1.
神を称える殿堂とは、如何にあるべきものなのか。
それは慈愛に満ちた場であるべきなのか、それとも厳粛な空気をかもし出す場であるべきなのか。
――それとも、ひたすら神の絶大な権威を示す場であるべきなのか。
ローマ・カトリックの大聖堂に限って言えば、それは全て当てはまる。
それは薔薇窓から降り注ぐ七色の光と無数の灯明が神の愛を、静かな祈りと冷たい大理石が厳粛な空気を。
そして頭上に広がる巨大な空間と、それを隙間なく埋めた聖像と無数の絵画が神の絶大な力を表している。
モンテヴェルデのドゥオーモ(大聖堂)、サント・ステファノ・デントロ・ディ・ムーラもまさにそんな建物だった。
無数の聴衆で埋まったドゥオーモでは、いままさにミサが終わりを迎えようとしているところだった。
説教壇では、モンテヴェルデの司教が粛々と鎮魂の祈りを捧げている。
聴衆の最前列は大公とヒルデガルト、さらにローマから訪れた枢機卿の一行が席を占めている。
その後ろにはジャンカルロ伯を筆頭とする正装の家臣団。さらに富裕層の市民たちが続いていた。
さらに聖堂のいたるところに、席に納まりきらなかった市民、農民、女や子供がぎっしりと詰め掛けていた。
「……神よ。異教徒と戦い、信仰のために死んだ者たちの魂に永遠の安らぎを与えたまえ。アーメン」
「アーメン」
司教の最後の言葉に、無数の会衆が一斉に口をそろえた。
皆が深く垂れていた頭を上げるのを待って、モンテヴェルデの司教はその場を枢機卿に譲った。
デッラ・ロヴェーレ家の、ジュリアーノ枢機卿(後の教皇ユリウスニ世)である。
「モンテヴェルデの人々よ。私は先の海戦で多くの勇敢な戦士たちの命が失われたことを悲しく思う。
しかし同時に『悲しみを分かつのはあなた方のみではない』と伝える役目を任され、僅かなりとも心癒されるのだ」
すでにモンテヴェルデには、ルドヴィーコ率いる虎の子の海軍が全滅したことは伝わっていた。
もちろん、その真相は明らかにはなっておらず、大半の者がヴェネツィアをまだ友邦だと信じている。
太り気味のジュリアーノ枢機卿は、眼光鋭く続ける。
「……私は教皇シクストゥス四世猊下より、特別の赦免をあなた方に伝えるため遣わされた。
父を、夫を、息子を、兄弟を亡くした方々よ。あなたの隣人の魂は神の御許へと昇った。
なぜなら、猊下は先の戦いを『聖戦』と認め、亡くなった兵士たちを十字軍戦士と定められたからだ。
すなわち、彼らは現世での罪を赦され、そして亡くなったのだ」
そこまで言って、ジュリアーノ枢機卿は一息ついた。
彼の朗々とたくましい声が、建物一杯に響き、聴衆の胸に染み渡っていくのを確かめているようだった。
方々からすすり泣く声がする。この戦いで肉親を亡くした者たちの声だ。
それはその魂が救われたことに一抹の慰めを見出している声でもあった。
臨終にあたり、終油と告悔の秘蹟を受けられなかった魂は「煉獄」へ落とされる。
そして、そこで長い苦役を経て魂の浄化を済ませなければ天国へは昇れない、そう信じられていた。
しかし十字軍の戦士は、戦いに参加するだけで現世の罪を償うことが出来る。
もし志し半ばで死んでも、魂は煉獄に落ちることも地獄にも落ちることもない。天に召されると決まっている。
もちろん、十字軍開始を宣言できるのはこの世で唯一人、教皇のみだ。
「モンテヴェルデの人々よ。教会の忠実なる僕たちよ。シクストゥス四世猊下は仰られた。
『トルコ人たちに今こそ筆誅を加えるときである』と。
それゆえ、猊下はイタリア半島のポテンターティ(列強)に和平と団結を呼びかけられた。
ヴェネツィアとミラノに友情を蘇らせ、フィレンツェとナポリを再び兄弟の絆で結ぶべきである、と。
そして、共に神の敵と戦うのだ――僕たちよ、今こそ神の力を示すときである!
