少年が、泣いていた。  
その足元には、取り落とした木剣が転がっている。  
目の前には、少年よりわずかに背の高い少女が、同じような木剣を手に立っていた。  
『……いいかげんに、泣き止みなさい』  
少女は、その幼い風貌はからは想像できないような威厳に満ちた声で、少年に言う。  
その声に驚いたのか、涙を拭っていた手の隙間から、ちらり、と少女を見た。  
燃えるような瞳で、自分を睨みつける少女。  
そのあまりの形相に、少年はまた泣き出してしまう。  
『もうっ、それでも男?』  
苛立ちを含んだ少女の声が、城の中庭に響き渡る。  
少年のひたいには、たった今少女がつけた傷がはっきりと残っていた。  
薄い皮膚が破れ、じわじわと血がにじんでいる。  
『……こんな怪我、戦場じゃかすり傷だって、お父さまもおっしゃってたわ。  
アルフレド、さあ、もう一度剣をとって!』  
そう言うと、少女は少年の足元に転がった剣をひろい、強引に少年に持たせようとする。  
だが、アルフレドと呼ばれた少年は、そんな言葉も耳に入らないようだった。  
 
『無駄だ、むだ』  
後ろから、からかうような声がして、少女ははっと振り向いた。  
数人の男が、嘲りを顔に浮かべて、二人に近づいてくる。  
『所詮、大公陛下のご子息といっても妾の子よ。下賎な血が混じって使い物にならん。  
お前の母は洗濯女だったが……。  
息子はせいぜい、修道院の写字室で小銭を稼ぐのがお似合いだな』  
一番前の男がそういうと、他の男もそれに同調したように笑う。  
言われた少女は、きっと目を吊り上げ男たちを睨む。まるで我が事のように。  
『毎日写字生に混じって、嬉しそうに本を書き写しているそうじゃないか。  
騎士の息子に生まれたというのに、愚かなことよ。まあ、せいぜい坊主どもに媚を売っておくのだな。  
貴様のようなカスに、忠誠を誓われる主君こそ哀れというものだ』  
『いざとなればその尻を修道院長に貸してやるがいい!』  
『お后さまを差し置いて、陛下の寝所に潜り込んだ泥棒猫の息子にはふさわしかろうよ!』  
泣き止まぬアルフレドに向かい、男たちは次々と下卑た言葉を投げかける。  
その正確な意味は分からなかったが、それがこの上ない侮辱である事は、少女にも分かった。  
男たちはさもおかしげに笑いながら去っていく。  
少女の口が、何かを言おうとしてむなしく開き――また閉じた。  
まだ八つにもならぬ子供に、大人の言葉に反論することなど、望んでも出来る事ではないのだ。  
 
『しょせん、お前など――』  
去っていく男たちの最後の言葉を、少年の泣き声がかき消した。  
少女は、振り返りながら少年に歩み寄る。  
何を言われても泣く事しか出来ない少年。もどかしさが、少女の体を突き動かした。  
『うるさいっ、黙れ!』  
少女は叫ぶと、少年の頬に力いっぱい平手打ちを食らわせていた。  
少年は、思わずよろける。  
『馬鹿! あんたはそうやって死ぬまで馬鹿にされてればいいのよっ!』  
少女は唾でも吐きかけるように、少年に叫んだ。  
あまりのことに、少年は泣くのをやめ、少女の顔を呆然と見つめている。  
『――でも、ぼく、ボク……』  
騎士になんて、なりたくない。大公の息子に、生まれたかったわけじゃない。  
そんな思いを言葉にするすべを、少年はまだ知らない。  
『あんたなんか、生まれてこなければ良かったのに! あんたなんか、あんたなんか……』  
少女の声がかすれ、消えた。  
『騎士になれないあんたなんて、生まれてくることなかったのよ……!』  
静かに少年に背を向ける。その肩が震えているのは、怒りのせいか、あるいは悲しみのせいか。  
『ヒルダ……』  
『アルのバカッ』  
少年がすがるような視線を向けても、少女は決して振り返らなかった。  
手に持った木剣を投げ捨て、一目散に走り出す少女。  
少年は、それを黙って見送るしかなかった。  
 
かけがえのない友人。  
大好きないとこ。唯一心を許せる幼馴染み。  
そして、ただ一人、自分が命を捨ててでも守るべき姫。  
『……ヒルダ、わかった』  
少年は、もう泣いてはいなかった。  
涙をひとつ、ぐいっと手で拭うと、木剣を再び拾う。  
『……ぼくは、僕は…………』  
神と母の名において、誓う。  
ヒルダ、君を守る騎士になると。  
 
 
1.  
身を切るような風が、枯れはてた平原を横切っていく。  
太陽は雲に隠れ、弱々しい光を放っているに過ぎない。  
全ての生き物が活動を止めたかのような、そんな冬の平原である。  
ただ動くものといえば、風に舞う枯れ葉と、馬に乗った二人の男だけだった。  
街道――というより、人が踏み固めて出来たにすぎない獣道――をとぼとぼと進んでいる。  
前を行くのはみすぼらしいなりの男で、痩せた馬に大きな荷物を載せ、申し訳なさそうにまたがっている。  
それにひきかえ、後ろを行く男の姿はどうだろう。  
銀の毛並みの堂々たる軍馬にまたがり、白地に金と紺色の糸で刺繍された、立派な上衣を羽織っている。  
上衣の袖からは、鈍く光る籠手が覗き、ときどき拍車をかける足も、すっぽりと脚甲で覆われている。  
腰には長剣を佩いているが、その鞘ですら、異国の文字のような文様が鮮やかに描かれていた。  
ただ、頭に兜は被らず、分厚いフードの中にその顔は隠れている。  
この、一見して戦士と分かる男も、前を行く男も、さきほどから一言も口を聞かない。  
ときおり、風にマントがあおられると、小さく呪詛の言葉を吐きながら、ぴったりとそれを身にまといなおすだけだった。  
 
