1.
どんな城にも「秘密の通路」というものがある。
モンテヴェルデの五指城も例外ではない。城の創建以来、いざというときに備え無数の抜け穴が設けられてきた。
そのいくつかは使われないまま忘れ去られ、逆にいくつかは今も別の用途で使われ続けている。
例えば五指城の海に面した城壁には隠し扉があり、かつてはそこから小さな船着き場へと下ることが出来た。
城が陥落したときの脱出用に作られたものだが、それも長く戦乱から遠ざかるうちに使われなくなっていた。
逆に城下町に面した側の城壁にも通路が隠されている。
調理場から外へと通じていたのだが、設けた場所が悪かったのか、今では残飯を捨てるのに使われていた。
ステラは顔をハンカチーフでおさえ、悪臭を堪えながらそのゴミ出し通路、かつての抜け道を歩く。
野菜クズや魚の皮、動物の骨などが積もった足元は、ひどく滑りやすい。
転ばないように壁に手をつけば、苔とネズミの糞が手にじわりとこびりつく。
まったく酷い道だった。
それでもステラはヒルデガルトの言いつけによって、ここを通るしかない。
何しろ一日一度清掃人が使う以外は誰も通らないので、人目を避けるには都合が良い。
やがて、ステラは城壁の外に出た。
五指城は少し高くなった丘の上に建っているので、城下町はかなり下の方に見える。
ステラが麓に目をやると、城から捨てられた残飯がうずたかく積みあがっているのが分かった。
何人かの乞食と野良犬が、そこから食べ物を漁っている。
目をそむけると、別の人間が丘を登ってくるのが目に入った。
時間通りだった。
「ご苦労さま」
そう言い放つステラに向かって、その男――ルカは一つ鼻を鳴らした。
ルカにしてみれば、モンテヴェルデの町はどこにジャンカルロ伯の目があるか分からない場所だ。
そして、彼は伯爵のお目こぼしを期待するほど楽観的ではない。アルフレド追放の真相を知っているのだから。
ヒルダのたっての頼みでなければ、彼は聖ニィロ教会から出てきたりはしなかっただろう。
ましてや、ステラに目下扱いされる覚えはない、と思っている。
「重大事なのでしょうね。わざわざ『蛇の巣』に跳び込んで来いとおっしゃるのだから」
「そのとおり、大事な仕事があるのです。姫さま直々の……」
そう言いかけたステラを、ルカは手で遮った。
機先を制され、少女は眉をひそめる。
「勘違いしてもらっちゃ困るんだが。俺はもう城の衛兵でも、大公の家来でも何でもないんだ。
確かに『御用があるときはいつでも』とは言った。だからって、ヒルダさまに顎で使われる義理はないんだよ」
「……その言葉だけで、今すぐにでもジャンカルロ伯に突き出してやりたいところね。
しかし姫さまの言いつけを破るわけにはいきません。今日のところはその暴言、見逃してあげます」
脅迫に屈した様子もなく、ルカは無表情を貫いている。
それどころか、一層ステラに馬鹿にしたような目を向けた。
ステラとしては「平民風情」に侮られるのは我慢ならない。侍女とはいえ、その体には青い血が流れている。
だが、今はこの男と言い争うわけにはいかないのだった。
「実は、この手紙を届けて欲しいのです」
「ふーん。つまり、俺に使いっ走りをやれと?」
ステラがうなづく。
だが、差し出された分厚い手紙の束を、ルカは受け取ろうともしない。
「……これは、僅かですが謝礼です。無事に届けてくれれば、さらに同じだけ支払いましょう」
ステラが取り出した皮袋は、「僅か」という言葉とは裏腹にぎっしりと金が詰まっている。
だがやはりルカは手を出さない。
「金なんてどうでもいいよ。それより一体なんで俺を使いに立てようなんて思ったのか、その手紙は何なのか、教えてくれ」
「それは……」
一番尋ねられたくないことを聞かれ、口ごもる。
理由を告げれば、ルカは断るかもしれない。そうすれば、ヒルダの目論見は崩れる。
しかし口先で相手を丸め込むには、彼女はまだ幼すぎた。
「……この手紙は、外国の事情を諸々の識者に尋ねる手紙です。
今イタリアで何が起こっているのか、我が国に何が起ころうとしているのか……。
親しい貴族の方々や、聖職にある方々にあてた、ヒルデガルトさま直々のお手紙なんです」
そう。これは姫さまの必死の思いが詰まった手紙――
そう思うと、急に手紙の束が重くなったような気がした。
『この石の中にいては、分からないことがある――ルカの言う通りだわ。
だからステラ。私は『知ること』、まずそれから始めるようと思うの』
ルカに諌められたその晩、ヒルダはステラにその決意を告げた。
知らず知らず、城の中に籠もっていた自分。物知らずの姫君に安心していた自分。
それを、変える。
そのために、出来ることから始めるという宣言だった。もちろん、ジャンカルロ伯に対抗するためだ。
こうしてヒルダの静かな戦いが始まった。手紙のやり取りによる情報収集という戦いが。
回りくどい方法ではあったが、幾度かの手紙の往復の後、ヒルダの手元には有益な情報が集まり始めた。
