1.
その朝、アルフレドはいつものように仕事を片付け、麦粥を啜っていた。
(最期の食事がこれじゃ、やり切れないな)
そんなことを思い、歯に当たる麦の殻を吐き出しながら黙々と朝食を片付けていく。
すると、近づいてくる軽快な足音が聞こえた。
コンスタンティノだった。
彼が傭兵たちの朝食の場に現れるのは珍しい。
「アル。今日、午後から付き合え」
挨拶も何もなしに、彼はそう切り出した。食事の手を止め、アルは顔を上げる。
「……何事です?」
「あるお偉いさんを昼食に招待したんだ。だから、ある程度作法を知っていて、話が分かる奴が欲しい」
「ああ……なるほど。でも、僕、行儀作法とかそういうのは得意じゃ……」
コンスタンティノは笑って首を振る。細かいことはどうでもいいらしい。
「単なる俺のお供だ、難しく考えるな。それにしても……汚いな、お前。後で俺の宿舎に来い。
とりあえず風呂に入れ。それから小ましな服を貸してやる」
アルは申し訳なさそうに頭をかく。
金がないので、服を新調するどころか、風呂にもなかなか入れない。
アルの様子に微笑むと、コンスタンティノはくるりと背を向ける。
思い出したように、アルが声をかけた。
「あの、ところで『お偉いさん』って、誰です?」
立ち止まったコンスタンティノは、振り返って叫ぶ。
「俺たちの雇い主さ。ウルビーノ公フェデリーコと、ナポリ皇太子アルフォンソ公だ!」
思わずアルは皿を取り落としそうになった。
どちらも、イタリアを代表する大貴族である。
そんなやりとりがあった、午後。
アルフレドは軽く緊張しながら、二人の賓客を迎えていた。
村はずれの広場に長いテーブルが並べられ、その上には皿や杯が並んでいる。
一つにつき、十人が楽に食事できる卓が十脚以上。全ての席が人で埋まっている。
だがその中で『狂暴騎士団』に属するのはアルとコンスタンティノだけ。
残りは全て、ウルビーノとナポリの宮廷に属する人々だった。
全員を見渡せる場所に置かれたテーブルに、二人の賓客とコンスタンティノ、アルが着席する。
皆の注目を浴びる人物こそ、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ。
そしてナポリ皇太子にしてカラブリア大公、アルフォンソ・ダラゴーナだった。
「さて諸君!」
杯を片手に、フェデリーコは立ち上がった。
すでに老年といっていい人物だが、その体はがっしりとしており、しかもその仕草は機敏だった。
家臣たちの目を集めたところで、彼は周囲を見渡し、それから言った。
「Eccoci,in pace! (ご覧、のどかだ!)」
一斉に家臣たちが笑う。
確かに、平原のあちらこちらには早咲きの花が見え、風は穏やかだ。
だが、何故皆が笑ったのか分からず、アルはきょとんとしている。
フェデリーコが続ける。
「諸君。まずは無数の言葉より、一杯の酒を干そうではないか。
共に労苦を分かち合ったカラブリア人と、我らマルケ人の変わらぬ友情を願って。
そしてとりわけ、友情を育む機会を作ってくださった……法王猊下に!」
『法王猊下に!』
一段と大きな笑いとともに、一斉に杯が飲み干された。
いたるところで、異なる紋章をつけた男たちが、互いに労をねぎらい肩を叩き合っている。
そのとき、初めてアルには先ほどの言葉の意味が判った。
“In pace”とは「平和だ」という意味もある。
「……コンスタンティノ、もしかして」
杯に口をつけることも忘れ、アルは隣の上官に声をかける。
