて黙っているなど、名誉に関わる。
当然、大公の決定に同意する声もまた少ない。そこまでされてなお言いなりになることに、怒りを抱く者の方が多かった。
弁護の声は、水夫徴集の割り当てを逃れた数少ない幸運な者から発せられたに過ぎなかった。
「……しかし、大公陛下も思い切ったことをなさる。『モンテヴェルデ海軍』とはな」
別の貴族の言葉に、その場にいた全員が大公の決定を思い出していた。
大公の決断は確かに思い切ったものだった。自前の艦隊を作り、それをヴェネツィアに提供しようというのだ。
規模はガレー軍船三隻、輸送船一隻。四百人の徴用された男たちがこれに乗り組む。
実質的にヴェネツィア海軍の指揮下に入るとはいえ、この小艦隊の指揮官はモンテヴェルデ人が務める。
これならば立場上同盟国として対等であり、アドリア海以外の海域への派遣を断ることもできる。
条約を守った上で、「指揮権があること」を盾に家臣たちの不満を押さえ込もうという意図だった。
ただし、この決定によって家臣団の不満がなくなったわけではなかった。
まず第一に、結局水夫は家臣たちの負担になったこと。もう一つはモンテヴェルデ艦隊の提督の人選だった。
モンテヴェルデはこれまで常設の艦隊を持っていなかった。
唯一大公が、中型ガレー船『聖ペテロ』号と小型ガレー船『隼』号を一隻ずつ持っている。
任務はアドリア沿岸諸国との交流。つまり、大使や伝書使の派遣のために使われていて、軍船ではない。
そこで、新たな船の建造をヴェネツィアに依頼することになった。何しろこの国は小型漁船程度の建造能力しかないのである。
しかし、自国の艦隊の拡充で手一杯なヴェネツィア造船所はモンテヴェルデの要求をすげなく断った。
仕方なく、何とか戦闘に使えそうな『聖ペテロ』号と、ヴェネツィアから購入した廃船寸前の中古船でどうにか艦隊の形を整えたのだった。
船は揃ったが、熟練の船乗りは少ない。自然と、これまで『聖ペテロ』号の船長だった大公直参の騎士が提督に任命された。
だが、これでは実質的に大公の私有艦隊である。
水夫の徴用と同じく、提督の人選についても何の相談もなかったことが、家臣たちの怒りに油を注いでいた。
「大公陛下は、わが国をいかがなさるつもりなのか……」
諸侯が口々に漏らす不満に耳を傾けていたジャンカルロが、ぽつりと呟いた。
それは、苦悩からつい漏らしてしまった言葉のようであったが、他の人間に聞かせることを十分考慮していた。
「……言うまでもない、ヴェネツィア人に譲り渡されるのだろうさ!」
血気盛んな若い領主が、満座を圧する声で言った。それが場の流れを決めた。全員薄々そう感じていたのだ。
「何しろヴェネツィア人だ。こちらが一ソルド払えば、今度からは十ソルド要求するだろう!」
「そもそも、艦隊を作り上げるなら、最初から条約に頼らず、我らで我らを守ればよいのだ!」
口々にヴェネツィアと、それに迎合的な態度を取る大公への不満の言葉が叫ばれ、部屋は怒りに満ちた。
「……そもそも、正統な統治者の血筋でもないくせに!」
「黙れ!」
その言葉を待っていたかのように、ジャンカルロが腹の底から響くような声で叫んだ。
その声に、大公の血筋について口にした者も、そうでない他の諸侯たちも驚き、部屋に静寂が戻った。
自分に全員の視線が集中するのを確かめてから、ジャンカルロはゆっくりと頭を下げる。
「……失礼いたした。しかし、大公陛下を侮辱されてはなりませんぞ」
そう言われた貴族は、恥ずかしそうに顔を伏せる。
「そもそも、皆の意見を聞き、時に大公をお諌めするのは七大伯筆頭の私の役目。それが今日のような事態に至り、大変申し訳なく思う」
そう呟くジャンカルロに、頭を挙げられよ、尊公の責任ではない、といった声がかかる。
「……この場で誓おう。これからは大公陛下が誤った道を歩まれると思えば、必ずお諌めすると。
我らは古のスウェビの掟に従い、大公家に臣従した者。大公家のために時としてその命に反することもしなければならぬ」
あえてジャンカルロは「マッシミリアーノ」とも「大公」とも言わず「大公家」という言葉を使った。
「大公家」とは、この国の正統な支配者の家系のこと。諸侯の頭に浮かぶのは「ヒルデガルト」であり「マッシミリアーノ」ではない。
それを計算した上での言葉だった。
「……そのときは、この私を助けてくれるだろうか?」
ジャンカルロが座を見渡す。諸侯は、黙って彼の目を見つめ返してくる。
それは暗黙の了解を示している。それこそ、ジャンカルロが今日手に入れたかったものだった。
4.