やがて、街道はわずかに膨らんだ丘の上を超えていく。  
丘を越えたとたん、二人の目の前にぱっと海が広がった。  
アドリア海だ。サファイアのような、深い青色をたたえている。  
だが、このような冷え切った荒野にあっては、海の青さですら冷たい、暗いものにしか見えない。  
少なくとも二人は海になんの感慨も持っていないようであった。  
ただひたすら、馬を進める。  
馬ですら、鳴くことを忘れたかのように、黙々と足を動かしている。  
と、その時だった。  
前を行く男がふと顔を上げ、はっと息を呑んだ。  
「アルフレドさま」  
突然命を吹き込まれたかのように、男は笑みをたたえて後ろに振り返る。  
アルフレドと呼ばれた戦士も、フードの端に手をかけ、それを脱いだ。  
「……やっと、着いた」  
その顔は、まだ幼さの残る少年のものだ。ほんのりと赤みの差す頬と、桃色の唇は少女と言っても良い。  
刺繍糸のような金髪が、風をはらんで踊った。  
二人の視線のはるか向こうに、小さな町が見える。  
海岸にしがみつくようにして、無数の家が並んでいる。  
そして、町のひときわ高いところに、五つの塔を持つ城が家々を見下ろすようにして建っていた。  
何より二人を活気づけたのは、方々から上がる細い煙だ。  
かまどのたてるものであろうか、あるいは暖炉であろうか。なんであれ、それは人の息吹を感じさせてくれる。  
 
「あれが……」  
「そうだ、カステル・チンクエディタ(五指城)だ」  
「ご立派なもんでございますな」  
前を行く男が、アルフレドの機嫌をとるように言った。  
「お前は、城を見るのは初めてか」  
へぇ、と男は卑屈にうなづき返す。領主の出仕に同行するのも、生まれて初めてである。  
「アルフレドさまは、あのお城のお生まれだそうですな」  
「……ああ」  
そう言われたとたん、アルフレドはむっつりと黙り込んでしまった。  
みすぼらしい男――アルフレドが治める村の名主――は、何か失言したかと、主君の顔を覗き込む。  
「あの、あっしゃ何か失礼なことでも」  
「……急ごう。早く陛下にお会いして、御報告しなければ」  
名主の言葉を無視して、アルフレドは自分の馬に一つ拍車を入れた。  
 
近づくにつれ、二人の耳に町の喧騒がはっきりと聞こえてきた。  
城壁におさまりきらなかった庶民の家が、街道にそって並んでいるのだ。  
アルフレドと名主は、城門へとまっすぐ続く、大通りを進んでいた。  
そろそろ夕刻を向かえ、早く仕事を片付けようと、町の人々は小走りに道を急いでいる。  
宿屋の前にはすでに数頭の馬が並び、中から旅人のにぎやかな話し声がする。  
その隣に軒を並べた鍛冶屋は、今到着した旅人の注文に応えているため一心に蹄鉄を打っている。  
魚屋は今日獲れたばかりのボラを高々と掲げ、おかみさんたちと値段の交渉をしている。  
豚を森へと連れて行く農民も、大きな荷物を背負った行商人もそれぞれに忙しそうだ。  
名主は、そんな町のにぎやかさに目を奪われていた。まるで祭じゃないか。  
 
不意に、名主は、町の人々と不思議と目が合うことに気づいた。  
なぜ俺をそんなにじろじろと見るのか? 自分がみすぼらしいからか、と思わず自分の姿を見る。  
だが、すぐに自分の間違いに気づいた。人々は、自分ではなく我が主君を見ているのだ。  
よく見れば、大通りには騎乗の者も大勢いたが、アルフレドほど見事な姿をしたものは一人もいない。  
主君に向けられる尊敬と羨望の眼差しを、名主は誇らしく思った。  
その時だった。  
突然、二人の前に小さな子供が飛び出してきた。  
一人は男の子、もう一人は女の子。  
「きしさまだぁ。きしさまー、きしさまー!」  
「だめだよ、おこられるよ」  
男の子の手に、小さな木剣が握られている。女の子は、その手を取って、必死に引き止めていた。  
男の子は、女の子の手を振り払うようにして、アルフレドの馬に駆け寄る。  
アルフレドは慌てて手綱を引く。彼の馬が大きないななきを上げた。  
驚いて立ちすくむその子のもとに、転がるように母親が飛び出してきた。  
「も、申し訳ありませんっ、お城の騎士さまの道をふさぐなど…………  
分別のない子供のしたことです、ど、どうかお許しを……」  
母親は男の子をしっかりと抱き、道に頭を擦り付けるようにしてうずくまる。  
女の子も、不安そうに母親の袖を握っていた。  
男の子だけが、自分の母親とアルフレドを不思議そうに見比べている。  
 