コンスタンティノは、酒を飲み干してから意外そうな顔をした。
「知らなかったのか? 戦争は終わったんだ」
そう言って、小姓にもう一杯のワインを頼む。
如才なくフェデリーコに愛想笑いを浮かべるコンスタンティノ。
その傍らで、アルは言葉を失ったまま自分の杯を見つめていた。
「……言葉が過ぎますよ、フェデリーコ陛下」
笑わなかったのはアルフレドだけではなかった。
皆が着席すると、眉をひそめたカラブリア公アルフォンソが、そう言ってフェデリーコを咎めた。
だが、その礼儀正しい抗議にも、フェデリーコはちょっと片目をつぶって見せるだけだった。
そのとき初めて、アルはフェデリーコが隻眼――右の目を失っていることに気づいた。
「なに、ちょっと皆の意見を代弁してみせただけだよ。何しろよく分からぬまま戦に駆り出され……
こちらには一言もなく、今度は今まで刃を交えた奴らとともにトルコと戦え、と来てはなァ」
そう言うとフェデリーコは肩を揺すって笑った。
隻眼、鷲鼻、がっしりとした額と顎を持った彼が笑うと、それは人というより獣のようだった。
「それについては、ロレンツォ・ディ・メディチの手腕を称えるべきでしょう。侮れぬ奴です」
対照的に、アルフォンソは穏やかな笑みを浮かべた。
立派な口ひげをちょっと指でしごき、同意を求めるように首を傾ける。
「ロレンツォが、殿下のお父上と直接膝を交えて話し合ったと聞きましたが?」
コンスタンティノの言葉に、アルフォンソとフェデリーコは同時にうなづいた。
和平にいたる道は、一編の冒険譚の如きものだった。
なんと、フィレンツェのロレンツォは敵であるナポリ王の宮廷に単身赴き、和平交渉を行ったというのだ。
アルフォンソの父、ナポリ王フェッランテは気難しく、冷酷な性格で知られている。
二年にも渡って戦い続け、フィレンツェを破滅寸前まで追い込んだのも、彼の戦意が堅固だったが故だ。
ロレンツォが一つ対応を間違えれば、命は無かっただろう。
だが、ロレンツォの豪胆さに度肝を抜かれた王は、和平交渉の席に着くことに同意したのだった。
もちろん、ロレンツォの決死の試みだけが、この和平をもたらしたわけではない。
ロレンツォは銀行業でたくわえた莫大な富と、その外交手腕を惜しみなく生存のために使った。
まず、唯一の同盟国であるミラノ公国に和平の仲介を求めた。
こうしてミラノ公ルドヴィーコの娘、イッポリタ・マリアがナポリとフィレンツェの仲介を買って出た。
何しろ彼女は皇太子アルフォンソの妻で――しかもアルフォンソは恐妻家だった。
ロレンツォはそんな夫婦関係まで考慮して、彼女に白羽の矢を立てたのだ。
また、大金がフィレンツェからフランス王の宮廷へと流れたという噂が立った。
噂を裏付けるように、二月前、突如フランス王はマルセイユにあった国王艦隊をイタリアに向け出発させた。
ナポリに軍事的圧力をかけるのが目的なのは明らかだった。
そして同じことが、トルコのスルタンにもなされたという。
「いまやアドリア海には、アクメト・ジェイディクの艦隊が遊弋しています。
しかも我がナポリ領オートラントからわずか三十ミリア(約五十五キロ)のところにですよ!」
頭を振りながら、アルフォンソは大げさに嘆いて見せた。
二つの大国に東西から圧力をかけられ、皇太子の妻からの口添えがあっては、ナポリ王も折れるしかない。
こうして、ついに二年にも及ぶ教皇・ナポリ同盟とフィレンツェの戦争は終わった。
約一ヶ月前、三月十三日のことだった。
2.