たとえばトルコ海軍の動向、各国の軍隊の配置や練度。今回の『聖戦』を巡る教皇庁内での策謀。
さらにモンテヴェルデ艦隊を全滅させたのはヴェネツィア海軍だ、という「噂」まで。
伯爵への抵抗の第一歩は順調に踏み出されたかに見えた。
だがそれも長くは続かなかった。
「――つい先日のことです。姫さまの手紙を運んでいた伝書使が死体で見つかりました。
持っていたはずの手紙は、なくなっていました」
ステラは初めてその知らせを聞いたときの恐怖を思い出していた。
見せしめのように、死体は町の広場にぶら下げられていたという。
明らかにジャンカルロ伯からの無言の脅迫だった。
「つまり、次は俺が使い捨てにされるってことかい。冗談じゃない、断る」
「ちっ、違います!」
去ろうとするルカを、慌ててステラは引き止める。
「何が違う。あんたらにとっちゃ、使いの一人や二人死のうが知ったこっちゃないのかもしれないが――」
「その男、金貨を握って死んでたんです……!」
死後硬直を起こした手を強引に開いた医者は、真新しいドゥカート金貨に目を丸くした。
一介の伝書使には、明らかに大きすぎる額だ。
初めてルカの顔から笑いが消えた。
「ジャンカルロに内通してたわけか」
「少なくとも……姫さまはそうお考えです。報酬を受け取った直後、殺されたのではないか、と」
そう推理したときの、ヒルダの悲痛な顔をステラは忘れられない。
その伝書使はヒルダの私信を長く扱ってきた男だった。
ステラもその人となりをよく知っていた。「忠義者」と言っていい人間だった。
「長年仕えた男でした。姫さまが生まれたときから城に仕えていた……それなのに。
仕事熱心で、気のいい、優しい男だったというのに。それなのに……!」
ジャンカルロの手は、ヒルダやステラが思うより長い。
手紙を盗み取れるのならば、その寝首をかくことだって出来よう。
「もう、分からないんです……」
知らず知らず、目から涙が零れた。
もう、ルカを説得するなどという考えはどこかに行ってしまっていた。
ただ、自分の主人の身を案じるだけで、胸がふさがり、言葉にならない。
「だから……もう誰が味方で、誰が敵なのか……誰を信頼していいのか、分からないんです……!」
ルカはそんな少女の嗚咽を黙って聞いていた。
『――ルカに頼みましょう』
そうヒルダが言い出したとき、ステラは最初反対した。
もともと、ジャンカルロの手下だった男、アルフレドを追放する陰謀に関わった男など、信頼できない。
だが、そう忠告してもヒルダの気持ちは変わらなかった。
『私はルカを信じる。彼はたった一言、アルフレドの伝言を伝えるために危険を冒してくれたから。
もちろん、自分の助命と引き換えに私の手紙をジャンカルロ伯に渡すかもしれない。
その可能性を考えないわけじゃないけれど……でも、信じてみたいの。
彼がアルフレドとの約束を守った心を、もう一度』
そう言われてなお、彼女の気持ちを踏みにじることはステラには出来なかった。
「分かった。引き受けてやる」
ステラははっと顔を上げた。信じられないといった表情だった。
彼女は涙を拭うことすら忘れていた。
ルカはそんな少女から、むっつりと視線をそらした。
「貴族なんてのは、みんな糞野郎ばっかりだ。
ジャンカルロはとびっきりの糞だったが、大公も、あんたの姫さまも、所詮は……
でもな。信頼してくれるんなら、それに応えるのが筋ってもんだ……アルフレドには借りが残ってるしな」
「あ…………あ、ありがとう……」
思わず呟いた言葉に、ステラは慌てて口を抑える。
この男に、心を許しすぎてはいけない。こちらを信頼させる罠かもしれないのだから。
「……では、これを」
ステラが手紙と皮袋を差し出すと、ルカは手紙だけを懐にしまった。
皮袋を開けると、中の銀貨を数枚取り、残りはステラに投げて返す。
「旅費だけ貰っておく。金で動くと思われても迷惑だ」
「そ、そんな風に思ってなど……」
内心を見透かすような一言に、口ごもる。
だが、ステラの動揺を楽しむかのように、ルカは言葉を続けた。
「報酬は金じゃない方がいいな。例えば姫さまに一晩お付き合い頂くとか、な」
「な、そ、それって……げ、下劣な……!」
顔を赤くして叫ぶ。
怒りのあまり、からかわれていることすらステラは気づいていない。
「そうかな? ま、姫さまは無理としても……俺としては君でもいいんだぜ?」
「ひっ、あ、やっ、さ、触らないでっ」
いつの間にか自分の腰に伸びた手を振り払い、ステラは後ずさる。
両手で自分の胸を守るように抱き、威嚇代わりにルカを睨みつけている。
「まだまだ甘いなぁ……ジャンカルロならコルティジャーナ(高級娼婦)ぐらい抱かせてくれそうなもんだが」
「あ、あの人だってそんなことはしません!」
「ふん。あんた、あいつのこと何も知らないんだな」
むきになって言い返すステラを、ルカは一笑に付した。
「俺がまだ城にいた頃なんか、よく自分の子飼いの女に貴族たちの秘密を探らせてたぜ?