「アル、アルフレド、起きろ」
納屋の隅に藁を敷き詰め寝ていたアルフレドを、誰かが足で蹴った。
寝ぼけた頭で体を起こす。完全武装のコンスタンティノが傍に立っていた。
「……どうしたんですか?」
「敵だ。準備しろ」
その言葉にアルの頭が完全に醒める。勢いよく立ち上がり、傍らの愛剣を手にする。
「どういうことです、ここはまだ教皇領でしょう。こんなところまでフィレンツェ軍が?」
アルフレドたちは、ペルージャまでほぼ一日程度の距離まで来ていた。
途中脱落した者も少なく、もうすぐ大都市に着くということで、全員に安堵の空気が流れていたところだった。
しかも、昨日の晩は野宿ではなく、廃村に宿営地を定めることすら出来た。何もかも順調と言っていい。
そこに、敵とは。
「……相手はフィレンツェ軍じゃない。どうやらこの辺の小領主らしい」
「どういうことです」
コンスタンティノに説明を求めながらも、アルは近くに脱いでおいた鎖帷子を素早く身に付けていく。
騎士としての訓練を伊達に積んだわけではないのだ。
「領地を荒らされる前に俺たちを潰そうってつもりらしいな。昨日軽騎兵を先行させておいたのが、気に障ったようだ」
コンスタンティノはほぼ丸一日分の距離を、軽騎兵に偵察させるのを常としていた。
食料を手に入れられる村、井戸や水源の状態、先にある橋の状態、そういったことを知るためだ。
だがそのことが、コンスタンティノ隊の進路上に位置する領主を刺激する結果になったのだ。
鎖帷子と鉄の籠手、脚甲を装着したアルは、片手に兜を持ってコンスタンティノに続いた。
村は朝霧に包まれている。五十歩も離れれば人の顔すら見分けられない。
その中で、兵士たちが静かに戦闘準備を整える音が響いていた。
数人の長槍兵が、村の入り口のほうへ走っていく。火縄銃兵たちは、自分の銃の点検に余念がない。
コンスタンティノは村の中央の広場に向かい、配下の行動を黙って見守っている。
そこへ、火縄銃隊と騎兵隊の隊長、それにニーナが近寄ってきた。
「偵察に行った二騎、戻りました。旗印からすると、おそらく相手はフォリーニョ市民軍かと」
「兵力は?」
「騎兵が二十二騎、矛槍と長槍が合計四十五、弓と石弓が四十、火器は無いようです」
「約百人か……数は互角だな。今ここからどれくらいの距離にいる?」
「ここから北に一ミリオ(一・八キロ)ほどの所で、一端停止したそうです」
「分かった……重騎兵の半分は下馬させておけ。北西の守りにつけ、長槍兵が足らん」
騎兵隊長は頭を下げ、部下のところに帰っていった。
「ところで、スコピエットは使えそうか?」
「霧のことですか? 火縄や火薬には問題ありません。ただし視界が悪いので遠距離狙撃は……」
「かまわん。どうせ最初の斉射で片がつく。隊を分割し、一隊は後詰めに、一隊は北西へ送れ」
「了解」
火縄銃隊長も小走りに去っていく。怯えた様子もない。皆戦慣れしているのがアルにもよく分かった。
「……コンスタンティノ」
最後に声をかけたのは、ニーナだった。不安げな顔に、コンスタンティノがにやりと笑う。
「ガキと女たちは一箇所にまとめろ。従卒を護衛にやる……心配すんな、いつも通りだ」
コンスタンティノの言葉にも、ニーナは答えない。じっと胸に手をあて、二人を見比べている。
だが、コンスタンティノの方はもうニーナに何の注意も払っていなかった。アルだけ、ちょっと目配せをした。
さらに数人の部下がコンスタンティノに支持を求めに来たので、アルも自然と注意をそちらに向ける。
次に振り返ったときには、ニーナは霧の中に消えていった。
しばらくして、改めて各隊長が集まってきた。
広場の真ん中で、コンスタンティノを中心に素早く作戦会議が行われる。
コンスタンティノは剣の切っ先で地面に村の地図を描いた。
「いいか、村の入り口は二箇所、北西と東だ。馬車は北西に固めて止めてある。これを防壁に使う。
馬車の間に盾をおき、鎖を張れ。敵の騎兵は一騎も入れてはならん。
下馬した重騎兵と火縄銃で守る。敵兵が防塞に迫ったら、一斉射撃の後突撃で片をつける」
ここは俺が指揮を執る、と言ってから、次にコンスタンティノは東側の入り口を剣の切っ先で示す。