神よ、あなたの忠勇なる尖兵、モンテヴェルデの人々に祝福を与えたまえ。アーメン」
「アーメン」
再び一同は声をそろえた。
その声は静かで、低い呟きの集まりであったけれど、その内にこもる熱気は隠せなかった。
神の戦士、十字軍。その響きが、多くの人の復讐心に火を点していた。
これまで無数の人間がこの言葉に煽られ、無為に命を散らしたことなど、彼らは知るはずもない。
――ヒルダが大聖堂を出ると、ミサの終わりを待ちかねたように大勢の貧者が集まっていた。
大聖堂前の広場に繋いだ愛馬に跨り、無数の臣民に見守られつつ城への道を戻る。
前後を騎乗した兵士が守っているが、そのせいで余計人目を引き、道は貧者で溢れた。
何しろ行列の主は大公息女。「施し」も期待できるというものだ。
貧者への施し――それは教会が富者に「天国への道」として熱心に説いていることだった。
曰く、「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」。
ヒルダの馬に近づこうとする人々を護衛が遮る。
それでもひるむことなく無数の手が伸びるのを見て、ヒルダはステラにちょっとうなづいた。
ステラはそれだけで女主人の意思を悟る。
腰から財布を外し、伸びる汚れた手に銅貨を握らせていく。
受け取った人々の反応はそれほど多様ではない。
その場ですばやく襤褸の中に金を隠し、足早に去る者。
感謝の気持ちを伝えるためか、ヒルダに十字を切り、大地に身を投げ出してみせる者。
すでに金を受け取っているのに、さらに手を伸ばす者。
やがて、乞食同士の喧嘩が始まった。
自分の金を取ったの取らないのという、ありがちなものだ。
そういった諍いは富者には関係ない。重要なのは「施しをした」という行為であり結果ではない。
ステラも個々の感謝や不正には、ほとんど関心を払わないことにしていた。
ヒルデガルトが市中に出かけるたびにこういった騒ぎが繰り返されるから、珍しくもない。
――貧者もまた、農民や騎士と同じく神が定めた身分。
中には分をわきまえない強欲な者や「偽の貧者」もいるだろうが、それは神がまた改めて罰するだろう――
貴族たちの考えは大抵そのようなものだった。
しかし、ヒルデガルトは違った。
一枚の貨幣を巡って口汚く罵りあう自分の民を、馬上から悲しそうに見つめるのが常だった。
その視線の意味もまた、ステラにはよく分かっている。
だから彼女は、何も言われなくとも護衛兵に争いの仲裁を頼むのだった。
こんな有様だから、一人だけ他と違う動きをする男にステラはすぐ気づいた。
黙って行列に従い、汚れたフードの奥から鋭い視線を投げかけてくる。
周りの人間たちが金を受け取ろうと必死に手を差し伸べるのに、この男はそれすらしなかった。
ちらちらと目を向けるが、貧者の癖にまるで物怖じしたところがない。
初めてステラは、自分から動いた。
一枚銅貨を握ると、男に向かい拳を突きつけた。
だが、やはり受け取ろうとしない。
少し苛立ち、ステラは彼の方に少し近づく。金を握った手をもう一度男に向ける。
その時、彼が初めてステラの手を握り、自分へと引き寄せた。
不意をつかれ、よろける。
「……姫様にお伝えを。『追放された騎士見習いから伝言がある、聖ニィロ教会を尋ねよ』と」
「何ですって?」
だが、ステラが聞き返したときには、もう男は人ごみの中に消えていた。
2.