なにせ男って奴は、寝床じゃ何でもぺらぺらしゃべるからね。ああ、もちろん男色家には通用しないがね。
だからジャンカルロは売れ筋の男娼も何人か……」
「う、うるさいっっ!」
「だからあんたも姫さまも甘ちゃんなんだ。奇麗事があの手の男に通じると思ってるのか?
ああいう男は、自分の親族だって手にかけられる……」
「うるさいうるさいうるさいっ!!」
ステラの絶叫に、ようやくルカの軽口が止まった。
拳を握り締め歯を食いしばったまま、燃えるような瞳でルカを睨む。
「彼を……伯父さまをこれ以上侮辱するなら、許さない」
「ふぅん。伯父さま、ね」
ステラの怒りを受け流し、ルカは背を向ける。
背後で、ステラが駆け出す足音がした。
「おおーい、報酬のこと、よく考えとけよ!」
振り向きざま、わざと挑発的に叫ぶ。だが、ステラはもう振り返らなかった。
やがてその姿が隠し通路に消えるのを確かめ、ルカは呟いた。
「肉親の絆より主君への忠誠、か」
2.
今朝もアルフレドは厩の隅で目を覚ます。
外はまだ暗い。戸口から差し込む弱々しい朝日に、眠る傭兵たちの姿が照らし出される。
自分ももう少し眠っていたいという気持ちが湧き上がる。
しかし奥の方から聞こえる、馬の鳴き声に誘惑を何とか振り切った。
寝具代わりのマントを畳み、まだ疲れの残る体を引きずるようにして、愛馬の元に向かう。
「おはよう、マローネ」
そう言いながら、鼻面を強く撫でてやる。
とっくに目を覚ましていた愛馬マローネは、元気よくアルに顔を擦り付けてきた。
「分かった分かった。すぐ朝ごはんにするよ」
弱弱しく笑いながら、納屋の隅に転がった桶を掴む。
まずは川へ水汲みだ。
厩舎から村の近くを流れる小川まではかなりの距離があった。
馬に水をやるために村の井戸を使うことは、コンスタンティノの命令で禁止されている。
馬が一日に飲む水の量は人間とは比較にならないからだ。
もし村にいる二百五十頭の軍馬全てに水をやれば、村の井戸などたちまち枯れてしまうだろう。
重い水桶を二つ持って、アルは長い道のりを五往復した。
既に腕も背中も悲鳴を上げているが、休んでいる暇はない。次は秣だ。
今度は二股の熊手を手に取ると、手押し車を引いて納屋の裏へと向かう。
そこには大量の干し草が積み上げてあり、すでに何人かの馬方が働いていた。
「おはよう」
アルが声をかけると、困惑したような沈黙が返って来た。
わざとらしく視線をそらしながら、馬方たちは自分の手押し車に秣を積み上げて行く。
そんな対応にも慣れ切っているのか、アルは黙々と自分の仕事に取り掛かる。
秣はアルたちが自らの手で刈ったものだ。
二百五十頭分の飼料となると、屋根より高く積み上げた干し草の山も数日でなくなってしまう。
最初は藁やカラス麦、豆などを近場の村から徴発していたが、それも底を尽いていた。
今では一週ごとに部隊総出の草刈りが必要で、しかもその度に草を求めて遠出する羽目に陥っていた。
ただし、傭兵たちはそれに参加しない。草刈りをする傭兵はアルだけだ。
他の傭兵たちは従卒や馬方を個人的に雇っている。だから、戦闘以外は全て彼らに任せきりだ。
しかし、アルフレドには一人の部下もいない。
あの村の虐殺以来、アルはコンスタンティノの個人的な秘書という、特権的な立場から外されていた。
それはこれ以上の特別扱いが、他の傭兵の不満を募らせるという理由からだった。
ただの兵士になったアルだったが、その程度で一度出来た傭兵たちとの溝が無くなるわけがなかった。
「堅物」「仲間殺し」などと評判が立ってしまった男に仕えようという人間がいるはずもない。
アルは略奪を嫌ったのが致命的だった。略奪もまた兵士の正当な権利とみなされていた時代だ。
自然と彼は孤立していった。
マローネの飼い葉桶を干し草で一杯にすると、今度は掃除だった。
汚れた敷き藁や馬糞を熊手でかき集め、車一杯になるとそれを堆肥置場まで運ぶ。
それを数度繰り返せば、アルの体は汗だくになった。
そしてそれは朝の寒気にさらされ、白い湯気に変わっていく。
その頃ようやく他の傭兵たちが目を覚まし、一人働くアルの側を冷ややかに通り過ぎる。
