1.  
アルフレドは歩いていた。  
燃えさかる村の中を歩いていた。  
人々の悲鳴の中を歩いていた。  
血溜まりでぬかるんだ道を、無辜の人々の亡骸の間を、歩いていた。  
 
コンスタンティノと傭兵たちの復讐は「残虐」の一言だった。  
フィレンツェ軍に協力した村に着くと、まず村長一家が村の広場に引き立てられた。  
兵士たちは、各家の家長を集めて周る。  
コンスタンティノが、村が裏切りの罪を犯したこと、罪は罰せられねばならないことを宣言する。  
「武器で脅され、仕方なくやった」という村長の釈明を、彼は一顧だにしなかった。  
それから無造作に、村長の娘たちを陵辱せよという命令が兵士に与えられた。  
 
泣き叫ぶ娘の声と、村人の嘆きが重なる中、傭兵たちは両親の首に縄をかけていった。  
広場の木に吊るされた村長一家の「足場を蹴る」役は村人から選ばれた。  
剣で脅された「処刑役」は、涙を流し、赦しを請いながら村長を、そして家族の命を奪った。  
娘も犯されながら泣き、慈悲を請うた。最後に彼女も吊るされてしまうまで。  
 
その後に待っていたのは、止める者なき破壊と略奪だった。  
必死で逃げる人々を、傭兵たちはまるで兎狩りのように追い詰め、射殺し、首を刎ねていった。  
女たちは老若の区別なく、兵士の毒牙にかかった。  
夫や息子や父の前で、服を剥がれ、犯され、そして殺された。  
子供たちの運命はさらに悲惨だった。  
まるで泥人形のように馬に踏み潰され、その亡骸は「人の形」すら留めていなかったのだ。  
絶望は人を悪魔に変える。  
もはや苦痛を逃れることも、尊厳ある死を望むことも出来ないと悟った村人たちは、自ら命を絶っていった。  
母は赤子を壁に叩きつけたあと、手にした包丁で自分の首をかき切った。  
夫は妻を、妻は夫を絞め殺し、兄は弟の頭を金槌で砕き、姉と妹が手を取り合って火中に身を投げた。  
 
アルフレドはなすすべもなく見守るしかなかった。  
目からはとめどなく涙を流し、まるで幽鬼のように家々の間をさまよった。  
瞳に映る全てが、この世のものとは思えぬ光景だった。  
全ての軒先に吊るされた死体がぶら下がり、飛び出したうつろな目がアルを見つめていた。  
納屋の壁に狩りの獲物のように貼り付けられた子供の死体。  
斧で真っ二つに裂かれた老婆。恐ろしさのあまり、狂ったように笑い続ける娘。  
いつしかアルも声を出して泣いていた。  
泣きながら神に救いを請う文句を唱えた。全ての死んだ者と生きている者に慈悲を垂れたまえ、と。  
両手を胸の前で固く組み、祈りながら歩き続けた。  
――それでも、神は応えなかった。  
 
アルフレドは、力尽き、一軒の納屋の壁にもたれかかった。  
頭を抱え、その場に座り込む。  
何もかもが恨めしかった。傭兵たちが、戦争が、この世の全てが憎いと思った。  
なぜこのようなことが許されているのか。  
ニーナはこのようなことをしても生きろというのか。  
ならば『狂暴騎士団』を抜け、再び孤独な旅に戻りたい――逃げ出したい。  
空腹を抱え、病にうなされても、構わない。  
そうして異国の路傍で誰にも知られず死んだとしても、それは「甘美な死」のように思われた。  
「……ごめん、ヒルデガルト」  
アルはうずくまりながら呟く。  
いつか国に帰る日を夢見て、ヒルダに会えると信じて生きてきた。  
だが、希望を捨てずにいる自信すら、もうない。このような汚辱の前では全てが空しく思える。  
「……ヒルダ、すまない……僕は、僕はもう…………」  
 
その時だった。  
背後の建物の中から、か細い声が聞こえた。それは、拙いラテン語の響きだ。  
一瞬、アルは自らの祈りが聞き届けられたのかと思った。それほど、その声は澄みきっていた。  
だが違う。それは神の声でも、聖処女の声でもなかった。紛れもない人の声だ。  
「かみ……さま。か、かみさま……おじひ……おじ、ひ、を……」  
小さな女の呟き。そして、それを黙らせようとする野太い男の怒声。  
殴打の音がして、祈りは途絶えた。  
アルは我に帰る。  
そして、這うようにして納屋の入り口へと向かった。  
 