アルフレドが黙って馬を降りた。  
この様子を見ていた周りの人々に、一瞬どよめきが走った。  
もちろん、この場で子供や母を罰する権利を、アルフレドは持たない。  
この子供も、母も、この町の統治者――すなわち大公の庇護下にある。  
だが、それならば下馬する必要などない。罵声を浴びせ、去ればよいだけだ。  
では一体何をする気なのか。  
人々が固唾を呑んで見守る中、アルフレドは黙って母親の肩をつかんだ。  
鎖帷子と籠手が、重々しい音を立てる。母親は、はっと身を硬くしたようだった。  
「……軍馬は、目の前に出てきたものはなんであれ、蹴り殺すよう訓練されている。  
決して馬の前に飛び出さぬよう、坊やにはよく言って聞かせるんだ」  
アルフレドは母の耳元でそうささやくと、今度は少年の頭にそっと手を置いた。  
「お母さんの言うことをよく聞きなさい」  
それだけ言うと、アルフレドは再び馬にまたがった。  
言われた当の母親は、アルフレドの背中を目を丸くして見送っている。  
「それに」  
馬上のアルはぽつり呟く。  
「僕は騎士じゃない」  
 
2.  
「古のスウェビの掟と、主従の誓いに基づき、アルフレド・オプレント、大公陛下の円卓に集うべく参上いたしました」  
城の大広間に、大公とアルフレド、そして家臣たちの姿があった。  
アルフレドは大公の前で片膝をつき、軽く頭を下げている。玉座に座る大公は、鷹揚にそれを見下ろしていた。  
「……ジャンカルロ伯は、到着が遅れるとの事だが」  
「我が主は、急な病で出立が遅れました。  
しかし『大評議会』の開催日までには必ず到着すると、陛下にお伝えせよとのことでございます」  
アルフレドは頭を上げようとしない。  
それというのも、大公が頭を上げるよう言わないからだ。  
「では、トゥルネアメント(馬上槍試合)にも参加するのだな」  
「はい。陛下に忠誠を示すまたとない機会、必ずや目覚ましい武勇をご覧に入れると」  
大評議会は、この国の最高意思決定機関であり、大公とそれに連なる七人の伯、その他直参の貴族によって構成される。  
いまや形骸化したとはいえ、もし大評議会に出席しなければ、伯の身分を失いかねない。  
また、大評議会に伴って開催される馬上槍試合は、家臣が常に軍役奉仕に備えている事を証明する大事な機会である。  
軍役奉仕と宮廷出仕は、どちらも封建関係における臣下の義務であった。  
「……その方は、試合には出ないのか」  
ここで、大公は思いがけない事を口にした。  
周囲の家臣たちに、驚きと忍び笑いが広がる。アルフレドは、ぐっと唇をかむと、やがて声を出した。  
「いまだ騎士に叙任されない身でございます。誉れ高き騎士の方々のお相手など、どうして出来ましょうか」  
アルフレドの拳に力がこもる。声は震えていたが、大広間の反響が、それをかき消してくれた。  
だが、静かに立ち上る殺気だけは隠しようが無い。  
スクディエーレ――騎士見習いの従士が試合に出れないことなど、ここにいる誰もが知っている。  
「ご苦労だった。今日はゆっくり休め」  
そう言うと大公は、静かに立ち上がると、大広間を出て行った。  
家臣たちもある者は大公に付き従い、ある者は思い思いに去っていく。  
アルフレドは大公が退出したのを確かめ、ゆっくりと立ち上がった。  
「……父上、あなたは私にどうしろとおっしゃるのです?」  
大公が消えた扉に向かって、静かに呟く。  
古くからの作法によれば、騎士に叙任するのは父親の役目なのである。  
 
アルフレドは黙って広間を出た。  
城の中庭に続く階段を下り、厩の並ぶ角へと足を向ける。  
見知った顔もいない城では、愛馬マレッツォのみが友と言えた。  
「アル? アルフレドなのでしょう?」  
凛とした声に、アルフレドのみでなく、中庭にいた他の者たちもつられて振り返る。  
居館の窓から、ほっそりとした少女が階下を見下ろしていた。  
「今、そちらにいくわ」  
少女はいったん姿を消し、やがて居館に連なる大階段から姿を現した。  
アルフレドは息を呑んだ。  
一瞬、花の精かと思った。  
だが、それは確かに人である。  
豊かな金髪が肩から腰にかけて、光を弾きながら緩やかに波打っている。  
静かに進める一足ひとあしが、まるで水面をすべる花びらのようだ。  
くすんだ冬の、冷たい石の建物の中で、彼女だけが色を持ったようだった。  
大きなアーモンド形の目が、まっすぐアルフレドを見つめている。  
やわらかい笑みをたたえたその顔からは、気高く何者にも屈しない芯の強さが伺われた。  
埃っぽい、石の城の中だというのに、細やかな刺繍を施された緑の服は塵一つない。  
まるで全ての汚れたものが、彼女の美しさに道をゆずっているようであった。  
 