「それで……トルコ軍はどうなりましたか?」
胸の前で手を組みながら、ステラはためらいがちに聞いた。
「トレミティ諸島を押さえたあとは、偵察船を出す程度で、これ以上攻めて来る気配はないって。
数も軍船十隻、千人程だというから、おそらくこちらの様子を探るのが目的なのでしょうけど……」
トルコ軍の動きが活発でないと聞いて、ステラは胸を撫で下ろす。
だが、ヒルデガルトの顔は暗い。
「……市長を含め、二百人の市民が殺されたそうよ」
そういって、彼女は手に持っていた書簡を机の上に伏せた。今朝届いたばかりのものだ。
陥落した町に降りかかる運命はいつも同じ。それがトルコの手によるものでも、教皇軍のものでも違いはない。
しかし、頭で分かっていても、納得出来るものではない。
「それで……大公陛下はどのように?」
気持ちを切り替えるように、はきはきとした声でステラは言った。
それでもヒルダの沈んだ様子は変わらない。
「直参の兵に出陣の準備をするよう命じられたわ。早晩、諸侯の軍も招集されるでしょう。
それに、ほとんどの商船は軍が借り上げるとか。ヴェネツィア行きの船も、ターラント行きの船も、全て」
「……では、ルカに一日も早く発つよう、明日にでも伝えます」
聡明なステラに、初めてヒルダの表情が緩む。
「ありがとう。では、彼にこれを渡して」
その手にあるのは、彼女のサインが入った渡航許可証。
公国の伝令が他国に赴くときに支給されるもので、大公の伝令船に乗船することが出来る。
ジャンカルロに察知される可能性もあったが、背に腹は変えられない。
民間の船は当分無いし、時間のかかる陸路など最初から問題外だった。
トルコが攻撃したのは、アドリア海に浮かぶトレミティ諸島。
本土からたった二十キロしか離れていない、小さな島々だった。
サン・ドミノ、サン・ニコラ、カプラーラの三つの島から成り、人口は千五百人ほど。
大公の直轄地ではなく、住民のほとんどは漁師という、経済的にも戦略的にもほとんど価値の無い所だ。
だが封建領主の務めとして、大公は家臣の領地を守る義務がある。
だからこそ、トレミティの領主が大公の出陣を求めたとき、彼は断るすべを持っていなかったのだ。
窓から中庭を見下ろせば、城の兵士たちは黙々と戦の準備を整えている。
馬に新しい蹄鉄を履かせる者、鍛冶場で武器を研ぎ直す者。弓の張りを確かめる者。
だが誰もが思いつめたような顔をしている。
「姫さま……平気ですよね? まさか異教徒がこの町に襲ってくるなんてこと、ありませんよね?」
ステラの問いかけにヒルダは答えを持たなかった。
少なくとも、イタリアのどこを見渡しても、モンテヴェルデと肩を並べ、トルコと戦おうという国はいない。
フィレンツェやミラノは動かず、ナポリは自国の防衛だけを考え――ヴェネツィアは裏切った。
一つだけ確かなことがあるとすれば、この国は余りに価値が無いということだ。
イタリア諸国にとって守る価値もなければ、トルコにとって襲う価値もない。多分。
「大丈夫よ、きっと」
自分に言い聞かせるようにヒルダは呟く。
そして、彼女を残して自室を後にした。この後に大事な謁見が控えているのだ。
最後まで、ステラと目を合わせることは出来なかった。
――謁見の間には、冷たい空気が流れていた。
その人物を迎えるときはいつものことだったが、今日は特別だった。
何より、普段は柔和なヒルデガルト自身が冷ややかな視線でその人物を見据えていた。
その人物とは、ヴェネツィア共和国の大使だった。
「つまり、ヴェネツィアは今回の出兵には協力できない、と?」
ヒルダの隣に座ったマッシミリアーノは、苛立た口調で尋ねた。
懸案は、トレミティ諸島への出兵に対し、ヴェネツィアが兵の輸送その他で協力するか否かである。
大使はいかにも辛そうに顔をゆがめて見せた。
「残念ながら、トルコ艦隊の主力は未だヴァローナにあり、その数は九十隻以上です。