二日後、ヒルデガルトはステラと僅かな護衛だけをつれて、聖ニィロ教会へと向かっていた。
それは、城下町から内陸へ少し入った、小高い丘の上に建つ小さな教会である。
モンテヴェルデで最も古い教会で、大公家の人々は全てここに眠っている。
もちろん、ヒルダの実の父母の墓もある。
それゆえ、ヒルデガルトがほとんど供も連れずここを訪れるのは、さほど不自然ではなかった。
今日も、表向きは海戦の犠牲者の冥福を祈るための訪問ということになっていた。
代々、大公家の人々は何か重大な事件があると、この教会で密やかに祈りを捧げてきた。
ヒルダもたびたび訪れている。
幼い頃死別し、もはや顔も定かでない父母だが、その言葉は忘れたことはない。
――強くあれ。常に家臣の規範たれ。
墓の前に跪くたび、蘇る両親の言葉。久しぶりの墓参は、ヒルダの心を慰めてくれるだろうか?
馬で二時間ほどの道をゆっくりと進む。
三月も半ばに入り、農村は冬から春へ、少しずつ活気を取り戻しているようだった。
道の両側には貴族の荘園が広がり、小作農が土起こしに精を出している。
だが、その中に男――とくに若者や働き盛りの父親の姿が少ないことに、ヒルダは気づいていた。
「これほどとは……」
誰に言うともなく、呟く。
貴族たちは無関心だが、今年を乗り切れない農民も多いだろう。
税を納めれば、食い扶持どころか、来年蒔く種すら残らないのではないか。
飢え死にしたくなければ、村を捨て流民になるしかないだろう。
一家の大黒柱や息子を失った家庭の行く末を考え、ヒルダは言葉を失った。
それは、城の会議で交わされる言葉や数字からは決して感じることの出来ない現実だった。
いま、大公の立場は明らかに悪い。
民を戦の犠牲にし、乏しい国庫から金を搾り出すようにして作り上げた艦隊は鎧袖一触で蹴散らされた。
先のミサでわざわざローマから枢機卿を招いたのも、その威光で不満を押さえ込もうという意図があった。
しかし、ローマ教皇庁の権威を借りたことが、大公にさらに難しい選択を迫る結果となっていた。
ジュリアーノ枢機卿は、教皇シクストゥス四世の弟である。彼はいわば教皇の代弁者だ。
その彼から、モンテヴェルデ公国の戦いは十字軍とみなす言葉を得た。
そして、シクストゥス四世はさらなる聖戦を呼びかけている。
それはつまり、否応無しに公国が異教徒トルコ人との戦争の矢面に立つことを意味した。
先の海戦は、戦いの終わりではない。始まりなのだ。
だが、宗教で腹は膨れない。
家臣は貴重な労働力を奪われたことを不満に思い、市民は家族を失った悲しみを大公への怒りに変えていた。
その全てをオスマントルコへの憎しみと十字軍への熱意に転化することは到底出来ないだろう。
民衆の不満と不安を裏付けるように、近頃モンテヴェルデ城下に異様な集団が姿を現すようになっていた。
襤褸をまとい街路をさまよい、自らを鞭打ちながら祈りの文句を唱える人々。
「悔い改めよ」と叫ぶ彼らは、「鞭打ち教団」と呼ばれている。
約百年前、黒死病によって欧州が人口の三分の一を失った頃、各地に出現した集団である。
現世の苦しみを神の怒りと捉え、財産と故郷を捨て、苦行と祈りの生活を送ることを旨としていた。
平和であれば彼らの主張に耳を貸す者も少ない。
事実、黒死病の猛威が衰えると、盛時は数万を数えた彼らもいつしか姿を消していった。
だが、平和と戦乱が頻繁に入れ替わる時代、彼ら「鞭打ち教団」は何度廃れても不死鳥のように蘇った。
不安と絶望こそ、彼らの糧であった。
かすかに温かみを帯びてきた風を受けながら、ヒルダたちはゆっくりと丘を登っていく。
やがて森の向こうに灰色の石の塊が見えてきた。
枯れ草色の中に小さな聖ニィロ教会がぽつんと建っている。
周囲には一軒の民家もなく、振り返ってもすでに働く農民たちの姿も見えない。
まさに俗世からは切り離された場所だ。だが、魂が永遠の安息を得るにはふさわしいかもしれない。
馬を教会のそばに止め、ヒルダとステラは建物の中に入る。
小さな教会ではあったが、それでも大公家の墓所ゆえ、内部は豪奢だった。
色とりどりのガラスをちりばめた薔薇窓は大聖堂にも劣らぬものだ。
聖人たちを描いたモザイクには金や高価な色石がふんだんに使われている。
内部を照らす燭台すら銀で作られており、所々に宝玉が嵌めこまれていた。
代々大公家が寄進してきた土地のおかげである。
迎えにたった司祭との会話もそこそこに、ヒルダは礼拝堂に向かう。
教会の壁龕に設えられた、モンテヴェルデ家の私的な所有物だ。
ステラは扉の外に待たせ、一人で中に入る。
正面には祭壇があり、黄金の十字架と、大理石で作られたキリスト像が飾られている。
左右の壁には大きな宗教画が掛けられている。聖ゲオルギウスの竜退治と、十戒を受けるモーゼ。
どちらもヴェネツィアから招いた画家に描かせたものだ。
上部に設けられた小さな窓は、これらをぼんやりと照らし出している。
祭壇の蝋燭は部屋全体を照らすには不足だったが、それがかえって厳粛な空気を作り出していた。
3.