「ヒルデガルトさま」  
アルフレドは膝をついて頭を下げる。視界の隅に、ヒルダの尖った靴が見えた。  
「……七年ぶり、いえ、八年ぶりかしら」  
間近で聞いた声に、アルフレドの胸は高鳴る。  
幼い少女は、今は美しい一人の女性へと生まれ変わった。  
だが、その声だけは、小さい頃自分の名を呼んでくれた声そのもののように思えた。  
「立ちなさい」  
ヒルダに促され、アルフレドはゆっくりと立ち上がる。  
顔に親しみをこめた笑顔を浮かべながら。  
しかし、それを迎えたのは、冷たい、何の感情も感じられない視線だった。  
「陛下に伺ったわ。槍試合には出ないのですってね」  
「……はっ」  
とげを含んだ声に、アルフレドは思わず目を伏せる。  
だが、それでもヒルダの顔から完全に目を背ける事は出来なかった。  
会いたかった。話がしたかった。  
騎士の修行のため、ジャンカルロ伯に預けられたのが八歳のとき。  
それ以来、アルフレドは一日とてヒルダの事を考えなかった日はない。  
ただ一人、自分を守ってくれた少女。  
父すら声をかけてくれなかったとき、手を差し伸べてくれた肉親。  
だが、その少女は今はいない。  
 
「あなた、幾つになるのでしたっけ」  
「今年十六になりました」  
知らぬわけがない。ヒルダはたった一つしか歳が違わないのだから。  
「……あら、まだ十歳になったばかりかと思ったわ」  
冷たく言い放った言葉が、アルフレドの胸に突き刺さる。  
十六にもなって、騎士見習いなどいい恥さらしである、そういう含みが言外に込められていた。  
「相変わらず、図書館通いは止めていないのでしょうね」  
そう言って、ヒルダは露骨に軽蔑した笑いを浮かべた。  
ヒルダに隠せる事など、何もない。小さい頃からの習慣は、そうそう変わるものではないからだ。  
アルフレドは、本が好きだった。  
剣より、弓より、馬術より、何より先に読み書きを覚えてしまったほどだ。  
大人用の椅子に大きな箱を載せ、夢中で本を読む姿は、図書室を管理する司祭の笑みを誘ったものだ。  
だが、アルフレドの父――大公は彼から読書を奪った。  
そして、何も与えなかった。愛情も、親としての教えも、ちょっとした挨拶すら。  
そして、今。  
アルフレドはただ一人心を許した相手すら、奪われてしまった事を知った。  
「どうして騎士になれないのか、あなたには分かっているの?」  
騎士になれないのはなぜか。  
アルフレドには分かっている。才能がない、それ以上に、自分は生まれるべきではなかったのだ。  
 
大公には長らく子供がなかった。妻は子の出来ない苦悩から伏せがちになり、大公はぬくもりを求めた。  
そのとき、ふとした弾みに城の下女とねんごろになり、生まれたのがアルフレドである。  
正妻は自分の地位が脅かされる恐怖に半狂乱となり、アルの母を苛め抜いた挙句狂死した。  
そもそも大公は養子である。  
この国の正統な支配者の血筋は正妻の一門であり、大公はこの国の筆頭貴族であったにすぎない。  
大公の動きは素早かった。正妻の妹夫婦の娘の後見人となり、彼女を養女としたのだ。  
それがヒルデガルトだった。いま、この国の支配者の血を引くのは彼女だけだ。  
おそらく、ヒルダに婿を取らせ、その男を陰で操るのだろう、それが周囲の一致した意見だった。  
残されたアルフレドは、大公の醜聞の証として放置された。  
殺されなかったのは奇跡と言ってよかった。  
 
「あなた……」  
ヒルダはアルフレドの目の前まで近づく。  
手と手が触れそうな距離まで歩み寄り、じっと目を見つめあった。  
ゆるゆるとヒルダの手が持ち上がり、アルフレドの頬をそっと撫でる。  
いとことは言え、美しい少女に見つめられ、アルフレドは赤面する。  
もちろん、彼は女を知らない。  
「震えてるわ」  
妖艶な笑みを浮かべるヒルダに、アルフレドが何か言おうとした、そのとたん。  
 
それは電光石火の技だった。  
 
ヒルダの体はアルフレドの脇をすべるように潜り抜け、彼の背後に廻りこんでいた。  
見失ったアルフレドが、首を左右に振ってヒルダの姿を探す。  
次の瞬間、膝の裏に重たい一撃が叩き込まれた。  
激痛によろけ、崩れ落ちるアルフレド。  
背後から、鋭い一閃が加えられた。  
頬が切れ、細い傷から血が流れる。  
ヒルダが、片手に長剣を、もう一方に短刀を持ち、アルフレドの首に刃を当てていた。  
アルフレドは慌てて腰を探る。  
ない。  
自分の長剣と、短刀が鞘だけ残して姿を消していた。  
ヒルダの早業だった。  
アルフレドの脇を潜り抜ける瞬間、剣を二本とも奪い、長剣の腹でアルフレドを打ったのだ。  
「……うかつね」  
ヒルダは短刀をアルフレドの首筋から離し、投げ捨てた。  
「それに、愚かだわ」  
長剣も、音を立てて地面に転がった。  
「うかつで、愚かで、のろまで、甘い。確かに、あなたは騎士になれない」  
ヒルダは判決を言い渡す判事のように、アルフレドにそう告げた。  
痛みをこらえながらゆっくりと立ち上がる。  
ヒルダの方に向き直る気にすらならなかった。  
「……すみません」  
小さく呟いても、ヒルダは何も言わなかった。  
厩から馬のいななきだけが聞こえてきた。  
「馬も立派なようだけど、果たしてちゃんと乗れるのかしら?」  
「それは……」  
「口ではなんとでも言えるわね……言い訳は結構よ。  
試してやろうかと思ったけれど、止めておきましょう。  
ジャンカルロ伯の従士に恥をかかせたと知れたら、陛下に怒られます」  
剣を拾い上げるアルフレドのそばを、そよ風のように通り抜ける。  
ヒルダは振り返りもしなかった。  
 