少女が、いた。  
金の髪を持った、白い肌の少女だった。  
薄暗い納屋の中でも肌がはっきりと見えたのは、服は既に切り裂かれていたからだ。  
少女一人ではなかった。その周りには、二人の男がいた。  
一人は、裸身の少女を抱きすくめ、むき出しになった自分の下半身を少女に重ねている。  
もう一人はその様子をすぐ傍で楽しそうに見守っていた。  
覗き込んだアルフレドと、少女の視線が交差した。  
可憐な青い目から、それと同じぐらい青い涙――それは確かに青かった――が零れた。  
 
きっと何度も殴られ、痛めつけられたのだろう。  
口の端から血を流しながら、少女はアルの方をじっと見ている。  
その口が、かすかに動いた。  
それは残った力を全て振り絞った、少女の最後の抵抗のようにも見えた。  
アルは目をそらし、もう一度納屋の壁にもたれかかる。  
頭の中に、三人の女の声が響き渡った。  
 
――なら、ここで必死に働きな。働いて、戦って、パンと毛布を手に入れるんだ、どんな手を使ってでも――  
それはニーナの声。母のように優しく、厳しい言葉だ。  
――そして今から……いいかい、今からだ、『誓い』や『掟』なんて、腹の足しにならないものは忘れるんだ――  
そうしなければ、生きていけない。さもなくば、死ぬのは自分なのだ。  
――生き延びて、その子にもう一度会うか、それともその頭の中にしかない物のために死ぬか……。  
どっちがいいか、よく考えるんだね――  
ああ、会えるのならば一目だけでも会いたい、あの金髪の乙女に。  
 
――アルフレド・オプレント――  
ヒルダの声が蘇る。あの日、誓いをたてた日の声が。  
――あなたは、騎士です。誰が認めなくても、私が、ヒルデガルト・モンテヴェルデが認めます――  
差し出された指輪は古ぼけていた。  
しかし、それは代々大公家に伝わり、数多の騎士が忠誠の口づけを捧げた物だった。  
騎士は敵には勇気を示し、弱き者を守り、神を信じ、真実のみを口にする者。それが、掟だ。  
――これからも、私を守ってください……私もあなたを守りましょう――  
たとえ肉体は遠く離れようと、アルフレドの魂は彼女を守る。それが、誓いだ。  
 
――かみ……さま。か、かみさま……おじひ……おじ、ひ、を――  
少女の姿が瞼の裏に浮かぶ。  
それがヒルデガルトの面影と重なる。  
少女は最後の力を振り絞ってアルフレドに言ったのだ。  
「たすけて」と。  
 
2.  
次の瞬間、アルフレドの体が縛めを解かれたように動いた。  
「うおおおっ!」  
腹の底から声を振り絞りながら、アルは剣を振り上げ突進する。  
声を出さなければ、くじけそうな自分の勇気を奮い立たせて。  
体中に怒りを漲らせ、少女の傍にいる男めがけ、剣を振り下ろす。  
 
長剣は、やすやすと男の体を斬り裂いた。  
斬られた男は、突然のことに苦痛の表情すら浮かべることなく、呆然としたまま絶命する。  
二つに千切れた体から、噴水のように血が吹き出した。  
その血は、アルの全身を一瞬で真っ赤に染める。  
「なっ!?」  
戦友を真っ二つに叩き切られた男は、驚きその場から飛び退く。  
突然襲い掛かってきた男が、敵でも村人でもなく、仲間であるということに気づくには暫くかかった。  
それほどまでに、アルフレドの怒りの形相はすさまじかった。  
振り向くアルフレドを見て、傭兵は顔をゆがめる。  
「お前……騎士崩れの小僧じゃねえか」  
そう言いながら、壁に立てかけておいた自分の剣を抜き放つ。  
彼の表情が驚きから、怒りに変わるのに、そう時間はかからなかった。  
「……何のつもりだ。坊主」  
 