掃除が終わったときには、もう誰も残っていなかった。
やっと、アルの朝食の時間だ。
自分の鞄から木挽きの皿と匙を取り出し、村の広場へと向かう。
そこでは、数人の商人や娼婦が、大きな料理鍋をかき混ぜていた。
仕事を終えた馬方や、傭兵たちは思い思いにパンを齧ったりワインを飲んだりしている。
それはこれから始まる過酷な一日に向けての重要な時間だった。
「ああ、アルフレド。食べておいき」
めったに声をかけられることもない生活のせいで、最初アルはその声を無視しかけた。
二度三度と呼び止められ、ようやくそれがニンナ・ナンナと気づく。
「もうあっちの鍋にはろくなものが残ってないよ。私の余りでよければ、こっちをお上がり」
そう言ってニーナは鍋の蓋を持ち上げてみせる。
レンズ豆とライ麦を煮込んだスープだった。食欲をそそる香りが、アルの胃を刺激した。
「ほら、ここに座りな」
ニーナの傍らに腰を下ろし、無言で皿を渡す。
そこにニーナは、大匙でたっぷり二杯もスープを注いだ。
「……幾ら?」
手渡された熱々の皿を持ったまま、アルはためらいがちに尋ねる。
今月の給料はもうほとんど残っていない。大半が、甲冑や馬を買った借金の返済で消えていた。
「言っただろ。これは『私の余り』だって。今日はいいよ」
「……ありがとう」
小さく感謝の言葉を吐いてから、アルは食事を始めた。
スープはまだ熱く、具はたっぷりと入っていた。近頃口にしていないご馳走だった。
「赤ワインもある。いるかい?」
夢中でスープをかき込むアルは、言葉に無言でうなづく。
そんな子供っぽい仕草に、ニーナは柔らかな微笑みを浮かべた。
はるか古代ローマ以来、兵士の食事は自弁が原則だ。
それは千年を経て、軍隊の主力が騎士、さらには傭兵になっても変化しなかった。
だが、自分の領地を持たない傭兵たちは、結局食料を従軍商人から買うことになる。
ここのところ食事の質が落ちたのは、貪欲な商人たちですら、ろくな材料を仕入れられなくなったからだった。
ポッジボンシの周辺はすでに略奪され尽くしている。畑はまだ種まきも終わっていない。
これでは、コンスタンティノが如何に手を尽くそうと、安価な食料の確保は不可能だった。
食べ物の値段は高騰し、商人は売り惜しみを始めた。
酢になったワイン、おが屑の混じったパン、塩水のようなスープですらとんでもない値段がついた。
ポッジボンシを包囲する『狂暴騎士団』も、篭城するフィレンツェ軍も、等しく飢えに苦しんでいる。
「そういや、ラコニカのことだけどさ」
その名前を聞いて、アルの手が止まった。
アルの動揺を悟ったのか、ニーナは呆れたようなため息をついた。
じっと自分を見つめるニーナの視線を前に、アルは射すくめられたように動けない。
「……彼女、元気?」
「まあ、元気っちゃ元気さ。お互い明日死ぬかも分からない身の上で、その挨拶もどうかと思うけどね」
アルは時々陣内でラコニカを見かけていた。だが、声はかけたことがない。
『村で死ぬのと、娼婦として生きるのとどちらが幸せだと思うか』という言葉が今も彼の心を揺さぶっている。
ニーナは答えを教えてくれなかった。アルにも分からない。
しかし、ラコニカは違った。
そのあだ名の通り、彼女は寡黙に、精一杯働いていた。
笑みを絶やさず、片時も手を休めない少女を娼婦たちは愛している。
考えようによっては、ラコニカはアルフレドなどよりよほど『狂暴騎士団』に馴染んでいた。
だが、アルにはその笑みの奥にあるものを想像し、心が冷えるのだった。
もう二度とその目に、心の底から湧き上がるような歓喜が宿ることはないのだろう、と。
「私らの間じゃ評判は上々さ。言うことはよく聞くし、無駄口は叩かないし、何より働き者だ。
あんたは信じられないかもしれないけど、私らにだってあんな小娘の時代はあったんだしね」
誰もなりたくて体を売る商売に身を落としたわけではない。
だからこそ、ほんの一月前までただの村娘だったラコニカに、娼婦たちは言い様のない共感を感じているのだった。
「……でも、男どもには受けが悪くてね」
「……そう……なの?」