3.  
「……なんで、アルがここにいるの?」  
次の日の朝、森へ遠乗りに出かけたヒルダは、同じく馬にまたがったアルフレドを見つけ、憮然とした表情を見せた。  
「姫さまこそ、お一人でこんなところまで?」  
ヒルダは供もつれず、簡素なドレスを身にまとっている以外は何も身につけていなかった。  
一方のアルフレドは、甲冑は身につけていないにしろ、腰に長剣、背には狩猟用の短弓、手には長めの槍を持っている。  
森は危険である。  
大公の狩猟場で、森役人が見回っているとはいえ、時折狼たちは迷い込むし、熊もいる。  
猪やノロジカですら、気が立っていれば大人をも突き殺す。  
そこに、ナイフ一つ持たず、供一人連れず行こうとするヒルダはうかつといえばうかつである。  
「子供の頃から一人で来ているし、このブルネッロがいれば、狼の群れだって振り切る事が出来るもの」  
そう言ってヒルダはまたがる愛馬の首筋を撫でてやった。  
「そういうあなたは?」  
狩りの季節は終わっているし、そもそも大公の狩猟場で勝手に狩りをすれば、貴族とて処罰される。  
それに、狩りに必要な勢子も犬もいなかった。  
ヒルダの質問に、アルフレドは口ごもる。  
 
実は、ここでヒルダに会えるかもしれないと思ってきたのだった。  
ヒルダがアルの事を知っているように、アルフレドもヒルダの事をよく知っている。  
裁縫や刺繍仕事より、乗馬や木登りが好きだったヒルダ。  
そして、昨日の「馬にはちゃんと乗れるの?」という言葉。  
それは、この森で待っているという謎かけではないか、とアルフレドは思ったのだった。  
「まあ、いいわ。護衛を努めてくれるなら、一緒に来てもいいわよ」  
もとよりそのつもりだ。そうでなければ、獣を追い散らすための槍など持ってこない。  
薄々自分の考えに気づいているのではないか、とアルフレドは思った。  
でも、ヒルダはそれ以上何も言わなかったので、アルフレドは黙ってヒルダの後ろに馬をつけた。  
 
朝の森は、霧が立ち込めている。  
しかしヒルダにとっては通いなれた森。迷うことなく森の奥を目指す。  
ときおり鳥の鳴き声が聞こえるほかは、馬のひづめの音だけが単調に響いていた。  
ヒルダは森の木々のひとつひとつを愛しそうに見回しながら、ゆったりとブルネッロを進ませている。  
そんなヒルダを後ろから静かに見守りつつ、アルフレドも澄んだ森の空気を楽しんでいた。  
 
しばらく行くと、森の静寂にざぁざぁと水の流れる音が混じり始めた。  
二人が森に入って既に小一時間は経っていようか。すでに森の真ん中と言ってよい。  
音に気づいたのか、ヒルダはやや馬足を早め、さらに奥を目指す。  
突然、ぱっと視界が開け、木々の枝に隠れていた太陽が差し込んだ。  
小川だ。  
さらに森の奥にいったところに泉があり、そこから湧き出した水が作った川なのだ。  
川幅はそれほど広くない。人が腰まで浸かれば、歩いて渡れなくもない。  
ヒルダはほっと一息ついたようだった。  
馬から軽々と飛び降りると、川岸まで連れて行く。  
そして、馬具を外してやると、水を飲む愛馬の首筋を優しく撫でてやった。  
アルフレドもそれに習う。  
二頭の馬が十分に水を飲み終わるまで、二人は一言も口を聞かなかった。  
 
「ねえ、アル」  
馬の手綱を木の枝にくくりつけていると、後ろからヒルダが声をかけてきた。  
「はい」  
アルフレドは出来る限り馴れ馴れしくならないよう、努めて平静な声で答えた。  
「……昨日の事、怒ってるんでしょう?」  
「いえ、騎士に任じられないのは、ひとえに私の腕が未熟なせいですから」  
それだけ言うと、アルフレドは水を飲もうと川岸へと引き返した。  
後ろから、ヒルダが小走りに追いかけてくる。  
「そんな、他人行儀な口振りはお止めなさ……じゃなくて、止めてよ、アル」  
ヒルダの声は、毅然とした姫君のものではなく、普通の村娘のようだった。  
変化に戸惑いながら、アルフレドはヒルダに振り向く。  
「……本当は、アルに会えて嬉しかった。でも、城ではああするしかないの。分かって」  
「姫さ……いや、ヒルダ」  
ヒルダの目が、幼い頃アルフレドを見つめる優しさを取り戻していた。  
それは、温かくて、喜びに満ちていて、そして悲しい。  
「アルのこと、心よく思わない人は、五指城にはたくさんいるわ。  
今はあなたが冷遇されていても、いつか陛下の跡継ぎに返り咲くのではないかと心配する人が」  
「……まさか」  
家族と血筋が、いまよりも強く人を縛っていた時代。嫡子といっても実子、周囲の考えは当然のものである。  
大公は養子だが、アルフレドがその後を継げば、大公の一族が実質上この国の支配者になるのだ。  
ミラノ大公のヴィスコンティ家が、傭兵であったスフォルツァ家に国を乗っ取られた話は、遠くこの国にまで及んでいる。  
 