それゆえ、我らの艦隊もスパラート港に待機せざるを得ず……」
そう言って頭を下げるが、それが真実でないことをこの場にいる多くの人間が知っていた。
「たった数隻の護衛も出せない。それがお答えならば、私たちの友情はどこにいってしまったのでしょう」
ヒルダが問い詰めても、大使は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
丸腰の輸送船団を敵地に送り込むのはいかにも危険が多い。
わずかであれ護衛の軍船がいれば、その危険は大幅に減るのだ。
だが、ヴェネツィア大使はいつもと同じく、強硬だった。
「お言葉ですが、そもそもモンテヴェルデの軍船がトルコを攻撃しなければ……」
そう言いかけた大使は、怒りを含んだマッシミリアーノの目を見て口をつぐんだ。
公にはモンテヴェルデ艦隊が勝手にトルコ艦隊を攻撃し、結果として彼らを挑発したことになっている。
頭から信じる者はもうほとんどいないが、建前は建前として厳然とそこにあった。
「話を変えよう。先日立ち消えになった融資の話だが……」
言いかけて、大公は一つ咳をした。
失礼、と呟いて、ヴェネツィア大使の方に向き直る。
「……どうして急に?」
言い終わると、マッシミリアーノはため息を漏らした。
謁見の間にいる全てのモンテヴェルデ人が、一斉に釈明を求めて目を向けた。
「政府の方で、一つ一つの融資について把握いるわけではありませんが……
現在戦争に備え、外国への融資は抑制するよう元老院の通達が出ておりますから、そのせいではないかと」
「しかし、我が国は先日の艦隊購入費についても、一日の遅れもなく返済しています。
我々が融資の対象から漏れる理由はないはずです」
そう答えるヒルダに、家臣たちは苛立ちを込めて見つめる。
どうも、最近この小娘は口を挟みすぎる、と。
だがヒルダを咎めることができる人間はいなかった。
いるとすれば大公マッシミリアーノだが、彼は黙ったままだ。
「融資の判断は、現在の状態はもとより、将来の支払いの可能性についても考慮します。御存知でしょうが」
大使といっても、彼もまた商人の国ヴェネツィアの人間だ。
つけ焼き刃のヒルダの抗弁など、児戯に等しかった。
「モンテヴェルデの国庫収支は、今後も悪化する可能性があります」
「つまり、ヴェネツィアの方々は我々への融資を危険と判断しているわけですね?」
「申し上げにくいことではありますが……」
大使に向けられるヒルデガルトの眼差しが敵意に満ちたものに変わった。
つまり、ヴェネツィアはモンテヴェルデが戦争に負けると考えているわけだ。
――だが、それは、一重に彼らが援軍も資金も寄越さないからではないか!
「今後の戦局次第でしょう、遺憾ながら――」
そう言って大使は列席した貴族たちを見回した。
「陸に上がった敵について、ヴェネツィアはいかなる義務も負っておりませんゆえ」
トレミティ諸島に上がった敵を自力で撃退して見せろ、そうでない限り何もしない。
大使の言いたいことは明らかだった。
実際は、トルコとの密約によりいかなる援助も約束してはならない、と本国から指示されていたのだが。
「では、ヴェネツィアの方々にご覧入れましょう」
玉座から立ち上がりながら、ヒルダは言い放つ。
薄絹のレースが光を弾いて、幾重もの輪を描いた。
「モンテヴェルデ騎士の勇敢さを。我が旗の下に弱卒なし、と……」
優雅な笑みを浮かべながら、ヒルダはマッシミリアーノに振り向く。
そこで、彼女は大公の異変に気づいた。
両手は力なく垂れ下がり、頭を傾げたまま、人形のように固まっている。
「……陛下?」
ヒルダの声が広間に響く。
動揺の波が広がり、家臣が騒ぎ出す。
ヒルダは大公の肩を掴み、力一杯揺さぶった。小姓たちが玉座に駆け寄ってくる。
「陛下? 陛下っ……!」
3.