「おそらく敵はこちらからも突入してくる。突入してきたら、長槍兵は槍ぶすまを作れ。敵の足を止めればいい。
スコピエットの一隊と残りの騎兵は広場で待機だ。北西と東、状況を判断して応援に回れ」
長槍隊長と、騎兵隊長がうなづく。説明し終わったあとで、コンスタンティノは部下たちを見回した。
誰も何も言わない。自信満々に笑っている者すらいる。コンスタンティノも満足そうだ。
「敵弓兵は気にするな。この霧だ、納屋の壁だってまともに狙うことは出来ないさ……。
敵は現在の位置からしてまず北から来る。こいつを追っ払えば残るは東側だ。油断するな」
「敵が仕掛けてこなければどうします」
隊長の一人が尋ねた。今までの作戦は、敵が攻めてくることを前提としている。
だがコンスタンティノはその場合のことも考えてあるようだった。
「その時は後詰めの騎兵でこちらから仕掛ける。
霧の中では敵の槍兵もすばやく防御隊形を取れんだろうし、飛び道具も狙いはつけ辛い。
……そして敵もそう考えてる、仕掛けた方が有利だってな。だから仕掛けてくるさ。
だが、こっちは準備万端待ち受けてるってわけだ」
その言葉に隊長たちは笑った。場が和んだところで、コンスタンティノが発破をかけた。
「<インデモニアート>の名は伊達じゃないってところを見せてやろう……地獄に送ってやれ」
馬車の防壁の後ろに隠れながら、アルは敵襲を待っていた。
馬車同士は鉄の鎖でつなぎ、ところどころには厚い木の板で出来た盾を地面に立ててある。
それはちょっとした城壁だった。
「……毎日馬車を一箇所にまとめて、荷物を全部下ろさせてたのは、このためだったんですね」
隣にいるコンスタンティノに声をかける。
目をつぶっていたコンスタンティノは、片目を開けて見せた。
「ま、雨や雪から荷物を守るのもあるが……用心はどれだけしてもし足りないことはないからな」
「それにしても敵が近づいていること、よく分かりましたね」
「斥候を送るのは昼だけだと思ってたのか? 夜ってのはな、悪魔が戦の準備をする時間なのさ」
つまり夜ごと宿営地の周辺に斥候を送り、不穏な動きがないか見張らせていたらしい。
アルはコンスタンティノを改めて尊敬の眼差しで見た。
やがて、ドロドロと地鳴りに似た不気味な音が響いてくる。
耳をすませば、金属同士がぶつかり合う音もかすかに混じっている。
押し殺したような、短く命令を発する声が聞こえる。だが、濃い霧に遮られ、姿は全く見えない。
「……来たな」
コンスタンティノは小さく呟くと、腕を一つ振る。
馬車の陰に隠れていた兵士たちが動き出す。火縄銃兵は静かに銃を構え、火蓋を切る。
下馬した重騎兵たちは、黙ってそれぞれの得物を構えた。アルも剣を抜き放ち、盾を構えた。
アルの目に、隣にいる兵士の頬を一筋の汗が伝うのが見えた。
気がつけば自分も汗をびっしょりかいている。震えが来るほど寒いはずなのに、アルは全くそれを感じない。
――これは本物の戦争だ。
その事実に、アルは愕然とする。
僕は、こんなところで殺し合いをしようとしている。恨みも何もない人たちと。なんてことだ。
だが、その感慨は突然巻き起こった鬨の声に吹き飛ばされた。
襲撃は、弓矢による援護射撃もなく始まった。
おそらく、完全な奇襲に自信があったのだろう。だが、その自信は村に突入する直前に打ち砕かれた。
フォリーニョ市民軍の騎兵が見たものは、目の前を完全に塞ぐ馬車の列。
しかも、霧のためにそれを視認したときには既にそれを回避する余裕はなかった。
勢いのつきすぎた数騎は、そのまま馬車の列に突っ込み、馬は足を取られて転がった。
地面に投げ出された騎兵を、コンスタンティノの兵士がすぐさま駆け寄って殺す。白い雪の上に鮮血の花が咲いた。
幸運な者たちは、馬車の列の手前で何とか踏みとどまることが出来た。
だが、それこそコンスタンティノが待っていた一瞬でもあった。
「放てっ!!」
二十丁の火縄銃による一斉射撃は、棒立ちになった騎兵に驚くほどの精度で当たった。
当時の火縄銃の有効射程は百メートル未満。それ以遠ではまぐれ当たり以上のことは期待できない。