「今のままで、あなたが陛下の跡を継ぐとは誰も思っていないでしょう。でも、例えばもしアルと私が……」  
そう言ってから、ヒルダは頬を染めた。  
場違いではあったが、それが政治の思惑のためであれ、愛のためであれ、結婚とは女にとって一生の夢である。  
それでいて、まだ十七になったばかりの娘は、男女の契りの話はどこか現実離れした、何か気恥ずかしいものとしか捉えていない。  
「僕とヒルダが……まさか、そんなこと」  
彼らは実のいとこ、そして現在は義理とはいえ姉と弟なのだ。  
親族間の婚姻は、領地や財産の散逸を防ぐためしばしば行われたとはいえ、やはり珍しいことではあった。  
だがヒルダは小さくかぶりを振った。  
「アルがそう思わなくても、そう思う人もいる……疑いの心に捕らわれた人は、全てを疑うものよ。  
だから、決して城で親しげに口を聞いたり、二人でいるところを見られたりしてはいけないの。  
そうでないと、アルの身に何か……」  
ヒルダは口にするのも忌まわしい、というように首を振った。  
そう。事が後継者問題に属する以上、アルフレドが「急病」や「突然の事故」で死ぬことはありえる。  
その後には、ヒルダをめぐって陰惨な宮廷劇が繰り広げられるのだろう。  
国を真っ二つにして、内乱が起こらないとも限らない。  
 
「ヒルダ、ありがとう」  
アルフレドはそう言って心から笑った。  
少なくとも、たった一人でも自分の身を案じてくれる人がいる。  
それだけで、人は生きていけるものだ。  
言われた方のヒルダは、とたんに顔を真っ赤にした。  
「……か、勘違いしないで。私は、ただ国の事を思って心配しているだけで、別に……」  
突き放すように、ヒルダは軽くアルフレドの体を押した。  
慌てて数歩後ろに飛びのき、もじもじとアルフレドを見ている。  
当惑した顔でアルフレドが見つめ返すと、さらに顔を赤くしてうつむく。  
「ヒルダ? 君いったい……」  
「わ、私もう帰る。あんまり遅くなると皆心配するだろうし、こんなところ誰かに見られたら……  
アルフレドは、もうしばらくここに居なさい。いっしょに帰ったら、どんな噂されるか分からないもの」  
急に少女は、大公の娘としての顔を取り戻したようだった。  
だが、アルフレドにはそれがどうしてだかさっぱり分からない。  
アルフレドが一歩近づくと、ヒルダはそれに合せて二歩は確実に後ずさった。  
「分かった?」  
「あの、ヒルダ、僕は」  
「いいから! 分かったの、分かってないのっ!」  
まるで駄々っ子のようにアルフレドの言葉を遮り、ヒルダは叫んだ。  
「……分かった」  
「よ、よろしい」  
つんとすましたような顔で言っても、頬が赤く染まっていてはまるで締まりがない。  
口を尖らせた様子は、まるで子供だ。  
アルフレドは小さいころ意地っ張りだったヒルダを思い出していた。  
「それじゃ、後でねっ」  
アルの答えに満足したのか、ヒルダは馬に飛び乗ると、さっそうと城へ戻っていった。  
しばらくそれを見送ってから、アルフレドはのんびりと愛馬マレッツォの手綱を解く作業に取り掛かった。  
 
そのときだった。  
森の方からヒルダの甲高い悲鳴が聞こえてきたのは。  
「ヒルダ!?」  
アルフレドは慌てて鞍にまたがり、声のした方へと急ぐ。  
木々の間を抜けて、出来る限りの速さでマレッツォを走らせる。  
しかし、ヒルダの姿は一向に見えてこなかった。  
「ヒルダーッ! どこにいるんだ、ヒルダっ!」  
周囲を見回しながら叫ぶ。  
だが、答えはない。  
「ヒルダ、ヒルダーっ!!」  
必死に声を張り上げるアルフレドの耳に、聞きなれない声が届いた。  
地鳴りのような、低く腹に響く声。  
アルフレドは手綱を引き、馬の足を止めると、耳を済ませた。  
――聞こえる、これは……。  
「こっちだ!」  
アルフレドは声のした方へ、ヒルダのところへと無我夢中に急いだ。  
 
「ヒルダーっ!」  
ヒルダの姿を見つけたとき、アルフレドは安堵の息を吐いていた。  
「あ、アル? アル、来ちゃ駄目ぇーっ!」  
馬から放り出されたのか、木の陰にうずくまるヒルダは近づいてくるアルにそう叫び返した。  
その声で、気づいた。  
ヒルダのすぐ目と鼻の先に、大きく黒い影がいることを。  
アルフレドはその存在を予想はしていたが、その巨大さに思わず馬を止めた。  
「大きい……」  
その巨体は、灰色熊だ。アルフレドが見た事もないような巨体の持ち主だった。  
開いた口は血のように真っ赤で、だらだらとよだれをたらしている。  
思わず、ヒルダの身に既に何か、と見間違うほどだ。  
目は小さく、鈍い輝きを放つだけだったが、そのさらに奥には狂ったような怒りがうかがえた。  
「くそっ……手負い、か」  
アルフレドから見て反対側の目に、細い矢が刺さっている。  
冬篭りを前に、食べ物を求めて山から下りてきたところを、狩人か森役人に追い払われたのだろう。  
そもそも熊は臆病な生き物だ。人の気配がすれば先に逃げる。  
だが、飢えて傷を負った熊は、怒りに我を忘れている。  
「ヒルダっ! 逃げろ、逃げるんだ!」  
アルフレドが叫んでも、ヒルダは木の根元にうずくまったまま首を振るだけだ。  
足かすくんだのか。いや、そうではなかった。  
目の前には熊、背後は木、左右に走れば、おそらく熊は猛然とヒルダへと突進するだろう。  
馬に乗っているならともかく、少女の足で逃げ切られるものではない。  
ヒルダがわずかにでも体を動かせば、それに合せて熊は牙をむき出しにして、うなる。  
じり、じり。  
一歩一歩、しかし着実にヒルダに死が迫っていた。  
 