「……つまり問題は、シクストゥス四世の日和見だ」
何杯目かのワインを飲み干し、ウルビーノ公フェデリーコは呻いた。
「ジョヴァンニにも奴を止めるよう言っておるのだがな。あの成り上がりは一族のためなら恥も忘れる」
ジョヴァンニとは教皇シクストゥス四世の甥で、フェデリーコの娘婿。
教皇庁ローマ長官と、ウルビーノ領セニガッリアの領主の肩書きを持つ人物だ。
「それがローマです」
コンスタンティノは曖昧に同意した。
今の教皇は貧しい漁師の家の生まれだった。
フランチェスコ会修道士から修道会のイタリア管区長、総長、そして枢機卿を経て教皇に選ばれた。
陰謀と裏切り、暗殺が蔓延した教皇庁にあって、こういう人物が信頼するのは身内だけだ。
その結果、教皇庁の要職の多くを、シクストゥス四世の一族デッラ・ロヴェーレ家が占めている。
「だからこそ、フィレンツェで政変が起こると、喜んで戦争を吹っかけた。メディチ家を追い落とせると思ったんだろう。
そして、負けそうになると今度はトルコと戦えと言い出す。そんな奴だ、あいつは」
ひとしきり愚痴ったあと、フェデリーコは席に深く腰掛けた。
ウルビーノ公国は形式上教皇に臣従している。教皇庁に振り回されるのも一度や二度ではない。
「『聖戦の参加』については、どう答えたのです」
皇太子アルフォンソの目がわずかに光ったようだった。
その言葉に、フェデリーコもにやりと口をゆがめて見せる。
「いくら酒に酔っても、そんな重大な外交上の秘密は漏らせんよ……いや、冗談だ。
とりあえず今は余裕が無いと答えておいた。まずはスルタンと交渉すべきだ、ともな。
まったく、あの男にこの言葉を聞かせてやりたいよ。
『これまで刃を交えあった宗教の間にも、ある実現可能な妥協点は見出し得る』」
「クザーヌスですか」
「わずか半世紀前の言葉だぞ……『人間は退化している』という教父たちの言葉は正しいのだろう」
「おい、クザーヌスってなんだ」
コンスタンティノは、隣のアルフレドを肘で突いた。
「え、は、な、なんですかっ!?」
不意をつかれ、アルは思わず大声を上げる。食卓の視線が、一気に彼に集まった。
二人の大公は驚きで目を丸くし、コンスタンティノは額を抑えている。
アルは、目の前の食事に集中し切って、全く話を聞いていなかったのだ。
それは今日の食事が豪勢だということには余り関係が無い。
確かに、新鮮な子羊肉のローストに、猪のハムを沿えた主菜はもう何ヶ月も拝んでいないご馳走だ。
しかしそれよりもアルは、「フォーク」の扱いにかかりきりだったのだ。
イタリアの北部では、この道具が食事に使われるということは、アルフレドも知っていた。
しかしモンテヴェルデの貴族たちはそれを「気取った、馬鹿らしい習慣」を軽蔑していた。
食事とは手で食べるものだ、と。
だから、コンスタンティノに今日は「フォーク」を使うよう言われたときは、絶望的な気分になった。
悪戦苦闘しながらでは、料理の味すらよく分からない。ましてや食卓の会話に混じるなど不可能だった。
あちこちにソースを飛ばし、ひどい惨状を示しているアルの皿を見て、大公たちは全てを理解したようだった。
アルフォンソが静かに立ち上がり、アルフレドの後ろに立った。
そして、そっとアルの手に自分の手を添えると、「フォーク」の使い方を教え始めた。
「……そう、力は込めず上から……はい左手にはナイフを持って。1、2、1、2」
簡単だろう、とでも言うようにアルフォンソは目を細める。
未来のナポリ王直々に食事の作法を習い、アルは顔から火が出そうだった。
「……で、何の話だったかな」
アルフォンソが席に戻ったところで、声を立てずに笑っていたフェデリーコは、ようやく笑顔を引っ込めた。
「法王猊下の聖戦思想とニコラス・クザーヌスの思想について、ですよ」
アルフォンソの言葉に、フェデリーコはそうだった、とうなづく。