ニーナの言葉の意味するところは、アルにもすぐ分かった。
ここにいる男たちが女に求めるものなど、一つしかない。
「『まるで死体でも抱いてるみたい』だとさ。このままじゃ、そのうち誰も相手してくれなくなる」
黙って皿を置く。食欲はもう無かった。
ニーナに見えないよう、アルは顔を背ける。
だが、アルの口から安堵の息を漏れたのを、ニーナは聞き逃さなかった。
「アル。あんた今、『このまま男に相手されなくなったら、ラコニカは体を売らなくてもよくなる』って思っただろ」
振り向くと、ニーナの怒りを含んだ目がじっとアルを見据えていた。
もう、彼女は呆れてなどいない。それははっきりと、アルの無知を責めていた。
「……子守りや薪集めだけで食っていけると思うかい。そんなことできる人間は腐るほどいるんだ。
抱けない娼婦なんて、足を折った馬みたいなもんさ。男がつかない女は悲惨だよ」
大抵の娼婦には馴染みの男がいる。
そして、その男の傭兵隊での地位や力が、そのまま娼婦の立場をも決める。
男が裕福なら、娼婦はいい物を食べ、いい服を着て、汚れ仕事をしなくても済む。
もし誰も馴染みの男がいなければ……。実力で娼婦たちの頭を務めるニーナは例外的存在なのだ。
「あんたのせいだよ、アル」
思いがけない言葉だった。
アルがラコニカに何をしたというのか。
確かに命を助けたのは自分だ。だが、それが臥所のことにどう関係があるのか。
「何でラコニカがそんな風だと思う? 愛されたことがないからさ。
『男に抱かれて嬉しい』『気持ちいい』って一度も思ったことがないんだ、あの子は。
そんな女が、男を満足させる演技なんか出来るわけない。笑ったことがない人間は、笑うふりもできないのさ」
「そんなの、ぼ、僕に関係ないじゃないか!」
だが、ニーナは首を振った。
「あの子が知ってるのは、殴られたり、傷つけられたりすることだけ。あれが『悦び』だってことを知らない。
でもね、あんたがあの子を抱いてやれば片がつくことだよ。だって、あの子はあんたを……」
「そんなこと知らない! 知るもんか!」
アルは勢いよく立ち上がった。ニーナを睨みつけ、そして黙る。
周りの傭兵たちは、そんな二人のやり取りにも無関心だった。
食事を終えた者から、三々五々仕事に戻っていく。
「アル――」
なおも何かを言おうとするニーナを振り切るようにして、駆け出す。
アルはもう何も背負いたくなかった。何もかもが、彼の肩には重過ぎる。
ヒルダとの約束すら、背負いきれなかった。それなのに、ラコニカまで――
忘れようと、頭を何度も振る。それでもニーナの言葉だけは、いつまでも頭の中に響いていた。
やがて、出撃の時間が来た。
一人で武具を身につけたアルフレドは、馬を引いて集合場所へ向かう。
定時の偵察行は、日ごとに危険になっている。毎日、歯の抜けるように兵士が死んでいく。
フィレンツェ軍も死に物狂いで包囲網を破ろうとしているのだ。
アルが到着したとき、他の傭兵たちはもうほとんど集まっていた。
ある者は黙々と自分の装備を点検し、ある者は手持ち無沙汰に酒をあおっていた。
だが、ほとんどの兵士は、甲冑姿のまま女たちと最後の別れを交わしている。
妻であったり、馴染みの娼婦だったり、行きずりの女だったりと、その相手は様々だ。
ただ共通していたのは、男は自分が死んだとき、一瞬でもそれを悼んでくれる相手を求めている、ということだ。
それがたとえ行きずりの女であっても、自分が確かに生きていたことを憶えていてくれる人が欲しい。
だから、妻と夫も、一晩の恋人同士も、同じ熱っぽさで唇を重ね、抱き合う。
アルには、そんな人間はいない。
出撃の号令がかかるまで、馬上でただ待っている。
今日死んだとしても、それは無名の死なのだろう。それをアルは心地よく感じている。
だがアルは気づいていた。
人ごみから離れたところに、黙ってたたずむ少女がいることを。
いや、もうずっと前から彼女はそこにいた。アルが出撃するたびに、黙って彼を見送っていたのだ。
(――だから、僕はこうして――)
そんなアルフレドの思考は、コンスタンティノの号令で断ち切られた。
出撃だ。
3.