「ヒルダっ……」  
助けるには一時的にでも、熊をひるませるか、動けなくするしかない。  
アルフレドは、身につけている得物を確かめた。  
真っ先に剣は考えから外した。間合いに踏み込めば、やられるのはアルフレドだ。  
弓も、使えない。  
戦用の長弓なら熊を射殺せるかもしれないが、狩猟用短弓ではさらに怒りに火を注ぐだけだろう。  
残るは、槍。  
アルフレドは何度か主君のジャンカルロ伯の狩りについていったことがある。熊にあったことも幾度かあった。  
そのとき、慣れた狩人は決して熊を倒そうとはしなかった。  
大きな音を立てて追い払うか、逃げるか。  
戦わなくてはならないときは、猟犬をけしかけ、遠くから弓と槍で突いた。  
それでも時間稼ぎにしかならない。しょせん、人間のかなう相手ではない。  
 
「……これしかないな」  
妙に冷静な自分が少しおかしかった。  
背負った弓と矢筒を捨て、不要な荷物を全てはずし、身軽になる。  
「ヒルダ。じっとしているんだ!」  
「……うんっ」  
少女を安心させるように、腹の底から大きな声を出す。  
ヒルダはすがるような目をアルフレドに向けた。アルはうなづいて見せる。  
槍を小脇に抱え、ゆっくりと熊の方へと馬首を巡らす。  
目測で、ほぼ二十馬身。少し距離が足りない。  
「マレッツォ、頼むよ」  
アルフレドは愛馬に優しく声をかけ、熊に背中を向ける。  
「……アルっ……」  
アルフレドが離れていくのを見て、ヒルダは震える声で叫んだ。  
だが、アルは顔だけ振り向きながら、ヒルダに笑顔を見せた。  
それだけで、二人の間には通じるものがある。ヒルダはおずおずとうなづいた。  
 
熊は、アルフレドにあまり注意を払っていない。それが唯一の好条件である。  
十分距離をとると、アルフレドは一つ息を吐いた。  
訓練どおりやるだけさ。  
自分にそう言い聞かせると、アルフレドは大きくマレッツォに拍車を入れた。  
猛然と突きかかる。  
重騎兵の突撃に、二撃目はない。  
人馬一体の槍の一撃は、まともに喰らえば鎖帷子も軽く突き破る。  
受け止めるのに失敗すれば落馬して雑兵の餌食となる。  
突くのに成功したとしても、もう一度敵と距離をとって体勢を立て直す機会がないのが普通だ。  
ましてや、今度の相手は熊。突くのに失敗すれば確実に反撃され、死ぬ。  
 
だが、アルフレドの心は穏やかだった。  
相打ちになればいい。自分が殺されたとしても、何らかの手傷を追わせる事は出来る。  
そうすればヒルダが逃げる時間を稼ぐ事は出来るはずだった。  
マレッツォの勇壮ないななきとひづめの響きに、ついに熊が反応した。  
ヒルダを睨んでいた頭をもたげ、アルフレドの方に向き直る。  
――気づくのが、早い……。  
突く寸前まで気づかれなければ、あるいはアルフレドも生き残れるかもしれなかった。  
だが、真正面から立ちふさがれれば、確実に反撃される。つまり、死ぬ。  
(構うものか)  
今自分が命を捨てなければ、ヒルダは死ぬ。ヒルダがいなくなれば生きていても仕方ない。  
答えは簡単だった。  
ふと読みかけの歴史書の事を思い出し、せめてあれだけ読み終えてから死にたかった、と思う。  
ヒルダは、こんな僕を呆れるだろうな。  
死へ向かって突進しながら、アルは苦笑した。  
それとも、ヒルダは泣いてくれるのだろうか。だとすると、すまないような気もした。  
 
勝負は、一瞬だった。  
熊の脇をすり抜けるようにしながら、槍を熊の巨体に叩きつける。  
だが、熊の皮膚は鎖帷子よりも頑丈で、しかも弾力に富んでいた。  
皮膚に突き刺さってたわんだ槍の柄は、次の瞬間ばねのように撥ね、アルフレドの体を弾いた。  
突っ込んだ衝撃をまともに喰らい、アルは馬から振り落とされる。  
弾き飛ばされ、地面にたたきつけられた痛みに気が遠くなる。  
それでも体は止まらず、ごろごろと転がってヒルダの目の前に倒れた。  
「アルッ!」  
恐怖で動かなかったはずのヒルダの体が、このときは自然に動いていた。  
駆け寄り、アルフレドの体を起こす。  
アルフレドは気を失っていた。  
血の気を失った体を、ヒルダはしっかりと抱きしめた。  
そこへ、熊のうなり声が響く。  
 
