1.
暦が三月に変わった頃、アルフレドはようやくフィレンツェ領ポッジボンシ近郊に落ち着いてた。
アルの現在の生活の場は、『狂暴騎士団』の本陣。ポッジボンシから馬で北へ半日ほどの所にある名もない村である。
そこでアルフレドは細々とした書類の仕事や雑用を任されていた。
そもそも傭兵にとって死活問題となる「契約書」はラテン語で書かれることを基本としている。
『騎士団』にラテン語が出来る人間は三人しかいなかった。コンスタンティノと隊付きの公証人、そしてアルだ。
自然と、アルはコンスタンティノの秘書のような立場になっている。
おかげでアルは戦場で命を危険にさらすこともなく、病み上がりの体をゆっくり癒すことが出来た。
村といっても、本来の住人はほとんどいない。皆、戦火を避けて逃げだしてしまっている。
現在の住人は、『狂暴騎士団』の一個コンパニアと、それに従う娼婦たちだった。
<コンパニア>とは「仲間」を意味し、そこから発展して「傭兵の一隊」を指す言葉となった。
『狂暴騎士団』にはコンスタンティノの下に三人の隊長がいて、それぞれ一つのコンパニアを率いていた。
アルが起居を共にしているのはコンパニア<フルミーネ(雷)>で、約百騎の騎兵から成る。
それとほぼ同数の従卒に、女たちも合せて二百五十人ほど。これがアルの今の家族だった。
現在『狂暴騎士団』はウルビーノ公に雇われた他の傭兵団と共同して、ポッジボンシを包囲している。
だが、先に述べたように包囲陣は本人のある村から馬で半日かかるほど離れている。
それはなぜか?
そもそも「包囲」と言っても、町ひとつをぐるりと取り囲む包囲網はこの時代ではありえない。
小さな町でも周囲数キロに渡って城壁を巡らせているのが普通だ。
もしそれを隙間なく包囲しようと思えば、数万の兵士を動員し、さらに継続して補給を送らなくてはならない。
だがこの時代の国家にそれだけの経済力はない。
ポッジボンシはフィレンツェ市とシエナ市(これもナポリの同盟国)を繋ぐ街道の中間地点にある。
つまり戦略的に大変重要なのだが、ここに投入されたウルビーノ公軍の数は僅かに九百だった。
これでは町の主な城門の前に急増陣地を作って見張っておくのが精一杯だ。
つまり包囲網は穴だらけなのだ。それがこの頃の戦争では一般的なことだった。
そこで、包囲網のさらに外側で待ち伏せし、援軍や物資を送り込もうとするフィレンツェ軍を妨害する。
それが<雷>隊に与えられた任務だった。
もし失敗すれば、実質的に包囲は破られたのと同じことだから、<雷>隊の責任は重大だった。
これが、コンスタンティノが包囲部隊を部下にまかせ、<雷>隊に本陣を置いている第一の理由だ。
さらに、コンスタンティノは配下の補給について、全て自前で用意しなければならないという事情もあった。
雇用主のウルビーノ公は、給料は払ってくれても食料や衣服、燃料、武器などは一切面倒を見てくれない。
これは、公爵が冷淡なのではなく、そもそも「補給」という発想がこの時代の軍人にはないのである。
だから、コンスタンティノは後方に控えて、毎日のように部下六百人の衣食を手配してやらなければならない。
ならば、戦場から少し離れた、自由に動ける場所にいる方が何かと都合がいいというわけだ。
ちなみに主な補給手段は「購入」より「徴発」「略奪」だった。村の住人が逃亡するのも無理はない。
とはいえ何をするにも大量の書類が要るから、アルは重宝――言葉を変えれば特別扱いされていた。
そんなわけで、結果的にアルは隊長コンスタンティノの生活を間近で観察することが出来た。
コンスタンティノは、「傭兵」という言葉から想像される生き様とは懸け離れた生き方をしていた。
朝、鶏が鳴くよりも早くに起き出し、朝日を浴びながら軽く剣の稽古をする。
その後、桶に張った湯で体を清め、パンとオリーブ程度の軽い朝食を済ませる。
日のある間はほとんど本陣にいて、書類を口述筆記させたり、明細書に間違いが無いか点検したりする。
肉類中心のしっかりした昼食を終えると、十騎ほどの部下を率いて、近隣の村や街道を見回りにいく。
偵察隊は当然毎日派遣されている。それでもコンスタンティノは「自分の目で見る」ことを怠りはしなかった。
夕暮れが近づくと、馬防柵や不寝番の状態など、村の防備を視察する。これも一日も欠かさない。
やがて夜の帳が下りると、簡単な夕食を取りながら部下から今日一日の報告を聞く。
全ての報告を聞き終えると、それからようやく彼は眠りに就くのだった。
勤勉で、規則正しく、他人にも自らにも厳しい。それがコンスタンティノの生き方だ。
他の傭兵が、任務や稽古を除けば暇なし酒を飲んだり、娼婦を抱いたりしているのとは対照的だった。
なぜそのような生き方をするのか? アルフレドは一度だけ彼に聞いた事があった。
コンスタンティノは笑いながら、
「それが隊長稼業――人を雇うってことだ。銀行家や商人が毎日早起きして夜遅くまで働くのと同じことさ」
と答えた。確かに、コンスタンティノの生き方は傭兵というより商人だ。
いや、彼ならメディチ家に代わって銀行を経営しても、貴族として領地を経営してもうまくやってのけるだろう。
そんな人間が、何故傭兵などになったのか? そもそも彼は何者なのか?