フェデリーコは高名な傭兵隊長であり、名将として知られる君主だ。
だがその一方で知識を愛し、無数の賢者を宮廷に集めている。自身も一流の学者であった。
「彼が『De pace fidei(信仰の平和)』を書き上げたのは、東方教会との交渉の帰途であったという。
さらに欧州がオスマン・トルコの軍事的脅威にさらされた時代……まさに今と同じ状況だというのになァ」
「クザーヌスってのは、偉いのか」
コンスタンティノが再び小声で尋ねる。こういう時のためにアルを同席させたのだった。
アルも今度は大声をたてなかった。
「ニコラス・クザーヌス、『教皇のヘラクレス』と呼ばれた人物です。
歴代の教皇に仕え、東西教会の合同に力を尽くしました。『信仰の平和』は彼の書いた本の一冊です」
分かったのか、分からなかったのか、コンスタンティノはその説明に曖昧にうなづいている。
そのやり取りをフェデリーコは見逃さなかった。
「クザーヌスを読んだことがあるのかね?」
質問の相手が自分だと気づいて、アルははっと居住まいを正した。
いかめしい顔が、こちらをじっと見ている。
「……いくつか拾い読みした程度です。城の図書室は、あまり豊かではありませんでしたから」
「アルフレド、モンテヴェルデの出身だったな? 城の騎士だったのか?」
「いえ、騎士見習いでした」
騎士見習いで本を読むとは珍しい、とフェデリーコは笑った。
文武両道のフェデリーコが変わっているのであって、多くの騎士は文盲に近い。
「ではモンテヴェルデには、あれはあるかね。レオン・バッティスタ・アルベルティの……」
陛下、とアルフォンソが諌めるより、アルフレドが答える方が早かった。
「……『De re aedificatoria(建築について)』ですか」
先回りされ、フェデリーコはぱっと目を輝かす。
「あるのか!?」
腰を浮かせて尋ねるフェデリーコに、アルは申し訳なさそうに首を振った。
「残念ながら、噂で聞いたのみです。陛下の図書館に無いものが、どうして我が国にありましょう」
「うーむ……そうか。いや、何年も前からフェラーラ公に筆写を頼んでいるのだがな。なかなか返事がない」
活版印刷は既に発明されているものの、未だに本の大部分は筆写によって複製されていた。
それゆえ、大貴族であってもなかなか望みの本を手に入れることは出来ない。
今、フェデリーコが夢中で探しているのが、アルベルティの『建築について』だった。
ちなみにウルビーノの宮殿にある図書室は欧州一との評判が高い。
「今度、我が宮殿の図書室をウィトルウィウスの図版で飾らせようと思うのだ」
フェデリーコは、そう言って相貌を崩した。
「ウィトルウィウスが図版を残していたとは初耳です。そんな貴重な写本をどこで……」
アルが尋ねると、ウルビーノ公は同好の士を見つけた、とばかりに歯を見せて笑った。
「シエナから来た二人の建築家が、彼の書物の記述から素描に起こしたのだ」
「なるほど、彼の『De Architectura(建築論)』には一点の図版も残されていませんからね。
しかも、ザンクト・ガレン修道院のものが正本とされていますが、写本によって記述が違ったりする」
「そうだ。異なるシュムメトリア(比率)が記載されている。ゆえに古代の知恵を完全に再現することはできない。
その点、アルベルティは異なる手段で古代の建築理論を再構成したと聞くが」
「現存するいくつかのローマ人の遺構を調査し、ウィトルウィウスと比較することで、新たな比率を確定したそうです。
さらに、建築は人体の比例に基づくべきだとも。それにより、理想の建築は五つの配置に整理出来る……」
「ミクロコスモス(小宇宙)論か。我が親友、ピエロ・デッラ・フランチェスカが喜びそうだなァ。
何にしろ、ますます読みたくなった。古代人に匹敵する著作を、現代イタリア人が著すとはな!