向かい合いながら、アルは静かに言う。  
「彼女を放せ」  
そう言われた傭兵は、少女の方に顔を向ける。  
少女は、突然の惨劇に声を失っていた。ぼろぼろになった服を体に巻きつけ、納屋の隅に後ずさる。  
その仕草は、アルの突然の乱入に混乱しているようにも見えた。  
「……女が欲しいのか?」  
「違う。彼女を自由にする。そして、お前には彼女を汚した罪を償ってもらう」  
「いまさら騎士の真似事か。隊長に可愛がられてるからって、調子に乗るんじゃねえぞ」  
アルの言葉は、傭兵の嘲笑を誘った。  
だが、笑われてもアルの表情は変わらない。首を横に振って、男の言葉を否定する。  
「違う」  
「何が違う」  
剣をまっすぐに構え、その男にはっきりと告げる。  
「真似事じゃない。僕はモンテヴェルデの騎士アルフレド……善きキリスト者にして、弱き者の庇護者」  
男はにやり、と笑った。  
あごひげを軽くしごき、剣を構えなおす。  
「なるほどね……いいだろう。立ち合ってやろう、騎士殿」  
その台詞がきっかけとなった。  
二つの影が動く――そして、激しく剣のぶつかる音が響き渡った。  
 
やがて、納屋からアルフレドが出てきた。  
片手に二人分の血を吸った剣を、もう一方に少女の手を握って。  
少女はまだ泣いている。  
だが、アルが握りしめているその手には力が蘇っていた。  
少女の手のぬくもりと柔らかさを感じながら、アルは幸せだった。  
迷いはなかった。そして、自分がもう引き返せないことも分かっていた。  
それでも、幸せだった。  
アルが立ち止まり、少女もそれに従う。  
「……ひっ」  
顔を上げた瞬間、少女はアルの後ろに隠れた。  
いつの間にか納屋は、傭兵たちに囲まれていた。  
無数の石弓が、二人をまっすぐ狙っている。彼らの中心には、コンスタンティノがいた。  
 
「説明しろ」  
コンスタンティノはアルの方にためらうことなく歩いてくる。  
アルの手には、まだ剣が握られているというのに、彼の剣は鞘に納まったままだ。  
だがアルは、コンスタンティノを斬ろう、などとは微塵も思わなかった。  
彼もまた、アルフレドのそんな考えを見抜いているようだった。  
ほんの数歩の距離をおいて、二人は向かい合う。  
「二人の野蛮人が、この少女を襲っていた。だから騎士として助けた。それだけだ」  
この少年らしくない、傲慢とも聞こえる言葉にも、歴戦の傭兵隊長は心を乱されなかった。  
それどころか、二人部下を斬られたというのに、その顔には何の感情も見えない。  
 
「今、騎士と言ったな? お前は騎士見習いだったはずだが」  
「違う。僕は騎士だ。大公息女ヒルデガルト・モンテヴェルデ様に認められた、れっきとした騎士だ」  
「ヒルデガルト……ふん、あの大公家の娘か」  
コンスタンティノの言葉には、嘲りもあったし、何故か懐かしさを感じているような響きもあった。  
だが、そんな感情にいつまでも浸ることなく、コンスタンティノは言葉を続けた。  
「……つまり、その女を助けたいから、仲間を殺した。そういうわけか」  
「そうだ。それが騎士の務めだ」  
「なるほどな」  
そう言うと、コンスタンティノは無造作に背を向けた。  
アルフレドに背中を見せることなど、赤子にそうするのと変わらない、といった様子で。  
 
コンスタンティノは、弓を構える兵士たちを見る。  
仲間を殺された怒りが目に見えるようだ。  
流浪の傭兵が、相互に助け合うため自然発生的に生みだしたのが<コンパニア(仲間)>である。  
だからこそ、それは軍の一部隊という概念を超え、相互扶助組織、共同生活集団として成立している。  
それゆえ、「契約関係」に過ぎない上下のつながりに比べて、横のつながりは遥かに強い。  
仲間同士の殺人は<コンパニア=仲間>の原理を失墜させる重大事なのだ。  
 