しかしそれを聞くことは憚られた。「他人の詮索はしない」。それが『狂暴騎士団』唯一の掟だったから。
アルフレドに分からないことは、もう一つあった。それはコンスタンティノとニンナ・ナンナのことだった。
コンスタンティノとニーナの関係は、単なる「傭兵隊長とそれに従う娼婦の元締め」とは全く違っていた。
例えば、部下たちから隊の運営方針などで不満が上がる。
するとコンスタンティノは必ず自分の対応策をさりげなくニーナに話して聞かせ、彼女に意見を求める。
逆にニーナから助言や忠告を与えることもあったが、コンスタンティノも決してそれを邪険には扱わなかった。
また、傭兵たちの衣食住を本当の意味で切り盛りしているのも彼女だ。
コンスタンティノに向かって「塩が足りない」「薪が足りない」などと文句を言えるのはニーナだけなのだ。
さらにアルが見たところ、ニーナもコンスタンティノと同じように勤勉だった。
いつも気ぜわしげに走り回りながら、女たちと共に働き、指示を出し、娼婦の子供たちの面倒を見ている。
それゆえ、傭兵たちも女たちもニーナには頭が上がらないし、ニーナは誰に対しても遠慮なく物を言っていた。
つまり、彼女は『狂暴騎士団』の事実上の副団長であり、母親だったのだ。
コンスタンティノは隊の運営だけでなく、身の回りの世話についてもおかしなほどニーナに頼りきっていた。
彼に毎朝湯を沸かすのも、炊事洗濯をするのも全てニーナであり、従卒も他の娼婦も決して口出ししない。
だが、ニーナはコンスタンティノの妻ではなく、それどころか情婦ですらなかった。
確かにコンスタンティノは時折ニーナを抱いた。だが、彼が同衾を許す女はニーナだけではなかった。
また、ニーナが他の男に「買われ」ても、コンスタンティノは何も言わなかったしニーナも平然としていた。
ある日アルフレドはニーナに思い切って聞いてみた。
「コンスタンティノをどう思うか」と。
村はずれにある物干し場で洗濯物を紐につりながら、ニーナはそっけなく言った。
「飯のタネ」
あまりにそっけない答えにアルが次の言葉に困っていると、ニーナは笑った。
「まさか、『愛している』と言うとでも思ったのかい?」
「……えっと、その…………ちょっとだけ」
顔を赤くしてうつむくアルに、彼女はさらに大きな笑い声をたてた。
持っていた洗濯物を籠に放り込み、アルの鼻の頭を指でちょん、と叩く。
「アル、あんたは私がコンスタンティノ以外の男と寝てるのが不思議なんだろう?
あんただっていい年なんだから、いつまでもそんなウブなことじゃ娘っこに笑われるよ」
そう言われても、これまで純潔と貞節の誓いを信じ、騎士として生きてきたアルには理解しがたいことだった。
ニーナが朝、別の男の寝台から身を起こし、甲斐甲斐しくコンスタンティノの身支度を手伝う姿は。
「あいつと私とは、持ちつ持たれつやってる仲なのさ。
あいつがいなけりゃ、私はのたれ死ぬしかないし、私が面倒見てやらなきゃ、あいつは仕事が出来ない。
私が面倒見てるからあいつは死なないし、あいつが死なないから私も死なないのさ。分かったかい?」
「……でも、それなら何故結婚しないんですか。そうやって支えあってるなら、夫婦同然じゃないですか」
ニーナの顔が少し皮肉っぽくゆがんだ。
やれやれ、と言わんばかりに頭を振ってから、投げ出した洗濯物を再び手に取る。
「夫婦と変わらないなら、わざわざ坊さんの説教を聞いて、誓いを立てて夫婦になることもないだろ?