「……つまり、諸兄はこの計画に反対、というわけですな」
威厳を込めた大公の言葉を、列席した貴族たちは様々に受け止めた。
傲然と睨み返す者、気まずそうに目をそらす者、にやにや笑いでごまかす者……
だが、ジャンカルロ伯だけは全く平然としていた。
「計画に反対、というが、これはそもそも計画だろうか」
「どういう意味だね?」
挑発するような響きに、大公は僅かに眉を動かす。
会議は実質、この二人の対決の場になっていた。
「……我が国の都市十二箇所の要塞化、と仰られるが、どこから金が出るのか、どこから資材を得るのか。
それが知りたいと言っておるのです。艦隊のためにどれだけの金を借り入れたとお思いで?
まだ銀行に利息も払い終わっていないのに、艦隊は全滅。さらにその上に要塞ですと?
それだけではありません。ファリンドラの石切り場は、二年前採算が合わないと閉鎖したはず。
そこに人と資材を送って、再び石材を採掘するのにどれだけの時間と資金が要るか、検討もつかない」
「それは分かっている。だがな……船でほんの三日のところにトルコ海軍がいるのだ!
このまま手をこまねいて見ていろというのか? いい考えがあるというなら、はっきりと言って頂こうか!」
突然の大公の激昂に、会議室の空気すら揺らいだようだった。
「……相手はコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったトルコ軍です。俄仕立ての城壁など、何の役に立ちましょう。
わざわざ打ち壊されるために大金を注ぎ込んで要塞を建てるなど、無駄の局地でしょう」
ジャンカルロの言葉にも一理あった。
ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルは高さ十二メートルの三重壁で防衛され、難攻不落とされていた。
だが1453年、トルコのメフメト二世はハンガリーの技師に作らせた世界最大の巨砲でこれを打ち破った。
それに比べれば、モンテヴェルデの城壁など紙のようなものだ。
「もしトルコが攻め寄せたならば、いったん上陸させた上で我が騎兵をもって会戦を挑むべきだ。
トルコの騎兵は弱い。馬を船で運ぶのも難しい。僅かなトルコ騎兵を蹴散らせば、残る歩兵など踏み殺すのみ」
ジャンカルロの提案に、貴族たちもうなづく。
トルコよりモンテヴェルデが勝っている点があるとすれば、それは重騎兵の質だけだ。
確かに数万のトルコ陸軍と真正面から戦うことは難しい。だが海を渡ってきた僅かな水兵だけならば勝算はある。
とはいえ、貴族たちは勝ち目があるから「決戦」を望んでいるのではなかった。
「……長年我らが培った武芸、いまこそ使わなくてどうするのです。
それに、これならばもう無駄な金を使う必要もない。すでにそこに『ある』のですから。
大公陛下の艦隊のために、ここにおられる方々は多くの犠牲を払った。
領民を差し出し、重い負担に耐えた……もうこれ以上一スクードたりと無駄な金は払えませんな」
ジャンカルロの熱弁に、大公を除く全員がうなづいた。
つまり、貴族たちはもう自分の懐を痛めたくないのだ。
騎兵なら、すでに投資は済んでいる。余計な出費は必要ない、というわけだ。
「……諸兄のお気持ちはよく分かった。では、要塞の建築はいったん……っ」
そう言いかけて、大公は急に胸を押さえた。
体を折り曲げ、咳き込む。慌てて、小姓が水の入った杯を差し出す。
水を含むと、大公は背もたれに体を預け、ゆっくりと息を整えた。
「……失礼した。とりあえず、要塞の計画は延期としよう。
代わりに、ヴェネツィア海軍に一層の警戒を要請し、海の守りはこれを柱とする。よろしいか」
大公の裁定に、列席した一同が賛意を示した。
すでに、評議会の舵取りは大公の手を離れている。
それは誰もが――大公ですら――はっきりと悟っていた。
「では、今日の会議はここまで……この戦争はただの戦いではない。法王猊下によって『聖戦』と定められたのだ。
それを胸にしかと刻み、力を合せて乗り切ろうではないか」
大公の言葉も虚しかった。
何しろ、モンテヴェルデ以外に『聖戦』参加を表明した国は、まだ一つも無いのだから。
「大公も、追い詰められていますな」
評議会の後、ジャンカルロはサンフランチェスコのニコラ卿と、個室で酒を酌み交わしていた。
窓の外には穏やかなアドリア海が広がっている。
その彼方に敵の大軍がいるなど、信じられないほどの穏やかさだ。
「……まあ、仕方あるまい。平民どもを黙らせるために教皇庁の権威を借りたからな。
トルコに挑戦状を送るより他になかったのだろうよ」
大公マッシミリアーノは教皇庁の要請を受け、トルコのスルタン・メフメト二世に挑戦状を叩きつけていた。
だが、法王の呼びかけにも関わらず、ほとんどの国が言を左右して、聖戦参加を先送りしていた。
「ミラノは、ルドヴィーコ公の病気を理由に返事を渋っているそうですぞ。事実上の拒否でしょうな。
こうなると、五大国で回答していないのはヴェネツィアだけですが……」
「……ヴェネツィアは決して動かんよ。トルコとの密約があるからな」