それにしても、本当はお前、アルベルティを読んだことがあるのではないか?」
フェデリーコは意地悪そうに言った。
そこで初めて、アルフレドは会話に夢中になっていたことに気がつき、そっと頭を掻いた。
「建築には、詳しいのかな?」
そのとき、今まで二人の会話を見守っていたアルフォンソが口を挟んできた。
突然の質問に、アルは戸惑う。
「いえ……先ほども申し上げたように、城の図書室はあまり豊かではなく……
建築についても、旅の学僧から一晩講義を受けた以外は、ほとんど独学です」
「他にはどのような本を?」
アルはちょっと首をひねって、今まで読んだ本を思い出そうとする。
そのとき、ずいぶん長い間文字から遠ざかっていたことに気づき、僅かに寂しさを感じた。
「……まずルッジェーロ・バコーネ(ロジャー・ベーコン)の経験論を彼の神学と共に学びました。
それから、ペトロス・ペレグリヌスの『De Magnete(磁石について)』。
古代の賢人ではヴェゲティウス。近年の著作では、リーミニのヴァルトゥリオやフォンターナ……」
アルがいくつかの名前を挙げたところで、アルフォンソは少し考え込むような様子を見せた。
アルとコンスタンティノはそんな彼を見守り、フェデリーコは何かを悟ったような顔をしていた。
「アルフレド、私の国に来い」
突然の申し出に、アルはうろたえる。
「な、何故です?」
一瞬真剣な目をしたアルフォンソは、すぐに彼らしい柔和な顔に戻って言った。
「ナポリは、今多くの建築や工学の専門家を求めている。何しろトルコとフランスの脅威が迫っているからね。
要塞、砦、塔に城門……早急になすべき仕事は多く、人材は余りに足りない。だから――」
「ま、待ってください」
ナポリ皇太子に反論するなど、普段のアルには出来ないことだったが、今は違った。
何か、とんでもない重荷が自分に背負わされようとしているのを、感じたのだ。
「僕は建築の専門家でも何でもありません!」
「そうかな?」
必死の抗弁も、アルフォンソに軽くあしらわれた。
「我がウルビーノの宮廷からも、何人かの建築家や工学者を派遣している。だが何しろナポリは広い」
フェデリーコが初めて口を挟んだ。
「その通り。君には失礼だが、『素人よりはまし』でも喉から手が出るほど欲しいのだ。
何しろ石工が図面どおり壁をこしらえたか、それすら分からない人間ばかりだからな。我が家臣たちは」
アルフォンソが、周囲の家臣に聞こえないようにささやき、素早く片目をつぶって見せた。
「……頼む」
アルフォンソが頭を下げ――ついにアルフレドは折れた。
かつて貴族の末席に並んでいた記憶が、これ以上の無礼を許さなかったのだ。
「あの、殿下。申し上げますが、アルフレドはまだ我が部下で……」
借金もあります、コンスタンティノがそう言いかけたとき、アルフォンソは分かっている、とうなづいた。
「さて、そこでだ。『狂暴騎士団』を我が国で雇おうじゃないか。アルフレドのみを雇ったのでは筋が通らない。
それに、要塞だけ建てて、守るべき兵がいなくては話にならないからな」
「で、殿下!」
その瞬間、コンスタンティノは跳び上がらんばかりに喜んだ。
そして、深々と頭を下げる。
「何を白々しいことを。今日食事に招いたのがなんのためか、我々が気づいてないとでも思っているのか?」
フェデリーコの言葉に、アルフレドは初めて今日の会食の意味に気づいた。
戦争が終われば解雇されるのが傭兵の常。つまり新たな売り込みの場だったのだ。
「ま、どちらにしろ今日はお互い得るべきものが多かった! そうじゃないかね、諸君?」