あいつも私もお互い都合がいいときは一緒にいて、都合が悪いときは離れればいい、そう思ってる。
神さまの前で誓いを立てたら一生ものだからね……面倒くさくっていけないよ」
「でも……」
「それにねアル」
何か言おうとするアルに、突然ニーナは真剣な目を向けた。
「私は娼婦なんだよ」
ニーナは洗濯干しの作業に戻り、それっきり二人は口を聞かなかった。
それでこの話はおしまいだった。
「そう言えば、アル」
洗濯物を籠から取り出しながら、ニーナが不意に声をかけた。
その顔はいつもの陽気で人懐っこいニーナのそれに戻っている。
「……あんた、まだ女を知らないんだろう?」
「――――な、何を突然……?」
慌てふためくアルフレドの姿に、ニーナはいたずらっぽい笑みを浮かべて近づいた。
ほのかな女の匂いがアルの鼻をくすぐる。
それはヒルダのようなすがすがしい香の匂いではなく、もっと本能的で、動物的だった。
だが、アルにはそれは淫靡なものには思えなかった。あえて言えば、生活臭だろうか。
幼いころ母を亡くしたアルにとって、その匂いは初めて嗅ぐ類のものだった。
頬の丸みに沿って、ニーナの指がアルの顔を撫でる。
「……初陣の前に、私が男にしてあげようか……知らずに死ぬのはあんまり寂しすぎるだろ?」
「い、…………い、いいっ! 遠慮しておく!」
慌てて後ずさりするアルに、ニーナは快活な笑い声を上げた。
どうやらからかわれたらしいと分かり、頬を膨らせながらニーナを睨みつける。
でも、そんな視線は『狂暴騎士団』の母には通用しない。アルにだってそれくらいは分かる。
「なんだい、故郷に『いい人』でも残してきたのかい?」
そう言われた瞬間、アルの脳裏に浮かんだのは、たった一人、あの少女だった。
「ち、違うよ、そんな人っ」
「……ほほう、その様子からすると、惚れちゃいけない相手に惚れたって感じだね。
相手は身分の高い御婦人かい? 逆に、取るに足らない農民の娘……あるいはまさか修道女かね?
ま、いいさ。『いい人』がいるってんなら、おばさんは身を引くだけだ」
一人納得するニーナに、アルは黙り込むしかない。
たとえこの身は遠く離れても、一瞬足りとも彼女を思わないときはない。
だが、身を焦がすのは愛ではなく、自分のふがいなさだ。
自分の愚かさゆえ、誓いを果たせなかったことへの良心の呵責。ここでただ日々を過ごすことへの不安。
「ニーナ、教えてくれないか」
「なんだい」
洗濯物を干す作業に戻りながら、ニーナは答えた。
「……僕は、女性に愛を捧げる資格があるだろうか」
アルの言葉に、ニーナは眉をしかめる。
「どういうことだい」
「例えば……例えば、だよ。守るって誓った女性がいるとする、命に代えても守るって。
それなのに、僕は……僕はこんなところにいる。今もその女性が苦しんでいるかもしれないのに。
今じゃ日々のパンを得るためだけに働いて、温かい寝床があることに満足してる。
だから、怖いんだ。いつのまにか騎士の掟も破るようになって、誓いなんて屁とも思わなくなって――
そんなヤツになったらどうしようって。それでも……それでも、資格はあるだろうか?」
アルは告悔を済ませた平信徒のように頭を下げ、ニーナの言葉を待つ。
だが、彼女は黙っている。
沈黙に耐え切れず目を上げると、ニーナがじっと見つめていた、いや睨んでいると言ってよかった。
それは、先ほどとは全く正反対の、冷え切った目つきだった。
「なら、ここで必死に働きな。働いて、戦って、パンと毛布を手に入れるんだ、どんな手を使ってでも。
そして今から……いいかい、今からだ、『誓い』や『掟』なんて、腹の足しにならないものは忘れるんだ」
「――なんで」
反問するアルに、ニーナは言い聞かせるように、ゆっくりと一言一言語りかけた。