突然、暗闇の中から誰かが飛びかかってきた。
反射的にヒルデガルトはそちらに手を伸ばし、相手の衣を掴むと、力いっぱい引き付ける。
倒れこむ相手を、沈み込むように体を曲げて背中に乗せる。
そして腕を軸にしてそれを床に叩きつけた。
全てが一瞬だった。
次の瞬間には、ヒルダは抜いた短剣を曲者の首筋に突きつけていた。
「お、お見事……!」
ヒルダに締め上げられ、苦しそうに息をする。その声は男のものだった。
改めてヒルダは組み伏せた男を観察する。
農奴のようだったが、首には木製の小さなロザリオをかけている。あるいは寺男かもしれない。
「失礼しました。しかし、お許しください。私の命を狙う刺客の可能性があったものですから」
男の顔を覆うフードを、ヒルダは荒っぽく剥ぎ取る。
現れたのは、まだ少年と言っていいほどの顔だった。僅かな無精髭が、若い印象を逆に強める。
「私の名は――」
「お前の顔、見覚えがあります」
ヒルダの力が緩んだ。手を放し、ゆっくりと立ち上がる。だが、短剣はまだ男の方を向いたままだ。
「城の衛兵だった者でしょう。確か名前は……ルカ。エンリーコの息子のルカ」
「さすが、姫さま」
ルカは締め付けられた首筋を撫でながら立ち上がった。
それはアルフレドに法を破って馬上槍試合に出る話を持ちかけた、あの少年だった。
「重ねてお詫びいたします。まさか姫さまお一人で入ってこられるとは思いませんでしたから」
「それはもう結構。ところで、先日のミサの折、私の侍女に話しかけたのはお前ですね?」
ヒルダは頭を下げるルカに歩み寄る。短剣は既に鞘に戻っていた。
「はい。どうしてもヒルダさまに言伝をすると約束いたしましたので」
「……追放された騎士見習いと、ですか」
ルカはもう一度うなづいた。
ヒルデガルトが後ずさる。気持ちを落ち着かせるように一つ大きく息をした。
その動揺は、この薄暗がりの中ですら、ルカにもはっきりと分かった。
小さく祈りの言葉を呟き、十字を切る姫の姿に、ルカはあえて目をつぶった。
あの騎士見習いと姫の間に何があるのか、彼はまだ知らない。
「彼からの伝言です。『誓いを守れなくてすまない』と」
「…………それだけ?」
「はい」
ヒルデガルトはうつむいた。
少女の落胆は、痛々しいほどだった。
おそらく、彼女は知りたかったのだろう。少なくとも彼がどこかで生きているということを。
もちろん、ルカもそう信じている。
だが、嘘をついてまでヒルダを慰めることもまたアルへの裏切りのように思えた。
「残念ながら、いま彼がどこでどうしているのか、それは私にも分かりません。
彼とは追放の日に会ったきりですし、私自身、身を隠さねばなりませんでしたから」
「どういうこと? 先ほどからお前は、自分の命が狙われることばかり心配している」
凛とした声が戻り、少女は再び背を伸ばした。