しかし、コンスタンティノの表情は落ち着いていた。  
いや、それどころか威厳さえ漂わせていた。  
兄弟喧嘩を諌める父にも似て、彼の裁きは「絶対」と思わせる。  
彼が三人の隊長をまとめ、六百人の部下を率いているのも、その威厳あってのことだった。  
「アルフレド」  
静かな声だが、それは誰の耳にもはっきりと聞こえた。  
「……跪け」  
その穏やかな指示に、アルフレドは粛々と従う。  
両膝をつき、剣を地面に置いた。それから鎖帷子のフードをとり、頭を下げて首をさらす。  
そこで初めて、コンスタンティノが自分の剣を抜いた。  
その淡々とした二人の振る舞いに、傭兵たちの間に困惑が広がる。  
――これは仲間殺しに対する処刑のはずだ、なのに何故このように穏やかなのだ、と。  
コンスタンティノの命令に逆らえる者など、『狂暴騎士団』にいるはずもない。  
だが、死の宣告すら甘受する男を、彼らは見たことがなかった。  
 
アルの横に立ち、コンスタンティノはその首筋に刃を当てた。  
「何か、言っておきたいことは?」  
「……あの子には、手出ししないで欲しい」  
コンスタンティノがちらり、と振り返る。  
再び目の前で繰り返される惨劇を予想したのか、少女は命乞いをするかの如く手を組み合わせている。  
しかし、コンスタンティノはそれを冷たく無視した。  
「自分の命乞いはしないのか」  
「何も悔いはないから。それに、あなたも分かっていたでしょう、いつかこうなるってこと」  
少し顔を上げ、微笑む。  
その顔はすがすがしさを通り越して恐ろしかった、とその場にいた誰もが回顧したほどの笑みだ。  
ただ一人コンスタンティノだけが、剣を持ったまま同じ眼差しを返す。  
処刑人と咎人が、処刑の瞬間に交わす表情にしては、あまりに異様だった。  
「よかろう」  
それは何に対しての言葉だったのか。  
「悔いはない」というアルの言葉への感慨なのか、少女に手出ししないという同意なのか。  
アルは後者だと信じた。  
 
コンスタンティノの剣が振り下ろされ、血しぶきが上がった。  
 
 
3.  
「馬鹿だよ、あんたって子は」  
そう言いながらニーナは暖炉の火でナイフをあぶっている。  
その傍に座り、アルフレドは傷の手当てを受けていた。  
娼婦の一人が、アルの頭に巻かれた包帯を解いていく。  
傷に張り付いたものを無理やりはがされ、アルは顔をしかめた。  
 
アルの頭が露になる。そこには、あるべき「左耳」がなかった。  
顔の皮と一緒に削ぎ落とされたのか、醜い傷がアルの顔の左側全体に広がっている。  
血は止まっていたが、まだじくじくと染み出す粘液が、火に照らされて光った。  
「私の言うことを聞かないからさ。綺麗な顔も台無しだ」  
 
「ニーナ、それはもう十四回聞いたよ」  
苦笑するアルを、ニーナは睨みつける。アルはおどけたように肩をすくめてみせた。  
「耳削ぎと、鞭打ちで済んで幸運だったんだよ。あんたも吊るされたかったのかい」  
「……それも、もう十七回聞いた」  
ニーナは舌打ちしながら、真っ赤に焼けたナイフを持ってアルの傍にしゃがみこんだ。  
まず傷を洗うべく、壺に入ったワインを傷口にそそぐ。  
「……っ、痛、痛、いたたたたっ!」  
「当たり前だよ。傷はまだふさがっちゃいないんだから。なんだい、情けない声出して。  
耳を削がれたときは、うめき声ひとつ上げなかったそうじゃないか」  
ニーナが呆れたように言う。  
 
そう。アルフレドはコンスタンティノが剣で耳を削いだ時、悲鳴すら上げなかった。  
血を滴らせながら立ち上がり、自分の左耳を拾って懐にしまうことすらした。  
それから、着衣を裂いて作った包帯を巻きつけただけで、夕方まで他の傭兵と行動を共にしたのだ。  
村に帰還して、改めて鞭打ち刑が言い渡されても、アルはやはり無言でそれを受けた。  
全てが終わった後、それでもアルに何か言おうとする者はもはや誰もいなかった。  
 