「あんたは甘いんだよ。貴族根性が抜けてないのさ。毎日食べる物があるのが当たり前だと思ってる。
まさかあんたはパンも寝床もなく死んでいく、大勢の農民や流浪民のことを知らないのかい。
……いや、たとえ知らなくたって、分かるはずだ。あんただって『行き倒れ』だったんだからね。
あんたは幸せなんだよ、毎日腹もすかさず安心して寝れるんだから。
でもね。傭兵稼業はそんな甘いもんじゃない。役立たずはいらないんだ。あんたはまだ役立たずさ。
私から言わせりゃ、今日のパンだってお情けでもらってる身分だよ。隊のみんなもそう思ってる。
だからせめて、今日のパンだけじゃなく、明日のパンを受け取る価値があるってところを見せな。
そしたら、やっと『誓い』だの『掟』だのを考える資格が与えられる――分かったかい?」
アルフレドの顔が歪む。
忘れていたわけではない、そういくら心の中で言い訳しても、アルはそれが自己欺瞞だと分かっている。
故郷を出てからニーナたちに助けられるまでの、あの苦しかった日々を、確かに彼は忘れかけていた。
パンと火と寝床があることの幸せを知ったとき、アルはそれまでの恵まれすぎた人生を初めて省みた。
誰もが毎日のパンのため必死で生きている。そして自分もこれからはそうして生きねばならないのだ、と。
だから、せめて自分の食い扶持の分だけでも傭兵団のために働くことで、恩返ししようと思ったのだ。
しかしニーナはまだ足りないという。
彼のこれまで生きてきた全てを、いや、彼の最も大事な物を捨てろというのだ。
では、ここにいるアルフレドは何者なのだ?
国を追われた犯罪者、浮浪者、傭兵、騎士崩れ――そして、誓いを捨てた男?
アルは黙って被りを振った。
「僕は…………僕はそんなの、嫌だ」
「じゃあ、誓いとやらのために死ぬかい…………ま、それもいいさ、あんたの命だ。好きにおし」
ニーナは空っぽの洗濯籠を拾い上げ、村の方へと歩き出した。
「泥水すすっても生き延びて、その子にもう一度会うか――おっと、例えばの話だったね――
それともその頭の中にしかない物のために死ぬか。どっちがいいか、よく考えるんだね」
その時だった。ニーナが立ち止まる気配に、アルフレドも村の方を振り返る。
広場の辺りが騒がしい。
喧騒の中で、偵察に出ていた軽騎兵たちが息せき切って本陣の建物へ向かうのが見えた。
2.
新造のモンテヴェルデ艦隊もまた、三月の初めようやく戦闘態勢を整え、ヴェネツィア艦隊と合流していた。
基地はヴェネツィア領スパラート。ダルマチア(バルカン半島のアドリア海側地域)にある港町である。
ここには、トルコの西進に合せて急遽編成された約八十隻のヴェネツィア艦隊が駐留していた。
これまで、モンテヴェルデ艦隊提督・騎士ルドヴィーコは憤懣やるかたない日々を過ごしていた。
南に二百五十ミリオ(約四百五十キロ)、船で僅か一日半の距離にトルコ艦隊の根拠地ヴァローナがある。
それなのに、ヴェネツィア艦隊はまともな偵察すら行おうとせず、港に引きこもったままなのだ。
ヴェネツィアの提督にそのことを抗議しても、言を左右するばかりでさっぱり要領を得ない。
業を煮やしたルドヴィーコは、配下の船を交代で偵察や哨戒に出すことにした。
さらにはヴァローナ周辺、あるいはアドリア海の外まで足を伸ばしてトルコ船を襲うよう指示していた。
もちろんまともにトルコ艦隊と戦う力はないから、独行の輸送船を狙った海賊行為である。
それについて、ヴェネツィア側は同盟の足並みを乱すと文句を言ってきたが、ルドヴィーコは気にしなかった。
とにかく、トルコ艦隊を少しでも弱らせるか、刺激して決戦に引きずり出したい、そう考えていたのだ。
もちろん、決戦を挑むのはヴェネツィアの仕事であって、自分たちの腹は痛まない、そういう計算がある。