フェデリーコは大笑し、三人もそれに倣った。
同席者の反応に満足そうにうなづくと、彼は小姓に新しい酒を持ってくるよう命じた。
――午後の会食が終わり、村に静けさが戻った。
今後の予定を打ち合わせ、大まかな契約内容を決め、二人の大公を見送ると、既に日は沈んでいた。
『予想外だったが、お前に助けられたな』
そんなコンスタンティノの言葉を噛み締めながら、アルは自分の寝床である厩に帰る。
ようやく『狂暴騎士団』の役にたてたのだろうか。明日のパンを稼ぐことが出来たのだろうか。
(いや……単なる偶然だ。今日は幸運の女神の前髪を掴めただけだ)
アルはそう自分に言い聞かせる。
厩の前まで来たとき、アルは建物の前に小さな人影がたたずんでいるのに気がついた。
ラコニカだった。
冷たい夜風に吹かれながら、身動き一つせず立っている。
黙ったまま、アルは近づく。
「……どこに、行ってたんですか」
泣き出しそうな声でアルを責める。
思いがけない態度に、アルは胸が詰まった。
「馬は繋いだままだし、他の人に聞いても今日は見てないって言うし……」
確かに、今日アルが会食に出たことを知っているのはコンスタンティノだけだった。
もちろん、大公たちがいる場に売春婦が顔を出せるわけもない。
だが、アルフレドは返事をしなかった。
その代わりに、そばを通り過ぎざま、一つの言葉を口にする。
「戦争、終わったそうだよ」
「え?」
ラコニカは息を呑んだ。
ゆっくりと噛み締めるように々言葉を自分の口で繰り返し、アルの顔を見る。
「終わった……」
アルは黙ってうなづく。
その瞬間、言いようのない怒りが彼の体を貫いた。
和平が結ばれたのは、一ヶ月も前。それは、ラコニカの村が襲われる前のことだ。
つまり、あの村は焼かれる必要など無かったのだ。もちろん、ラコニカが汚されることも――
いまさら終わったと言われても、喜ぶことなど出来ない。
「……じゃあ」
ラコニカの言葉に、アルは目をつぶる。
戦争が終わったとしても、もはや彼女は村に帰ることも、傭兵団を離れることも出来ない。
ならばせめて、ラコニカの怒りを受け止めることが自分の役目ではないか。
どんなに理不尽でもいい。どんなに侮辱されてもいい。
少しでも気が晴れるなら、彼女のどんな振る舞いも許そう。
アルフレドはそう決心する。
「じゃあ……もう、いいんですね」
震えるラコニカの声に、ぐっと歯を噛み締め、待つ。
「もう……」
顔を上げることが出来ない。今ラコニカの顔を見て、逃げ出さない自信が無かった。
「もう……アルフレドさん、戦わなくていいんですね……?」
「…………えっ」
思いがけない言葉にアルフレドは身を翻した。
ラコニカの笑顔が、飛び込んできた。
「戦わなくていいんですね? もう、死んじゃったりしないんですね?
もう……もう私、心配しなくていいんですね? アルフレドさんが死んじゃう……死んじゃうじゃないかって……
そんな風に思いながら、待ってなくて、い、いいんです……ね?」
笑顔が崩れた。
溢れる涙が丸い頬を伝って、ぽつりぽつりと地面に落ちる。
堪えきれなくなったように、ラコニカはアルフレドに抱きついた。
アルの胸に顔を埋め、背中をぎゅっと両腕で抱きしめる。
「ラコニカ……」
「わ、私……わたし…………わたしっ……!」
そこから後は言葉にならなかった。
大粒の涙は、アルの服を濡らし、温かい染みを作っていく。
いつの間にか、アルフレドも両腕をラコニカに絡めていた。
応えるように、ラコニカはその腕にさらに力を込める。
――そして、いつまでも二人の影は一つに寄り添っていた。
(続く)