「猿ぐつわ」  
ニーナに言われて、別の娼婦がアルの口にぼろきれを押し込む。  
焼けたナイフがアルの頭に押し付けられる。押し殺した絶叫が上がり、途絶えた。  
傷を塞ぎ終えたとき、アルはぐったりと床に倒れていた。  
ニーナは一見無関心に、血止めした傷口に豚脂を塗りこみ、包帯を巻き直す。  
「終わったよ」  
肩を一つ叩かれ、アルフレドは息を吹き返した。  
手伝った娼婦は去り、二人は暖炉のそばに座り直し、部屋に静寂が戻った。  
 
夜。本陣に帰還した<雷>隊は、疲れからか、たちまち眠りの底に沈んでいった。  
アルフレドの鞭打ちも、兵士たちの心を打ちのめしたのかもしれない。  
今日は女を抱こうとする者もいなかった。あるいは昼間十分に堪能したからかもしれないが。  
ただ、コンスタンティノは例外だった。彼は今も一人で書類仕事を片付けている。  
 
今日は大勢死んだ。  
コンパニア<雷>隊は約五十個の<ランチャ(槍)>から成り立っている。  
<ランチャ>は正規の騎兵一名を中核とした、最小の戦闘単位である。  
イタリアでは、騎兵一名、騎兵に準ずる武装の盾持ち一名、従卒、馬方、代え馬六頭で一ランチャだ。  
今日の戦闘で八つのランチャが全滅し、同数のランチャが主か盾持ちを失っていた。  
残された従卒や馬方は、死んだ傭兵と個人的に契約を結んだ者たちだ。  
コンスタンティノですら、勝手に彼らを他の部隊に配属し直す権利はない。  
だから、改めて主を失った者一人一人に、今後の身の振り方を確認しなければならなかった。  
結局、大半は歩兵か人足としてコンスタンティノと契約した。  
彼らも、もはや『狂暴騎士団』を離れては生きていけないのだ。  
 
ニーナにアルフレドの傷の手当てを言い渡してからというもの、彼は本陣の建物から出てこない。  
二人とも、今日は彼を手伝おうという気分にはなれなかった。  
「……ところでアル、分かってるだろうけど」  
「ああ、コンスタンティノには感謝してる。僕を見逃してくれたんだから。  
ニ十人以上死んで、これ以上兵隊を失うわけにはいかなかった。僕みたいな奴でもね」  
「……たぶんね」  
あるいは、片耳ずつ削ぎ落とし、鼻を落とし目をくりぬき、じわじわとなぶり殺すつもりだったのかも。  
ニーナは一瞬そう思ったが、あえて黙っておいた。その時の気持ちは、あの男にしか分からない。  
(それに)  
と、ニーナは傍らの少年の顔を見つめる。  
炎に照らされた顔は、赤く柔らかな輝きに包まれていた。  
(その証明の仕方はなんであれ、あんたの腕も捨てたもんじゃないって思ったのかもね)  
だが、この少年が殺人の腕を称えられるのを好まないのは知っていたから、やはり口はつぐんだままだった。  
 
「……あの」  
黙り込む二人の背後で、人の気配がした。  
同時に振り向く。  
そこにいたのは、例の少女だった。  
「ああ、あんた。いいのかい? もう起き上がって」  
こくり。少女は黙ってうなづく。  
昼間、血の気を失っていた顔には、ほのかに赤みが戻っていた。  
余りの古着を着せられ、髪も綺麗に整えられた姿は、男たちに辱められたようには見えない。  
だが、やはりその目には、隠しきれない怯えの色が浮かんでいた。  
 
「……じゃあ、まず、あんたの名前を聞こうか」  
アルはちょっとだけ笑ってしまった。全く、いつものニーナだ。  
だが、少女はうつむいたまま答えない。  
しばらくその顔を覗き込んでから、ニーナは息を吐いた。  
「いいさ。詮索しないのが私たち『狂暴騎士団』の流儀だ。でも名無しじゃ話がし辛い。  
あんたのことは……そうだね、<ラコニカ>って呼ぼう。それでいいかい?」  
「ラ、コ……?」  
聞きなれない言葉に首を傾げる少女に、ニーナは得意げな笑みを見せた。  
「『ラコニア人の女』ってことさ。ラコニアってのは、ギリシャに昔々あった国の名でね。  
その国のやつらは揃いも揃って、おしゃべりが大嫌いだったのさ」  
その説明を聞いて、少女は初めて笑った。  
アルはその時気づいた。  
彼女が金髪ではないこと。肌も白くないこと。そして、碧眼の持ち主でないことに。  
確かに、初めて見たとき、彼女の髪はまるでヒルダのように黄金の輝きを放っていた。  
暗闇で見た肌は、雪のように白く透き通っていたはずだ。  
零れる涙は、その瞳と同じく、宝玉のような青い輝きを持っていた。  
 