槍が半分体に突き刺さっても、熊はまだ絶命していなかった。  
アルの槍は正確に心臓を貫いている。  
あと、ほんのわずかな時間で、熊は死ぬに違いない。  
だが、そのわずかな時間は、アルとヒルダを殺すのには十分だった。  
ヒルダは、とっさにアルフレドの腰から剣を抜いていた。  
手に力がこもらない。  
大の男と互角に打ち合ったこともあったが、そんな自信など真の恐怖の前には何の役にもたたなかった。  
「……こないで」  
ヒルダの歯がカタカタと鳴った。  
だが、熊はゆっくりと、しかし確実に二人の方へと近づいてくる。  
「……こ、こないでっ」  
剣を突き出すようにして熊に向ける。だが、それは相手をひるませる助けにもならなかった。  
ぱっと、熊が両脚で立ち上がる。  
振り上げられた爪が、太陽を弾いて光った。  
太い前脚が風を切る音がして、ヒルダは思わず剣を取り落とす。  
「ああっ……!!」  
最後の瞬間、ヒルダはアルフレドの体をきつく抱いていた。  
 
4.  
「アル、アル。しっかりして」  
頬に冷たいものが当たり、アルフレドは目を開ける。  
泣き顔のヒルダが、自分を見下ろしている。ベッドに寝かされていると気づくのに、しばらくかかった。  
「……ここは」  
「城よ。五指城の中」  
アルフレドは周りを見渡す。狭い部屋だが、小奇麗に片付けられている。  
小さなベッドと椅子、蝋燭の光以外は何も無かった。  
「なんで、僕たちは……」  
生きているんだ。アルフレドはそう言いながら、ふと思う。  
もしかして二人とも既に殺され、ここは死後の世界ではないのか、と。  
だが、ここは悔悛と終油の秘蹟を受けられなかった者が送られるという、煉獄には思えなかった。  
「ヒルダ、君は……無事?」  
ようやく言えたのは、それだけだった。ヒルダは涙を拭いながらうなづく。  
「マレッツォの、おかげよ」  
そう言ってから、ヒルダはこれまで起こった事をぽつりぽつりと話し始めた。  
 
熊の爪が、二人の体を引き裂こうとした、まさにその瞬間。  
熊と二人の間にマレッツォが飛び込んできた。  
そして、二人の盾となりながら、その蹄で熊の額を叩き割ったのだった。  
だが、熊の一撃をまともに浴びて、マレッツォは死んだ。  
「マレッツォが、死んだ」  
アルフレドがそう呟いたので、ヒルダは弱々しく笑った。  
「立派な馬でした……きっと、アルの事、本当に好きだったのね」  
そう言うと、ヒルダはアルの手にちぎれた手綱を握らせた。  
アルは一目でそれがマレッツォのものだと分かった。  
「いや。たぶん……」  
言いかけて、止めた。  
マレッツォの行動が、アルへの愛情から来たのか、軍馬としての習性から来たのか、それは誰にも分からない。  
(ありがとう)  
アルフレドは手綱を胸に抱き、愛馬の魂が――教会は否定していたが――主の傍へ登った事を願った。  
「アル」  
ヒルダの声に、アルフレドは我に帰った。  
「ありがとう」  
アルフレドは最初ヒルダの言っている意味が分からず、彫像のように固まっていた。  
「あなたがいてくれて、本当に良かった」  
「あ、あのヒルダ……」  
ヒルダはアルの頭をそっと抱き寄せながら、呟いた。  
ほんのりと香る女性の匂いと、柔らかな胸の感触に、アルは戸惑ったような声を出す。  
声というより、息も絶え絶えの悲鳴に近い。  
それでも、ヒルダは止めない。目をつぶり、しっかりとアルフレドを抱きしめている。  
さっき感じたのと同じ、冷たいものがまたアルの顔に当たった。  
初めて、アルはそれがヒルダの涙だと気づいた。  
「怖かったの、とっても……とっても……怖かったの……」  
何度も何度も、うわごとのようにヒルダは呟いた。  
マレッツォに助けられ、自分たちが無事と分かった瞬間も、考えたのはアルを一刻も早く医者に見せる事だけだった。  
そして、今になってやっと、ヒルダの心に恐怖が蘇ったのだ。  
涙をぽろぽろとこぼすヒルダに抱かれながら、アルはやっとそんなヒルダの気持ちに気づいた。  
そっとヒルダの体を抱きしめる。  
それが、今二人に許された行為の中で、何より二人が求めたものだった。  
 
「アルフレド・オプレント」  
ヒルダの声に、アルは目を上げた。  
手を緩め、アルをまっすぐ見つめている。  
「あなたは、騎士です。誰が認めなくても、私が、ヒルデガルト・モンテヴェルデが認めます」  
ヒルダはそう言って、アルに手を差し出した。  
その中指に、モンテヴェルデ家の家紋が刻まれた指輪がはめられている。  
「これからも、私を守ってください……私もあなたを守りましょう」  
ヒルダの声は、厳かで、重々しく、そして慈悲深い響きに満ちていた。  
アルフレドはそっとその手を取り、指輪に唇をつけた。  
 
時に、主の年1480年、1月。  
中部イタリア、教会国家の一角を占めるモンテヴェルデ公国は平和であった。  
東方の嵐は、未だこの国に届いていない。  
(続く)  
 
 

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