先ほどまでの、打ちひしがれた様子は微塵も感じさせない。
ルカの脳裏に、兵士として城に仕えていた頃の思い出がよみがえる。
練兵場で整列し、公国への忠誠を誓ったときのことを。
高慢と思えるほど無表情に、兵士たちを見下ろす姫を見たとき、ルカは「弱い女だ」と思った。
彼女は自分がどれほど弱いか知っている。だからこそ、まるで鋼のように強い自分を演じているのだ。
だが、鋼は力を入れすぎればあっけなく折れる。
今目の前にいる少女も、必死で折られまいと突っ張る鋼のように見えた。
「姫さま。ジャンカルロ伯にはお気をつけを」
ヒルダの問いかけには直接答えず、ルカは彼女の耳元に口を近づけた。
「アルフレドを追放したのは伯爵の企みです。私もその先棒を担いだ。彼に槍試合に出るよう勧めたのです」
そう言うと、ルカはさっと後ろに下がり、頭を垂れた。ヒルダの怒りを予想しながら。
だが、案に相違して、ヒルダの声は穏やかだった。
「……今は……今はあなたに恨み言は言いません」
「姫さま」
ぎゅっと手を握るヒルダは、必死に涙をせき止めているようにも見えた。
だが、それを見届けるのは忍びなく、ルカは目をそらす。
「ジャンカルロの目的はアルフレドではなく……その先にあるのは姫さま、あなたです」
答えはなかった。
涙声になるのを、必死に隠そうとしているのか、ヒルダが何度も鼻をすする音がした。
咳払いのあと、搾り出すような声がした。
「……ジャンカルロの企みの先にあるのは『私』……。やはり、彼の望みはこの国……?」
「たぶん」
ジャンカルロは、明らかに今の大公マッシミリアーノにいい感情を持っていない。
もともとマッシミリアーノは「公国の八大伯」筆頭であった。
大公家の男児が絶えたため、大公家長女と結婚していた彼が、暫定的に大公位についたに過ぎない。
つまり、マッシミリアーノとジャンカルロは、本来同格だった。
ヒルダはずっと、伯爵はマッシミリアーノの一族による大公位の継承を妨げたいだけだと思っていた。
それならば、彼がアルフレドを追放したとしても不思議ではない。
――だが、彼の本当の野心が大公位そのものにあるとしたら、正統の血を引くヒルダはどうなってしまうのか。
いや、現大公と家臣筆頭の後継争いとなれば、それは内乱ではないか。
「戦になるでしょう」
ルカはふと遠い目をした。
最下級とは言え、彼も兵士だった。今回の海戦、そして十字軍宣言が何を意味しているのかは分かっている。
その預言者のような呟きに、ヒルダは何か言い知れない不気味さを感じた。
「異教徒との戦、そして――大公陛下と伯爵閣下の戦になるのでしょうね」
ヒルダはその予言を引き継いだ。
あまりに暗い未来図だ。
はたして今、この国の貴族たちが一致団結し、トルコとの困難な戦を戦うことが出来るだろうか?