だが、目の前にいる少女は黒味がかった栗毛の持ち主だ。  
瞳も同じように黒い。そして、肌は畑仕事のせいだろう、浅黒く日に焼けていた。  
丸みを帯びた顔は、彼女を歳より幼く見せたが、アルフレドより年下ということはあるまい。  
唇は冷たい風に切られてささくれだっている。鼻のあたりには無数のそばかすがあった。  
両目は少し離れ気味で、表情に一層まるい印象を与えていたし、太い眉はたくましさすら感じさせた。  
ヒルデガルトとは似てもにつかない姿。だが、あの時は確かに……。  
そこまで思ったところで、アルフレドは頭を振って考えるのを止めた。  
きっと、この少女の祈りに神が応えたのだろう。  
 
「……お願いがあります」  
ラコニカが不意にそう切り出したので、アルは驚いた。  
何しろ、村で助けた時から、一言以上口を聞いたことが無かったのだ。  
だが、ニーナは少女が言うことを予想していたのか、眉一つ動かさなかった。  
「私を、ここで働かせてください」  
「な、何を言って……」  
アルは思わず立ち上がった。  
明日にでも彼女を親類か知り合いのいる所まで送って行こうと思っていたのだ。  
だが、アルの動揺を無視してニーナは言った。  
「言ってる意味は分かってるんだろうね」  
「はい」  
「炊事洗濯、水汲み、薪割り、死体の片づけだってある。夜は男に……」  
「分かってます」  
ラコニカの声は凛とした、決意を秘めたものだった。  
「私、もう行くところがありませんから」  
二人の女は、つかの間黙って見つめあった。  
暖炉で燃えていた薪が、大きな音を立てて崩れる。先に折れたのはニーナだった。  
「そうかい。そんなら仕事は明日から教える。今日はもう寝な」  
「はい。ありがとうございます」  
ラコニカはそう言って頭を下げ、立ち去っていった。  
アルには僅かな会釈だけ残して。  
 
「……世の中、こういったもんさ」  
ラコニカが去り、アルフレドとニーナが暖炉に向き直ったところで、ぽつりと彼女が言った。  
アルは、その横顔を見る。快活な彼女が時折見せる、疲れきった諦念の表情。  
「戦争が男を兵士に、女を娼婦にする。そして、娼婦が産んだ子供がまた……。  
ほんと、世の中よく出来てるよ」  
「ニーナ」  
アルフレドが何か声をかけようとしたとき、突然ニーナが向き直った。  
飛び出しかかった言葉を飲み込む。  
「あんたは、あの子を助けた。でもね、結局のところ、あの子を娼婦にしただけさ。  
村で死んじまうのと、こうやって生きるのと、どっちがあの子の幸せだと思う?」  
「……そうだね」  
アルは自虐的な笑みを浮かべて、じっと足元を見つめた。  
結局、変えようとあがいてみても、「世の中」という大きな枠を変えることなんて無理なのだろう。  
騎士だろうが傭兵だろうが、アルフレドには弱き者を救えなかった。  
そして、一つの苦しみから別の苦しみへとラコニカを誘った。残った事実はそれだけだ。  
所詮、絶望のあまり甘き死を望む自分のような者に、誰かを救うことなど出来はしない。アルは思った。  
 
ふと目の前がかげり、目を上げるとニーナがいた。  
「さ、坊やはお休み。悩んでる暇はないんだ。明日からまた仕事だよ」  
そう言って目を細めるニーナに、大きくうなづき返す。  
立ち上がり、寝床へと向かう。  
それを、ニーナの手が引き止めた。  
アルの肩を軽く掴んで、そっと振り向かせる。  
そのまま、アルの頭を胸に抱き寄せた。  
「お休み、馬鹿な坊や……愛してるよ」  
柔らかな唇が、アルの傷跡にそっと触れた。  
 
(続く)  
 

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