すでにジャンカルロはヴェネツィアとトルコの密約も、自分たちの艦隊が裏切られたことも知っていた。
もちろんこの話は、大公には伏せたままだ。
この情報により、主な貴族は大公を見限っていた。それは即ち、ジャンカルロ側についたということだった。
これで、大公を追い落とす準備は整った。
あと一つ二つ失策が重なれば、評議会の全会一致でマッシミリアーノを玉座から引きずり降ろせる。
「しかし、大丈夫でしょうか」
ニコラ卿の不安げな顔が、ジャンカルロに向けられた。
自分の胸に湧き起こった疑念を晴らすように、一気に杯の酒をあおる。
「何が、だね?」
「もし本当にトルコが攻めてきたとしたら……我々は滅ぼされてしまうのでは?」
「確かに。まともに戦えば、我々の首はこの胴体と永遠の別れを告げねばならんだろうな」
首に手を当てながら、ジャンカルロは皮肉な笑みを浮かべた。
評議会で強気な発言を展開したとはいっても、彼もトルコ相手に勝てるなどとは思っていない。
せいぜい小競り合いで、僅かに相手を痛めつけるのが限界だと考えている。
「ま、攻めてきたとして、負け戦の責任をとるのはマッシミリアーノだ。
それにムスリムの教えというのは面白くてな。税さえ払えば、改宗する必要もなく領地も保たれるのだよ。
事実、コンスタンティノープルの攻め手には無数のキリスト教徒の領主がいたくらいだ」
「で、では異教徒の家臣になると?」
驚くニコラの顔を、ジャンカルロは面白そうに見つめ返す。
「そのとおり」
自分の杯を満たし、それを掲げてみせる。
「何か困ることがあるかね? 今はマッシミリアーノがいる。そこにスルタンが名目上取って代わるだけだ。
スルタンに忠誠を誓う、モンテヴェルデ大公ジャンカルロ陛下の誕生だよ。
――まあ、和平の材料としてマッシミリアーノの首は、スルタンに差し出すことになるだろうがね」
いたずらっぽく含み笑いをしながら、ジャンカルロは言葉を続ける。
「あるいはヒルデガルトをハーレムに差し出すかな。あの美貌だ、さぞいい貢ぎ物になるだろう」
「そ、そんなことをすれば法王猊下が黙っておられないでしょう!? 下手をすれば破門……」
思わず立ち上がるニコラに、ジャンカルロは首を傾げる。
平然と笑いながら、怯える男に尋ねた。
「彼がそんなに恐ろしいか? 法王が一体幾つの<コンパニア>を持っているというのだね」
4.
ステラがヒルデガルトの部屋に帰ったときには、もう日は傾きつつあった。
窓から差し込む光に、白い衣をまとったヒルダが浮かび上がるのを、ステラは見た。
乳白色の肌が夕日色に染まっている。
長いまつげの奥に潜む青い瞳は、そっと窓の外を見つめていた。
その彫像のような姿が、動いた。
「お帰りなさい。ご苦労さま」
微笑む姿は、女であるステラですら、かすかな欲望を掻き立てられずにはいられない。
そんな淫らな気持ちを隠して、静かに彼女に近づく。
「……ルカは、引き受けてくれました」
「そう。よかった」
そう言うと、一見無関心にヒルダは視線を窓の外に戻した。
隣に並んだステラも、同じ方向に目を向ける。
モンテヴェルデの城下町が広がっていた。
「見て、ステラ」
ヒルダがそっと指差す方を見る。
五指城の門から町へと下ったところにある、小さな広場に黒々とした行列が出来ていた。
先頭にいく黒ずくめの男は、長い竿の先に縛り付けた十字架を高々と掲げている。
その後ろに続くのは、この世のありとあらゆる種類の人々だった。
太った中年の男、まだ幼い少女、枯れ木のような老婆。五体満足な者も、足や腕を失った者もいる。
病人も健康な者も、男も女も混じった一団。
『悔い改めよ! 神の裁きは近い! 海の向こうから黙示録の獣が来るぞ! 悔い改めよ!』
その言葉だけを繰り返しながら、ゆっくりと町を行進していく。
自ら打ちつける鞭のせいで、誰の衣服もざっくりと背中が裂けており、そこから血が流れていた。
「鞭打ち教団よ。先頭にいる修道士は、フェラーラのジロラモというのだって」
ヒルダの言い方からは何の感情も読み取れなかった。
けれど、決して好意的ではない。そうステラは直感していた。
すれ違う町の人々の態度は二つに区別できた。
胡散臭げに見送るか、あるいは行列にひれ伏し、そこに加わるか。
そうやって行列は時を経るごとに長く、長くなっていく。
『悔い改めよ! 海の向こうから黙示録の獣が来るぞ!』
次第に遠ざかっていく教団の行列を見送ってから、ヒルダはそっとよろい戸を下ろした。
「あの人たちをどう思う?」
「どう、と言われても……」
ステラが答えに困っていると、彼女の顔にヒルダはそっと手を添えた。
目と目が合う。
「あの人たちは、絶望しているの。だんだん悪くなっていくこの世の中にね。
それを救うのは聖職者の役目、と神さまは仰っているけれど……本当にそうなのかしら。
私たちが成すべきことを成し遂げれば、神さまのお手を煩わすことなんて、ないのじゃないかしら」
沈痛な告白に、ステラは答えられなかった。
ただ、主人の手にそっと自分の手を重ねるのが精一杯だった。
飢え、疫病、重税、そして戦争。貴族がもたらすものは、庇護ではなく苦しみだけ。
失政を救うために神はいるのだろうか?