だから、ついにヴェネツィア艦隊が全力出撃すると聞いたときは、まさに天にも昇らんばかりに喜んだ。
わずかな守備隊を残しただけの、総勢七十隻、兵員一万の大艦隊である。
ところが、今回の目的は艦隊決戦ではなかった。なんと、捕虜の身請けが目的だと言う。
一月の小競り合いで聖ヨハネ騎士団の騎士・ザクセンのウィルヘルムがトルコに捕まっていた。
その彼の親がトルコの身代金要求に応じ、息子の身柄保護をヴェネツィアに依頼してきたのだ。
ルドヴィーコは全く腐っていた。
大艦隊に参加しているという高揚感は全くない。
今回の全力出撃は、あくまでトルコに「交渉で侮られない」ための、こけおどしに過ぎなかった。
憮然とした表情のルドヴィーコに、ヴェネツィア艦隊の提督ダンドロは声をかけた。
「まあ、機嫌を直してくれ。何しろ本国からは『あまり火急に決戦を挑むな』と言われているのだ。
せっかく仕立てた大艦隊、あっさりすりつぶすわけにも行かんからなぁ」
彼はヴェネツィア統領を幾人も輩出した名門家系の傍流だが、口調は気安く、陽気な男だった。
彼らは今ヴェネツィア艦隊旗艦『金の獅子』号に乗っている。
三百人乗りの大型船で、戦闘員は通常の倍。さらに<ファルコーネ>と呼ばれる火砲を八門搭載した新鋭艦である。
「そう言われる割には、たかが交渉に軍船全てを投じる……正直、理解に苦しむ」
「こちら艦隊の威容を見て、トルコがおとなしくなってくれればそれでもいいのだ。
何も本当に勝ちを得るだけが戦のやり方ではない。いや、より安全な戦というものだろう」
ルドヴィーコのぶしつけな言葉にも、ダンドロは知らぬ顔だ。
「威容……確かにな」
『金の獅子』号の後方、他のヴェネツィア船の影に、よろよろと付き従うモンテヴェルデ艦隊の姿が見えた。
頼りなげな自分の艦隊を見て、ルドヴィーコはため息をつく。
まるで豪奢な上衣に縫い付けられた小汚い当て布。モンテヴェルデの船はまさにそんな様子だった。
「……前方に船! トルコ艦隊です!」
『金の獅子』のマスト上にいた見張り員が、大声を上げる。その声にダンドロは振り向いた。
「どんな様子だ!」
「…………数は、ガレー六十、カラック十、中央のガレー船に信号旗、あり! 白の三角旗です!」
「ふむ。取り決めどおり、だな」
あらかじめ会合地点、双方の船の数、さらに「交渉に応じる意思」を示す旗印も定めてあった。
それが白の三角旗である。当然『金の獅子』のマスト上にもそれが翻っている。
「他の艦に伝えろ。『戦闘態勢のまま待機、我はこのまま前進する』」
「了解!」
ダンドロの指示通り、ヴェネツィア艦隊は帆を畳み、その場で停止する。
『金の獅子』号だけがさらに速力を上げ、トルコ艦隊へと接近していった。トルコ側も同様だ。
それまで座っていたルドヴィーコは、急に落ち着かない気持ちになり、立ち上がった。
「落ち着かれよ、ルドヴィーコ殿」
見透かしたようにダンドロに言われ、また腰を下ろす。だがやはり気が逸るのを抑えられない。
「よく落ち着いていられるな。相手は異教徒だぞ。嘘つきで、傲慢。それに野蛮な……」
その言葉にダンドロは小さく笑った。ルドヴィーコの顔は苛立ちを隠せないようだった。
「戦場でのトルコ人は、さよう、確かにそのとおり。しかし商売人としては……なかなか信頼できるぞ?」
楽しそうに笑っているダンドロを、ルドヴィーコは軽蔑の目で見た。
――やはり名門といっても商人だ。信仰より金の方を信頼している。
砕けた態度といい、どうもルドヴィーコはこのヴェネツィア人を好きになれなかった。
やがて、ヴェネツィアとトルコ、双方の船が海上で並んだ。
石を投げても届きそうな距離で停船しているが、合戦準備はしていない。水兵たちものんびりとしたものだ。