だが、今回はそんな性能でも十分な距離まで敵をひきつけることが出来たのだ。
たちまち数騎が弾丸を浴びて倒れる。弾に当たらなかった者、落馬してもなお動ける者は慌てて引き返そうとする。
だが、そこに後続の槍兵たちが突っ込んできたことが、市民軍側に混乱を引き起こした。
霧のせいで、騎兵隊に何が起こったのか気づかなかった歩兵が、そのまま突撃を続行したのだ。
引き返そうとする騎士が歩兵の隊列を乱し、突撃の勢いを殺す。歩兵の列は騎士にとって二つ目の馬防柵になった。
固まって右往左往する市民軍に、スコピエット隊の第二斉射が浴びせられた。
さらに不運な十人ほどが倒れる。騎士ほど重装甲ではない槍兵は、特に酷い傷を負って死んだ。
火縄銃の轟音と、飛び散った仲間の肉片が、急速に兵士の戦意を萎えさせる。
そのせいで、歩兵たちは馬車の列を乗り越えるべき決定的な機会を逃してしまった。
果敢に馬車の列に突撃していれば、十に一つは勝機があったかもしれない。だが彼らはしなかった。
――さらに三度目の斉射が加えられたとき、遂に市民軍の隊列が崩壊した。
「突っ込めぇぇぇっ!!」
コンスタンティノは叫ぶと同時に、馬車の影から飛び出した。
傭兵たちが猛然と市民軍の隊列に襲い掛かる。火縄銃兵も銃を置き、護身用の剣を抜いて突撃した。
何人かの勇気ある市民軍兵士はそれでもコンスタンティノたちを迎え撃とうとする。
だが、混乱に陥った味方が邪魔で、槍をしごくことも、剣を振るうことも出来ない。
逃げ散る敵の背中めがけ、傭兵たちは剣を振り下ろし、落馬した騎士を踏み潰して前進する。
もはや市民軍に出来るのは、前から順番に殺されていくことだけだった。
一方、村の東側では、残りの市民軍が完全に罠にはまっていた。
霧に乗じて村内に突入しようとしたところを、突然建物の影から現れた長槍兵に包囲されたのだ。
彼らは引くことも進むことも出来ず、槍ぶすまにかかって次々と倒れていく。
それでも市民軍の兵は生きのびるため必死に戦っていたが、後詰めの騎兵と火縄銃兵が駆けつけ、彼らの運命は決まった。
――戦闘は一時間もかからずに終結した。
市民軍弓兵は異変に気づいたが、霧のせいでどこに敵がいるのかも分からず、戦闘に何の貢献も出来なかった。
騎兵と歩兵が逃亡してしまっては、弓兵も撤退するしかなかった。
コンスタンティノが警戒した二度目の攻撃も杞憂に終わったのだ。
「アル、アルフレド! 生きてるか!?」
無数の死体が転がる戦場に、コンスタンティノの声が響く。
他の兵士たちは、短くも凄惨な戦闘に力尽き、その場に座り込んでいる。その只中を隊長が新入りの少年を探し回る姿は何か滑稽なものだった。
やがてコンスタンティノは、一人の敵の騎士が倒れている下に見覚えのある姿を見つけた。
「……どうしたアルフレド。そいつ、抱きたくなるほどいい女には見えないが?」
アルに上から圧し掛かるようにして、市民軍の騎士が絶命していた。
腹から背中にかけて、アルの長剣が貫いている。
「……た、た…け…」
「ん? どうした。聞こえんぞ」
「た、たすけ……た、助けて下さい……」
アルの体は震えていた。組み付かれた相手を刺し殺したまま、動こうにも体が言うことを聞かない。
コンスタンティノは呆れたように、アルに圧し掛かった死体を足で蹴っ飛ばした。
剣と一緒に、死体が仰向けに転がる。
それでも、アルはまだ体を震わせていた。手から剣がすっぽ抜けたのにも気づいていない。
――初めて人を殺した。
目をかっと見開いたまま、眼前で絶命した男の顔が脳裏に焼きついている。
だが、アルフレドの感傷は傭兵たちには無縁だった。
「……おい、お前。そうやって今までずっと寝転がってたのか。俺たちが必死で戦ってたってのに」
コンスタンティノの声は、戦闘後の静かな空気の中よく響いた。他の兵士も集まってくる。
アルはみんなに見下ろされながら、ようやくうなづき返した。
「ははっ、こりゃいいや」
一人の兵士が大声で笑った。つられるように他の兵士たちも笑い出す。
不釣り合いなほど朗らかな笑いの中、アルだけが泣き顔のまま強張った笑みを浮かべていた。
(続く)