「……今、騎士ベルトランドがいてくれたら、どんなに良いでしょうね」
ステラの無垢な願いは、ヒルダの荒んだ心を癒した。
けれど、ヒルダはもう無垢ではいられない。
「そうね……でも時代が違うわ」
騎士ベルトランドは、モンテヴェルデ建国の英雄の一人である。
初代の王に仕えたベルトランドは、生まれたばかりのこの国を勇敢に守った。
しかしある時、その成功を妬む敵対者によって無実の罪を着せられ、国外に追放されてしまう。
彼が追放されて十年、初代の王が死ぬと国は乱れ、さらに領土を狙って侵略者が国境に迫った。
そのとき、ベルトランドが帰ってきた。
彼の下には、彼の徳に惹かれた百人の勇士も集っていた。
たちまち戦乱を鎮めたベルトランドだったが、王になって欲しいという人々の求めには応えなかった。
「私は国の裁きに逆らい、ここに戻った。それは罪だ。罪を犯した者は王にはなれない」と言って。
裏切られても決して祖国を見捨てず、最後まで法に従った彼は、モンテヴェルデ一の英雄である。
国を愛する心と国法の正しさを訴えるとき、必ず上がる名前でもある。
――アルフレドなら、戻ってくるかしら。
ヒルダは伝説の騎士の名を口にするたび、自分の従弟ならば、と思う。
彼なら帰ってきてくれるだろうか。裏切られた祖国のために。
――私のために。
そんな想像を追い払うようにヒルダは首を振る。
――駄目ね。私はまだ誰かに頼ろうとしている……。
「建国の父たちは、私たちのとる道を指し示してはくれるけれど、すがってはいけない。
私たちに出来るのは、彼らのように立派に生きようと努めることだけ。そのときは彼らも応えてくれるでしょう。
とにかく、まずはルカに託した手紙の返事を待ちましょう……」
そう言ってから、ヒルダはまたため息をついた。
何というもどかしさだろう。
ベルトランドは放浪のうちに培った知識によって、敵を散々に打ち破ったという。
ところが今の自分たちはどうだ。自分の国のことすら、他国人に手紙で尋ねる有様だ。
不甲斐なさに、ヒルダは知らず知らず唇を噛み締めていた。
「きっと、この国自体が牢獄なんだわ。この城がそうであるように」
自分に言い聞かせるようにヒルダは呟く。
「掟とか伝説とか、そんなものばかり有り難がって。国の外で起こっていることなど、今では気にも留めない。
嫌なものを見まいとして、自分で目を潰してしまった愚かな盲人……」
「……でも、盲人は耳と手で多くを知ることが出来るし、杖を使って目明きのように歩くことも出来ます」
そのとき、ヒルダはステラの悲しそうな瞳に気がついた。
また、愚痴をこぼしてしまった。
(お父さま、お母さま、ごめんなさい)
亡き父母に詫びつつ、ステラを励ますよう精一杯の笑みを浮かべる。
だが、仮初めの笑顔を向けてもステラは笑わなかった。
ためらいがちに口を開き、再び閉じる。所在無げに手を組んでは開く。そんなことを繰り返している。
様子がおかしいことにヒルダもようやく気づいた。
「姫さま。実は先ほど、早馬で知らせが届きました」
重々しい響き。
「……トルコ軍が、上陸したそうです」
(続く)