ルドヴィーコだけが緊張の面持ちで見ている中を、トルコ船の方から小さなボートがこちらへ向かってきた。
その上には十人ほどの人間が見える。
しばらくすると、『金の獅子』から降ろされた梯子を伝って、トルコ人たちが上がってきた。
一団の先頭にいるのは、白い外套に、同じく白いターバンを巻いた男。武装もせず、くつろいだ服を着ている。
その後ろに、髭をぼうぼうに伸ばし、疲れた顔の西洋人の姿が見えた。
ダンドロは笑顔を浮かべながら、その全身を白でまとった男に近づく。
「ヴェネツィア貴族、ジュリアーノ・ダンドロ。ヴェネツィア元老院の代表としてご挨拶申し上げます」
「太守アクメト・ジェィディク。スルタン・メフメト二世陛下の海軍長官です。丁寧な御挨拶痛み入ります」
ルドヴィーコはトルコ人が通訳も介さず、ラテン語を巧みに操るのに驚いた。
そのアクメトの視線が自分に向いているのに気づき、慌てて昔習ったラテン語を記憶の隅から引っ張り出す。
「……モンテヴェルデ公国のルドヴィーコ。マッシミリアーノ大公の騎士である」
アクメトはそれを聞いて丁寧に頭を下げた。ルドヴィーコも彼に倣う。
「それでは、ザクセンのウィルヘルム殿をこちらに」
ダンドロの言葉に、アクメトは片手をちょっと持ち上げた。
それを合図に、後ろに控えていたトルコ兵が、縄で繋いでいたウィルヘルムを解き放つ。
疲れ果てた様子の彼は、よろよろとダンドロたちの方へと歩み寄り、ダンドロの従卒に優しく抱きとめられた。
「では、アクメト殿の寛大さへの感謝として、贈り物を差し上げたい」
贈り物と言葉を濁しているが、その実態は身代金である。
捕虜解放の身代金は戦に勝った貴族の大事な収入源であり、ヨーロッパでは戦のたびに大金が飛び交う。
トルコもその習慣を知っていて、高位のヨーロッパ人は殺さず、身代金を要求してくる。
これについては西洋人もトルコ人も当然と感じていたし、そういった金の要求を卑しいとも思っていなかった。
「お約束の五百ドゥカートです」
「……では、確かに」
ずっしりとした金袋を受け取りながら、アクメトは厳かな表情でうなづく。
「わざわざこの程度の金額のためにここまでお越しいただいたということは……。
以前書面にてお伝えした条件については、メフメト二世陛下も御納得いただいた。そう思ってよろしいかな?」
ダンドロは微笑みながらアクメトにそう声をかけた。
アクメトは表情一つ変えず、部下に二枚の書類を持ってこさせる。それにはヴェネツィア統領の書名があった。
それを厳かに読み上げる。
――ヴェネツィア共和国は、トルコ帝国に対し、アドリア海および東地中海における休戦を提案する。
すなわち、第一に双方の商行為について、互いに一切妨害せぬこと。
トルコはイタリア外のヴェネツィア領、およびヴェネツィア本土になんらの野心も持たないことを約する。
ヴェネツィアはその他地域でのトルコの軍事行動を黙認し、トルコの敵対者に直接の援軍は行わない。
財政的援助は、一年で一万二千ドゥカート、一月2千ドゥカートを超えて行わないことを約する――
「……メフメト二世陛下の署名があります、ご確認を」
「では、ヴェネツィア統領に代わり私が確認いたします。あとで証人立会の下、副署を作成いたしましょう」
「……待て! どういうことだ?」
ルドヴィーコの顔は、二人のやり取りを聞いて青ざめている。
休戦? ヴェネツィアがトルコの軍事行動を黙認だと?
「すでにヴェネツィア共和国は二十年もの間、トルコと戦火を交えている。これでは我々の身が持たない」
「……我らも、ヴェネツィアの強大な海軍に対抗し続けるのには疲れた。ここで一度矛を収めようというわけだ」
ダンドロとアクメトは、当然のように答える。
だが、ルドヴィーコはその言葉が信じられない。トルコと戦うために艦隊を編制したのではなかったのか?