いや、この機会に自らの勢力を拡大せんと、謀議を繰り返し、他国と結ぶ……そんな者ばかりではないか。
ヒルダはこの「ゲーム」で、一つの駒として使われてしまうのだろう。
それは全くおぞましいことだった。
はるか昔、ローマの豪族までさかのぼれる一族の末裔として、ヒルダにはこの国を守る義務がある。
それは彼女にとって、義務というより生来の権利とすら思える事柄だった。
だがルカの未来図は、ヒルダの想像を超えていた。
「いまや評議会も大公陛下に刃向かい、ジャンカルロ伯の言いなりと聞きます。
ならば伯爵は国の守りを裸にすることも、トルコとの戦のさなかに背後から匕首で刺すことも出来ましょう。
あなたを殺し、自ら大公に推戴されることだって出来る――姫さま、あなたを」
「まさか……まさか、そんなこと!」
「驚くようなことではないでしょう。王位を欲する家臣がすることと言えば、君主の謀殺、それ以外なにがあります?」
ルカは無学な職人の子だ。
ローマ帝国を滅ぼした傭兵オドアケルのことも、近年ミラノ公国が僭主に乗っ取られたことも知らない。
それでも、貴族の陰謀の狭間で糊口をしのいできた彼にとって、それは容易に想像できることだった。
だからこそ、生粋の「青い血」の持ち主であるこの少女には、信じられない。
血の正当性が暴力で否定されることなど、考えたこともないのだ。
「私を殺せば、この国を治める権威は……この国を引き継ぐ正当性は……なくなるのですよ?」
「そんなもの、どうとでもなります。あなたが死んでも土地は、民は残る。
民草は噂していますよ。『ヒルダさまはただの人形、次の大公はジャンカルロさまになるのだろう』とね」
「ぶ、無礼な! たかが……たかが兵卒崩れのくせに!」
必死で否定しようと、ヒルダはさらに声を荒げる。
ヒルダの不遜な発言にも、ルカは冷静だった。貴族に嘲笑されるのは慣れている。
それに、今のヒルダは普段の彼女ではないことは分かっていた。アルという支えを失ったばかりなのだ。
「兵卒だから、分かるんです。国なんて単なる入れ物。大公家なんて、帽子の飾りみたいなもんです」
ルカの言葉は静かだった。必死で否定するヒルダの言葉を、一刀両断に斬って捨てる。
そして、彼女の顔にずいっと自分の顔を近づけた。
視線が交わる。
「姫さま、あなたはモンテヴェルデという国が、まるで大地みたいに絶対壊れないものだと思っておられる。
でも、違うんです。永遠にそびえているようなあの城も、町も、みんな俺たちが作ったものだ。
平民どもはそんなこと百も承知なんですよ。大公家だって、いつかは死に絶えるってね。
あなたもアルフレドも、あの城の城壁の中で、何も見ずに生きてきた。
あの石の中にいては分からないこともたくさんあるんですよ、世の中には。
きっとアルは今頃それを思い知らされているでしょう……生きていれば、ですが」
「黙りなさい!」
ヒルダの平手打ちが、ルカの言葉を遮った。
礼拝堂に、沈黙が戻る。
「下がれ! 下がりなさい……!」
取り乱すヒルダを、ルカはじっと見つめている。頬の痛みも気にならないかのように。
絶え絶えの息の間から、ヒルダのか細い声がした。
「下がりなさい…………お願い、下がって」
そこで初めてルカはすっと体を引いた。それは城の忠実な兵士の動きだった。
目をそむけるヒルダに、ルカは深く体を折り曲げて見せる。
「私は、この教会で寺男をしております。もし御用があれば、いつでもどうぞ」
そう告げると、彼の姿は礼拝堂から消えた。
入れ替わるように、ステラが入ってくる。
「姫さま……?」
部屋の真ん中にうずくまるヒルデガルトに、ステラは慌てて駆け寄る。
そっと手を当てた、その背中は震えていた。
「アルフレド……」
途切れ途切れの嗚咽が漏れた。
「ばか……アルの……」
ステラにも聞きとがめられないように、小さな声で呟く。
優しい侍女の手のぬくもりすら、いまのヒルダにはあまりに遠い。
もし彼がここにいてくれれば、それだけでヒルダは強くなれるというのに。
初めてヒルダは恐怖を感じた。
それは、国を失うとか、そういったものではない。
生死に関わる、本能的な恐怖。
ただ、アルフレドに傍にいて欲しかった。
(ステラに弱い顔は見せてはいけない。立ち上がったときは、いつもの私じゃないといけない)
それは貴族としての、統治者としての誇りだった。
たとえ臣民から人形と嘲られようと、その決意を失うわけにはいかなかった。
それを失えば、ヒルデガルトという少女は本当に人形になってしまうのだから。
(強くあれ。常に家臣の規範たれ)
ヒルダは、それを何ども口の中で繰り返していた。
(続く)