「……つまり、交渉のための『艦隊』というわけか!」
天啓のように全てを悟ったルドヴィーコに、ダンドロは静かにうなづいた。
「……それでは、我らはどうなるのだ? ま、……まさか、モンテヴェルデを……」
ヴェネツィアという盾がなくなれば、モンテヴェルデはアドリア海を挟んでトルコと直接向かいあうことになる。
あの、コンスタンティノープルを攻め落とし、セルビア王国を滅ぼした強大な国家と。
「ルドヴィーコ殿、このような言葉をご存知だろうか。『剣か、貢ぎ物か、コーランか』。
我らムスリムは寛大だ。好きな物を選ばれよ」
アクメトは真面目くさった顔で言い渡した。
ダンドロも、それはよい提案だ、とでも言わんばかりにうなづいている。
瞬間、ルドヴィーコは激昂した。
「う、裏切ったな、ヴェネツィア人め! このキリストの敵め、背教者め! 地獄に落ちろ! 悪魔……がッ!」
ルドヴィーコは短い悲鳴をあげた。背後から、ヴェネツィアの騎士が短刀でルドヴィーコを刺したのだ。
彼の体から、急速に力が抜けていく。
「あ、あく、悪魔がお前たちを……む、か、え……」
ダンドロが部下に向かって大きく手を振り上げている。それがルドヴィーコが最後に見たものだった。
――そして、彼は倒れた。
『金の獅子』号のマストの最上部に、ヴェネツィアの国旗、「聖マルコの獅子」が翻る。
後方に控えていたヴェネツィア艦隊は、それを見て一斉に動き始めた。
打ち合わせどおり、モンテヴェルデの船を攻撃するために。
突然のことで、モンテヴェルデ艦隊の乗組員には何が始まったのかすら分からなかった。
たとえ分かったとしても、何も出来なかっただろう。すでに彼らは何重にも包囲されていたのだから。
モンテヴェルデの船一隻に、数隻のヴェネツィア船が一斉に突っ込む。
その舳先から轟音と共に煙が上がり、火柱が吹き出した。艦載砲が砲撃を開始したのだ。
不意を突かれた上、ぐるりと取り囲まれたモンテヴェルデ艦隊に、それを避けることなど到底不可能だった。
砲弾は船材をへし折り、致死的な破片を撒き散らす。最初の砲撃で、漕ぎ手の半分が櫂を持ったまま死んだ。
動くすべを失い、ルドヴィーコという指揮官をも失ったモンテヴェルデ艦隊は、ただの的に過ぎなかった。
マストがへし折られ、甲板上はたちまち船の破片と死体で埋まっていく。
船員の幾人かは泳いで逃げようとしたが、全て溺れ死ぬか、ヴェネツィア兵の石弓で射殺された。
止めとばかりに、ヴェネツィア船は速度を上げてモンテヴェルデ船の側面にその衝角を突き刺す。
あとは、一方的な殺戮だった。
「……何ということだ、ヴェネツィアはトルコのために同じキリスト教徒を殺すのか!?」
なすすべもなく屠られていくモンテヴェルデ艦隊を見ながら、ザクセンのウィルヘルムは叫んだ。
だが、目の前で繰り広げられる虐殺劇に、ダンドロは全く心を動かされていないようだった。
「くそっ、呪われろ商人め! 貴様らに助けられたなど騎士の恥だっ、今すぐに殺された方がましだ!!」
「心配するな」
ダンドロとアクメトは、感情のこもらぬ目でウィルヘルムを見ている。
その人間とは思えない視線に気づき、ウィルヘルムの額を冷たい汗が流れた。
「モンテヴェルデ艦隊は勝手にトルコに戦を仕掛けて自滅した。そういうことになっている。
そして、我らヴェネツィア人とトルコ人以外に目撃者はいない……貴公は運が無かったな」
二人の背後で、ヴェネツィアとトルコの兵士が火縄銃を構えるのが見えた。
3.
ニーナを帰し、アルは本陣の方へと走る。
村の広場の中央では、コンスタンティノが部下をまとめているところだった。
コンスタンティノの従者がすばやく彼に甲冑を着けていく。別の従者は馬を引いていた。
その周りでは、他の傭兵たちが自分の武具を身につけ、馬方は次々と厩から馬を引き立てて来る。
アルフレドが駆け寄ると、コンスタンティノが振り返った。
「フィレンツェの輜重隊が近づいてる。スイス傭兵の増援部隊も一緒らしい。お前も来い」
アルが返事をするより先に、コンスタンティノの盾持ちがアルの甲冑と武器を持ってきてくれた。
とりあえず、それを身につけ始めると、コンスタンティノがかいつまんで状況を説明し始めた。
「すぐそこまで来てる。時間に余裕がない。午後の偵察隊を送り出したばかりで手が足らんのだ」
「午前組の偵察隊が見落とした……?」
「違う」
コンスタンティノはあっさりと否定した。その言葉と同時に武装を完了し、馬にまたがる。
アルも少し遅れて馬にまたがった。
とはいえ籠手と脚甲をつける時間の余裕はなかった。差し出された大盾を受け取り、コンスタンティノに並ぶ。
「どうやら、『北の森の抜け道』を使ったらしい。あまり知られてない道だ、どこか村の奴らが手引きしたようだな」
コンスタンティノは半ば買収、半ば威圧によってポッジボンシ近郊の村々の協力を取り付けていた。
その「協力」には、フィレンツェ軍の接近を知らせるという約束も含まれている。
だが、どこかの村が裏切り、フィレンツェ軍の道案内を買って出たらしかった。
「どうするんです」
「とりあえず輜重隊を襲う。スイス兵は出来れば相手はしたくないが……裏切り者のことは、その後だ」
スイス兵は大変すぐれた長槍の使い手だ。騎兵部隊の天敵は、この長槍による槍ぶすまだった。
これに阻まれては、騎兵の突撃も自殺と変わらない。普段なら、なんらかの策略を使って直接対決は避けるところだ。
コンスタンティノが渋い顔なのは、作戦を練る時間的余裕がなく、この天敵と真正面から戦わなくてはならないからだった。
「アル、お前弓の腕前はどうだ」
不意にコンスタンティノが聞いた。
「……一応、一通りのことは出来ます。これでも弓の訓練は受けてますから」
理由を尋ねるのは愚かだということを、アルはここ最近の経験で理解していた。
コンスタンティノは必要があれば聞かずとも教えてくれる。言わないのは、必要が無いと彼が判断したからだ。
「では、こいつを持って騎馬弓兵の列に加われ」
コンスタンティノはそう言って自分の鞍に縛り付けてある弓と矢筒をアルに渡した。
アルは黙って受け取り、騎馬弓兵隊の最後尾についた。
「……出発!」
コンスタンティノの号令一下、<雷>隊の騎兵七十騎が一斉に動き始めた。
――平原に無数の死体が転がっている。
多くは長槍を持ったスイス歩兵だが、甲冑姿の騎兵たち、そして彼らの乗馬の死骸も目立つ。
死に満ちた平原を主を失った一頭の馬がさまよっている。それは誰の胸にも一抹の物悲しさを覚えさせる光景だった。
「やられたのはマルコ、ヴィンチェンツォ、ウーゴ、トンマーゾ、ニコラ・ダ・トリノ、ニコラ・ダ・パリージ……」
部下がゆっくりと名前を挙げていく。戦死者の報告は長いものになりそうだった。
「ニコラ・ダ・プラート、フランチェスコ・ダ・アクイラ、フランチェスコ・ネーロ、ルイージ、アレッサンドロ……」
「もういい。後でゆっくり聞く……何人だ、全部で何人死んだ」
「二十二人です」
コンスタンティノの大きなため息が響く。
重騎兵で生き残ったのは、彼を含めてたったの九人。出撃したときはその三倍はいたのに。
しかも重騎兵で怪我のないものはいない。コンスタンティノ自身、落馬した際に負傷し、手当てを受けている。
アルフレドは今回も生き延びた。突撃の列に加わらなかったことが、彼の命を永らえさせたに違いない。
これで作戦がうまく行かなかったら、と思うとアルは背筋の凍る思いだった。
コンスタンティノは約四十騎の騎馬弓兵に、スイス兵の隊列を弓矢でかき乱すよう命じた。しかも騎乗したまま。
馬を降りての射撃では、スイス兵に接近戦に持ち込まれて敗北すると考えたのだ。
騎射戦など前代未聞だったが、一時的であれ敵の隊列を乱したのだから、コンスタンティノの策略は成功と言えた。
アルもまた、狩りで覚えた騎射の技術を可能な限りふるって、一人でも多くの敵を倒そうとした。
だがやはり、射撃に引き続いて行われた重騎兵の突撃は血なまぐさく、余りに悲惨な結果に終わった。
スイス兵がポッジボンシへの合流を優先して撤退しなければ、重騎兵は全滅していたかもしれない。
ただ、フィレンツェ軍の輜重隊は、戦いが始まるや否や、馬車も荷物も捨てて身一つで逃亡していた。
ポッジボンシへの物資の搬入を阻止できたこと、これにより、かろうじてこの戦いは「勝ち」と言えた。
「捕虜の話によると、道案内を買って出たのはポッツォ村の連中だそうです」
部下からの報告を聞き、コンスタンティノは憮然とした顔で黙り込んだ。
生き残った傭兵たちが、周りに集まっている。彼らの目には、怒りと貪欲さが浮かんでいた。
何かを期待し、暗黙のうちにコンスタンティノにそれを訴える。
アルはそれを悟り、先ほど感じた「戦闘後の恐怖」とは別の、得体の知れない感覚に体を震わせた。
「……二十二人の償いはそいつらにしてもらおう。行くぞ」
コンスタンティノは静かに言い渡す。
傭兵たちは大きな歓声で答えた。
(続く)